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                                   2020-8-30礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一31節~4

説教題:「霊の幼子とは」

【導入】

私たちは「神からの霊」、「御霊」を受けたので、「神の奥義」、「隠された神の知恵」を知る事が出来ました。

知る事が出来た、と云うよりも、知らされた、と言った方が正しいかもしれません。

唯一真の神様の恵み、憐れみで、「神の奥義」を知らされたのです。

「神の奥義」は、求めて探し出せるものでもなく、熱意があると到達するものでもなく、苦節を経て悟るものでもありません。

この世の常識では、この世の知恵では、この世の権力では、知る事も、探し出す事も出来ないものなのです。

唯一真の神様のご計画は、「神の奥義」は、再現出来ない事であり、証明も出来ない事ですから、非常識であり、非科学的であり、常識に縛られている常識人には、科学的な考え方が染み付いている現代人には、受け入れられない事なのです。

この点で、「神の奥義」は、知識や常識の多寡で知るもの、受け入れるものではなく、信仰で知り、受け入れるものである事はご理解頂けるかと思います。

即ち、「神の奥義」は、常識や科学的な判断に縛られていない、或いは、常識では説明出来ない事がある、科学では解明、証明出来ない事がある、との謙虚な、柔軟な考え方の持ち主が、信仰によって、「神の奥義」を見出すのです。

信仰によって、「神の奥義」を見出す人々は、この世の常識や科学に縛られていない人々、強い影響を受けていない人々であり、この世の常識、科学に対する「幼子」と云えるかも知れません。

この世の常識、科学に毒されていない意味で、自分の正直な気持ちを隠さない事で「幼子」な訳ですが、信仰的に「幼子」であって良い訳ではありません。

信仰的な成長は、時間に左右されませんし、経験に左右されません。

働きにも左右されません。

唯一真の神様との、個人的な、深い交わりあるのみです。

パウロは全てのキリスト者が、霊的に成長する事を願って、筆を進めますが、今日は、パウロは、霊的に成長していない人、「霊の幼子」の特徴について語ります。

【本論】

新改訳2017版 3:1兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。

パウロは、コリント教会の人々に、「兄弟たち」と呼び掛けますが、「兄弟たち」の本来の意味は「同胞」であり、同志や仲間の意味ですが、コリント教会のキリスト者は、キリスト者の範疇からは外れた人々でありました。

兄弟たち」と呼び掛けるには、ちょっと、抵抗を感じましょう。

しかし、これは、皮肉ではなく、唯一真の神様の主権を意識した呼び掛けの言葉、期待を込めた呼び掛けの言葉、敬愛するが故の呼び掛けの言葉、と理解すべきでしょう。

コリントの人々が、キリスト者になったのは、パウロの働きもありますが、唯一真の神様のご計画であり、憐れみです。

パウロが伝えなければ、コリントの人々はキリスト者になれなかった、ならなかった訳ではありません。

「アポロ」が伝え、「ケファ」も伝えたのです。

その他にも、コリントに派遣された宣教者、伝道者、働き人、教職者は、数多くいた事であり、それらの教職者たちの、複合的な働き、相乗的な働き、継続的な働き、補完的な働きによって、コリントの人々はキリスト者になったのです。

パウロのみの働きによって、コリントの人々がキリスト者になったのでも、コリント教会が建て上げられたのでもないのであり、その事は、パウロが一番、強く自覚していた事でしょう。

誰それの働きが重要なのではなく、唯一真の神様のご計画、憐れみが重要なのであり、情けないようなキリスト者に対して、「兄弟たち」と呼び掛けるのは、唯一真の神様の主権を尊重する事の表明でもあるのです。

キリスト者、クリスチャンと呼べる実体か否かではなく、御子キリスト・イエス様が贖われた魂であるか否かが重要なのです。

コリントの人々が、キリスト者である事は、唯一真の神様のご計画によるものであり、揺るぎ無い事実、否定しようのない現実ですが、コリント教会のキリスト者たちの実体は、御霊を受けている者らしからぬ言動であり、パウロは、「兄弟たち」と呼び掛けつつも、その実体を憂い、叱責を込めて、「あなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語ります」と続けます。

コリント教会のキリスト者に限らず、誰であっても、心で信じて、口で告白した者は、洩れなく、必ず、救われますが、そこに至るのも、唯一真の神様のご計画、恵み、憐れみで、です。

唯一真の神様の働きかけで、御霊を受け、信仰の告白に至るのです。

キリスト者となった者は、皆が御霊を受けてはいるのですが、まだ、十分に、御霊が働くまでに至らない人々、「キリストにある幼子」の状態、段階に留まっている人々が多く存在するのも現実です。

否、多く存在するどころか、殆どの人が「キリストにある幼子」なのが、現実なのかもしれません。

問題がない状態に置かれている時には、キリスト者らしい言動なのですが、問題が起こると、この世の人に戻ってしまい、キリスト者らしい首尾一貫性がなくなってしまい、右往左往する人々がそれです。

御霊に属する人」は、「霊的成人、キリストにある成人」であり、唯一真の神様から御霊を受けて、御霊に導かれ、御霊」に支配されている人々です。

支配といっても、問答無用に、ロボットのように従属するのではなく、自由意志で、積極的に御霊」に従う人々です。

続く「肉に属する人」は、「御霊に属する人」と対極の存在ではありません。

キリストにある幼子」との但し書きがあるように、「御霊に属する人」でありながら、「生まれながらの人」のような言動を取る人の事であり、コリント教会のキリスト者は、救われていない、とか、似非(えせ)キリスト者である、キリスト者ではない、と云っているのではありません。

救われており、御霊」を受けてはいるが、「御霊」が強く制限を受けており、闊達に働けてはいない状態、と云えましょう。

御霊に属する人」とは、物事の道理、理屈を弁えた人であり、第三者的、大局的見方の出来る、損得、利害を超えた判断の出来る人でしょう。

肉に属する人、キリストにある幼子」とは、道理を弁えず、理屈の通じない子どものような人であり、自己中心でしか考えられず、局所的、近視眼的にしか見られない人、利害や損得を優先させてしまう人、感情やその時の気分次第、と云う人でしょう。

勿論、全ての言動が、ではなく、問題が起こると、この世の人に戻ってしまい、キリスト者らしい首尾一貫性がなくなってしまい、右往左往する人々が、「肉に属する人、キリストにある幼子」の意味です。

幼い子どもは、将来の事、未来の事、言動が及ぼす影響を考えるのが得意ではありません。

経験や知識が乏しいからであり、想像力に欠けているからであり、仕方の無い事です。

しかし、それは、幼い時期は許されましょうが、成人したならば、大人になったならば、歳、相応の対応が要求されましょう。

パウロは、コリント教会のキリスト者たちを、子どもとして扱い、伝えるべき事を端折ったり、適当に手を抜いた訳ではありません。

子どもは、語彙が少なく、道理を弁えず、理屈で筋道を立てて考えられる訳ではありませんから、優しい言葉に置き換え、知っていそうな言葉に言い換えねばならず、要点だけを、重要な教えだけを語らざるを得ない場合もあった事でしょう。

それが2節の意味でしょう。

3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

パウロは、誰もが知っている、子どもの成長に応じて与える食物を喩えに、話を展開します。

幼い子どもには、ミルクや離乳食を与え、固い物や骨などがあるものは一切与えませんが、成長した子どもには、固い物や食べ難いものも、注意を交えて与えましょう。

充分成長したならば、固くても、辛くても、食べ難くても、本人に任せるのではないでしょうか。

」と「固い食物」は、「神の奥義」、十字架を中心とする、パウロたちの福音宣教の内容の事ですが、「」とは、その初歩の理解の事であり、「固い食物」とは、高度な神学的理解のことであり、両者を対比させた表現です。

御霊に属する人」は、最初から、何でも理解出来、適応出来、実行出来る訳ではありません。

助けが必要であり、導く人が必要であり、目標を示す人、お手本になる人も必要です。

しかし、これらも、自分は、知らなければならない事を知ってはいない、との謙虚さと、教えを乞い、教えを聞き入れ、従う従順さ、素直さを持ち合わせていなければ、意味ありません。

自分は大人だ、成人だとの自負が強ければ、教えを乞う事は無いでしょう。

自分の判断は正しい、との自信が強ければ、指示や判断を仰ぐ事も無いでしょう。

もう、教えられる事は無い、十分成熟したと思い込んでいる人に聞かせる言葉はありません。

時の経過と共に、当然、成長が期待されているにも関わらず、コリント教会のキリスト者は、依然として福音を受けた時と同じ状態である、「肉に属する人、キリストにある幼子」であると、パウロは断言するのです。

コリント教会のキリスト者は、自らの知恵と知識、社会的地位、職業などを誇り、一人前のキリスト者だとの自負、自信に溢れていたのです。

それが、コリント教会の分裂や混乱の原因となっていたのであり、パウロはそれを指摘し、痛烈に断言します。

3:3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

パウロの、「あなたがたは・・・肉の人だ」、「ただの人」だ、との厳しい叱責を込めた断定的言い方は、根拠があっての断言です。

即ち、「あなたがたの間にはねたみや争いがある」のが動かぬ証拠だ、と断言するのです。

パウロたちの伝えた福音を、福音の本質を十分理解していない証拠が、「ねたみや争い」となって現れていると、断言するのです。

ねたみや争い」は抽象的であり、立場によっては変わり得るものでしょう。

ねたみ」と正直な評価は、紙一重であり、妬んでの発言だなんてとんでもない、正直な感想なのだ、正当な討論を、「争い」、競争と一緒にしないで欲しい、などです。

 

しかし、パウロは、コリント教会の、キリスト者たちの間の「ねたみや争い」は、この世の「ねたみや争い」であり、福音の本質を問うたものでは断じてない、有益なものではない、教会の徳を建て上げるものではない、と断言します。

御霊」は、練られた品性を造り出すのであり、「御霊」は、謙遜を生み出し、お互いの間に尊敬や調和、一致や協力関係を造り出すのであり、「ねたみや争い」とは無縁です。

パウロは、コリント教会の、キリスト者たちの間の「ねたみや争い」は、この世の「ねたみや争い」であると断定し、その根拠を示します。

3:4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。

ねたみや争い」は抽象的ですが、パウロは、コリント教会のキリスト者の一部が、実際に主張している「私はパウロにつく」や「私はアポロに」、「私はケファに」を引用して、コリント教会の、知恵や知識を誇り、人間を誇り、誰に師事し、帰属しているかを誇っている事実を、鋭く指摘するのです。

パウロもアポロもケファも、「神の奥義」を、同じ福音を伝えているのであり、パウロの伝える「神の奥義」も、アポロの伝える「神の奥義」も、ケファの伝える「神の奥義」も同じ福音であり、遜色も優劣もなく、差異は全くありません。

パウロは、コリント教会の本質的な問題、人間の知恵や知識を巡る問題、人間を重んじ、担ぎ上げ、勢力拡大、影響力を行使しようとする動きに、警鐘を鳴らすのです。

霊の幼子」の特徴は、知恵を誇り、知識を誇り、地位を誇り、出自を誇り、人間を誇り、組織や帰属先などを誇ります。

御霊に属する人」の特徴はと云えば、「霊の幼子」の真逆と云えるでしょう。

【適応】

しかし、「御霊に属する人」と「霊の幼子」は、外見では区別、判別出来ません。

また、先にも申し上げたように、平常時には、問題がない状態に置かれている時には、キリスト者らしい言動なのであり、普段は、「御霊」に満たされている人の特徴、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、を兼ね備えています。

非常に謙遜であり、温厚であり、いろいろな面で模範的なのですが、しかし、問題が起こると、この世の人に戻ってしまい、キリスト者らしい首尾一貫性がなくなってしまい、右往左往するのです。

喜びは何処へやら、怯え、慄き、不安を撒き散らし、周囲に対する配慮に欠け、自制出来ずに騒ぎ立て、人を巻き込みます。

感情的になり、冷静ではいられなくなるのが特徴です。

ここで、オズワルド・チェンバーズ先生の「いと高き方のもとに」から、「衝動ではなく」とのタイトルが付けられている奨励をご紹介します。

「私たちの主には、衝動的なところは少しもなかった。つねに冷静であり、決してパニックに陥ることのない方であった。私たちのほとんどは、神にならうのではなく、自分の感情によって信仰生活を築こうとする。それは、衝動の自然な現れであり、私たちの主はそれを無視された。それは弟子としての生命の成長を妨げるからである。神の御霊が私たちの自己中心な衝動をどのようにチェックされるか注意して見よ。

 衝動は子どものころはあってもいい。しかし成人した者には、害をもたらす。衝動にかられる人は、甘やかされている人である。衝動は訓練によって、洞察力のある者に変えられるべきである。神の超自然的な恵みによって、弟子は建て上げられていく。一時的な感情の高まりは、水の上を歩くほどの信仰を、時には可能にする。しかし、主の弟子のひとりとして、陸地を歩き続けることは難しい。ペテロは水の上を歩いてイエスに近づいた。しかし、陸地においてイエスから遠く離れてしまった。私たちは、とっさの時、神の恵みをあまり必要としない。

 私たちのうちに備わっている本能的な力と自尊心で充分だからである。しかし、聖徒として、日々の生活を生きることは、たやすいことではない。イエスの弟子としての単調な働きを全うし、時には平凡で人々から忘れ去られてしまったような生活を送るには、神からの超自然的な恵みが必要とされる。私たちは、日々の生活を特に注意深く生きなければならない。普通の人々の間にあってきよくいきるためである。このことは、短時間で習得できるものではない。」

この奨励の前半の、「衝動」を「肉に属する人、キリストにある幼子」と読み替えると、具体的で、解り易いかと思います。

「私たちの主には、「肉に属する人、キリストにある幼子」的なところは少しもなかった。つねに冷静であり、決してパニックに陥ることのない方であった。私たちのほとんどは、神にならうのではなく、自分の感情によって信仰生活を築こうとする。それは、「肉に属する人、キリストにある幼子」の自然な現れであり、私たちの主はそれを無視された。それは弟子としての生命の成長を妨げるからである。神の御霊が私たちの自己中心な「肉に属する人、キリストにある幼子」をどのようにチェックされるか注意して見よ。「肉に属する人、キリストにある幼子」は子どものころはあってもいい。しかし成人した者には、害をもたらす。「肉に属する人、キリストにある幼子」的な人は、甘やかされている人である。「肉に属する人、キリストにある幼子」は訓練によって、洞察力のある者に変えられるべきである。」

「衝動」は、感情、と言い換えてもよく、思い付きに対して、出来事に対して、深く吟味する間もなく決めてしまう性格、飛びついてしまう性癖、と言い換えてもよいでしょう。

肉に属する人、キリストにある幼子」は、パニックに陥りやすく、パニックの中で、即断即決するので、益々深みに、パニックに嵌まり込んでしまうのです。

御霊」に満たされている人は、唯一真の神様に信頼しているので、何事にも動ぜず、冷静でいられるでしょう。

御霊」の働きで、不安や迷いを払拭するのです。

御子キリスト・イエスの弟子としての働き、生活は、時に、単調、平凡であり、人々から忘れ去られてしまったような生活になりますが、それでこそ、そこでこそ「御霊」が働くのです。

コリント教会のキリスト者たちは、「肉に属する人、キリストにある幼子」であり、目立つ働き、華々しい働き、人間中心の働きに、目も心も奪われ、分派や分裂に繋がって行きました。

肉に属する人、キリストにある幼子」から脱却するのは、「御霊」に満たされる事だけです。

皆さんは、「肉に属する人、キリストにある幼子」として、教会に混乱や争いをもたらす存在でしょうか。

それとも、「御霊」に満たされ、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光を現す存在でしょうか。

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                                    2020-8-23礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一210節~16

説教題:「聖霊による神の奥義の啓示」

【本論】先に、何回か、繰り返しお話したように、「神の奥義」とは「隠された神の知恵」であり、唯一真の神様の「救いのご計画」であり、御子キリスト・イエス様の存在と、お働きの事です。

具体的には、唯一真の神様の御子が人となって、この世に来られる。

しかも、私たち罪人の、罪の贖いのために、十字架上で死ぬために、この世に来られる。

更に、墓に葬られ、三日目によみがえり、天に昇られる。

再び戻って来られ、全ての人に永遠の命を与えられる。

と同時に、すべての人を裁き、御子を信じる者は御国に招き入れ、永遠の憩いに、御子を信じない者は地獄に入れられ、永遠の苦しみを与える。

キリスト教の根本でありますが、これらを伝えるのに、パウロは「すぐれたことばや知恵を用い」ず、「説得力のある知恵のことばによるものではなく」、「御霊と御力」だけに頼る、と断言、宣言します。

御霊と御力」だけに頼った、宣教、伝道は、言うは易し、行なうは難しです。

宣教や伝道の成果が現れ無い時、効果的な方法を模索し、人々の反応が鈍い時、興味を引く話題を織り交ぜ、拒絶、拒否された時、受け入れてもらうために妥協し、変質させ、ソフトに言い換えたい誘惑に抗うのは、簡単な事ではありません。

宣教、伝道の働きは、常に唯一真の神様のお考え、指示に従い、「御霊と御力」だけに頼らなければなりません。

「神の奥義」の推進は、常に「御霊と御力」だけです。

パウロを始めとする宣教者、伝道者、牧師は、「御霊と御力」の道具に徹しなければならず、道具が口を出すのは僭越であり、唯一真の神様の主権を犯す行為だと、弁えなければなりません。

パウロは、「御霊と御力」の働きによる「神の奥義」についての、「御霊と御力」の働きを説明します。

【本論】

新改訳2017版 2:10 それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

それ」を、即ち「神の奥義」を、「神は私たちに御霊によって啓示してくださいました」。

「神の奥義」は、パウロや同労者たち、キリスト者たち、この世の知者やこの世の支配者たちの研究、探索、協力、熱意や熱心で探し出し、人々に紹介するものではありません。

「神の奥義」は、唯一真の神様の恵み、憐れみにより、「御霊」の働きによって「私たち」、即ち、パウロや同労者たち、コリント教会の人々を含めてのキリスト者に「啓示」されるのです。

啓示」されるのであり、「掲示」されるのではありません。

啓示」とは、如何なる人知を以ってしても知る事の出来ない神秘を、唯一真の神様自らが、人間に対する深い愛の故に覆いを除いて現し示す事であり、「黙示」の事であり、「預言」の意味でもあります。

繰り返しますが、誰にこの「啓示」が示されたかが、重要です。

この世の知者やこの世の支配者に、ではなく、一般的な意味での「神学」や「聖書研究」で、探し出すものでもないのです。

唯一真の神様の恵み、憐れみにより、「御霊」の働きにより、パウロや同労者たち、コリント教会の人々を含めてのキリスト者に「啓示」されるのです。

勿論、年齢の差、経験の差、知識の差などで、理解の度合いに違いはありますが、唯一真の神様の「救いのご計画」と、御子キリスト・イエス様の存在と、お働きとを、理解し、受け入れるのです。

すべてのこと」、「神の深みさえも」とは申しても、唯一真の神様の御旨の全て、ご計画の全貌、ではなく、27節に記されている通り、「奥義のうちにある、隠された神の知恵」であり、「救いの計画、救いについての教えの全て」です。

奥義のうちにある、隠された神の知恵」、「救いの計画、救いについての教えの全て」は、宣教者たちの、宣教の働きを通して、全ての者に伝えられるのです。

この世の知者やこの世の支配者にも伝えられますが、彼らには愚かな事として受け止められ、受け入れられませんが、パウロや同労者たち、コリント教会の人々を含めてのキリスト者、即ち、救いの計画に招き入れられている者には、唯一真の神様の恵み、憐れみとして受け止められ、受け入れられるのです。

ある種類の人々には、受け入れられるのに、ある種類の人々には、拒絶される訳ですが、その違いは、何によるのでしょうか。

一に、この世の知者であるとの自負は、他の教えや考えを受け入れません。

二に、本人の事は本人にしか分からない、他人には他人の考えがある、との謙遜さの欠如も、他の教えや考えを受け入れません。

その事が11節に説明されています。

2:11人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。

人間は、其々が正しい事、良い事、との確信を持って行動し、誠意を持って、懇切丁寧に説明し、理解を得る努力をしますが、時には、理解されない事や、真の意味が伝わらない事も多く起こります。

有限な人間には、無理からぬ事ですが、ましてや、唯一真の神様の、独立性、不変性、無限性、単一性は、説明に限界があり、理解に限界があります。

唯一真の神様の御旨、高遠な、遠大なご計画は、「神の奥義」、「隠された神の知恵」、「救いのご計画」、御子キリスト・イエス様の存在と、お働きは、稀有な事であり、前例の無い事であり、推測も、憶測も、想像も出来ない事であり、人間には、知り得ない事なのです。

人知を尽くしても、知恵を寄せ集めても、唯一真の神様の御旨、ご計画は誰にも理解出来ないのです。

2:12 しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。

この世の霊」、即ち、唯一真の神様から離れた、この世の人間的知恵や霊を受けても、唯一真の神様の御旨、ご計画は知り得ませんが、「神からの霊を受け」るなら、「神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです」。

コリント教会の人々を含めて、全てのキリスト者を支え、導く基盤は「神からの霊」のみです。

神からの霊」を受けて、「神からの霊」の助けによって、啓示された、唯一真の神様の御旨、ご計画を知るのです。

神からの霊」を受ける目的は、「神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知る」ためです。

神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知る」には、「神からの霊」によるしかないのです。

この世の知恵を総動員しても、人間の助けを受けても、「神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知る」事は出来ません。

パウロの強い、断定的な口調の背景には、人間の知恵や霊を誇る、コリント教会の、一部の人々に対するものがあります。

人間は、教えられて、簡単に変わるものではありません。

慣れ親しんで来た考え方は、身に付いており、捨てる事が出来ません。

意識して、古い知り方、人間的知恵や霊に寄り頼む知り方を捨てなければならず、人を変える力は、人間に注がれる、唯一真の神様の御霊のみ、と常に意識しなければならないのです。

2:13 それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。

神が私たちに恵みとして与えてくださったもの」を「語る」にも、「教え」るにも、「説明する」にも、そして「知る」にも、「神からの霊」が主体的に働き、主導的役割を果たします。

コリント教会の問題は、人間が重んじられる風潮があり、人間的知恵の論述の優劣を支持する者が、混乱や分裂、派閥を生み出していた事は、以前にお話した通りです。

この問題は、人間は道具に過ぎず、道具である事に徹するなら、「神からの霊」が主体的に働き、主導的役割を果たし、混乱も派閥も解消します。

同時に、「神からの霊」が、「神が私たちに恵みとして与えてくださったもの」を正しく、人々に伝えてくださるのです。

2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

生まれながらの人間」の直訳は、「肉に属する、人間」であり、この世的な生の原理で生きている人間の事であり、信仰的な事柄、霊的な事柄を全く理解出来ない人間、信仰に関する事、霊に関する事を愚かな事としか考えられない人間、を指します。

判断する」を、第三版の聖書は、「わきまえる」と訳していますが、「取り調べる」の意味の言葉であり、裁判所などでの、審理を意味する言葉です。

コリント教会の有力者の中には、裁判や行政に携わる人々もいて、この種の言葉が得意げに使われていたのではないでしょうか。

パウロはそんな身分や地位をひけらかす風潮を皮肉って、この言葉を使ったのではないでしょうか。

パウロは、「生まれながらの人間」は、「神の御霊に属することを受け入れません」と断言し、両者の違いを区別、主張しますが、決して「生まれながらの人間」を非難しているのでは、悪だと決め付けているのでもありません。

誰もが皆、「生まれながらの人間」であり、「生まれながらの人間」である限り、「神の御霊に属すること」は受け入れられないのです。

生まれながらの人間」が、「神からの霊」の働きによって、福音の価値を判断するのであり、福音を聞いて応答するのであり、福音を聞いて信仰に踏み出すのであり、「神からの霊」の必要性、重要性が如何に大きいかを訴えているのです。

2:15 御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。

生まれながらの人間」に対比するのが、「御霊を受けている人」です。

御霊を受けている人」の直訳は、「霊的な、御霊の」であり、「霊的な」人は、「すべてのこと」、即ち、「救いに関わる全ての事」を、「神からの霊」の働きによって、「判断します」。

後半の「その人自身はだれによっても判断されません」の意味は、人を裁くのは唯一真の神様のみであり、自分を裁く事さえも、自分の働きではない、ましてや、「神からの霊」を受けていない人に裁かれる事があってはならないのです。

コリント教会に限らず、何処にも、何にでも口を出す人、忠告する人、人を裁く人がいますが、それらの人たちへの牽制、警告の意味でもありましょう。

2:16 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。

パウロは、26節から語って来た事のまとめとして、イザヤ書4013節を引用します。

2017版は1231ページ、第三版は1188ページです。

この引用で重要なのは前半の「だれが主の心を知り」です。

人間の研究や知恵で、唯一真の神様の御こころ、御旨を知る事は出来ません。

不可能、無理です。

それなのに、「主に助言する」事があるばかりか、支配者のように君臨し、指導者のように指示し、教職者のように教える人の、なんと多い事か。

誰が支配者に任命したのですか。

誰が指導者に任命したのですか。

誰が教職者に任命したのですか。

コリント教会では、こんな事が横行していたようですが、現代の教会でも起こりうる事であり、注意しなければなりません。

16節後半、キリスト者は「キリストの心を持っています」、即ち、御霊を受けている人」であり、御霊を通して、唯一真の神様の御こころ、御旨を知る事が出来るのです。

勿論、有限な人間であり、唯一真の神様の御こころ、御旨の全貌を知る事は出来ませんが、27節に記されている通り、「奥義のうちにある、隠された神の知恵」、「救いの計画、救いについての教えの全て」を知る事は出来るのです。

パウロは、この世の知恵では、唯一真の神様の御こころ、御旨を知る事は出来ない、御子キリスト・イエス様の事を知る事も、十字架の事を認める事も出来ない、と確信し、断言します。

また「キリストの心」は、福音宣教に対する思いの意味も込められていましょう。

キリスト者の存在は、福音宣教の働きと密接に関係しており、啓示を受けたキリスト者は、福音宣教に関わる事が期待されています。

勿論、皆が皆、使徒となれ、の意味ではありませんが、「キリストの心を持って」生きるのであり、人々に福音を届ける使命のみならず、福音を届ける働きを支援する使命に取り組まなければならないのです。

【適応】

私たちは、「神からの霊」、「御霊」を受けたので、「神の奥義」を知り得たのであり、これを忘れてはなりません。

私たちが熱心だからでも、忠実だからでも、誠実だから「神の奥義」を知り得たのではありません。

私たちに正しいところがあるから、何かしら良いところがあるから、見込みがあるから「神の奥義」を知り得たのでもありません。

一方的な、唯一真の神様の恵み、憐れみで、「神からの霊」が与えられ、「神からの霊」の働きによって「神の奥義」の啓示を理解するのです。

御子キリスト・イエス様の十字架の贖いの故に、「神からの霊」が与えられ、「神からの霊」の働きによって「神の奥義」の啓示を理解するのです。

神からの霊」が与えられ、「神からの霊」の働きによって「神の奥義」の啓示を理解するので、考え方が変わり、生き方が変わるのです。

人を変える力は「神からの霊」にあり、宣教の働きは、「神の奥義」を紹介するところまでです。

先に、コリント教会の実情、支配者のように君臨し、指導者のように指示し、教職者のように教える人の、なんと多い事か。

コリント教会では、こんな事が横行していたようですが、現代の教会でも起こりうる事であり、注意しなければなりません、とお話しましたが、宣教、伝道の働きは、「神の奥義」、即ち、隠された神の知恵」、唯一真の神様の「救いのご計画」、御子キリスト・イエス様の存在と、お働きの紹介まで、であり、私たちが「神の奥義」を説き明かして、人を変えるのではありません。

また、生き方の指南、キリスト者の心得、などなどを説いて、人を変える事でもありません。

熱心に教えると、人が変わるのでも、誠実に接すると、人が変わるのでもありません。

神からの霊」を受けた人は、「神の奥義」を理解し、自ら変わっていくのです。

変化は、人それぞれです。

唯一真の神様の願われる姿も、生き方も、働きも、唯一真の神様の御旨のままであり、所属する教会や組織の必要でも、私たちが考える理想でもありません。

神からの霊」を受けていない人は、「神の奥義」を理解出来ず、変わりようがありません。

神からの霊」を受けていても、人が変わるのは「神からの霊」の働きであり、人間の都合や、期待は一切不要であり、僭越、越権でしかないと心得なければなりません。

神からの霊」を受けている人のなすべきは、「神からの霊」が存分に、主権的に働くように祈る事でしょう。

それでこそ、辛うじて「神の奥義」を知り得るのです。

それなのに、「神からの霊」、「御霊」を侮るなら、人間の知恵や知識を最高位に考え、研究や努力を賞賛するなら、「神の奥義」を見出す事はありません。

教会の全てにおいて、神からの霊」が主体的、主権的に働くように祈る時、「神の奥義」を啓示する教会として、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光が現れ、キリスト者の栄光も現れるのです。                                     

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                                   2020-8-16礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一26節~9

説教題:「神の奥義」

【導入】

パウロの宣教姿勢は、「すぐれたことばや知恵を用い」ず、「説得力のある知恵のことばによるものではなく」、「御霊と御力」だけに頼った、常に一定、安定した姿勢であり、唯一真の神様の主権の下での、宣教姿勢、伝道姿勢でした。

時には、時流に合わせた方法や、効果的な方法を取り入れたくもなったでしょうし、そんなアドバイスを受けた事もあったでしょう。

しかし、パウロは、唯一真の神様の主権の下で、「御霊と御力」だけに頼って、宣教、伝道に取り組んだのです。

「唯一真の神様の主権の下で」、「御霊と御力」だけに頼って、が重要です。

パウロの判断や、誰かのアドバイスではなく、流行を取り入れてでもなく、「唯一真の神様の主権の下で」、「御霊と御力」だけに頼って、宣教、伝道に取り組んだのです。

伝える事が、この世の事であるならば、パウロの判断や、誰かのアドバイス、誰の助けを得ようと、何ら問題はないでしょうが、伝える事が、唯一真の神様のご計画であり、御子キリスト・イエス様から委ねられた使命なのですから、唯一真の神様のお考え、指示に従い、「御霊と御力」だけに頼るのが当然です。

特に、パウロのような、非常に有能な人、秀でた能力を持つ人、様々な事に自分で対応、対処出来、また、協力者を得られる立場にある人にとって、唯一真の神様のお考え、指示に従い、「御霊と御力」だけに頼ると云うのは、簡単な事ではありません。

唯一真の神様のお考え、指示、「御霊と御力」の現れが、何時も的確、具体的ではないからです。

何時まで待たなければならないかが分からず、どんな展開になるかも分からないからです。

あらゆる状況を想定し、先手先手を打ち、後手に回らないのが、この世で推奨される対処法、必勝法ですが、先手を打たず、後手に回った時に、信仰が試され、唯一真の神様のお考え、指示、「御霊と御力」の現れを体験出来、更なる信仰的深まり、信仰の確信に繋がるのです。

決して、積極的には何もせず、常に待つべきである、と云っているのではありません。

消極的であってはならず、しかし、唯一真の神様の主権を犯すような、勝手な判断、行動は慎まなければならないのです。

パウロの、御子キリスト・イエス様から委ねられた使徒としての使命に対する取り組みは、常に唯一真の神様のお考え、指示、「御霊と御力」に従うものであり、「神の奥義」を異邦人に伝える働きを、委ねられるに至るのです。

【本論】

新改訳2017版 2:6 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。

成熟した人」とは、字義的には「目標に達した者」の意味であり、ここでは「信仰的に成熟した人」の意味で使われています。

「信仰」は、理性を犠牲にした不合理な信念や、感情的な思い込み、義理や人情ではありません。

「信仰」は、理性に基づく合理的な判断を基に、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様に信頼を置き、従う事です。

ですから、信仰的に成熟するのは、一朝一夕の事ではありません。

自分には何ら誇るものを持たない不完全さと、人は、行いでは、献げ物では贖い得ない罪を持つ身であるとの認識を、自他共に認めるところから出発するのであり、地道な信仰生活を送り、色々な霊的訓練や霊的経験を経て、御子キリスト・イエス様こそが、完全なお方であり、御子キリスト・イエス様こそが、人間の全ての罪を、完全、且つ、永遠に贖うお方であると告白する者が、「信仰的に成熟した人」であると、パウロは考えるのです。

このパウロの告白、宣言の背景には、コリント教会の、キリスト者と呼ばれる人々の中に、持っている知識を誇り、自分こそ完全な者だと誇り、知識の欠しい者、弱い者を見下している人々が少なからず居たからです。

出自を誇り、地位を誇り、自分こそ完全、成熟している、と思い込んでいる人は、どんな忠告にも、語り掛けにも耳を貸さないでしょう。

知識があり、経験も積み、人から一目置かれている人は、中々「信仰的に成熟した人」には、なり難いのかも知れません。

更に困り者なのが、自己吟味をしない人です。

常に自己吟味を怠らず、謙遜と柔和の限りを尽くして、教えを乞い、幼子のような素直な心、混じりけのない心で、教えを聞く時、人は「信仰的に成熟した人」への一歩を踏み出すのです。

パウロの宣教、伝道姿勢は、前述した通りですが、加えて、「信仰的に成熟した人」、聞く耳を持つ人には積極的に「知恵」を語ります。

パウロの語る「知恵」は、「この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません」。

パウロの語る「知恵」は、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様に関する事であり、「神の奥義」「福音」に関する事です。

一方、「この世の知恵」とは、この世に関する知識であり、この世の処世術であり、この世限定の、有限な知恵の意味であり、不完全なものであり、永続的なものではありません。

この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵」とは、ヘロデやピラトなどの、ユダヤやローマの歴史上の支配者たちや、救世的な働きを為した英雄、解放者たちの持つ知恵や、彼らの背後に存在し、働きかける天的存在、悪霊的な存在のもたらす知恵の意味でしょう。

パウロは、分かり易くするため、理解の助けとして、「この世の知恵」と「この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵」とを二分して、紹介していますが、この両者は、密接に結ばれ、渾然一体であり、分離されずにあると見るべきでしょう。

パウロは、パウロの語る「知恵」と、「この世の知恵」「この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵」とを対比させ、その異質性を語りますが、その異質性とは、この世の支配者たちが、唯一真の神様を理解出来ず、唯一真の神様のご計画の一端をも理解出来ず、御子キリスト・イエス様を十字架に架けてしまった事に現れています。

パウロの語る「知恵」は、唯一真の神様の深い知恵から出ているご計画、福音についてであり、「この世の知恵」、即ち、虚しい知恵、限界のある知恵では、唯一真の神様の御旨を把握する事も、理解する事も出来ないのです。

2:7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

奥義」とは、今まで隠されていましたが、御子キリスト・イエス様の神性と、十字架を中心とする御子キリスト・イエス様のお働きとにより、世に明らかにされた、唯一真の神様の救いのご計画です。

この救いのご計画は、唯一真の神様を起源とし、「世界の始まる前から定めておられたもの」だと、パウロは語ります。

唯一真の神様の救いのご計画は、人間の知恵では探し出す事も、知る事も出来ませんが、天地万物創造の時からの定めであり、時至って明らかにされました。

その唯一真の神様のご計画を知り、深い理解をもたらすのは、この世の知恵ではありません。

奥義」、即ち「救いのご計画」は、「奥義のうちにある、隠された神の知恵」によって知るのだ、とパウロは語ります。

隠された神の知恵」とは、御子キリスト・イエス様の事であり、御子キリスト・イエス様によって、「奥義」、即ち「救いのご計画」を知るのです。

奥義」、即ち「救いのご計画」の内にある「隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様を知るのであり、「隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様によって、「奥義」、即ち「救いのご計画」を知るのです。

堂々巡りの話であり、意味をなさない問答のようですが、重要な真理です。

コリント人への手第一、22節で、コリント教会には、キリストを単なる知恵、霊とする人々が居り、自論を宣べ、他の人々に強く影響を与えていたと、お話ししましたが、それらの人々は、御子キリスト・イエス様を、神の子ではないとしたのです。

即ち「隠された神の知恵」を、否定したのであり、「奥義」、即ち「救いのご計画」を知る唯一の手掛かり、術(すべ)を否定してしまったのです。

奥義」、即ち「救いのご計画」を隠す事は、「神の知恵」であり、「隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様によって、「奥義」、即ち「救いのご計画」を知るのです。

奥義」、即ち「救いのご計画」と、「隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様との関係性、重要性は、この世の知恵では想像する事も、理解する事も、思い至る事も出来ません。

奥義」、即ち「救いのご計画」と、「隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様との関係性、重要性は、恵みで知る事であり、唯一真の神様のご計画、恵み、憐れみである事がはっきりするのではないでしょうか。「隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様のお働きは、異邦人の救い、ユダヤ人の回復、信ずる者の救いの完成、栄光を受ける事、などを含む、終末の時に至り、起こる、唯一真の神様の救いの計画の全体に関わります。

これらを理解するのも、この世の知恵では出来ない相談であり、「隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様のお働きによるのです。

この御子キリスト・イエス様のお働きによって、私たちキリスト者は栄光を受けるのであり、「世界の始まる前から定めておられたもの」だと、パウロは語るのです。

2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

この知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様のお働き、即ち、十字架を中心とする唯一真の神様の救いのご計画は、「この世の支配者たち」、即ち、ユダヤ、ローマの指導者たちの理解を遥かに超えたものであり、「だれ一人知りませんでした」と断言します。

隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様のお働きは、人間の期待や予測を遥かに超えたものであり、多くの人は、ユダヤ、ローマの指導者たちは、知らないものに対する拒絶から、理解出来ないものに対する恐怖から、御子キリスト・イエス様を拒絶、排斥するに至ってしまったのです。

ユダヤ、ローマの指導者たちが、御子キリスト・イエス様を十字架に掛けた事により、ユダヤ、ローマの指導者たちは、自ら無知を明るみに出してしまいましたが、無知は、そして固定観念、思い込み、鵜呑みは、斯様に恐ろしいものなのです。

指導者たちには、大局的な見方、中立的な見方、公平な見方が求められますが、それすら行なわなかったのであり、無能である事をも曝け出す事になってしまったのです。

指導者たちの無知、無能が曝け出される一方で、御子キリスト・イエス様の権威とお働きが、最高に強調されるのが「栄光の主」との称号です。

この世の指導者は、地上の権威、権力にしがみ付き、無知、無能を曝け出す醜態を演じ、後世にまで醜態を曝し続け、御子キリスト・イエス様は、屈辱の極みの十字架に架けられ、いのちを捨てられましたが、唯一真の神様から栄光を受けられたのです。

この知恵」と、「この世の支配者たち」の対比にも、隠喩があります。

自分の名誉を求め、いのちを守ろうとする者は、それらを失い、自分を虚しくし、いのちを献げる者は、それらを永遠に、栄光と共に受け取る事になるのです。

自分たちの利益を求め、奔走し、それらに同調し、加担する行為は、最も恥ずべき行為であり、唯一真の神様から厳しい叱責を受ける事になり、唯一真の神様に対して誠実に歩む行為は、御子キリスト・イエス様と同じ栄光を共に受ける事になるのです。

2:9 しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」こそ、唯一真の神様を出所と判断する決め手でしょう。

この鍵カッコ内の聖句は、イザヤ書644節、6517節からの引用です。

2017版は1276ページ、第三版は1231ページです。

パウロは、唯一真の神様の御業は、人が見たり、聞いたりなど、自然な方法、常識的な方法では認識も理解も出来ず、人間を総動員し、人間の知性を全て集結しても、思い浮かぶ事も出来ず、認識不可能である事を宣言、強調します。

人間は、思い上がっており、英知を結集すれば、何でも出来る、何でも解明出来る、と豪語しますが、これは、大きな間違いであり、甚だしい思い上がりです。

身近な事でも、解らない事だらけであり、出来る事よりも、出来ない事の方が多いのです。

そして「神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と、まとめますが、これこそ、「奥義」であり、「救いのご計画」であり、隠された神の知恵」、即ち、御子キリスト・イエス様です。

唯一真の神様の御子が人となって、この世に来られる。

しかも、私たち罪人の、罪の贖いのために、十字架上で死ぬために、この世に来られる。

更に、墓に葬られ、三日目によみがえり、天に昇られる、永遠の命を与えるために、戻って来られる。

この一連の、唯一真の神様のご計画は、調べて到達する内容ではなく、探して見つかる内容でもなく、自然界にヒントも、示唆するようなものもありません。

唯一、聖書に預言され、聖霊の助けによってのみ、なのです。

【適応】

「神の奥義」との説教題は、奥義中の奥義、秘義中の秘義を説き明かす説教のような印象を与えてしまうかも知れませんが、「神の奥義」は、ある意味、単純です。

先に、お話したように、「神の奥義」とは、「隠された神の知恵」であり、「救いのご計画」であり、御子キリスト・イエス様の存在と、お働きの事です。

唯一真の神様の御子が人となって、この世に来られる、しかも、私たち罪人の、罪の贖いのために、十字架上で死ぬために、この世に来られる、更に、墓に葬られ、三日目によみがえり、天に昇られる、永遠の命を与えるために、戻って来られる。

キリスト教の根本でありますが、この世は、これらの教えを全く受け付けません。

先ず、唯一真の神様と、神の御子キリスト・イエス様の存在自体を否定します。

自分たちに都合の良い神は肯定しますが・・・

贖い、身代わりの死は、荒唐無稽な話として、受け入れません。

よみがえり、昇天、再臨は、神話の類として、聞き流します。

確かに、前例がなく、類似の話はどれも出所不明で、信憑性に大きく欠けるからです。

しかし、前例がないからといって、一笑に付し、片付けてしまって良いのでしょうか。

出所不明、著者不明の、類似の話として一纏めにし、同一視し、無視してしまって良いのでしょうか。

前例がないからこそ、複数の記者により、予め預言され、聖書に纏められているのであり、類似の話が多いからこそ、歴史上に実在した預言者、指導者によって書かれ、聖書に纏められているのです。

聖書は、「隠された神の知恵」であり、「神の奥義の書」と呼ぶ事が出来ます。

聖書には、「救いのご計画」が記され、御子キリスト・イエス様に付いてと、お働きが記されているのです。

巷に溢れている、所謂「奥義」の類は、有益なものもある一方で、毒にも薬にもならない、怪しげなものも多いようですが、それでも、「奥義」に至るのは、悟るのは、開眼するのは、厳しい訓練、修行、忍耐、患難辛苦にも耐えなければなりませんし、それこそ、気の遠くなるような歳月を必要としますが、聖書には、「神の奥義」、「隠された神の知恵」、「救いのご計画」、御子キリスト・イエス様の存在と、お働きの事がはっきりと、記されています。

版の違い、訳の違い、などで、微妙な違いは生じますが、「神の奥義」は、聖書で、簡単に、手にする事が出来るのです。

この世では、簡単に手に入るものは、偽物が多い。

しかし、聖書は、誰もが、何時でも手にする事が出来るのです。

しかし、ここに、唯一真の神様が、仕掛けを付けています。

即ち、聖書を唯一真の神のことばと、信じるか、否か、です。

勿論、「御子キリスト・イエス様の執り成しと、聖霊様の助け」が必要である事は確認するまでもありません。

それが、7節「私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられた」事であり、8節「神を愛する者たちに備えてくださった」事の意味です。

人間には、自分の力で「奥義」を知る事が出来ず、唯一真の神様の憐れみ、恵みで、「奥義」に出会い、唯一真の神の御子キリスト・イエス様の贖いの働きと、聖霊の助けにより「奥義」として受け止められ、信じない者には、荒唐無稽の物語、として受け止められるのです。

信じる者は、永遠のいのち、永遠の憩い、に至り、信じない者は、無限の苦しみ、悲しみに至るのです。

「神の奥義」は、地の果てにあるのではなく、海の底にあるのでもなく、意味不明の言葉で書かれているのでもありません。

身近にあり、今、手にしており、誰にでも理解出来る言葉で書かれています。

あなたは、この「奥義」に出会ってますか。

この「奥義」を受け入れますか。           

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聖書箇所:コリント人への手紙第一21節~5

説教題:「パウロの宣教方法」

パウロは、多くの異邦人に、即ち、創造者にして支配者なる唯一真の神様と云う知識を持っていない人々に、八百万の神、ギリシヤ神話の神、人間が考え出した神を信じている民、異教徒に福音を宣べ伝えて来ました。

パウロは異邦人、異教徒の特徴に合わせて、福音を宣べ伝えて来ました。

特徴に合わせる、と云っても、妥協したり、変質させたり、隠したり、誤魔化したりした訳ではありません。

論理的思考を好む人々には、理路整然と。

しかし、論理で全てが解明出来ない事を説明し、証拠偏重的な人々には、証拠の不十分性を説明し、証拠はこの世の事しか証明出来ず、霊的な事は、信じるしかない事を説明して来ました。

パウロが宣べ伝えて来た、福音の本質は、「十字架のことば」であり、「十字架のことば」とは、「イエス様が十字架で死なれた事実と、その意味」です。

イエス様は十字架で確実に死なれたのであり、三日間、墓に葬られていたのです。

決して気を失っていたのでも、仮死状態だったのでもありません。

死刑執行人が、その豊かな経験で、確実な死を確認しているのです。

イエス様の十字架の死の意味は、私たちの罪の刑罰の引き受けであり、罪に対する贖いであり、贖いによって、私たちは罪の無いものと見做され、義人と見做され、キリスト者と呼ばれ、天国に招き入れられるのです。

イエス様の贖いの対象者は、「十字架のことば」を信じる者だけであり、何の働きも、献げ物も、犠牲も、修行も、訓練も、一切必要ありません。

地位も、職業も、身分も、国籍も、年齢も、性別も関係ありません。

過去に為して来た事や、為さなかった事も、現在為している事や、為さないでいる事も、将来為すであろう事や、為さない事も、信じて来た宗教も関係ありません。

悪徳が横行する、背徳的な因習が蔓延る都市の人々も選ばれるのであり、だからこそ、コリントの人々が選ばれ、キリスト者と呼ばれるようになったのです。

パウロの宣教活動は、「十字架のことば」のみを、妥協せず、変質させず、隠さず、誤魔化さず伝える事であり、現代にも通じる、否、時代を越え、地域を越え、文化を越える普遍的な活動なのです。

パウロの宣教方法を見て行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 2:1兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

パウロの、コリントでの宣教は、当時の常識からは外れたものでした。

当時流行っていたのは、雄弁家のような、流暢な、人を惹き付ける語り口調であり、或いは、哲学者のような、威厳を漂わせ、重厚な言葉を選ぶ、重々しい語り口調でしたが、パウロは、「すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした」。

パウロの、朴訥な語り口調、時代遅れの論法、では人を惹き付ける事は出来ませんでしたが、「十字架のことば」と「この世の知恵」が、鋭い対比を見せたのは、間違いありません。

パウロの語り口調、論法もそうですが、「十字架のことば」は、人々にとって、荒唐無稽な内容であった事でしょう。

(えん)も縁(ゆかり)もない男の死と、私たちに何の関係があると云うのか、冤罪かも知れないが、死刑囚の死が、私たちと何の関わりがあると云うのか、死人が生き返る、天に昇る、そんな事があってたまるか。

一方、「この世の知恵」は、人間の英知を賛美するものであり、人間賛歌にほかなりません。

「この世の知恵」で、何でも説明出来るのであり、人々を納得させる説明が出来てこそ、であり、時代にあったツールを使って、「この世の知恵」を用いて、人々に「十字架のことば」、「神の奥義を宣べ伝える」べきだと考えるのは当然でしょう。

「この世の知恵」も、有効に活用すべきだし、それで「神の奥義を宣べ伝え」られるなら、何の問題もないのではないか、と考えましょう。

しかし、パウロは、「この世の知恵」を用いはしませんでした。

何故ならば、「十字架のことば」は、「神の奥義」に属する事であり、唯一真の神様が、御子キリスト・イエス様を通して為された救いの事実についての証言であり、唯一真の神様の許される方法で取り組む課題だからなのです。

当時の、哲学的論法を好む、コリントに於いては、パウロの、「この世の知恵」を用いない姿勢を堅持する必要があったのです。

「十字架のことば」は、口調、話術、論法の秀逸で理解するものではなく、「十字架のことば」は、古臭い、分かり難いところのある、ユダヤの歴史の中で語られる必要があるのです。

創世記から始まる歴史が、イエス様に繋がり、「十字架のことば」に帰結するのです。

古臭いからと云って、端折ってはならず、分かり難いところを、時代に合わせて書き換えたりしてはならないのです。

パウロは、雄弁家のような、哲学者のような威風堂々たる仕方では語りませんでした。

「十字架のことば」は、個人の資質で語るものではなく、その働きは、個人に帰するものでもないからなのです。

2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

パウロがこの手紙を書いている時点で、コリント教会には、キリストを単なる知恵、霊とする人々が現れ、自論を宣べ、他の人々に強く影響を与えていたのです。

それこそ、時代のあった話術で、雄弁に語ったことでしょう。

コリント教会の人々の中には、そちらに引かれ行く人たちも、少なからず居たようです。

1節、2節は、そのような背景の中での、パウロの一貫した姿勢、態度であり、特に「何も知るまい」は、「十字架のことば」以外は、自ら受け入れないと、固く決意した事の表明であり、「十字架のことば」以外は、人に伝えない、一切語らないと、自らを強く戒め、それを貫いて来た事を証しするのです。

何も知るまい」は、拒絶的な意味ではありません。

「十字架のことば」以外、知る必要はない、関わりを持たない、との宣言であり、「十字架のことば」以外、語らない、との宣言であるのです。

更には、有用とされる弁証法を取り入れる事や、テクニックに頼る事を否定しているのであり、ここコリントでは、雄弁家や哲学者が持てはやされるコリントでは、雄弁家や哲学者の一人、と見られるのは、得策ではありません。

使徒の働き1716節、2017版は270ページ、第三版は263ページに記されている、アテネでの体験は、使徒の働き184節に記されている、コリントでの体験は、論争は不毛であり、何の益ももたらさない事を経験しましたが、これを踏まえ、生かし、世に迎合されなくても、唯一真の神様に従う決意と姿勢、「十字架のことば」以外は語らない、論争はしない、を貫く時、道は開かれ、働きは前進するのです。

2:3 あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。

唯一真の神様に従う決意と姿勢は、見方によっては、「弱く、恐れおののい」たものと映った事でしょう。

弱く」は、肉体的な弱さ、身体的な脆弱さではありません。

内的弱さを意味しますが、心理的な弱さ、精神的な弱さではなく、使徒職についての謙遜さ、従順さの自覚と堅く結び付いた意識であり、唯一真の神様に対する弱さ、恐れ、慄き、と云う事が出来ます。

弱く、恐れおののいていました」は、使徒職と云う使命の重要性に対するもの、困難な情況を通して生ずる真の謙遜に対するものを指しているのであり、決して、人に対してであれ、働きに対してであれ、弱気になったり、恐れを抱いたり、慄いていた訳ではありません。

「十字架のことば」は、御子キリスト・イエス様に関する事であり、誰にも、何の遠慮も不要ですが、不遜と見られるのは、賢明ではありません。

誰に対しても、どんな状況でも、謙遜に、礼儀正しく、丁寧に、が基本でしょう。

パウロは、御子キリスト・イエス様から直接、使命を授けられ、使徒としての権威が与えられていましたが、使命を誇る事はなく、権威を振るおうともせず、淡々と使命を遂行し、権威の片鱗さえも、ちら付かせる事はしなかったのです。

2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

私のことば」とは、宣教の内容の事であり、「私の宣教」とは、全ての人に対する公の宣言の事を意味する、と解釈、解説されますが、パウロの宣教活動は、両者が堅く結ばれて、一体となっての活動であり、この世の如何なる「説得力のある知恵のことば」の助けを借りる事も、必要とする状況も一切ない事を強調するのです。

パウロは、前途洋々とした律法学者、パリサイ人であり、当時、一流の知識人でしたが、その学識と知識を一切ひけらかす事も、匂わせる事もしなかったのです。

凡人は、言動の端々に、薄っぺらな学識や知識を出てしまうものですが、パウロは徹底した自己否定の立場を崩す事なく、常に、「御霊と御力の現れ」による、「ことば」による「宣教」だけを願い、それを活動、宣教の、伝道のスタンスとしたのです。

御霊と御力の現れ」の一つとして、パウロは癒しなどの奇蹟も行ないましたが、パウロの使徒としての主たる働きは、「ことば」による「宣教」であり、癒しなどの奇蹟ではありません。

人々は、パウロに、奇蹟を要求しますが、その要求を排して、「ことば」による「宣教」に集中、注力する姿勢を語るのです。

私たちは、奇蹟が伴うと、「ことば」による「宣教」にも信憑性が増し、人を信仰に導く、宣教、伝道に益すると考えますが、人を信仰へと導くのは、「御霊」の働きであり、奇蹟は必須ではありません。

寧ろ、奇蹟にばかり意識が集中し、奇蹟を求め、奇蹟で満足してしまいかねないのです。

御子イエス様に対しても、奇蹟を要求し、奇蹟で満足し、そこで終わってしまうのであり、奇蹟から学び、生き方を変えるには至らないのが、人の常なのではないでしょうか。

2:5 それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

ここまでパウロが述べて来たのは、コリント教会の人々の信仰の確立のためです。

不変、不動の「神の力による」「あなたがたの信仰」でさえ、不変、不動とはいかず、揺れ動きます。

ましてや「人間の知恵」に頼っていたならば、昨日は「パウロにつく」と言っていながら、今日は「アポロにつく」と言い、明日は「ケファにつく」と、常に揺れ動き、定まらず、となってしまうのです。

人間の知恵」は、常に揺れ動きます。

人に取り入ろうと知恵を働かせます。

人によって対応が変わり、反応も変わります。

時代によって変わり、文化によって変わり、地域によっても変わります。

こっちがよさそうに思え、次にはあっちがよさそうに思えます。

しかし、信仰は、「イエス様が十字架で死なれた事実と、その意味」に対する応答です。

そして、宣教、伝道は、「イエス様が十字架で死なれた事実と、その意味」を伝える事に尽きます。

【適応】

宣教と伝道の方法は、様々です。

未信者に、教会に来てもらうための工夫も、様々です。

求道者に、教会に繋がってもらうためのアイデアも様々です。

年代に応じた、興味を引く催しを計画し、開催し、続けて礼拝に・・・。

しかし、押さえておかなければならない教会の本義は、教会の働きは、「イエス様が十字架で死なれた事実と、その意味」を伝える事に尽きます。

しかも、人を惹き付けるような話術でもってして、ではなく、流行(はやり)の弁論家、哲学者の話し振りを真似る必要もなく、誰に対しても、どんな状況でも、謙遜に、礼儀正しく、丁寧に、「イエス様が十字架で死なれた事実と、その意味」から外れずに、でしょう。

話術やテクニックに磨きをかけ、人を集めるのではなく、また、肩書きや経験などの人望や人間的魅力で惹き付け、或いは人間関係で引き寄せ、繋ぎ止めるのでもありません。

朴訥でも、風采が上がらなくても、肩書きがなくても、経験が浅くても、人間的魅力に乏しくても、「イエス様が十字架で死なれた事実と、その意味」から外れずに説教するなら、使徒としての使命を果たしたのであり、教会の使命を全うしているのです。

パウロの宣教姿勢は、ローマ人に合わせ、コリント人に合わせ、ガラテヤ人に合わせ、ではありません。

パウロの宣教姿勢は、「すぐれたことばや知恵を用い」ず、「説得力のある知恵のことばによるものではなく」、「御霊と御力」だけに頼った、常に一定、安定した姿勢であり、唯一真の神様の主権の下での、宣教姿勢を、伝道姿勢を貫いたのです。

これ、簡単な事ではありません。

先に申し上げましたが、パウロは、前途洋々とした律法学者、パリサイ人であり、当時、一流の知識人でしたが、その学識と知識と、そしてまた経験を一切用いなかったのです。

現代ならば、自身の分野であれ、他人の分野であれ、利用出来るものは利用すべき、積極的に活用すべき、と考えるのではないでしょうか。

説教は、文章作成のプロに添削してもらい、喋りのプロに代読してもらえば、より効果的な、引き込まれる説教を提供出来るでしょう。

ネット配信による礼拝は、忙しい現代、効率を追求する時代のニーズに合っているでしょう。

しかし、礼拝は、説教を聞くのが目的ではなく、罪人が、唯一真の神様に招かれ、その招きに応じる事が目的であるはずです。

御霊と御力の現れ」る教会で、唯一真の神様と交わる事によって、霊的な力を得て、罪の満ちる世で、聖い生き方を目指せるのです。

教会に足を運ぶ事に意味があり、教会に身を置く事に意味があります。

勿論、ネット配信による礼拝にも、意味はありますが、あくまで緊急対応であり、一時凌ぎでしかないはずです。

日常生活と礼拝を、関連付けつつ、明確に区切るのが、教会への移動時間であり、教会に、唯一真の神様の前に身を置く事です。

宣教も伝道も、礼拝も、成果を追及するなら、理解度に応じた個別指導や聖書研究が効果的でしょうが、公の礼拝は、知識量も、理解度も、経験も、霊的状態も、バラバラのなかで語る事に意味があるのです。

公の礼拝は、「御霊と御力の現れ」の場であり、そのためには、説教者が主体であってはならず、です。

説教が「御霊と御力の現れ」の場となっているでしょうか。

教会が「御霊と御力の現れ」の場となっているでしょうか。

パウロの宣教方法、伝道スタンスは、「御霊と御力」が現れる事だけであり、パウロは、「すぐれたことばや知恵」や、「説得力のある知恵のことば」は、「御霊と御力の現れ」を邪魔するものとして、見ていたのです。

御霊と御力の現れ」を邪魔するものは、「すぐれたことばや知恵」や、「説得力のある知恵のことば」だけではありません。

教会の歴史も、コリントの地名を冠している事も、コリント教会の牧会者「パウロ」、「アポロ」、「ケファ」たちも、「御霊と御力の現れ」を邪魔するものなのです。

パウロは、徹底して、それらの影響を排除したのです。

宣教の働き、伝道の働きは、決して、パウロの力量を現す働きではないのです。

教会は、唯一真の神様のものであり、御子キリスト・イエス様が頭であり、教会に委ねられた宣教の働き、伝道の働きは、「御霊と御力の現れ」だからです。

私たちの教会は、礼拝は、宣教は、伝道は、「御霊と御力の現れ」となっているでしょうか。

一人ひとりの礼拝に対する思いは、宣教の働き、伝道の働きは、「御霊と御力の現れ」でしょうか。

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                        2020-8-2礼拝

聖書個所:サムエル記第一12:125

説教題:「サムエルの告別説教」

【導入】

天地宇宙の万物を創造された唯一真の神様に聴き従う民であるイスラエルの人々は、カナンの地に定住し、カナンの民との諍いに巻き込まれる中で、カナンの民と同じように王様を欲しがるようになりました。

それは見えない唯一真の神様に従うよりも、見える王様のほうが頼もしいからであり、従い易いからです。

特に戦争になれば、王様の命令一言で、皆が行動出来るからであり、皆の協力、まとまりを得やすいからです。

敵が攻めて来る時に、皆の意見を聞いて、調整していたならば、あっという間に殺されてしまいます。

王様と言う命令体系があってこそ、敵と戦う事が出来る、勝利の機を掴む事が出来ると考えたのです。

しかし、王様の存在は、利点ばかりではありません。

王様に従っていれば良い、と、何も考えなくなり、果ては王様を神のように見なす事につながっていく危険が潜んでいるのです。

唯一真の神様は、偶像礼拝を厳しく戒められましたが、それは像があった方が、礼拝の対象が明確になるからであり、像そのものを礼拝する事になって、唯一真の神様への礼拝ではなくなってしまうからです。

王様も同じように、本当の助け手である唯一真の神様を後に追いやり、王様の力によって助けられた、平和を手にしたと思うようになってしまうからです。

これも立派な偶像礼拝なのです。

このような危険をはらむ王制ですが、唯一真の神様はイスラエルの民の要求を受け入れて、ベニヤミンの部族の中からサウルを選び、油を注ぎイスラエル初代の王様として立てて下さったのです。

士師であるサムエルによる神制政治から、サウルを王様とする王制政治に移りましたが、士師の統治であっても、王様の統治であっても、唯一真の神様に従う民であることに変わりはありません。

サムエルの最後の仕事は、イスラエルの民に、立てられた王様に対する警告であり、命令であり、それがこの12章に記されているのです。

【本論】

サムエルは先ず、王制が民の要求である事、また士師としての働きにおいて、一切の不正がなかった事を宣誓、宣言致します。

12:1 サムエルはすべてのイスラエル人に言った。「見よ。あなたがたが私に言ったことを、私はことごとく聞き入れ、あなたがたの上にひとりの王を立てた。

12:2 今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。この私は年をとり、髪も白くなった。それに私の息子たちは、あなたがたとともにいるようになった。私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んだ。

12:3 さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」

サムエルがその働きを始める前は、シロで祭司エリが民を治めていましたが、エリの二人の息子はよこしまな者であって、唯一真の神様を侮り、唯一真の神様よりも自分たちを上に置き、父であり祭司であるエリの忠告にも耳を傾けず、遂には唯一真の神様の預言の通り、戦闘に巻き込まれ、唯一真の神様の裁きによって殺されてしまいました。

このことはサムエル記24章に記されています。

サムエルの二人の息子もエリの息子に似たり寄ったりで、私的利得を追い求め、賄賂を取り、裁きを曲げていたと、サムエル記83節に記されています。

エリもサムエルも高潔な人であり、唯一真の神様に対して恐れを持って仕えていましたが、息子を指導する事、信仰継承においては失敗してしまったようです。

世に「子は親に似る」と申しますが、親と子は別人格であって、影響はするでしょうが、その影響を受け入れるか否かは、本人の意志如何にかかっているのです。

サムエルとは正反対に育ってしまった二人の息子ですが、決してサムエルの影響ではない事、サムエルの手先となっての行動ではない事、サムエルと関係のない事、サムエル自身は潔白である事を言明致します。

日本では大人になった子どもの行動に、親も社会的責任を問われますが、イスラエル社会では父の咎を子が受ける事はなく、子の咎を父が受ける事もないと明言されています。

エゼキエル1820節、20171443ページ、第三版xページ、「罪を犯したたましいが死ぬのであり、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその者の上にある。」

これが神様のお考えです。

聖書の他の箇所には、父の咎が三代、四代に及ぶと記されています。

矛盾するではないか。とお考えになるかもしれませんが、これは警告の言葉であり、エゼキエル1821節、「しかし、悪しき者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、その人は必ず生きる。死ぬことはない。」と、悔い改めて生きる事を教えているのです。

12:4 彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」

12:5 そこでサムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見いださなかったことについては、きょう、あなたがたの間で主が証人であり、主に油そそがれた者が証人である。」すると彼らは言った。「その方が証人です。」

もしも、自分で気付かずに、損害を与え、苦しみを与え、迫害した事があるなら、或いは、賄賂によって裁きを曲げた事があるなら、それを指摘してくれと、懇願します。

サムエルの身の潔白を宣言する言葉に、民も同意を示します。

サムエルといえども、罪人の一人ですから、失敗もあった事でしょう。

現に、民の王様を立てて下さいという要求には腹を立て、怒りをあらわにしたのです。

しかし、それも、唯一真の神様を侮る民に対する怒りであり、唯一真の神様を退ける民に対する憤りです。

失敗があり、最善策を取れなかったかも知れませんが、常に唯一真の神様の前に正しい心で行なって来たという自負があったのでしょう。

これは自分を正しいとする傲慢ではなく、常に自分を吟味して生きて来た、と言う告白でしょう。

民の同意を得て、サムエルはイスラエルの歴史を語り始めます。

12:6 サムエルは民に言った。「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から上らせたのは主である。

12:7 さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖とに行なわれたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。

12:8 ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は主に叫んだ。主はモーセとアロンを遣わされ、この人々はあなたがたの先祖をエジプトから連れ出し、この地に住まわせた。

12:9 ところが、彼らは彼らの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの将軍シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで彼らが戦いをいどまれたのである。

12:10 彼らが、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテなどに仕えて罪を犯しました。私たちを敵の手から救い出してください。私たちはあなたに仕えます。』と言って、主に叫び求めたとき、

12:11 主はエルバアルとベダンとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたがたは安らかに暮らしてきた。

エジプトでの虐げから救い出したのは誰であったか。

カナン周辺の民族から攻撃を受けた時に守ってくださったのは誰であったか。

常に唯一真の神様が盾となり、壁となってイスラエルを守ってくださったのではないか。

罪を犯しても、悔い改めを告白するならば、唯一真の神様は救い出してくださったではないか。

その時々に応じて、モーセを立て、アロンを遣わし、市井の民の中から士師を起し、尻込みするエルバアルに勇気を与え、イスラエルの民を窮地から救い出してくださったではないか。

ここには6人の名前しか挙げられていませんが、サムエルが立てられるまでに何人の士師が立てられ、送られた事でしょうか。

士師記に名前が挙げられている人だけでも、ざっと14人もいるのです。

実際はもっと多くの士師が活躍した事でしょう。

この士師の働き、唯一真の神様のお陰で「あなたがたは安らかに暮らしてきた」のではないか。

それなのに、

12:12 あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない。』と私に言った。

12:13 今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。

12:14 もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。

12:15 もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。

士師であろうと、王様であろうと、唯一真の神様の僕である事に変りはありません。

イスラエルの民の頂点に立ち、イスラエルの民を導くのは、イスラエルのために戦ってくださるのは、人ではなく、唯一真の神様である事を覚えていなければならないのです。

士師や預言者であっても、唯一真の神様を恐れ、唯一真の神様に仕え、唯一真の神様の御声に聴き従い、唯一真の神様の命令に逆らわず、王様であっても、唯一真の神様を恐れ、唯一真の神様に仕え、唯一真の神様の御声に聴き従い、唯一真の神様の命令に逆らってはならないのです。

もしも、士師が、預言者が、王様が、指導者が、そして民が、唯一真の神様を恐れず、唯一真の神様に仕えず、唯一真の神様の御声に聴き従がわず、唯一真の神様の命令に逆らうならば、たちどころに裁かれる、滅ぼされると宣言するのです。

12:16 今一度立って、主があなたがたの目の前で行なわれるこの大きなみわざを見なさい。

12:17 今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」

12:18 それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。

「小麦の刈り入れ時」とは、5月中旬から6月中旬の時期を指している言葉です。

カナンの地では4月下旬から10月下旬までは乾季であり、小麦の刈り入れ時には雨が降る事はなく、空は晴れ渡り、雲一つない季節の真っ只中です。

そこに、雷が閃き渡り、雨が激しく降ったのです。

この季節外れの雷雨は偶然ではなく、唯一真の神様の臨在であり、唯一真の神様の怒りの象徴です。

遠くで聞える雷鳴は、然程恐ろしいものではないかも知れませんが、間近に聞える、落ちる雷鳴は、人を心底振るえ上がらせます。

それが、季節外れにも、サムエルの預言に端を発する雷雨にあって、それで民は唯一真の神様とサムエルを非常に恐れるに至ったのです。

12:19 民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」

12:20 サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。

12:21 役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。

12:22 まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。

唯一真の神様の願いは、イスラエルの民が唯一真の神様を恐れ、唯一真の神様に仕え、唯一真の神様の御声に聴き従い、唯一真の神様の命令に喜んで従う事です。

脇に逸れず、心を尽くして唯一真の神様に仕える事です。

むなしいものに惑わされない生き方です。

唯一真の神様の御こころは、決して裁き、滅ぼす事ではありません。

10回、100回、1000回罪を犯し、唯一真の神様に逆らっても、1000回悔い改めるならば赦されます。

唯一真の神様は決して見捨てる事はありません。

それは唯一真の神様が誠実なお方であるからであり、約束を決して忘れず、反故にする事なく、私たちを助け、守って下さいます。

ですから、役にも立たず、救い出す事も出来ないむなしいものに従ってはならないのです。

むなしいものに従っても、何の効果もありません。

むなしいものには何の力もなく、私たちを幸せにも出来ないし、敵から救い出す事も出来ないのです。

むなしいもの、それは偶像だけではありません。

自分で何とかしよう、出来ると思い込んでいるのも、空しい行為です。

人を頼りにする事も、空しい行為です。

空しいものに従うと言う事は、唯一真の神様から離れる事であり、唯一真の神様の守りから離れる事です。

唯一真の神様のくださろうとする祝福を断る事であり、その結果は滅びなのです。

12:23 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。

12:24 ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。

12:25 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」

イスラエルの民がサムエルを退け、サウルが王様として立てられても、唯一真の神様がサムエルを退けたわけではありません。

サムエルは依然として唯一真の神様が立てられた預言者であり、士師であり続けています。

預言者、士師の務めは民に唯一真の神様の言葉を取り次ぎ、民のために執り成し祈る事です。

預言者が、士師が祈りを止めるのは、唯一真の神様に対する罪であると告白していますが、それ程、祈りの働きは大きく、どんな働きよりも重要なのです。

更に、正しい道を教える事が、預言者、士師の務めであり、祈りと御言葉の説教が預言者、士師の使命である事を教える箇所なのです。

【適応】

サウルがイスラエルの王様として立てられても、依然としてサムエルはイスラエルの霊的指導者です。

サムエルには、イスラエルの民が、イスラエルの王様が、天地宇宙を創造された唯一真の神様から離れないように執り成し祈り、また正しい道を教えつづける働きが委ねられています。

罪から離れる事、唯一真の神様を恐れ、唯一真の神様に仕え、唯一真の神様の御声に聴き従い、唯一真の神様の命令に逆らわず、悔い改めを促し、また、唯一真の神様がどんなに偉大な事をなさったかを語り続けるのです。

イスラエルが聴こうが聴くまいが、疎んじようが迫害しようがです。

イスラエルの民には、唯一真の神様の言葉を聴く義務があり、聴き従う責任があるのであり、サムエルら預言者、士師には主の言葉を語る義務があり、民が聴き従うまで語り続ける責任があるのです。

どちらも、唯一真の神様の命令であり、それは唯一真の神様の言葉を聴き、従う事が、民の、預言者、士師の幸せのためであり、祝福の基となるからなのです。

人間は唯一真の神様に造られたので、造った方に聴き従うのは当然です。

ましてや、唯一真の神様に特別に選ばれたイスラエルの民、油注がれた王様、預言者、士師は尚更です。

そして、この当然の事を行なう時に、当然の結果として祝福を頂く事になるのです。

人間は自分の力や知恵で幸せや平安を造り出す事は出来ません。

武力が平和を維持し、経済発展が幸福を招き寄せるのでもありません。

事実、全くと言って良い程に無防備であり、武器も持たないイスラエルの民が、唯一真の神様に従う間は平和であり、農作物も家畜も豊かに実り、幸福であったのです。

その唯一真の神様からの平和、幸福を享受しながら、それを与えて下さった唯一真の神様を忘れて偶像に仕えた時から、平和はなくなり戦争に明け暮れ、幸福は欠乏へと変わって行ったのです。

それでも苦しみ喘いだ時に、唯一真の神様に立ち帰ったならば、唯一真の神様はその御手を持って外敵を防ぎ、旱魃、冷害、病虫害を押さえ、平和と豊作を与えて下さったのです。

唯一真の神様は何時でも待っておられます。

悔い改めるのを、唯一真の神様に立ち帰るのを待っておられます。

遅い事はありません。

締め切りも、時間制限もありません。

悔い改めて戻って来るなら、何時でも受け付けて下さり、幸福を、平安を与えようと待っておられます。

唯一真の神様に背を向けた生き方は、もう充分なのではないでしょうか。

唯一真の神様に立ち帰り、唯一真の神様に赦された本当の祝福、平安、幸福に生きられるようお祈り致します。

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