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                                   2020-9-27礼拝

聖書箇所:創世記3章1節から13節  (説教は8節から13)

説教題:「あなたはどこにいるのか

説教者:河野優牧師

説教は非掲載です。

3:1 さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。

3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」

3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

3:5それを食べるその時、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者になることを、神は知っているのです。」

3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

3:7 こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」

3:10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

3:11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」

3:12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

3:13神である主は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」

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                                   2020-9-20礼拝

聖書箇所:サムエル記第一131節~23

説教題:「あなたは何ということをしたのか

【導入】アブラハムに現われ、イサクを導き、ヤコブを守り、ヤコブの子孫をエジプトから脱出させ、荒野での40年の放浪生活を支えたのは、言う間でもなく天地宇宙を創造された唯一真の神様です。

カナンの地に入植する事が出来たのも、近隣諸国の脅威から守って下さったのも天地宇宙を創造された唯一真の神様です。

この天地宇宙を創造された唯一真の神様に聴き従う民であるイスラエルの人々は、カナンの地に定住し、カナンの民との諍いに巻き込まれる中で、カナンの民と同じように王様を欲しがるようになりました。

それは見えない唯一真の神様に従うよりも、見える王様のほうが頼もしいからであり、従いやすいからです。それは見えない唯一真の神様に従うよりも、見える偶像に従う生き方が沁みついていたからに他ありません。

偶像を王様に置換えただけであり、イスラエルの民は、唯一真の神様よりも王様を慕ったのであり、偶像礼拝を引きずっていたのです。

そんな恩知らずであり、真理を見抜けない、何の力も持たない偶像を慕うイスラエルの民を、唯一真の神様は見捨てる事なく、願いの通り、王様を選び、イスラエルの王様として立てて下さいました。

イスラエルの部族の内の、最も小さな部族の、取るに足り無いつまらない家族の中から、若く頼りないサウルを王様として立てて下さいました。

多くの民がサウルを王様として大歓迎のうちに迎え入れましたが、一部の民は懐疑的であり、「「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言って軽蔑し」拒否したのです。賛否分かれる中で、アモン人との戦いが起こり、サウルは王様として活躍し、ヤベシュ・ギルアデの人々を窮地から救い出しました。

この功績が認められ、サウルはイスラエルの王様としての地歩を固め、誰もがイスラエルの王様と認めるようになったのです。

この様な状況の中で、サムエルの決別説教がなされ、イスラエルは士師が、預言者が統治する時代から、王様が統治する時代へと進んで行く事になるのです。

士師や預言者による神制政治から、サウルを王様とする王制政治に移りましたが、士師の統治であっても、王様の統治であっても、唯一真の神様に従う王様であり、民である事に変わりはありません。

民の頂点に立つ王様ですが、その王様も常に、何処ででも、何時まででも、唯一真の神様に聴き従わなければならないのであり、また、何をしても良いのではなく、職務の制限があり、行動の制限があるのであり、それがこの13章に記されているのです。

【本論】新改訳2017版 13:1 サウルは、ある年齢で王となり、二年間だけイスラエルを治めた。

原文のヘブル語の記述でも「サウルはウン歳で王となり、二年間イスラエルの王であった。」と、即位の年齢の数値を欠き、統治期間も非常に短く記されています。ヘブル語での年齢の表現は、例えば「30歳」は「30の年の息子」と表現します。ですから1節は「サウルはウンの年の息子で王となり、二年間イスラエルの王であった。」となる訳です。

この「ウン」については多くの解釈があり、諸説があり、新改訳第三版では30歳、12年間、と言う説を採用していますが、確定的な見解ではありません。

聖書は人間の目と手によって書き写され、現代にまで伝えられていますので、誤記や欠落、重複があって、このような相違が生じるのですが、だからと言って聖書は信頼出来ないと結論するのではなく、このような差異は、福音の本質には影響を与える事は無く、聖書全体の中で、余す所無く唯一真の神様の御心を伝えているのであって、信頼するに値する聖なる書物なのです。

13:2 サウルは、自分のためにイスラエルから三千人を選んだ。二千人はサウルとともにミクマスとベテルの山地にいて、千人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいた。残りの兵は、それぞれ自分の天幕に帰した。

13:3 ヨナタンは、ゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。サウルのほうは国中に角笛を吹き鳴らした。ペリシテ人たちは、だれかが「ヘブル人に思い知らせてやろう」と言うのを聞いた。

13:4 全イスラエル人は、「サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち殺し、しかも、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った」ということを聞いた。兵はギルガルでサウルのもとに呼び集められた。

ヤベシュ・ギルアデでの戦いで勝利を得て、信頼を得たとは言っても、サウル王朝が確立し、またサウル軍が軍備兵力ともに充実していた訳ではありません。

それでも、外敵であるアモン人、ペリシテ人に対する必要から生まれた王制ですから、サウルは軍隊を組織し、ベニヤミンの領土の南北に駐留し、防備を固め、外敵に備えていたのです。

戦いは、小さな衝突から火蓋が切られるものですが、サウルの息子のヨナタンが始めた局地的な戦闘は、ペリシテ人との全面的は戦闘へと発展して行くのです。

13:5 ペリシテ人はイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように数多くの兵たちであった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。

13:6 イスラエルの人々は、自分たちが危険なのを見てとった。兵たちがひどく追いつめられていたからである。兵たちは洞穴や、奥まったところ、岩間、地下室、水溜の中に隠れた。

13:7 あるヘブル人たちはヨルダン川を渡って、ガドの地、すなわちギルアデに行った。しかしサウルはなおギルガルにとどまり、兵たちはみな震えながら彼に従っていた。

圧倒的な兵力の差です。通常「戦車」は「騎兵」より少ないものであるから、「戦車3万」と言うのはかなり誇張された数値であるようです。

注解書によれば一桁少ない「三千」或いは「千」と言うのが妥当な数のようですが、それでも圧倒的な数である事には違いありません。

イスラエルが持っていない戦車と軍馬。夥しい数の歩兵と、その武器、防備品。

比べてイスラエルの民は、寄せ集めの軍隊であり、戦いの経験はアモン人とのヤベシュ・ギルアデの戦いしか経験していません。

武器があったとしても、アモン人の使っていた武器を戦利品として持ち帰った物だけであったでしょう。

当時の最先端の戦車や騎兵、圧倒的な兵力の差を見せつけられて、イスラエルの民は意気消沈し、隠れるのみならず、逃げ出す者も大勢いたのです。

「地下室」は口語訳聖書では「墓」と訳していますので、とんでもない所に隠れ潜んでいた様子が覗えます。敵はどんどん集結し、軍備を増強している。

比べてイスラエル軍は貧弱で、サウル王は何も具体的な手を打とうともしない。

しかし、サウルは何もしなかったのではなく、待っていたのです。

13:8 サウルは、サムエルがいることになっている例祭まで、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで、兵たちはサウルから離れて散って行こうとした。

待つ。簡単なようですが、危急の時に待つのは大変な努力、精神力が必要です。

しかし、期間の定めが無いのではなく「七日間」という期限があるのですから、まだしもです。しかし、この七日間も、待つ者にとっては永遠にも感じられたのではないでしょうか。平安、安心、安全の中で待つのではありません。

目の前の脅威、危機の中で、不安といのちの心配の中で過ごすのです。

一日が10日にも20日にも感じられたのではないでしょうか。

その緊張、不安に耐え切れず、多くの者が脱落し、逃亡してしまったのです。

これ以上の減少は、軍隊を維持できません。組織として機能しません。

そんなギリギリのところに追い詰められて、切羽詰って取った行動が、

13:9 サウルは、「全焼のささげ物と交わりのいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。そして全焼のささげ物を献げた。

13:10彼が全焼のささげ物を献げ終えたとき、なんと、サムエルが来た。サウルは迎えに出て、彼にあいさつした。

13:11 サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。

13:12 今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向って下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」

サムエルの詰問に対して、サウルは、民が離れて行こうとしたからだと、遅れたあなたが悪いのだと、ペリシテ人が今にも攻めて来そうな気配だからだと反論をします。確かにどれも事実であり、サムエルが遅れて来たのは確かでしょう。

しかし、七日の期限はまだ過ぎてはいなかったのです。

期限の約束もなく、何の連絡もない中ではなく、少なくとも七日の期限はあったのであり、それは最低限守らなければならなかったのではないでしょうか。

しかも、全焼の献げ物や、交わりの生贄を献げるのは王様の仕事ではなく、祭司の職務であり、その越権行為は重大な責めを受けるものであり、二重の意味で、

13:13 サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。

13:14 しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」

サウルはサムエルの言葉に従う事を通して、唯一真の神様の言葉に従う事を学ぶチャンスをふいにしてしまったのです。

サムエル記第1108節でサウルはサムエルから指示を受けています。「私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます」。

待つ事が第一であり、重要なのです。その上で、なすべき事が教えられるのです。

待つのは、献げ物や生贄を献げるためであり、指示を受けるためですが、サウルにとっては指示を受けるのが目的で待つのであり、献げ物や生贄を献げるためではありません。

10章と13章には相当な時間的隔たりがあり、連続した時系列ではないとも読めますが、聖書は時系列の通りには記されていません。前後が入れ替わっているのではないかと思われる箇所や、挿入があったり、欠落もあります。

10章の記述は一度限りの事ではなく、何回かなされたサウルに対する指示であり、13章においても待ち、なすべき事の指示を受けなければならなかったのです。

サムエルの指示を守らず、なすべき事を聞かずに、自分の判断で勝手な行動を取ってしまったサウルですが、唯一真の神様はサウルを見捨てる事はありません。

サウル王朝が続く事がなくなってしまったとの宣言がなされましたが、14節の言葉には含みがあるのではないでしょうか。

「今や、あなたの王国は立たない」が、「主があなたに命じられた事を守る」ならば、「主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる」のです。

独断で行動してしまっても、待てずに動いてしまっても、悔い改めるならば、主の命じられた事を守るならば、再び用いられ、任務を与えて下さるのではないでしょうか。

主イエス様を否んだペテロも、主イエス様を迫害したパウロも、失敗、即、滅びではなく、回復のチャンスがあり、更に大きく用いられる道があるのです。

しかし、悔い改める事をせず、言い訳に終始するサウルは、自らチャンスを捨ててしまったのです。

愚かな事をした・・・。誰も、率先して愚かな事をしません。止むにやまれず、切羽詰まって、僭越と思いつつ、愚かな選択をしてしまう者なのですが、その代償は、想像以上に大きく、取り返しの付かない事態を招き寄せてしまうのです。

13:15サムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギブアへ上って行った。サウルが彼とともにいた兵を数えると、おおよそ六百人であった。

13:16 サウルと、息子ヨナタン、および彼らとともにいた兵は、ベニヤミンのゲバにとどまっていた。一方、ペリシテ人はミクマスに陣を敷いていた。

13:17 ペリシテ人の陣営から、三つの組に分かれて略奪隊が出て来た。一つの組はオフラの道を進んでシュアルの地に向かい、

13:18 一つの組はベテ・ホロンの道を進み、一つの組は荒野の方、ツェボイムの谷を見下ろす国境の道を進んだ。

当初2000人であったサウル軍ですが、今ではたったの600人にまで減少してしまいました。一方のペリシテ軍は最新の軍備を整え、三方に分かれて進軍して来ました。正面から、左右から。対するサウル軍の武器はアモン人から奪った剣や槍であり、手入れもしてなかったようです。

13:19 さて、イスラエルの地には、どこにも鍛冶屋を見つけることができなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけない、とペリシテ人が言っていたからであった。

13:20 イスラエルはみな、鋤や、鍬、斧、鎌を研ぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。

13:21 鋤や、鍬、三又の矛、斧、突き棒を直すのに、料金は一ピムであった。

13:22 戦いの日に、サウルやヨナタンと一緒にいた兵のうちだれの手にも、剣や槍はなかった。ただサウルと息子ヨナタンだけが持っていた。

13:23 ペリシテ人の先陣はミクマスの渡りに出た。

21節の1ピムとは3分の2シェケルであり、凡そ銀7.7gです。現代の銀の価値と単純に、簡単に比較出来ませんが、4分の1シェケルが凡そ1日の賃金に相当しますので、1ピムは概算2.7日分の賃金に相当する訳です。べらぼうな金額ですが、それ故に、アモン人から戦利品として奪った剣や槍も手入れをする事も出来ずに放置され、使い物にはならなかったのでしょう。

錆び付き、鈍(なまく)らになった武器では充分戦う事が出来ません。

手入れの行き届いた武器はサウルとヨナタンだけであったと言う記述は、サウル軍の脆弱さを象徴し、更に、戦いは武器の優劣、兵力の大小にあるのではなく、唯一真の神様の臨在にある事を教える14章への橋渡しとなっているのです。

【適応】待つ事が苦手なのはサウルだけの特質ではありません。

私も待つのは、待たされるのは好きではありません。

時間通り、約束通りに行なうのが、社会生活、経済活動にとって重要である事に異論はないと思いますが、この時間を守り、約束を守るというのは、なかなか難しい事です。しかし、難しいからと言っていい加減でも良い、少しくらいは大目に見てよ、変えたって良いじゃないか…とはなりません。遅れる事も、先走る事も極力避けなければなりませんし、慎まなければなりません。

特に、期限が明確に示されている、今日のテキストの様な場合には尚更です。

サウルはサムエルから七日間待つように言われましたが、その約束の期間が満了するまでは、どのような理由があろうと、状況に変化が起ころうと、言葉通りに待つしかないのです。じっと待つ事は、サムエルへの信頼なくしては出来る事ではなく、更には、サムエルを遣わしたもう唯一真の神様への信仰なくしては出来ない事なのです。ですから、サウルがサムエルの到着を待つ事が出来なかったのは、サムエルへの信頼の欠如であり、至っては唯一真の神様への信仰の欠如を如実に物語っている姿なのです。サウルへの命令のように、唯一真の神様は期限を明確に示して、待つ事を命じられる事もありますが、明確な期限をお示しにならないで、待つ事を要求される事もあります。どちらにしても危急の状態の中で待つ事には忍耐が必要ですが、この忍耐は希望につながる忍耐なのです。

ローマ53節から5節、2017304ページ、第三版296ページ、「5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。

有名な聖書箇所ですから、知っておられる方も多い事でしょう。

唯一真の神様は愛する者に患難辛苦を与えます。患いの中で、苦しみの中で、緊迫の中で、不安の中で、迫り来る脅威の中で、待つ事を命じられる事があります。

その時、待ち続けた者だけが、唯一真の神様の真実さを見る事が出来るのであり、唯一真の神様の祝福を味わう事が出来るのです。

とは言っても、私たちの忍耐は弱く、サウルの失敗は又、私たちの姿でもありますが、打ちひしがれ、絶望する必要はありません。

御子イエス様が私たちの身代りになって忍耐して下さり、忍耐した者の受ける祝福を私たちに与えて下さるからです。

ここに居られる皆様が、御子イエス様を信頼して、御子イエス様と共に忍耐し待ち続け、唯一真の神様の祝福を頂き、想像を遥に越える恵みの中に憩われる事を願ってやみません。

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                                   2020-9-13礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一310節~15

説教題:「各人の働きの真価

【導入】

 私たちは「神からの霊」、「御霊」を受けたので、霊的な幼子、「肉に属する人、キリストにある幼子」の状態に留まっていないで、霊的な成人を目指す事が期待されています。

しかし、何の助けもなく、導く人もいなければ、霊的な幼子、「肉に属する人、キリストにある幼子」の状態に留まり続けるのは当然です。

霊的な幼子、「肉に属する人、キリストにある幼子」にとって、助け人、導く人の存在は、非常に重要、且つ、必要絶対条件と言えるでしょう。

パウロは、誰もが知っている農業を喩えに、種を蒔き、或いは苗を植え、そして、水を撒く働き人などの必要性と重要性を認めつつも、比較にならないのが、成長させてくださる唯一真の神様である事を力説し、唯一真の神様を蔑ろにして、働き人を持てはやす、コリント教会の間違い、愚かさに警鐘を鳴らし、話を進めて来ましたが、ここから、喩えを建築に切り替え、土台と建物の関係を喩えに、建物を建てる人についての評価について話を進めます。

この、建物を建てる人とは、基本的には、教職者を示唆するとの見解が主流であり、

パウロは、コリント教会で、指導の任に当たっている教職者を念頭に話を進めますが、この手紙は、信徒が読む事も想定していますので、信徒へのお勧めとして読むのが、より有益な読み方と言えるでしょう。

【本論】

新改訳2017版 3:10私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。

パウロの「自分に与えられた神の恵み」についてですが、広く、一般的な意味としてではなく、自身の使徒職に、直接関係した事として、新しい場所で宣べ伝える事と、異邦人に対する使徒に召された事の意味として、理解していました。

先ず、新しい場所で、宣べ伝える事についてですが、ローマ人への手紙1519節、20節、2017322ページ、第三版313ページ、「15:19 また、しるしと不思議を行なう力と、神の御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。

15:20 このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです」。

特定の土地に腰を下ろし、留まり続ける、継続的な働きも非常に有益な働きですが、パウロは、各地を巡回して回る断続的な働きを、後任に委ねる短期的な働きを使命と心得ていたのです。

それでも、各地に建てた教会、信徒の事を常に考え、頻繁に手紙を書き、問題に対する指示や指導を与え、安否を確認する事を怠らずにいました。

加えて、異邦人に対する使徒に召された事については、ガラテヤ人への手紙、28節、9節、2017376ページ、第三版365ページ、「2:8 ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。

2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。それは、私たちが異邦人のところに行き、彼らが割礼を受けている人々のところに行くためでした」と、記されている通りです。

唯一真の神様は誠実であり、憐れみ深く、恵み深く、ユダヤ人と異邦人の差別は全くなく、全ての人間を贖いのご計画、救いのご計画に招き入れてくださっています。

ユダヤ人への福音伝道の働きと、異邦人への福音伝道の働きと、どちらの働きが優れているとか、優先させるべきか、とかは一切なく、福音宣教者同士の、お互いの合意と了解の上で、適材適所、同時進行で、福音宣教は進められて行くのです。

異邦人への福音宣教者とされたパウロは、「賢い建築家のように土台を据えました」が、コリント教会のキリスト者の指導を委ねられた教職者が、その土台の上に「家を建てるのです」。

教職者一人一人は、どのような「家を建てる」のかに十分に注意する必要があり、その働きが問われます。

同じように見えても、日々、刻々と状況は変わり、一人一人、また、案件毎に適切な対応があり、一人一人に、また案件毎の対応が求められます。

漫然と、或いは、同じ事の繰り返しであってはなりません。

教会形成、信徒教育に於いて、唯一真の神様を、絶対的な中心にしなければならず、唯一真の神様のみを原動力としなければなりません。

パウロは、教職者は、指導者は、唯一真の神様に全く従属する者である事を、はっきり示しますが、その背景には、コリント教会の一部の教職者と指導者が、教会に混乱をもたらし、その影響を受ける人々が、混乱に輪を掛けていたからです。

その混乱の元は、パウロ派の教職者たち、アポロ派の教職者たち、ケファ派の教職者たちであり、彼らは、特定の人間を贔屓(ひいき)し、担ぎ出し、持ち上げ、派閥を作り、何の益ももたらさない贔屓(ひいき)争いに明け暮れていました。

教職者の本義は、唯一真の神様の御旨を伝える事、そして、信徒教育です。

しかし、その不変であるはずの、唯一真の神様の御旨が歪められていたならば、信徒は唯一真の神様の御旨に適う形では建て上げられません。

3:11だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

パウロが据えた土台は、「イエス・キリスト」であり、パウロが据えた土台以外に、何かを土台とする事も、パウロが据えた土台に、何かを付け加える事も、一部であっても取り去る事も、取り替える事も、一切、全く許されません。

教職者は、土台に対して、最大の敬意を払わなければならず、考えられる限りの注意を払わなければならないのです。

御子キリスト・イエス様が、教会の唯一の土台であると云う意味は、御子キリスト・イエス様こそ、十字架の死と、復活を通して、教会の義と、聖めと、贖いになられたのであり、教会を支えているのであり、他の一切の物に頼らない、必要としない、と云う事です。

御子キリスト・イエス様は、信仰の創始者であり、信仰の対象であり、信仰の継承者、紹介者、仲介者ではありません。

御子キリスト・イエス様は、歴史に実在した存在であり、人格的存在であり、空想の産物では、異次元の存在ではありません。

しかも、聖霊の導きにより、福音宣教と信仰告白を用いて、教会の主である事を明確に示し、今も働いておられ、教会を支配しておられるお方なのです。

イエス・キリスト」を土台とする事は、基本中の基本です。

パウロ派の教職者たちも、アポロ派の教職者たちも、ケファ派の教職者たち、コリント教会の教職者たちは、「イエス・キリスト」を土台としてはいました。

パウロ派の教職者たち、アポロ派の教職者たち、ケファ派の教職者たちなどは、土台まで、自分たちの都合の良い物に変えていた訳ではありません。

しかし、「イエス・キリスト」を土台に据える事は、共通していても、建てる家には、教職者の考え、個性、特徴が現れます。

土台は一つでも、土台の上に、如何なる素材、材料を用いて建てるかは、別の課題、大きな問題です。

3:12だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、

3:13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

パウロたちの活躍した時代でなくても、主要、重要、不可欠な建材は、石材、レンガ、木材、草、藁、そして、建材同士を繋ぐ漆喰、釘などであり、「金、銀、宝石」は装飾材料であり、なくてはならないものではありません。

庶民の家に、建物に、「金、銀、宝石」が使われる事は皆無でしょう。

しかし、王様の家、建物は、「金、銀」が貼られ、「宝石」がちりばめられ、権威と富を象徴的に誇示させる建材として用いられた事でしょが、「金、銀、宝石」だけで家を、建物を建てるなど、あり得ない話です。

どんな素材、材料を使うにしても、実用性、居住性、耐久性などが問われます。

同じ素材でも、品質には大きな違いがありましょう。

材木を例にして、杉と檜では、火に対する耐久性には、大きな相違がありましょう。

石材を例にして、御影石と花崗岩とでは、強度に大きな相違がありましょう。

しかし、ここで問うているのは実用性、居住性、耐久性などの問題ではありません。

問題は、御子キリスト・イエス様に相応しいか、否か、です。

ですから、ここでの「金、銀、宝石」は、御子キリスト・イエス様に相応しい素材、材料としての比喩的表現であり、「木、草、藁」は、御子キリスト・イエス様に相応しくない素材、材料としての比喩的表現です。

どんな建材を使っても、適材適所であれば、家としての機能を十分果せるでしょう。

機能に大きな差がないならば、問題はありませんが、「その日」に、御子キリスト・イエス様に相応しいか、否かが明確にされるのです。

その日」とは、「終末」の事であり、「」とは、「裁き」の事です。

」の目的は、家を、建てられた建物を、試験する事です。

」は、素材、材料を徹底的に試験します。

御子キリスト・イエス様に相応しい「」、建物ならば、終末の裁きに耐え、残るでしょうが、御子キリスト・イエス様に相応しくない「」、建物ならば、終末の裁きに耐え得ず、焼けてしまいます。

唯一真の神様の建物である教会、信徒の群れが、御子キリスト・イエス様に相応しく建てられたなら、終末の裁きに耐え、残るでしょうが、御子キリスト・イエス様に相応しく建てられていないなら、終末の裁きに耐え得ず、焼けてしまい、燃え尽きてしまいます。

パウロは、コリント教会の教職者の教会形成、信徒教育の働きを問うているのです。

パウロの主張は、教職者と教会、信徒は、唯一真の神様の前に存在するものであり、教職者の働きが、唯一真の神様の前に残る物か、否かを問うているのです。

コリント教会の教職者は、この世からの評価、教会での評価、キリスト教界で、高い評価を得る事に腐心し、下される評価に一喜一憂した事でしょうが、そんなものには、何の意味もないのです。

問題は、「その日」の「」が、教職者の働きを試験すると云う事です。

現代でも、教勢の伸びを気にする教職者がおり、立派な教会堂を建てる事を目標とする教職者がおり、教会の働きに役立つ信徒を育成する事に重きを置く教職者がいるのは、残念な事です。

3:14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

教職者の働きが、「その日」の「」に耐えたならば、即ち、忠実な、良い働き人であると評価されたならば、唯一真の神様から「報いを受けます」。

その「報い」が、どのような報いなのか、具体的には示されていませんが、15節で、不忠実な働き人でも、問題のある働き人でも「助かる」、即ち、命を失う事はないのですから、永遠の命、そのものの事でない事は明らかでしょう。

3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。

一方、教職者の働きが、「その日」の「」に耐えられなければ、大きな「損害を受け」てしまい、14節に記されている「報い」は受けられませんが、焼け落ちつつある家、建物から「火の中をくぐるようにして助かります」。

木、草、藁」燃え易い素材、建材であり、火の回りは、想像以上に速いそうです。

あっという間に、「木、草、藁」で建てられた家、建物は燃え崩れてしまいますが、辛うじて「助かります」。

この「助かります」が、命に関係している事、しかも、永遠の命に関する事である事は、文脈から明らかでしょう。

御子キリスト・イエス様を土台とする限り、唯一真の神様の御旨から外れてしまった働きでも、報いは受けられませんが、救いは与えられるのです。

パウロのような、アポロのような、ケファのような教職者ばかりではありません。

コリント教会の教職者も教職者であり、教職者も罪人の一人であり、皆が大なり小なり問題を抱えており、問題を起こしてしまう教職者がおりますが、「イエス・キリスト」を土台としている教職者は、「助かります」。

【適応】

本日のテキスト箇所、10節から15節で、特に注意すべき点は、「」の試練が、1、人の永遠に対してではなく、建てた家、建物に対してである事です。

これは、教職者に於いては、どのような教会形成、信徒教育を為して来たか、です。

教勢が伸びている教会は、将来性があり、活気があるように見えましょうが、烏合の衆であるなら、何の力にもならず、役にも立たず、騒がしいだけでしょう。

立派な教会堂を建てても、信徒がいなくては、閑古鳥が鳴いているようなら、ウドの大木であり、これも何の役にも立たず、場所塞ぎでしかないでしょう。

教会の活動や経営に役立つ信徒を育成しても、教会は、この世の経済効率や損益、費用対効果の原則で運営している訳ではありません。

経営に関する知識は有益な面を発揮する事もありましょうが、この世の知識、知恵で伝道は進められず、教会は活動出来ません。

教会に於いて、節約、倹約は必ずしも美徳ではなく、使い回し、再利用も奨励出来る事ではありません。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に相応しい道具、設備、献げ物でしょうか。

時に、無駄に見える、勿体ないと思う出費になる事もあるでしょうが、唯一真の神様の恵みや祝福を、見える形で現し、示す工夫が必要なのです。

信徒に於いては、どのような信仰生活、教会生活、奉仕生活、信仰継承を為して来たか、でしょう。

自身の信仰の確立は、最重要、最優先の課題ですが、教職者の働きに准ずると共に、教会のために、教職者のために、兄弟姉妹のために、献げた時間、金品、思いは、どれ程だったのかは問われましょう。

2、「」の試練の時期は、現在ではなく、「終末」、世の終りの日に訪れるのであり、切迫感は薄く、緊急性を感じられないので、先延ばしにし易く、先送りにしても、何の問題も起こらず、逆に、前倒しに対応しても、積極的に取り組んでも、何の変化も起こらず、やる気を殺ぐかも知れませんが、将来を想定した生き方は、決して無駄にはなりません。

否、「」、「終末」、世の終りの日は、明日、否、この瞬間に訪れるかも知れないのですから、臍(ほぞ)を噛む事にならないためにも、報いを受け損なわないためにも、出来得る限りの素材、建材で、御子キリスト・イエス様に相応しい「」、建物を建てておくべきなのです。

3、「」の試練の中、間違いなく「助かります」が、助かるのは、為した業、働きによるのではなく、唯一真の神様の、一方的な恵みである、と云う事であり、怠惰、適当に生きても、勤勉に生きても、消極的に生きても、積極的に生きても、役に立たなくても、貢献出来ても、唯一真の神様の恵み、憐れみで、永遠の命は確実に受け取れます。

しかし、報いを受けられない事は、しっかり認識しておかなければなりません。

パウロは、これらを明らかに示したのです。

どんな報いが用意されているのかを楽しみ、期待し、教職者、信徒、其々が御子キリスト・イエス様に相応しい素材、建材での「」建物造りに取り組みたいものです。

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                                  2020-9-6礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一35節~9

説教題:「宣教者(牧師)の役割は何」

【導入】

私たちは「神からの霊」、「御霊」を受けたので、霊的な幼子の状態に留まっていないで、霊的な成人を目指す事が期待されています。

霊的な幼子、「肉に属する人、キリストにある幼子」の特徴や、霊的な成人、「御霊に満たされた人」の特徴は、前回学んだ通りです。

霊的な幼子も、霊的な成人も、外見は同じであり、普段は殆ど差がありません。

どちらも、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、を兼ね備えています。

非常に謙遜であり、温厚であり、いろいろな面で模範的なのですが、しかし、「肉に属する人、キリストにある幼子」は、問題が起こると、この世の人に戻ってしまい、キリスト者らしい首尾一貫性がなくなってしまい、右往左往するのです。

喜び、信仰は何処へやら、怯え、慄き、不安を撒き散らし、周囲に対する配慮に欠け、自制出来ずに騒ぎ立て、人を巻き込みます。

感情的、感傷的になり、冷静ではいられなくなってしまいます。

肉に属する人、キリストにある幼子」は、パニックに陥りやすく、パニックの中で、即断即決するので、益々深みに、パニックに嵌まり込んでしまうのです。

一方、霊的な成人、「御霊に満たされている人」は、唯一真の神様に信頼しているので、直ぐに落ち着きを取り戻し、冷静に対処、対応出来るでしょう。

御霊」の働きで、不安や迷いを払拭するのです。

人々の間の混乱や不安を収め、平静や平常を取り戻す、必要不可欠な存在となります。

パウロは全てのキリスト者が、霊的に成長する事を願って、筆を進めて来ましたが、今日は、パウロは、分裂や分派の根底にある、人を尊重、重要視し過ぎる傾向、福音宣教者を尊敬しすぎる傾向、福音宣教者に対する、過度な入れ込みを正すために、福音宣教者、働き人の役割についての誤解や思い込みを正すために、自身とアポロを例に挙げて、語ります。

【本論】

新改訳2017版 3:5 アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。

アポロ」も「パウロ」も、そして「ケファ」も、偉大な福音宣教者の筆頭に挙げられるような人物ですが、唯一真の神様の僕の一人、福音宣教に従事する者の一人でしかありません。

福音宣教の働きは、尊く、聖なる、特別な働きですが、高潔な人物、高徳な人物、清廉な人物、潔白な人物でなければ就く事の出来ない、特殊な働きではありません。

現に、パウロは、御子キリスト・イエス様の弟子たちを迫害し、捕縛し、殺害に加担し、財産を奪ったのであり、ケファは弟子の筆頭を誇り、御子キリスト・イエス様に殉ずると豪語しながら、呪いを掛けて関係を否定したのであり、現代でも、暴力団、ヤクザ、犯罪者から福音宣教者に転身した者も、少なくはないのです。

即ち、宣教の働きは、世の中の働きと、比較出来ない、特殊な働きではなのです。

宣教の働きは、誰にでも就く事の出来る働きであり、何時でも召され得る働きです。

そこで、パウロは、福音宣教に従事する、唯一真の神様の僕の、本来の立場と、役割が如何なるものかを説きます。

奉仕者」と訳されているギリシャ語はdiakonoiですが、元来は「食卓で仕える給仕人」を意味する言葉であり、そこから「仕える者、執事の務めをする者」一般を意味する言葉として使われていました。

福音宣教者は、人々の救いのために、信仰の確立のために、霊的な成人になるために、人々に仕える奉仕者、僕に過ぎないのです。

この働きの主権者、主体は、唯一真の神様であり、「奉仕者」の働きの目的は、唯一真の神様の御旨のみであり、「奉仕者」の働きの原動力は、唯一真の神様からのみ頂くのです。

それ故に、「奉仕者」は、決して自らを誇る事は出来ず、表立つ事も、目立つ事も、推し立てられる事も、担ぎ挙げられる事も、避けなければならないのです。

コリント教会の人々が、このような立場に生き、役割に仕える福音宣教者を、其々の思惑で推し立てて、互いに対立し、其々のグループを誇る事など、全くの誤解の産物、勘違い、思い違いも甚だしい事なのです。

3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

パウロは、誰もが良く知っている、植物の生育を喩えに、話を展開します。

ここでは、「植え」る事と「水を注ぐ」事の二点に限定していますが、農業を本職としなくても、改めて説明、解説するまでもなく、植物の生育過程が、種、或いは苗を植え、水を注ぎ、肥料を与え、間引いたり、雑草を抜いたりなどの手入れを必要とする事、その作業のタイミングが、収穫の量と品質に大きく左右する事は、誰もが知っている事でしょう。

植え」る働きは、一回限りであり、「水を注ぐ」働きを含む、以降の働きは、継続的な働きですが、ここでパウロは、「植え」る事と「水を注ぐ」事の二点を用いて、成長の概念を語っているのであり、パウロは、開拓伝道期の働き人と発展拡張期の働き人とを、「植え」る者と「水を注ぐ」者になぞらえて語ります。

植え」る働きと「水を注ぐ」などの手入れをする働きがあれば、種、或いは苗は、自動的に成長する訳では、過不足無く手入れをすれば、必ず成長する訳ではありません。

天候など、人間には変えようのない要素が、植物の成長を左右します。霊的な事柄についても、御ことばを語る人が遣わされ、御ことばの理解、適応を助ける人が遣わされると、福音宣教が根付き、人々が救われる訳ではありません。

御ことばを語る人が遣わされ、御ことばの理解、適応を助ける人が遣わされても、心の奥深くには、人間は手の出しようがなく、力ずくで、無理やり、福音宣教を受け入れさせる事は出来ないのです。

決め手は、唯一真の神様が働かれて、人は御霊を受け入れ、信仰を持ち、救われるのです。

唯一真の神様は、何ら人の助けを必要としないで、ご自信の目的を果す事がお出来になりますが、しかし、唯一真の神様が選ばれた方法は、121節に記されている通りであり、「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」

唯一真の神様は、「植え」る働きと「水を注ぐ」などの手入れをする働きを必要とし、両者の働きは、競合するものではなく、唯一真の神様の主権によって、摂理によって、補完的に働き、福音宣教の働きが、唯一真の神様のご計画、御旨に沿う形で、進められて行くのです。

3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

植え」る者と「水を注ぐ」者は、決して中心人物ではなく、唯一真の神様が用いられる僕に過ぎず、道具に過ぎません。

アポロ」、「パウロ」、そして「ケファ」などの福音宣教者に注目し、誰が一番かを争い、誰に付くかを競い合うコリント教会の人々に、注目すべきお方は唯一真の神様であり、全ての賛美と感謝を献げるべきであると、宣言するのです。

大切なのは、「植え」る者や「水を注ぐ」者ではなく、唯一真の神様であり、これを間違えてはならないのです。

ここまで、唯一真の神様の僕の、根本的な関係が明らかにされました。

続いて、パウロは、唯一真の神様の僕同士の、完全な一致と、協力について、語ります。

3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。

一つとなって働」く事は、本当に大切です。

しかし、ここで重要なのは、其々に、働きが違うのであり、其々に、使命と賜物とが与えられ、其々に、その働きに取り組むのであり、全体として、調和が取れる事が重要なのであり、パウロはそれを強調します。

唯一真の神様は、混乱の神ではなく、調和の神であり、平和の神です。

誰かが苦しんで、誰かが楽をするのではなく、共に苦しみ、共に喜びます。

これは、決して、同時に、一斉に、の意味ではありません。

唯一真の神様から与えられた使命と賜物に、其々に取り組むのです。

全員で一斉に種を蒔き、苗を植えたなら、誰が水を撒くのでしょう。

全員で一斉に水を撒いたなら、根腐れを起こしてしまうでしょうし、

一度しか水を撒かなかったならば、植物は枯れてしまいましょう。

植物の生育に適合した働き、お世話のずれと、繰り返しが、豊かな収穫に繋がるのであり、唯一真の神様は、全体を管理されているのです。

福音宣教の働きの全体は、唯一真の神様が管理されているのであり、唯一真の神様は、福音宣教者に務めと報酬を与えてくださるのであり、「それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受ける」事になるのです。

3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

福音宣教の働きが、唯一真の神様中心である事が、ここでも再度確認されます。

それ程に重要だ、と云う事です。

アポロ」、「パウロ」、そして「ケファ」などの福音宣教者は、共に唯一真の神様に仕える僕であり、道具です。

そして、重要なのは、唯一真の神様に仕える、一人の福音宣教者である、と云う事と、唯一真の神様に、共に仕える福音宣教者の群れの一人である、と云う事です。

唯一真の神様との一対一性と、唯一真の神様との一対複数、多数、の両立が大事、大切です。

福音宣教の働きは、一匹狼的働きと並行して、集団で取り組む働きなのです。

個々の教会は、其々に遣わされた福音宣教者が、担当しますが、教団として、宣教区として、複数の福音宣教者が協力し、対応します。

福音宣教者たちの、多様性と統一性は、個々の教会員の使命、賜物の中にも現れ、また、交わりの中にも現われます。

教会の計画において、支出を控え、財政再建を図るべきだ、否、赤字が増えても、それでも設備拡充を図るべきだ、皆の足並みは一つに揃えるべきだから、一つの案に絞るべきだ、否、複数案を認めるべきだ、ベストなA案にすべきだ、否、実現可能なB案にすべきだ、云々。

しかし、「同労者」、即ち、福音宣教者も、「」、即ち、教会も、「建物」、即ち、信徒も、「神の」、即ち、唯一真の神様の所有物であり、先ず、徹底的に唯一真の神様中心の姿勢、生き様を選ばなければならないのです。

唯一真の神様中心でないからこそ、福音宣教者の間に、何らかの理由を付けて差別を付け、優劣を付け、一方を他方より引き上げたり、引き下げたりするのです。

人間中心だからこそ、教会の中に、信徒の中に、分裂、分派、争いが生じるのであり、如何にも、信仰深く、聖書を引用して見せ、適応を滔々(とうとう)と語りますが、その実は、聖書の私的解釈であり、我田引水的適応なのです。

神のために働く」思いの共有こそ重要であり、調和、協力、一致、の要諦であり、多様性と統一性を、麗しい形で活かす秘訣なのです。

【適応】

福音宣教者、牧師の働きは、徹底的に唯一真の神様中心でなければならないのです。

その明確な宣教姿勢が、民数記2312節に記されています。

2017版は旧約聖書283ページですが、「主が私の口に置かれること、それを忠実に語ってはいけないのですか」、と少しソフトな言い回しに訳していますが、第三版は旧約聖書275ページ、「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません」、と明確に、断定的に訳しています。

この姿勢は、何より大切です。

唯一真の神様に対する忠実度については、使徒の働き419節、2017版は新約聖書283ページ、第三版は新約聖書275ページが参考になるでしょう。

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください」。

使徒の働き529節では次のように明確に断定しています。2017版は新約聖書283ページ、第三版は新約聖書275ページ、「人に従うより、神に従うべきです」。

支配者に媚びず、忖度を働かせず、身の安全を図らず、聴衆、会衆に媚びず、評判や評価を度外視し、厳しい事でも、語りにくい事でも、殺されるような目に遭っても、「神に従うべきで」あり、「忠実に語らなければなりません」。

種を蒔く者が種を蒔かず、苗を植える者が苗を植えず、水を撒く者が水を撒かず、

肥料を与える者が肥料を与えず、間引く者が間引かず、雑草を抜く者が雑草を抜かなければ、主人から厳しい叱責を受けるでしょう。

農夫が、種が芽を出し、苗が成長するように、お世話をするように、宣教者、牧師は、御言葉の種を蒔き続けなければならず、教会と信徒が、唯一真の神様の御旨に沿った成長のためのお世話をしなければなりません。

それが、宣教者、牧師の務めです。

その働きを疎かにするのは、主人である唯一真の神様を悲しませるだけです。

種蒔き、苗植え、植物へのお世話を等閑(なおざり)にして、農機具の手入ればかりをしていたり、農道の整備ばかりをしていたならば、関連してはいる働きですが、それでは、主人を悲しませるだけでしょう。

教会の、建物や設備の、管理や点検に時間を費やし、信徒の、この世的な関わりや折衝に関わっていて、手間暇時間を掛けていて、例えばルカの福音書1213節、2017版は新約聖書141ページ、第三版は新約聖書139ページ、「群衆の中のひとりがイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」」で良いのでしょうか。

これらも、大切な働きではあるのですが、唯一真の神様の、福音宣教者、牧師に期待する働きではありません。

説教が等閑(なおざり)になってしまったならば、信徒の霊的な相談事、悩みに、適切に対応出来ないならば、唯一真の神様を悲しませる結果になりはしないでしょうか。

使徒の働き61節から4節まで。

2017版は新約聖書243ページ、第三版は新約聖書237ページ、「6:1 そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。

6:2 そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。

6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、

6:4 私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します」。

教会には、色々な職業の方々が、専門家と呼ばれる方々が、豊富な経験を積んだ方々がおられます。

この世の事は、彼らに引き受けていただき、お任せし、また、自分たちで出来る事は、自分たちで対応し、福音宣教者、牧師は、もっぱら、祈りと、御ことばを宣べ伝える事に、信徒の霊的必要に応じる事に専念しなければならないのです。

また、福音宣教者、牧師はそのような体制でいなければならないのです。

それが、唯一真の神様の、福音宣教者、牧師に委ねた働き、期待する働きであり、唯一真の神様をお喜ばせする事です。

福音宣教者、牧師が、唯一真の神様から委ねられた役割に専念しているでしょうか。

ここにおられる皆さんは、何でも福音宣教者、牧師に頼る、霊的幼子でしょうか。

それとも、福音宣教者、牧師が、祈りと、御ことばを宣べ伝え、信徒の霊的必要に応じる事に専念するために協力する、霊的成人でしょうか。

福音宣教者、牧師、信徒が一丸となって、唯一真の神様の御旨を行いたいものです。

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