2021-1-3礼拝
聖書個所 サムエル記第一15章1節~35節
説教題 「従うことは生贄にまさる」
【導入】
唯一真の神様によって立てられたサウルですが、サウルは、いざと言う所では唯一真の神様に頼ろう、従おうとはしませんでした。
一見、信仰的に見える面もあるようですが、それは非常に人間的な動機であり、この世の常識に支配されている様子が伺えます。
その事の一端が14章52節に明確に現されています。
即ち「サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その人たちをみな、召しかかえることにしていた」のです。
サウルは自分の持っていないものを、或いは欠けたものを人に求めたのです。
勇気のある者、力のある者を召し抱えるのは世の常でしょう。
これは自己分析の結果であり、欠点や短所を知り、その欠点や短所を補う行動であり、この世的には褒められる行動といえるでしょうが、唯一真の神様に寄り頼む者を、信仰者を召し抱えたのではないのです。
この世的に見て勇気のある者や力のある者を召し抱えたのです。
しかし、これらの勇気や力は果して本当に必要なのでしょうか。
イスラエルは唯一真の神様の選びの民であり、唯一真の神様が助けて下さると約束して下さっているのです。
その唯一真の神様の助けを頂くのに必要なのは信仰だけであり、それに何ら人間の勇気とか力とか献げ物は必要ありません。
困難であっても、危険であっても、唯一真の神様の助けの妨げとなるものはありません。
唯一真の神様の命令に従えば良いのであり、唯一真の神様に信頼すれば良いのです。
唯一真の神様はこれを喜んで下さり、助けて下さるのです。
事実、唯一真の神様は唯一真の神様だけを信頼するヨナタンと従者の、たった二人を用いて「海辺の砂のように」と表現されるペリシテ軍に大混乱、同士討ちを起させたのであり、ろくな武器も持たないのに、敵の戦車や騎兵を敗走させたのです。
唯一真の神様の助けを得るのに必要なのは、唯一真の神様に信頼することだけ、唯一真の神様の命令に徹頭徹尾従うことだけが重要である事を学んだはずなのに、しかし、サウルは唯一真の神様に対する間違った理解から愚かな行動を取ってしまうのです。
【本論】
15:1 サムエルはサウルに言った。「【主】は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、【主】の言われることを聞きなさい。
サウルの持つ弱さをサムエルはその慧眼で見抜いていたようです。
サウルを立ててイスラエルの王としたのは他でもない主なる唯一真の神様である事をサムエルはサウルに念を押します。
勿論、イスラエルに王様が立てられたのはイスラエルの民の強い願いが根底にありますが、住民投票の結果でもなければ、選抜戦で勝ち抜いた結果、イスラエルの王様になった訳でもありません。
あくまで唯一真の神様の選びであり、召命ですが、最初からイスラエルの民の全てがサウルを王様と認めた訳ではありません。
反対する者もあり、あからさまに異を唱えて離れていく者もいたのです。
それらの反対者がサウルを王様と認めるには、幾度かの戦争に勝利する必要があったのでした。
実力がなければ、民が同意し付いて来てくれなければ、王様としてやっては行けないと経験したサウルは、唯一真の神様の言葉よりも民の反応に敏感であり、民の言葉をより重要視していたのです。
しかし、天地宇宙を創造された唯一真の神様がサムエルを遣わしてサウルに油を注ぎイスラエルの王様として下さったのです。
民が選んで立てられた王様ならば民の意見に従う義務がありましょうが、唯一真の神様によって選ばれ立てられた王様ですから選び立てて下さったお方に聞き従うのは当然です。
サウルの民に対する弱さを見抜いたサムエルは先ず「主の言われることを聞きなさい」と、誰に聞き従うべきかを確認し、その上で唯一真の神様からの命令を伝達するのです。
15:2 万軍の【主】はこう言われる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中で、アマレクがイスラエルに対して行ったことを覚えている。
15:3 今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい。』」
このアマレクとの確執は出エジプト記17章8節に記されています。2017版は130ページ、第三版は126ページ。
このエピソードはサムエルの活躍した時代を遡る事、200年以上前の出来事です。
アマレクはヤコブの兄エサウの子孫であり、エサウの血を引いて狩猟民族として、ある時には略奪によって生計を立てていたのです。
エサウの子孫であり、イスラエル民族と縁戚関係にありますが、しかし、縁戚であるから常に助けとなる、力となってくれる訳ではありません。
返って縁戚であるが故に、骨肉相食み合う関係になることは珍しいことではありません。
エサウのヤコブに対する憎しみは薄らいだとしても消える事はなく、また、エジプトからやって来た200万を越える民を脅威と感じたのでしょう。
そこでアマレク人は、エジプトをやっとの思いで脱出して来て、慣れない旅路に疲れている同胞に対して、剣を持って迎え撃って出たのです。
その根底には、エサウの神理解、唯一真の神様の祝福、長子の権利に対する侮りの思いが流れていましょう。
アブラハム、イサクに続く信仰継承の重みなど、エサウにとっては何ほどのものではなく、一杯の吸い物と交換してしまうほどの価値しか認めなかったのです。
私を導くのは、困難を切り開くのは私の力だ、との思いがあったのは、創世記36章からも明らかであり、唯一真の神様の約束の地カナンにこそ祝福があると信じて困難を乗り越えて戻って来たヤコブに対し、エサウは自分からカナンを後にして自分で新天地を切り開こうとしたのです。
縁戚にあるとは言っても、苦労して切り開いた自分の土地に余所者が入ってくるのは好ましい事ではありません。
永住は勿論の事、一時の休息の場所すら提供しないとの冷酷な決意を持って同胞を迎え撃ったのです。
それは神の民に対する挑戦であり、神のご計画に対する挑戦です。
唯一真の神様は、唯一真の神様に敵対する民族を、イスラエル王国設立の脅威になる遊牧民族を根絶やしにし、将来への憂いを取り除くことをご計画されたのであり、そのご計画をサウルに委ねられたのです。
15:4 サウルは民を呼び集めた。テライムで彼らを数えると、歩兵が二十万、ユダの兵が一万であった。
15:5 サウルはアマレクの町へ行って、谷で待ち伏せした。
15:6 サウルはケニ人たちに言った。「さあ、アマレク人のもとを離れて下って行きなさい。私があなたがたを彼らと一緒にするといけないから。あなたがたは、イスラエル人がみなエジプトから上って来たとき、親切にしてくれたのです。」ケニ人はアマレク人の中から離れた。
「ケニ」人とは「鍛冶屋」の意味であり、その民族の特徴を現していますが、その名前は士師記1章16節に登場します。2017版は426ページ、第三版は414ページ。
モーセの義兄弟であり、イスラエル民族と友好関係にありました。
遡れば、民数記10章29節、2017版は256ページ、第三版は248ページに記されているモーセの姑、ミデヤン人レウエルの子ホバブの子孫であり、その時からイスラエル民族と友好関係にあり、助けてくれていたのです。
サウルはその恩義を忘れる事なく、ケニ人が巻き添えになることを憂慮し、避難を勧告したのです。
15:7 サウルは、ハビラからエジプトの国境にあるシュルに至るまで、アマレク人を討ち、
15:8 アマレク人の王アガグを生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶した。
略奪を生業とするアマレク人であっても、ペリシテ軍から奪った武具で身を固めた20万以上のサウル軍の敵ではありません。
サウル軍は圧倒的な勝利を得、アマレクの民を聖絶する事が出来たのです。
15:9 サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。
15:10 【主】のことばがサムエルに臨んだ。
15:11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し【主】に向かって叫んだ。
サムエルの叫びは何だったのでしょうか。
聖書はその内容を記していませんので想像するしかありませんが、唯一真の神様のサウルを廃棄する宣言に対する怒りであり、応答の叫びですから、サウルのための執り成しの祈りが含まれていた事は間違いないでしょう。
信仰の足りないサウルであり、従順でないサウルであり、勝手なサウルですが、主よ、あなたが選んだサウルではありませんか。あなたが油を注いだサウルではありませんか。一度や二度の違反で退けられてしまわれるのですか。赦しては下さらないのですか。もう一回、もう一回チャンスを与えて下さっても良いのではないですか。
このような祈りが夜を徹して献げられたのです。
15:12 翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました。」という知らせがあった。
15:13 サムエルはサウルのところに来た。サウルは彼に言った。「あなたが【主】に祝福されますように。私は【主】のことばを守りました。」
サウルは意気揚揚とサムエルを出迎えました。
その顔には唯一真の神様の言葉に、命令に不忠実であった事の片鱗も見る事は出来ません。
サウルに取っては唯一真の神様の命令に完全に従ったのだと言う思いがあったのであり、何ら恥ずべき事も後ろめたさも感じはしなかったのです。
今までは多少の失敗があったかも知れない。
しかし、今回はこの戦いは合格点を取りましたよ、とサムエルに報告したのです。
サウルにとっては100点も90点も80点も同じ合格点であり、唯一真の神様の言葉に従ったとの自負を持って悪びれる事なくサムエルに報告したのです。
「良くやった、良い忠実な僕だ」とのお褒めの言葉を期待したのではないでしょうか。
15:14 サムエルは言った。「では、私の耳に入るこの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」
15:15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。兵たちは、あなたの神、【主】に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。しかし、残りの物は聖絶しました。」
サムエルの叱責の言葉にも、サウルはひるむ事なく弁明を始めます。
私の責任ではない。民が決めた事です。唯一真の神様に献げるためです。事実、そのほかの物は聖絶しました。何処に、何の問題があるのですか。
弁解を続けるサウルを制し、
15:16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、【主】が私に言われたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」
15:17 サムエルは言った。「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。【主】があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。
15:18 【主】はあなたに使命を与えて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』
15:19 なぜ、あなたは【主】の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、【主】の目に悪であることを行ったのですか。」
15:20 サウルはサムエルに答えた。「私は【主】の御声に聞き従い、【主】が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。
15:21 兵たちは、ギルガルであなたの神、【主】にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」
聖絶するなんてもったいない。
上等な羊や牛を唯一真の神様に献げたら、唯一真の神様は喜ばれるに違いない。
唯一真の神様が喜ばれる事をして何が悪い。
こんなロジックで行動を正当化したのです。
しかし、言葉に表現された人の思いが真意を伝えている、表現しているとは限りません。
聖絶は全焼の献げ物であり、文字通り全て100%唯一真の神様に献げる事であり、人の取り分は全くありません。
しかし、聖絶、つまり、全焼のささげ物以外はその大部分が人に与えられる事を、サウルもイスラエルの民も知っているのであり、おこぼれを期待しているのです。
唯一真の神様に献げる、と言う言葉は嘘ではないにしても方便であり、分配を期待している事は疑いの余地がありません。
しかし、表面的にはそんな気持ちをおくびにも出さず、あくまでも唯一真の神様に献げるために取り分けて置いたのだ、生かして置いたのだ、持って来たのだと言い張ります。
日本人は建前と本音を使い分ける、と言われますが、この使い分けはイスラエル人も同じであり、欲望と言う醜い本音を唯一真の神様に献げると言う建前で誤魔化そうとしているのです。
唯一真の神様に献げる、と言われたならば誰も反対できません。
しかし、唯一真の神様に従うと言うのは献げる事が優先するのではなく、本音と建前をどの様に折り合いを付けるかと言う事ではなく、本音はどうであれ、もったいなくても、聖絶しなければならないのであり、選択の余地は人間には全く与えられてはいないのです。
それなのに唯一真の神様に献げるためだと、その行動を正当化するサウルに、
15:22 サムエルは言った。「【主】は、全焼のささげ物やいけにえを、【主】の御声に聞き従うことほどに、喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
15:23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
非常に明快な論理です。
唯一真の神様の言葉が、つまり命令が全てに優先するのであり、人の思いが反映されたり、影響を与える事はなく、唯一真の神様の言葉に従う以上の献げ物も生贄もないのであり、唯一真の神様の命令に従わないのは、唯一真の神様の命令を無視し、まやかしの言葉、占いに寄り頼む行為であり、唯一真の神様に対する反逆行為であり、自分を神の位置に置くことであり、それは偶像礼拝に他ならないと宣言するのです。
唯一真の神様の言葉に従わない者が、唯一真の神様の使命をまっとう出来るはずがありません。
唯一真の神様の使命をまっとう出来ない者が、唯一真の神様の与えられた地位に就いている必要はありません。
唯一真の神様の働きから退けられるのは当然であり、必然です。
15:24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、【主】の命令と、あなたのことばに背いたからです。
サウルの弁明には一つの特徴があります。
「民が私から離れ去って行こうとし」たので、とか「民を恐れて」とかです。
協力者を失う事は痛手でしょう。
協力者の意見を採用しないのは協力者を失うだけではなく、反対者を作る事であり、混乱を招き寄せる事になるでしょう。
人に取り入れば人は協力し助けてくれるでしょうが、その助けは微々たるものであり、唯一真の神様の助けと比較出来るようなものではありませんが、人の助けは目に見えるので、具体的なので、人を惑わし、唯一真の神様から離れさせる力となり得るのです。
しかし、使徒の働き4章19節、2017版は239ページ、第三版は234ページ、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください」であり、使徒の働き5章29節、2017版は242ページ、第三版は236ページ、「人に従うより、神に従うべき」なのです。
唯一真の神様の前に正しいかどうかが決定的な判断基準であり、唯一真の神様に従うのが神の僕たる所以なのです。
サムエルの忠告に少しばかりの呵責を感じたのでしょうが、形だけの罪の告白には何の意味もありません。
15:25 どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が【主】を礼拝することができるように。一緒に帰ってください。」
15:26 サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは【主】のことばを退け、【主】があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」
15:27 サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルが彼の上着の裾をつかんだので、上着は裂けた。
15:28 サムエルは彼に言った。「【主】は、今日、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれた隣人に与えられました。
15:29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」
15:30 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、【主】を礼拝します。」
唯一真の神様によって立てられた王であり、僕であるとの自覚のない者の形式だけの礼拝を唯一真の神様は受け入れては下さいません。
礼拝行為よりも、漠然とした罪の赦しよりも、先ずは明確な罪の告白と真摯な悔い改めの告白が優先するのであり、それでこそ唯一真の神様との関係も回復するのであり、礼拝が成立する事を教えています。
しかし、人を恐れ、人にどう見られているかだけが気になるサウルは、王様としての威厳を保つ事に終始し、偉大な預言者サムエルを従えて凱旋する事しか考えなかったのであり、サムエルの上着を引き裂くまでに縋りついて離れなかったのです。
この上着の裂かれた事にも意味があり、イスラエル王国の王位継承問題が扱われていますが、イスラエルの王様は唯一真の神様が立てられるのであり、人間的に優れた者に引き継がれるのではなく、唯一真の神様に対して従順な者に引き継がれる事を預言しているのです。
サムエルに縋りついて離れないサウルに対して、憐れに思ったサムエルはサウルの願いに応じ、
15:31 サムエルはサウルについて帰り、サウルは【主】を礼拝した。
15:32 サムエルは言った。「アマレクの王アガグを、私のところに連れて来なさい。」アガグは、喜び勇んで彼のもとに着た。アガグは「きっと、死の苦しみが去るだろう」と思ったのであった。
15:33 サムエルは言った。「おまえの剣が、女たちから子を奪ったように、お前の母も、女たちのうちで子を奪われた者となる。」こうしてサムエルは、ギルガルにおい【主】の前で、アガグをずたずたに切った。
15:34 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。
15:35 サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはなかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。【主】も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。
サムエルはサウルがなし得なかったアマレク人アガグの殺害を実行し、それぞれ、自分の生まれ故郷に帰り一応の決着を付けます。
片が付いたとは言っても後味の悪いものであり、サムエルとサウルの別れは断絶であり、唯一真の神様との断絶を象徴しており、サウルは唯一真の神様との交わりを欠いた生活を送る事になるのであり、悪い霊に怯える日々を送る事になってしまうのです。
【適応】
唯一真の神様の命令に従った様に見せ掛け、民の意見、自分の思いを取り入れたサウルですが、唯一真の神様はこの事を悲しまれたのです。
人にも唯一真の神様にも仕える事は出来ません。
そのような行為は結局どちらからも信用を失うでしょう。
唯一真の神様の言葉に従ったために自分に不利な展開になったとしても、唯一真の神様の御言葉に、命令に忠実であれば、誠実に履行するならば、事態は必ず好転します。
その時には理解してもらえず反発を受け、離反し、攻撃を受けるような事があっても、唯一真の神様は理解して下さっており、味方になって下さり、決して離れる事なく、守って下さいます。
唯一真の神様の言葉、命令に従うことで起こってくる問題は唯一真の神様が責任を持って下さいます。
逆に、唯一真の神様の言葉、命令に従わないために起こってくる問題は自分で責任を取らなければならないのです。
そして、自分で責任を取れる人はいないのであり、人にも見限られ、唯一真の神様にも捨てられてしまうのです。
重要なのは、唯一真の神様の御言葉だけを聴き、命令に従う事であり、そこからずれない、勝手な解釈をしないと言う事です。
これは人の意見には一切耳を貸さないと言う依怙地や、頑固一徹を奨励しているのではありません。
唯一真の神様の命令に対して、人の考えを入れたり、妥協したりしてはいけない事を教えているのであり、協議する事や意見を求める事を禁じているのではありません。
唯一真の神様の言葉に従う事こそが、どんな生贄や礼拝や奉仕にも勝るものであり、唯一真の神様の喜ばれることであるかを教えているのです。
何かを献げる、礼拝を献げる、奉仕する…と言っても、全ては唯一真の神様の物であり、貧しい礼拝しか献げられないのであり、不充分な奉仕しか出来ないのではないでしょうか。
唯一真の神様の命令に従う時、もっと効率の良いやり方が、得する方法が、損しない方法があるかも知れませんが、唯一真の神様が願っておられるのは、効率の追求ではなく、遠回りであっても従順であるかどうかなのです。
唯一真の神様が求めておられるのは、損得に知恵を働かせる事ではなく、命令に忠実であろうとする知恵と忍耐なのです。
遠回りでも、効率が悪くても、損しても、唯一真の神様の命令の通りに行なおうとする時、そのための知恵を与え、そのための協力者を与え、問題を、妨げを取り除き、反対者を退け、命令を完遂させて下さるのです。
ここにおられる皆様が、唯一真の神様の命令に忠実で在りつづけ、唯一真の神様に退けられる事なく、唯一真の神様から千代に及ぶ豊かな祝福を得られますように。
2021-1-10礼拝
聖書個所:サムエル記第一16章1節~13節
説教題:「主は心を見られる」
【導入】
人と人との関係は、出会った時の第一印象から始まります。
文通などをしていたり、人柄を聞いていたりして、ある程度のイメージが出来あがっていたとしても、初めて会った時の印象は大きく影響します。
想像していたよりも素敵な人であったと喜んだり、イメージと違うとがっかりしてしまったりします。
その人の本質とか人格は、見かけの姿や顔かたちとは関係無いのですが、私たちはどうしても、関連付けて考えてしまいます。
見かけが良くて、姿、顔かたちが良いと、人格まで良い人、やさしい人に思われてしまう。
逆に、見かけのわるい顔をしていると、恐い人、意地悪な人と思われてしまいます。
一目惚れ、という言葉は、見かけが如何に重要かを現した言葉だと思います。
永く付き合えば、その人の良い所も、悪い所もはっきりして来ますが、付き合いが浅いうちは、第六感と言うか外見、見かけでしか、人を判断する事が出来ませんし、その判断は、かなり、いい加減なものでしかないことは、皆さん、よくご存知だと思います。
私たちは、心の中を知ることが出来ないからです。
しかし、創造主なる神様は違います。
心を造られ、人に心を与えられた創造主なる神様は、心を見ることがお出来になるのです。
見かけや、姿、顔かたちに捕らわれずに、本質をご覧になられるのです。
今日は、イスラエルの王として、ダビデを選ばれた時の出来事を通して、創造主なる神様の選びの基準を学びたいと思います。
【本論】
イスラエル初代の王様の名前は、サウルと言います。
サウルが王として、選ばれる経緯はサムエル記第一9章と10章に詳しく記されています。
9章2節には「キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルといった。彼は美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」、とあります。
サウルは美しい若い男で、その美しさはイスラエルの中で一番だ、と言うのです。今風に言うならば、ジャニーズ系のタレントや、韓流スターたちであり、ハリウッドスター、と言う所でしょうか。
男性だけではありません。
聖書には女性もまた美しい人たちが登場します。
アブラハムの妻のサラですが、創世記12章11節に「私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている」、とのろけていますが、エジプト人もサラを見て「非常に美しいと思った」、と言っています。
アブラハム75歳、サラ65歳の時、カランの地を出て、数年の旅をしてエジプトに入った時の事ですから、サラは67、8歳と言う所でしょうか。
見目麗しい67、8歳のおばあちゃんって、ちょっと想像がつきません。
アブラハムの息子、イサクの妻リベカも非常に美しかった(創24:16)と記されています。
イサクの息子、ヤコブの妻ラケルも姿も顔立ちも美しかった(創29:17)と記されています。
エステル記の「エステル」も、その名前の意味は「星」であり、ユダヤ人としての名前である「ハダサ」の意味は「香木」であり、姿も顔立ちも美しかった、と記されています。
イサクの息子、ヤコブの子ヨセフは体格も良く、美男子であったのです。
モーセだってエジプト皇女がユダヤ人の子と知った上で、拾ってでも育てるほど、可愛かったのです。
聖書に出て来るヒーロー、ヒロインなど、主要、重要な登場人物は皆、美男・美女なのです。結局、創造主なる神様は容姿端麗な人を選ぶのでしょうか。
この事は、この先学ぶことによって、はっきりして来ますが、創造主なる神様は決して美男・美女だから選ばれた訳では在りません。
預言者エリシャは禿げていて、若者たちにからかわれていました。
パウロも「人々の試練となるような肉体を持っていた」と、聖書に記されていますし、伝承では禿げていたそうです。
美男・美女と言うのは選びの結果であっただけで、美男・美女だから選ばれた訳ではないのです。
イスラエルの中で彼より美しい者はいなかった、と言われていて、イスラエル初代の王として選ばれたサウルは、創造主なる神様から二回の試験を与えられます。
これは過去に学んだ事ですが、一回目は、どんな状況であっても、「神様の時を待つ」と言うことでした。
二回目は、人の言葉ではなく、「神様の言葉に、聞き従う」と言うことでした。
残念なことに、どちらも失敗し、しかも、悔い改めることも出来ませんでした。
その心が、創造主なる神様に結びついていなかったので、試練の時に、創造主なる神様の言葉に従うことが出来ず、失敗した時も、創造主なる神様の下に帰って来る事が出来なかったのです。
そこで、創造主なる神様は、サウル王を退け、新しい王様を選ぶことにします。
16:1 【主】はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」
16:2 サムエルは言った。「どうして私が行けるでしょうか。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」【主】は言われた。「一頭の雌の子牛を手にし、『【主】にいけにえを献げるために来ました』と言い、
16:3エッサイを祝宴に招け。わたしが、あなたのなすべきことを教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」
16:4 サムエルは【主】がお告げになったとおりにして、ベツレヘムにやって来た。町の長老たちは身震いしながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」
16:5 サムエルは言った。「平和なことです。【主】にいけにえを献げるために来ました。身を聖別して、一緒に祝宴に来てください。」そして、サムエルはエッサイと彼の子たちを聖別し、彼らを祝宴に招いた。
創造主なる神様はテストに失敗したサウルの替わりに、新しくイスラエルの王様になる人物を探しておられました。
その人物を見つけたから油を注げと、創造主なる神様はサムエルに仰るのです。
創造主なる神様の選びは不思議です。
王様にする、と言っても直ぐに王様として働く訳ではありません。
20年30年先のことに対して、今日油を注ぐのです。ダビデはこの時10歳前後、精々15歳ぐらいであったと考えられています。
「ダビデは30歳で王になり、40年間、王であった」、とサムエル第二5章4節にありますから、王となるために油を注がれてから、約20年近い待機期間が必要であったのです。
アブラハムが創造主なる神様の約束を信じてカランを出発したのは75歳の時でした。
そして、跡取息子イサクが生まれたのはアブラハム100歳の時でした。
モーセがイスラエルの民を救おうとしてエジプト人を殺したのは40歳の時ですが、創造主なる神様から召しを受けて、エジプトに遣わされ、エジプトを出発したのは、モーセ80歳の時です。
約束や使命が与えられても、現実となるのは、遥か先のことなのです。
創造主なる神様のご計画は、かように遠大なものなのです。
20年30年先の事とはいえ、それは人には解からない事ですから、現役の王様がいるのに、次の王様になると言う人物に油を注ぐということは、大変な事です。
現役の王様に反抗することであり、言わば反逆者とも言える行為だからです。
そこで、サムエルは、ベツレヘムで、主に生贄を献げると言う口実で、エッサイに会いに出かけます。
そして、創造主なる神様の指示に従い、生贄を献げる時に、エッサイとその息子を招きます。
16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、【主】の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。
サウルが王として選ばれたとき「彼は美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」訳ですから、サムエルの判断は強ち間違いだ、愚かだとは言えないでしょう。
しかし、王様選びは、民の要求から始った事ですが、創造主なる神様の主権によるものであり、創造主なる神様の喜ばれる事であり、その事が1節「わたしのために、王を見出した」と記されている、明確な理由なのです。
「民のために、王を見つけた」ではなく「わたしのために、王を見出した」と仰るのです。
王様の任職は、民のためでもなく、ベニヤミン民族のためでもありません。
「わたしのために」と仰る事の意味は何でしょうか。
それは創造主なる神様の召し、選びによって、召された者が、選ばれた者が、その働きによって創造主なる神様の栄光を現すためであり、創造主なる神様を世に知らしめる事にある事を教えている言葉なのです。
イスラエルの王様は創造主なる神様の民を牧する事によって、神の民を通して、創造主なる神様の栄光を現すのであり、世の人々に偶像礼拝と真の神礼拝との違いを教える事にあるのです。
ですから、人間的に見て容姿端麗、眉目秀麗な人が選ばれるのではなく、頭脳明晰、文武両道な人が選ばれるのではなく、創造主なる神様の心と一緒であるか否かが選びの基準であり、創造主なる神様の御心をなす事を、我が喜びと出来る人を選ぶのです。
見かけや姿、顔立ちの良さが選びの基準ではないのです。
そのサムエルの思い違いに対して、創造主なる神様は言われます。
16:7 【主】はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」
この言葉により、サムエルの心の目が開かれます。
創造主なる神様の選びの規準は人とは違います。創造主なる神様は人が見る様には見られないのです。
人は上辺や見た目でしか判断出来ませんが、容貌や、背の高さ、人格・能力は創造主なる神様の選びと関係無いのです。
「馬子にも衣装」と言う言葉がありますが、氏素性が卑しくても、立派な衣装を着ていれば、それらしく見えるものです。
そして、人は衣装や容貌に騙されてしまい易いのです。
目が開かれたサムエルは、人間的な判断ではなく、創造主なる神様の基準でエッサイの息子一人一人を吟味するようになります。
16:8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは「この者も【主】は選んでおられない」と言った。
16:9 エッサイはシャンマを進ませたが、サムエルは「この者も【主】は選んでおられない」と言った。
16:10 エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「【主】はこの者たちを選んでおられない。」
次々と出てくるエッサイのイケメン・ブラザーズですが、この息子たちの中に、サムエルは創造主なる神様の選びの器を見出す事は出来ませんでした。
目が開かれたサムエルは、創造主なる神様に尋ねるまでも無く、「この者も主は選んではおられない」、と確信を持って判断する事が出来たのです。
サムエルはエッサイに尋ねます。
16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。「まだ末の子が残っています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」
当時の社会では、20歳以上の軍務につくことの出来る男だけが、一人前と認められる大人の条件で、それ以外は一人前と認められてはいなかったのです。
当時の男社会では、女・子どもは人の数の内に入れられていなかったのです。
ですから、ダビデ少年はこの席に招かれていなかったのです。
16:12 エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。【主】は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」
16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。【主】の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。
こうしてイスラエル二代目の王が選ばれました。
ダビデが、実際にイスラエルの王となるのは、これから、10年以上、20年近く後のことになりますが、創造主なる神様の選びの器は、こんな子どもが、と思える所にあったのです。
【適応】
ダビデもイケメン・ブラザーズの一員ですから、目が美しく、姿も立派でした。
結局創造主なる神様は、容姿端麗で、眉目秀麗な人を選ぶのでしょうか。
これは結果であり、創造主なる神様の選びの基準は、容姿や背丈にないことは、最初に申し上げた通りです。
私たちは、見かけで判断してしまいます。
その人を知れば、知ったで、欠点が目に付いて、判断します。
しかし、創造主なる神様の選びは、そんなところにはありません。
欠点のない、完全な人を選ばれるのではありません。
欠点だらけでも、その人の、良いところを見て、それを用いられます。
ダビデに欠点がないから、選ばれたのではありません。
ダビデにも欠点はあります。
その欠点と言うか、失敗は、私たちの感覚で言うならばサウルの比ではありません。
人妻を寝取り、その発覚を恐れて、殺人まで犯してしまうのです。
その殺人も巧妙であり、自分の手を汚さず、戦死者の一人になるように仕向けたのです。
悪辣と言うほかありません。
一方、サウルの失敗は、確かに間違っていましたが、悪辣と非難するほどの事ではありません。
でも、ダビデは罪を犯し失敗しましたが、最期まで、創造主なる神様から離れることがありませんでした。
創造主なる神様は、その、ダビデの心をご覧になって、ダビデを選ばれたのです。
ダビデに創造主なる神様の民、イスラエルの民を委ねられたのです。
創造主なる神様が私たちに求められるのは、創造主なる神様により頼み、従う心です。
能力を持っている人では有りません。
優秀な人でも有りません。
リーダーシップを持っている人を選ばれるのでも有りません。
欠点が無い人でも有りません。
罪を犯した事のない人でも有りません。
勿論、能力を持っているに越した事は有りません。
優秀な人なら、素晴らしい事です。
リーダーシップを持っている人なら何よりでしょう。
しかし、創造主なる神様にとっては欠点など問題ありません。
罪を犯した事があっても良いのです。
そんな罪や欠点ではなく、何でも知っていると思って、創造主なる神様に聞かない事が問題なのです。
自分の能力やリーダーシップに頼って判断する事、行動する事、創造主なる神様に聴かない事、従わない事が問題なのです。
自分で何とか出来ると思って頑張って、創造主なる神様に委ねない事が問題なのです。
弱さを委ね、犯した罪を告白し、悔い改める心こそ、創造主なる神様が求めておられる事なのです。
ダビデは常に創造主なる神様に聞き従いました。
自分の判断や、部下の助言に従いませんでした。部下に委ねる事もしませんでした。
罪を指摘された時には、直ぐに悔い改めました。
最後まで創造主なる神様から離れる事は有りませんでした。
私たちもダビデに見習って、最期まで、創造主なる神様から離れることがないようにしたいと思います。
そのとき、創造主なる神様は、私たちを、創造主なる神様のご用のために用いてくださいます。
持っている能力や、清さ、正しさが必要なのでは有りません。
何時でも、どんな時でも、何でも、どんな事でも、最初から、最後まで、創造主なる神様に聞き従い、委ねる心を与えて下さるようにお祈りしましょう。
その時、創造主なる神様は私たちを通して、良き働きをなされ、創造主なる神様の栄光を現されるのです。
最後に、タイトルについてですが、「主は心を見る」としましたし、聖書もその様に訳していますが、「主は心によって見る」とも訳せるのであり、新共同訳聖書はこのように訳しているのです。
創造主なる神様は、人間の様に制限された「視覚」によって見られるのではなく、心、つまり、「愛の心によって」見られるのです。
この創造主なる神様の「愛の心」に応える者であるかどうかが選びの基準なのであり、ダビデは創造主なる神様の愛に応えて、失敗しながらも、創造主なる神様から離れる事なく、創造主なる神様を愛する生涯を生きたのであり、創造主なる神様もまた、そんなダビデを愛して下さったのです。
創造主なる神様が私たちの心をご覧になられたならば、私たちは誰一人として創造主なる神様の目に適う人はいないでしょう。
しかし、創造主なる神様は愛の心で私たちを見られるのであり、この創造主なる神様の愛に応える者ならば、誰でもが、失敗しても、罪を犯しても、創造主なる神様に愛される存在となる事が出来るのです。
私たちの努力によってではなく、創造主なる神様に愛され選ばれた者として生きる事が出来るのです。
創造主なる神様の愛の心によって選ばれた私たちですから、私たちもまた、創造主なる神様様を愛する心で創造主なる神様に応答したいものです。
2021-1-17礼拝
聖書個所:コリント人への手紙第一7章1節~7節
説教題:「結婚、独身についての教え」
【導入】
パウロが5章1節以降で、5章9節以降で、6章9節以降で三回も繰り返し扱っている、コリント教会の一部の人々の、不品行の問題の根底には、パウロたちの教えを曲解し、誤解し、自分たちの都合に合わせた解釈をしている事にありました。
コリント教会の一部の人々は、パウロたちの教え、キリスト者に与えられた律法からの自由、即ち、「すべてのことが私には許されている」を誤用し、文字通り「すべてのこと」に適応し、遊女との交わりは、売春婦を買う事は、罪ではないと考えたのです。
加えて、当時はグノーシス主義が台頭しており、グノーシス主義は、二元論、身体を、肉体と霊に分離する考えを提唱し、肉体は永遠に続くものではなく、本質的に重要ではない、霊は永遠に続くものであり、霊的なものだけが重要である。
そして、肉体の汚れなどの問題が、霊に影響する事はない、霊さえ聖であれば、肉体の汚れなどは問題ないと主張していましたが、このグノーシス主義の教理をも裏付けとして、「すべてのことが私には許されている」と主張し、コリント教会の一部の人々は、放縦に陥っていたのです。
自由奔放、肉欲の趣くままの放縦な行動に走る者がいる一方で、その反動なのでしょうか。
コリント教会の人々の中に、極端な禁欲主義、敬虔主義に陥る人々が現れたのです。
聖さを追求する余り、本来、良いものである「性」を不必要なもの、「スキンシップ、性交」を邪悪な行為と考え、「性欲」を、単なる欲望の一種と考え、禁ずるべき事、とするのが、創造主なる神様の御旨、喜ばれることと誤解する者たちが現れたのです。
この考えを、コリント教会の規則にしようと考えたのでしょうか。
パウロに承認してもらい、お墨付きを頂きたくて、手紙を書いたのでしょうか。
【本論】
新改訳2017版 7:1 さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、
コリント教会の一部の人々は、極端な禁欲主義、敬虔主義に走り、独身を絶対的善と考え、正当な結婚と夫婦の間の性的関係を、遊女との交わりや売春婦を買う事と並列に置き、邪悪なものと考え、不必要な行為として否定し、その主義主張の根拠として、一般論として「男が女に触れないのは良いことだ」と主張するのです。
独身主義や敬虔主義は、それはそれで悪い訳ではなく、良い面を持ち合わせていますが、独身主義的に、結婚はキリスト者に相応しくない、として結婚を禁じ、禁欲主義的に、夫婦の間の性的関係はキリスト者に相応しくない、とする考え、教えは大きな間違いです。
そもそも、結婚は、男女の結び付きは、創造主なる神様が定められた素晴らしい制度であり、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」は、人間に与えられた基本的使命です。
単なる肉体的結合に留まらず、精神的にも、感情的にも、霊的にも結び付き、支え合い、助け合い、分かち合い、創造主なる神様の御旨を成して行くのです。
勿論、独身を貫く場合もあるでしょうし、子を産まない場合もあるでしょうが、独身を強要したり、子を産む、産まないを強制、制限すべきではありません。
其々が、創造主なる神様の御旨に従って、時に独身を貫き、時に結婚し、其々の夫婦が、創造主なる神様の御旨にあって、時に子を産み、時に子を産まないのであり、画一的ではなく、多様性をもって、創造主なる神様の御旨を成して行くのです。
「触れ」と訳しているギリシャ語は、「触る、(火を)点す」の意味を持つギリシャ語ですが、ここでは、単なる接触ではなく、積極的、意識的に触る愛撫、スキンシップを意味するとの理解が適当なようです。
「良いことだ」と訳しているギリシャ語は、「望ましい、適当である、美しい」などのニュアンスの意味を持つギリシャ語であり、コリント教会の禁欲主義的傾向の人々は「正しさ」を強調する意味として使っているようですが、パウロは「男が女に触れないのは正しいことだ」とは、受け止めていません。
パウロの手法は、コリント教会の人々の意見、主張を認め、肯定しつつ、問題点を指摘し、創造主なる神様の御旨に誘導する形です。
ここでも「男が女に触れないのは良いことだ」との一般論、コリント教会の禁欲主義的傾向の人々の主張、聖さを追及する姿勢を認めつつ、コリント教会内に蔓延る性風俗、不特定多数との性交渉と、結婚とは分けて考えなければならない事を示します。
7:2 淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
放縦な、淫らな性生活、不特定多数との性交渉は、非常に不健全であり、対極の、禁欲的な独身主義は、不自然であり、隠れた不品行に走らせかねません。
パウロは、一般論として結婚を勧めますが、パウロの結婚観は、性的欲望の、合法的処理のための手段、と云うような低級なものではなく、決して、「淫らな行いを避けるため」と云うような低次元のものでもありません。
結婚は、創造主なる神様が定められた制度であり、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」との崇高な目的のためであり、パウロは、一夫一婦制によって達成される使命であることを明確に主張することを忘れません。
結婚は、性処理のためでも、性欲と云う欲望の火を消すためのものでもありません。
結婚によって、男女は心身ともに一つとなるのであり、一つとなって、創造主なる神様の御旨の遂行に取り組んで行くのです。
7:3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
パウロはここで、夫婦間、男女間の平等、同権について教えます。
当時は男性社会であり、成人した男性だけが尊ばれ、女性や子どもは顧みられない社会、時代でした。
夫は妻に対して義務がある、それを果たす責任がある、などとは、誰も考えなかった社会、時代ですが、パウロは、男性が一方的に支配し、女性には従う義務がある、と云うような考え方、社会は不健全であり、創造主なる神様の御旨に反することだと教えます。
ここに「平等、同権」などを訴える直接の言葉はありませんが、「義務を果たし」と云う言葉には、平等や同権の思想がはっきり現れており、妻を愛する事は、果たすべき義務であり、最優先させなければならず、どんな犠牲を払っても、果さなければならない責任があるのです。
夫を愛する事は、果たすべき義務であり、最優先させなければならず、どんな犠牲を払っても、果さなければならない責任があるのです。
これは、画期的な教えです。
そして、「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たし」と云う言葉には、単に義務と責任を述べるに留まらず、相互に依存する関係、平等、同等な関係である事が内在されており、注目すべき宣言、命令なのです。
7:4 妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
夫は、自分の身体の主人ではなく、妻のために生きる者として、妻も、自分の身体の主人ではなく、夫のために生きる者として、の原則を教える言葉であり、これも、注目すべき宣言、命令です。
しかも、夫は、或いは妻は、自分の自由意志で、妻のために、或いは夫のために生きるのであり、そこに一切の強制とか強要、或いは打算、支配関係、従属関係はありません。
「他者のために生きる」は、「キリスト者の自由」の本質であり、夫婦の間で発揮されるものであり、夫婦の間の関係は、人間本来のあるべき姿を体験する場であるのです。
人間の、最初の他者との関係は、夫婦関係に始まったのであり、夫婦関係は、創造主なる神様が定めた関係であり、基本形ですが、非常に密な関係であるが故に、大きな訓練となる関係です。
この関係を通して、他者との関係を学び、他者と共に生きる事を実践するのです。
7:5 互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。
5節で、パウロは、性的関係に代表される、あらゆる夫婦の共同生活と、祈りに代表される、あらゆる個人の信仰生活について言及します。
宗教的熱心、熱意などから、禁欲的誓いを立て、夫婦の正常な、一般的な、日常的な関係を、一方的に、独断的に、拒否、拒絶するような行き過ぎに対する警告を発します。
教会の仕事中だから、と妻の、或いは夫の相手をしない、聖書を読んでいるから、と妻の、或いは夫の願い事などを後回しにする、などが上げられましょう。
夫婦は、妻のために、或いは夫のために生きるのであり、基本は「相手を拒んではいけません」なのですが、一例として、「祈りに専心するため」ならば、次の四つの条件であれば、認めましょうと、パウロは言います。
一、「合意の上で」、が第一条件です。
一方的に決めてしまうのではなく、事後承諾ではなく、良く話し合って、充分理解し、双方が納得して、です。
二、「しばらく」、が第二条件です。
これは、具体的な期間は示されていませんが、短期間である事が必須です。
「しばらく」について聖書から探すと、先ず「十日間」が最初に出て来ます。
イサクの嫁探しの旅でのエピソードであり、創世記24章55節に記されています。
次が、「四十日間」であり、モーセがシナイ山で過ごした期間であり、出エジプト記24章18節に記されています。
新約聖書では、同じく「四十日間」であり、イエス様が荒野で過ごされた期間であり、マタイの福音書4章2節に記されています。
「しばらく」と言う言葉は、他にも70箇所程で使われているのですが、数時間から数年を示すので、参考に出来そうもありません。
三、「離れていて」は、肉体的交わりの自制、中断であり、スキンシップの禁止や、別居であってはなりません。
肉体的交わりはなくても、精神的にも、感情的にも、霊的にも結び付き続け、支え合い、助け合い、分かち合い続けるのでなければならないのです。
その点で、アイコンタクトやスキンシップは重要です。
相手の存在、様子を眼で確認しつつ、手を繋いだり、軽く触れたりして、お互いの存在を肌でも確認するのです。
そして四、「再び一緒になる」、が第三条件です。
なるべく早く、普段の生活に戻らなければなりません。
肉体的交わりに留まらず、精神的にも、感情的にも、霊的にも結び付き、支え合い、助け合い、分かち合い、夫婦の間の結び付きを多角的に、多面的に、多次元的に、構築し、強固にしなければなりません。
共通の趣味や話題が持てればよいのでしょうが、それは、中々簡単ではなさそうですし、共通の趣味や話題があると、夫婦間の結び付きを強化、維持出来る訳ではありません。
共通の趣味や話題がないと、時間が持たない、と云うのではなく、何をするで無くても、其々が別のことをしていても、同じ空間で、同じ時間を過ごす、と云うのは、思う以上に大切であり、お互いが見える所にいることの効用は、思う以上に重要です。
現代は、其々が忙し過ぎ、すれ違いが当たり前かもしれませんが、一緒の時間を確保しなければ、支え合い、助け合うチャンスを逃し、分かち合う時間は減少し、精神的にも、感情的にも、霊的にも離れていくのは必至確実です。
サタンは夫婦の絆のその隙間に、崩壊の楔(くさび)を打ち込んで来るのです。
一見、霊的に見える禁欲は、大きな落とし穴となるのであり、サタンは、人の弱さをよく知っており、上手に入り込んで来るのです。
注意しなければなりません。
7:6 以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。
「男が女に触れないのは良いことだ」との一般論に対して、2節から5節でパウロが述べてきたことは、決して結婚を奨励する目的に向かって、ではありません。
コリント教会の人々は、パウロたちの教えを曲解し、誤解し、勝手な解釈をしますが、それ故に、[譲歩として言っているのであって、命令ではありません]との注意を与える事を忘れません。
「以上は」が、何に掛かっているかですが、一、2節の「妻を持ち・・・夫を持つ」こと、即ち「結婚すること」に掛かっている、とする理解がありますが、決して、結婚を命じている訳では、独身主義、禁欲主義の否定ではありません。
独身主義や禁欲主義は、絶対的善ではないこと、結婚は、「サタンがあなたがたを誘惑しないようにするため」の有益な手段であり、何より、創造主なる神様の定めたまいし制度であり、その効用は計り知れませんが、絶対に結婚しなければなら訳でないことは、抑えておく必要がありましょう。
この世には、結婚を通して、創造主なる神様の栄光を現す人々がおり、結婚しないで、創造主なる神様の栄光を現す人々がいるのです。
二、5節の「しばらく離れていて」に掛かっている、とする理解ですが、創造主なる神様が結び合わせた二人を、「しばらく」でも、一時的でも、条件付きでも、離れさせるのは、懸命な対処とは云えません。
苦肉の策であり、最大限の譲歩なのです。
三、5節の「再び一緒になる」に掛かっている、とする理解ですが、この理解だと、「再び一緒になる」ことは譲歩であり、一緒にならない方が良い、即ち、独身主義を擁護することに繋がるので、この理解は受け入れられません。
一の理解にしても、二の理解にしても、創造主なる神様の栄光を現すためであり、「サタンがあなたがたを誘惑しないようにするため」です。
7:7 私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。
結婚は、創造主なる神様の定めたまいし制度であり、大きな恵みであり、祝福の基ですが、パウロは、独身であることで得られ、味わう恵みを知っており、独身である事に何の欠けも、不自由も、物足りなさ、虚しさなどを一切感じなかったのです。
ですから、皆が、自分のようになって欲しいと、強く願ってはいましたが、各自が、創造主なる神様の定め、賜物に従って生きるべきであり、結婚も、独身も、創造主なる神様の与えられた賜物の現れ方の違いであり、誰も、結婚を、独身を強いる事は出来ず、誰も、創造主なる神様から与えられた結婚生活、独身生活を誇ることは出来ないのであり、強制も強要も、誘導も、一切ないのです。
【適応】
創造主なる神様の御旨は、結婚する、しない、ではありません。
独身で創造主なる神様に仕える事でもありません。
パウロは、自分の身体をもって、創造主なる神様の栄光を現すことの、具体的、現実的な道について語っているのであり、結婚すれば、創造主なる神様の栄光を現せるのではなく、独身だと、創造主なる神様の栄光を現せるのでもないのです。
結婚、独身、どちらにしても、不自然な結婚や独身は、創造主なる神様の栄光を現すことは出来ません。
結婚することは自然なことのように考えがちですが、結婚が全ての人にとって、受け入れられることとは限りません。
独身だと、自由に、何にも煩わされずに、創造主なる神様に仕えられる訳ではありません。
結婚、独身、どちらにしても、訓練と喜びが伴うのであり、結婚、独身、其々違う訓練を受け、訓練を喜びつつ創造主なる神様に仕え、創造主なる神様の栄光を現していくのです。
結婚の強要も、独身の強要も、創造主なる神様の定めから外れます。
7節に記されている通りに、「一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方」があるのであり、その創造主なる神様から与えられた賜物に抗う形は、結婚であれ、独身であれ、創造主なる神様の栄光を現すことは出来ません。
人の目的は、創造主なる神様の栄光を現すことであり、ある人は、結婚した生涯を通して創造主なる神様の栄光を現わし、ある人は、パウロのように、独身の生涯を通して創造主なる神様の栄光を現わすのです。
問題となるのは、強いられた結婚であり、独身です。
キリスト教界の中には、独身を強いられる流れがありますが、強いられた独身は不自然であり、問題行動に繋がることがあるようです。
聖職者による性犯罪は、「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」と云う映画にもなっていますが、こんな独身者が、創造主なる神様の栄光を現わすことが出来るでしょうか。
結婚に、喜びや楽しみよりも、苦痛や不自由をより強く感じる人もいるのです。
創世記2章18節、「人がひとりでいるのは良くない」は、15節「エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせ」る、と云う文脈に於いてであり、直接の結婚の奨励、独身の非難、否定ではありません。
独身の優位性が顕著に現れる働きがあるでしょうし、動物の助けによって、より良い働きに繋がることもあるでしょうし、道具などによっても、良い働きに繋がるでしょう。
夫婦の間の、阿吽の呼吸で意思の疎通が出来れば、素晴らしい働きに繋がるでしょうから、夫婦で取り組む意義、利点は非常に大きい。
しかし、人間関係は、拗れれば、修復は簡単なことではありません。
結婚、独身、どちらが優れている、劣っているではなく、「一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方」があり、御子イエス様の霊と一つにされた夫婦として、御子イエス様に従い、御子イエス様の霊と一つにされた独身者として、御子イエス様に従い、創造主なる神様の栄光を現す者として歩み続けたいものです。
2021-1-24礼拝
聖書個所:コリント人への手紙第一7章8節~16節
説教題:「未婚者、既婚者へのお勧め」
【導入】
パウロは、結婚に伴う義務、責任について語りましたが、結婚に伴う義務や責任は、決して負担や重荷を強調している意味だけではありません。
結婚は、自分を愛するように妻を、或いは夫を愛するのであり、大きな喜びが伴い、苦労を分かち合える、非常に良いものであり、妻を労わり、夫を労わり、一つとなって創造主なる神様に仕えて行くのです。
しかし、氏も育ちも、価値観も違う、別の人格との共同生活であり、非常に密な関係故に、結婚に伴う困難があり、忍耐や訓練が伴います。
その点、独身は自由に行動出来るのであり、大きな利点がありますが、心身共に一つとなって、喜びや苦労を分かち合う相手がいない、という点では残念です。
パウロは、独身の利点を説きますが、全ての人が、独身の利点や有利さを理解出来る訳ではありませんし、受け入れられる訳でもありません。
7節に記されている通りに、「一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方」があるのであり、その、創造主なる神様から与えられた賜物を活かし、結婚であれ、独身であれ、創造主なる神様の栄光を現して行くのです。
結婚に伴う義務と責任、それは独身との違いである訳ですが、それを語ったパウロは、続けて、未婚者、既婚者に向けてのお勧めを語ります。
【本論】
新改訳2017版 7:8 結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。
「結婚していない人」は、広い意味であり、文脈から、結婚していない全ての人、結婚経験のない人、離婚者、妻との死別者をも含むと考えてよさそうです。
「やもめ」は、「夫のいない女性、また、夫を失った女性」の意味であり、夫との死別に限定されず、離婚した女性をも含む人々です。
パウロは、結婚経験のない人たち、離婚者たち、伴侶と死別した人たちに、独身であるならば、また、独身になったのなら、そのまま独身を通す事を勧めます。
パウロが生涯、独身であったのか、妻を失ったのか、妻と別れたのかは一切、不明ですが、この時点では、結婚状態ではなかったのであり、「私のようにしていられるなら」、即ち、独身でいられるなら、それは「良い」事だと語ります。
「良い」は、1節と同じギリシャ語が使われており、即ち、「望ましい、適当である、美しい」などのニュアンスの意味を持つギリシャ語であり、パウロは独身を高く評価するのです。
先に学んだように、パウロは、独身である事で得られ、味わう恵みを知っており、独身である事に何の欠けも、不自由も、物足りなさも、虚しさなども、一切感じなかったのです。
ですから、皆が、自分のようになって欲しいと、強く願ってはいましたが、「良い」にとどめ、強制したりはしなかったのです。
何故ならば、結婚も、独身も、創造主なる神様の与えられた賜物の現れ方の違いである事を、重々知っており、独身生活に不向きな人々がいる事も知っていたからです。
各自が、創造主なる神様の定め、賜物に従って生きるべきであり、パウロの教えに従うのではなく、アポロの考えに従うのでもなく、ケファの意見に従うのでもないからです。
7:9 しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。情欲に燃えるより、結婚するほうがよいからです。
「自制することができないなら」は、単純に「性的欲求を制する事が出来ないなら」の限定的な意味ではなく、「独身生活に不自由を感じるなら」の、広い意味での理解が妥当でしょう。
「情欲」を制するのは、簡単な事ではありません。
勿論、「情欲」を制する事も、良き訓練、必要な訓練ではありますが、「情欲」を制する事が生活の中心になってしまうなら、非常に苦しい事、辛い事なのではないでしょうか。
創造主なる神様の定めは、苦しみや辛さを与える事ではなく、賜物を充分生かす事であり、結婚が賜物を生かす事に繋げられるなら、結婚は重要な選択肢なのです。
パウロは、「結婚しなさい」とお勧めする事により、結婚が罪でないばかりか、正常なものである事を明らかにします。
加えて、注意しなければならないのは、「性的欲求を制する事」が、結婚の利点、目的ではない、と云う事です。
情欲を制する事に意識や力を費やしていたならば、創造主なる神様の栄光を現す事は二の次になってしまうでしょう。
結婚する事により、情欲を制し、意識や力を創造主なる神様に集中するのが、より良い選択なのです。
結婚を選ぶか、独身を選ぶかに、優劣、善悪はないのであり、結婚するも、独身も、創造主なる神様の栄光を現す事に繋げなければならないのです。
7:10 すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
10節、11節は、既婚者へのお勧めです。
パウロは、既婚者に対して、創造主なる神様の命令として、「別れてはいけません」と、明確に離婚を禁じます。
パウロが始めに「妻」に向って命じるのは、当時の結婚事情と社会事情、そしてキリスト教の影響を考慮して、と思われます。
当時の結婚は、女性の意思は余り尊重されず、内心に配慮されず、親の都合、思惑で、半ば、強制的に結婚させられており、パウロの説く、男女の平等、夫婦の平等の教えにより自覚、自意識が生まれ、きっかけ、励みとなり、女性の側から離婚を切り出し易くなった、が一つ目です。
二つ目は、ギリシャ社会では、女性の意思が尊重されており、女性からの離婚申し出もあり得たようで、その風潮がコリント教会の女性たちに影響を及ぼした、です。
三つ目は、キリスト教への熱心さからで、5節の「しばらく離れていて」では飽き足らない熱狂的な婦人たちの中に、不甲斐ない、生温い信仰しか持っていない夫とは別れるべきだ、或いは未信者の夫とは別れるべきだ、それが創造主なる神様の御旨だ、と考える、活発な動きがあるのを知って、です。
しかし、強いられた結婚でも、離婚申し立ての権利があっても、信仰を理由にしても、離婚は、創造主なる神様の御旨ではありません。
別れては、離婚してはならないのです。
7:11 もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。
どの時代、どの地域にも、良い事だと思うと、深く考える事なく、言動の及ぼす影響を多面的、多角的、将来を考慮して考える事なく、直ぐに行動に移す人たちがいます。
実直さは評価に値しますが、愚直、性急な行動で禍根を残す事にならないように注意しなければなりません。
別れてしまったのなら仕方がないが、別れてしまった場合のキリスト者の選択肢は二つしかありません。
再婚せずに生涯を送るか、和解するか、縁りを戻すか、です。
パウロは、離婚ばかりではなく、再婚をも禁じますが社会制度として結婚や離婚があり、再婚が認められているのではありません。
創造主なる神様の定められた制度として「結婚」があるのであり、結婚は、創造主なる神様が結び合わせられたのであり、死別以外、再婚の道はあり得ません。
しかし、何にでも例外はあり、死別以外で、離婚、再婚が認められるケースは15節の時だけです。
7:12 そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
7:13 また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
12節、13節は「そのほかの人々」に対するお勧めであり、「そのほかの人々」とは、結婚後、キリスト教に触れ、キリスト者になった人であり、文脈から、未信者と判っていて、敢えて結婚したキリスト者を想定してはいないようです。
このお勧めの背景には、未信者との結婚関係継続を、キリスト者に相応しくはない、と考える人たちの存在が考えられましょう。
旧約聖書には、カナンの地で、娘を外国人に嫁がせた話、外国の女性を娶った話が記されており、外国の女性を追い出した故事、逸話が記されています。
例えば、エズラ記10章、2017版は831ぺージ、第三版は808ページをご参照願います。
この故事、逸話を基に、未信者と離婚する事は、旧約聖書の教えであり、創造主なる神様の御旨だと考え、実行に移そうとする者がいたのです。
パウロは、未信者との離婚を禁じます。
少し遠慮がちに「これを言うのは主ではなく私です」との前置きをしますが、しかし、パウロ個人の意見、私見の表明ではありません。
7章25節で、自分は「主の・・・信頼を得ている者」である、と述べており、自負があり、決して私見でも、個人の意見でもない事は明らかです。
宣教者は、説教者は、私見を、まるで創造主なる神様の御旨のように語ってはなりません。
創造主なる神様の御旨は、聖書の真理は、大胆に、明確に言い切らなければなりません。
創造主なる神様の御旨に、聖書の真理に、混ぜ物をしてはならず、省くも、付け加えるも、厳禁です。
こ世の習いで夫婦になっても、その背後には創造主なる神様の御旨が働いているのであり、創造主なる神様が結び合わせたものを切り離してはならないのです。
7:14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
「聖なるものとされており」は、「救われている、救いの恵みに与っている」の意味ではありません。
パウロの、14節のお勧めの背景には、「汚れの伝播」がありましょう。
信者が、未信者の伴侶と交わる事によって、汚れが移ると考えるのは、自然な思考であり、汚れる事を恐れ、離婚を考えるのは、自然な流れでしょう。
しかし、パウロは、この考えを根底から否定します。
一方の信仰が、結婚を聖いものとする力は、他方の不信仰が結婚を汚す力を、遥かに凌駕するのです。
結婚は、創造主なる神様の定められた制度であり、全ての夫婦は、結婚を通して、創造主なる神様の祝福に与っているのですが、未信者同士であり、知識がなく、創造主なる神様から祝福されている事を知らないだけなのです。
しかし、夫婦の一方が救われ、キリスト者になる事により、創造主なる神様に祝福されている事を知るに至るのです。
結婚は、創造主なる神様の定められた制度であり、どんな形の結婚でも、創造主なる神様が祝福されるのであり、結婚は、創造主なる神様の守りの中に置かれるのです。
未信者との結婚は、決して「汚れ」ではない、寧ろ、祝福されている、「聖なるもの」とされている、と説くのです。
しかし、間違ってならないのは、未信者との結婚を容認するとか、未信者との結婚も御旨だ、ではありません。
パウロのお勧めは、離婚、再婚は創造主なる神様の御旨ではないとは考えない社会、人々の中で、結婚した夫婦の一方がキリスト者となり、未信者との結婚生活を維持する事に苦悩する者に対する愛の配慮であり、未信者との結婚生活にも、創造主なる神様の祝福がある事、未信者との間に生まれた子どもも、創造主なる神様の恵みの中にいる事を宣言するのです。
キリスト者同士の結婚でなくても、一方がキリスト者であるなら、その夫婦は創造主なる神様の祝福を受けています。
そして、生まれてくる子どもも、創造主なる神様の祝福を受けているのです。
現代において、キリスト者は、未信者との結婚は避けるべきです。
キリスト者は、キリスト者と結婚すべきであり、そのために結婚については相当に早い時期から祈らなければならず、教会総出で、牧師の責務として、兄弟姉妹の結婚のために祈らなければなりません。
説教でキリスト者同士の結婚を語り、日々、キリスト者同士の出会いと結婚のために祈らなければならないのです。
15節は、11節とは反対に、信者でない伴侶が、別れる事を願う場合のお勧めです。
7:15 しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。
12節、13節では、信者でない伴侶が、結婚の継続を願うなら、結婚を維持するようにお勧めしますが、もし、信者でない伴侶が、別れる事を願うなら、離婚止むなし、無理して結婚を継続させないで良いとの認可を与えるものです。
しかし、これは、決して信者でない伴侶との、積極的な離婚の奨励ではありません。
信者でない夫、或いは妻を離れるように仕向けたり、誘導したりは、創造主なる神様の御旨ならず、です。
また、自分の思い、信者との結婚という願望を遂げるために、信者でない伴侶との結婚を解消したいがために、創造主なる神様を利用するような事があってはなりません。
また、未信者との結婚は、創造主なる神様の御旨であるとの思い込みや、周囲の人々の説得にも注意しなければなりません。
7:16 妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。
信者でない夫、或いは妻を救おうとして、無理に相手を引き止め、追うべきではないのです。
救いは、創造主なる神様の業であり、結婚が相手を救う保証にはならず、結婚を利用して、救いに導こうと考えてはなりません。
「結婚したい」が先にあるのに、「救いに導く」を口実に結婚するのは、大きな間違い、大問題です。
相手の方が、創造主なる神様を受け入れ、御子キリスト・イエス様に対する信仰を告白してから、結婚に踏み切らなければ、創造主なる神様の栄光を現す事は出来ず、自身の信仰も、失う事になりかねません。
創造主なる神様は、信徒を耐え切れない重荷から解放し、平安を与えてくださる事もあるのです。
やむを得ぬ離婚があるのであり、それは創造主なる神様の恵みと認めなければならないのです。
【適応】
本人に独身を貫く意志があり、結婚を強いられる事情もなく、本人の意思が尊重される状況ならば、独身を貫く事は創造主なる神様の栄光を現す働きに繋がり、創造主なる神様から大きな祝福を受けるでしょう。
キリスト者となった既婚者は、未信者との結婚を尊重し、相手から別れたい、別れようとの申し出がない限り、或いは、信仰を捨てるように要求されない限り、信仰を捨てないがために、暴力を振るわれたり、嫌がらせを受けたり、有形無形の被害を受けない限り、未信者に対して誠実を尽くし、結婚を積極的に維持しなければなりません。
ペテロの手紙第一3章1節、2017版468ページ、第三版455ページ、「3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるなるためです。
3:2 夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。
3:3 あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。
3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。
3:5 かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです」。
キリスト者である既婚者の、未信者である夫、或いは妻に対する責任は、斯様に大きいのです。
また、子どもに対しても、証しをするのであり、家庭の中でのキリスト者の責任は非常に大きく、重要なのであり、創造主なる神様の栄光を現す働きに繋がり、創造主なる神様から大きな祝福を受けるでしょう。
パウロが活躍した時代のみならず、近代まで、未婚者は一人前とは認められず、離婚したままでは片身が狭く、やもめは誰かに保護してもらわなければ生きていけなかったのですが、そんな理由で結婚するのも、また、独身でいるのも、創造主なる神様の御旨ではありません。
結婚するもしないも、独身でいるもいないも、創造主なる神様の導きに従わなければなりません。
未婚、既婚より、創造主なる神様御旨の優先、御旨に従う事こそが、重要なのであり、祝福の基なのです。
2021-1-31礼拝
聖書個所:コリント人への手紙第一7章17節~24節
説教題:「信仰を持った時の状態のままで主に仕える」
【導入】
パウロは、独身、結婚、そして、離婚、再婚について語って来ましたが、単に、独身のメリット・デメリット、結婚のメリット・デメリットを語り、離婚や再婚に対する創造主なる神様の御旨を教え、離婚や再婚を禁じ、離婚や再婚が許される場合を教え、知らしめたのではありません。
独身を通すにも、結婚するにも、創造主なる神様の栄光のためであり、離婚に至ってしまった時にも、再婚に際しても、創造主なる神様の栄光のためでなければなりません。
独身も結婚も、離婚も再婚も、創造主なる神様の御旨に従わなければならないのです。
パウロは、独身、或いは結婚と云う、身近で、具体的な例を挙げて、語って来たのですが、更に、具体的な、キリスト者の、この世での歩み、生き方についての一般原則について話を進めて行きます。
一般原則はこの世での歩み、生き方に直接関わる内容であり、非常に微妙な、抵抗が予想される内容です。
何故ならば、ユダヤ教の基本原則に関わっているからであり、ユダヤ人の歩み、生き方の拠り所に関わっているからです。
この世での歩み、生き方の根幹に関わる内容であり、当然、猛烈な反発や抵抗が予想されます。
それで、一般原則に入る前に、理解し易く、重要な話の導入として、独身、結婚、離婚、再婚について語り、本当に言いたい事、伝えたい事に、話を進めて行きます。
【本論】
新改訳2017版 7:17 ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。
17節は、今まで語ってきた事の要約、結語です。
独身であろうと、結婚していようと、紆余曲折の結果、やむを得ず離婚を選んでしまったとしても、創造主なる神様は、それを許し、受け入れてくださいます。
しかし、決して、欲望を満たす目的の結婚を許し、また、身勝手な離婚や再婚を許している訳でもありません。
創造主なる神様に仕えるのに益する独身を、結婚を奨励しているのであり、やむを得ぬ離婚がある事を認め、離婚や再婚に対する、創造主なる神様の御旨を示します。
基本は、独身者は独身のままで、既婚者は結婚したままで、離婚者は再婚しない事、或いは、別れた人と復縁する事を勧めます。
創造主なる神様の御旨で、独身状態にあり、既婚状態にあり、時に、離婚に至ったからです。
手続きやこの世の習いの問題ではなく、創造主なる神様の御旨として、独身を、結婚を、離婚を考え、その状態に留まるべきなのです。
独身が苦痛なら、結婚やむなし、結婚状態が苦痛なら、離婚やむなし、ですが、基本は、その状態、境遇に留まり続け、独身者は独身と云う制約の中で、既婚者は結婚と云う制約の中で、ひたすら創造主なる神様にお仕えするのです。
パウロは、導入として独身、結婚、離婚についての一般原則を語り、続けて、一般原則の、ユダヤ教への適応を語ります。
7:18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
「割礼」は、ユダヤ教の根幹である宗教行為、ユダヤ人の拠りどころとする通過儀礼ですが、「割礼」は、旧約時代の、創造主なる神様との契約の印であり、新約時代では、「洗礼」が、創造主なる神様、御子キリスト・イエス様との契約に加わった印となっています。
「割礼」から「洗礼」に切り替わった訳ですが、キリスト教を受け入れても、ユダヤ人は「割礼」を受けるべきだ、受けなければならない、と考えるユダヤ主義者の問題がありました。
コリント人への手紙には、コリントでの、ユダヤ主義の影響の有無は記録されていませんが、ガラテヤ人への手紙には、「割礼」の有無が大きな問題となっていた事が記されています。
ガラテヤ人への手紙5章2節以降と、6章12節以降に記されていますのでご確認願います。
2017版は381ページと383ページ、第三版は370ページと372ページです。
コリント人への手紙の執筆年代は、西暦55年から56年頃とされ、ガラテヤ人への手紙の執筆年代は、西暦49年、或いは53年から55年頃とされていますので、ガラテヤで起こった問題は、コリントでも必ず問題になると予想し、パウロは前もって指示を出しているのです。
「割礼を受けていたのなら、その跡をなくそう」との記述の意味は、紀元前167年に起こったマカバイ戦争を中心に記した、マカバイ記に記されている故事に倣っているものと考えられます。
マカバイ記は旧約聖書続編であり、マカバイ記第一1章14節には「異邦人の流儀に従ってエルサレムに連成場を建て、割礼の跡を消し、聖なる契約を離れ、異邦人と軛(くびき)を共にし・・・た」、と記されています。
「異邦人の流儀」「連成場」「割礼の跡を消し」の意味するところ、詳細は不明ですが、「割礼の跡を消」す方法が、口伝承されていたのでしょう。
ユダヤ教を捨てた証拠として、ユダヤ人と距離を置くために、キリスト教への熱心さ、誠実さの表明から、ユダヤ教の印「割礼」を、ユダヤ人の印「割礼」を消すのでしょうが、消す事は、何の益ももたらしません。
外面の問題ではなく、内面の問題だからです。
また、ユダヤ主義者との摩擦やいざこざを恐れて、「割礼を受けておこう」との行動もまた、何の益ももたらしません。
外面を取り繕っても、大切なのは内面だからです。
7:19 割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。
「割礼」は、ユダヤ人として生まれ、ユダヤ教の中に育った過去の歴史の印であり、御子キリスト・イエス様と出逢い、御子キリスト・イエス様を受け入れた事とは無関係であり、重要なのは、創造者なる神様の命令を守る事です。
「無割礼」は、異邦人として生まれ、異教徒として育った過去の歴史の印であり、御子キリスト・イエス様と出逢い、御子キリスト・イエス様を受け入れた事とは無関係であり、重要なのは、創造者なる神様の命令を守る事です。
18節、19節では、一般原則を、ユダヤ人内の宗教的問題、「割礼」問題に適応して語って来ましたが、続いて、パウロは一般原則を、ローマ帝国における社会的問題、「奴隷」問題に適応して語ります。
7:20 それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
20節の直訳は「各自は召されたときの召しにとどまれ」であり、新共同訳聖書は「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」と訳していますが、大切なのは、外見を変える事、形態を整える事ではありません。
召された時、奴隷であったのなら、奴隷の身分のままでいる、自由市民権を得るために働きかけ、伝を頼るなどの工作をする必要はない。
独身であったのならば、独身のままでいる、既婚者であったのであれば、既婚のままでいる。
伴侶が未信者でも、離婚を考えてはならず、離婚してしまったのならば、復縁を試み、他者との再婚を考えてはならないのです。
「召し」は、キリスト者として召し出された事、創造主なる神様、御子キリスト・イエス様との交わりへの招き、創造主なる神様、御子キリスト・イエス様との契約への招きであり、御子キリスト・イエス様のご支配の中に移される事であり、御子キリスト・イエス様への信仰への招きです。
「召し」は、特定の働き、職業、社会的状態へ召し出す事ではありません。
宣教者になる事でも、宣教支援の働きに就く事でも、自由市民権を得て、自由市民になる事でも、結婚する事でもありません。
割礼を受ける事でもなく、割礼の跡をなくすことでもないのです。
「とどまれ」は、「とどまり続けよ」との、継続の命令です。
大切なのは、「自分が召されたときの状態にとどま」り、留まり続け、
「神の命令を守ること」です。
7:21 あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。
「奴隷」と「自由の身」。
単なる呼称の違いではなく、歴然とした身分の差、権利の差を知らしめる、屈辱的、差別的な言葉であり、誰しもが、必死になって、そこから逃れたいと願い、出来得る限りの努力、工夫をするでしょう。
しかし、パウロは、気にするな、と諭し、「しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう」とチャンスの利用を容認しますが、新共同訳聖書は、「自由の身になれることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と、チャンスの利用をたしなめます。
真逆の訳ですが、大切なのは、「召し」に生きる事であり、17節「それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべき」の原則に従う事です。
自由の身分は、晴れがましい身分ですが、何の社会保障も、保護制度も、公的な職業斡旋もないローマ帝国では、生きる糧を得る事は簡単な事ではなく、後ろ盾、経済基盤のない自由市民は、泣く泣く、身を売るしかなくなるのではないでしょうか。
パウロが言いたい事は、自由市民と云う境遇のみが、キリスト者に相応しい、奴隷の身分は、キリスト者に相応しくない、との誤解を正す事であり、御子キリスト・イエス様にお仕えするのだから、人間の主人はいないほうが良い、と考えたり、自由の身分に拘る必要はない事を伝えたいのです。
コリント教会には、奴隷も、奴隷の身分から解放された者もいたことでしょう。
自由の身分を得た者は、自由の身分を誇り、奴隷状態の者に対して優位に振舞ったり、自由市民権を得るように勧めたのではないでしょうか。
混乱の元であり、そんな風潮を改める目的もあってのお勧めなのではないでしょうか。
7:22 主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
「奴隷」は、主人の所有物であり、主人の意に従わざるを得ないのであり、主人を恐れますが、「主にあって召された奴隷」は、御子キリスト・イエス様の所有物になるのであり、真の自由人となるのであり、人を恐れる事、律法や罪、死を恐れる事から解放され、御子キリスト・イエス様に喜んで従い、仕えるのです。
奴隷状態にあり、奴隷状態から抜け出せない者にとって、最も深い慰めを与える言葉でしょう。
「自由人」といっても、この世の権力や法、不条理に縛られ、病気や死を恐れますが、「主にあって召された自由人」は、御子キリスト・イエス様の所有物となり、御子キリスト・イエス様の奴隷となるのですが、御子キリスト・イエス様の支配下、保護下、守り、真の平安の中に入れられるのであり、律法や罪、死を恐れる事からも解放され、御子キリスト・イエス様に喜んで従い、仕えるのです。
自由の意味を履き違え、自由奔放、野放図、気の赴くままに生きる者にとっては、最も鋭い戒めの言葉でしょう。
7:23 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。
「奴隷」も「自由人」も、御子キリスト・イエス様の流された血と云う「代価」によって「買い取られたのです」。
一方において、罪の負債を清算し、罪の奴隷から解放し、キリスト者の自由を与え、御子キリスト・イエス様に仕える者とし、他方、自由人を買い取り、御子キリスト・イエス様の奴隷とし、御子キリスト・イエス様に仕える者とするのです。
「人間の奴隷」とは、人の物差し、人の価値判断に左右される事であり、人からの影響を受け易く、安定性を欠いた生き方です。
人に阿(おもね)り、媚(こ)び諂(へつら)い、追従(ついしょう)する、人の顔色を窺った生き方です。
状況や損得に左右されず、御子キリスト・イエス様の御旨に従い、仕え、生きるとの、毅然とした態度を堅持、維持する事こそ、御子キリスト・イエス様の奴隷の生き方でしょう。
奴隷であっても、真に独立した者、自由な者として生き、死ぬのであり、真の自由人であるなら、真の主人を知っており、自分の物差し、価値判断ではなく、御子キリスト・イエス様の御旨に従い、仕え、生き、また死ななければならないのです。
7:24 兄弟たち。それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
パウロは17節、20節のお勧めを繰り返します。
文脈的には、「奴隷」と「自由人」に対するお勧めですが、一般論として受け止め、独身者や、既婚者に対するお勧めとして理解しなければならないのです。
誰もが、「召されたときのままの状態で」、創造者なる神様の召しに応え続けて生きるべきなのです。
勿論、「召されたときのままの状態で」は、身分や、家族構成、と云う点であり、罪や悪しき習慣、悪癖の継続的状態を許し、勧めているのではありません。
「召されたときのままの状態で」、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様に従い、仕え、生きるべきであり、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様に従い、仕え、生きる者に、人間的な判断や、この世的な価値基準を当て嵌め、キリスト者の理想像、あるべき姿を作るべきではなく、自他に要求しても、押し付けてもならないのです。
【適応】
キリスト者には其々に、キリスト者の理想像があるかと思いますが、基準がある訳でも、条件がある訳でもありません。
人の物差し、評価で決まるものでもありません。
帰属する組織にも、財産にも、出自にも、地位にも、身分にも、経歴にも、性別にも、年齢にも、一切関係、関わりありません。
礼拝出席率、献金や奉仕の多寡、犠牲の大きさ、立ち振る舞いも、一切関係、関わりありません。
これらは、キリスト者であるか否かに関係、関わりありません。
キリスト者の理想像はありません。
誰でも、どんな状態でも、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様は、受け入れてくださるのであり、誰でも、どんな状態でも、キリスト者になれるのです。
強いて、キリスト者の理想像を挙げるなら、何時でも、どんな時にも、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様の御旨を優先し、従い、仕え、生きる事です。
礼拝も奉仕も、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様に対するものだ、との意識と行動でしょう。
過去の状態を正す事でもなく、現在の状態を変える事でもなく、「召されたときのままの状態で」、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様に従い、仕え、生きる事が、キリスト者に求められている事なのです。
過去は変えようがありません。
現在の状態、状況を変えるのも簡単な事ではありません。
創造者なる神様、御子キリスト・イエス様が求め、願っておられるのは、過去を変え、現在を変え、其々が思い描く、キリスト者としての体裁を整えてから、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様に従い、仕え、生きるのでは遅すぎますし、そんな事を求めておられるのではなく、「ありのままで・・・」、何年か前に聞いたフレーズですが、「召されたときのままの状態で」、今直ぐ、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様に従い、仕え、生きる事が何より、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様の喜ばれることなのです。
パウロのお勧めは、割礼の有無による、宗教的差別の解消のために、奴隷の身分による、社会的差別解消のために奔走するのではなく、また、差別により、人を反逆的にさせたり、周囲の現実に腹を立てさせたりする風潮や教えに惑わされず、今あるままの状態で御子キリスト・イエス様の奴隷としての行動を促すお勧めなのです。
どんなに卑しい仕事でも、人のためにするのではなく、御子キリスト・イエス様のためにするのであり、割礼の有無も、奴隷の身分も、御子キリスト・イエス様に仕える妨げとはなりません。
体裁を整え、形ばかりにこだわっても、中身が貧弱、脆弱では何もなりません。
外見の問題ではなく、中身こそ問われるのであり、中身は、直ぐに、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様に従い、仕え、生きる事で形造られ、養われ、培われて行くのです。
召しに直ぐに応答する者こそ、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様に評価されるキリスト者なのです。
まだ準備が出来ていません、気持ちの整理が出来ていません。
もう少し待ってください、云々と、召しを先延ばしにはしていないでしょうか。