2021-10-3礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一14章20節~25

説教題:「預言の稀有な有用性

【導入】

パウロは、1311節で、「 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。

と語り、「幼子」と「大人」の対比を語りました。

人は成長過程で「幼子」を通過、経験するのであり、その貴重な経験を経て「大人」になって行くのです。

幼子」は、知識量も、経験量も少なく、未熟ですから、「幼子として話し、幼子として思い、幼子として考え」るのは当然です。

しかし、何時までも「幼子」でいてはなりません。

幼子」は、知識を蓄え、経験を積んで、階段を上るように少しずつ「大人」になっていくのであり、それを期待されています。

幼子」の特徴は、自分を中心にした主観的、単一的な考え方と云えるでしょう。

しかし、「大人」は遠くまで見渡し、大局的な見方が出来るのであり、客観的、複合的な判断が出来ます。

コリント教会の一部の人たちは、「異言」の賜物を過度に重視し、その他の賜物を軽視していたのですが、それは子どもの状態である、とパウロは指摘したのでした。

異言」を過度に偏重し、ありがたがるコリント教会の人たちに、「異言」の賜物の効能は限定的であり、マイナスの面さえ持ち合わせているのに比べて、「預言」の賜物の有用性、稀有な効能は他の賜物を遥かに凌ぐ、と語ります。

パウロは、コリント教会の人たちに、預言の稀有な有用性に付いて語ります。

【本論】

新改訳2017版 14:20 兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。

子ども」の特徴は、自分を中心に据えて、主体的に考え、外面的なところに価値を見出し、見えるところに判断基準を置く事でしょう。

しかしまた、自分の意見、考えが不明確、希薄、曖昧、抽象的であり、他人の意見に影響され易い、流され易い、と云う点も挙げられましょう。

しかしこれは欠点ではなく、「大人」たちの忠告を受け入れ易い、と云う事です。

比べて、「大人」の特徴は、自分を客観的立場に置き、他者を配慮して考え、内面的なところにも価値を見出し、見えないところにも判断基準を置ける点でしょう。

しかしまた、自分の意見、考えが明確、強固、具体的であり、他人の意見に影響され難い、充分対抗出来る、と云う点も上げられましょう。

しかしそれらは欠点にもなり得るのであり、他者の忠告を受け入れ難く、頑なさにも繋がります。

このような特徴を踏まえ、パウロは、コリント教会の人たちに、「悪事においては幼子でありなさい」と、命じます。

悪事においては幼子でありなさい」の意味は、「悪事」や「ことの善悪」の判断に対しては、自分に甘い判断や、偏った経験を基にした対応ではなく、「大人」の意見や忠告を聴き、律法、聖書を基準に判断する事のお勧めです。

更に、「考え方においては大人になりなさい」と命じます。

大人」の「考え方」とは、先に挙げた、他者を配慮して考え、内面的なところにも価値を見出し、見えないところにも判断基準を置く事ですが、その特徴と共に、最善と思われる意見、建徳的な提案、大局的な判断には、プライドや利害を捨てて聴き、従う事です。

他者への配慮として、特に、キリスト者は、教会の徳を高めるところに、判断基準を置かなければなりません。

個人的な関係性、好き嫌い、応援したい、協力したい、援護したい、ではなく、教会の益になるか、唯一真の神様の栄光を現すか、を判断基準としなければならないのです。

人との関係が悪くなっても、教会の益となる事を、唯一真の神様の栄光を現す事を優先させる考え方が、「考え方においては大人になりなさい」の意味でしょう。

14:21 律法にこう書かれています。「『わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない』と主は言われる。」

律法」と言えば、限定的には「モーセ五書」、即ち、「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」を指し、意味しますが、広く、聖書、旧約聖書全体を指し、意味する場合もあります。

ここで「律法にこう書かれています」は、イザヤ書2811節から12節の引用です。

2017版は1209ページ、第三版は1166ページです。

イスラエルの民は、唯一真の神様を見捨て、離れ、偶像礼拝に現を抜かし、不信仰の極みにありました。

不信仰なイスラエルの民に対して、神様は、何度も何度も、何人もの預言者を遣わし、悔い改めを迫りますが、しかし、頑ななイスラエルの民は、預言者の悔い改めのことばに耳を貸さず、ついに神様は、紀元前720年頃、アッシリア帝国を用いて攻め入らせ、イスラエルを蹂躙し、捕囚の屈辱を味わわせられました。

イスラエルの民は、意味不明な外国語による、即ち「異言」による、神様の語り掛け、悔い改めのことばにも聴く耳を持たず、不信仰に留まり続けるのです。

イザヤの時代、「異言」は最後通牒であり、イスラエルの民の不信仰を確定する働きをしたのです。

イザヤは不信仰なイスラエルの民に、明確な警告を発しましたが、パウロは、イザヤ書を用いて、現在のコリント教会の「異言」の賜物偏重の問題に対して、警告を発します。

14:22 それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は、信じていない者たちのためでなく、信じている者たちのためのしるしです。

異言」は、不信者に対するしるし、警告であり、最後通牒である、と云う事なのです。

異言」は、理解出来ないことばで、理解出来ない外国語で語られますが、最初から「異言」で語られる訳ではありません。

預言」、即ち、常用のことばで語り掛け、理解出来ることばで語り掛けても、聴こうとしないから、拒み続けるから、唯一真の神様は、あの手、この手で語り掛け、「異言」でも、外国語でも語り掛けられるのです。

それ程に、神様は救うためのあらゆる手を使われる、積極的なお方だ、と云う事なのです。

異言」には、直接、積極的に、神様に対する信仰を生じさせたり、信仰を成長させたりする力がある訳ではありませんが、

異言」に価値がないとか、役に立たない、と云っているのではありません。

異言」に与えられた役割は、不信仰を明らかにする事だ、「預言」、即ち、理解出来ることばによるお勧め、警告を拒むなら、不信者には「異言」が語られ、不信者の不信仰を確定させる事になるのです。

異言」は、不信者のためのしるしであり、裁きが付随している事、裁きが間近に迫っている事を暗示しているのです。

一方、「預言」は、信者に対するしるしであり、解り易いことばで、理解出来ることばで、単純明快なことばで語られ、積極的に聴く者、聴こうとする者を信仰に導き、信仰の、救いの確信を与え、励まし、導き、支え、成長させるのです。

預言」は、信者のためのしるしであり、信仰を確立させるためのしるしである、と云う事なのです。

14:23 ですから、教会全体が一諸に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。

教会全体が一諸に集まって」は、公同の礼拝を指している、と考えられますが、公の礼拝で、自分勝手に、秩序もなく、我も我もと「異言」が語られたなら、「初心の人」、即ち、信仰を持ったばかりの人、「信じていない人」、即ち、未信者、無神論者、他宗教の信者などは、教会の正気を疑い、交わりに加わろうとは、信じようとはしないのではないでしょうか。

否、教会に対して懐疑的であった人たちは勿論の事、好意的、友好的であった人たちも、教会に対する拒否、拒絶の態度を新たにし、強めるのではないでしょうか。

「イエスは主です」と、告白して、信仰共同体の一員として、唯一の、生ける、真の神様を礼拝する者として生きる決心に導く妨げとなり得るのであり、教会の重要な使命である、福音宣教の使命を果し得なくなるのです。

そして、関係の回復のためには、余計な苦労や時間を要する事になりかねないのであり、「異言」の賜物は、然るべき人物が担う、時と場所を弁えなければならない賜物なのであり、慎重な取り扱いを要する賜物なのです。

14:24 しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、

一方、「預言」の賜物は、キリスト者全員が担う賜物であり、全てのキリスト者には、福音宣教の働きが委ねられているのであり、他人任せではなく、各人が、時が良くても悪くても、勿論、時と場所を弁えなければなりませんが、あらゆるチャンスを逃してはならないのです。

特別な訓練を受けていなくても、聖書の聖句の一節でも暗誦し、その意味を解説するなら、立派な福音宣教の働き人であり、未信者、不信者は、聖書のことばに触れるチャンスが飛躍的に向上します。

未信者、不信者は、聖書のことばに触れて、自分の罪を示され、信仰に導かれるのです。

信者も、お互いに啓発し合うのであり、教会の徳を高めるのです。

パウロは、「預言」の賜物は、信者に対しても、未信者、不信者に対しても、如何に恵みに富んだ影響を与えるかを力強く語るのです。

14:25 心の秘密があらわにされます。こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。

預言」の賜物の働きは、一に「誤りを指摘」し、二に「問いただ」し、三に「心の秘密があらわに」する事です。

唯一真の神様に対する考え方、態度、神の前の生き方、のみならず、隣人に対する考え方、態度、思い、生き方、の誤りを指摘し、質し、秘密をあらわにし、正します。

結果、未信者、不信者は、唯一真の神様だけがおられる事を知り、唯一真の神様を告白するに至り、唯一真の神様を礼拝する者とされるのです。

勿論、信者に対しても、継続的に「誤りを指摘」し、「問いただ」し、「心の秘密があらわにされ」続ける事は、言うまでもありません。

預言」の賜物は、全ての人たちを、信仰共同体の一員として生きる決心へと導くのです。

預言」の賜物は、全ての信仰共同体を、唯一真の神様の願われる、在るべき姿に導くのであり、その有用性は稀有と断定するものなのです。

【適応】

先に、「預言」の賜物の働きは、一に「誤りを指摘」し、二に「問いただ」し、三に「心の秘密があらわに」される事だ、と申し上げました。

他の賜物も、其々遜色なく重要ですが、パウロが「預言」の賜物と対比させた「異言」の賜物は、コリント教会の人たちが重要視した「異言」の賜物は、未信者、不信者の不信仰を確定させるために、大きな役割を担います。

これは、これで非常に必要な働きではありますが、残念な事に、人を生かす、活かす働きではありません。

一方、「預言」の賜物の働きは、信者を信仰に留め続けるのであり、そして24節、25節に記されているように、未信者を、不信者を信仰に促すのであり、「預言」の賜物の働きは、信仰者、未信者、不信者に対する継続的な働きであり、唯一真の神様との関係を保ち続けさせる、非常に重要な働きなのです。

預言」の賜物の働きは、永遠の命、天国に至る道を示す働きであり、未信者、不信者を信仰に導き、命を与える働きであり、「預言」の務めの重要性は、比類のない、稀有な働き、と断じて然るべきなのではないでしょうか。

預言」の賜物の働きは、唯一真の神様と断絶した罪人を、滅び行くしかない罪人を、神様の下に導き、神様と和解させ、罪人の罪を赦し、罪人を義と見做し、罪人に命を与える働きであり、この働きに勝る働きがあるでしょうか。

そして、この「預言」の賜物の働きは、信仰者全ての働きである事を繰り返し確認したいと思います。

日本の教会を見た時に、多くの教会で、「預言」の賜物の働きを担っているのは説教者だ、との認識であり、その説教者は、僅か一人です。

これでは福音宣教の働きの前進は高が知れています。

信徒数の少ない日本の教会ですが、それでも、この教会にも信徒は10人前後います。

その10人が、私は伝道者である、「預言」の賜物の働きを担っている、との意識、認識を持って行動するなら、10倍の働きとなるのではないでしょうか。

積極的な、「預言」の賜物の働きを期待されていますが、但し、無計画、無秩序を容認しているのではありません。

唯一真の神様は、秩序の神様であらせられますから、賜物の活用に際しては、教会の指示を受け、了解を経てでなければならない事は、言うまでもない事です。

御霊の賜物は個々人に与えられ、委ねられていますが、御霊の賜物の主権は御霊に在るのであり、主権は教会に委ねられており、決して主権まで個人、信徒に委ねられてはいません。

どの御霊の賜物も、益になる事でも、正しい事でも、誰もが賛同する事でも、教会の規則、手続きなどの中で、秩序をもってして用いられ、活かされるべきであり、教会へ何の報告もなく、連絡もなく、相談もなく、了解も得ぬまま、無計画、無秩序、個人の好き勝手、思いつくまま、仲間内の了解のみ、であってはなりません。

預言」の賜物の働きの有用性は、稀有ですが、その稀有な働きが信徒に委ねられているのは、プロテスタント教会の特徴と言えるでしょう。

唯一真の神様を知らない人々に、神様を知らせるのは、「預言」の賜物の働きを委ねられた信徒たちです。

この稀有な働きを通して、この罪に塗れた世界で、唯一真の神様の栄光を現すのです。

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聖書個所:コリント人への手紙第一14章26節~33節a

説教題:「教会、礼拝の秩序」

【導入】

パウロは、コリント教会の人たちに、そして、時を越えて、現代の私たちにも、御霊の賜物には優劣がない事、種々の御霊の賜物の有用性を繰り返し述べて来ました。

特に、コリント教会の一部の人たちは、発言力の強い、影響力の大きい人たちは、「異言」の賜物を過度に重視し、その他の賜物を軽視していたのですが、それは子どもの状態である、とパウロは指摘したのでした。

異言」の賜物は、それはそれで有用ですが、「異言」を偏重し、ありがたがるコリント教会の一部の人たちに、「異言」の賜物の効能は限定的であり、マイナスの面さえ持ち合わせているのに比べて、「預言」の賜物の有用性、稀有な効能は他の賜物を遥かに凌ぐ、と語りました。

しかし、「預言」の賜物も、他の賜物も、用いるに何の問題もない訳ではありません。

時と場所と状況を弁えなければならないのであり、パウロは、教会の秩序、礼拝の秩序、集会の秩序と云う面から、実際的な指示を与えます。

【本論】

新改訳2017版 14:26 それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。

パウロのお勧めの仕方は、事柄の本質、原理、原則を掘り下げ、解き明かしますが、同時に、常に、実際的、実践に即した指示、適応をも与えます。

原理、原則だけを教えられても、適応が明確、的確でないと、自分たちの好き勝手な解釈、自分たちの都合に合わせた適応になりかねません。

個人の意思や権利が尊重される現代では、強い物言い、指示的な説教はパワハラになりかねませんから、注意、配慮が必要ですが、的確な適応を、明確に示す必要はありましょう。

唯一真の神様の御旨、原理、原則を語り、そして適応を明確に、的確に示しますが、強制的に従わせるのではない、命令するのではない、従わざるを得ないように仕向けるのでもありません。

但し、信徒たちの、教会や礼拝、集会に混乱を招くような解釈、適応、そして言動とに対しては、凛とした態度を取らなければなりません。

あなたがたが集まるとき」とは、狭義には、公同礼拝を意味していますが、広義には、家庭集会、地域集会、特別集会なども含んでいると思われます。

それらの場での、「賛美したり、教えたり、啓示を告げたり」などの御霊の賜物が生かされる事を、豊に用いられる事を奨励しつつ、パウロは「異言を話したり」と、「解き明かしたりする」事を固く結び付けて語ります。

異言」には、「解き明かし」が不可欠であり、それは「そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい」に集約されます。

何をするにも、しないにも、「成長に役立てるために」です。

26節に挙げた五つの御霊の賜物以外にも、礼拝や集会を構成している御霊の賜物は多種多様であり、それらすべては「成長に役立てるために」です。

新共同訳聖書は「あなたがたを造り上げるために」と訳し、口語訳聖書、新改訳第三版は「徳を高めるために」と訳していますが、意味するところは同じ、「成長に役立てるために」です。

成長に役立てるため」との意識と内容が欠けた礼拝は、集会は、そして賛美は、祈りは、説教や奨励は形骸化しているのであり、荘厳な奏楽の調べや、美しい歌声に聞き惚れ、美辞麗句の祈りや、説教、奨励が感動を与えても、全く意味のない礼拝、集会と言わざるを得ません。

礼拝や集会の基本は、唯一真の神礼拝であり、その神に献げる賛美であり、祈りであり、悔い改めに繋がり、生き方を変える説教や奨励であるべきです。

パウロは、「成長に役立てるために」と云う原則を示し、続けて具体的な適応を示します。

14:27 だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。

パウロは、教会で、礼拝で、集会で「異言」を語る事を禁じません。

寧ろ有用性を認めていますが、「語るのであれば」と、条件が伴う事を示します、即ち、「二人か、多くても三人」との人数制限を明確に示し、「順番に行い」とのルールを示し、更には、「一人が解き明かしをしなさい」との、三つの条件を付けます。

人数制限と順番にとのルールは、基本的な条件であり、「異言」を語る事のみならず、29節の「預言」を語る時にも、適応されるものです。

このほかにも、証しや分かち合い、報告、連絡などでも、適応され得る条件です。

14:28 解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。

パウロは、もし「解き明かす者がいなければ、教会では黙っていな」さいと命じます。

黙っていな」さいとは、大胆且つ、強権的な命令ですが、パウロは「異言」を禁止した訳ではなく、「自分に対し、また神に対して語りなさい」と付け加えています。

言いたい事は、言えばよい訳ではありません。

異言」のような特殊な賜物は、時と場所と状況を弁えなければならないのであり、「異言」のような特殊な賜物は、「解き明かす者がいなければ、教会では黙っていな」さいなのです。

公同の礼拝、或いは集会では、全ての出席者が、信者、未信者に関わらず、何が語られているかをはっきり理解出来るように、細心の配慮を払わなければなりません。

パウロの願いは、全ての出席者が、語られた「異言」を理解する事であり、「成長に役立てるために」を、如何に重んじていたかです。

成長に役立てるために」、「解き明かす」事を条件としたのです。

14:29 預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。

条件付なのは「異言」だけではありません。

預言」も、「異言」と同じく、「二人か三人が」、との人数制限を明確に示し、「ほかの者たちはそれを吟味しなさい」と命じます。

公同の礼拝、或いは集会の出席者は、特にキリスト者は、語られた「預言」が、真の預言であるかを吟味しなければならず、吟味する事は大切な働きであり、また、吟味する責任が与えられている事を忘れてはなりません。

牧師の言う事だからと、何の疑いもなく鵜呑みにしてはならず、聖書に照らし合わせて調べなければなりません。

使徒の働き1711節、2017270ページ、第三版263ページ、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のであり、この姿勢が大切であり、「成長に役立」つ事なのです。

聖書を開くのは教会だけ。

こんな姿勢では自身の成長も、教会の成長も、全く見込めないでしょう。

否、形だけのキリスト者を増やすだけであり、害毒を撒き散らすに至るのではないでしょうか。

14:30 席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。

啓示」は、ここでは「預言」と同義で扱われていますが、原文に「啓示」に対応するギリシャ語はなく、文脈から補って訳しています。

啓示」、「預言」は、唯一真の神様の導きで語るのであり、非常に有益な御霊の賜物であり、取捨選択は難しいでしょうが、新たな「啓示」、「預言」が始まったならば、発言の機会を譲る事が命じられています。

その理由は、第一に、教会に、礼拝に、集会に混乱を招かないためです。

14:31 だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。

教会の、礼拝の、集会の目的は、「預言」や「啓示」、或いは「異言」から、「だれでも学びだれでも励まし」を受け、「成長」するためです。

そのためには、「一人ずつ預言する」のであり、秩序を守る事が重要なのです。

教会は、礼拝は、集会は、御霊の自由な導きの中で、秩序を保ち、互いに「学び」、互いに「励まし」を受け、「成長」する場なのです。

励まし」には、慰めも含まれるでしょうから、即ち、交わりの場でもあるのですが、教会、礼拝、集会の中心は、御ことばであり、「預言」や「啓示」、或いは「異言」が中心である事は、しっかりと押さえ、肝に命じておかなければなりません。

キリスト教会で、「学び」が等閑にされ、交わり中心になり、サロン化、仲良しクラブ化してしまっては、キリストの教会では、礼拝では、集会ではありません。

教会では、礼拝では、集会では、何がなくても、御ことばだけは語られなくてはならないのです。

パウロは、「異言」や「預言」、「啓示」には、「二人か、多くても三人」、との人数制限を明確に示し、「順番に行い」とのルールを示し、「異言」には、「一人が解き明かしをしなさい」と命じ、「預言」には「吟味しなさい」と命じます。

教会は、礼拝は、集会は、御霊の自由な導きを尊重しつつ、秩序を保って進行する事を命じます。

何故ならば、

14:32 預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。

御霊に導かれての「異言」や「預言」であるならば、制せられるし、制しなければならないのです。

預言」し出したら止まらない、「異言」を語り出したら止められない、としたら、それは我を通そうとする、我ままな子どもの状態であり、御霊の賜物の働きから逸脱している事の証拠なのです。

自分のしたい事をするのではなく、出来るからするのでもなく、唯一真の神様の主権の下で、御霊の導きの下で、順次、「異言」や「預言」を語らせていただくのです。

14:33 神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。

混乱」は、無秩序、暴動、などと訳されるギリシャ語であり、「ではなく」、即ち「混乱」の否定ですから、秩序、調和などの意味として理解、訳する事が出来るでしょう。

平和」は、和合、などと訳されるギリシャ語であり、唯一真の神様のご性質を示していますが、教会は、礼拝は、集会は、神様のご性質が現われる場なのです。

混乱・・・ではなく」、「平和」、とまでは言わないけれども、何となく雑然とした教会、ざわついている礼拝の意味でならば、心当たりがあるのではないでしょうか。

(しわぶき)一つない静寂を要求しているのではなく、礼拝に向けての心構えを問うているのです。

教会を、礼拝を、集会を、唯一真の神様との交わりの場として、聖別しているのか、です。

唯一真の神様の御旨が、「異言」や「預言」を与える事で、教会を、礼拝を、集会を、混乱させる事であるはずがありません。

だから、パウロは、「異言」や「預言」には、「二人か、多くても三人」、との人数制限を明確に示し、「順番に行い」とのルールを示し、「異言」には、「一人が解き明かしをしなさい」と命じ、「預言」には「吟味しなさい」と命じるのです。

【適応】

唯一真の神様は、キリスト者の「成長に役立てるために」、「異言」や「預言」を与えてくださいました。

現代の教会で、「異言」が語られる事は希であり、「預言」は説教として、礼拝形式が整い、式次第があり、司会者が立てられ、整然とした礼拝や集会が進められて行く中で語られ、「混乱・・・ではなく」、「平和」な礼拝、集会が献げられています。

しかし、「異言」や「預言」に限定せず、唯一真の神様の御旨としての、「混乱・・・ではなく」、「平和」な礼拝、集会であるかどうかを、吟味しなければなりません。

混乱」、「平和・・・ではなく」、とまでは言わないけれども、何となく雑然とした教会、ざわついている礼拝、集会の意味でならば、心当たりがあるのではないでしょうか。

教会は、礼拝は、集会は、御霊の自由な導きの中で、秩序を保ち、互いに「学び」、互いに「励まし」を受け、「成長」する場である、と申し上げました。

励まし」には、慰めも含まれるでしょうから、即ち、交わりの場でもあり、音信を確かめ合い、祈りの課題などを確認し合いもするのですが、教会、礼拝、集会の中心は、御ことばであり、「預言」や「啓示」、或いは「異言」が中心である事は、しっかりと押さえ、肝に命じておかなければなりません。

可能な限りの静寂や、調和、秩序の中で、礼拝が、集会が進められていくための、工夫と協力を惜しんではならないのです。

週報には、次週の情報が載せられていますので、司会者でなくても、招詞、聖書箇所、賛美歌を確認し、目を通しておくのは有益です。

音信などは、報告の時間に紹介されますし、紹介する必要があるならば、ここで伝達するのが良いでしょう。

そして、重要なのは、信徒一人一人の、教会に、礼拝に、集会に対する心、思いです。

先に、教会を、礼拝を、集会を、唯一真の神様との交わりの場として、聖別しているのか、と問い掛けましたが、その準備が出来ているのでしょうか。

日常の事も大切ですが、唯一真の神様に招かれている、神様の前に出る、との意識と心構えが出来ているか、です。

サムエル記第一39節、2017版は483ページ、第三版は470ページ、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」です。

唯一真の神様の語り掛けを、今か今かと待ち望んでいるか、語り掛けに集中しているか、です。

祭司エリは、幼いサムエルに、的確な助言を与えましたが、この助言は、現代でも、否、忙しい現代だからこそ、より一層、意味を持つ、重要な助言です。

片手間に、唯一真の神様の語り掛けを聞くのではありません。

全身全霊を掛けて、礼拝に、集会に臨むのであり、自ずと秩序が整うのです。

私たちの教会は、礼拝は、集会は、唯一真の神様に相応しく、整えられた、秩序あるものでしょうか。

そのような教会、礼拝、集会を目指し、この混乱した、平和と程遠い世界に、秩序と調和と、平和と和合をもたらし、唯一真の神様の栄光を現すのです。

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聖書個所:コリント人への手紙第一14章33節b~40節

説教題:「礼拝に相応しく」

【導入】

コリント教会の問題、混乱は、身分や地位の差、貧富の差を理由とする差別から起こり、また、異言」の賜物を過度に重視し、その他の賜物を軽視していた事から起こりましたが、それだけが原因となって起こったのではありませんでした。

男女同権、平等の誤解からも、教会に問題を起こし、混乱を招いていたのです。

今回の聖書箇所で、パウロは、女性の発言を扱っていますが、パウロが言いたい事は、女性に限定した問題行動では在りません。

時と場所と状況を弁えない行動全般を問題とし、戒めている、と理解する必要がありましょう。

言いたい事を、時と場所と状況を弁えないで言うと云うのは、子どもの状態の特徴であり、パウロは、教会の秩序、礼拝の秩序、集会の秩序と云う面から、礼拝に相応しい行動について、実際的な指示を与えます。

【本論】

新改訳2017版 14:33b 聖徒たちのすべての教会で行われているように、

当時の社会は、公的な場で、女性が発言をすると云う事は、社会常識や、礼儀に反する事であり、恥かしい事とされていましたが、男女同権や男女平等の教えを誤解した、コリント教会の一部の女性信徒は、礼拝や、集会などで語られる預言や啓示、異言、教えに対して、時と場所と状況を弁えずに、疑問や質問、意見などを発していたのです。

パウロは、礼拝や集会などで、啓示を受けた女性信徒が、預言をする事や教える事を認めており、禁じてはいません。

コリント人への手紙第一115節、2017342ページ、第三版333ページを読んで頂くと、礼拝や集会での発言を禁じてはいない事が明らかです。

その点で、古い考え方を捨て、男女同権、男女平等を肯定していたのですが、しかし、時と場所と状況を弁えない自由気ままな疑問や質問、意見に対しては、反対の意を表明するのです。

14:34、女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。

パウロは、「女の人は教会では黙っていなさい」と、強く命じます。

教会」と訳されているギリシャ語は、他に「集会、集まり、議会」などの意味がありますから、それらに類する公的な場では、女性信徒は黙っていなさい、と命じていると理解する必要があるでしょう。

キリスト教界は、社会常識などや、因習などからも解放されていますが、聖書の教え、律法には従わなければなりません。

パウロは「律法も言っているように」と言っていますが、パウロが根拠とする聖書の箇所は、旧約聖書、創世記316節、2017342ページ、第三版333ページ、「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」であり、女性の夫への服従を、女性が女性の立場に留まって服従する事を命じます。

パウロは、新約聖書、エペソ人への手紙522節、2017391ページ、第三版379ページ、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」と勧めていますが、他にも、エペソ人への手紙525節、コロサイ人への手紙318節、テトスへの手紙25節でも、女性の夫への服従を勧め、ペテロもペテロの手紙第一31節や、5節でも、女性の夫への服従を勧めています。

未婚の女性の場合には、父親か、兄に従うのが当時の社会でした。

パウロは、直接には女性信徒に語りかけていますが、子どもたちにも語りかけていると理解する必要があるでしょう。

キリスト教界では、女性や子どもの権利が認められ、尊重されていても、教会の、礼拝の、集会の秩序を守る事が優先されなければならないのであり、それは、男性でも、身分や地位が高い人でも、有力者でも、富める者でも、権利などの制限を受け、教会の、礼拝の、集会の秩序を守る事が優先されるのです。

パウロが問題としているのは、コリント教会の礼拝、公同の礼拝が、混乱していた事であり、その混乱の一つに、礼拝や集会中の女性の発言が、混乱を招いている実態を憂い、具体的指示を与えるに至ったのです。

教会では、礼拝や集会でも、女性の発言、質問などは制限され、禁じられますが、一切の疑問や質問、意見が禁じられている訳ではありません。

14:35 もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。

パウロは、「もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい」とお勧めしますが、当時の社会、常識では、女性が疑問や質問、意見を口にする事は、公の場は勿論の事、家庭でも制限され、禁じられてもいたようですから、画期的な教え、と云う事が出来るでしょう。

教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいこと」だが、時と場所と状況を弁えるなら、疑問や質問、意見などの発言は許されるし、それこそが女性信徒に相応しい事だ、女性に限らず、時と場所と状況を弁えることは、好ましいことであり、慎ましい生き方だ、と奨励するのです。

パウロは、女性信徒の、教会や礼拝、集会での発言について、一応の結論を語りましたが、続けて、コリント教会の問題の原因となっている、誇り高さや、優越意識が強い点について話を展開していきます。

14:36 神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。

パウロは、コリント教会の人たちが問題行動を起こすのは、誇り高さや、優越意識が強い点にあり、コリントの地が、文化的にも、経済的にも優位にあり、その誇り高さや、優越意識が、キリスト教信仰にも影響していると見抜いて、36節の警告を与えるのです。

コリント教会が重要な役割を果し、キリスト教伝道に大きく貢献している事は事実ですが、「神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか」と問い掛け、まるでコリント教会こそが、キリスト教信仰、発祥の地のように振る舞っているが、「神のことばは、・・・あなたがたにだけ伝わったのでしょうか」と問い掛け、コリント教会のみが、唯一真の神様の啓示を受けているかのように振る舞っているが、それは大きな間違いであり、独善主義に陥っている、自惚れている、と警告を与えるのです。

コリントの地に福音が届けられたのは、コリント教会が用いられているのは、唯一真の神様のご計画、御旨であり、福音の歴史の流れの中に生かされている事実を忘れてはならず、福音の広がりと云う世界的視野を無視してはならないのです。

時間と空間を貫く、キリスト教会の交わりの中に招かれ、生かされるのは、唯一真の神様の恵み、憐れみであり、コリント教会に何か良い点、有益な点、良い行いがあったからではないのです。

これは、一人一人の信徒にも当て嵌まる事です。

私たちは、一方的な神様の恵み、憐れみで、救いに導かれ、救われ、キリストと共に生きるようにされたのであり、私たちに何か良い点、有益な点、良い行いがあったからではないのです。

14:37 だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。

パウロは、ここまで述べて来た事に付いて、即ち、「私があなたがたに書くこと」は「主の命令である」と、宣言し、それを「認めなさい」と、命じます。

御霊の賜物を受けている人は、パウロが使徒として「主の命令」を語っている事が解るはずであり、認めるならば、「自分を預言者、あるいは御霊の人と思っている」事の証明になる、と宣言します。

パウロの働きも、コリント教会の信徒の働きも、同じ唯一真の神、御霊の働きであり、そこに齟齬がないからです。

14:38それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。

パウロが「あなたがたに書くことが主の命令であることを認め」ないなら、それはパウロの使徒職を認めない事であり、コリント教会の一部の人たちの誇りや主義主張と、パウロの使徒職の権威とが激しく対立している様相なのですが、単なる主義主張、意見の相違や、確執ではなく、唯一真の神様の主権に対する対立なのです。

パウロの使徒職は、唯一真の神様から与えられた職務と権威であり、コリント教会の一部の人たちの主義主張は、神様から委ねられたものではなく、人間的なものであり、パウロへの非難や、無視、反抗は、唯一真の神様の主権、御旨に対する挑戦、反抗でしかないのであり、「その人は無視されます」と語りますが、「預言者、あるいは御霊の人」とは認められない、以上の意味が含まれており、「神の民として認められない、救いに与れない、厳しい裁きに遭う」の意味を込めて語っているのです。

この教えは、現代にも通ずる教えです。

按手を受けた教職者の職務と権威は、唯一真の神様から与えられた職務と権威であり、信徒たちの働きや主義主張は、それはそれで有用な部分があり、貴重ですが、按手を受けた働きではない、と云う事です。

教職者への非難や、無視、反抗は、唯一真の神様の主権、御旨に対する挑戦、反抗になりかねないのであり、慎重でなければならないのです。

14:39 ですから、私の兄弟たち、預言することを熱心に求めなさい。また、異言で語ることを禁じてはいけません。

パウロは、「私の兄弟たち」、と親しみを込め、優しく呼びかけ、教会にとって、信徒の成長のためには、「預言すること」が重要であり、必要であり、「熱心に求めなさい」、と命じますが、「異言で語ること」も重要であり、必要であり、決して「禁じてはいけない」、と命じます。

ここまで、パウロが語って来た事は、時に強い表現もあったでしょうが、穏やかな心で読めば、偏見なしで読めば、決して「異言で語ること」を禁じていない事は明らか、明白ですが、「異言」を偏重する一部の人たちは、パウロの教えを曲解し、「異言で語ること」を禁じていると、誤解しかねないので、「禁じてはいけない」事を明らかにした言葉を付け加えたのです。

私たちは、二者択一、白黒を付けたがりますが、「預言すること」、「異言で語ること」、どちらも必要なのです。

ここでは「預言すること」、「異言で語ること」、が扱われていますが、どの賜物も、時と場所と状況を弁える事が大切なのです。

14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。

預言すること」、「異言で語ること」、どちらもバランスが大切であり、片方だけを重要視し、有り難がるのは、混乱のもとです。

すべてのことを適切に、秩序正しく」が、大切であり、時と場所と状況を弁える事が大切です。

各種の賜物が、豊に与えられていても、好き勝手、自由気ままに用いたならば、其々の賜物がぶつかり、其々の賜物の良さが発揮出来ず、潰し合う事になってしまいましょう。

適切に、秩序正しく行」ってこそ、賜物の良さが生かされ、欠けが補われ、相乗効果を発揮するのです。

至って、唯一真の神様の栄光を現す事となるのです。

【適応】

すべてのことを適切に、秩序正しく」は、コリント教会の公同の礼拝、集会に於いてのみ、適応され得る、教えではありません。

いずれの時代の、いずれの文化の、いずれの教会にも通ずる、根本的、普遍的教えです。

時代により、文化により、教会により、違いはあるでしょうが、「すべてのことを適切に、秩序正しく」、「礼拝に、相応しく」を意識する事が大切です。

「唯一真の神様に、献げるに、相応しく」と言い換えるとより具体的です。

礼拝は、唯一真の神様のためであり、自分たちのためではありません。

礼拝は、唯一真の神様の栄光を拝するのであり、自分たちのためではありません。

礼拝は、唯一真の神様に讃美と献げ物を献げるのであり、自分たちのためではありません。

新約聖書、ペテロの手紙第一31節、2017468ページ、第三版455ページ、「妻たちよ、自分の夫に服従しなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。

3:2 夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。

3:3 あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。

3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです」と教えている通りです。

唯一真の神様に招かれての礼拝ですから、服装、身だしなみは勿論の事、立ち振る舞い、言動にも、相応しさが求められるのです。

信徒同士の挨拶は会釈程度で十分であり、音信や近況を確認するのは控え、礼拝後にすべきでしょう。

礼拝堂では、饒舌(おしゃべり)は慎み、静かに待つべきですが、咳(しわぶき)一つ、たてていけない訳ではありません。

服装なども、普段着や作業着は、相応しい、とは言えず、しかし、正装が相応しいと云う訳でもありません。

質素、簡素、清潔を旨とすべきでしょう。

礼拝堂内の装飾も、質素、簡素、清潔を旨とすべきでしょう。

神社仏閣に行き、堂内、社(やしろ)内に入る機会がありますが、「静謐」と云う言葉がぴったりな雰囲気です。

比べて、キリスト教会、プロテスタント教会は、騒然、雑然としていて、厳かさ、厳粛さとは遠いな、と感じるのは私だけでしょうか。

人間同士でも「親しき仲にも礼儀あり」なのに、創造者にして、全知全能、唯一真の神様に対して、余りにも礼儀を欠き、慣れ慣れし過ぎてはいないでしょうか。

プロテスタント教会の良さではあるのですが、神への恐れが薄くなり、神の怒り、裁きを軽んじる結果となり、罪の赦し、贖い、救いも、漠然としたものになり、益々、礼拝の相応しさから離れてしまい、形式的、概念的な信仰になってしまうのではないでしょうか。

唯一真の神様は、御用聞きに、便利な執事になり下がってはいないでしょうか。

礼拝のあり様が、神観に、信仰にも影響するのであり、礼拝を見れば、その教会の信仰の程度が知れるのです。

私たちの教会は、礼拝は、集会は、唯一真の神様に相応しく、整えられた、秩序あるものでしょうか。

そのような教会、礼拝、集会を目指し、この人間中心の世界に、唯一真の神様の栄光を現したいものです。 

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                                              2021-10-24礼拝

聖書箇所:第一サムエル2024節~42

説教題:「主が私とあなたとの間の永遠の証人です」

【導入】

一生懸命にやっているのに認めてもらえない。

陰日向なく行動しているのに誤解を与えてしまう。

世の中には不遇な立場、不当な評価に辛い思いをしている人が多くいることと思いますが、ダビデもまた、謂れの無い誤解に会い、その心を痛めていました。

ダビデはサウル王に媚びへつらう訳でもなく、ぞんざいな態度を取った訳でもなく、唯一真の神様の為に、イスラエルの為に、サウル王の為に、命がけで戦ったのであり、其処には私利私欲の思いは一欠けらもなかったのです。

ましてや、サウル王家の王位を狙う思い、サウル王の命を狙う思いなど、微塵もなく、「滅私奉公」と言う言葉はダビデの為にあると言っても過言ではないでしょう。

しかし、そんな忠実無比なダビデの活躍を妬み、ダビデを殺そうと考えるサウル王ですが、ダビデに味方し、ダビデを助けるために立ち上がる人々が神様によって起こされます。

その助け手は、サウル王の息子であり、強い影響力を持つヨナタンであり、いち早くサウル王の気持ちを知り得る立場にある娘ミカルであり、サウル王に諫言出来る立場にある預言者サムエルでした。

唯一真の神様はダビデの思いに先駆けて助け手を起こし、絶体絶命の窮地から何度もダビデを助け出して下さいました。

ダビデが助命嘆願しなくても、ヨナタンは自主的にサウル王に執り成しをして下さったのであり、この執り成しが功を奏して、ダビデは命の保障の確約を得た訳ですが、この確約もサウル王の確たる信念、決意によるものではなく、謂わば、その時の精神状態によるものであり、気分次第で反故にされ得る約束でしかなかったのです。

サウル王はダビデの活躍を聞くと、ダビデに対する妬みの思いが湧き上がり、ヨナタンとの、唯一真の神様のお名前を通しての約束にも関らず、ヨナタンに隠れて、再びダビデの命を付け狙いはじめるのです。

この事実をダビデはヨナタンに告げ、サウル王のダビデ殺害の思いが確固たるモノなのか、誰にも止められないモノなのかを確認する提案を致します。

その方法は、前回確認した通りです。

この方法によって、ダビデの思い過ごしなのか、サウル王のダビデへの妬み、憎しみは拭い得ない、修復し得ないモノであるのかがはっきりする訳です。

【本論】

新改訳2017版 20:24ダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。

20:25 王は、いつものように自分の席、つまり壁寄りの席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの席は空いていた。

20:26 しかし、その日、サウルは何も言わなかった。「思わぬことが起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう」と思ったからであった。

新月祭については前回解説しましたので、重複は避けますが、この新月祭、通常は一日だけの祭りであったようです。

しかし、状況によって、地域によって、バリエーションがあったようで、当日参加出来なかった者の為に、翌日にも祭りを行なう事もあったようです。

今回の新月祭では、ダビデが欠席であり、サウル王はその欠席の理由を好意的に解釈した訳なのです。

しかし、そもそもサウル王はダビデに対して懐疑的であり、このダビデの新月祭欠席理由の好意的な解釈には釈然としないものを感じます。

何の根拠も無い疑いを掛けるかと思えば、何の根拠も無く非常にダビデ寄りの解釈もするのです。

サウル王の思考はどうなっているのでしょうか。

自己中心な人であっても、ここまで両極端な思考はしないのではないでしょうか。

ある程度は統一性があるものであり、ここまで両極端な考え方はしないものです。

ダビデに疑いを持っているサウル王ですから、新月祭の欠席理由についても、悪意ある解釈をするものなのではないでしょうか。

この両極端なサウル王の姿には、唯一真の神様への信仰がありながら、その信仰に徹し切れない人の憐れ、不安定さが描かれているのです。

新月祭という、神様の前に出て、神様に守られ精神的にも安定している時には、極、常識的な、中立の意見を、判断をする事が出来ましたが、自分の考えを前面に押し出した瞬間に、神様の守りは後退し、わざわいの霊に支配され、精神的な錯乱状態に陥り、病的な、支離滅裂な判断、行動を取るに至るのです。

新月祭初日は好意的な解釈をしたサウル王ですが、二日目の、ダビデのために開いた祭りなのにダビデが欠席する事態に至って、サウル王の疑惑の思いが心を支配し始めます。

20:27 しかし、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデの席は空いていた。サウルは息子のヨナタンに言った。「どうしてエッサイの子は、昨日も今日も食事に来なかったのか。」

20:28 ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。

20:29 『どうか、私を行かせてください。氏族の祝宴がその町であります。長兄が命じているのです。今、あなたのご好意を得ているなら、どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください』と言ったのです。それで彼は王の食卓に来ていないのです。」

前回も確認したように、祭り、或いは、礼拝の主旨は「神様に覚えられるため、神様を覚えるため」です。

ですから、何処で、誰と祭り、或いは、礼拝を祝おうと、何の問題もありません。

勿論、人間の都合が優先されてはなりませんし、唯一真の神様を忘れた、形だけの祭り、或いは、礼拝にならないように心がけなければならない事は言うまでもありません。

ヨナタンの、ダビデ欠席の理由説明は、神様を蔑ろにする理由ではありませんから、叱責を受ける謂れはありません。

しかし、サウル王は突然激怒し、その怒りの矛先を息子のヨナタンに向けてしまうのです。

20:30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。

20:31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」

冷静沈着な人であっても、怒りの渦中にあってはあらぬ事を、言ってはいけない事を口走ってしまう事があるものですが、このサウル王の30節の言葉は、「エッサイの子に肩入れし、自分を辱め」と言う表現は、同性愛の疑いをかけている表現と取る事が出来るのであり、唯一真の神様を中心として交わした、生涯変らぬ友情を侮辱し、泥まみれにするものであり、ヨナタンを侮辱し、その母を侮辱するものであり、それは同時に自分自身をも貶める言葉である事にも思いが及ばないまでに、錯乱してしまっているのです。

それもこれも「わざわいをもたら神の霊」のなせる業、怒りに身を任せた結果ではありますが、サウル王自らが招いた事であり、片足を唯一真の神様の側に、もう片方をこの世に置いた生き方は、結局神様の前に安定を欠いた生き方、神様を信頼できず、神様から恵みを受けられない生き方となり、結果、誰も信頼できず、誰からも信頼されない生涯とならざるを得ないのです。

20:32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」

20:33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。

20:34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。

ヨナタンの懸命な説得にも耳を傾けず、サウル王は力ずくでこの問題に終止符を打とうとします。

ヨナタンに槍を投げつけるとは、誠実に諭そうとするヨナタンに対して、問答無用の暴挙に出たのであり、実の息子、サウル王家の王位継承者であるヨナタンをも躊躇なく殺そうとする行為に、サウル王の憎しみがダビデのみならず、ダビデと関る全てに、サウル王の廻り全てに注がれている事実を見出す事が出来るのです。

妬みは勿論の事ですが、憎しみも治めなければなりません。

妬み、憎しみは、自然に治まるものではなく、強い精神力と理性でもって持続的に治めなければならないものなのです。

創世記47節、20176ページ、第三版6ページ、「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」

罪はストーカーのように一方的に、執拗に付き纏います。

明確に認識し、立ち向かわない限り、離れる事はありません。

軽く見ていると、侮っていると、どんどん近づいて来ます。

戸口での待ち伏せを許していると、何時の間のか、家の中に入り込んで来て、家を乗っ取ってしまうのも時間の問題です。

そうならないためにも、罪は小さい内に、立ち向かい、処理してしまわなければなりません。

罪は次なる罪を呼び寄せます。

妬みは憎しみを呼び寄せ、憎しみは殺意を呼び寄せるのです。

ダビデに対する妬みを、強い意志と神様の助けによって解決しなかったサウル王は、憎しみ、殺意をも招き入れてしまったのであり、その妬み、憎しみ、殺意は愛すべきヨナタンにも向けられる事になってしまうのです。

サウル王のダビデに対する殺意が確実、確固なモノと知ったヨナタンは傷心、失意の中、ダビデとの約束を果すべく、

20:35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。

20:36 そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。

20:37 子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」

20:38 ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。

20:39 子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。

20:40 ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。

20:41 子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。

20:42 ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『【主】が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、【主】の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。

この三本の矢のエピソードは、前回確認した通りであり、その通りに行なわれたので、何の解説も必要としないと思いますが、この約束は23節に記されているように、唯一真の神様が証人であり、ヨナタンはダビデとの約束を誠実に守り行なったのです。

サウル王がダビデを殺そうと固く決意している事は、紛れもない事実であり、ヨナタンがダビデに事の次第を伝えるであろう事は予測出来る事ですから、サウル王はヨナタンを見張らせ、ダビデの消息を掴もうと躍起になっているに違いありません。

のんびりしていてはダビデに危険が及ぶかも知れません。

緊急の時ですから、ダビデとの取り決めに拘る事なく、もっと効率の良い、早い、別の方法を選ぶ事が必要であるのかも知れません。

しかし、約束は、約束であり、神様の御名によって交わした約束なのですから、これっぽっちの変更も許されるものではありません。

一語一句、一挙手一投足は、取り決め通りに行なわなければなりません。

まどろっこしい方法であっても、もっと良い方法が、後から思いついても、決めた方法で伝えなければならないのです。

それは、唯一真の神様との約束だからであり、取り決めだからです。

【適応】

重要なのは、「主が、私とあなたとの間の永遠の証人です」と言う言葉です。

この「永遠の証人です」は、直訳は「永遠におられます」です。

つまり「主が、私とあなたとの間に永遠におられます」です。

永遠におられる方が二人の間におられて、聴いている、見ている、知って下さっていると言う事が重要なのです。

人は移ろい易く、状況は日々刻々と変化しますが、変らないお方がおられるのであり、永遠におられる方がおられるのであり、そのお方が証人となって下さっているが故に、人間同士の決め事であっても、永続性と普遍性に確信を持つ事が出来るのです。

誰も約束を破る前提で約束することはないでしょう。

仮に約束を破ったとしても、それは止むに止まれぬ事情によるのであり、仕方がない事、と自分を、相手を納得させるのではないでしょうか。

しかし、約束は破棄も変更もあってはならず、何故ならば、唯一真の神様を仲介として交わされているからであり、自分の都合も、相手の事情にも関りなく、守らなければならないのです。

ダビデとヨナタンのケースでは、ダビデと打ち合わせた約束の時刻に、約束の場所で、約束の方法で行なったからこそ、ダビデはヨナタンの言葉を真実として受け止め「安心して行き」「立ち去った」のです。

「約束の場所」は「エゼルの石」「かの石、かの助け」と呼ばれる場所でした。

この場所において約束が確認され、この場所において約束が履行されたのです。

それ故に、ヨナタンとダビデは、唯一真の神様から祝福を受けたのであり、ヨナタンの子孫はダビデがイスラエルの王となった時にも、殺される事なく、命を永らえ、王様の食卓に列なる恵みを享受する事が出来たのです。

ダビデはどんな不利な状況の中でも、命が守られ、イスラエルの王として不動の礎を築く事が出来たのです。

比べて、サウル王はサムエルを通して与えられた唯一真の神様の命令を守る事が出来ず、約束の時間を守る事が出来ず、約束の方法を守る事が出来ず、神様からの大いなる祝福を取り逃がしてしまったのです。

人と人との約束であっても誠実に守る時、唯一真の神様から大きな祝福を頂けるのです。

ましてや唯一真の神様との直接の約束であるならば、どんな犠牲を払っても守らなければならず、その時神様から頂く祝福はどんなに大きいものとなるでしょうか。

小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実であり、小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実であり、唯一真の神様はこの世の小さな事に忠実な者に、天の大きなモノを与えて下さるのです。

ここにおられる皆様が、些細な約束事にも「神様が永遠の証人です」との誓いをもって、誠実に約束を履行し、証人である神様から地上でも、天国でも祝福を頂く生涯を歩まれますように。

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聖書箇所:コリント人への手紙第一151節~11

説教題:「最も大切なこと」

【導入】

パウロは、コリント教会の問題、混乱の原因と対策に付いて記してきました。

これらはどれをとっても、軽い問題ではなく、放置しておいてはならない問題ですが、更に大きな問題がありました。

コリント教会の一部の人たちは、「死者の復活、よみがえりはない」と断言していたのです。

勿論、御子キリスト・イエス様の復活、よみがえりを否定していたのではありませんが、「神の子」と「人間」とは別、と考えたのでしょう。

また、現在の救いの確信と恵みだけで充分であるとして、終末の希望、復活の希望を否定していた、とも考えられます。しかし、これらは人間の考えです。

唯一真の神様のご計画、御旨を否定するものであり、キリスト教信仰の根幹に関わる事でもあり、パウロはその間違いを正すべく、キリスト教の基本を確認すべく、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。

パウロは、「兄弟たち」と呼び掛け、親しみを込めて書き出します。

しかし、これから語る事の重要性を印象付けるように、厳粛に筆を進めます。

コリント教会の一部の人たちの中に、福音を誤解する人たち、曲解する人たち、軽視する人たちがいて、混乱を引き起こしていたので、パウロは、福音の重要性を語り、福音の原点に返り、正統な信仰に立つようにお勧めをするのです。

あなたがたに宣べ伝えた福音」は一つであり、今も、これからも、この福音以外にはないのです。福音は一つであり、誰が語っても遜色はありません。

しかし、コリント教会の人たちは、112節に記されているように、「あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言って」、とまるで幾つもの福音があるかのように振舞っていたのです。

そこで、「あなたがたに宣べ伝えた福音」は一つであり、そのことを「改めて知らせ」る必要を覚え、「その福音によって立っている」事を自覚するように、確認するように促します。信じる者の救いを確立させる大切な事だからです。

15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

人は、時が経つと忘れてしまい易く、曖昧になり、いろいろな情報が入って来ると、混乱してしまいます。

ですから、「しっかり覚えている」事、「しっかり覚え」続ける事が大切です。

コリント教会の一部の人たちの熱狂的な言動に影響され易い傾向、私的解釈やもの珍しい説に対して動揺し易い傾向に対して、よく考えもしないで、軽はずみに応答する事がないように、注意喚起するのです。

信頼性のない情報に惑わされては、信仰を失いかねないのであり、「信じたことは無駄になってしまいます」と、警告を与えます。

熱心な人たち、中心的な人たちの言う事だからと、疑いもなく鵜呑みにしてはならず、自分たちの都合に良い説、新しい説に飛び付いてはならず、聖書に照らし合わせて調べなければなりません。

使徒の働き1711節、2017270ページ、第三版263ページ、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のであり、この姿勢は何時の時代でも、何処の教会でも、信仰歴の長短に関わらず、大切な事なのです。

15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

パウロは、「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって」と、福音の伝承性、継承性、不変性を語ります。

福音は常に、受けたものを、伝えるのであり、パウロが伝える福音は、パウロが新しく、勝手に考え出したものではなく、パウロの考えを付け加えたものでもなく、パウロの考えで削ったりしたものでもありません。

この姿勢は、全ての伝道者、全ての教職者、全てのキリスト者の伝道姿勢です。

パウロが「伝えた」、「最も大切なこと」は、人の考え出した物語ではなく、「聖書に書いてあるとおり」の事であり、「聖書に書いてある」事とは、旧約聖書に記された個々の預言、例えばイザヤ書53節などの預言を指し示しているのではなく、旧約聖書全体であり、旧約聖書全体が御子キリスト・イエスと、その御業を指し示している事を言っています。

最も大切なこと」とは、第一に、「私たちの罪のために死なれたこと」であり、贖罪の死、罪を贖うための死です。

イエス様は、時の宗教的指導者であり、支配者である祭司長たち、パリサイ人たち、律法学者たちの姦計に遭って、非業の死を遂げたのではなく、民衆の暴動を恐れたポンテオピラトの政治的判断によって、死を与えられたのでもなく、また、演出で死を装ったのでもなく、仮死状態であったのでもなく、唯一真の神様のご計画、御旨で「私たちの罪のために死なれた」のであり、それ以外では断じてありません。

15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

第二に、「葬られたこと」であり、埋葬です。

御子キリスト・イエス様は、実際に、現実の墓に納められたのであり、これも演出ではなく、葬ったように見せ掛けたのでもありません。

穢れた所に身を置かれたのです。

第三に、「三日目によみがえられたこと」であり、復活です。

イエス様は、完全な死の状態から、完全な生へとよみがえられたのであり、これも演出でもなく、仮死状態から息を吹き返されたのでもありません。

過去の出来事であるとともに、今も尚、生きておられている事を強調しています。

15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

第四は、「現れたこと」であり、顕現です。

死なれ」、「葬られた」御子キリスト・イエス様が、目に見える形で「現れたこと」で、「私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」を総括するのです。

イエス様は「よみがえられた」後、少数の弟子たちの前に現われて、雲散霧消してしまわれたのではありません。

イエス様が「よみがえられた」事を目撃する者を列挙する事で、「死なれ」、「葬られ」、「よみがえられたこと」が、絵空事ではない事実として認証されるのです。

十二弟子」との表記ですが、実際には、ユダは脱落しており、トマスは不在でしたから、正確に言うならば「十弟子」ですが、イエス様が直接選ばれ、任命した使徒についての公的称号が「十二弟子」であり、何人欠けても、「十二弟子」と称したのです。

ケファ」すなわち、ペテロを含む「十二弟子」によって、イエス様の復活が証言されたのです。

15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。

目撃者の数は、証拠としての信頼性に大きく影響します。

兄弟たち」は、広く同胞の意味であり、御子キリスト・イエス様は弟子たち限定で「現れ」たのではなく、イエス様は、利害関係のない、中立性、信憑性がある不特定多数の目撃者の前に「現れ」たのだ、と云う事なのです。

この中立的な証言者は、「すでに眠った人も何人かいます」、また「大多数は今なお生き残っています」と説明され、イエス様の復活は、過去の出来事であるばかりではなく、現在につながり、未来に繋がる出来事である事を示しています。

自説のために、都合の良い証言者を集め、都合の良い証言ばかりを羅列するのではなく、客観的事実と、時間的経過を正直に伝えているところに、復活が事実である事を雄弁に証ししているのです。

15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。

ヤコブ」は、御子キリスト・イエス様の弟のヤコブの事ですが、当初、イエス様の兄弟たちもイエス様の使命を理解せず、信じてはいませんでした。

しかし、「ヤコブ」は、後には変えられ、エルサレム教会の指導的地位に就き、大切な働きをした人物です。

すべての使徒たち」は、「十二弟子」より広い範囲の弟子たちであり、5節、6節に挙げられた人たちによって、「ヤコブ」を含む「すべての使徒たち」によって、イエス様が「よみがえられたこと」の確かさを力強く証言し続けたのです。

15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。

パウロは、証言者の一人、連綿と続く証言者の一人ではありますが、かなり特殊、と言わざるを得ません。

月足らず」は、現代の「早産、未熟児」の意味ではありません。

当時、早産、未熟の子は、正常な人間ではないと見られていました。

それは、当時の医療技術、設備では生き永らえるのが、成長するのが非常に難しかった事にも関係しており、正常な子ではないとして、諦めを付けたのかも知れません。

パウロは、自身を一人前ではない者、何の取り柄も価値もない者と証言しているのです。

一人前ではないとする理由を一つ挙げます。

15:9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。

パウロは、「神の教会を迫害した」事実だけを述べ、迫害に走った理由、律法への熱心から、私利私欲なく行なった事には、一言も触れません。

何故ならば、自分だけの誇りであり、一人善がりな理由でしかないからです。

唯一真の神様は、動機も、方法も、経緯も、結果も問われるお方だからです。

15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

神の教会を迫害した」パウロを召し出し、「使徒」として用いたのは、唯一真の神様の御旨、ご計画であり、「月足らずで生まれた者のよう」であり、「最も小さい者」であり、「使徒と呼ばれるに値しない者」との、自分が無価値であるとの自覚こそ、「神の恵み」でしかないとの自覚こそ、パウロを通して働かれる神様の恵み、御霊の働きを際立たせるのです。

一切は、パウロの栄光ではなく、神の恵みの鮮やかな現われであり、一方的な神様の恵み、憐れみである事を強調します。

パウロは、自身の宣教活動が、実を結ばないものとならないように、常に最大の注意を払い、多くの犠牲を払いましたが、「神の恵み」に応じる事こそ、パウロの存在の基盤であり、パウロの宣教活動の原動力であり、自分を誇る事を一切拒絶する、パウロの宣教姿勢なのです。

15:11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

私にせよ、ほかの人たちにせよ」、即ち、宣べ伝える者の相違はあっても、宣べ伝える事は一つの福音であり、「このように」、即ち、「私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」を、「ケファ」、即ち、ペテロを含む「十二弟子」に、「五百人以上の兄弟たち」に、「ヤコブ」を含む「すべての使徒たち」に現われた事を、「宣べ伝え」るのです。

【適応】

現代に生きる私たちは、御子キリスト・イエス様が「私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」の一つも、見てはいません。

また、「ケファ」を含む「十二弟子」、「五百人以上の兄弟たち」、「ヤコブ」を含む「すべての使徒たち」の一人ではなく、また、それらの証言者から直接聞いた者でもありませんが、連綿と続く証言者の一人であり、最も大切な事として、イエス様が「私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」を証言し続けなければなりません。

証言者として働く事は、「神の恵み」であり、働かない時、「神の恵み」を取り損なっているのであり、それは非常に大きな損失であるとの認識、意識を持たなければなりません。

自身の損失であるとともに、家族、親族、友人、知人に、大きな損失、掛け替えのない損失を与えている、との認識、意識を持たなければなりません。

但し、無理強いや執拗な働きかけ、折伏するような事は、控えなければなりません。

キリスト者にとって、イエス様が「私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」は、基本中の基本であり、疑いの余地のない事でしょうが、この世の人々の多くは、それを否定するのです。

キリスト者にとって、毎週教会に来て、礼拝を献げる事には、何の抵抗もなく、食事毎の祈り、何かに付けての感謝の祈り、毎日聖書を読む事も、当たり前でしょうが、この世の人たちは、そうではないのです。

この世の人たちの考え、行動を尊重しなければ、私たちキリスト者の考え、行動も尊重されはせず、聞いてもらえないのではないでしょうか。

ある逸話を紹介しましょう。

「食事の祈りをしないのは、パパとポチだけだね」・・・。

励ましの気持ちで言ったのかも知れませんが、こんな事言われて、傷付かない人がいるでしょうか。

相手の気持ちを尊重する事は、無理強いしない事は、とても大切なことです。

さて、そして、大事なのは、イエス様が「私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」を伝えるだけでなく、自身で信じ続ける事です。

これが最も大切な事であり、これを大切にする時、礼拝、献金、奉仕、祈り、聖書通読も喜びとなり、なくてはならないものになるのです。

イエス様が「私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」は、2000年も前の事であり、簡単に信じられる事ではありませんが、「神の恵み」により、「福音を受け入れ」「立たされ」「伝える」者とされ続けるのであり、「神の恵み」は、地域を越え、文化を越え、時代を越えて伝わり、広がり続けて行くのです。

受ける恵みと伝える恵みが連綿と続けられているのであり、この「神の恵み」に加えられたのであり、この「神の恵み」の中を歩み続けたいものです。

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