2021-11-7礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一15章12節~19

説教題:「死者の復活

【導入】

福音の中心は、そして最も大切な事は「私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」です。

しかし、コリント教会の一部の人たちは「死者の復活、よみがえりはない」と断言していたのです。

勿論、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活を否定していたのではありませんが、「神の子」と「人間」とは別、と考えたのでしょう。

また、罪の赦しの恵みだけで充分であるとして、終末の希望、復活の希望を軽んじていた、とも考えられます。

しかし、それは唯一真の神様のご計画、御旨を否定するものであり、キリスト教信仰の根幹に関わる事でもあり、パウロはその間違い、死者の復活の否定は御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活の否定に他ならない事を示すべく、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

パウロたちの宣教の中心は、御子キリスト・イエス様が私たちの罪のために死なれたこと」、「葬られたこと」、「三日目によみがえられたこと」です。

これらに、特にイエス様が「三日目によみがえられたこと」に異論はなくても、一般人の「よみがえり、復活」、となると話は別です。

ギリシャ思想の影響を受けたコリント教会の一部の人たちは、霊魂の不滅は信じていましたが肉体の復活はない、と信じていたのです。

使徒の働き1716節から32節、2017版は270ページ、第三版は263ページに、アテネでの伝道の様子、復活についての人々の反応が記されていますので、ご確認願います。

17:32 死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った」。

これが、コリント教会に限らず、当時の人々の反応だったのです。

テモテの手紙第二216節、2017版は427ページ、第三版は415ページには、復活は既に起こったと吹聴する者が居た事が記されていますので、ご確認願います。

2:16 俗悪な無駄話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔になり、

2:17 その人たちの話は悪性の腫れもののように広がります。彼らの中に。ヒメナイとピレトがいます。

2:18 彼らは真理から外れてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人たちの信仰をくつがえしています」。

復活は超自然的な出来事であり、理解に、受け入れるに苦しみますが、大事なのは「御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活は、信徒の復活をもたらす、救いの出来事である。故に、信徒の復活がなければ、イエス様の復活もなかったことになる」、という、イエス様の復活と信徒の復活との不可分性、原因と結果に対する議論であり、「信徒の復活がなければ、人となられたイエス様の復活もない」、という、類似的現象に対する単純な議論ではありません。

信徒の復活という結果を否定するなら、イエス様の復活という原因を否定する事になる、信仰の根幹に関わる、重大な議論なのです。

15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

パウロは譲歩して、「死者の復活がない」との前提に立って議論を進めます。

一方の否定は他方の否定であり、「死者の復活がない」との前提に立つならば「キリストもよみがえらなかった」だけでなく、イエス様の復活を土台とする「宣教は空しく」、「信仰も空しく」、宣教も信仰も全く意味のないものになるのは必至です。

イエス様のよみがえり、復活は、宣教の重要な土台であり、イエス様のよみがえり、復活を基盤として、使徒の宣教と教会の信仰は成り立つのであり、不可分の、相互に支えあう、生きた関係なのです。

パウロは、イエス様と信徒との堅い結び付きを説くのであり、イエス様の復活の結果、目的である死者の復活の否定は、イエス様の復活そのものの否定以外の何ものでもないのです。

イエス様の復活は、死者の復活を目指しているのであり、死者の復活が起こらないならば、イエス様の復活も起こらなかったのであり、イエス様に望みを置くのは空しい事だ、と語るのです。

15:15私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。

パウロは、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活を否定する事がもたらす、実に深刻な事態を示します。

仮に、「死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはず」ですが、パウロたち使徒は、伝道者は、教職者は、「神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をした」のであり、それは、「神についての偽証人」であり、世を惑わす、人を惑わす、教会を惑わす、信徒を惑わす、重大犯罪だ、という事なのです。

15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。

16節、17節は、概ね13節、14節の繰り返しですが、違いは「あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます」です。

御子キリスト・イエス様の贖罪の死は、復活と堅く結び付いています。

イエス様は、人の罪のために死なれただけでなく、罪人が義と認められるためによみがえられた、復活されたのであり、イエス様のよみがえり、復活がなければ、信徒は尚、罪の中に居るのであり、イエス様のよみがえり、復活がなければ、罪からの真の意味での解放はあり得ないのです。

15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。

眠った者たち」の意味は、御子キリスト・イエス様を信じて、イエス様に希望を持って「死んで行った人たち」の意味です。

死者の復活を否定した人たちは、イエス様の死とよみがえり、復活の意味を誤解しています。

イエス様の死は、人の罪の贖いのために必要な死であり、イエス様のよみがえり、復活は、罪人を義と認めるために必要なのです。

繰り返しになりますが、イエス様の死とよみがえり、復活があってこそ、罪人の罪が贖われ、義と認められるのであり、罪人が義と認められるために必要不可欠な要素であり、ステップなのです。

イエス様の死が罪人の贖いに繋がるのであり、イエス様のよみがえり、復活が、罪を赦された人を義と認める事に繋がるのであり、

このステップが唯一真の神様のご計画、御旨なのです。

イエス様のよみがえり、復活がなければ、先にイエス様を信じて「眠った者たち」も、イエス様のよみがえり、復活を否定する者たちも、「滅んでしまったことになります」。

パウロの「滅んでしまったことになります」とのことばは、イエス様のよみがえり、復活を否定する人たちの誤解、コリント教会に混乱を来たす事に対する警告の意味を含むのです。

15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

パウロは、「死者の復活がない」との前提に立てばどうなるかを示してきましたが、御子キリスト・イエス様に対する望みが熱く語られても、復活の約束がないのであれば、この世で生きている間だけの、限定された望みでしかありません。

そうであるなら、31節「私は日々死んでいる」という生き方であり、信徒は虚しい希望に寄り縋っているのであり、「すべての人の中で一番哀れな者」なのです。

死者の復活の否定が、これ程の重大問題である事をコリント教会の人々は自覚していなかったのです。

パウロは、これに気付かせ、考えを変えるように促すのです。

【適応】

コリント教会の人たちは、御子キリスト・イエス様の十字架の死は、自分たちの罪の贖いのためであり、イエス様は墓に葬られ、三日目によみがえられて、復活されて、天に昇られ、天におられ、今は唯一真の神様の右の座につかれている、と信じていましたが、死者の復活については、あり得ない事として、信じていなかったのです。

コリント教会の人たちの、イエス様のよみがえり、復活と、死者の復活とは無関係との考え方、死者の復活をあり得ない事との考え方は、コリント教会固有、特有の考え方ではありません。

現代でも、多くの人は、死者の復活には強く反発し、イエス様の処女降誕、イエス様のよみがえり、復活に躓き、イエス様への信仰に入れない事が少なくはないようです。

確かに、死者の復活は、俄かには信じられない事、受け入れ難い事ですが、創造者なる神様、無から全てを創造される力をお持ちの神様、生き死にを、命を支配される神様を信じるなら、乗り越えられるのではないでしょうか。

そして、乗り越えた先には、復活が約束され、新しい身体が待っているのです。

この世では、人は肉体を持っている事で不自由を感じる事があります。

この世での肉体は、完全ではないからです。

人の肉体は土で造られているので脆く、暑さ寒さに弱く、綻びが生じ、錆が生じ、老いて行くし、病気にもなるし、怪我もするし、感染症にも罹ります。

肉体だけでなく、精神的にも脆さがあり、危うさがあり、病気にもなります。

しかし、イエス様のよみがえり、復活に与る人の復活は、土で造られたのではない新しい身体に復活するのであり、綻びが生じる事はなく、錆が生じる事はなく、老いて行く事はなく、病気になる事はなく、怪我をする事はなく、感染症に罹る事もなくなります。

不老不死と呼ぶべき身体ではありますが、決してスーパーマンの様な、弾丸を弾き飛ばし、炎熱をものともしない強靭な、鋼のような肉体、精神、身体ではなく、唯一真の神様、イエス様との健全な、永遠の交わりを持つに必要不可欠な機能、能力を備えた身体が与えられるのです。

この世では、疲れたり、病気になったりし、健康を維持するために、体力気力を回復するために休まなければならず、肉体の必要のために働かなければなりませんので、唯一真の神様、イエス様との交わりが制限され、断念せざるを得ない状況もあるでしょうが、イエス様のよみがえり、復活により与えられる新しい身体は、そのような妨げがない身体なのです。

新しい身体は、自由気まま、好き勝手、自分のしたい事のために与えられるのではなく、冒険や肉体、精神の限界に挑戦するためにでもなく、唯一真の神様、イエス様との親しい、深い、密な交わりの必要を充分満たすための身体なのです。

愛する神様、イエス様との、何の妨げもない交わり、礼拝のために、復活の身体が用意されているのです。

新しい礼拝の始まりであり、死者の復活、死者に新しい身体が与えられる目的はここにあるのです。

朽ちて行かざるを得ない身体でも、精一杯、朽ちる事のない身体が与えられたなら常に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を礼拝しようではありませんか。

そのためにイエス様は死なれ、よみがえられ、復活され、人を復活させ、新しい身体を与えられたのです。

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聖書個所:コリント人への手紙第一15章20節~28

説教題:「御子イエス様の復活がもたらすこと

【導入】

パウロは、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活は、死者の復活の先駆けであり、死者は必ず復活する事を、新しい身体が与えられる事を、コリント教会の、死者の復活を否定する人たちに、死者の復活を否定する人たちの言動に影響を受ける人たちに、力強く語り掛けて来ました。

そして、復活の身体が与えられるのは、唯一真の神様、御子イエス様を、何の妨げ、障りなく礼拝するためである事を、親しい、密な交わりを持つためである事をお話させて頂きました。

決して、肉の身体では出来なかった自我の趣くままの生活を、自堕落な生き方をするためではありません。

肉の身体を持つ故の、様々な制約を受けずに、唯一真の神様、御子イエス様を礼拝し、唯一真の神様、御子イエス様との親しい、密な交わりを持つためなのです。

パウロは、御子イエス様の復活がもたらす、別の面を確認すべく、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

パウロは、御子イエス様のよみがえり、復活の事実に立って、御子イエス様のよみがえり、復活が信徒に、如何に大きな希望をもたらすかを解き明かして来ました。

しかし、これは、御子イエス様のよみがえり、復活がもたらす事の一面であり、御子イエス様と全人類、御子イエス様と被造物、御子イエス様と唯一真の神様との関係に於ける、御子イエス様のよみがえり、復活がもたらす事について、筆を進めます。

御子イエス様のよみがえり、復活は、単独の、孤立した出来事ではありません。

御子イエス様のよみがえり、復活は時間的、時代的に先行しているだけでなく、御子イエス様は、数多の、信徒、唯一真の神様に従う者の第一号、代表としてよみがえり、復活されたのです。

御子イエス様のよみがえり、復活は、信徒、唯一真の神様に従う全ての者を代表する性格を持っているのです。

それが「初穂」の意味です。

初穂」を献げる事は、収穫の全てを献げる事を意味したのであり、唯一真の神様に従う民の責務でした。

レビ記2310節以降に記されています。2017版は219ページ、第三版は213ページ、「23:10 イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。

23:11 その束は主の前で揺り動かす。あなたがたが受け入れられるためである。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。

23:12 あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の子羊を献げる。

23:13 その穀物のささげ物は油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。

23:14 あなたがたは、神へのささげ物を持って行くその日まで、パンも炒り麦も新穀も食べてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟である。

初穂」は、その年の収穫を代表するものであると同時に、収穫の全てを意味するものであり、御子イエス様は、信徒、唯一真の神様に従う人たちを代表するお方であると同時に、信徒、唯一真の神様に従う全ての人たちを意味するお方なのです。

コリント人への手紙第一1227節、2017版は345ページ、第三版は336ページ、「12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分なのです

御子イエス様の身体としての関係性であり、御子イエス様と信徒、キリスト者は切り離せない関係なのです。

パウロは続けて、一人が代表であり、全体を意味する事例を示します。

15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。

15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

」は、「一人の人を通して」、即ち「アダム」は、人類の第一号、代表として「すべての人」に「」をもたらしましたが、「死者の復活」は、「一人の人を通して」、即ち「キリスト」は、唯一真の神様に従う民の第一号、代表として「すべての人」に復活の「」をもたらしたのです。

どちらも「すべての人」ですが、「アダムにあって」の「すべての人」は、全人類を意味しますが、「キリストにあって」の「すべての人」は、唯一真の神様に従う信徒、キリスト者を意味します。

コリント教会の一部の人たちの中には、既に復活に与っていると誤解して、死の現実性を無視し、死者の復活を否定する人たちがいた訳ですが、パウロは、それらの人たちを意識して、信徒、キリスト者の復活は揺るぎのない事実であり、これから起こる事である事を強調するのです。

15:23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその再臨のときにキリストに属している人たちです。

御子イエス様はよみがえり、復活されましたが、この御子イエス様のよみがえり、復活が、直ちに、信徒の、キリスト者の復活に適応される訳ではなく、救いの完成をもたらす訳でもありません。

それぞれに順序があり」、「まず初穂であるキリスト」がよみがえられ、復活されます。

御子イエス様のよみがえり、復活は、大勢の目撃者がおり、揺るぎない事実ですが、これ以降は、「その再臨のときにキリストに属している人たち」の復活や、24節、「終わりが来」るのは、まだであり、これから起こる事です。

三つの出来事は、相当の時間的隔たりがありそうですが、一連の流れであり、この流れは、唯一真の神様の御旨、ご計画は、確実に、着実に、進んでいるのです。

15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。

終わりが来ます」は、唯一真の神様の御旨、ご計画の完成であり、同時に、新しい世界、新しい秩序の始まりです。

パウロは、唯一真の神様の御旨、ご計画、定められた順序を尊重し、強調します。

コリント教会の一部の人たちの、復活は既に終わっている、世の終わりは直ぐにも来るといった誤った考え、言動に警告を与えます。

御子イエス様は、世の救い主として、悪霊の力を全て滅ぼし、世界を贖い、支配するという業を完成させ、創造の完成の時の、完全に調和の取れた、瑕疵や齟齬のない世界を、創造者なる神様にお引渡しなされるのです。

完璧な世界を用意し、唯一真の神様の支配に服させるのです。

15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。

25節の前半は、詩篇86節、1101節などの聖句からの引用です。

25節は、御子イエス様の統治の期間を示しているのであり、今、世界は、御子イエス様の支配下にありますが、支配下、というより、管理下、見守りの中、との言い方の方が適切かもしれません。

すべての敵をその足の下に置」かれている訳ではありせん。

御子イエス様の統治の期間は、「すべての敵をその足の下に置くまで」であり、まだまだ時間の経過があるのであり、悪霊は最後の悪足掻きをしているのですが、悪霊の力を侮るのは非常に危険です。

悪霊は狡猾であり、強い力と影響力を持っており、世界は悪霊の力の影響を強く受けています。

コリント教会の一部の人たちは、悪霊に惑わされ、48節、「満ち足り、豊になり、王様になって」いますが、それは間違いであり、一方、信徒は、キリスト者は、49節、「死罪に決まった者として、見世物になって」しまったかのように見えたとしても、悪霊が勝利したように見えたとしても、落胆し、絶望してはならないのです。

御子イエス様は、悪魔を滅ぼしたなら速やかに、支配権を唯一真の神様に引き渡されるのです。

15:26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。

」は、否定出来ない、軽視出来ない現実ですから、無視してはなりません。

しかし、不必要に恐れるのは、如何なものでしょうか。

唯一真の神様は、人間には如何ともし難い「」をも、御子イエス様の支配下に置かれ、御子イエス様は、「最後の敵として」、「」を「滅ぼされ」、世界を唯一真の神様に引き渡されるのです。

中途半端、体裁だけ整えて、細部の不具合はそのままにした状態で引き渡すのではありません。

世界の秩序を回復し、手直しすべきところを探し出し、手直しをし、完全な状態にまで復帰させてから、唯一真の神様に引き渡されるのです。

創造の当初、唯一真の神様は、アダムの手に、世界の統治を委ねましたが、アダムの堕落の故に、世界は毀損し、混乱してしまいました。

そこで唯一真の神様は、統治を御子イエス様に委ね、御子イエス様を通して、世界を修復し、秩序を回復させるのです。

15:27 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。

15:28 そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

27節、28節は、支配の秩序、序列を示しています。

創造の当初、唯一真の神様は、被造物であるアダムに万物を支配させましたが、終末に於いては、神の御子であるイエス様に万物の支配を委ねられるのです。

御子イエス様が万物を支配し、御子イエス様も、唯一真の神様に従われ、唯一真の神様の支配下に就かれるのです。

唯一真の神様と、御子イエス様の関係は、支配者と、被支配者の関係ではなく、支配権は、唯一真の神様の下に置かれ、集約され、実務は、御子イエス様に、であり、唯一真の神様と御子イエス様との共同の、永遠の支配に入るのであり、世界は新しい秩序に入り、麗しい秩序を取り戻すのです。

【適応】

御子イエス様のよみがえり、復活は、死者の復活に関わるだけではなく、唯一真の神様、御子イエス様との、何にも妨げられない礼拝、親しい、密な交わりに繋がる、とお話しましたが、更に、御子イエス様のお働きにより、世界の秩序の回復と、支配権の適切な運用に至るのであり、その先には、唯一真の神様と御子イエス様との共同統治が始まるのです。

今、世界は、御子イエス様の支配下にはありますが、混沌とし、不正、搾取、理不尽が横行し、「この世に神は居るのか」、と嘆き、訝るような様ですが、決して見捨てられた訳ではありません。

それどころか、裁きの執行が猶予されているのであり、御子イエス様のお働きによる、世界の秩序の回復を待っている状態なのです。

ですが、信徒が、キリスト者が、御子イエス様が再臨されるまで、世界の秩序が回復するまで、何もしないで、待っていれば良い訳ではありません。

この世の不条理を、じっと我慢していれば良い訳ではありません。

信徒は、キリスト者は、置かれた環境、状況、この世との関係の中で、与えられた賜物を積極的に、能動的に用いなければなりません。

マタイの福音書2514節、201753ページ、第三版52ページ、「25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。

25:15 彼はそれぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、

25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。

25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。

25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。

25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。

25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』

25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』

25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

25:24一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。

25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』

25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。

25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。

25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。』

25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。

25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。

重要なのは、「それぞれの能力に応じて・・・渡した」であり、「預かった者は出て行って、それで商売をした」事です。

主人は、過大な課題を課す訳でも、無理な課題を課す訳でも、到達不可能な課題を課す訳でもありません。

能力に見合った課題であり、相応の課題を課したのです。

しもべは、賜物を活かして、主人に成り代って、預かったモノを積極的に活用するのです。

御子イエス様の復活がもたらすことは、新しい、秩序ある、麗しい世ですが、その実現は、信徒の、キリスト者の働きに掛かっていると言っても過言ではないのです。

来る世では、唯一真の神様と御子イエス様の、共同支配、共同統治の下で、信徒、キリスト者が実際にこの世を支配、お世話、管理、運営するのです。

御子イエス様の復活は、これ程に高尚で、遠大な世をもたらすのです。

信徒、キリスト者は、この高遠な働きに召されているのです。

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聖書個所:コリント人への手紙第二4章1節から6節 

説教題:「福音の光を輝かすために」

説教者:河野優牧師 (日本同盟基督教団 法務主事)

説教は非掲載です

聖書

4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。

4:2 かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

4:3 それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。

4:4 彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。

4:6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

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                                               2021-11-28礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一15章29節から34節

説教題:「死者の復活の否定がもたらすこと」

【導入】

パウロは、コリント教会の、死者の復活を否定する人たちに、死者の復活を否定する前提に立って、説得、説諭を試みて来ました。

コリント教会の、死者の復活を否定する人たちは、唯一真の神の御子イエス様のよみがえり、復活は肯定していましたが、死者の復活の否定は、御子イエス様のよみがえり、復活の否定であり、論理的に矛盾する事を示し、死者の復活の否定が、如何に根拠のない論述であるかを示して来ました。

死者の復活の否定は、唯一真の神様の御旨、ご計画の否定であり、御子イエス様のよみがえり、復活を宣べ伝える事は、唯一真の神様に対する偽証にも繋がる由々しき事である事を示して来ました。

パウロは、続けて、死者の復活の否定がもたらす恐ろしい影響を示すべく、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 15:29 そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。

バプテスマを受ける」のは、唯一真の神の御子イエス様の十字架によってなされた、罪の贖いに与るためであり、御子イエス様のよみがえり、復活に与るためです。

29節で「死者のためにバプテスマを受ける人たち」が、何を、どのような事を意味するのかは不明ですが、幾つかの説があるので紹介いたしましょう。

一、バプテスマ、洗礼を受ける事なく亡くなってしまった家族、親族のために、代理のバプテスマ、洗礼を受ける事が行なわれていたのではないか、とする説。

二、信仰を持ってはいたのに、諸事情により、バプテスマ、洗礼を受けられなかった信者のために、代理のバプテスマ、洗礼を受ける事が行なわれていたのではないか、とする説。

三、信者が、残された者の救いを祈りつつ亡くなったために、その信者のために、バプテスマ、洗礼を受ける事が行なわれていたのではないか、とする説などです。

ギリシャやローマなどの宗教、宗教儀式、習俗が影響していたものと思われますが、「バプテスマを受ける」のは、御子イエス様に対する信仰告白の「しるし」であり、心で信じて、口で告白した時点で、罪は赦されており、救われており、義と見做されており、復活に与ります。

「聖餐」を受けるのも、御子イエス様に対する信仰告白の「しるし」であり、時々に、折々に「聖餐」を受け、自身の信仰を吟味、確認するのです。

バプテスマを受ける」のも、「聖餐」を受けるのも、本人でなければ、何の意味もありません。

否、御子イエス様の十字架によってなされる、罪の贖いや、御子イエス様のよみがえり、復活の誤解、私的解釈から生じた考え方であり、容認する訳にはまいりません。

そもそも、コリント教会の一部の人たちは、死者の復活を否定していたのであり、死者の復活がないなら、御子イエス様のよみがえり、復活もあり得ない事であり、御子イエス様の名の故のバプテスマ、洗礼にも意味がなくなるのは、当然です。

これが、今日の説教題「死者の復活の否定がもたらすこと」の一つ目です。

15:30 なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。

パウロたち、使徒たちは、実際に激しい、執拗な迫害に遭い、絶えず危険を受けながら、宣教活動、伝道旅行に勤しんでいましたが、パウロたちが宣べ伝えたのは、唯一真の神の御子イエス様の十字架によってなされる、罪の贖いや、御子イエス様のよみがえり、復活であり、ここに宣教活動、伝道旅行の根拠があるのに、死者の復活を否定するなら、御子イエス様のよみがえり、復活をも否定する事であり、パウロたちの宣教、伝道に意味がなくなるのは、当然です。

パウロたちの宣教、伝道に意味がないなら、世の人々からは無視されるだけなのであり、世の人々から迫害を受ける謂われは、「絶えず危険にさらされ」るはずはないのではないでしょうか。

しかし、現実に世の人々から迫害を受けているのであり、この矛盾、宣教、伝道の働きに付随する迫害に意味がなくなる事、御子イエス様の故に受ける迫害を堪え忍ぶ事に意味がなくなる事、これが、今日の説教題「死者の復活の否定がもたらすこと」の二つ目です。

15:31 兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。

パウロの言う、「あなたがたについての誇り」とは、コリント教会が、唯一真の神の御子イエス様の実としての教会である事であり、コリント教会の一部の人たちの、自らの立場や考え、知識や地位を誇る現実を肯定したり、容認したりする意味ではありません。

パウロたち、使徒たちの生き方は、御子イエス様のしもべとしての生き方であり、御子イエス様に与る労苦を体験していく生き方であり、死と隣り合わせ、死を現実のものとして肌身に感じる生き方なのです。

それが「私は日々死んでいるのです」の意味です。

パウロは続けて、「私は日々死んでいるのです」の具体例を示します。

15:32 もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。

人間の考え」と訳されていますが、その意味は「復活の希望のないこの世の人たちと同じ考え、姿勢」です。

パウロたちの生き方は、復活を前提とした、この世での死を恐れない生き方、この世での死を覚悟した生き方ですが、この世の人たちの生き方は、復活の希望のない生き方であり、死を恐れつつ、死を回避出来ないもどかしさの中での、刹那的な生き方です。

死に抗(あらが)えないから、死を恐れない振りをして、「獣と戦」うような、無意味な死を、生き方を選ぶのです。

一方、パウロは、実際に「獣と戦った」とする記録はありませんし、ローマ市民権を持つパウロが、「獣と戦」う刑を受けたと考えるのは困難ですが、福音宣教、伝道の故に、死の危険に脅かされた経験の数々を、「獣と戦った」と表現しているのでしょう。

コリント人への手紙第二1123節以降に労苦のリストが挙げられています。

2017版は370ページ、第三版は359ページ、「労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。

11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、

11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、

11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。

鞭打ちの刑は、非常に残酷な刑であり、皮膚を裂き、肉を抉ります。

まるで「獣と戦った」かのような、爪で引き裂かれたような、抉られたような無残な傷を付けられますから、「獣と戦った」と表現しても、決して誇張ではないのです。

食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」は、イザヤ書2213節からの引用です。

2017版は旧約聖書1199ページ、第三版は1157ページですのでご確認願います。

「死の現実」を無視する生き方は、逃避であり、「死の現実」を深刻な問題として捉え、戦っていない生き方なのです。

死者の復活の否定は、この世の生を何より重要視する生き方、未来に希望を持てない、刹那的な生き方、この世の快楽を追及する、享楽的な生き方にならざるを得ないのです。

これが、今日の説教題「死者の復活の否定がもたらすこと」の三つ目です。

15:33 惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。

死者の復活の否定がもたらすこと」は、一に、御子イエス様の名の故のバプテスマ、洗礼に意味がなくなる事、二に、宣教、伝道の働きに付随する迫害に意味がなくなる事、御子イエス様の名の故の迫害を堪え忍ぶ事に意味がなくなる事、三に、この世の生を何より重要視する生き方、未来に希望を持てない、刹那的生き方、この世の快楽を追及する、享楽的生き方になる事、ですが、信者の生き方とは相反する生き方であり、御子イエス様に従う生き方を損なう生き方であり、「惑わされてはいけません」し、許容も容認もしてはなりません。

悪い交際は良い習慣を損なう」との言葉は、アテネの劇作家メナンドロスの「タイス」からの引用、もしくは、当時広く知られていた諺からの引用、と考えられますが、「朱に交われば赤くなる」のであり、パウロは、刹那的、享楽的な人々の誘惑に陥らないように、影響を受けないようにと、警告を与えるのです。

「君子、危うきに近寄らず」、と申しますが、しかし、刹那的、享楽的な人たちも、宣教、伝道の対象であり、没交渉、交際の禁止を勧めている訳ではありません。

この世の人たちと交際しつつ、影響を受けず、影響を与え続けなければならないのであり、信者には、御子イエス様に基軸を置いた生き方、賢い生き方が求められているのです。

15:34 目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。

パウロは、コリント教会の一部の人たちの、「死者の復活はない」との主張によって、信者の本来あるべき生き方が損なわれている事、刹那的、享楽的な生き方、酒に酔い、この世の価値観に捕らわれ、希望を失った生き方に対して警告を与えます。

教会は、常に、悪しき力に曝されています。

教会外部からの、異教的影響、この世の文化、習俗、慣習などと、教会内部からの、より一層深刻な影響を与える、福音に対する誤解、私的解釈と、それらを吹聴する事などです。

34節の「」の意味するところは、唯一真の神様や御子イエス様に対する一般的な意味での「」、即ち「的外れ」の意味ではなく、特定の、死者の復活を否定する事自体や、死の現実を無視した放縦な生き方、刹那的、享楽的な生き方です。

コリント教会の人たちは、知恵や知識を誇りましたが、「神について無知な人たち」、唯一真の神様についての正しい知識を持たない人たちは、霊的識別力に欠乏し、神秘主義、体験主義に惑わされ、死者の復活を否定し、刹那的、享楽的な生き方に迷い込んでしまったのです。

パウロは、知恵や知識を誇るコリント教会の人たちの「神についての無知」を指摘し、自覚するように促すのです。

パウロの再三に亘る指摘の目的は、恥をかかせるのが目的ではなく、恥をかいて考えを変え、生き方を変えさせるのが目的です。

コリント教会の人たちを支配するのが目的ではなく、コリント教会の人たちが、唯一真の神様についての正しい知識を持ち、共に、御子イエス様のしもべとして生きるのが目的なのです。

【適応】

神について無知な人たち」は、コリント教会の中で、知恵や知識を誇り、教会員を指導している、教会を支えている、教会の益になっている、と思い込み、唯一真の神様や御子イエス様に喜ばれている、と思い込んでいたでしょうが、死者の復活の否定は、唯一真の神様の御旨、御計画、主権を無視するもの、御子イエス様のよみがえり、復活を否定するものであり、生半可な知識は、教会に無用な混乱を引き起こし、信徒の間に分派を作り出し、分裂を引き起こすでしょう。

教会を破壊し、信徒を迷わせるのは、悪意のある人たち、常々問題を起こす人たちではありません。

多くの場合、善良な人たち、熱心な人たちほど、悪魔に利用され易いのであり、厄介なのは、悪魔の手先などとは、微塵も思わない事です。

唯一真の神様や御子イエス様に喜ばれる生き方とは、悪魔に利用されない生き方とは、唯一真の神様についての正しい知識と、御子イエス様を中心とした交わりと、御子イエス様に倣う良い習慣の維持です。

唯一真の神様についての正しい知識は、聖書からしか得られません。

説教も、聖書から逸脱する事なく語られるのでなければ、説教とは言えません。

信徒は聴いた説教を聖書に照らし合わせて調べなければならず、毎日聖書を読まなければなりません。

使徒の働き1711節、2017270ページ、第三版263ページ、「非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」。

聖書は、律法は廃棄された訳ではありませんから、聖書の教えを実行しなければなりません。

マタイの福音書517節、20177ページ、第三版7ページ、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」。

ルカの福音書1142節、2017139ページ、第三版137ページ、「だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」。

勿論、「非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べ」なければ罪が赦されない訳ではなく、「正義と神への愛をおろそかにし、十分の一もおろそかにして」ると、救われない訳ではありません。

心で信じて、口で告白すれば救われるのであり、律法を行なう事で救われるのではありませんが、御子イエス様への信仰は、行いと共に働くのです。

ヤコブの手紙220節、2017460ページ、第三版447ページ、「ああ愚かな人よ。あなたは、行ないのない信仰が無益なことを知りたいのですか。

2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。

2:22 あなたの見ているとおり、信仰がその行ないとともに働き、信仰は行ないによって完成されました。

2:23 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

2:24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう」。

正しい神知識と、正しい神知識に基づく正しい言動が、罪の蔓延るこの世に対して証しとなるのであり、信徒がこの世に出て行き、「地の塩、世の光」として働く時、罪の世の腐敗を止め、暗いこの世を照らす光となり、唯一真の神様、御子イエス様の栄光を現して行くのです。

死者の復活の否定」は、決して小さな事ではありません。

聖書の全体を否定している訳ではない、などの詭弁は通用しません。

死者の復活の否定」は、唯一真の神様、御子イエス様の御旨、御計画、主権に対する反逆であり、聖書の否定であり、聖書を規範としない言動に加担する事になるのです。

死者の復活の否定」を許したならば、聖書全体の教えを自分たちの都合の良いように解釈し始めるのは明らかであり、聖書の権威を済し崩し(なしくずし)的に失墜させるのは明らかです。

聖書の一言一句の権威を認め、聖書の教えに従うのが、正しい聖書信仰であり、信徒の生き方です。

信徒は、常に、聖書を規範として信仰生活を送り、聖書を規範としてこの世を支配、お世話、管理、運営するのです。

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