2021-12-5礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一15章35節~44

説教題:「復活のからだとは

【導入】

死者の復活の否定は、考え方の多様性、主義主張の一つ、などと云う悠長な事ではありません。

御子イエス様のよみがえり、復活の否定であり、御子イエス様の神性、主権の否定でもあり、また、唯一真の神様の御旨、御計画の否定であり、聖書の否定につながる、聖書信仰の根幹に関わる由々しき事であり、どんな意見も尊重しなければ、などと鷹揚な事を言ってはいられません。

キリスト教信仰の根幹に関わる事には、一切妥協してはなりません。

しかし、死者の復活は中々受け入れ難い事は確かであり、パウロは自然、植物を例にして、理解と受け入れの助けとして語り続けます。

【本論】

新改訳2017版 15:35 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。

鍵括弧の質問は「死者の復活はない」と強く主張する人たちからの嘲(あざけ)りを込めた質問を、揶揄的、興味本位の質問が出る事を想定したものですが、真理を追究する、探求心故の質問でない事は残念です。

しかし、こういう質問が出るであろう事を想定するのは非常に有益です。

自分の考えや意見を纏めるに際しても、反対意見や質問などを想定するのは論理を確実にし、完成度の高い論理、論述となるからです。

「死者の復活はない」と強く主張する人たちを想定した質問の内容は、一に、からだの復活の経過についてであり、二に、復活のからだの性質、特徴についてです。

先ず、復活のからだの性質、特徴について語ります。

「死者の復活はない」と強く主張する人たちの考えは、現在のからだと同一のからだの再生でした。

マタイの福音書2223節、201746ページ、第三版46ページ、「22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。

22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさねばならない』と言いました。

22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。

22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。

22:27 そして最後に、その妻も死にました。

22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」

22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。

22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

しかし、パウロはこの世のからだと復活のからだは大きく違う事、全く違う事を、「死者の復活はない」と強く主張する人たちが経験しているであろう「種、種蒔き」を用いて説明します。

15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。

コリント教会の一部の知恵と知識を誇る人たちは「死者の復活はない」と強く主張するけれど、唯一真の神様についても、この自然の営みについても、何も知らない「愚かな人だ」と断定します。

「死者の復活」と自然の営みは無関係ではない、否、自然の営みを注意深く観察したならば「死者の復活」との類似性を見る事が出来るのであり、「死者の復活」は推察出来るではないかと論述するのです。

15:37 また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。

種粒」は「今のからだ」であり、「麦やほかの穀物」は「新しいからだ」です。

種粒」から「麦やほかの穀物」への変化は似ても似つかない変化、相違ですが、否定出来ない事実であり、これは自明の理です。

種粒」が「麦やほかの穀物」として生まれ変わるのは神秘的ですが、厳然たる事実です。

種粒」が土に埋められ、死に、時が至って芽生え、「麦やほかの穀物」として生まれ変わるのです。

死は終わりではなく、新しいからだ、新しいいのちへの入り口であり、「死者の復活」はこの自然の摂理と符合しているのであり、無理もこじつけもなく推察出来るではないかとパウロは言うのです。

15:38 しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。

種粒」が「麦やほかの穀物」に生まれ変わるのは何の意味もない自然現象ではありません。

唯一真の神様の摂理、主権の現われであり、この世界の全ての営みが唯一真の神様の御旨、主権で進められている事を明らかにします。

種粒」が「麦やほかの穀物」に生まれ変わるのと「死者の復活」は一見関係なさそうに見えますが、実は深く関係、関連し、唯一真の神様の創造の業である事を示しているのです。

種粒」は「今のからだ」であり「この世のからだ」を現し、「麦やほかの穀物」は「新しいからだ」であり「復活のからだ」を現すのです。

15:39 どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。

パウロは「この世のからだ」と「復活のからだ」の違いを、さらに深く、解り易く説明するために、植物から動物へと話題を変えます。

人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉」、どれも唯一真の神様の御旨、主権により造られた被造物ですが、皆、同じではありません。

獣の肉」でも、食用で思いつく牛、豚、羊、馬、猪、鹿など、皆、其々に、味に、肉質に特徴があり、「鳥の肉、魚の肉」も、皆、其々に、味に、肉質に特徴があります。

この違いを踏まえて「復活のからだ」を説明します。

15:40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、

天上のからだ」は「復活のからだ」であり、「地上のからだ」は文字通り「この世のからだ」です。

「この世のからだ」、「地上のからだ」がそのまま「復活のからだ」、「天上のからだ」になるのではなく、「この世のからだ」、「地上のからだ」が死んで後に、「復活のからだ」、「天上のからだ」になるのです。

地上のからだ」と「天上のからだ」の違いは前述の、「種粒」と「麦やほかの穀物」の喩えや「人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉」の喩えでも明らかであり、姿形が違うのみならず「輝き」にも違いが現われます。

その違いをパウロは天体を喩えに用いて説明します。

15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。

東京都区内では難しい事ですが、ちょっと足を伸ばして奥多摩にでも行って夜空を見上げれば満天に星を見る事が出来ます。

天には膨大な数の、数え切れない数の星があるでしょう。

その輝きは一つ一つ違うのであり、人間の目には同じように見えましょうが、同じ輝きのものは二つとないのです。

太陽の輝き」や「月の輝き」は別格ですが「星と星の間でも輝きが違います」。

星自体の明るさが違い、距離が違うからです。

「この世のからだ」と「復活のからだ」は形も性質も「輝き」も違うのであり、それは、唯一真の神様、御子イエス様との交わりに相応しいものとされるからなのです。

種粒」と「麦やほかの穀物」の喩えや、「人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉」の喩え、「天上のからだ」と「地上のからだ」との違い、「太陽の輝き、月の輝き、星の輝き」の違いを示し、結論へと誘導します。

15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、

15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

「この世のからだ」と「復活のからだ」は全く違うのであり、その違いを4つのもので対比させます。

血肉のからだ」は「朽ちるもの」であり、「卑しいもの」であり、「弱いもの」ですが、一方、「御霊に属するからだ」は「朽ちないもの」であり、「栄光あるもの」であり、「力あるもの」です。

朽ちるもの」、「弱いもの」の意味は、「死体」を意味するようであり、腐敗に抗えない性質を示しているようです。

43節で「卑しいもの」と訳されているギリシャ語ですが、ローマ書921節、2017312ページ、第三版304ページでは、「陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか」と、「普通の」と訳していますので、「栄光あるもの」に比べての意味であり、「見るも触るも汚らわしい」の意味ではなさそうです。

43節の「力あるもの」の意味は、復活のからだに与えられている新鮮な、活力に満ちた永遠の力を意味しています。

血肉のからだ」は生まれながらのからだであり、この地上の原理に生きるからだ、この地上限定のものであり、「血肉のからだ」はこの地上の働きに必要なからだであり、この地上での生活に適したからだであり、無駄でも、不要でもありません。

一方、「御霊に属するからだ」は未来永劫に続くものです。

御霊に属するからだ」は御霊に生かされている者に相応しいからだであり、唯一真の神様、御子イエス様との、未来永劫に続く交わりに必要なからだであり、御国での生活に適したからだなのです。

御霊に属するからだ」に強い憧れを持って、「血肉のからだ」と比較し、「血肉のからだ」を侮ったり、卑下したり、雑に扱ってはなりません。

血肉のからだ」は唯一真の神様から預かったからだであり、大切に扱わなければならず、その機能を最大限に活用しなければならず、「血肉のからだ」で唯一真の神様の、御子イエス様の栄光を現していかなければならないのです。

パウロの主張は、死んで、葬られざるを得ないからだの特徴と、復活のからだの特徴とを、鮮やかに対比させることばを繰り返し、復活などあり得ないと主張する人たちと戦い、この地上のからだと同じようなからだで復活すると主張する人たちと戦い、ギリシャ、ローマの二元論、魂を束縛するからだからの解放を主張する人たちと戦うのです。

【適応】

色々と難点や欠点のある「血肉のからだ」ですが、難点や欠点があるからこそ、創意、工夫の余地が生まれるのであり、非常に有益な訓練となるのであり、難点や欠点のない「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」に希望と期待を持ち、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」を待つ事になるのではないでしょうか。

「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」は、唯一真の神様、御子イエス様との未来永劫に続く交わりに、唯一真の神様、御子イエス様に末永くお仕えするに必要なからだであり、御国での生活に適したからだなのですが、何の訓練もなく「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」が与えられたならば、持て余し、生かしきれないのではないでしょうか。

「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」を待ち望みつつ、「血肉のからだ」でこの地上を生きるのです。

「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」は、御子イエス様の犠牲、贖い、よみがえり、復活によって与えられるのであり、無償で与えられるのです。

襤褸(ぼろ)のようなからだから、有名ブランド製のようなからだへの変化ではなく、唯一真の神様が用意してくださった、非の打ち所のない、否、非の全くない、完全無謬のからだをあたえられるのです。

この地上での「血肉のからだ」は病気にもなり、疲れ易く、からだのあちらこちらが痛み、皺が増え、衰え、何をするにも「よっこらしょ」の掛け声が必要になり、日常の必要不可欠の事さえ億劫になりますが、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」は病気になる事もなく、疲れたり痛んだりする事もなく、老いたり古びたりする事はありません。

そんな「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」が、誰にでも、御子イエス様を信じる全ての者に与えられるのです。

血肉のからだ」故の失敗ばかりでも、不完全極まりない働きでも、貢献どころか足を引っ張り、足手まといでしかない働きであっても、御名を汚し、泥を塗るような存在であっても、御子イエス様を信じるなら漏れなく「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」が与えられるのです。

「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」の利点や条件のような事を挙げてきましたが、何の備えもなく「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」を受け取っても戸惑うばかりなのではないでしょうか。

備えとは、相応しく生きるか否か、何かをするではなく、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」は必ず与えられる、との確信を持って生きる事です。

確信がなければ、何も考える事はなく、何をするでもなく生きる事になるでしょう。

血肉のからだ」には必ず終わりがある事、終わった先には「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」が用意されていて、新しい生き方が待っているのです。

これを意識していれば、この世との関係、生き方、唯一真の神様、御子イエス様に対する生き方は変わる、変わらざるを得ないのではないでしょうか。

唯一真の神様、御子イエス様との未来永劫に続く交わりに、この恵み、祝福に、あなたは招かれているのです。

2021-12に戻る

礼拝メッセージに戻る 

トップ・ページに戻る 

 

                                               2021-12-12礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一15章45節~49

説教題:「御霊のからだとは

【導入】

パウロは、からだの復活を否定する人たち、或いは、この世のからだと同じからだでの復活を主張する人たち、そして、ギリシャ、ローマの二元論、魂を束縛するからだからの解放を主張する人たちに、「この世のからだ」、「血肉のからだ」、「地上のからだ」と、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」に付いて、その違いに付いて、語って来ました。

「この世のからだ」、「血肉のからだ」、「地上のからだ」からの、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」への変化は劇的な変化ですが、決して稀有な事ではなく、日常のありふれた自然の中に見い出せる事であり、パウロは「種粒」の「麦やほかの穀物」への変化を例えに用いて説明します。

そして、「この世のからだ」と「復活のからだ」は、姿も形も、性質も違う事を、動物を例に、「輝き」も違う事を、天体、太陽、月、星を例に語って来たのです。

更に、パウロは、「血肉のからだ」と「御霊に属するからだ」の違いを、創造の経緯に触れて説明を致します。

【本論】

新改訳2017版 15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。

最初の人アダム」と「最後のアダム」といった比較、対比は、ユダヤ教のラビが用いる説明法、解釈法の一つであり、小さなもの、在り来たりなものと、大きなもの、貴重なものとを比較、対比させて、結論へと導く方法であり、ここでは、「生きるものとなった」人間と、「いのちを与える御霊となりました」を比較、対比させ、46節では、「最初」と「」を比較、対比させ、47節では、「第一」と「第二」を比較、対比させ、48節、49節では、「土で造られた」と「天に属する」を比較、対比させ、御子イエス様へと誘導するのです。

アダムは生きるものとなった」は、創世記27節からの引用です。

創造者なる神様によって、土から造られたものが生き物になったのです。

最初の人アダム」と「最後のアダム」は、単なる一個人を示しているのではなく、其々のグループの代表を意味しており、其々の性格を現す人格的集合体である事を、並行関係にある事を示しています。

被造物としての「最初の人アダム」に属する人たちと、「最後のアダム」御子イエス様に属する人たちです。

同時に、両者の対比が明らかにされ、唯一真の神様のご計画は、「最後のアダム」、即ち、御子イエス様によって完成へと至ることが宣言されているのです。

エゼキエル書371節から14節、20171481ページ、第三版1424ページ、「37:1 主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。

37:2 主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ。それらはすっかり干からびていた。

37:3 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」

37:4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ。主のことばを聞け。

37:5 神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

37:6 わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」

37:7 私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。

37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。

37:9 そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」

37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。

37:11 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。

37:12 それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。

37:13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。

37:14また、わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知る・・主のことば。』

滅ぼされたイスラエルの民が、新しいイスラエルの民として生き返り、新しいイスラエルの地に導き入れられる事が預言され、描かれていますが、この預言が正に、真の意味で成就するのです。

15:46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。

創造者なる神様によって「最初にあったのは」、即ち、最初に造られたのは「血肉のもの」であり、全回説明したように「朽ちるもの」であり、「卑しいもの」であり、「弱いもの」です。

この「最初にあった」、「血肉のもの」が、御子イエス様のお働きによって「後に」、「御霊のもの」とされ、「朽ちないもの」、「栄光あるもの」、「力あるもの」に変えられるのです。

この順番が大切です。

パウロが順番を重要視し、強調する理由は、以下の通りです。

コリント教会の一部の人たちは、創世記126節、27節と27節に対して独自の解釈をしていたようです。

創世記126節、27節、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。・・・神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女とに彼らを創造された。

27節、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

127節に記されている「」を「御霊に属するからだ」、「御霊のもの」と解釈し、27節に記されている「」を「血肉のからだ」と解釈する考え方があり、コリント教会の一部の人たちは、この考えを支持していたのであり、パウロはこの考えを強く否定するのです。

1章と2章の違いは、創造の経緯の記述の違い、表現の違いであり、同じ創造の経緯です。

また、コリント教会の一部の人たちは、既に「御霊に属するからだ」が与えられており、復活の必要性を否定し、地上における信仰の戦い、訓練を軽視していたのですが、パウロはこの考えも強く否定するのです。

15:47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。

パウロは、「第一の人」と「第二の人」の起源の相違を語ります。

第一の人」は、即ち「最初の人アダム」は、「地から出て、土で造られた人」であり、被造物の最高峰の位置にあるものではありますが、その起源は、創造者の御手によって造られた被造物にしか過ぎません。

しかし、「第二の人」は、即ち「最後のアダム」は、「天から出た方」であり、その起源は、始めもなく、終わりもないお方、永遠の存在であるお方なのです。

15:48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。

土で造られた者たち」は、「最初の人アダム」の子孫、人類であり、「アダム」の罪の性質を強く、濃く、継承した人たちであり、「アダム」との性質の類似性が顕著です。

天に属する者たち」は、「最後のアダム」、即ち「御子イエス様」の贖いによって御子イエス様のものとされた人たち、「御子イエス様」を信じる民の群れであり、「御子イエス様」の義を継承した人たちであり、「御子イエス様」との類似性が顕著です。

15:49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。

土で造られた者たち」と「天に属する者たち」との相違は明らか、顕著です。

私たち信徒は「天に属する者たち」であると同時に「土で造られた者たち」であり、地上に生きているのであり、「土で造られた者たち」の性質を強く持ち、色濃く残っているのも事実です。

パウロは、信者の現実と、未来の希望を比較、対比させ、復活を信じる信徒に希望を与える奨励として語り、この現実、事実の中で、「天に属する方のかたちも持つことになる」希望に生きるのであり、御子イエス様の再臨の時、この希望は現実となるのです。

一方、死者の復活はない、と断言するコリント教会の一部の人たちにも呼び掛け、その考えを変えるように勧告を与えるのです。

【適応】

種粒」から「麦やほかの穀物」への変化がある事は、現実の事ですから、理解出来、受け入れられますが、「この世のからだ」、「血肉のからだ」、「地上のからだ」から、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」への変化がある事を理解し、受け入る事は、簡単ではありません。

更に、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」を想像する事は、想像の範囲を超えた事であり、出来ません。

ユダヤの宗教的指導者たちにも、復活には考え方の相違があったようです。

前回も紹介しましたが、マタイの福音書2223節、2017版、第三版、共に46ページ、「22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。

22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。

22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。

22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。

22:27 そして最後に、その妻も死にました。

22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」

22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。

22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

人は、老いて死ななければならない肉体を持ち、時間的、空間的に有限、矮小な存在ですが、老いる事も死ぬ事もない永遠の存在に変えられるのであり、「娶る、嫁ぐ」と云う関係性や、「世話をされる、世話をする、養われる、養う」と云う依存性などからも解放され、主体的、自主的、自立的に、自由に、何にも妨げられずに、唯一真の神様、御子イエス様にお仕えするようになるのです。

しかし、だからと言って、決して、協力関係を否定したり、支援関係が不用になると云うのではありません。

私たちは、御子イエス様を頭とするからだの各部分であり、相互に協力関係、信頼関係にありますが、「この世のからだ」、「血肉のからだ」、「地上のからだ」を持つ身であり、罪を持つ身、故に、大小、様々な問題が起こりますが、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」には、罪が一切ないので、本当の意味で、私たちは御子イエス様を頭とするからだの各部分となり、罪故の不協和、不調和、齟齬などは一切なく、我慢したり、忖度したり、妥協したりなどする必要もなく、完全な一致の中に、完全な調和の中に、唯一真の神様、御子イエス様にお仕えするようになるのです。

「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」とは、どのようなからだなのでしょうか。

マタイの福音書2230節に教えるように「天の御使いたちのようです」。

しかし、「天の御使いたち」を見た人はいそうもないので、これも理解の助けにはなりません。

結局、受け取る時のお楽しみ・・・なのですが、この約束は確実なのですから、希望を持って、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」が与えられる日、天の御国で、唯一真の神様、御子イエス様にお仕えする日の来たりたもう時を待ち望みつつ、不完全な「この世のからだ」、「血肉のからだ」、「地上のからだ」でも唯一真の神様、御子イエス様にお仕えし、唯一真の神様、御子イエス様の栄光を現して行こうではありませんか。

2021-12に戻る

礼拝メッセージに戻る 

トップ・ページに戻る 

 

                                               2021-12-19礼拝

クリスマス記念礼拝

聖書個所:創世記28章10節~22節 

新改訳2017版 28:10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。

28:11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。

28:12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

28:13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。

28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

28:16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油をそそいだ。

28:19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。

28:20 ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、

28:21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、

28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

 

聖書箇所:ヨハネの福音書1章50節~51節

新改訳2017版 1:50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」

1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」

 

説教題:「ヤコブのインマヌエル体験」

説教者:結城 晋次 牧師 (日本同盟基督教団 引退教師)

説教は非掲載です

2021-12に戻る

礼拝メッセージに戻る 

トップ・ページに戻る 

 

                                               2021-12-26礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一1550節58節

説教題:『あなたがたは神の国を相続します』

【導入】

パウロは、からだの復活を否定する人たち、或いは、この世のからだと同じからだでの復活を主張する人たち、そして、ギリシャ、ローマの二元論を信じ、魂を束縛するからだを否定し、魂の解放を主張する人たちに、繰り返し、繰り返し、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」が与えられる事に付いて、語って来ました。

「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」が与えられる事は、キリスト教の根幹、真理、奥義に関わる事であり、しっかり理解し、受け入れなければなりません。

パウロは、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」の必要性を否定する人たちに、軽んじる人たちに、天国、神の国は、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」でなければ入れない事を力説します。

天国、神の国に入る、と云う事は、単にお客として入る、の意味ではなく、持ち主として入る事を意味しており、ある一定の時間、期間、滞在する、の意味ではなく、永遠に滞在する事を意味しており、「この世のからだ」、「血肉のからだ」、「地上のからだ」、即ち、有限のからだであっては、天国、神の国に入る事も、滞在する事も出来ず、創造者なる神様に見える事も出来ず、そのためには、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」、即ち、永遠のからだでなければならないのです。

【本論】

新改訳2017版 15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

パウロは、コリント教会の一部の、頑なに自論を主張する人たちに、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」などない、不要だ、と主張する人たちに、「兄弟たち」、と優しく、親しみを込めて呼び掛けます。

意見の相違、考え方の違いから、時に激しく衝突する事が有ったとしても、お互いが、御子、主イエス様が肉を裂き、血を流されて贖われ、愛された兄弟姉妹であり、御子、主イエス様を頭とする一つの肢体である事を忘れてはならず、対立してはならず、関係性を断っては、切ってはならず、憎んだり、疎んじたりしてもなりません。

時に物理的な距離を置く事も必要ですが、精神的な壁を作ってはなりません。

パウロは、激しく反発するコリント教会の一部の人たちに、優しく、親しみを込めて呼び掛けます。

導入で申し上げたように、「この世のからだ」、「血肉のからだ」、「地上のからだ」、即ち、有限のからだであっては、天国、「神の国」を「相続できません」。

コリント教会の一部の人たちは、救われた自分たちは完全であると考え、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」など不要だ、このままで「神の国」に入れると思い込んでいましたが、パウロは、そんなコリント教会の一部の考え違いをしている人たちの間違いを鋭く指摘します。

血肉のからだ」は、何時しか「朽ちるもの」であり、「朽ちないもの」、即ち「神の国」を「相続できません」。

「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」、即ち、永遠のからだでなければ、「神の国」を「相続できません」。

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。

奥義」とは、今まで語って来た事、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」の事であり、51節後半以降の事です。

眠る」は、「死ぬ」、「死んでいる」事の比喩的表現ですが、御子、主イエス様が再臨される時までに、キリスト者は皆、必ず「死ぬ」、「死んでいる」訳ではありません。

御子、主イエス様が再臨される時、相当数のキリスト者が生きているのであり、「死んでいる」人たちとともに、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」に「変えられ」るのです。

変えられ」なければ、「神の国」を「相続できません」。

神の国」を「相続」するためには、「変えられ」なければならないのです。

15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

変えられ」るのは、何時の間にか、知らないうちに、気が付いたら、ではありません。

世の「終わりのラッパ」と云う、明確なしるしがあり、「終わりのラッパ」が世界中に鳴り響く時、「たちまち、一瞬のうちに変えられ」るのです。

ラッパが鳴ると」、「死者」は「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」に「変えられ」、生きている者は、復活を通さずして、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」に「変えられ」ます。

15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

この朽ちるべきもの」とは、既に「死んでしまった者」の事であり、「この死ぬべきもの」とは、今現在、「生きている者」の事ですが、既に死んでしまった者も、今現在、生きている者も、大差はなく、どちらも「この世のからだ」、「血肉のからだ」、「地上のからだ」であり、「朽ちる」、「死ぬ」、と云う抗い得ない性質を持っているのです。

支配者なる神様のご計画、御旨は、キリスト者が「神の国」を「相続」するに必要な「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」を着るように定められているのです。

15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」

鍵括弧のことばは、イザヤ書258節からの引用ですが、2017版は1204ページ、「永久に死を吞み込まれる」、と訳し、第三版は1162ページ、「永久に死を滅ぼされる」、と訳しています。

54節のパウロの引用とは、微妙に違いますが、パウロは、支配者なる神様が、決定的に打ち勝ち、「」を完全に打ち滅ぼし、祝福を持って人間を顧みられる事を示す預言である事に注目し、引用し、勝利を強調する意味で訳しているのです。

15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」

鍵括弧のことばは、ホセア書1314節、2017版は1550ページ、第三版は1488ページ、「わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか」からの自由引用です。

パウロは、「」を無視したり、軽視したりしていません。

パウロは、「」の現実的な脅威、人間には抗い得ない力を肯定しつつ、「」に打ち勝つ力をお持ちのお方の存在を確信する故に、「」が制せられる事を確信して、「終わりのラッパ」が鳴り響く時に目を据え、希望を置き、強大、強力な力を持つ「」に向って大胆に、ホセア書から勝利の詩歌を引用するのです。

15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

ここで、パウロは、「」と「」と「律法」の関係を明らかにします。

この関係を、パウロはローマ書77節で教えています。

2017307ページ、第三版299ページ、「7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない。」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。

7:8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪は生き、

7:10私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。

7:11 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。

7:12 ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。

7:13 それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。

律法」がある事によって、「」は明確に示され、「」は「」をもたらします。

人間の「」によって、「」がこの世に入り込み、世界に猛威を振るい、人間を支配していますが、それは、「終わりのラッパ」が鳴り響く時迄であり、その時「」は完全な敗北を喫するのです。

15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

私たちの主イエス・キリスト」は、人間を罪と死から解放してくださり、「私たちに勝利を与えてくださ」ったのです。

その「勝利」は、御子、主イエス様再臨の日、「終わりのラッパ」が鳴り響く時に完成するのです。

」に対する完全な「勝利」は、御子、主イエス様再臨の日であり、未来の事ですが、支配者なる神様は現在も働いておられるのであり、キリスト者は、確実に、着実に「勝利」に近付いているのです。

支配者なる神様に目を注ぐ事によって、救いのご計画の未来における完成ばかりではなく、キリスト者がこの世で体験するものとして、罪に対しても、「私たちに勝利を与えてくださいました」と、大胆に宣言する事が出来るのです。

15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」が与えられる事は、単なる希望ではありません。

支配者なる神様のお約束であり、確実な約束、希望です。

キリスト者の、この世での生活は、患難辛苦の連続でしょう。

復活が曖昧な、根拠の希薄な、単なる望みであるならば、忍耐は唯、耐えるだけの苦しい時、辛い時の連続でしかないでしょうが、復活は、支配者なる神様のお約束であり、確実な希望であり、今の忍耐は、将来の喜びに繋がるものとなるのです。

堅く立って」、パウロたちから伝えられた福音に「堅く立って」、御子、主イエス様と云う土台に「堅く立って」、「動かされることなく」、福音に根ざし、この世の思想や知恵、知識に惑わされず、この世の慣習などの惑わしに最大限の注意を払い、異教的習俗の悪影響を受ける事なく、生活における聖さを守り続けるよう、奨励するのです。

キリスト者の生活は、唯、御子、主イエス様と云う、確かな土台の上に立って、歩み続ける、戦い続ける以外の道はないのです。

【適応】

本日の説教題は、「あなたがたは神の国を相続します」としましたが、本日の聖書箇所にこの聖句はありません。

しかし、キリスト者には「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」が必ず与えられるのであり、キリスト者が「神の国を相続します」と、確実に言えるのです。

他に、51節、52節、「変えられます」、53節、「着ることになる」、54節、「みことばが実現します」、57節、「勝利を与えてくださいました」、とありますが、これらは、頑張ったら、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」に「変えられます」、とか、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」を「着ることになる」、とか、良い働きをしたら、「みことばが実現します」、とか、忠実だったら、「勝利を与えてくださいま」す、とかではありません。

御子、主イエス様の贖いに拠って、キリスト者は「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」に「変えられます」であり、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」を「着ることになる」のであり、約束の「みことばが実現します」であり、私たちに「勝利を与えてくださ」るのです。

キリスト者は、御子、キリスト・イエス様の贖いに拠って、御子、キリスト・イエス様のものとなっており、御子、キリスト・イエス様の贖いによって罪に勝利し、死にも勝利し、「復活のからだ」、「御霊に属するからだ」、「天上のからだ」に「変えられ」、御子、キリスト・イエス様と共に、神の国を相続する者とされているのです。

これが、キリスト者がキリスト者と呼ばれる由縁なのです。

これを受け入れ、確信し、御子、キリスト・イエス様に感謝し続ける事、御子、キリスト・イエス様を信じ続ける事こそ、キリスト者に求められている事なのです。

来る年も、御子、キリスト・イエス様、再臨の時迄、「終わりのラッパ」が鳴り響く時迄、御子、キリスト・イエス様から離れないで、歩み続けようではありませんか。

2021-12に戻る

礼拝メッセージに戻る 

トップ・ページに戻る