2021-2-7礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一725節~35

説教題:「神の御子 再臨の時は迫っている」

【導入】

パウロは、独身、結婚、そして、離婚、再婚について語って来ましたが、単に、独身のメリット・デメリット、結婚のメリット・デメリットを語り、離婚や再婚に対する唯一真の神様の御旨を教え、離婚や再婚を禁じ、離婚や再婚が許される場合を教え、知らしめたのではありません。

独身も、結婚も、離婚も、再婚も、人生に大きく影響を及ぼす、重要な問題であり、いい加減な気持ちで結婚してはならず、簡単に離婚し、気軽に再婚してもならないのですが、パウロが伝えたいのは、17神から召されたときのままの状態で歩むべきですでした。

これは20でも、「それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい」と語り、24節でも、「それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」と語った通りであり、パウロが、この短い中に、三度も語るのは、如何に重要か、なのです。

その理由は、コリント教会で、独身について、結婚について、また離婚や再婚について、其々が好き勝手な自論を主張し、コリント教会内に混乱を招いていたからでしょう。

そんなコリント教会に、独身に対する、結婚に対する、離婚や再婚に対する指示を与え、唯一真の神様に仕える事が優先されなければならない事を語って来たのです。

唯一真の神様によって造られた人間ですから、何をさておいても唯一真の神様に仕える事が優先されなければならないのは、当然といえば、当然の事ですが、その背景には、終末思想があり、唯一真の神様の御子キリスト・イエス様再臨の時が迫っていると考えたからです。

独身も、結婚も、離婚や再婚も、人生の一大事だが、唯一真の神様の御子キリスト・イエス様再臨を見据えて、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」と語り、更に詳しく説き明かします。

【本論】

新改訳2017版 7:25 未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。

パウロは、10節では「命じるのは私ではなく主です」と、主の命令である事を強調し、12節では「これを言うのは主ではなく私です」と、使徒としての権威で語っている事を表明しています。

この25節は、譲歩した、単なる個人的見解だが、聞く価値がある、と云う事を言いたいのではありません。

主のあわれみにより信頼を得ている者として」と、使徒としての権威を背景にして、「意見を述べます」との、但し書きを付けて述べているのです。

10節、12節、25節、三つの、パウロの発言の権威に、大きな相違はありません。

コリント人への手紙などが執筆された当時は、パウロの、使徒としての権威に疑問を持つ者がおり、パウロの発言の受け止め方も様々だった事であり、それらの人々や受け止め方に配慮した但し書きを付ける必要があった事でしょう。

不要な混乱を避ける目的もあったのではないでしょうか。

しかし、これらの問題は、聖書として纏められた時に、解決しており、聖書に纏められたパウロの言葉には、権威を認めなければならず、現代の私たちは、聖書の言葉としてしっかりと受け止め、聞き従うべきなのです。

未婚の人たち」と訳されている言葉は、第三版や口語訳聖書では「処女」と訳していますが、新共同訳聖書では2017版と同じく「未婚の人たち」と訳しています。

26節との繋がりからも、「未婚の人たち」とした方が、解り易い訳だと思います。

何故、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」と語るのか。

7:26 差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。

差し迫っている危機」が、何を指すのかは、見解の分かれるところですが、一つは、1532節に、エペソでの出来事が語られていますが、パウロがエペソで体験した苦難は、生々しい、新しい記憶であり、迫害が迫り来るのをひしひしと感じたのではないでしょうか。

迫害は杞憂ではなく、現実であり、しかも、間近に迫り来つつある脅威なのです。

今一つは、御子キリスト・イエス様の再臨に伴う、最後の審判がイメージされているのではないでしょうか。

世界が、裁きの場に立たされるのであり、逃げる事も、隠れる事もなく、裁きの場に立たされ、為した事、為さざる事に対して、申し開きをせねばならないのです。

このような状況の時は、新しい事に着手せず、変化の道を選ばず、現状に留まり、「差し迫っている危機」、即ち、信仰の戦いに備えるべきではないか、と勧めるのです。

コリント教会の一部の人々が、71節で「男が女に触れないのは良いことだ」と、遠まわしに、独身を擁護して欲しい旨の質問を投げ掛けて来た事に対して、パウロは独身には独身の利点がある事を認めつつ、独身であるべきと断定せず、結婚すべきであるとも断言せず、「そのままの状態にとどまるのがよい」とお勧めします。

7:27 あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。

独身者ならではの働きがあり、既婚者ならではの働きがあるからです。

唯一真の神様は、どちらも必要とされるのですが、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」が、重要なのです。

ですから、独身者は、敢えて結婚を選ぶ必要はないのです。

一人では立ち向かえないからといって、二人なら立ち向かえるからといって、結婚するのは、正しい選択ではありません。

家族を抱えて苦難に立ち向かうのは、自身も家族も、非常に辛い立場に身を置く事になりましょう。

自分一人なら、苦難に耐えられるかも知れない、上手く回避出来るかも知れない。

しかし、家族を抱えていては、身動きが取れない。

だからと云って、既婚者は、苦難に対する対策として、家族を守るためとの理由から、離婚をしてはならないのです。

家族に類が及ぶのを恐れて、縁を切っておくのは、一見賢いやり方のようですが、狡賢いとの誹りを受けるのではないでしょうか。

残された家族も、苦難に耐えられない者と見切りを付けられた形であり、苦難を避けられたとしても、辛いだけなのではないでしょうか。

苦難対策として、結婚を選び、離婚するのは、唯一真の神様に喜ばれる事ではありません。

そんな事で、唯一真の神様の栄光を現す事は出来ません。

7:28 しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。

苦難対策ではなく、唯一真の神様の導きによって結婚に至ったのなら、それは、「罪を犯すわけではありません」し、決して恥ずべき事でもありません。

結婚は、唯一真の神様の祝福の基であり、大いに喜ぶべき事ですが、自分自身を、家族を、非常に辛い立場に置く事になりましょう。

パウロは、この事を憂慮して独身を勧めるのですが、勧告であり、忠告であり、決して、独身の優位性を奨励する意図がない事、結婚を禁じる意図がない事を明らかにするために、誤解を避けるために、説明を続けます。

7:29 兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。

苦難対策としての独身や結婚ではなく、キリスト者として、独身や結婚を考えなければなりません。

キリスト者は、この世に生きていますが、この世に染まっては、この世に流されてはなりません。

この世の現状、現実に囚われてはならず、御子キリスト・イエス様の奴隷としての生き方を選ばなければなりません。

キリスト者であっても、この世に生きているので、この世の影響を強く受けるでしょう。

しかし、この世を過大視する事のないようにしなければなりません。

この世の有様は、永続的に、未来永劫に存続するように見えますが、変化し、過ぎ去って行く、朽ちて行く物なのです。

結婚を最終目的とする事なく、夫婦関係も過ぎ去っていくものとの認識が必要です。

しかし、断じて、伴侶を無視したり、邪険に扱ったり、蔑ろにして良い訳ではありません。

伴侶への過度の依存や従属、結婚への過度の期待や執着を戒めるのであり、近付き過ぎず、離れ過ぎず、適度な距離感、関係性を保つ事が重要なのです。

常に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の御旨に従順である事が重要なのです。

7:30 泣いている人は泣いていないかのように、喜んでいる人は喜んでいないかのように、買う人は所有していないかのようにしていなさい。

7:31 世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。

この世での悲しみ、この世での喜び、この世での富の使用、売買、所有などなど、人間は、この世と広く、深く、複雑に関わって生きていますが、思うほど、重要ではなく、重要視するに値しない関係なのです。

悲しみ、喜び、富み、売買、所有は、人間の上を、回りを、表面を過ぎて行くだけで、人間の本質には関わりません。

7:32 あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。

この世の有様は過ぎ去るのであり、この世の事で「思い煩わないように」、この世の事に埋没する事なく、この世に翻弄されてはならず、この世の事で一喜一憂してはならず、この世の事で恐れ、怯え、不安になり、心を騒がせてはならないのです。

風や波に揺れ動く船のようであってはならず、小さくても、地に根を下ろして、流されないように、翻弄されないようにしなければならないのであり、覚めた目で、冴えた心で生きる事を勧めるのです。

しかし、無感動、無関心、虚無的、厭世的な生き方を奨励しているのでもありません。

この世に関わり過ぎず、しかし、離れ過ぎてもならないのです。

7:33 しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、

7:34 心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。

独身者は、唯一真の神様に専心して仕えて生きる事が出来るのであり、人間の、創造の本来の目的に立ち返って、唯一真の神様を喜ばせる事に専念出来ますが、既婚者は、伴侶の事にも気を配らなければならず、唯一真の神様を喜ばせる事だけに専念する事は難しくなりましょう。

だからと云って、結婚が悪い訳ではありません。

結婚は、唯一真の神様が定められた制度であり、正しく用いる時、其々の賜物が活かされ、素晴らしい働きに繋がります。

しかし、人間の罪により、結婚は必ずしも、唯一真の神様の目的に沿わず、結婚自体が目的化してしまう危険があるのです。

そんな結婚は、唯一真の神様に一致協力して仕える事を阻み、夫婦関係をも毀損してしまうのです。

7:35 私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。

パウロがお勧めするのは、独身でもなく、結婚でもなく、「品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになる」事です。

キリスト者の第一目的であり、この目的の達成、完成のために、人によっては独身を通し、人によっては結婚をするのです。

独身を絶対視するなら、独身を貫く事が目的となり、不自然な形で独身を維持する事となり、それは罠となり、品位を欠く事となり、キリスト者の自由を束縛するものとなります。

1月の説教で、聖職者による性犯罪映画「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を紹介しましたが、不自然、強要された独身は、由々しき問題を起こし得るのです。

方や、結婚を絶対視するなら、結婚する事が目的となり、不自然な結婚生活を維持する事となり、それも罠となり、品位を欠く事となり、キリスト者の自由を束縛するものとなります。

独身を考えるに際して、結婚を考えるに際して、唯一真の神様に仕えるために「」となるかどうかを基準としなければならないのです。

独身で唯一真の神様に仕える事を願っているのに、結婚を勧められて閉口している者に対しても、結婚して唯一真の神様にお仕えしたいのに、結婚を思い止まるよう諭されて困っている者に対しても、励まし、慰めとなるお勧めなのではないでしょうか。

【適応】

本日の説教題は、26節の差し迫っている危機」から採ったのですが、26節は直接的で、不安を煽りかねないので、「神の御子 再臨の時は迫っている」とした訳です。

少し柔らかい表現にしましたが、悠長にしていて良いと言いたいのではありません。

唯一真の神様から与えられた賜物の活用と使命の遂行は、先延ばしにしていてはなりません。

あなたが取り組まなければならず、誰かが代わりに、ではありません。

危機が差し迫っていると聞くと、浮き足立ち、何も手に付かなくなり、おろおろするだけの人が現れますが、キリスト者はそうであってはなりません。

どうせ死ぬのだ、と居直り、すべき事を放棄し、自分の願望だけをするのも、キリスト者に相応しくありません。

期日がはっきり明示されていても、切羽詰らないと動かないのが人間であり、期日が曖昧であるなら、まだまだ先の事と高を括って、悠長に構えているのが人間でしょう。

御子キリスト・イエス様が、天に昇られて2000年が経ちましたが、御子キリスト・イエス様再臨の時は、この次の瞬間かも知れず、まだまだ先かも知れません。

この次の瞬間、だとしても慌てる事なく、取り乱す事なく、まだまだ先、だとしても悠長に構える事なく、先延ばしにしてもならず、唯一真の神様から与えられた賜物の活用と使命の遂行に取り組み続けなければならないのです。

終末思想、再臨のお約束に関わらず、今日すべき事は、今日すべきです。

明日には、明日すべき事があります。私がすべき事は、私がすべきです。

あなたがすべき事は、あなたがしなければなりません。

すべき事を放置しておいて、誰かが見かねて助けてくれるのを期待してはなりません。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が求め、願っておられるのは、「品位ある生活を送ってひたすら主に奉仕」する事です。

品位ある生活を送って」の「品位」は、「優雅な、上品な」などの意味ではありません。

口語訳聖書では「正しい」と訳し、新改訳聖書第三版では「秩序ある」と訳しているように、「キリスト者として正しい生活」であり、「キリスト者として秩序ある生活」であり、「キリスト者として相応しい生活」です。

放任は、他人任せは、「キリスト者として正しい生活」では、「キリスト者として秩序ある生活」では、「キリスト者として相応しい生活」ではありません。

危機」は「差し迫っている」のですから、「召されたときのままの状態で」、独身者も、既婚者も、奴隷も、自由市民も、割礼を受けた者も、無割礼の者も、今直ぐ、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に従い、仕え、生きる事が何より、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の喜ばれることなのです。

平時でも、危急の時の心構えで「ひたすら主に奉仕」する者こそ、危急の時であっても、平時と変わりなく「ひたすら主に奉仕」する者こそ、真のキリスト者です。

平時にいい加減な人が、危急の時に適格な対応が出来るでしょうか。

危急の時に、平時の心を保てるのは、普段の正しい、秩序ある、誠実な生き方なのではないでしょうか。

危機」は「差し迫っている」のに、まだ準備が出来ていません、気持ちの整理が出来ていません。

もう少し待ってください、云々と、「ひたすら主に奉仕」する事を先延ばしにはしていないでしょうか。

危機」は「差し迫っている」、冗談でしょ、驚かさないでくださいよ。

急がせないでくださいよ、と、「ひたすら主に奉仕」する事を先延ばしにはしていないでしょうか。

平時でも、危急の時でも、「品位ある生活を送ってひたすら主に奉仕」したいものです。

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            2021-2-14礼拝

聖書個所:サムエル記第一1614節~23

説教題:「竪琴弾きとして召し出されたダビデ」

【導入】

皆と同じ。一緒。周りと同じ。浮き上がっていない。違和感が無いと言うのは、何とは無く安心出来る状況ですが、浮き上がっていない、違和感が無いと言う状況が創造者なる神様の前に正しい事とは限りません。

違いはあって当然ですし、特にイスラエル人は創造者なる神様と契約を結んだ民ですから、周りの国々と、八百万の神々を信じる人々とは違ってこそイスラエル人と言えるのではないでしょうか。

その名誉ある違いを退けて、周りと同じようになろうとするのは、創造者なる神様の選びを価値無いものと考える行為であり、創造者なる神様を捨てる、裏切る行為です。

そんなイスラエル人の願いを、創造者なる神様は受け入れて下さり、ベニヤミン部族の中からサウルを選びイスラエルの王様として下さいました。

「彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」

見た目も立派な、しかも戦いにも秀でており、ヤベシュ・ギルアデの人々をアモン人の脅威から救い出し、アマレク人を聖絶し、と王様として実力を発揮し、イスラエルの人々の期待に応える働きをしたのです。

しかし、人の目には立派な、有能な王様と映ったとしても、創造者なる神様は神様のことばに、命令に忠実な者を嘉として下さるお方です。

どのような心持で従ったかを問題とされるのであり、「待て」との命令に待つ事が出来ず、「聖絶せよ」との命令に従わず、牛や羊を残しておいたのは大きな失敗であり、その失敗を指摘されても言い訳に終始し、悔い改めないサウルを、創造者なる神様は退け、新しく、創造者なる神様の目に適った少年を選ばれました。

今日は、イスラエルの王として選ばれながら退けられたサウルと、新しくイスラエルの王として選ばれたダビデの姿を通して、創造者なる神様の愛とご計画を学びたいと思います。

【本論】

イスラエルの中で彼より美しい者はいなかった、と言われて、如何にもイスラエルの王様として相応しい人物として、イスラエル初代の王様として選ばれたサウルは、創造者なる神様から二回の試験を与えられます。

これは先日学んだ事ですが、一回目は、どんな危機的状況に置かれたとしても、「創造者なる神様の時を待つ」と言う事でした。

二回目は、人の言葉、意見に左右影響される事なく、「創造者なる神様の言葉に、命令に聞き従う」と言う事でした。

残念な事に、どちらも失敗し、しかも、悔い改める事も出来ませんでした。

その心が、創造者なる神様に結びついていなかったので、いざと言う時に、創造者なる神様の言葉に従う事が出来ず、状況に右往左往し、人々の意見に従ってしまったのです。

失敗した時も、創造者なる神様の下に帰ってくる事が出来なかったのです。

そこで、創造者なる神様は、サウル王を退け、新しい王様を選ぶ事にします。

16:1 【主】はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」

創造者なる神様は神様のことばに聞き従わないサウルの替わりに、新しくイスラエルの王様になる人物を探しておられ、その人物を見つけたから油を注げと、創造者なる神様はサムエルに仰るのです。

王様にする、と言っても直ぐに王様として働く訳ではありません。

イスラエル初代の王様サウルは、現役であり、まだまだその統治は続くのですが、創造者なる神様の目はサウルではなく、ダビデに注がれ、その印しとして、今、油を注ぐのです。

「油を注ぐ」と言う行為は、創造者なる神様の選びの象徴であり、ダビデはこの時10歳前後、精々15歳ぐらいであったと考えられていますが、年齢には関係無く、その王位はダビデに与えられたのであり、サウルからは取り上げられた、と言う事なのです。

創造者なる神様の目が注がれない、選びから外される、と言うのは大変大きな事です。

助け導いて下さる創造者なる神様が離れて行かれた。

創造者なる神様不在。それはまるで空家状態であり、空家には何時しか害虫、害獣が住み着き、荒れ果て、朽ちていくように、

16:14主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせ」る事になるのです。

主からの、わざわいの霊」と言う表現に、違和感を覚える方が居られるかも知れませんので、少し解説が必要でしょう。

この表現は、ユダヤの文化、ユダヤ人の世界観から来るもので、どんな出来事も創造者なる神様の支配の中にある、と言う考え方の現われであり、例え「わざわいの霊」であっても、創造者なる神様の許し無しには何も出来ない、と考えたのであり、それはヨブ記からも学ぶ事が出来ましょう。

ヨブを苦しめた様々な出来事ですが、創造者なる神様が許したからこそサタンは行動出来たのであり、その考え、世界観がここサムエル記にも現されているのです。

創造者なる神様が去られた虚無感、喪失感は、創造者なる神様に退けられた絶望感は何物を持ってしても埋められるものではなく、精神を苛(さいな)み、神経を苛立たせた事でしょう。

16:15 サウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。わざわいをもたらす、神の霊が王をおびえさせています。

16:16 わが君。どうか御前におりますこの家来どもに命じて、上手に竪琴を弾く者を探させてください。わざわいをもたらす、神の霊が王に臨むとき、その者が竪琴を手にして弾くと、王は良くなられるでしょう。」

16:17 サウルは家来たちに言った。「私のために上手な弾き手を見つけて、私のところに連れて来なさい。」

16:18 家来の一人が答えた。「ご覧ください。ベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。弦を上手に奏でることができ、勇士であり、戦士の出です。物事の判断ができ、体格も良い人です。主が彼とともにおられます。」

専門外の事ですので、詳しくは解かりませんが、精神的な病の対処療法として「音楽」が用いられる事があるようです。

妊産婦の精神的な安定と、お腹の中の胎児の成長のためにも、音楽が有用である事は、皆様も良く知っておられる事と思います。

3000年程前から、音楽療法が取り入れられていたのであり、また、精神を高揚させる効果も音楽にはあるようで、士気を高めるために応援歌が用いられ、一体感を高めるために校歌、国歌が歌われるのでしょう。

かように音楽には奥深い力があり、サウルの家来たちは音楽療法を推奨したのであり、奇しくも、ダビデが推薦される事になるのです。

16:19サウルは使いをエッサイのところに送って、「羊とともにいるあなたの息子ダビデを、私のところによこしなさい。」と言った。

16:20 エッサイは、ろば一頭分のパンと、ぶどう酒の皮袋一つ、子やぎ一匹を取り、息子ダビデの手に託してサウルに送った。

大事な息子を取り上げられるのに、贈り物を持って行くとは、何ともやり切れない事でしょうが、イスラエルの人々が王様を求めた時に、王様の権利としてサムエルが確認し、念を押した事ですから仕方がありません。

裕福な王様にとっては、然程の貢物ではないかも知れませんが、一介の農夫エッサイに取っては大切な収穫物であり、財産です。

しかも、長男、二男、三男とも、サウル軍に召集されているのであり、働き手を奪われた上に、更に、貢物を持たせて末っ子を差し出さなければならないとは、踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、と言った所でしょうか。

こうして、

16:21 ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼がたいへん気に入り、ダビデはサウルの道具持ちとなった。

16:22 サウルはエッサイのところに人を遣わして、「ダビデを私に仕えさせなさい。気に入ったから」と言った。

サウルはダビデがサウルの後を継ぐ王様として召され、油を注がれているとも知らずにダビデを召し抱えました。

最初は音楽療法士として召したのでしょうが、ダビデは創造者なる神様に愛される人物であり、人にも愛される素質を持っていたので、サウルの寵愛を受け、「サウルの道具」、つまり「剣、盾、兜、鎧」を預かる者となるまでの信頼を受けるようになったのです。

特に「剣」は命に関る事であり、めったな人に預けられる物ではありません。

王様の命は何時も危険に曝されています。

今の今まで忠実な部下であったとしても、次ぎの瞬間に裏切らない保証はありません。

盾も兜も鎧も渡してしまっているのですから、サウルの命はダビデに握られている、と言っても過言ではありません。

それ程までにサウルはダビデを信頼したのであり、ダビデはサウルの信頼を裏切る事なく、ダビデはサウルの肉体、精神を守ったのであり、この後に、サウルに命を付け狙われる状況になっても、ダビデは決してサウルの命に手を出す事はしなかったのです。

それは、ダビデは創造者なる神様に信頼していたからであり、また創造者なる神様の守りを信頼していたからであり、どのような状況であっても人の信頼を裏切る事は、創造者なる神様を裏切る事に他ならないと考えていたからなのです。

結局、誠実であるとか、信頼できるとかの資質は、創造者なる神様にどれだけ信頼しているかの現れであり、創造者なる神様に信頼している尺度が、人に対しての誠実さとして現れるのです。

ダビデは創造者なる神様を信頼し切っていたから、生涯、サウルを裏切る事も無く、多くの人に信頼され、愛されたのであり、サウルは創造者なる神様を信頼し切っていなかったから、ダビデを信じ切る事が出来ず、何の根拠も無いのに疑うようになり、ダビデの命を付け狙うようになるのです。

16:23 神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。

【適応】

創造者なる神様がイスラエルの指導者を選ぶ場面は、聖書に数多く記されています。

ヨセフ、モーセ、ヨシュア、サムエル。

皆、創造者なる神様から選ばれた人物ですが、召されて直ぐに、その働きに就いた訳ではありません。

ヨセフはヤコブ一族の長となる事を夢によって知らされましたが、奴隷として売られ、財産の管理を学び、無実の罪を着せられ、牢獄に入れられ、30歳になるまで辛い訓練を受けました。

モーセは幼くして捨てられましたが、王宮で育てられ、最高の教育を受けました。

そして、イスラエル民族が受ける苦しみを顧みる心を与えられましたが、そこから40年も羊飼いとしての生活を送り、40年の荒野での生活のための訓練を受けました。

ヨシュアは若くしてモーセの従者となり、モーセの行動から指導者としてのイロハをつぶさに学び、モーセの働きを引き継ぐ指導者としての訓練の期間を過ごしました。

サムエルは幼い時に両親の下を離れ、神殿に生活し、エリの薫陶を受けて、創造者なる神様に仕える事のイロハを学びました。

サウルの場合はどうでしょうか。

創造者なる神様のご計画ではなく、民の要求によって立てられたイスラエルの王様であり、小さな部族の、取るに足り無い小さな家族の出のサウルですから、充分な訓練を受けてはいません。

しかし、創造者なる神様はサウルに、何よりも大切な「創造者なる神様の命令に従う」と言う課題を与えられたのであり、創造者なる神様のことば、命令に従いさえすれば、必要な事は後から付いて来るのであり、助けは必ず与えられる事を学ぶ予定だったのです。

しかし、サウルはこの創造者なる神様の課題を侮り、自分の力で切り開き、自分の考えを優先させてしまったのです。

訓練を受けていなかった…は言い訳にはなりません。

人は其々に創造者なる神様からの訓練を受けるのであり、ヨセフにはヨセフの、モーセにはモーセの、ヨシュアにはヨシュアの、サムエルにはサムエルの、そしてサウルにはサウルの課題、訓練があるのであり、人と同じではないのです。

ダビデはどうでしょうか。

ダビデは一介の羊飼いであり、何の訓練も受けてはおりません。

しかし、王様として油を注がれながらも、サウルに仕える事で、創造者なる神様によって立てられる時まで、サウルの下で、一兵卒として仕え、忍耐を学んだのであり、帝王学を学んだのです。

これが、創造者なる神様がダビデを竪琴弾きとされ、サウルに仕えさせた理由です。

創造者なる神様に選ばれ、油を注がれても、実際に王位に就任するのははるか先の事であり、その1020年の間に与えられる環境、課題を経て、創造者なる神様の器として整えられて行くのです。

ここに人間的な思いを差し挟んではなりません。

紆余曲折があるやも知れませんが、それは人間の見方であり、創造者なる神様のご計画にそって起こる事象なのです。

事象が起こる事や問題が起こる事が問題なのではなく、それらにどう対処するかが問われるのであり、待ちきれずに勝手な判断で行動を起こす事が問題なのです。

創造者なる神様に聴き、従い、待つ事が大切です。

最後に、創造者なる神様がダビデを竪琴弾きとされ、サウルに仕えさせた、もう一つの理由を見て終りたいと思います。

サウルは創造者なる神様から退けられてしまいましたが、決して捨てられた訳ではありません。

それが証拠に、創造者なる神様は精神を病むサウルに、ダビデと言う音楽家を送って下さり、歌人を送って下さり、音楽によって、音楽に合わせて即興で歌う詩によって慰めを与えて下さったのです。

悪霊に怯え、悩み、苦しむサウルに、ダビデの竪琴を通して安心、平安、憩いを与えて下さったのです。

竪琴弾きとして召されたダビデには、忍耐と帝王学を学ぶチャンスとして下さり、召したサウルには、元気の回復と、精神の安定、悔い改めのチャンスを与えて下さったのです。

このチャンスをダビデは生かして、イエス・キリストに続くダビデ王朝の礎を築き、サウルはチャンスを生かす事が出来ずに、子孫に祝福を継承する事が出来なかったのです。

私たちは偶然でサラリーマンになった訳でも、自営業を営んでいる訳でも、親になった訳でも、子になった訳でもありません。

ましてや偶然でクリスチャンになった訳ではありませんし、この教会に所属、或いは出席している訳でもありません。

其々に置かれた場所、立場、地位で、創造者なる神様に仕える訓練を与えられているのです。

ある時には助け手とされ、ある時には助けられ、共に創造者なる神様の栄光を現す僕となりたいものです。

ここに居られる皆様が、創造者なる神様に信頼し、創造者なる神様のことばにどんな状況下でも聴き従って、創造者なる神様の栄光を現し、千代に及ぶ祝福を受けられますように。

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                2021-2-21礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一736節~40

説教題:「婚約者、やもめへのお勧め 

【導入】

パウロは、独身、結婚、そして、離婚、再婚について語って来ましたが、その背景には、コリント教会の人々の中の一部に、独身こそキリスト者に相応しい姿、あるべき姿、と考える人々がおり、結婚は、性的欲求をコントロール出来ない人、自制の出来ない人の選ぶ道、と考える人々がいたからのようです。

結婚して、肉の子どもを生み、育てる事も、勿論、大事、大切かも知れないが、今は、独身で、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕え、伝道に励み、霊の子どもを生み、育てる方が、優れている、急務、必要とされている、と考える人々がいたようです。

キリスト者の中から発生したのか、コリント辺りに、似たような習慣があったのか、定かではありませんが、他人同士の、未婚の男女が、あたかも兄妹のように同居し、性的関係以外は、普通の夫婦と同じような生活を送る習慣が見られたようです。

現代でも、他人同士の、未婚の男女がシェアハウス生活を送る事が、珍しくはなくなりましたが、好奇の目で見られる事になるのではないでしょうか。

最初は、純粋な気持ちで同居を始めても、結婚適齢期の男女が同居すれば、恋愛感情が芽生えるのは自然であり、恋愛感情を押し殺したり、性的欲求を押さえ付ける事になるのではないでしょうか。

そんな姿は不自然であり、不自然を解消するために大切な時間とエネルギーを使うのは残念の事なのではないでしょうか。

大切な時間とエネルギーは、建設的、建徳的な用い方をすべきであり、また、誤解を招くような言動は慎むべきであり、パウロは、婚約中の男女に対して、また、やもめに対して、お勧めをいたします。

【本論】

新改訳2017版 7:36 ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。

新共同訳聖書、口語訳聖書、そして新改訳聖書2017版では、本人の問題として訳しています。

コリント教会内に広がる、禁欲的影響を受けて、婚約中の者が、結婚すべきか否かを悩み、躊躇しているのに対する勧告です。

不自然な抑制は、不健康であり、「品位を欠いたふるまい」、即ち「過度の情欲を抱く」事、「不適切な言動に出る」事、「淫らな言動に出る」事になりかねません。

結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりに」して、何ら問題はないのです。

コリント教会内の誰が、何と言おうとも、「結婚」する事に、どんな形でも、罪の意識を持つ必要が無い事を、パウロは明示し、宣言するのです。

この36節ですが、新改訳聖書第三版では、「もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい」と、親や後見人の考え方、対応として訳しています。

当時の結婚は、当人の意向であるよりも、親や後見人の意向で決められていた時代であり、結婚するのが当然、と考えられていた時代であり、未婚のままでいる事を恥、と考えていた時代です。

親や後見人がキリスト者となって、独身こそ、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に相応しいと思い、自身にはその考え方を適応しつつも、しかし、娘の事を考え、家庭の事情や社会的事情から、娘を結婚させて良いものかと悩み、躊躇するなら、また、娘が結婚したがっているなら、結婚させる事に全く問題はないと、パウロは結婚させる事を勧めるのです。

結婚」は、唯一真の神様が定められた制度であり、素晴らしい事であり、祝福の基です。

結婚」する事に、どんな形でも、罪の意識を持つ必要が無い事を、パウロは明示し、断定するのです。

7:37 しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。

大事なのは、「強いられてではなく」でしょう。

自分の考えを持たず、人の意見を求めて聞き回り、人の意見を直ぐに取り入れ、人の意見に従うばかりの人がおり、また、自分の考えに確信を持てず、人の意見に強く影響を受ける人がいます。

パウロは、「心のうちに固く決意し」、「自分の思いを制し」、「自分の心で決意する」と、自分の考えを持つ事、自分の考えに確信を持つ事の大切さを教えます。

勿論、自分勝手な考えではなく、また、自分の考えを押し通す事を奨励しているのではなく、人の意見を取り入れる謙虚さは、必要不可欠ですが、基本となるのは、核となるのは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の御心、聖書に基づく、自分の考えです。

正しい判断をするためには、先ず、自分なりの考えを出し、それを整理し、纏める事です。

その、自分の考えを点検、確認、修正するために、人の意見を聴くのであり、そこでは、「強いられてではなく」が、重要になります。

人の意見を取り入れるに際し、納得する事、同意する事、不満や疑問が解消、解決される事が重要です。

鵜呑みは、厳禁です。不承不承も強制も、大問題です。

不本意な意見に従うのでは、無理強いがあったのでは、喜びがありません。

禍根の元であり、何より、信仰から出ていない事は罪です。

独身の賜物が与えられている者が、「心のうちに固く決意し」、「自分の思いを制し」、「自分の心で決意」したならば、より自由に唯一真の神様、御子キリスト・イエス様にお仕えする事に集中、注力出来るので、素晴らしい事ですが、独身と結婚は、決して対立の関係ではないのです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様にお仕えする事が目的であり、目的達成のための手段に、独身があり、結婚があるのです。

独身でなければ、結婚していなければ、の部分があるかも知れませんが、独身が優れていて、結婚が劣っている訳でも、逆でもないのです。

独身、結婚、其々の賜物に応じて、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様にお仕えするのです。

7:38 ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。

結婚」は、問題がないどころか、唯一真の神様が定められた制度であり、素晴らしい事であり、祝福の基であり、「結婚する人は良いことをして」いるのです。

更に、自分の自由意志で独身を選んだ人は、「もっと良いことをしている」、とパウロは言いますが、パウロが言いたい事は、結婚と独身の比較ではなく、ましてや優劣を語っているのでもありません。

パウロの真意は、結婚の賜物を存分に用いて、或いは、独身の賜物を充分に用いて、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様にお仕えする事です。

結婚の賜物、独身の賜物を充分に活用する事が大切であり、賜物の持ち腐れがあっては、誤用があってはならないのです。

独身である事を誇り、結婚した者を見下し、差別してはならず、結婚した事に負い目を感じ、卑下しては、独身者を羨(うらや)んではならないのです。

パウロは、自身の独身としての生き方に、何らの不自由も、不便も感じていませんから、独身を肯定的に表明しますが、独身と云う状態を選ぶ事が、独身と云う状態がもっと良いことをしている」のではなく、独身のメリットを生かして、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様にお仕えする事が、「もっと良いことをしている」、と言っているのです。

独身の自由さを、誤用し、余計なお節介をし、何にでも口を挟み、結果として掻き回しているならば、最悪でしょう。

結婚も同じです。

結婚のメリットを生かして、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様にお仕えする事が、「良いことをしている」、と言っているのです。

結婚でも、独身でも、自由気まま、好き勝手、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕える事は二の次、であるなら最悪でしょう。

続けて、パウロは、未亡人、やもめについてのお勧めを語ります。

7:39 妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。

当時の、未亡人、やもめの再婚に、特別な配慮をしたお勧めです。

当時、未亡人は、やもめは、社会的に非常に弱い立場にあり、経済的に困窮し、保護もなく、大変な状況に置かれていました。

親族が支援してくれれば良いのですが、裕福な親族は、そうそう居るものではありません。

生きていくためには、再婚するしかなかった、と言っても過言ではないのです。

しかし、コリント教会の一部の人々は、やもめの再婚を快くは思っていなかったようです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の導きによって、未亡人、やもめになったのだから、未亡人のままでいる事が、やもめのままでいる事が御こころだ、です。

結婚と云う制度、束縛から解放されたのは、恵みだ。

その恵みを捨てるのは、御こころではない。

キリスト者は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に養ってもらうべきであり、配偶者を得る事は、配偶者に養ってもらう事は、経済的な依存は、信仰的ではない。云々。

如何にも、もっともな意見ですが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様は、人を通して働かれ、人を通して御こころを示されるお方です。

人の助け、援助、支援を受けるに、何ら問題はありません。

パウロは、未亡人、やもめには「自分が願う人と結婚する自由があります」、と大胆に言い切ります。

しかし、パウロは、「主にある結婚」、即ち、結婚相手が「キリスト者」である事に限定します。

配偶者と死別、或いは、離婚したのは、未信者と結婚するためではありません。

未信者の束縛に、或いは、未信者の無理解に入るためではありません。

キリスト者と再婚して、キリスト者夫婦として、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕える事こそ、御こころなのです。

御子キリスト・イエス様の身体なる教会に属する者との、深い自覚をもって、結婚を考えなければならないのです。

自分たちの身体をもって、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現すのであり、結婚のメリットを生かして、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕えるのです。

しかし、パウロは、独身のメリットを熟知し、享受して、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕えて来ているので、再婚に拘る必要がない事を表明します。

7:40 しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。

パウロは、「私の意見です」との、但し書きを付けていますが、しかし、パウロ個人の意見、私見の表明ではありません。

725節で、パウロは、「主の・・・信頼を得ている者」である、と述べており、使徒としての自負があり、決して私見でも、個人の意見でもない事は明らかです。

未亡人が、やもめが、そのままでいる事は、当時の社会にあっては、大変な困難が待ち受けていました。

パウロは、それを百も承知の上で、「そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです」と言い切ります。

38節で説明したように、パウロは、独身のメリットの大きさを享受しており、独身を最大限、評価していますが、40節は、独身でなければ体験出来ない恵みの大きさを知った者の言葉、祝福の大きさを体験した者の言葉です。

独身の、未亡人の、やもめの大変さを承知の上で、独身には、未亡人には、やもめには大変さに勝る祝福があるのであり、それは、独身でなければ、未亡人でなければ、やもめでなければ体験出来ない事なのです。

パウロの、たっての願いですが、これも、特別な人でなければ、選ばれた人でなければ、であり、誰でもが該当するのではないのですから、皆が皆、独身を通し、未亡人でいなければ、やもめでいなければならないのではないのです。

コリント教会には、独身でいる事や、未亡人、やもめでいる事を高く評価するきらいがあったようであり、パウロも、独身でいる事や、未亡人、やもめでいる事を高く評価しますが、決して、独身が絶対的善でもなければ、未亡人、やもめが絶対的善でもありません。

独身に偏り過ぎるのは、福音宣教の働きに益しません。

独身者、既婚者、双方が存在し、お互いが補い合って、福音宣教は前進するのです。

【適応】

先に、未亡人、やもめは、社会的に非常に弱い立場にある、と申し上げましたが、だからこそ、教会は弱者をサポートしなければなりません。

コリント教会の一部の人々に、結婚に否定的な人がおり、未亡人ややもめが、再婚する事に否定的なら、それなりの援助が必要ではないか、と云う事です。

未亡人、やもめが、不本意な再婚をしないで済むようにしてあげなければならないのです。

未亡人、やもめのままでも、衣食住の苦労をしないで生活出来るようにしなければならず、未亡人、やもめのままで、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様によろこんで仕えられるようにしてあげなければならないのです。

現代は、社会福祉が整ってはいますが、現代も当時も、未亡人、やもめは、有形無形の不利益を被っています。

その社会福祉の手の届かないところを、教会がサポート出来たなら、素晴らしい事ではないでしょうか。

使徒の働き61節、2017版は243ページ、第三版は237ページ、には、「彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていた」との記述がありますが、こんな事が起こらない配慮が必要です。

パウロは、自信の体験、経験からの裏づけで、独身を強くお勧めしますが、決して、結婚を否定せず、再婚を否定しません。

独身、結婚、再婚、どの形でも、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕え、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事が重要なのです。

これを忘れた、等閑(なおざり)にした結婚、再婚は、そして独身は、意味がありません。

強いられた」独身、「強いられた」結婚、「強いられた」再婚は、喜びがなく、信仰から出ていないので、罪であり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様からの祝福は、期待出来ません。 

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から与えられた賜物、独身の賜物、未亡人、やもめの賜物、結婚の賜物があり、そこに、パウロのお勧めに、心から同意し、両者が合致してこそ、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事に繋がるのです。

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                                               2021-2-28礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一81節~6

説教題:「愛の配慮ある知識の活用」

【導入】

コリント教会の一部の人々は、売春婦や遊女と関係を持とうが、父の妻と関係を持とうが、父の妻を娶ろうが、魂を汚す事はないから問題ない、と考えました。

当時、ギリシャ、ローマ社会で持てはやされていたグノーシス主義の主張する、身体の事は、魂の外側の事であり、魂や霊とは無縁である。

ですから、キリスト者は性的汚れを気にする必要はない、何をするのもしないのも自由だ、と考えて、それを実行したのです。

この事は、以前学んだ事ですが、こんな考え違いは、個人の問題では収まらず、コリント教会内に大きな影響を与え、混乱を招きましたが、更に、性的な問題以外にも、大きな影響を与えます。

それは、食べ物の問題であり、肉の問題です。

現代、肉は普通に流通していますし、日常的に食べられます。

しかし、古の時代、肉は、現代ほど普通ではなく、特別なものであり、非日常的な食べ物でした。

羊や山羊は、その乳が食物として利用され、牛は、その乳が食物として、また、労働力として利用されていたのです。

肉として利用するのは、祝宴とか、饗宴とかの、特別な時の、特別な食べ物としてだったのです。

更には、肉は、宗教と密接に関係していて、肉は、神への献げ物の代表格であり、神に献げた肉を分配し、食する事で、神との関係を強く、深く、密にする意味が込められていたのです。

宗教と社会生活が密接に関係するのは、ギリシャ、ローマ世界のみならず、世界一般に共通した社会現象であり、あらゆる社会生活が、宗教的色彩を帯びており、不可分の関係にあったのです。

その代表格とも言えるのが「肉」であり、偶像の神に供えた肉を、偶像の神の神殿で食べる習慣があったのであり、その席に招かれたキリスト者が、食べて良いものか否かと悩み、食するのを躊躇する場面が、少なからずあったのです。

偶像に献げられた肉ですが、一部は、献げた者が持ち帰り、一部は、祭司に与えられたのですが、其々が、市場に持って行き、換金したようであり、市場で売られている肉は、偶像の神に献げられた肉である可能性が非常に高かったのであり、キリスト者が、買って良いものか否かと悩み、買うのを躊躇する場面が、少なからずあり、パウロに切実な質問として投げ掛けたのが、発端、経緯のようです。

そこでパウロは、その実情に適したアドバイス、指示を述べるのです。

【本論】

新改訳2017版 8:1 次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

流通している肉の多くは、偶像に献げた肉であり、それを食するのは問題と考え、悩み、躊躇する人々がいる一方で、知り得た知識を理由として、食する事は問題ではないと考える人々もいたのです。

パウロは、そのコリント教会の一部の人々の、問題ではないとの主張を、先ずは認めます。

コリント教会の一部の人々の主張は、マタイの福音書1511節、「口に入る物は人を汚しません。

マタイの福音書1517節、「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。」とのイエス様の教えを根拠とした主張でしょう。

これはどちらも、2017版では新約聖書31ページ、第三版では30ページにあります。

当時のユダヤ人たちの間では、禁忌規定に触れる動物を食する事が出来ないのは勿論の事ですが、食する事が許されている動物であっても、自然に死んだ動物、病気で死んだ動物を食する事は出来ず、元気な動物を屠殺する事、その屠殺の方法、手順、血抜きの方法、手順と、脂肪の処理、手順などが、事細かく決められていました。

処理の方法、手順を守らなければ、食する事は出来なかったのです。

(参考:ハラール、ハラル)

その決まりは、イエス様の教えがあっても、大きな変化はなかったでしょう。

何しろ、ユダヤ人は、先祖の言い伝えを守る事を絶対的な事としていたからです。

旧来の教えを守った方が良いのではないか、と考える人々の中で、コリント教会の一部の人々は、イエス様の教えを根拠に、手順通りでなくても大丈夫だし、肉の出所を詮索する必要はない、偶像に献げた肉であっても、何ら問題ない、と説き、主張したのです。

主張の根拠のもう一つは、先に紹介した、グノーシス主義の影響でしょう。

グノーシス主義の主旨は、身体の事は、魂の外側の事であり、魂や霊とは無縁である。

ですから、食物の禁忌規定、汚れなどを気にする必要はない、何を食するのも自由だ、との考えでしょう。

知識に基づく判断で、躊躇(ためら)いなく、偶像に献げた肉を食する人々に、知識に基づく判断よりも、愛に基づく判断で、隣人に配慮する事をお勧めするのです。

何故ならば、知識には限界があり、絶対、完全ではないからです。

8:2 自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。

何かを知っている」は、「十分な、完全な知識を持つ事」を意味しますが、これは、思い上がりも甚だしい事なのではないでしょうか。

知識が非常に豊富な人は、世の中には大勢いますし、専門家も、大勢いて、生半可な知識では太刀打ち出来ません。

知るべきほどのことをまだ知らない」は、「知るべき仕方で知っていない」の意味であり、パウロは、知識の内容や量、質に問題がある、と言っているのではなく、知識偏重の態度、愛を欠く態度に問題がある、と指摘するのです。

知識の量や質を誇り、高ぶる事よりも、教会に信仰的成長を与える、教会の徳を建てる知識の用い方が重要なのです。

知識は誇るものではなく、正しい仕方で使う事、知識は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、隣人に仕えるための道具であるとの、認識と実践が重要なのです。

8:3 しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

知識は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との愛から出発していなければ意味はありません。

主を恐れることは知識の初め。

箴言17節の聖句であり、2017版は旧約聖書1092ページ、第三版は1057ページにあります。

主を恐れること」とは、唯一真の神様を愛する事であり、唯一真の神様を愛する者は、唯一真の神様に知られています。

誤解のない言い方をするなら、唯一真の神様に知られている事の現われが、唯一真の神様を愛する事となって現われるのです。

唯一真の神様に知られていると云う知識が、全てに先立ち、出発点となり、唯一真の神様への愛と、兄弟への愛を生み出すのです。

これは、キリスト者にとって、最も大切、基本的な事です。

唯一真の神様に愛されているから、唯一真の神様を愛するのであり、唯一真の神様に愛されている兄弟だから、兄弟を愛する事が出来るのであり、そして、兄弟を愛する人は、高ぶらず、高慢にならない、否、高慢になれないのです。

主を恐れること」は、知識を正しく用いる事が出来ている証拠でもあるのです。

主を恐れること」が、偶像に供えた肉を食する事の是非、と云う、具体的課題のみならず、売春婦や遊女と関係を持つ事の是非、父の妻と関係を持つ事、父の妻を娶る事の是非と云う、現実的な、様々な課題の答えの解決の道を開く鍵なのです。

8:4 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。

コリント教会の一部の人々は、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」と云う知識に基づき、ためらう事なく「偶像に献げた肉を食べる」のです。

コリント教会の人々の「偶像非実在論」と云うべき知識は正しく、パウロはこの知識を肯定しますが、この知識を基に、ためらう事なく「偶像に献げた肉を食べる」人々を見て、深い考え、洞察もなく、一緒になって「偶像に献げた肉を食べる」キリスト者たちがおりました。

先に紹介しましたが、市場で売られている肉は、偶像の神に献げられた肉である可能性が非常に高かったのであり、キリスト者が、買って良いものか否かと悩み、買うのを躊躇する人々が、少なからずおりました。

キリスト信仰のない人の家に招かれた時に、出された肉は、偶像の神に献げられた肉である可能性が非常に高かったのであり、キリスト者が、食べて良いものか否かと悩み、食べるのを躊躇する人々が、少なからずおりました。

これらのキリスト者が、コリント教会の一部の人々の知識で、信仰から出ていない行動に出る事を、パウロは憂いているのです。

信仰から出ていない行為は、全て罪だからです。

8:5 というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、

ギリシャ、ローマ世界の至る所で、様々な形で、偶像礼拝が盛んに行なわれていました。

これらの神々は、創造主なる神様によって造られた被造物を、神格化しただけの存在であり、また、人間の願いを込めた、名前だけの存在であり、偶像であり、何の力もありません。

しかし、何の力もなく、存在しないものを礼拝させる背後の力、人間を偶像礼拝に誘う悪霊は存在するのです。

コリント人への手紙第一1020節、2017版は新約聖書341ページ、第三版は331ページ、「むしろ、彼らが献げる物は、神にではなく悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません」と記されている通りです。

偶像は、如何にも慈悲深そう、頼もしそう、・・・・・・ですが、実在ではなく、人間の空想の産物、理想の具現化でしかないのです。

しかし、唯一真の神様から、御子キリスト・イエス様から離れさせる力は、決して侮れないのです。

特に、自分の考えを持たず、人の意見を求めて聞き回り、人の意見を直ぐに取り入れ、人の意見に従うばかりの人がおり、また、自分の考えに確信を持てず、人の意見に強く影響を受ける人は、要注意です。

悪霊の、巧妙、狡猾な誘いに、人間は容易(たやす)く引っかかってしまうからです。

8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。

ギリシャ語本文、6節の先頭には、強意の「けれども、しかし」と云う接続詞があります。

5節を強く否定して、6節に繋げているのです。

唯一の神」と、ギリシャ、ローマ世界の、偶像礼拝、多神教礼拝との対比であり、実在する「唯一の神」と、人間の想像の産物、理想の具現物でしかない、神と呼ばれているにしか過ぎないものとの対比なのです。

唯一の神」と「すべてのもの」、即ち、被造物との関係、「唯一の神」と「私たち」、即ち、キリスト者との関係、交わり、「イエス・キリスト」と被造物との関係、「イエス・キリスト」とキリスト者との関係、交わり、「イエス・キリスト」と教会との関係、教会と被造物との関係、が述べられており、信仰告白と深い、強い関連を持つ宣言なのです。

被造物に、「神」の称号、名誉、栄誉を与えてはならず、讃美、頌栄を献げてはならないのです。

唯一の神」と私たちとは、「イエス・キリスト」のみを仲介者とし、如何なる被造物も、仲介の働きは為し得ないのです。

そして、食べ物であろうと、何かしらの行為であろうと、「イエス・キリスト」の仲介の働きを補完するものも、阻害するものも、存在しません。

コリント人への手紙第一88節、2017版は新約聖書337ページ、第三版は328ページ、「私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

【適応】

導入で、神に献げた肉を分配し、食する事には、神との関係を強く、深く、密にする意味が込められていた、と申し上げましたが、これは、多少の差異はあるにしても、古今東西、世界中の宗教で行なわれている事です。ユダヤ教でも、創造者なる神様に献げた肉を分配し、食しますが、創造者なる神様との和解の印であり、必要不可欠な行為ですが、決して、神の力を憑依させるとかの意味はありません。

唯一真の神様にお献げした肉であっても、単に和解の印であり、肉自体には何の意味も、呪術的な意味も、魔術的な意味もありません。

しかし、異教の神の信奉者たちは、偶像の神に仕える神官らは、「肉」に神秘性を込めたのであり、神秘性を信じて肉を食べて来たのです。

そんな風習に慣れ親しんで来た人々は、御子キリスト・イエス様を信じるようになっても、異教の神から離れても、偶像とは縁を切っても、偶像に献げた肉には、何の意味もないと、呪術的な意味もないと、魔術的意味もないと、理屈では解っていても、頭では解っていても、心に染み込み、染み付いているので、心情的に割り切れず、何の意味もないと解ってはいても、食べる事にも、食べない事にも、悩み、躊躇してしまうのです。

そんな時、正論が、解決を与えてくれるとは限りません。

勿論、正論がきっかけとなって、踏ん切りが付く場合もあるでしょうが、心の問題は、正論が解決を与えるのではなく、時間が掛かるのであり、同じ悩みを味わい、経験し、乗り越えて行った人の助け、寄り添いが重要になるのです。

正しい知識の重要性に、異論はありませんが、知識は、愛の配慮が伴ってこそ、悩む人々を助ける事に繋がるのです。

愛の配慮であって、遠慮とか、譲歩の勧めではありません。

異教の神、偶像の神に献げた肉に、何の意味もない事は、はっきり語り伝えなければなりませんが、意味がないのだから、頑張って、食べなければならない、と勧めたり、逆に、証にならないから、食べてはならない、と禁じたり、ではないのです。

嫌なら、気になるなら、食べなくて良いし、気にならないなら、「肉」として食べたいなら、食べても差し支えない、と助言するに止めておくのが良いでしょう。

決断は、本人が信仰によってしなければなりません。

促されての決断は、信仰から出ていないのであり、罪だからです。

悩む者、躊躇する者に、愛を持って寄り添うのが、キリスト者の務めでしょう。

愛こそ、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事に繋がるからです。                       

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