2021-3-7礼拝

聖書個所:サムエル記第一171節~11

説教題:「ゴリヤテの挑戦」

【導入】

ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。

しかし、サウルの精神的な病は、一過性の病ではなく、「神の霊がサウルに臨むたびに、」と、繰り返し繰り返しサウルを襲い、苦しめてきた様子が記されています。

アンモン人を撃退し、ペリシテ人を撃破し、アマレク人を聖絶し、と実績を積んだ、とは言っても、サウルの統治を快く受け入れた人々ばかりであった訳ではありません。

サウルの統治に対する不満分子は、少なからず存在したのであり、外にはアンモン人の残党、アマレク人の生き残りがおり、更にはペリシテ人が北から侵入してくるといった、内憂外患の状態に置かれていたのですから、精神的にも肉体的にも休む暇がなかった事でしょう。

そんな状態であったとしても、真の意味で拠り所があるならば、耐える事も、立ち向かう事も出来たでしょうが、残念な事に、サウルはその拠り所、唯一無二の拠り所である、イスラエルの神から見離されてしまっていたのです。

それは、自分で蒔いた種であったかも知れませんが、自分で何とかしよう、何とか出来ると考えた結果であり、また、イスラエルの神の言葉に、命令に従わなかった結果ですから仕方がありません。

サウルは大きな代償を払う事になってしまった訳であり、イスラエルの神はサウルを退けましたが、決して見捨ててしまわれた訳ではなく、ダビデという竪琴の名士を送って下さり、精神の安定、平安、憩いを与えて下さったのでした。

それは恒久的な癒しではなく、一時の憩いであったかも知れませんが、サウルが元気を回復する唯一の手段となっていたのです。

今日は、イスラエルの王として選ばれながら退けられてしまったサウルと、サウルに敵対するペリシテ人ゴリヤテの傲慢な挑戦から、イスラエルの神のご計画を学びたいと思います。

【本論】

17:1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。ユダのソコに集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。

17:2 一方、サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをした。

17:3 ペリシテ人は向かい側の山の上に構え、イスラエル人は手前側の山の上に構えた。その間には谷があった。

この戦いの場所をイメージして頂くために、地図を見て頂けたらと思います。

2017版は、巻末の地図4「イスラエルの各部族への土地の割り当て」をご覧頂き、ガテ、ベテ・シェメシュ、アドラムを探して頂き、この三角地の中にある、とイメージして頂けたらと思います。

第三版は巻末の地図、後から3枚目、「イスラエルとユダの王国」をご覧頂き、地図左下の方から、大きな矢印が右上に向かって延びていますが、その矢印の、矢先の部分の周辺に「ソコ、アゼカ」が記されています。

イスラエルの人々は「塩の海」の北にあるギルガルを拠点に、エリコ、アイを陥落し、その勢力、領土を広げて行ったのであり、色分けされている土地は神様からイスラエル人に与えられている土地を現しています。

その神様から与えられた土地に、そのイスラエル人の占領地の奥深くにペリシテ人は侵入して来ていたのであり、辺境の地での出来事ではなく、イスラエル存亡の危機である事は説明するまでもない状況にある事がお解かり頂ける事でしょう。

イスラエル人としては、サウル王としては直ぐにでも戦いを仕掛けて、ペリシテ人を追い出さなければならない状況ですが、しかし、1節に記されている様に「ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した」のであり、比べてイスラエル人は戦うために充分な訓練を受けた軍隊はなく、武器も充分ではない寄せ集めの民の集合体であり、しかも、指導者であるサウル王は神様から見放されて、精神的にも人々の先頭に立てる状態ではなかったのです。

そんなサウル王の様子が、態度がイスラエル軍の士気を高めるはずがありません。

王様のような立場にあり、軍紀を保つためには常に希望的な発言をし、不都合は小さく、小さな事はなかった事にしなければなりません。

それが戦いの常道であり、兵力、武力の欠けを補うモノであり、勝機のきっかけとなるのです。

しかし、先頭に立って戦う王様が、精神的な病気で、気力に欠けていたならば、気分の浮き沈みが激しかったならば、誰が信頼して付いて行くでしょうか。

そんな状態では、睨み合いを続けるしかなかった、と言う状況なのです。

17:4一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。

17:5 頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。

17:6 足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。

17:7 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。盾持ちが彼の前を歩いていた。

背の高さは六キュビト半1キュビトは約44cmですから、6キュビトで2m64cm

「半」と言うのは0.5キュビトではなく、「一手幅」の事であり、密着させた手の平の幅の長さであり、約7.5cmを現します。

ですからゴリヤテは2m70cm程もの大男であり、しかもその携帯している武具武器も尋常の物ではありませんでした。

身を守る「胸当ての重さは青銅で五千シェケル1シェケルは約11.4gですから、胸当てだけで57kg

かぶとやすね当てを加えれば70kg、否80kgにもなっていたのではないでしょうか。

武器を見れば「槍の穂先は鉄で、六百シェケル」即ち6.8kg

機織の巻き棒のような、と形容されている槍の柄の重量を加えれば10kgを優に超えていた事でしょうから、身体が大きいだけではなく、70kg80kgにも達する武具で身を固め、10kgを越える槍と剣と言う武器を自在に操る技量を持った戦士であったことが解かるでしょう。

17:8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。

17:9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」

17:10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」

現代の私たちの感覚では、何とも悠長な、のんびりとした遣り取りでありますが、当のイスラエル人、ペリシテ人に取っては緊張の場面であった事でしょう。

この「一騎打ち」と言うのは、決して珍しい事ではなく、戦争、殺し合いと言う悲惨な出来事の中にも、人間は知恵を働かせて、最小限の損害で最大限の結果を出そうと考えるのであり、また、悲惨な戦いの中にも、一騎打ちを見物し、囃し立てる事で娯楽的な部分を持たせ、勝者を称えるのです。

勿論、どちらも命を掛けて戦うのですから、本人にとってはそんな悠長な気分にはなれないでしょうし、余裕はないでしょうから、余ほどの自信がない限り、一騎打ちを申し出る事はないでしょう。

ゴリヤテは戦いの経験豊富な百戦錬磨の勇士であり、ペリシテ人を代表して名乗りを挙げたのです。

一方のイスラエル軍ですが、

17:11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた

と記されています。

ゴリヤテは確かに大男ですが、サウルは誰よりも肩から上だけ背が高かったのですから、サウルがゴリヤテの挑戦を受けて立っても良かろうかと思うのですが、戦いには、或いは一騎打ちには暗黙の了解があるようで、一兵卒であるゴリヤテの挑戦には、イスラエルの側からも一兵卒を出すのがルールであり、王様が受けて立つ訳には行かなかったようです。

状況はともかく、サウル王自身は神様から見捨てられた抜け殻のような状態であり、たとえ相手がゴリヤテのような大男でなかったとしても、一騎打ちに応じられたとしても、受けて立つ気力を持ってはいなかったのではないでしょうか。

それはサウル王だけの問題ではなく、イスラエルの神様がサウル王から離れた状態とは、神様がイスラエルを離れている状態を象徴していると言えるのであり、普段なら何の恐れも抱かないような相手であっても、神様不在の精神状態は、士気にも強く影響し、非常に大きく手強い相手と映ってしまい、意気消沈し、非常な恐れに怯えてしまう事になってしまうのです。

【適応】

この事はサウル王に、イスラエルの民に限った事ではありません。

神様が離れた状態では、敵は実体以上に大きく見えるモノとなり、とても太刀打ち出来るとは思えなくなってしまうものなのです。

ゴリヤテが普通の背丈の男であったとしても、大きく、強く見え、比べて自分は小さく、惨めに見えてしまうのです。

自分の弱さ、足りなさ、小ささを自覚する事は大切な事ですが、それと、自分の力で何とかしようと考えるのは別の問題です。

弱くても、足りなくても、小さくても、神様が付いて下さっているから、何でもやる、やらせて頂く、やる事が出来るのです。

私が持っている能力は、力も、知恵も、勇気も、忍耐も、ありとあらゆるものに欠けている。

相手を見れば、その能力は秀でており、どこを取っても立ち向かう事は出来ないと思う。

八方ふさがりであり、何処にも逃げ場もなければ、勝機に繋がるような所もない。

しかし、自分自身に頼みとする所がなく、回りに助けがなくても、上は開けており、神様に繋がっているのです。

この神様が私を、私たちを見捨てる事はありません。

敵がどんなに強くても、大きくても、向かう所敵なしのように見えても、それは私の弱さと何の関係もありません。

神様が私の味方であり、神様の強さに比べたならば、比較出来るものはないのであり、また敵が罵(ののし)り、嘲(あざけ)っても、それは私の実体とは何の関係もないのであり、意気消沈し、恐れる必要はないのです。

何故ならば、私を罵(ののし)り、嘲(あざけ)るのは、神様を罵り、嘲る事であり、そんな不遜な者を神様が容赦はなさらないからなのです。

神様が働かれるまでは、神様が介入なさるまでは、敵は豪語し、好き勝手に振舞うかも知れませんが、神様が働き出されたならば、敵は一たまりもなく蹴散らされるのであり、反撃どころか、僅かな抵抗すらする事もなく、完全な敗北を喫する事になるのです。

サウル軍とペリシテ軍の戦いは、神様と神様を侮る勢力の戦いであり、これは信仰の戦いなのです。

内なるモノは弱く、罪にまみれて、何の良い所がなくても、悲観する必要はありません。

神様が見捨てる事はないからです。

外なるモノは強力で、抵抗すら敵わない様であっても、恐れる必要はありません。

神様より強い方はいないからです。

信仰の戦いは常に勝利、と行きたい所ですが、現実にはそうはいかない事もあるでしょう。

信仰の戦いは勝率や勝ち越しが目標なのではなく、現実は0勝連敗かも知れませんが、神様から目を離さないことが大切なのです。

負けた時、嘲(あざけ)られ、罵(ののし)られ、「神様はお前を見捨てたぞ」と言われても、それは惑わしの言葉であり、神様があなたを、私を見捨てる事は絶対にないのです。

連戦連敗であっても、勝ち星が一つもなくても、それは結果であって、神様は経過、経緯、プロセスを見てくださるお方であり、勿論勝利するに越した事はありませんが、勝利して傲慢になるより、負けても神様から離れない事の方を価値あるモノとして見て下さるお方なのです。

ここにおられる皆様が、イエス様から目を離さないで、サタンの惑わし、罵(ののし)り、嘲(あざけ)りに意気消沈する事なく、恐れる事なく、信仰者としての生涯を歩まれます様に。                       

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聖書箇所:コリント人への手紙第一87節~13

説教題:「信仰の弱い人たちへの配慮

【導入】

本日の説教題は、「信仰の弱い人たちへの配慮」と云う説教題を付けましたが、「信仰の弱い人たち」って、どんな人たちなのでしょうか。

困難に遭うと挫けてしまう人たちでしょうか。

迫害に遭うと信仰を捨ててしまう人でしょうか。

他人の意見の影響を受け易い人でしょうか。

この説教題では、ちょっと誤解するかもしれませんので、御子キリスト・イエス様のお言葉を借りて、「信仰の薄い人たち」と云う説教題にしたいと思います。

この「信仰の薄い人たち」との御子キリスト・イエス様のお言葉は、マタイの福音書630節、826節、1431節、168節、ルカの福音書1228節、に記されていますので、ご確認願います。

これらの記事を読むと、信仰は弱いか、強いか、と云うよりも、即ち、その人の頑張り、努力とか、忍耐とか、犠牲を拠り所とするものではなく、唯一真の神様に対する信頼の度合いであり、信頼が弱いか、強いかである事が解ります。

自分の信仰など、風が吹けば飛ぶようなものであり、何の役にも立たず、当てにならないけれども、唯一真の神様は、信頼に値するお方であり、決して見捨てないお方である。

その唯一真の神様に対する、信頼の度合いが低い人が、確信の度合いが弱い人が、「信仰の弱い人たち」「信仰の薄い人たち」の意味なのではないでしょうか。

唯一真の神様に対する、信頼の度合いや、確信の度合いは、「鰯の頭も信心から」と云うような、根拠の曖昧、希薄なもの、闇雲なものではなく、唯一真の神様に対する知識に基づき、積み重ねられていくものなのではないでしょうか。

その意味で、時間がかかり、経験が必要であり、助けもまた必要不可欠なのです。

パウロは、「信仰の弱い人たち」「信仰の薄い人たち」に対する配慮が、十二分に為されるようにとのお勧めを語りますが、これは、御子キリスト・イエス様の基本的態度でもあります。

【本論】

新改訳2017版 8:7 しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

コリント教会の一部の人々は、知識を誇り、知識の少ない人々、即ち「弱い人々」を見下げていたのです。

コリント教会の一部の人々は、偶像はこの世に存在しないのであり、偶像に献げた肉には、何の意味もない、魔術的な意味や、呪術的意味もない、即ち、食べても何の影響も与えない、食べることに何の問題もない、と考え、教え、自らが偶像に献げた肉を食していました。

この知識は正しく、その通りであり、偶像に献げた肉を食べても問題ないのですが、この知識は一般的な知識、誰もが共通して持っている知識ではありません。

偶像の神信仰から、唯一真の神様に回心したとは云っても、長く、慣れ親しんで来た、偶像の神に関する知識は、簡単に切り捨てられるものではありません。

未だ、心の奥底には、偶像の神の実在を明確に否定出来ず、偶像の神の存在を肯定する気持ちが、多少なりとも存在するのは、仕方のないことです。

偶像に献げられた肉が、何らかの悪魔的力を持たないと確信出来ずにいる人々は、「偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます」。

偶像礼拝と、偶像に献げられた肉は、切り分けて考えるべきですが、偶像に献げられた肉を食することは、即ち、偶像の神礼拝の一環であり、偶像礼拝と一連の行為である、と考えるのは当然と云えば当然です。

偶像に献げられた肉を食することは、偶像礼拝をしていることなのではないか、との後ろめたさを感じつつ、偶像に献げられた肉を食するなら、また、偶像に献げられた肉を食することは、唯一真の神様に対する裏切り行為、背信行為なのではないか、との意識を感じつつ、偶像に献げられた肉を食するなら、それは、大きな問題です。

その弱い良心が汚されてしまいます」とは、第一に、今述べた意味であり、偶像に献げられた肉を食することで、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との関係が壊れることを恐れる、不安を覚える、の意味ではありません。

その弱い良心が汚されてしまいます」の第二の意味は、コリント教会の一部の人たちの、偶像に献げられた肉を食する姿に力を得て、偶像の神礼拝は問題ない、偶像の神礼拝の一環に参加するのも問題ない、との考えを持つに至り、同調し、行動を共にすることです。

偶像礼拝に対する感覚は、常に鋭敏に、研ぎ澄ましておかなければなりません。

偶像に献げられたことが明確な肉は、充分な吟味、配慮の上で、食すべきであり、安易、安直な考えで食べるのは、避けなければなりません。

偶像に献げられた肉であると指摘されたなら、食するのを避けるのがよいでしょう。

それなのに、コリント教会の一部の人々は、偶像に献げられた肉を平気で食べることで、偶像に献げられた食物をこれ見よがしにたべることで、自分たちの信仰を何か大きく、強く、高いかのように思わせ、「信仰の弱い人々」に動揺と混乱を与えていたのです。

コリント教会の一部の人々の配慮のない言動に対して、コリント教会の一部の人々の言動を見聞きし、動揺する人々に対して、パウロは、語りかけます。

8:8 しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

この8節を、新共同訳聖書は「食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」と訳し、口語訳聖書は「食べなくても損はないし、食べても益にはならない」と訳しています。

私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません」を、聖餐式のパンと葡萄酒に置き換えて考えるのは益でしょう。

聖餐式のパンと葡萄酒、私たちの信仰告白であり、大切な聖礼典ですが、パンと葡萄酒を食すると、霊的に高揚したり、霊的な力が漲る訳ではありません。

パンと葡萄酒を食すると、私たちの罪が赦される訳ではありません。

パンと葡萄酒を食すると、私たちが義とされる訳でもありません。

食べないからといって、御国に入る権利を失うわけではなく、食べたからといって、御国に入る権利を得るわけではありません」。

パンと葡萄酒は、唯一真の神様に贖われたこと、御子キリスト・イエス様と一つとされていることを覚えるためのものです。

肉は、良質なたんぱく質、脂質を摂取する食物として有益であり、あらゆる食物は、健康のために必要な物ですが、霊的な意味で、肉に限らず、食物が唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に対する信仰の根本的な問題とはならないのです。

偶像に献げられた肉を食しても、それ自体が根本的な問題ではないのです。

8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。

あなたがたのこの権利」とは、コリント教会の一部の人々の主張する、偶像に献げられた肉を食べる権利、自由のことです。

パウロは、コリント教会の一部の人々の主張、偶像に献げられた肉を食べる権利、自由を認めますが、パウロが問題とするのは、偶像に献げられた肉を食べることが許されているか否か、偶像に献げられた肉を食べても問題ないか否か、ではなく、他者、特に信仰の弱い人々に、どのように関わるか、です。

重要なのは、偶像に献げられた肉に、意味があるか、無意味かの、知識ではなく、信仰の弱い人々への配慮、信仰の弱い兄弟に対する愛、なのです。

8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。

コリント教会には、自らの霊的知識に自信、確信を持ち、如何なる外的行為によっても汚れることはない自由な者とされた、と自認する者が居り、「偶像の宮で食事をしている」者が少なからず居り、コリント教会に大きな影響を与えていたのです。

パウロは、自称「知識のあるあなた」が、単に、友人宅での食事に招かれたのではなく、偶像の神の信者である知人の招きで、偶像の神の神殿で食事をしたり、偶像の神礼拝に続く祝宴や、秘義と密接に関係する祭儀に招かれ、参加し、食事をしたことを問題視しているのです。

パウロが問題視するのは、自称「知識のあるあなた」の、信仰の弱い人々への影響であり、信仰の弱い人々が、「知識のあるあなた」の行動に後押しされて、深い考えもなく、確信もなく、偶像に献げられた肉を食した、と云うような問題です。

と共に、信仰の弱い人々の、自分たちを見下げる、自称「知識のあるあなた」に対する反発や強がり、対抗意識から、偶像に献げられた肉を食べる人々が現れたことに対する、危惧であり、偶像に献げられた肉の意味理解の不十分さから、偶像に献げられた肉を食すると云う行為に至ったことであり、正しい知識に基づく、正しい判断、行動ではないことです。

そして、この風潮が、コリント教会全体に及ぼす、悪しき影響です。

間違った知識に基づく、間違った言動は、肉や食物などの問題、性的問題に止まらず、信仰の問題となり、教会を崩壊させる大きな力、途方もない力を秘めたうねりとなるのを問題視しているのです。

8:11 つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。

知識は、或いは、教育は、人を正しい道に導き、人の徳を高め、人を建て、人を活かすためのものであり、人を間違った道に誘い、人を蔑み、人を躓かせ、倒し、人を滅ぼすためのものではありません。

キリスト者の言動は、生きた教材となるべきであり、人を唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に向かわせるものであり、教育は、人を悔い改めさせ、生き方を変わらせるためのものです。

兄弟愛を持って、知識を用い、教育に当たるのです。

自称「知識のあるあなた」の言動が、愛のない言動であり、自己顕示、自己アピール、自己満足であるならば、それは如何に虚しいものか。

そして、愛のない言動は、信仰の弱い兄弟を、間違った行動に押しやるのであり、結果として滅びに至らせる、恐ろしいものなのです。

8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

正しい知識に基づく、正しい言動であることは、当然ですが、正しい知識に基づく、正しい言動が全て、御子キリスト・イエス様の御こころであるとは限りません。

正しい知識に基づいた、信仰の弱い兄弟への配慮がなされた言動が、御子キリスト・イエス様の御心なのです。

御子キリスト・イエス様の言動は、杓子定規の律法の適応ではありませんでした。

人間の弱さ、知識の乏しさをご存じて、その弱さ、乏しさを負ってくださったのです。

知識のあるあなた」には、愛の配慮に基づいた言動が期待されているのです。

弱い者への配慮、知識の少ない者への配慮がなされる時、あなたの知識は、更に豊かに用いられるのではないでしょうか。

愛の配慮がないと、教会は殺伐とした所になってしまうのではないでしょうか。

教会では、愛の配慮の欠いた言動が問題となるのです。

パウロは、「知識のあるあなた」の言動が、知識のひけらかしや、不用意な発言が、罪を犯すことにならないように、信仰の弱い者を傷付けないように、言動に注意するよう勧めます。

知識のあるあなた」には、信仰の弱い者を守る、大きな責任と義務があることを自覚させます。

8:13 ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

コリント教会の一部の、知識を誇り、弱い人々を躓かせる人々に対して、パウロは、与えられている自由や権利を、弱い人々のために用いるようお勧めをします。

同時に、もし、自分の行動が弱い人々の躓きとなるなら、「今後、決して肉を食べません」と、断言します。

パウロは、弱い人々のために、自分に与えられている自由や権利を、行使しないと断言するのです。

パウロは、常に、他者への配慮、特に弱者への配慮を欠かしません。

知識は、自分のために用いるのではなく、他者のために用いるべきなのです。

知識に限らず、自分の自由、権利は、他者のために用いるのが、キリスト者の歩みなのです。

【適応】

パウロは、偶像に献げられた肉の問題を発端に、お勧めをいたしましたが、事は、肉や食べ物のことに限られる訳ではありません。

他者の躓きとなるもの、躓きとなることは、食べ物以外にも、多岐に亘ることであり、キリスト者の言動が、信仰歴の浅い人、キリスト教知識の少ない人に与える影響を考えたいと思います。

教会の中と、世の中は、違いが色々有ります。

世の人々は、教会ではお酒やタバコ、ギャンブルは禁止、クリスチャンになるとは、即ち、お酒やタバコ、ギャンブルを断つこと、と見ているようです。

確かに、その節はありますが、お酒やタバコ、ギャンブルなどを断たないとクリスチャンになれない訳ではなく、お酒やタバコ、ギャンブルなどを続ける人は、教会、出入り禁止になる訳ではありません。

お酒やタバコ、ギャンブルなどは、止めるに越した事はありませんが、止めなければならない、と忠告する必要はなく、止めなくても大丈夫、と促す必要もありません。

教派によっては、禁じている教派もあるでしょうし、緩やかな対応をしている教派もあるようです。

但し、お酒やタバコ、ギャンブルなどは、習慣性、依存性が強く、制することが困難なら、止めるべきかも知れませんが、何より重要なのは、他者、特に信仰歴の浅い人、キリスト教知識の少ない人に与える影響です。

二日酔いの、酒臭い息で礼拝に出る、タバコ臭い息を吐きながらの讃美、ギャンブルで心が占められ、心ここに在らず、であるなら、それを見た信仰歴の浅い人、キリスト教知識の少ない人は影響を受け、巻き込まれ、染まり、礼拝って、讃美って、その程度のものなんだ、それでいいのか、と確信してしまうのではないでしょうか。

礼拝を、より良いものにしよう、より良い讃美を献げよう、との意識のない、形ばかりの、真心の込められていない礼拝では、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に対する礼拝ではなく、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光は現されず、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様は悲しまれるのではないでしょうか。

司会者も、奏楽者も、会衆も、其々に、十分な準備、祈りの備えを積み上げた礼拝を献げるなら、それを見た信仰歴の浅い人、キリスト教知識の少ない人は影響を受け、巻き込まれ、染まり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の喜ばれるキリスト者となるのではないでしょうか。

一週間の過ごし方は、礼拝に影響するのであり、礼拝を意識した一週間の過ごし方が、重要になるのです。

これ見よがしに一週間の過ごし方を吹聴するのは、もってのほかですが、自然に滲み出るなら、信仰歴の浅い人、キリスト教知識の少ない人の大きな助けになるでしょう。

信仰歴の長い人、キリスト教知識の多い人は、信仰歴の浅い人、キリスト教知識の少ない人に配慮した言動を心がけなければならないのです。

先に救われた者の使命は、信仰歴の浅い人、キリスト教知識の少ない人の手本、助けになる事であり、その連鎖が、キリスト教の伸展に益するのです。

決して、自身の幸せ、平安のためでなく、自身の知識をひけらかし、教会の中で優位に立つためではないのです。

この教会が、信仰歴の浅い人、キリスト教知識の少ない人に配慮した教会、キリスト者の群れとして歩み続けたいものです。                                                    

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              2021-3-21礼拝

聖書箇所:サムエル記第一1712節~32

説教題:「名乗りをあげるダビデ」

【導入】

神様の命令に従う時に生じる困難、苦難は様々であり、それこそピンからキリまであり、更にはその時の状況やタイミングで、何時もなら、普段なら何でもない事が出来なかったり、逆にすごい事を容易くクリヤした、と言う経験をお持ちの方もおられることでしょう。

サウルに与えられた試練は、神様からの課題は、当事者ではないので批判めいたことは言えませんが、決して非常な決断と、想像を絶する困難を乗り越えなければなし得ない課題ではありませんでした。

圧倒的な数の敵を目の前にしてはいましたが、味方が目に見えて脱落してはいましたが、戦闘は始ってはいなかったのであり、気は急いたかも知れませんが、6日間も待ったのであり、後数時間の忍耐で良かったのです。

ペリシテ軍の家畜は良く肥えていて、分捕り物、戦利品、献げ物として魅力的ではあったでしょうが、元々自分の持ち物ではなく、聖絶することで得も無い替わりに、損をする訳でもないのです。あとちょっと待つ事が出来なかったサウル。

自分の所有物でもない物を惜しんだ結果が、神様から見離されると言う大きな代償を払うことになってしまったのです。

神様が離れたサウルに近寄ってくるのは厄の霊であり、精神を苛み、神経を苛立たせましたが、神様はサウルを見捨てた訳ではなく、サウルを憐れみ、癒し手としてダビデという竪琴の名士を送って下さり、精神の安定、平安、憩いを与えて下さったのでした。しかし、それはあくまでも一時的なものであり、目の前のペリシテ人は相変わらず脅威であり、ゴリヤテの罵りは、イスラエルに対する屈辱は、サウルのみならず、イスラエル軍を肉体的にも精神的にも苦しめ続けるものとなったのでした。

今日は、イスラエルの王として油を注がれながら、市井に埋もれたままであり、何の活躍もしなかったダビデが、表舞台に登場する場面から、神様の選びと、応答について学びたいと思います。

【本論】

17:12 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。

17:13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに行っていた三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであった。

17:14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていたのである。

この12節から13節に記されている、エッサイの家族構成の説明は、概ねサムエル記第116章ですでに知らされている情報です。

新しい情報としては「エッサイは年をとって老人になっていた」事と、「三人の息子たちが戦いに出ていた」事でしょうか。

この「年をとって老人になっていた」と訳されている言葉は、直訳では「人々の中に入っていた」であり、その意味は「老いていた」「尊ばれていた」等であり、新共同訳聖書では「サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった」と訳されています。察するに、エッサイは長老格の人物であり、それ故に人々に率先してサウル王に忠誠を尽くし、その証として大切な息子を3人も戦場に送り出していた、と言う事なのでしょう。当時の徴兵制度がどのようなものであったのかが、聖書には記されていませんので、断定は出来ませんが、通常一つの家族からは一人を兵役に出すのが常であったようです。

イスラエル人は多産ではありましたが、現代のような高度の医療技術がある訳ではありませんから、その死亡率は高く、生き残り、寿命を全うするのは僅かであったのです。しかも、戦争に命の保証はありません。命の保証の無い所に大切な子どもを3人も送り出すというのは並み大抵の事ではありません。

イスラエル人にとって、子どもは神様からの祝福の印しであり、そして子孫に神様から預かった土地を引き継がせるために、子どもは大切な働きを担っていたのであり、その大切な子どもを3人もサウルに差し出す、戦場に送り出すと言うのは、考えられない行為であったのです。

年をとって、後継ぎが重要な問題となっている時機に、後継ぎ候補が3人も命の保証がない戦場に送られているのです。

エッサイは大切な、自慢の3人の息子たちを、どのような思いで戦場に送り出したのでしょうか。

戦場での大活躍を期待していたのでしょうか。

王様に認められ、重要なポストに就く事を、期待していたのでしょうか。

25節に「王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ」と記されている様に、有形無形で褒賞が約束されているのです。しかし、聖書にはエリアブ、アビナダブ、シャマが活躍した姿を記してはいません。サウル王に、或いはダビデが王様となってからも重用された様子が記されてはいません。エッサイの思惑に反して、末っ子の、期待もしていなかったダビデが活躍するのであり、人の目には価値があり、活躍を期待されていても、人の思惑どおりになるのではなく、人の目には価値の無いモノのように見え、役に立たないと思えるモノを神様は用いる事を教えているのです。

その誰の目にも大した者とは映らなかったダビデは、神様の召しに応じるに相応しく整えられるための準備の期間を過ごしていたのであり、

17:15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を世話するためであった。

サウルの精神的苦痛を和らげるために召されたダビデですが、その音楽療養師としての働きは、年中サウルの側に侍っていた訳ではなく、断続的であり、安定している時には、父の下に帰って父の羊の世話をしていたのです。

戦場となっているソコ、アゼカと父の住んでいるベツレヘムは直線距離で25km程です。とは言え、山越え谷越え、曲がりくねった道ですから、健脚でも7時間も、8時間もかかった事でしょう。朝早く出ても午後の遅い時間になる。サウル王からの呼出があれば、何時でも出かけなければならないのであり、日中の暑い日差しの中を黙々と歩き続けたのであり、夜中の月明かり、星明りの中を寒さに凍えながら歩き続けたのであり、晴れでも雨でも曇りでも、岩場を、泥濘を1日中歩き続けなければならないのであり、大切な羊を置いていかなければならないのであり、調子が良くても具合が悪くても、呼び出されれば直ぐに応じなければならないのであり、そんな生活は、ダビデに与えられた訓練の期間であり、神様の召しに応える備えの日々であったのです。

そんな、父とサウルに仕える期間は終り、ダビデは神様に仕える転換期を迎える事になるのです。

17:16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた。

状況は全く変っていません。

サウル王が率いるイスラエル軍と、ペリシテ軍は睨み合いが続いていました。

勿論、局所的な小競り合いはあったでしょうが、40日も睨み合いが、イスラエルに対する罵りが続いていたのです。

例え一瞬であったとしても、罵りの言葉を聞くのは、心地よいモノではありません。

それが40日も続くのですから、罵りに対する苛立ちは極限に達していたことでしょう。

しかし、この罵りは神様に対する謗(そし)りであり、神様がそれを放って置かれる事はありません。

そんな戦地の状況を、神様の御心を知らないエッサイですが、神様はエッサイを用いて、ダビデを戦場に送り込み、イスラエルへの罵り、神様への謗(そし)りを取り除くご計画を進められるのです。

17:17 エッサイは息子ダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。

17:18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を確認しなさい。そして、しるしを持って来なさい。

17:19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人はみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているから。」

「炒り麦」とは文字通り麦を炒った物であり、携帯食、非常食であり、旅人が携帯し、旅の途中で食べるのに、戦士が携帯し、戦場で食べるに都合の良い食べ物であったのです。

それを1エパ、つまり23リットルとパンを10個持って行ったのですが、イスラエル民族のために戦っているのに、食料を自前で準備しなければならなかったのです。

更には10個のチーズを千人隊の長に付け届けしなければならなかったと言うのは、危険な戦場で、少しでも安全な所に、危険な所には行かせない様に、との親心のなせる業でしょう。

しかし、兵士を守るのは武具でもなければ、隊長の配慮でもありません。

ましてやチーズの付け届けで安全が保証されるはずがありません。

しかし、何とかしたいとの思いの現われであり、一笑に付す訳には行かないでしょうが、神様の守りを知らない者は、このような方法しか思いつかないのです。

17:20 ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、言われた物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて陣地に向かうところであった。

17:21 イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。

17:22 ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に走って来て、兄たちに安否を尋ねた。

17:23 ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。

17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。

17:25 イスラエルの人々は言った。「この上って来た男を見たか。イスラエルをそしるために上って来たのだ。あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」

ゴリヤテの傲慢な振る舞いに、豪を煮やしてはいても、誰も名乗り出る者はおりませんでした。

それは前回学んだように、ゴリヤテは並の大男ではなく、武具武器も尋常の物ではなかったからであり、誰もが尻込みし、名乗りを揚げるのは愚かな者のする事に思われたからです。

そこでサウル王は3つの褒美を用意します。

1には懸賞金であり、褒美の家畜、土地を与えるとの約束です。

2つ目はサウルの娘を与えるとの約束であり、これは王の一族になると言う事であり、地位と名誉が与えられる事を保証したのです。

3つ目は税金、或いは徴用の免除であり、重税に喘ぐ事もなく、大切な息子を兵役に出さなくても良いのであり、とても魅力的な提案、褒美といえるでしょう。

しかし、褒美が魅力的であって、誰もが欲しいと思っても、ゴリヤテは簡単には負けてはくれません。

否、対抗し得る者はこの世に存在しないと断言出来る事だったのであり、サウル王の褒美は話題となりこそすれ、我が事とはなり得ない事だったのです。

しかし、ここに神様の配剤でダビデが登場します。

17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を打ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」

17:27 兵たちは、先のことばのように、彼を討ち取った者には、これこれをされる、と言った。

17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」

当初、ダビデがやって来た事に不快感を示してはいないエリアブでしたが、ゴリヤテの話し、サウル王の褒美の話しになると、ダビデに対する態度が豹変します。

ゴリヤテの話しもサウル王の話しも、大人の話しであって、子どもが口出しし、話題にすべきではない。

末っ子のダビデが、軽く見ていたダビデが、羊飼いしか出来ないダビデが、サウル王に重用され、仕えている事を嫉妬し、或いは兄弟を差し置いてサムエルに油を注がれた事に、ねたみを感じていたのでしょう。

更には、自分たちは危険な戦場で戦っている。

比べて、ダビデはサウル王の側で、優雅に竪琴を弾いている。

戦場から遠く離れた安全な場所で、暢気に羊を飼っている。

その悪しき感情が爆発し、ダビデに対する激しい非難の言葉となって発せられたのです。

ダビデが自ら選んだ事ではなく、油を注がれたのは預言者サムエルの選びであり、

立琴を弾いているのは王様であるサウルの要請であり、羊を飼い、戦場に来たのは父であるエッサイの命令ですが、ねたみは全てを悪く解釈し、ダビデには何の責任もないのに、全てがダビデに原因、責任があるかの如くに思わせてしまうのです。

エリアブが格別に嫉妬深かった訳でも、傲慢だった訳でもなく、人は片寄りなく理解し、正しく判断していると自負していても、その実は、感情すらコントロール出来ず、思い込みと知り得た一部だけの状況、情報だけで、自分の都合のよい解釈しか出来ない者であると知らなければならないのです。

「一を聞いて十を知る」は秀才の頭脳の働きの鋭敏な事の例えですが、決して「一を聞いて十を推し測って」はならないのです。

ましてや、噂や根拠のない情報で、好き嫌いの感情で判定を下すのは論外です。

事実に基づき、証拠に照らして判断しなければならないのであり、その事実と証拠ですら、一部であり、その人柄や人となりの全てを現すものではない事を常に覚えておかなければならないのです。

早急な、軽率な判断は、人に対してだけではなく、自分にもされると心得ておいた方が良いでしょう。

ルカの福音書63738節、2017122ページ、第三版121ページ、「6:37 さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです」、と教えている通りです。

エリアブの判断は決して的を射たモノではなく、不当な評価であり、ダビデは正当な反論をします。

17:29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」

17:30 ダビデは兄から別の人の方に向き直り、同じことを尋ねた。すると、兵たちは先ほどと同じ返事をした。

17:31 ダビデが言ったことは人々の耳に入り、サウルに告げられた。それで、サウルはダビデを呼び寄せた。

17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」

11節で「サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた」のに、

ダビデは32節「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います」、と名乗りを挙げるのです。

ダビデはゴリヤテを見てない時に、この名乗りを挙げたのではありません。

人々が噂をし、恐れているゴリヤテを一緒に見ながら、人々とは違う判断をしたのであり、恐れる事も、怯える事もしなかったのです。

それは自分に自信があったからではありません。

ゴリヤテと戦う事を、サウルから押し止められた時、獅子と戦い、熊と戦った事を理由にゴリヤテと戦う事の許しを貰おうとしますが、それは、獅子と戦い、熊と戦った実績や経験が中心ではなく、神様が守って下さった事の証拠としての実績、経験を述べているのであります。

この獅子の牙から、熊の爪から守って下さる神様が付いているから、ゴリヤテとも戦う事が出来る、打ち負かす事が出来ると判断したのであり、名乗りを挙げる事が出来たのです。

【適応】

神様が選ばれるのは戦いの経験豊富な、百戦連覇の豪傑ではありません。

人々の信頼を得ている、誰もが知ってる有名人でもありません。

神様の守りを信じている人物を選ばれるのであり、神様の訓練に耐えた者を選ばれるのです。

戦場での戦いの経験がなくても、野原や森で獅子や熊との戦いの経験は戦場での戦いに役立つはずです。

人々の信頼もなく、誰にも知られていなくても、神様が与えて下さった訓練を通して、神様が信頼して下さり、神様に知られているのです。

誰も認めていなくても、神様が認めて下さって油を注いで下さったのです。

サウル王に仕え、呼び出されれば自分の都合はさて置いて、直ぐに1日の道のりを駆けつけたのです。

父エッサイに仕え、手間のかかる羊の世話をし、戦場で戦う兄たちのために、食料を、付け届けを配達するのです。

その兄のために働いても、罵りしか返って来なかったのにです。

これらの日の目を見ない、何の評価もされない下働きの期間が、獅子や熊との戦いが、ダビデを神様の器として整える期間であり、時が満ちて、イスラエルの敵、神様を罵るゴリヤテとの出会いとなり、神様への罵りを、我が事として受け止め、義憤に駆られて名乗りを挙げる事に繋がって行くのです。

ダビデのように、神様との関係が正しく出来上がっていてこそ、義憤は用いられますが、神様との関係がないところの義憤は、単なる怒りであって、召し出される前のモーセの様に、人を殺して逃げ出すような結末となってしまうのです。

神様は選ばれると同時に、訓練を与えられます。

その訓練は忍耐であり、服従であり、自己犠牲であり、他にも様々な試練があるでしょう。

そして、その試練に、訓練に耐えた者は、次ぎの段階に入って行くのであり、その時機も、場所も、神様が備えて下さるのであり、人が作為的に介入するのは僭越であり、身の程知らずの謗りを受ける事になってしまうでしょう。

「従順」以上に神様に喜ばれる特質はないのであり、従順でこそ、神様の訓練にも逃げ出す事なく、反発するでもなく、自分勝手に行動する事もないのであり、

それでこそ神様に用いられる器となるのです。

ここにおられる皆様が、自分には何かが出来るからではなく、

神様に聞き従う従順故に用いられる器となり、その従順を持ち続け、豊かな神様との交わりに生き続けますように。                                                                   

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                  3月28日礼拝

説教個所:コリント人への手紙第一9章1節から12節

説教題:「パウロの使徒としての権威」

【導入】

本日の説教題の、「使徒としての権利」と云う言葉ですが、その意味は、「働く人として、持っている権利」の意味であり、「労働者として当然、誰もが持っている権利」の意味であり、働く人が持っている基本的な権利の事です。

使徒には何か特別な権利がある、特権がある、の意味ではありません。

パウロが、自身の使徒としての権利に言及しているのは、コリント教会の一部の人々の誤解を解くためです。

コリント教会の一部の人々は、パウロが主張し、実践して来たキリスト者の自由、自分を低くし、隣人に仕える姿勢、コリント教会には経済的負担をかけない姿勢を誤解し、パウロの使徒職を否定するような言動となって、現れて来たのです。

コリント教会の一部の人々は、パウロは、使徒ではないのであり、その自覚があるから、あのような謙った姿勢、無私で仕えるのだ、無給で働くのだ。

コリント教会の一部の人々は、パウロは使徒ではない、と断定し、使徒ではないのだから、パウロを使徒として処遇する必要はない、パウロは使徒ではないのだから、パウロの発言は聴く必要はない、聴く価値はない、更には、パウロを攻撃、排斥する激しい動きとなって現れて来たのです。

パウロは、どんな処遇も、甘んじて受けますが、自身が使徒である事は、譲るわけには行かず、自身の使徒職を確認すべく、弁明を述べるのです。

【本論】

新改訳2017版 9:1 私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。

パウロの、自身が使徒職である事を確認する弁明、その一は、「私は私たちの主イエスを見」た事です。

ペンテコステ以降は、聖霊様が降られ、一人一人の内に住まわれ、弟子の自覚、確信を与えられ、現代は、客観的な、手続きと按手が行なわれ、牧師、宣教師などの教職、使徒職に就いた自覚、確信が与えられます。

当時は、御子キリスト・イエス様から直接任命を受けた十二弟子は、誰もが、その使徒職を認めるところですが、キリスト教の草創期に重要な事は、使徒、弟子は「私たちの主イエスを見」たか、否かでした。

私たちの主イエスを見」た者が、弟子として自覚し、確信を与えられ、弟子、使徒として使徒職に就いたのです。

パウロは、復活の主と対面した事実をあげ、御子キリスト・イエス様から使徒職に任ぜられている事を弁明します。

パウロの、自身が使徒職である事を確認する弁明、その二は、「あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか」です。

コリント教会の存在自体、そして、コリント教会の信徒の存在自体が、パウロの使徒職を証明しているではないか、と弁明するのです。

教会の頭は、御子キリスト・イエス様であり、コリント教会が御子キリスト・イエス様の教会であるなら、コリント教会を建て上げたパウロが、御子キリスト・イエス様から遣わされた使徒でなくて何であろうか、なのです。

これは、非常に説得力のある、論理的な弁明ではないでしょうか。

そして、コリント教会に所属する人々が、御子キリスト・イエス様の贖いに与っていると自覚しているのなら、救われていると確信しているのなら、御子キリスト・イエス様の贖いと、救いをもたらしたパウロが、御子キリスト・イエス様から遣わされた使徒である事は自明の理だ、と弁明するのです。

コリント教会の一部の人々は、知恵と知識、地位と学歴などを誇る人々でしたが、その知恵と知識、地位と学歴などに訴える弁証的な、非常に効果的な弁明ではないでしょうか。

9:2 たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。

パウロの働きに疑問を感じる人々や教会があったとしても、パウロの使徒職を否定的に捉える人々や教会があったとしても、少なくとも、コリント教会にとっては、コリント教会の信徒にとっては、パウロは紛れもなく、御子キリスト・イエス様が遣わしたもうた使徒なのだ、と訴えかけるのです。

コリント教会の一部の人々は、知恵と知識、地位と学歴などを誇る人々でしたが、パウロは、コリント教会の一部の人々の、知恵と知識、地位と学歴などを誇りとするのを、全面否定するのではなく、その知恵と知識、地位と学歴などを認めて、知恵と知識、地位と学歴などに相応しい判断をするように促すのです。

弁明や説得と云うモノは、ついつい熱が入り、感情的な言い方に、強い言い方になってしまい勝ちですが、パウロは終始、冷静さを失わず、弁明を、説得を続けますが、パウロの、コリント教会とコリント教会の人々に対する、深い愛情を感じ取れる弁明、説得なのではないでしょうか。

9:3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。

パウロが愛情を注ぐコリント教会ですが、コリント教会の一部の人々はパウロに対して頑なであり、攻撃的であり、パウロの使徒職の弁明に対抗出来ないと見ると、形勢不利と見ると、難癖を付け、批判をします。

そこで、パウロは、一般論を用いて、働き人が持つ権利について述べます。

9:4 私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。

9:5 私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

9:6 あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。

4節以降の「権利」の行使は、「教会負担で」の意味であり、4節は、教会負担で、毎日の食事を頂く事、5節は、教会負担で、伝道の働きに、伝道旅行に、妻を同伴させる事、6節は、教会負担で、生活を、衣食住を全面的に支えて頂き、生活、衣食住のための働きを止めて、伝道に専念する事、です。

使徒職に就く者が、教会のサポートを受ける事、教会に支えて頂く事は、パウロのみならず、全ての使徒職に就く者の権利であり、同時に、教会の非常に重要な働きであると、教えているのです。

6節にはパウロと共に、バルナバの名前が挙げられていますが、コリント人への手紙第二1218節、2017版は372ページ、第三版は361ページを読むと、テトスが、テサロニケ人への手紙第一29節、2017版は409ページ、第三版は397ページを読むと、シルワノやテモテも、パウロと同じように、教会には負担をかけないで、使徒として、伝道活動した事が読み取れます。

パウロが言いたいのは、権利が無いから、教会に負担をかけなかったのではなく、教会に負担をかけない事が、伝道に益するから、誤解を生じさせないから、教会に負担をかけるのは、時期尚早だったからであり、パウロが使徒職ではなかったからでも、バルナバたちに権利がなかったからでもないのです。

9:7 はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。

使徒職は、御子キリスト・イエス様から信任される働きですが、報酬を受ける、と云う点では、世の常識、自然の理(ことわり)に反する事ではありません。

パウロは、世の常識を用いて、報酬を受ける権利に付いて弁明をします。

兵役に服す人」も、「ぶどう園を造」る人も、「羊の群れを飼」う人も、其々の働きに応じて、其々報酬を受けるのが、世の常識であり、自然の理に適っている事なのです。

働きに就く者が、その働きから報酬を得るのは、世の常識であり、自然な事なのです。

更にパウロは、創造者にして、世界を統べ治めておられる神様のことば、律法を用いて、報酬を受ける権利について弁明をします。

9:8 私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか。律法も同じことを言ってはいないでしょうか。

9:9 モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。

9:10 私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。

9節の、「モーセの律法」からの引用「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」は、旧約聖書、申命記254節からの引用であり、2017版は358ページ、第三版は347ページに記されています。

牛は、脱穀中でもお構いなく、脱穀したての麦などを、摘み食いしてしまいます。

それを防ぐために、口に籠を嵌める訳ですが、単に、摘み食いを禁ずる策ではなく、収穫物は、唯一真の神様に献げなければならない、との理由が存在する事を忘れてはならないでしょう。

唯一真の神様に献げる前に、牛と云えども、摘み食いするのは、けしからん、です。

しかし、創造者にして、唯一真の神様は、家畜、動物の空腹に対してさえも、ここまで配慮されるのであり、ましてや、創造者なる神様に似せて造られた人間に対する配慮は、尚一層の事なのではないでしょうか。

労働者が報酬を受ける事を期待するのは、当然であり、遠慮する事も、申し訳なさそうにする事も、恥ずかしがる事も、一切不要なのです。

働きに見合わない報酬で済まそうとする事こそ、恥ずべき事であり、神の前に罪であるのです。

兵役に服す」、「ぶどう園を造」る、「羊の群れを飼」う、は古くからある働きであり、馴染み深い働きであり、報酬体系も解っていますが、使徒職の働き、福音宣教の働きは、新しい働きで、馴染みがなく、報酬体系が良く解りません。

パウロは、エルサレム教会から派遣されているようだから、エルサレム教会から報酬を受け取っているんじゃないの?

パウロと契約を結んだ訳ではないから、払う必要はないんじゃないの・・・などなど。

そこでパウロは、馴染み深い農業の働きを例に話を進めます。

9:11 私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。

使徒や伝道者が、福音宣教の働きをしたのなら、福音宣教を受けた人から、物質的なもの、報酬を期待して悪いはずがない、ではないか。

福音宣教の働きは、直ぐに効果が現れはしません。

しかし、一人一人の内に、教会に、確実に変化は起こっています。

一人一人が、教会が、福音宣教の働き人に、物質的報酬を渡すのは、当然なのです。

御子キリスト・イエス様も仰っています。

ルカの福音書93節、2017版は130ページ、第三版は128ページ「9:3旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません」。

ルカの福音書107節、2017版は134ページ、第三版は133ページ「10:7 その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです」。

勿論、宣教地には負担をかけない、と云う宣教方針がありましょうが、基本は、福音宣教を受けた人から、物質的なもの、報酬を受け取る、です。

9:12 ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。

コリント教会の、パウロの後任となった使徒は、コリント教会から報酬を受け取っていたようです。

コリント教会の担任教師として、コリント教会のために働いていたのですから、報酬を受けるのは当然ですが、コリント教会と特別な関係にあるパウロは、当然、報酬を受け取っても、何の問題もないどころか、当然、受け取るべきだったのですが、敢えて、受け取らなかったのです。

それは、福音宣教、伝道の働きに、無用の誤解を与えないがための配慮です。

当時、弁論家、宗教家は、各地を巡回し、辻説法を行ない、収入を得ていましたが、それらの人々の働きと、混同されないように、との配慮から、報酬を受け取らなかったのです。

福音宣教の働きに、ほんの少しでも、不純なものや誤解が入り込まないようにとの、配慮です。

現代でも、礼拝の中で献げられる献金は、会費であるとか、カンパであるとか、賽銭であると誤解されないような配慮が必要です。

牧師の謝儀も、説教に対する対価ではありませんし、教会堂の管理者としての対価でもありません。

福音宣教の働きに対する報酬であり、その教会にどれだけ益したかは問題ではありませんし、資産家だから謝儀は不要、でもありません。

福音宣教者、使徒職は、唯一真の神様から遣わされているのであり、それゆえに、福音宣教者、使徒職に、相応しい報酬をお渡しするのです。

【適応】

パウロは、各地で、宣教の働きを進めてきましたが、基本的には自費で、生活していました。

しかし、これは、特殊な形であり、福音宣教者、使徒職の一般的な形ではありません。

福音宣教者、使徒職は、遣わされている教会から、報酬を受け取るべきであり、教会は、福音宣教者、使徒職の生活を、衣食住を支えるのが使命です。

福音宣教者、使徒職が、御言葉の説教と牧会に専念、専心するために、福音宣教者、使徒職が糊口を凌(しの)ぐ事のないように、教会は、福音宣教者、使徒職の生活を、衣食住を全面的に支えるのです。

福音宣教者、使徒職は、遣わされている教会から、報酬を受け取るべきですが、但し、「キリストの福音に対し何の妨げにもならない」場合において、であり、パウロは、教会の実情をみて、報酬を受ける事がその教会において福音宣教の働きの妨げになる、と判断した場合は、報酬を要求しなかったのです。

コリント教会のみならず、草創期の教会は、福音宣教者、使徒職の生活を、経済的に支える力が充分とは言えません。

そこで、パウロは、行く先々の教会に経済的負担をかけずに、福音宣教の働きを進めてきたのですが、しかし、時を経て、パウロが報酬を要求せず、受け取らなかった事で誤解が生じ、

パウロの使徒職に疑念を抱かせ、コリント教会での福音宣教の働きの妨げとなったので、自身の使徒職の正当性を弁明する事となったのです。

パウロの基本的宣教姿勢は、「キリストの福音に対し何の妨げにもならない」であり、これは、現代にも通じる基本的な姿勢です。

パウロは、福音宣教者、使徒職に対する報酬を切り口にしましたが、教会の様々な活動、行事などが、「キリストの福音に対し何の妨げにもならない」配慮をしなければならないのです。

特に、福音宣教者、使徒職は、福音の働きを妨げる、あらゆる力を警戒しなければなりません。

現実には、教会には事務的な働き、雑多な事がありますが、福音宣教者、使徒職の使命は、福音を伝える事であり、福音を伝える働きの妨げを警戒し、排除する事に尽きます。

その使命に日夜、専念、専心するために、教会は福音宣教者、使徒職の生活を、経済を全面的に支えるのです。

使徒としての権利の行使は、使徒としての働きに専念、専心するためなのです。

福音宣教者、使徒職にある者が、生活のために、この世の働きに就いているのは、或いは、教会内の働き、事務であっても、福音宣教以外の働きに、従事しているのは、大きな損失であると共に、福音宣教者、使徒職を派遣した神様に対する背任行為なのです。

福音宣教者、使徒職が、福音宣教の働きに専念する時、教会が、福音宣教者、使徒職が福音宣教の働きに専念できるように、福音宣教者、使徒職の生活を支える事に注力する時、そして、「キリストの福音に対し何の妨げにもならない」を共通認識とする時、福音宣教は前進し、福音が伝えられ、唯一真の神様の栄光が現されるのです。                   2021-3に戻る

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