2021-4-4礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一1520節~22

説教題:「よみがえられたキリスト・イエス」

【導入】

本日の説教題の、「よみがえられた」と云う言葉ですが、その意味は、限定的に、「黄泉、陰府から、帰られた」の意味であり、「死の世界から、戻られた」の意味です。

御子キリスト・イエス様は、十字架刑を受けられ、完全に死なれたのを確認され、決して出る事の出来ない死の世界に入られたのに、いのちの付与者、支配者なる神様の御力で、よみがえらされ、この世に戻って来られたのです。

決して、広い意味でのよみがえり、蘇生、或いは、仮死状態から息を吹き返した、の意味ではありません。

あり得ない事が起こったのであり、そこには、意味と目的があります。

本日は、意味と目的について、確認して行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

パウロは、コリント教会の一部の人たち、よみがえり、復活を否定する人たち、1512節の、「あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たち」に語りかけてきました。

コリント教会の一部の人たちの、よみがえり、復活を否定する人たちの言い分は、尤もな事でしょう。

死んだらお仕舞いであり、それが、この世の常識です。

聖書には、やもめの息子、会堂管理人の娘、百人隊長のしもべ、そしてラザロのよみがえりなどの記録が記されていますが、コリント教会の人たちにも、伝わっていた事でしょう。

御子キリスト・イエス様が死人をよみがえらせた。それは、御子キリスト・イエス様が、神の子である事の証拠であり、いのちの付与者、支配者なる神様が、死人をよみがえらされる事の予告でもありましょう。

しかし、コリント教会の一部の人たちは、それらの人たちの死をよみがえり、復活とは、関連付けて考えません。

それらの人たちの死は、仮死状態などであり、よみがえり、復活とは違う、と断じたのです。

人は、都合の悪い事は、有耶無耶にし、自論を強行に主張します、コリント教会の一部の人たちは、今までに死んでしまった人たちはよみがえらず、今、御子キリスト・イエス様を信じている者は、よみがえりに与ると考えていました。

よみがえり、と云うよりも、新しい身体を与えられる、死んでよみがえるのではなく、生きたまま、新しい身体に変えられる、とでも考えていたのでしょうか。

しかし、これは、大きな矛盾であり、間違いです。

御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活は信じるけれど、一般人、信徒のよみがえり、復活はあり得ない、信じられないは、論理的ではありません。

パウロは、御子キリスト・イエス様の死の事実、よみがえりの事実と、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活が、誰によってなされたか、を語ります。

15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

15:15私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。

15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。

15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。

15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」。

御子キリスト・イエス様は、いのちの付与者、支配者なる神様によってよみがえらされ、復活させられたのであり、御子キリスト・イエス様を信じる人たちも、支配者なる神様によってよみがえらされ、復活させられる、とパウロは断言するのです。

初穂」は、最初の実り、最初の収穫であり、その年の実りの、収穫の、ほんの一部ではありますが、その年の実りを、収穫を代表する大切、重要な意味を持つものなのです。

同じように、よみがえらされた御子キリスト・イエス様は、よみがえり、復活の最初、第一号であり、御子キリスト・イエス様を信じてよみがえらされる者たち、復活させられる者たちの第一号、代表なのです。

御子キリスト・イエス様は、よみがえり、復活の先行性と、代表性を有しているのです。

15:21死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。

15:22アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

パウロは、「」と「死者の復活」の対比、並行性、即ち、「アダム」の役割と、御子「キリスト」イエス様の役割とを語ります。

アダム」は、人類の祖であり、罪人の第一号となり、全人類に「」をもたらしましたが、御子「キリスト」イエス様は、よみがえり、「死者の復活」の第一号であり、全キリスト者によみがえり、復活をもたらしました。

御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活は、御子キリスト・イエス様の神性、義を現すものではなく、キリスト者によみがえり、復活をもたらすものなのです。

御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活が、キリスト者にそのまま転嫁、適応されるのであり、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活と、キリスト者のよみがえり、復活は、ワンセットであり、切り離して宣べ伝えるべきではありません。

イースターのメッセージの中心は、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活ですが、キリスト者によみがえり、復活をもたらす事と、一緒に、関連付けて語らなければ、不完全、不十分、不正確です。

22節で重要なのは、22節が伝えたい事は、「アダムにあって」、即ち、アダムの子孫は洩れなく、例外なく、「すべての人が死んでいる」のであり、誰一人として、自力で「生かされる」道はない、と云う事です。

そして、「生かされる」道は、義と見做され、新しい身体、朽ちない身体、永遠のいのちを与えられる手段は、「キリストにあって」、即ち、御子キリスト・イエス様の贖いを受け入れる事にしかないのです。

キリストにあって」、即ち、他の一切の救済手段は完全否定されます。

自力救済であっても、他力救済であっても、完全否定されます。

キリストにあって」、即ち、御子キリスト・イエス様の贖いを信じ、受け入れた者にしか適応されないのであり、決して「万民救済」ではないのです。

一人一人の明確な、御子キリスト・イエス様に対する応答が必要条件なのであり、家族の誰か一人が信じれば、家族の皆が芋づる式に、自動的に、ではないのです。

礼拝にさえ出ていれば、教会員になっていれば、洗礼を受ければ、聖餐を受ければ、でもありません。

心で信じ続け、口で告白し続けなければなりません。

御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活に与る、唯一、無二の条件は、「キリストにあって」のみです。

さて、22節ですが、「死んでいる」は現在形であり、「生かされる」が未来形である事に、注目したいと思います。

コリント教会の一部の人たちは、既に御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活に与っていると自認し、死の現実を無視し、

死者の復活を否定している人たちでしたが、これは大きな間違いです。

「死」は、現実の問題です。

避けては通れません。

キリスト者は、信じた時、「新生」、即ち、新しく生まれ、現在は、「聖化」の段階であり、御子キリスト・イエス様再臨の時、或いは、キリスト者お一人お一人が地上での歩みを終えた時、即ち、天に召された時、「栄化」、即ち、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活に与かり、「生かされる」のです。

【適応】

キリスト者は、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活に与かり、「生かされる」のですが、これは、未来の事であり、この世に、この地上に生きている限り、必ず「死」を経由しなければなりません。

「死」は、必然ですが、将来に、未来に、「生かされる」約束があるので、この世の、この地上での「死」を恐れる必要はなく、怯える必要はなく、不安になる必要もないのです。

ですから、「死」そのものを恐れ、怯え、不安に思う必要はありませんが、しかし、「死」は、現実の事であり、裁きなのですから、「死」の意味は、深く考えなければなりません。

「死」を侮るのは、「死」を軽んじるのは、キリスト者として相応しい事ではありません。

生かされる」約束があるのだからと、無謀な行動に出たり、命を粗末にするような行動に出たり、「生かされる」約束を知らない、この世の人たちを憐れんだり、見下したりしてはなりません。

御子キリスト・イエス様は、「生かされる」約束を知らない、この世の人たちのためにも、死んでくださったのだからです。

ですから、キリスト者は、「生かされる」約束を知らない、この世の人たちに、御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活の事を、普段の生活で、自然な形で、生き様で、お伝えし続けなければならないのです。

御子キリスト・イエス様のよみがえり、復活は、キリスト者のためであり、キリスト者は、御子キリスト・イエス様のために生きなければならないのです。

招詞の聖句を思い出してください。

コリント人への手紙第二515節「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」。

御子キリスト・イエス様の十字架上での死、そして、よみがえり、復活は、キリスト者のためであり、キリスト者は、御子キリスト・イエス様のために生きる事を示しています。

御子キリスト・イエス様の死、よみがえり、復活は、キリスト者のためですが、キリスト者が、この世で、この世界で、悲しみも、苦しみも、辛さも、迫害もなく・・・、生き生きと、憂いなく、元気良く、幸せに、平穏に・・・、のためではありません。

御子キリスト・イエス様のために、唯一真の神様のために、唯一真の神様のご栄光を現すために、生きなければならないのです。

キリスト者は、御子キリスト・イエス様の犠牲を受けたのですから、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に犠牲を献げる生き方を選ばなければならないのです。

イースターは、単なるお祝いではなく、御子キリスト・イエス様の十字架上での死、よみがえり、復活を覚え、キリスト者が、御子キリスト・イエス様のために生きる決意の時、決断の時とする事が求められているのです。

もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」をキリスト者の座右の銘としたいものです。

そして、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を少しでも現したいものです。

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聖書個所:コリント人への手紙第一913節~18

説教題:「使徒の権利の自発的放棄」

【導入】

パウロは、大事な事は例話を交えて、また、色々な角度から語り伝えて来ました。

パウロのみならず、イエス様も、大事な話、大切な教えは繰り返し語られました。

繰り返し、反復は、時にうんざりする事もありましょうが、です。

本日の説教は、91節から12節の繰り返し、と云う事が出来ましょう。

繰り返しではありますが、権利の放棄にポイントを置いている点に違いがあります。

その権利には、大きく二種類あります。

何の働きも努力もなく、偶然、思いがけず、棚からボタ餅式に与えられた権利と、働き、努力などによって獲得した権利です。

棚ボタ式に与えられた権利であっても、放棄するのはちょっともったいない、残念な気持ちはありましょうが、もともと、受ける何の根拠もない権利ですので、放棄するのは、諦めるのは、難しい事ではないでしょう。

しかし、働き、努力などによって獲得した権利は、そのために働き、努力したのですから、放棄するのは特別な決断が必要な事でしょう。

その時の状況、今後の展開から放棄するのが得策、有益・・・であるなら、放棄もまたよし、でしょう。

パウロは、福音宣教の妨げに対して何より敏感であり、慎重であり、権利についても行使するか、放棄するかは、福音宣教の益となるか、否かで判断したのです。

パウロの権利の自主的放棄について、その意味するところ、伝えたい事を学んで行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 9:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。

パウロは91節から12節で使徒、福音宣教者が教会から生活の必要を受ける権利についての根拠を述べて来ました。

どのような種類の働きであっても、働く者がその働きから報酬を受けるのは当然であり、「宮に奉仕している者」、即ち、神殿で働くレビ人たちが、「宮から下がる物を食べ」、即ち、神殿に献げられた物の分配を受けるのは、「祭壇に仕える者」、即ち、祭壇に仕える祭司たちが、「祭壇のささげ物にあずかる」、即ち、祭壇に献げられた物の分配を受けるのは、ユダヤ人の知るところであり、旧約時代からの慣習であるが、それはユダヤ教、ユダヤ人独特の慣習ではなく、どの世界の、どの宗教でも同じであり、あなた方、コリントに住む人々の知るところではないか、と投げ掛けるのです。

時に、宗教や宗教関係者は、神秘的な存在である事を、遠い存在である事を演出し、宗教関係者の生活を、隠していた事もあったでしょうが、迷信や祟り、呪いなどが普通に信じられていた時代であり、呪術、お払い、加持祈祷なども盛んであり、一般的な生活と、宗教生活とが密接な関係にありました。

生活の中に宗教が深く入り込んでいましたから、人々は何かに付け、宗教と結び付けて考え、良い事があると、また、余裕が生まれて来ると、献げ物が多くなり、人心に不安が広がると、神頼みが増え、献げ物も増える、と云った傾向があった事でしょう。

宗教、宗教関係者は、身近な存在であり、宗教関係者も一緒の世界の、一緒の住人であり、その生活は、周知の事であり、宗教関係者が、その宗教の献げ物を受け取るのは、その宗教から経済的報酬を受けるのは、当然の権利でしょう、とパウロは問い掛けるのです。

9:14 同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

当時は、新興宗教の部類であったキリスト教会、そのキリスト教会で働く、使徒、福音宣教者と云った新しい働き人ですが、パウロは、使徒、福音宣教者たちが、教会から経済的報酬を受けるのは、当然の権利である、と述べるのですが、主も・・・定めておられます」との、但し書きを付ける、その背景には、律法解釈、聖書解釈の問題があったからです。

祭司、レビ人の働きは、明確、周知であり、祭司が祭壇の献げ物、レビ人が神殿の献げ物を報酬として受け取るのは、律法が命じるところであり、誰もが納得する事ですが、新しい働き人、使徒、福音宣教者が、教会への献げ物を報酬として受け取るのは、律法に適っているか、聖書的か否かが問われたのです。

コリント教会の一部の人たちは、律法を根拠に、使徒たちや福音宣教者たちが、教会から報酬を受け取る事に難色を示していたのでしょう。

律法は、モーセの時代に定められたモノであり、パウロの時代には、そのまま適応出来ない事柄がたくさん生じていました。

そこで登場するのが、ユダヤの、律法解釈、聖書解釈に於いて「ハラカー」と呼ばれる解釈方法です。

ユダヤ教の教えや掟を、各時代の社会状況に於いて、如何に用いるかという、現代的適応を考慮する解釈方法です。

律法を、杓子定規に、文言通り、字義通りに適応するのではなく、時代の変化、社会の変化に合わせて解釈をしたのです。

律法には、使徒とか福音宣教と云う働きについて記載がありません。

字義通りの適応なら、使徒たち、福音宣教者たちが、教会に献げられた物を報酬として受け取る事は律法に抵触する事であり、要求しても、受け取ってもならないのですが、パウロは、「主も・・・定めておられます」と、「」は、律法の柔軟な、フレキシブルな解釈を認め、律法に記載されていない働き人、「福音を宣べ伝える者が」、即ち、使徒たちや福音宣教者たちが、教会への献げ物を報酬として受け取る事を「定めておられます」とし、律法に適う事だ、と断定するのです。

祭司やレビ人が、神殿への献げ物、祭壇への献げ物を、報酬として受け取る権利があるように、使徒や福音宣教者が、神殿への献げ物、祭壇への献げ物を、報酬として受け取る権利がある、と断言するのです。

この宣言は、各地を巡回する使徒たち、福音宣教者たちの生活、経済を支える根拠となる宣言であり、権利の宣言であり、非常に励みとなったのではないでしょうか。

使徒たち、福音宣教者たちが教会から報酬を受け取るのは権利であり、教会が使徒たち、福音宣教者たちに報酬を渡すのは主の定めに対する義務の履行なのです。

9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。

パウロは、今までも、自身の持つ権利を一切用いないで来たし、これからも、自身の持つ権利を一切用いない、と断言します。

パウロの、権利に対する考え方は、権利があるか否かではなく、権利を用いるか否かである事が解ります。

コリント教会の一部の人たちは、色々な権利を主張していました。

性的自由の権利、偶像に献げた肉を食べる権利・・・を主張し、それらの権利を行使する事は正しい事であると豪語し、誰に憚る事なく行使して来ましたが、コリント教会に混乱を招き、コリント教会の弱い人たちは、滅びる事になり、その弱い良心を傷つける事になったのです。

パウロは、自分が権利を用いる事で、弱い人たちが、滅びる事になり、その弱い良心を傷つける事になるくらいなら、「死んだほうがましです」、と述べます。

パウロが誇りとするのは、自身の権利の行使ではなく、弱い人の魂が守られる事であり、コリント教会の人たちが、パウロの実例を通して、権利を如何に用いるか、用いないか、を学ぶように期待するのです。

9:16 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

パウロは、パウロの福音宣教の働き自体が、パウロの誇りとするところではないと断言します。

パウロにとって、福音宣教の働きは、「そうせずにはいられないので」あり、選択の余地がない必然的義務、強制的職務なのです。

もし、福音宣教の働きを拒否、或いは、手抜きをしたならば、「私はわざわいです」と述べます。

その意味は、自身の存在自体がわざわい(災い、禍、厄)だ、であり、事実、福音宣教者になる前のパウロは、キリスト者を迫害する者、弾圧する者、であり、その責を受けなければならず、支配者なる神様の裁きを受けなければならない身であり、福音宣教の働きに就いているが故に、裁きが猶予、延期されているに過ぎない、と述べるのです。

更に、福音宣教の働きは、支配者なる神様に直結する職務であり、福音宣教の働きに就く事は、支配者なる神様の裁きを招く職務に就いているのだ、です。

どんな職種でも、使用人は、雇い主に対して責任があります。

損害を生じさせれば、償わなければなりませんが、ましてや、支配者なる神様に対して、損害を生じさせたならば、命をもってして償わなければならない、重い、大きな責任を負っているのです。

その意味で、使徒、福音宣教者、牧師などの、所謂教職者と、重責を担っているとは云え、長老、執事、役員などの信徒とは、雲泥の責任の違いがあるのです。

パウロは、「福音を宣べ伝えないなら・・・わざわい」だ、と述べましたが、教職者が、「福音を宣べ伝えないなら・・・わざわい」だ、なのであり、教会は、教職者が、「福音を宣べ伝え」る事に専念するようにしなければならないのです。

9:17私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。

一般的に、働くも働かないも自由であり、自由に働きの種類を選ぶ事が出来ます。

働きは自発であり、報酬が期待出来るし、報酬には交渉の余地があり、多くの報酬を期待しても問題ありませんが、パウロの場合、ダマスコ途上の道で、御子、主イエス様から直接、使徒として召されたのであり、「務めとして委ねられている」と、述べられていますが、福音宣教の働きを強制、強要されたのであり、選択の余地はなく、パウロに「自発的」の意識、自覚はなく、報酬、報いは、一切念頭にありませんでした。

パウロは、ダマスコ途上で、御子、主イエス様と出会った時、裁きを、死を覚悟したのではないでしょうか。

御子、主イエス様に対する攻撃を行なって来たのであり、裁かれて、死を与えられて当然です。

パウロは、ダマスコ途上で死んだのであり、生かされているのは「福音を宣べ伝え」るために、他ならない、との明確な自覚があったのです。

9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。

ダマスコ途上での体験こそ、18節を理解する鍵です。

無報酬で福音を提供」する事自体が、支配者なる神様、御子、主イエス様から自分に与えられた「報酬」なのだ、と告白するのです。

これは、福音宣教の働きに就き、「無報酬で福音を提供」し続けているが故に、キリスト者を迫害した事、弾圧した事に対する裁きが猶予、延期されているのであり、これこそが支配者なる神様、御子、主イエス様から自分に与えられた「報酬」なのだ、の意味なのです。

パウロの誇りは、このような、謙遜を背景とする誇りであり、働きの誇示、各地の宣教の実である教会の存在や、信徒の存在などでは、断じてないのです。

【適応】

パウロは、コリント教会の人たちから、一部の人たちからだったでしょうが、誤解を受ける事を避けるために、コリント教会からは、一切の報酬を受け取らなかったのですが、他の教会からは、経済的援助を受けていました。

例えば、コリント人への手紙第二119節、2017版は369ページ、第三版は358ページに記されていますが、マケドニア教会からの援助を受け、ピリピ人への手紙415節、2017版は400ページ、第三版は388ページに記されていますが、ピリピ教会からの援助を受けています。

報酬と援助とは、大きな違いがあります。

報酬は、働きに対する対価であり、援助は、善意であり、働きに同意、賛同する支援、応援です。

報酬は、支払わなければならない性質のものですが、援助は、しても、しなくても自由な性質のものです。

同盟教団では、11月に「謝恩デー献金」を募りますが、病気療養中の教師、引退教師、休職教師、支援教師、召天教師の配偶者などに、援助を行なっています。報酬ではありません。

パウロへの、マケドニア教会、ピリピ教会からの援助には、過去の働きに対する感謝の意味があるかもしれませんが、報酬ではありません。

パウロの、報酬を受けないスタンスは、教会の益を考慮しての、コリント教会に対する判断であり、パウロの原則とするところでも、使徒、福音宣教者の原則とすべきとする教え、お勧めでもありません。

パウロは、新キリスト教辞典の記述によれば、かなり裕福な家庭の出身であり、報酬や援助を受け取る必要がなかった、とありますが、それは、報酬を受け取らなかった理由の一つかもしれませんが、パウロが、教会からの報酬を受け取らなかった、最大の理由は、ダマスコ途上の体験でしょう。

御子、主イエス様を迫害して来た事実と、その御子、主イエス様に召された事実は、パウロの生涯を、価値観を、完全に、変えました。

御子、主イエス様は、パウロに命を与えてくださったのであり、命の代償として、パウロは無報酬で福音宣教の働きに就いたのです。

キリスト者は、これに近い感覚を持っておられると思いますが、決定的な違いは、パウロは、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に従っていると確信して行動していたのに、実は、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に、御子、主イエス様に歯向かっていた、刃を向けていた事を、御子、主イエス様との出会いで知らされた事でしょう。

思っていたのと違っていた、裏目に出た、云々などと云う、生易しい事ではなかったのです。本当に、驚天動地、青天の霹靂、の心境だったのではないでしょうか。

正しいと思っていたのに間違っていた。

しかも、決して取り返しのつかない、何を以ってしても償いのしようのない大失態・・・。

テモテへの手紙第一115節、2017版は419ページ、第三版は406ページ、「私はその罪人のかしらです」は、決して大げさな表現でも、キリスト教的謙遜の定番フレーズでもないのです。

パウロの、偽らざる、何の矜持もない、本心の発露であり、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」こそ、パウロの福音宣教方針であり、報酬を受け取らない事こそ、御子、主イエス様からの、何ものにも換えがたい報酬だと、断ずるのです。

 

パウロの宣教方針、無報酬の原則は、誰にでも適応出来るものではありませんが、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」の、其々の解釈と、其々の適応を通して、唯一真の神様、御子、主イエス様の栄光を少しでも現したいものです。

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聖書個所:コリント人への手紙第一919節~23

説教題:「全ては福音のために」

【導入】

パウロの福音宣教の働きに対する心構えは、「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」であり、パウロの生きる指針は、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」でした。

このパウロの心構え、生き方の指針は、誰にでも真似の出来るものではありませんが、意識として持っているのは大切な事なのではないでしょうか。

心構えもなければ、指針もないならば、行き当たり場当たり、適当、いい加減な宣教、生き方になってしまうのではないでしょうか。

それこそ、気が付いたら、人生の終盤を迎えていた、と臍を噛むような事になってしまうのではないでしょうか。

明確でなくても、漠然としたものであったとしても、心構え、指針のあるなしは、有意義な生涯を送るか否かの分かれ道なのではないでしょうか。

パウロの福音宣教に対する心構え、パウロの生きる指針について学んで来ましたが、これらは、基本、原則であり、今日は、具体的な適応について、宣教方針について学んで行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。

パウロは、「キリスト者の自由」に付いて語って来ましたが、それは、コリント教会の一部の人たちの、「自由」に対する誤った理解と行動を正すためでした。

自由は、或いは権利は、行使しなければならないモノではなく、行使してもよいし、放棄してもよいモノなのです。

時に行使し、時に行使しない、それが本来の自由であるはずです。

行使する事に固執するならば、それはもう自由ではなくなってしまっています。

また、本能を抑えられず、自分の好き勝手な事をするために、他者の権利を顧みず、弱者の良心を踏み躙るなら、それは、真の自由ではなく、罪の奴隷なのではないでしょうか。

真の自由は、自分のしたい事をする事を意味するのではなく、したい放題を意味するのでもなく、他者と共生するために、自分を制する事ではないでしょうか。

人間は、創造者なる神様によって造られ、創造者なる神様の造られた世界を治めるために、創造者なる神様の造られた世界のお世話をするために造られました。

しかし、奴隷のように、ロボットのように、黙々と仕えるのではなく、自由が与えられ、従うも自由、従わないも自由なのです。

賜物が与えられ、裁量が与えられ、用いるも用いないも自由なのです。

パウロは、与えられた自由を、賜物を、裁量を、福音宣教の働きのために用いますが、それは、「より多くの人を獲得するために」、即ち「より多くの人に福音を伝え、キリスト者とするために」、であり、「すべての人の奴隷になりました」、即ち、自分の自由を放棄し、仕える事に徹して来た、と語るのです。

仕える事に徹するのは、決して屈辱的な事ではなく、意に反する事でもなく、逆に、自分自身の救いを全うするためだ、との積極的な認識の下での、自発的選択なのです。

パウロの、仕える者に徹した、具体例が、20節以下に語られています。

9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには―――私自身は律法の下にはいませんが―――律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。

パウロは、勿論、説明するまでもなく、正真正銘のユダヤ人です。

パウロは、使徒の働き1346節、2017版は262ページ、第三版は256ページに、「そこで、パウロとバルナバは大胆に語った。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい。私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と語っているように、異邦人伝道に召されている事を表明していますが、決してユダヤ人に関心がない訳でも、ユダヤ人を切り捨てた訳でもありません。

ユダヤ人を救うために、異邦人伝道に励んでいるのです。

その辺の経緯はローマ人への手紙1111節を中心に、2017版は315ページ、第三版は307ページ、をお読み頂きたいと思います。

ユダヤ人に直接でなく、間接的に、無理やり、押し付けるのではなく、求めて来るまで待つのが、パウロのユダヤ人への宣教方針だったのです。

ユダヤ人のようになりました」は、パウロの関心が、同胞、ユダヤ人にあり、律法を尊重し、律法を遵守している、の意味であり、決して、律法には意味がないとの律法批判の意図がない事、律法を廃棄する事を奨励したりする意図がない事、律法を尊重する人たちと敵対する意図がない事の表明でしょう。

しかし、パウロは、パリサイ人として生きて来て、律法を守り行なう事によっては「義」を達成出来ない事、律法を守り、行う事では、確信を、安心を、平安を得られない事、即ち、律法の限界を知り、ダマスコ途上の道で、御子キリスト・イエス様に召され、御子キリスト・イエス様を信じる信仰による「義」しか、人間には提示されていない事を知りました。

ピリピ人への手紙39節、2017版は398ページ、第三版は386ページ、「私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです」と教えている通りです。

しかし、律法を否定しはしません。

しかし、律法主義者のように、律法に束縛されず、律法に対して柔軟な態度をとります。

何故ならば、律法自体は、罪を知る手掛かりであり、有益ですが、律法を行なう事では「義」を得る事は出来ないからです。

律法の限界を知るパウロですが、律法を尊重する人々を獲得するために、柔軟な対応をするのです。

9:21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。

律法を持たない人たち」とは、律法の概念を持たない人たち、異邦人、異教徒を指し示しますが、ユダヤ人の中の、律法の廃棄を主張する人たち、律法を捨てた人たちを意識している事は、間違いないでしょう。

キリスト者に与えられた律法からの解放、律法からの自由を、放縦と混同し、自由奔放、好き勝手な言動に走る人たちの獲得を意識した、パウロの救霊の決意の表明です。

パウロの数々の書簡から、パウロが律法を、次のように理解している事が解ります。

即ち、律法を守り、行なう事によっては「義」を得る事は出来ないが、御子キリスト・イエス様に結ばれた者として、御子キリスト・イエス様との新しい契約に生かされている者として、「キリスト者の自由」を与えられた者として、律法を規則、規律の羅列、言動を制限、縛るものとして捉えるのではなく、律法を創造者なる神様の御旨を知る手掛かりとし、創造者なる神様の御旨に従って生きる道標として捉えている、と云う事です。

9:22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。

弱い人たち」とは、教会に於いて、軽視されたり、無視されたりする人たち、蚊帳の外に置かれている人たちの事ですが、決して意識的に軽視したり、無視したりしているのではないでしょう。

しかし、教会に限らず、何処の世界でも、功労者、古参、著名人、有能な人、目立つ人、知識人、金持ち・・・が優遇され、そうではない人、おとなしい人、静かな人、新参者、貧しい身なりの人・・・が冷遇される傾向にあるのは、否めない事実です。

だからこそ、パウロは、敢えて教会の中の弱い人たちにスポットを当てているのです。

蚊帳の外に置かれている人たちを、そのままにしておいてはならないのです。

9章を貫く、パウロの主張は、弱い人たちの事です。

信仰の弱い人たち、影響を受け易い人たちの事に気を配り、弱い人たちが躓く事なく、弱い人たちの魂が失われないように、との配慮をしなければならないのです。

ユダヤ人、異邦人、異教徒の区別なく、律法主義者、律法廃棄主義者の差別なく、全ての人たちの救いのために、心を砕き、心を配り、関係性を手繰り、それを切っ掛けに飛び込んで行くのが、パウロの福音宣教姿勢なのです。

当時は現代と比べて単純な世界でしたが、それでも、多種多様な区別、差別がありました。

現代、世界は更に多様化し、複雑になり、個人の主義主張が尊重され、教会の交わりの中に、多種多様な価値観も入り込んでしまいます。

そこから、新しい区別や差別が生まれないように、福音宣教の対象が狭められないように注意しなければなりません。

教会は、排他的、選択的な傾向に、注意しなければなりません。

関係性の強弱、濃淡ではなく、御子キリスト・イエス様の贖いに与った者として、区別なく、差別なく、交わりを持たなければならないのです。

9:23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

あらゆること」とは、19節から述べて来た事ですが、19節で「奴隷になりました」と述べ、21節で「律法を持たない者のようになりました」と述べていますが、「奴隷になりました」、とは身分の剥奪であり、最下層、人間扱いされない、動物レベルの扱いを甘んじる、と云う事です。

律法を持たない者のようになりました」とは、即ち、異邦人のようになりました、と云う事であり、汚れに、穢れ、唯一真の神様との交わりを絶たれる事を意味します。

譬えて言うなら、頭のてっぺんから、足の指まで、ツァラートに冒され、糞尿に塗れ、忌み嫌う動物を食し、忌み嫌う動物などと、寝食を共にするような状態に、自ら飛び込む、と云う事です。

ユダヤ人にとって屈辱的な事であり、生半可な義侠心やヒューマニズムで取り組める事ではなく、並々ならぬ決意と覚悟が必要です。

20節で「ユダヤ人のようになりました」、「律法の下にある者のようになりました」と述べていますが、これは、御子キリスト・イエス様の贖いの業を、否定する意思、意味の表明と、受け取られかねない発言であり、誤解を恐れず、大胆に言い切るのは、以前学んだように、パウロの告白、「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」の通りに生きているからこそ、為し得た事なのです。

【適応】

パウロの生き様、生きる指針は、パウロのような使徒、福音宣教者、所謂教職者限定の生き様、指針なのでしょうか。

パウロは救われると同時に、使徒、福音宣教者として召されました。

救いは、唯々、一方的な恵みですが、この世での生涯を、信仰を持って歩み通すためには、御子キリスト・イエス様に従う道を歩み続ける事が必須です。

もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」は、パウロ独自、独特の福音宣教方針ではなく、御子キリスト・イエス様に贖われた、全ての者の生き様、生きる指針なのです。

パウロのみならず、御子キリスト・イエス様への従順は、自発的献身をもって達成されるのであり、「自分のために死んでよみがえった方のために生きる」事が、救いの達成に必要なのです。

ローマ人への手紙148節、2017版は320ページ、第三版は311ページ、「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

ピリピ人への手紙120節、2017版は395ページ、第三版は383ページ、「1:20私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。

1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

私たちは、御子キリスト・イエス様の身体の部分であり、御子キリスト・イエス様の身体として、有機的な交わりを持つ教会の使命である、福音宣教の働きに取り組んで行くのです。

その意味で、信者一人一人の健康とか、幸せとか、平穏とかではなく、信者一人一人の賜物、生涯、全てを、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光のために献げて行く事が求められているし、自発的に献げなければならないのです。

御子キリスト・イエス様は、何より、自発を喜ばれます。

どんなに貴重なもの、高価なもの、唯一無二なものを献げても、強制があったり、誘導があったり、或いは、見せびらかしや、自己満足があったなら、御子キリスト・イエス様の目には、全く価値のないものとしか映らないでしょう。

逆に、どこにでもある普通のものでも、あまり価値のないものでも、小さなありふれたものでも、自ら進んで、喜んで、精一杯献げたなら、御子キリスト・イエス様の目には、何よりなものとして映るのです。

献げ物も、奉仕も、否、生活そのものが、生活の全てが、生き方そのものが、福音宣教を意識しているか否かが重要なのです。

私たちは福音宣教のために召されているのです。

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                                    2021-4-25礼拝

聖書個所:サムエル記第一1733節~52

説教題:「使い慣れた杖と選んだ石で」

【導入】

ペリシテ人とイスラエル人は戦いに明け暮れていました。

この時の状況ですが、1712節によれば、「17:1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。ユダのソコに集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。

17:2 一方、サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをした」、とあります。

このエフェス・ダミムというのは「血の地域」という意味だそうで、流された血、犠牲となった命、戦いの激しさを後世に伝える地名となっている訳です。

それだけの犠牲を払う価値のある、重要な地域だったのでしょう。

戦略上重要な場所であり、ここを拠点に進撃したい。しかし、谷を隔てて、どちらも出るに出られず、引くに引けず、睨み合い、膠着状態が続いていました。

そこに、ゴリヤテが現われます。

ゴリヤテが出て来て、イスラエルを嬲(なぶ)り、挑発するのです。

それは前回学んだように、代表戦士が出て来て一対一の戦いをして、それで勝敗を決めようではないか、と言う提案でした。

こんな事が40日間も朝晩繰り返されたのですが、

17:11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。

このゴリヤテの提案、挑戦を受けて立つ、勇気のある者は、イスラエルの陣営の中には一人も居ませんでした。

イスラエル軍、決して弱かった訳ではありません。

サムエル記第一144748節には「14:47 さてサウルは、イスラエルの王権を握ってから、周囲のすべての敵と戦った。モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを敗走させた。

14:48 彼は勇気を奮って、アマレク人を討ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。」と記されています。

この時の勇気はどこへ行って、消えてしまったのでしょうか。

人は勇気だけでは戦えません。何か頼るものが必要です。

力であったり、武器であったり、作戦であったりと、何かしら相手を上回るものが必要です。

イスラエルには万軍の主がついていました。

この万軍の主の命令でアマレク人と戦ったのであり、万軍の主がついていたのでモアブにも、アモン人にも、エドムにも、何処に行っても勝利することが出来たのであり、主に聞き従い、信頼している限り、何処に行っても敵を懲らしめることが出来たのです。

でも、背後に居られる方は目では見えないお方ですから、気を緩めると、背後で守って下さっているお方を忘れてしまいます。

すると、目の前の敵が、目の前の大男が、非常に大きく見えて、とても太刀打ち出来ないと思えてしまうのです。

私たちの信仰生活でも同じことが言えます。

何かの拍子に、唯一真の神様から眼を離すと、問題だけが眼に入り、その問題は絶対解決出来ないものとしか、思えなくなってしまうのです。

【本論】

しかし、ここに日々唯一真の神様の守りを体験し、唯一真の神様に信頼して生きて来た一人の少年が登場します。それが、ダビデです。

ダビデは当時20歳以下、156歳であったろうと思われます。若くても、たとえ少年であったとしても唯一真の神様に仕えるのに問題はありません。

17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」

17:33 サウルはダビデに言った。「おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。」

イスラエルには、軍務に付くことができるのは「20歳以上の者」という、規定があるので、サウル王はこの規定によってダビデに戦うことを許可しなかったのです。サウルの言う事はもっともです。常識的な判断です。

相手は、ペリシテの代表戦士です。

一方のダビデは、戦いの経験の無い、戦争とは無縁の世界に生きて来た羊飼いの少年です。その差は誰の目にも明らかです。

戦いは、経験、体格、装備が物を言います。

あるスポーツ選手のお父さんが「気合だ、気合だ、気合だ。」と試合前に気合を入れますが、気合も大事ですけれど、気合、意気込みだけでは戦えません。

意気込みに応じた実力と体力と装備が必要です。

ですから、サウル王が156歳のダビデ少年には無理なことだと判断するのが当然です。

サウルの忠告は唯一真の神様のために戦おうとする若者に対する、やさしさに溢れた言葉でした。が、唯一真の神様に仕え、唯一真の神様に守られている民を導く王様としては、あまりに人間的な判断ではなかったでしょうか。

若いダビデであろうと、年老いたモーセであろうと、幼いサムエルであろうと、強いサムソンであろうと、勇気の無いギデオンであろうと、男であろうと、女であろうと、唯一真の神様の働きには関係ありません。

唯一真の神様は、若さも、老いも、強さも、弱さも、男も、女も、そのまま、そのままで、用いられるのです。

欠点と思われる所があっても、唯一真の神様はそのままの人を用いられるのです。

長所など必要ないのです。「必要ない」と言い切りますと、言い過ぎ、誤解を生じるかも知れませんが、唯一真の神様の働きのためには、人と比べたところの、長所も欠点も関係ないのです。

関係ないどころか、長所は高ぶり、慢心となり、敵意・争いの元と成り得るし、逆に欠点を用いられるのが唯一真の神様のご計画なのではないでしょうか。

人と比べれば、優劣が明らかになることが沢山あります。

いや、言い方を変えれば、何にでも優劣を付けることが出来るのです。

比べ出したらキリがありません。

それこそ、DNAレベルにまで、優劣を付けることが出来るのです。

しかし、人間が決めた優劣にどれ程の意味があるのでしょうか。

唯一真の神様は、イザヤ434節、20171237ページ、第三版1194ページ、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」、と仰っているでは在りませんか。

唯一真の神様の働きのためには、人と比べたところの、長所も欠点も関係ありません。

唯一真の神様の前には、どんなに知恵のある人も愚かであり、どんなに力のある人も無力だからなのです。

唯一真の神様の働きには、知恵とか力ではなく、唯一真の神様に信頼しているかどうかだけが、最も重要なポイントなのです。

今日のダビデの話しより120年程後のことですが、ダビデの子孫のアサ王が100万のクシュ人と戦った時、アサ王は次のように告白しています。

歴代誌第二1411節、2017775ページ、第三版754ページ、「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたには変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に向かって来ました。主よ、あなたは私たちの神です。人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください」。

唯一真の神様はこの祈りに答えて、アサ王に大勝利を与えて下さいました。

唯一真の神様の前には力の有る無し、経験の有る無し、装備の有る無しは関係無いのです。

サウルの常識的な忠告に対してダビデは言います。

17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、

17:35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。

17:36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」

17:37 そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった【主】は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。【主】がおまえとともにいてくださるように。」

「私は見掛けほどやわな少年ではありません。獅子や熊と戦うことがあっても平気です。唯一真の神様が守って下さるからです。あのペリシテ人は唯一真の神様の陣営をののしり、からかい、笑い者にしたのです。それは唯一真の神様に対する挑戦ですから唯一真の神様が戦ってくださいます。唯一真の神様の戦いなのですから負ける訳がありません。唯一真の神様は、あのペリシテ人の手からも私を救い出し、勝利をくださいます。間違いありません

これが、ダビデの唯一真の神様に対する確信でした。

このダビデの、唯一真の神様に対する揺るぎない信仰を目の前にしては、サウルは許しを与えない訳には行きませんでした。

許しは与えましたが、サウルはまたもやダビデに常識的な援助を与えます。

17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。

17:39 ダビデは、そのよろいの上にサウルの剣を帯びた。慣れていなかったので、ためしに歩いてみた。ダビデはサウルに言った。「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。

ゴリヤテほどの身長ではないにしても、「サウルが民の中に立つと、民の誰よりも肩から上だけ高かった。」のです。

そのサウル王のよろいかぶとですから、少年のダビデにフィットする訳がありません。

身軽に動く事が出来る、自分が扱いなれた武器であってこそ、持っている力を100%発揮することが出来るのではないでしょうか。

状況に合わせて道具を選ばなければ、身を守り、敵を倒すための道具が、自分の足を引っ張ることになりかねません。

王様が自ら貸してくれた物に対して、第三版は「こんなものを着けていては」と、訳していますが、ダビデの少年らしい率直さを感じると同時に、どんなに良い物、高価な物でも、自分に合わなければ「こんなもの」でしかないのです。

また、どれ程万全と思える備えをしても、唯一真の神様の守りが無ければ、それは虚しい物であり、列王記第一2234節、2017645ページ、第三版628ページ、「一人の兵士が何気なく弓を引くと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜い」てしまい、傷を負い、死んでしまうのです。

唯一真の神様に与えられた命は鎧兜で守るものではなく、唯一真の神様によって守られるものなのです。

唯一真の神様の守りを信じるダビデは、サウル王の兜鎧を脱ぎ、

17:40 そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。

身を守ることについては唯一真の神様に委ねましたが、素手で戦う訳にはまいりません。

ここでも信仰が試されましょうが、戦いの道具を選ぶに際しても信仰が試されるのです。

ダビデは羊飼いであり、職業軍人ではありませんから、剣や槍を持ってはいません。

ですから、時には、借り物をすることも、助けてもらうこともあるでしょう。

自分にない物を自覚し、それを借りる、助けてもらうことは大切です。

大切ですが、慣れていないものは、上手く使いこなせません。

不釣合いなものは、その機能を充分発揮できません。

慣れていないもの、不釣合いなものは疲れます。

慣れていないもの、不釣合いなものは急場には間に合いません。

慣れていないもの、不釣合いなものは全体のバランスを崩します。

上手く使いこなせなければ、ない方が良かった、と言うことになりかねません。

泥縄や付け焼刃では役に立たず、急場しのぎにもならないのです。

否、借り物は、自分の足を引っ張ることになりかねないのです。

そこで、ダビデは普段から使い慣れている、自分の杖を手に取りました。

少年ダビデの手の大きさに丁度良い太さ、長さ、重さの杖です。

この杖で、獅子と戦い、熊と戦って来たのです。

そして、何時も持ち歩いて使い慣れている羊飼いの使う袋、投石袋を腰につけました。

手に馴染み、使いなれている石投げを手にしました。

その上で、川から五つのなめらかな石を選んで拾って来たのです。

適当な石を拾って来たのではありません。

慎重に五つを選んで来たのです。

石は借り物と言えるでしょう。

借り物は慎重に選ぶべきです。

手に持ちやすく、袋から取り出しやすく、石投げにすっぽり収まる大きさ、重さの、五つのなめらかな石を選んできたのです。

この配慮と慎重さ、使い慣れた道具があって、主の守りを信頼して戦いに臨んだからこそダビデはゴリヤテに勝利することが出来たのです。

こうして、ダビデはサウルに重宝されながらも名前を覚えられないような音楽療養師から、唯一真の神様を信頼する信仰者として表舞台に登場し、サウル軍を勝利に導く勇士として活躍をし、将来のイスラエルの王様になるべく、人に知られ、人に信頼され、

唯一真の神様に立てられた器としての歩みを始めて行くのです。

【適応】

自分の慣れ親しんだものを持って、唯一真の神様の前に立つ。

自分らしさ、ありのままの自分で、唯一真の神様の前に立つ。

自分に与えられた賜物を持って、唯一真の神様に仕えるのです。

無い物ねだりをするのではなく、他人と比べるのでもなく、そのまま、ありのままで唯一真の神様に仕えるのです。

無理して調達したモノ、誂えたモノではなく、自分にあるモノで唯一真の神様に仕えるのです。

その上で、謙虚に、借り物を使って、他人からの援助をうけて、唯一真の神様に仕えるのです。

そして、唯一真の神様に信頼して、唯一真の神様と共に戦ったとき、唯一真の神様はダビデに、そしてイスラエルに勝利を与えられたように、私たちにも勝利を与えてくださることでしょう。

ダビデは、ありのままの自分と、自分の慣れ親しんだモノを持って、唯一真の神様に信頼して唯一真の神様と共に戦い、勝利しました。

ダビデは自分の慣れ親しんだモノを持って戦ったのです。

しかし、考えてみれば何で在れ、始めは借り物なのです。

始めから自分のモノ、使いこなせるモノ、などと言うものはありません。

ダビデが用いた杖も、投石袋も、石投げも、使い込み慣れ親しんだ物だからこそ、いざという時にも役立つものとなったのです。

私たちは与えられた賜物の良き管理者でなければなりません。

持っていることに安心して、その賜物を使わなければ錆びついてしまいます。

与えられた賜物は使ってこそ意味があります。

始めは上手に使いこなせなくても、持て余すようなことがあっても、段々と慣れて来て上手に使えるようになります。

また、その使い方が正しいかどうかを、賜物を与えて下さった唯一真の神様の御心に適っているかどうかを吟味しなければなりません。

聖書を読まなければ、賜物の使い方が正しいかどうか判断できません。

聖書に加えて、説教を聴かなければ、賜物の理解が自分勝手なものになっても気がつきません。

賜物を正しく管理し、使うために毎日祈り、聖書を読みましょう。

安息日には何を犠牲にしても説教を聴きに教会に来ましょう。

そうする事で、唯一真の神様の与えてくださる、神の武具、賜物を、借り物から、慣れ親しんだ自分の物とする事が出来るのです。

ダビデは自分の杖を手に取り、主の戦いに臨み、勝利しました。

ダビデの杖、それは羊飼いの仕事で慣れ親しんだ道具でした。

あなたの杖は何でしょうか。あなたに与えられた賜物は何でしょうか。

その与えられた賜物を用いてどんな働きをするのですか。

賛美ですか。掃除ですか。奏楽ですか。受付ですか。司会ですか。

教会だけが働きの場ではありません。家庭も職場も働きの場です。

ダビデは羊飼いとして誰にも負けないプロでした。

プロとして、自分の手馴れた道具を使って、唯一真の神様のために羊を育てたのです。

自分の杖、それは、慣れ親しんだ自分のもの、自分らしさともいえるでしょう。

ダビデは普段の生活とかけ離れた道具で、ゴリヤテと戦ったのではありません。

自分の日常の生活である羊飼いと言う働きと、慣れ親しんだ道具を用いて、獅子や熊と戦うように、ゴリヤテと戦い、唯一真の神様の栄光を現したのです。

普段の生活と、信仰生活が一致していることが重要です。

家庭は家庭。会社は会社。社会は社会。

それらと別の教会生活であってはなりません。

そんなダブルスタンダード的な生き方で、唯一真の神様に仕え、従うことはできません。

普段の生活が教会生活に影響するのであり、教会生活が日常の生活に現れてくるのです。

 

私たちも、唯一真の神様から与えられた武具である賜物を、自分の杖として手に取り、それぞれ置かれた場所で、与えられた賜物を用いて、仕事を通して、家庭を通して、学ぶ場を通して、唯一真の神様に仕え、教会でも、家庭でも、会社でも、地域でも唯一真の神様に仕えて、唯一真の神様の栄光を現す人生を生きようではありませんか。

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