2021-5-2礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一9章24節~24

説教題:「救いの達成のための節制

【導入】

本日の説教題を読むと、救いを達成するためには「節制」と云う、必要不可欠な条件があるように思われましょうが、節制しないと救われない訳ではありません。

救いは、心で信じて、口で告白した時点で、完成します。

しかし、信仰生活を送って行く中で、紆余曲折、様々な試みに遭い、挫折する人や、信仰を遺棄する人が、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から離れてしまう人が、少なからずいる事も事実です。

挫折しても、信仰を遺棄しても、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から離れてしまっても、戻ってくれば、何時でも、受け入れられるのであり、救いと節制とは別物なのであり、節制しないと救われない訳ではないのです。

節制しなくても救われるのですが、では、何故、節制が必要なのでしょうか。

パウロは、当時、コリントの人たちがよく知っている、競技会、コリントの町の郊外で、二年ごとに開催されていた「イスムス競技会」の参加者、選手の姿を喩えに、節制の必要性を語ります。

【本論】

新改訳2017版 9:24 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。

古代ローマ、ギリシャでは、各種の競技が非常に盛んに行なわれていたようです。

四年毎に、大きな話題となるオリンピックも、古代ギリシャ、アテネが、発祥の地、とされています。

注解書に依れば、コリントの町の郊外では、「イスムス競技会」が行なわれていたそうです。

ネットで調べてみましたが、直接ヒットしませんでした。

類似記事として、ウィキペデアに「イストミア大祭」がありましたので、興味のある方は検索してみてください。

「イスムス競技会」の時期になると、競技会の話題で盛り上がり、町中、興奮の坩堝状態であったようで、パウロは、コリントの人なら誰もが知っている競技会を話題に取り上げ、福音の真理を語るのです。

競技会の参加者、選手は、参加する事に意義があるとは考えず、賞を受けてこそ、即ち、参加する事と、賞を受ける事は別のものと考え、賞、即ち、一位を取る事を目指して、競技に参加していました。

参加者は大勢いても、一位を獲得するのは一人である事は、説明するまでもない、周知の事です。

各競技には多くの人が参加しますが、皆、一位を目指して参加するのであり、参加する以上、目標の一位を目指して走るように、同じように、信仰者は、信仰のゴールを目指して「走りなさい」、「走り続けなさい」」と、パウロは勧めるのです。

パウロは「救い」を「競技」に喩えてお勧めをし、「賞を受ける」事を「救われる」事にも喩えていますが、「賞を受けるのは一人だけ」は、「救われるのは一人だけ」の意味ではありません。

賞を受けるのは一人だけ」ですが、「救われるのは一人だけ」ではなく、皆がみな、救われます。

このパウロのお勧めは、信仰を持っている事に満足し、救われている事に安堵するのではなく、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から与えられた恵みに、精一杯、力一杯、応答して、与えられた状況、環境の中で、与えられた賜物を用いて、信仰のゴールを目指して「走り続けなさい」、の意味のお勧めなのです。

走り続けなさい」は、「戦い続けなさい」の意味が込められてもいる事を覚えておかなければなりません。

9:25 競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

競技をする人は、あらゆることについて節制します」。

競技により、節制するものや時期、方法などが、少しずつ違いましょうが、食べ物、飲み物を含めて、生活習慣、時間管理、ありとあらゆる事について、節制します。

肉体的な部分に関わる節制、メンタルな部分に関わる節制などなどに、取り組む姿は、ストイックな姿には、尊敬の念を生じさせますが、その節制の結果、競技において勝利を得た者に与えられるのは、一位と云う称号、名誉と「朽ちる冠」、即ち「松葉や月桂樹などで編んだ冠」であり、時が経てば、「朽ちる冠、枯れてしまう冠」です。

朽ちる冠」でさえ、目標になり得て、名誉、栄誉の象徴であるならば、「朽ちない冠」を約束されている信仰者は、救われた者は、霊的な意味を持つ節制に励むべきではないか、とパウロはお勧めをするのです。

パウロのお勧めする「節制」は、禁欲的な生活、慎ましい生活、質素な生活、無駄をなくした生活、などなどの意味ではありません。

パウロの言う、節制の意味は、「自由」の制限、配慮であり、特に、信仰の弱い兄弟、信仰の初心者に配慮して、偶像に献げた肉を食べる自由、或いは、偶像の宮で食する権利、などなどを放棄すべきではないか、放棄出来ない訳がないでしょう、と迫るのです。

「自由、権利」を制限するのが、放棄するのが、キリスト者の「節制」なのです。

9:26 ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。

パウロは、キリスト者の走り方、歩みは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を目指して走り続けるのであり、歩み続けるものとして捉え、描いています。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を目指すのであり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を見失った走りや歩みには、何の意味もありません。

しかし、得てして、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を見失った走りや歩みは非常に熱心で、ストイックで、人間味に溢れ、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を見失った走りや歩みには見えないので、問題なさそうに見えるのですが、其処が問題なのです。

また、キリスト者の拳闘は、敵を的確に捉えて、確実にダメージを与える打撃を繰り出すのであり、「空を打つような拳闘」、即ち、空振り、無駄な動き、体力の浪費はしない、と断じるのです。

しかし、得てして、派手に動き回り、繰り出す拳の手数が多ければ、優勢に見えてしまい、相手は恐れて、手が出ないのだ、と高を括ってしまうのではないでしょうか。

走りの目標は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様であり、人に見せたり、見せびらかすものではなく、黙々と走り続けるのであり、拳闘の相手は悪魔、サタンであり、決して音を上げず、執拗に、巧妙に戦いを仕掛けてきますから、弛まず、休まず、戦い続けなければならないのです。

この世の競技会の走りは、拳闘は、応援、歓声に力付けられ、勇気付けられ、励まされますが、信仰の走りは、信仰の拳闘は、孤独であり、応援もなく、逆に揶揄や非難、誹謗中傷を浴びる事のほうが多いのではないでしょうか。

何の力にも助けにもならない、観衆の事など、気にせず、当てにせず、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に見られている事こそ、励みとして、慰めとして、走り続け、戦い続けたいものです。

9:27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

競技会に於いての敵は、ライバルは、他の競技者ですが、信仰に於いての敵は、自分自身です。

パウロは、「自分のからだを打ちたたいて服従させます」と、言いますが、「服従させます」は、「奴隷として引き回す」の意味です。

自分の身体は、自分の意のままに出来るはずですが、意のままに行かないのが、思い通りに行かないのが、罪を持つ身の悲しさです。

人に厳しく、自分に甘くなり易い傾向は、誰しも持っているので、注意しなければなりません。

パウロの最後の言葉、「ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです」は、福音宣教者、教職者にとって、最も重要な事実を、深く理解した者の言葉です。

福音宣教者、教職者は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から与えられた使命に献身し、与えられた賜物を豊に用い、多くの犠牲、見える犠牲、見えざる犠牲を払って、世の人々の救いのために働きますが、それは、自身の救いの達成に努めているのであり、働きと、自身の救いの達成は、同じ次元の事なのです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から与えられた使命に忠実であれば有るほど、自身の救いに益しているのであり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から与えられた使命に邁進、注力する余り、自身の救いが疎かになる、と云う事はないのです。

【適応】

パウロのお勧め、「救いの達成のための節制」とは、なんでしょうか。

25節でお話したように、パウロのお勧めする「節制」は、禁欲的な生活、慎ましい生活、質素な生活、無駄をなくした生活、などなどの意味ではありません。

クリスチャンらしく、日曜日毎に教会に行く、礼拝を休まない。

毎日の日課として、聖書を通読する、デボーションを欠かさない。

率先して奉仕をする、喜んで金品を献げる、決めた事を実行する、云々、でもありません。

これらも大切であり、等閑(なおざり)にしたり、お座なりに、形だけにしてはなりませんが、大切なのは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との関係性を損なう事に対する節制です。

霊的な節制、と言い換える事も出来るでしょう。

ガラテヤ人への手紙513節、2017版は381ページ、第三版は370ページ、

5:13 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

5:14 律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

 5:15気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

5:17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

5:18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちは神の国を相続できません。

ポイントは、何かを制限するとか、断捨離するとかではなく、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と、「御霊によって歩みなさい」です。

与えられた自由を、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との関係性構築、維持継続のために用いる事、与えられた自由を行使する前に、信仰の弱い兄弟、信仰の浅い兄弟、異教からの改宗者・・・に配慮する事、与えられた自由を、福音宣教のために用いる事、それらのために、自身の思い、考え、判断を制限する事が、「救いの達成のための節制」なのではないでしょうか。

競技会参加選手のような、ストイックな、行動や嗜好の制限、節制ではなく、与えられた自由の制限、節制こそ、パウロの言いたい事なのではないでしょうか。

与えられた自由の制限、節制こそ、救いの達成につながり、福音宣教になるのであり、救いの達成と福音宣教は、同じ次元の事なのです。

生活そのものが、生活の全てが、生き方そのものが、福音宣教を意識した言動か否かが「救いの達成のための節制」なのではないでしょうか。

私たちは唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に召され、福音宣教のために遣わされているのであり、朽ちない冠を与えられるのですから、今までよりも度々、少し強く、少し長く、福音宣教を意識し、救いの達成に繋がる節制を心がけたいものです。

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聖書個所:コリント人への手紙第一10章1節~13

説教題:「歴史から学ぶ

【導入】

御子キリスト・イエス様の贖いによって、私たちの全ての罪は赦されています。

過去に犯した罪も、現在の罪も、将来犯すであろう罪も、全て赦されています。

だからと言って、罪に対して無頓着であってはなりません。

過去に犯した罪は、どうしようもありませんが、しかし、現在の罪は離れる事が出来ますし、終わらせる事が出来ますし、将来の罪は犯さないようにしなければなりません。

それは、自分自身の信仰の確立に益すると共に、更に大きく益するのは、信仰の弱い兄弟の助けになるからです。

そのためには、過去の事は過去の事として割り切り、切り捨ててはならないのです。

過去を振り返る事、過去の経験を学ぶ事、そして、現在、将来に活かす事がとても大切です。

コリント教会の一部の人たちは、洗礼を受けた事に安んじ、自己満足に陥り、与えられた自由を履き違え、好き勝手な、自由奔放な生活を送っていました。

過去から学ぼうとはせず、過去を捨てようともせず、過去をそのまま引きずっていたのです。

その代表的な例が、偶像に献げた肉を食する事や、偶像の宮で食する事です。

偶像に献げた肉を食する事や、偶像の宮で食する事は、御子キリスト・イエス様に対する信仰と、直接の関係はありませんが、偶像に献げた肉を食する事や、偶像の宮で食する事に慣れ親しんで来た事は、大きな影響を及ぼします。

自分自身の信仰の確立に害すると共に、信仰の弱い兄弟の躓きになるのです。

コリント教会の一部の人たちは、偶像に献げた肉を食する事に、何の躊躇(ためら)いもなく、偶像の宮で食する事に、何の呵責も感じなかったのです。

否、多少の躊躇や呵責や疑問を感じていたかも知れませんが、自分の信仰をひけらかすことに、救われている自由を誇示する事に意識が奪われ、自身の言動が間違っているのではないかと、深く考えようとはしなかったのです。

そこでパウロは、神の民に加えられたものとして、新しいイスラエルの群れに入れられたものとして、イスラエルの歴史から学び、同じ徹を踏まないように、古い生活と決別するように、とのお勧めを語るのです。

【本論】

新改訳2017版 10:1兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの父祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。

イスラエルの歴史は、過去の歴史として葬り去る性質のものではありません。

歴史から学ぶ事は、非常に重要ですから、これから語る事を、心して聞いて欲しいとの願いが、「あなたがたには知らずにいてほしくありません」との言葉に込められているのです。

1節は、出エジプトの出来事を表していますが、「」は、創造者なる神様臨在の印であり、「雲の下にいて」は、出エジプト記1321節、2017版は123ページ、第三版は119ページ、「13:21 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

13:22 昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった」、と記されている通り、創造者なる神様の民である事の印です。

次の、「海を通って行きました」は、出エジプト記1421節、2017版は124ページ、第三版は120ページ、「14:21モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。

14:22イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった」、と記されている通り、創造者なる神様臨在の印であり、創造者なる神様の民である事の印です。

これらの出来事は、古い生活、エジプトでの生活との別れであり、創造者なる神様との新しい歩みを象徴する、歴史的記録なのです。

どちらも、出エジプトの出来事であり、イスラエル人にとっては重要な出来事ですが、コリント教会の人たちにとっても、重要な意味を持っているのです。

何故ならば、この故事は、洗礼を指し示しており、洗礼を通して、古い生活、古い習慣と決別し、新しい生活へ切り替えなければならないからなのです。

10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、

エジプトを出たイスラエルの民は、「雲と海」とでバプテスマ、洗礼を受け、創造者なる神様との新しい歩みを始めます。

その歩みは、概念的、観念的な歩みではなく、実質的、具体的歩みです。

10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、

10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

4節までに「みな」と云う言葉が5回出て来ます。

信仰は個人的な事ですが、信仰生活は共同的なのであり、同じ体験、「モーセにつくバプテスマ」を共有する仲間と、生活を共に送る群れなのです。

その意味でも、仲間意識は重要であり、弱い兄弟に配慮する事は、共同体の使命でもあるのです。

共同体から、脱落者を出してはならないのです。

3節、「霊的な食べ物」は、「マナ」が与えられた事であり、出エジプト記16章、2017版は127ページ、第三版は123ページに記されています。

4節、「霊的な飲み物」は、荒野で、岩から水が与えられた事であり、出エジプト記17章、2017版は130ページ、第三版は125ページと、民数記20章、2017版は275ページ、第三版は267ページに記されています。

霊的な食べ物」と「霊的な飲み物」の出所は「キリスト」であり、これは、聖餐式で頂く「パンとぶどう酒」に対応する事を、パウロは暗示するのです。

荒野を旅したイスラエルの民は、直接、御子キリスト・イエス様を見る事はありませんでしたが、御子キリスト・イエス様は、雲の姿で、岩の姿で、イスラエルの民と関わり、恵みを、いのちを与え続けられ、荒野の40年の旅の祝福の源となってくださったのであり、新約時代、キリスト者は、直接、御子キリスト・イエス様を見る事はありませんが、御子キリスト・イエス様は、洗礼を通して、聖餐を通して、キリスト者と関わり、恵みを、いのちを与え続けられ、この世の信仰生活の祝福の源となってくださるのです。

10:5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

滅ぼす」の、元々の意味は「撒き散らす」であり、荒野に横たわる、夥しい数の、白骨となったイスラエルの民を現しています。

創造者なる神様との新しい歩みを始めても、御子キリスト・イエス様の恵みと祝福を受けても、それが約束の地に入る保証ではない事を暗示します。

頑なな生き方を改めないならば、約束の地に入る事は許されなかったのです。

新約時代、洗礼と聖餐の恵みを受けた事で安心し、過信する事のないように、との警告として受け止めなければなりません。

10:6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

コリント教会の一部の人たちは、知識を誇り、洗礼を受け、聖餐に与っている故に、何をしても自由であると、不品行、悪を貪るように行なっていましたが、不品行、悪を貪ったイスラエルの民が、約束の地に入る事はなく、荒野に屍を曝したように、キリスト者が、不品行、悪を貪ってはならないのです。

10:7 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

7節は、出エジプト記32章に記されている出来事を思い起こさせます。

2017版は157ページ、第三版は152ページです。

何をしても自由であると、外側がどんなに汚れても、内なる魂を汚す事はないとして、偶像の宮で、偶像礼拝者と飲食を共にしては、乱痴気騒ぎをしてはならないのです。

10:8 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

8節は、民数記25章に記されているシティムでの出来事の事かと思われます。

2017版は286ページ、第三版は278ページです。

人数に差異がありますが、概数として理解するのが良いと思われます。

7節と8節は関係深く、偶像礼拝に伴う祝宴は、しばしば、性的堕落の場となるのであり、偶像の宮は、神殿娼婦、神殿男娼と密接に関係しており、不品行、悪に陥り易いので、関わってはならないのです。

10:9 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。

9節は、民数記214節以降に記されているエドム人を避けた迂回行動の折の出来事の事かと思われます。

2017版は277ページ、第三版は269ページです。

民は、途中で我慢ができなくなり、神とモーセに逆らって」、不平不満をぶちまけ、「パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている」と、神の下さった天よりのパン、マナを罵る言葉まで発してしまったのです。

10:10 また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。

10節は、指導者に対する不平不満を扱っています。

出エジプト記1524節、162節、173節、

民数記111節、142節、1641節、

申命記127節、などです。

指導者は重責を担っており、粉骨砕身、神と民とに仕えているのですから、指導者の働き、苦労のための、執り成し祈りを担うのが、民の役割であり、指導者批判や不平不満は、自らに滅びを招く行為であるとの認識を持たなければなりません。

10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

パウロは、イスラエルの出来事を記す旧約聖書を、その時代、その地域に限定した事として見ているのではなく、全ての時代、全ての地域に適応する、普遍的な、公同的な事として、また、唯一真の神様の御旨を現す啓示として見ており、「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓」と理解しているのです。

教訓とすべきは、コリント教会の一部の人たちのみならず、全てのキリスト者です。

そのために、聖書が書かれたのであり、現代にまで、語り伝えられている理由です。

10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

自らの立場と状態、即ち、知識を誇り、洗礼を受けている事を誇る人たちに対して、人間的な保障などと云う、不確実なものにではなく、唯一真の神様の恵み、憐れみこそ確実であり、信仰をもって、唯一真の神様に頼り、縋るように、お勧めするのです。

11節、12節は、厳しい警告の言葉ですが、13節は、深い慰めの言葉です。

10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

コリント教会の人たちが、様々な試練を経た事は、また、異教からの改宗者であり、旧来の慣習との戦いがあり、葛藤を体験した事は容易に想像出来ますが、しかし、それらは、コリント教会のみに生じた、コリント教会の人たちのみの、特別な事ではありません。

どの教会でも起こり得る事であり、誰もが経験するところであり、「人の知らないものではありません」から、驚くには値しません。

寧ろ、古い生き方から離れるためには、戦いがあり、葛藤があってこそ、苦しみ、悩んでこそ、新しい生き方に入れるのではないでしょうか。

戦いのない、葛藤のない、苦しみ、悩みのない時こそ、警戒しなければならないのです。

何処かで妥協していないか、何かを譲歩していないか、この世と折り合いを付けてはいないか・・・。

必要不可欠、不可避な戦い、葛藤、苦しみ、悩みですが、誰もが似たような戦いを経験し、或いは、同程度の葛藤、違う苦しみを味わい、程度の差こそあれ思い悩むのです。

しかし、これらの戦い、葛藤、苦しみ、悩みは、これらを乗り越えるために、次に進むために、一人で、孤独で立ち向かわなければならない訳ではありません。

しかし、鼻で息をする者、人に頼ってはなりません。

頼るべきは、「真実な方で」ある、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様だけです。

最も確かな事実であり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に信頼の基盤を置く事が、試練、戦い、葛藤、苦しみ悩みを乗り越える秘訣です。

唯一真の神様ご自身の真実こそ、御子キリスト・イエス様の真実こそ、コリント教会の人たちの、否、全てのキリスト者、教会が立つべき確信の基盤なのです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様こそ、各自が自分の立場に留まって、戦い続ける忍耐の、原動力であり、「脱出の道」への道標なのです。

唯一真の神様は、人の能力、力量、忍耐を超えた試練を与えはしません。

唯一真の神様は、「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます

コリント教会の、コリント教会の人たちの、偶像崇拝を拒否する戦いに、真剣に取り組む人たちにとって、強い励まし、大きな慰めであると同時に、真剣な戦いを怠る人たちの弁解の余地を奪い、悔い改めを促す言葉でもあるのです。

【適応】

新約の時代に生きる私たちにとって、旧約聖書に記されている、縁もゆかりもないイスラエル人の歴史に、中東での出来事に何の意味があるのでしょうか。

新約聖書は、愛や赦しについて記されているため、耳触りが良く、受け入れ易く、時代的にも、文化的にも、現代に繋がっているので、親しみを感じ、説教で扱われる事も多いのですが、一方、旧約聖書は、律法や規則の羅列が多く、非常に取っ付き難く、神の怒りや呪い、裁きや懲らしめについて繰り返し記されているため、受け入れ難く、敬遠され勝ちで、時代的にも、文化的にも、隔絶間を免れず、説教で扱われる比率も、低くなる傾向を否めません。

しかし、旧約聖書と新約聖書の比率は、凡そ3:1ですから、その意味を考えなければならないのではないでしょうか。

旧約聖書の重要性を侮ってはならないのです。

旧約、新約、両聖書から学ばなければならず、もっともっと、旧約聖書から学ばなければならず、旧約聖書に親しまなければならず、イスラエルの歴史を、対岸の火事、としてはならず、我が身の事として読まなければ、我が身に置き換えて読まなければならないのです。

テモテへの手紙第二316節、2017版は428ページ、第三版は416ページ、

3:16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

3:17神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

これはパウロの言葉ですが、ここで「聖書」は、旧約聖書の事であり、現代の私たちは、新約聖書も含めて、バランスよく読み、学ぶ必要があるのです。

イスラエルの歴史は、自分勝手な生き方をした民の、罪に塗れた、失敗の歴史であり、恥ずかしい歴史ですが、赦しが繰り返され、希望がはっきり語られ、示されていました。

コリント教会の人たちは、自分勝手な生き方をしており、罪と汚れを離れず、弱い兄弟を躓かせるような、パウロの叱責を受けるような生き方ですが、救われていたからこそ、救いに相応しい、信仰の完成を目指す生き方を強く勧められたのです。

私たちも、信仰者として情けない部分があり、信仰者として相応しからぬ性質を持ち、弱い兄弟の躓きになる事をしてしまいますが、間違いなく、救われているのであり、救われている者に相応しく、聖書に親しみ、イスラエルの歴史を学び、使徒の働きを学び、信仰の完成を目指す生き方を聖書から学び、学んだ事を実践して行こうでは、一人として脱落者を生む事なく、皆で御国を目指そうではありませんか。

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聖書個所:コリント人への手紙第一10章14節~22

説教題:「主の食卓と悪霊の食卓

【導入】

現代に生きる私たちであり、キリスト者ですが、過去の歴史、旧約聖書に記されている、イスラエル民族の歴史から学ぶ意義は大きく、もっともっと旧約聖書に学び、親しむ必要性があり、このことについては、前回確認したところです。

そして、学んだところを信仰生活に活かし、偶像礼拝に注意し、偶像礼拝を警戒し、偶像礼拝は絶対に避けなければならないのです。

コリント教会の一部の人たちは、偶像の神は存在しないので、偶像に献げた肉には何の意味もなく、偶像の宮で食する事にも何の問題もないと考えていましたが、パウロは、偶像に献げた肉を食する事と、主の聖餐とを対比させて、偶像礼拝の本質を明らかにします。

【本論】

新改訳2017版 10:14 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。

コリント教会の人たちのみならず、現代に生きる私たちキリスト者も、イスラエル民族の歴史を学ばなければならず、取り巻く現実の社会環境の中で、異教の宗教的慣習、行事が何の疑問や抵抗もなく、普通に行なわれている環境の中で、宗教的色彩は薄れ、通過儀礼として積極的に執り行なわれている環境の中で、キリスト者は、細心の注意を払って、偶像礼拝を避けなければならないのです。

異教の宗教的慣習、行事は、自然に、巧妙に入り込んで来ています。

慣れ親しんで来た慣習、行事に、異教的な意味が含まれていないか、隠されていないかを、慎重に見極めなければならないのです。

完全に排除するのは難しくても、意識を持つ事は、注意を払う事は重要です。

10:15 私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。

パウロは、コリント教会の人たちに、知識と知恵とを誇る人たちに、賢さを自負するなら、その賢さに相応しい正しい認識、判断をするよう迫ります。

皆が、普通に行なっていても、皆が、問題視しなくても、基準は、聖書の教えであり、霊的指導者の判断です。

パウロは、御子キリスト・イエス様から任命を受け、派遣された教職者として、霊的指導者として、権威を持って語ります。

最初に、主の聖餐の意味を語ります。

10:16 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

神をほめたたえる賛美の杯は」を、口語訳聖書、新改訳聖書第三版は「私たちが祝福する祝福の杯は」と訳していますが、

祝福の杯は」と云う表現は、食事の最後に飲むぶどう酒に付いての、ユダヤ人の一般的表現で、食事会をお開きにする時に、お互いを祝福する言葉で締め括ったのでしょう。

古くからの慣習、お互いの祝福を、神への讃美に昇華させる事は、キリスト者の務めではないでしょうか。

さて、「キリストの血にあずかること」とは、「キリストの血との交わり」の意味であり、「キリストのからだにあずかること」とは、「キリストのからだとの交わり」の意味であり、単に御子キリスト・イエス様と一緒にぶどう酒を飲み、パンを食べる関係になった、御子キリスト・イエス様とすっごく近しい、親しい関係になった、程度の意味ではありません。

キリストの血にあずかること」とは、「キリストのからだにあずかること」とは、御子キリスト・イエス様と私たちとが一体になった事、全人格的な、切り離せない関係になった事を意味します。

元々の意味は、人間同士の、お互いの祝福を意味していた行為ですが、御子キリスト・イエス様の十字架に与った者にとって、食事には、御子キリスト・イエス様を褒め称える意味が、新たに加えられるのです。

即ち、食事は、腹を満たす事ではなく、御子キリスト・イエス様を褒め讃える事と直結しているのであり、御子キリスト・イエス様を褒め讃える行為の一つとしなければならないのです。

10:17 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。

16節では、御子キリスト・イエス様と、キリスト者の一致が宣言されましたが、17節では、御子キリスト・イエス様と、群れとしてのキリスト者との一致、教会の一致が宣言されています。

即ち、御子キリスト・イエス様にあっての、キリスト者相互の一致の宣言なのです。

御子キリスト・イエス様の身体であるパンを食する事によって、御子キリスト・イエス様との繫がりが構築され、キリスト者同士の繋がりが構築されるのです。

10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。

18節は、旧約時代の、祭壇に献げた供え物と、それを食する者との関係を思い起こさせるお勧めです。

祭壇への供え物を食する事に対しては、厳格、詳細な規定が設けられ、祭壇への供え物を食する事が出来るのは、祭司たちとその家族に限られ、祭司たちとその家族は、祭壇に献げられた供え物を通して、創造者なる神様と交わり、結び付き、神聖、特殊な関係に入れられたのです。

新約時代に入り、聖餐のぶどう酒とパンを食する者は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様と交わり、結び付き、神聖、特殊な関係に入れられるのです。

祭壇への献げ物、供え物には、深い意味があるのであり、「祭壇の交わりにあずかる」とは、創造者なる神様と交わり、結び付き、神聖、特殊な関係に入れられる、と云う事なのです。

パウロは、この大原則を踏まえて、偶像礼拝、偶像に献げた肉に話を繋げます。

10:19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

偶像の神は存在しません。

存在しないものに何を献げても、意味はありません。

存在しないものに献げた物を食しても、何の意味もありません。

存在しないものとの交わりも、結び付も考えられません。

その意味で、コリント教会の一部の人たちの考えは正しいのですが、しかし、存在しないものを、あたかも存在するかのように錯覚させ、人々を唯一真の神様、御子キリスト・イエス様への礼拝、交わり、結び付きから引き離すもの、即ち、悪霊の存在を無視し、その力を侮ってはなりません。

10:20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

知識と知恵を誇る人たちを迷わせ、弱い人たちを誘い、偶像礼拝をさせる悪霊は存在し、その力は強力、巧妙、継続的です。

偶像の神は存在しない、だから偶像に献げたものに意味はない、偶像に献げたものを食しても問題はない、偶像に汚される事はない、遊女と交わろうと、魂を汚す事はない、と主張しても、偶像の宮での饗宴と、それに伴う不品行によっても、何らの影響を受ける事はない、と誇っても、その主張、誇りこそ、悪霊との交わりに入れられ、悪霊に捉えられ、悪霊に支配されている事の証拠なのではないでしょうか。

知識と知恵は、驕り、高ぶる事にもなりますが、謙り、身を低くする事にも役立ちます。

自信や矜持(きょうじ、プライド)は、悪いものではありませんが、度が過ぎるのは問題でしょう。

忠告や訓戒を受け入れなくなっている時点で、自己吟味や冷静な、客観的な見方が出来なくなっているならば、悪霊の影響下にあると言えるのではないでしょうか。

悪霊に付き入らせる隙を、一瞬でも与えないために、知恵や知識を正しく用いるなら幸いです。

知恵や知識は、偶像礼拝に関わる行為を警戒するために与えられているのであり、知恵や知識を用いて、少しでも、悪霊と関わるような事から離れなければならず、悪霊と交わってはならないのです。

10:21 あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

主の杯を飲み」、「主の食卓にあずかり」は、主キリスト・イエス様との交わり、結び付きを確固たるものとする行為であり、「悪霊の杯を飲み」、「悪霊の食卓にあずかる」は、悪霊との交わり、結び付きを確固たるものとする行為です。

正反対の意味の行為であり、どちらかを選択しなければなりません。

中途半端、どっち付かずは認められません。

主キリスト・イエス様が定められた聖餐に与る者は、偶像礼拝、悪霊との交わりに繋がるあらゆる行事から、完全に分離されなければならないのです。

杯を飲み」、「食卓にあずかる」事の、意味がよく分からなくても、既成事実であり、実績であり、繰り返されれば、受け入れ、承認した事となります。

杯を飲み」、「食卓にあずかる」行為が、「」に結び付くのか、「悪霊」に結び付くのかを、深く考えなければならないのです。

知恵や知識を誇るからには、知らなかった、は通用せず、責任が伴うのであり、申し開きをしなければならません。

10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。

知恵や知識を誇る、コリント教会の人たちですから、充分な理解と、判断の下で、「悪霊の杯を飲み」、「悪霊の食卓にあずかる」と云う行為を行なった、と見做されるのは当然ではないでしょうか。

即ち、意識的に、行なったのであり、その根底には、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様への侮りがあり、挑戦、反逆、と見做されても当然でしょう。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様は、寛容なお方であり、忍耐強く、哀れみに富んでおられますが、必ず「報いるお方」である事を忘れてはなりません。

善には善を持って報い、悪には悪を持って報いられます。

唯一真の神様は、怒られるお方であり、妬まれるお方です。

聖書は多くを割いて、唯一真の神様の「ねたみ」について、記しています。

一部の紹介、聖書箇所のみを紹介しておきましょう。

出エジプト記3414節、民数記2511節、申命記2920節、3216節、21節、詩篇7858節、795節。

パウロは、コリント教会の一部の人たち、知恵や知識を誇り、力の強い事を誇り、自称する人たちを意識して、念を押します。

主よりも強い者なのですか」。

そして、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の力を見くびり、侮り、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を恐れない者、裁きを恐れない者、妬みを恐れない者に警告を与えます。

主よりも強い者なのですか」。

パウロは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との、新しい関係に入れられ、新しい恵みの中に生かされ、与る教会は、キリスト者は、自らの立場を弁え、偶像礼拝、不品行を徹底的に拒絶し、離れ、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の前に生きる必要性を強調し、お勧めするのです。

【適応】

コリント教会の一部の人たちの、偶像に献げられた肉を食する事、偶像の宮で食事をする事に対する考えの中に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に対する反逆であるとか、挑戦であるとか、見くびる気持ち、侮る気持ちは、微塵もなかったのではないでしょうか。

偶像は存在しないのだから、偶像に献げられた肉には、何の意味もない、偶像の宮で食しても、何ら問題はない、との軽い気持ちであり、偶像に献げられた肉や、偶像の宮で食する事を問題視する人々に対する、知恵や知識、優位性のひけらかし程度の、他愛ない気持ちであったかも知れませんが、悪魔は、その軽い気持ち、他愛ない気持ちを利用し、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から引き離すのであり、意識させずに、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に敵対させるのです。

教会の中に混乱を起させ、教会の中に分裂、対立を引き起こさせるのです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に対する、明確な反逆であるなら、気が付き、関わる事を避けるでしょう。

しかし、知恵や知識のない人たちを侮る気持ち、揶揄する気持ち、優位性を味わいたいだけの軽い気持ちからであるなら、罪悪感も少なく、大きな抵抗もなく、偶像に献げられた肉を食べ、偶像の宮で食してしまうのではないでしょうか。

しかし、動機は、軽い事、他愛のない事であったとしても、行き着く先には、重大な結論が待っています。

偶像に献げられた肉や、偶像の宮で食する事に大した意味がないならば、主の食卓の意味もまた、無意味な事となってしまうのではないでしょうか。

主の食卓には、御子キリスト・イエス様を象徴するパンやぶどう酒には、大した意味がない、と云う事になるのではないでしょうか。

主の食卓に与らなくても、別に問題はない、私の信仰に影響を与えない、と云う事になるのではないでしょか。

聖餐式の式辞の言葉を紹介しましょう。

聖餐は、主イエス・キリストが、十字架にかかられる前夜、弟子たちと最後の食事をとるとき、パンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与え、

また、杯を取って弟子たちにお与えになり、主が再び来られる日までこれを守るようにと定められたものです。

それは、私たちの罪のために十字架にかかり、贖いの死を遂げられたキリストを示す、新しい契約です。

みことばに、「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになる」

また、「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになる」と勧められています。

いま、主の御前に自らを深く顧み、悔い改めて、信仰をもって聖餐にあずかりましょう。

この聖餐にあずかるとき、キリストは、私たちのうちに親しく臨んでおられます。

またこの聖餐は、私たちが、主の愛のうちに一つであることをあらわすものです。

以上、式辞に記された聖餐の大切な意味が、信仰の根幹に関わる重大な意味が、なし崩しにされてしまうのです。

ですから、悪魔は、手を変え、品を変えて、悪霊の食卓に誘うのです。

悪魔は、巧妙に、主の食卓の聖さを汚し、込められた意味を引き摺り下ろし、意味のない事として扱うように仕向けるのです。

偶像に献げた肉を食する事には、偶像の宮で食する事には、悪魔の策略が隠されているのですから、悪魔の食卓とは、完全に縁を切らなければならないのです。

信仰の根幹、永遠のいのちに関わる事だからです。

悪魔の巧妙な策略に騙されないように、惑わされないように、私たちが、主の食卓の聖さに与り続け、信仰が守られ続けられるよう願ってやみません。

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                                               2021-5-23礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一10章23節~11章1

説教題:「何をするにも神の栄光のため 

【導入】

コリント教会の一部の人たちの、知識や知恵を誇り、身分や地位を誇る人たちの、「自由」の好き勝手な解釈、自分たちに都合の良い解釈からの言動を発端として、コリント教会には混乱や分裂が起こり、御子キリスト・イエス様の教会として相応しくない状態に陥っていました。

パウロは、信仰の弱い人たち、信仰の浅い人たち、信仰を持たない人たちに配慮した言動こそが、キリスト者の言動の基本である、と語って来ました。

キリスト者は、何にも拘束、束縛されず、自由なのですが、その自由は、自分のために用いるのではなく、他者、弱者のために用いるべきであり、それが、自由の正しい用い方である、否、私たちの主なる御子キリスト・イエス様の喜ばれる用い方なのだ、と語るのです。

コリント教会の一部の人たちは、偶像の神は存在しないので、偶像に献げた肉には何の意味もなく、偶像の宮で食する事にも何の問題もないと考えていましたが、パウロは、偶像に献げた肉を食する事と、主の聖餐とを対比させて、偶像礼拝の本質を明らかにしました。

パウロは、偶像に献げた肉を食する事について、偶像の宮で食事をする事について、原則を示して来たのですが、続けて、一般生活、日常生活への適応について語ります。

【本論】

新改訳2017版 10:23 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

23節前半は、612節の繰り返しです。

パウロは、「すべてのことが許されている」との主張を肯定的に受け止めつつ、キリスト者の言動は、第一に、「益になる」か否かを基準とすべきである、との原則を示します。

すべてのこと」をする自由が与えられ、「すべてのこと」をする権利を持っているが、自身にとって益になるか否かを判断基準とすべき事、他者にとっても益になるか否かを判断基準とすべきだ、との原則を示します。

その「益」とは、物質的益や、金銭的益、社会的、この世的益ではなく、霊的益である事は、言うまでもありません。

第二に、「人を育てる」事になるか否かを基準とすべきである、との原則を示します。

人を育てる」を、新共同訳聖書は、「私たちを造り上げる」と訳し、口語訳聖書、新改訳聖書第三版は「人の徳を高める」と訳しています。

すべてのこと」をする自由が与えられ、「すべてのこと」をする権利を持っているが、自身の生き方が、他者の生き方の模範、手本となり、道徳的にも、人格的にも、霊的にも成長する事が期待されているのです。

コリント教会の一部の人たちは、「すべてのことが許されている」と主張し、欲望に身を委ねた訳ですが、それは、欲望の奴隷、欲望に支配されている事に他ならないのであり、欲望の奴隷になるべきではない、欲望に支配されてはならないと説くのです。

欲望に支配された言動で、自分勝手、身勝手な言動で、人が育つでしょうか。

キリスト者は、「すべてのこと」をする自由が与えられ、「すべてのこと」をする権利を持っているのですが、キリスト者は、「キリストのからだなる教会の形成のため」を意識した言動を心がけなければならないのです。

益になる」、「人を育てる」の具体例、一般生活、日常生活への適応例が、24節以下です。

10:24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。

他者への配慮は、自由の制限、制約、不自由の意識的、消極的選択なのではなく、御子キリスト・イエス様に意識的に倣う、積極的な自由の行使なのです。

キリスト者の自由の意味、性格が明確に現されている、お勧めです。

ほかの人の利益を求め」る生き方は、御子キリスト・イエス様ご自身が、身を以って示された生き方です。

罪人のためにこの世に生まれて来られ、罪人のために生き、罪人のために死なれたのです。

キリスト者は、御子キリスト・イエス様に倣う生き方が求められているのです。

10:25 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。

以前の学びで、お話しましたが、肉食は、現代のように普通の事ではなく、特殊な事であり、市場に出回り、売られている肉は、偶像に供え、献げられた肉である場合が多かったのです。

偶像は存在せず、実在しない偶像が「肉」を汚す事はありません。

偶像に献げられた肉のみならず、あらゆる食物が人を汚す事はありません。

マルコの福音書719節、2017版は80ページ、第三版は79ページ、「「それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた」。

使徒の働き109節、2017版は253ページ、第三版は247ページ、「10:9ペテロは祈るために屋上に上った。昼の十二時頃であった。

10:10彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。

10:11 すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。

10:12 その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。

10:13 そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。

10:14 しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

10:15 すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」」。

すべての食物はきよい」のであり、出所を詮索する必要はなく、何の肉かを調べる必要もなく、何を食べても問題はないのです。

10:26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。

26節は、詩篇241節からの引用です。2017版は954ページ、第三版は926ページ、「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」。

全ての物は、生き物は、創造者なる神様が、唯一真の聖い神様が造られた物であり、良いものであり、人間にとって有用な物であり、人間を汚すものは何一つありません。

ローマ人への手紙1414節、2017版は320ページ、第三版は311ページ、「私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません」。

以上、パウロは、個人的な、日常生活についての指針を語りましたが、続けて、他者との関わり、社会生活における指針を語ります。

10:27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。

キリスト者は、この世と隔絶し、一切の交渉を断絶して生活出来る訳ではありません。

原始的な生活であれば、全てを自給自足するしかなかったでしょうから、この世と隔絶した生活は可能であったかもしれませんが、パウロの活躍した時代は既に、現代は更に、この世は複雑に関係していて、世と全く関わらずに生活するのは不可能です。

ご近所付き合い、商売上の付き合い、などなどで、未信者の家、異邦人の家、異教徒の家に招かれたり、訪問したり、未信者の家、異邦人の家、異教徒の家で食事をする場面も、日常的に起こって来ます。

そこで、パウロは、他者との関わり、社会生活上の指針を与えます。

未信者に、異邦人に、異教徒に、家に招待されたなら、招待を受ける事を認め、招かれた先で食事が出されたなら、食べる事を認めるのです。

勿論、偶像の宮への招待や、偶像の宮での食事を禁じるのは、言うまでもありませんし、積極的に招待を受け、積極的に食事をせよ、とは命じていません。

出来る限りは、誘惑となるような場を避け、誤解されるような行動は避けるのが賢明です。

誤解を招きやすい状況下では、応じざるを得ない時には、よくよく注意しなければならないのです。

しかし、招きを受け、食事が出されたなら、出所を詮索する必要はなく、何の肉かを調べる必要もなく、何を食べても問題はない、との指針を与えるのです。

10:28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。

招待者か、或いは、招かれた人の中に、「これは偶像に献げた肉です」と「知らせてくれた人」がいたなら、「知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません」と命じます。

知らせてくれた人」は、偶像に供え、献げた肉には、何かしらの意味、御利益があると信じており、心配して知らせてくれたのであり、知らされながら食べるなら、偶像の御利益、偶像に献げた肉の御利益を認めたように受け止められかねません。

このような場合には、食べてはならないのです。

25節、27節、28節、29節で「良心」と訳しているギリシャ語は、「自覚、確信、意識」などの意味合いを持っていますので、訳し難いのですが、25節、27節の「良心の問題を問うことをせずに」は、「調べ上げたり、確認したりせず、気にしないで」、と意訳するのが、28節「良心のために」は、「(知らせてくれた人)の思いに配慮して」、と意訳するのが、理解の助けとなるでしょう。

食べてはいけ」ないのは、「知らせてくれた人」の偶像に対する意識を、確信へと助長させないためです。

半信半疑の思いを、確信へと変化させないために、「食べてはいけ」ないのです。

10:29良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。

何事であっても、確信を持っているなら、その人は、確信を持っていない人に対して、充分な配慮をすべきです。

私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか」は、「私の行動が、他の人の「確信や意識」の支配を受ける事はない、非難されることはない」、と意訳するのが、理解の助けとなるでしょう。

10:30 もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。

創造者なる神様に感謝するなら、何を食べても問題、差し支えありません。

感謝の祈りが前提にありますが、これは、初代教会のキリスト者たちが、食前には感謝の祈りを献げていた事を示す記録です。

唯一真の神様へ、感謝の祈りを献げて食べるならば、唯一真の神様から許可を得ている訳ですから、何を食べても非難される筋はないのです。

但し、その地方、文化で食する事を禁じている食べ物であったり、忌み嫌われる特殊な食べ方、生食であったり、踊り食いであるような場合には、十分な配慮が必要でしょう。

以上、パウロは、偶像に献げられた肉を食べてよいか否かに対する原則と、一般社会生活における適応、具体的答えを語って来ましたが、その主旨を語ります。

10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

パウロは、特定の行為、即ち、「食べるにも飲むにも」を例題として、キリスト者と教会の生き方、言動の原則を示し、指針を語りましたが、キリスト者と教会の生き方、言動の原則は、「何をするにも」であり、全生活に於いて、個人的な日常生活全般、仕事でも、家庭生活でも、買い物でも、余暇の過ごし方でも、趣味趣向でも、遊びでも、嗜好でも、信仰生活でも、他者との関わり、この世の生活、社会生活でも、友人との付き合いでも、「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と、命じます。

自分のしたい事をし、満足や達成感、或るいは優越感を味わうのが、キリスト者の目標であってはなりません。

キリスト者の目標は、唯一真の神様、創造者なる神様、聖い神様を世に知らせ、その素晴らしさを現す事です。

一挙手一投足で、言動の全てで、唯一真の神様、創造者なる神様、聖い神様の素晴らしさを現す事です。

10:32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

口で言うのは簡単ですが、行なうのは非常に難しい事です。

個人的な日常生活全般、この世と関わる生活全般は、殆ど無意識で、唯一真の神様、創造者なる神様、聖い神様を意識しないでも行なえるからです。

常に、唯一真の神様、創造者なる神様、聖い神様を意識するのは、行動がぎこちなくなるでしょうし、気疲れてしまうのではないでしょうか。

無理はしないで、完璧、完全を目指すのではなく、折に触れて、唯一真の神様、創造者なる神様、聖い神様を意識し、自然と身に付くのを待てば良いのではないでしょうか。

ユダヤ人、ギリシヤ人」は、この世の人たちとの関わり、「神の教会」は、キリスト者、キリスト教会との関わりであり、どんな形であっても、誰に対してであっても、「つまずきを与えない」ように、配慮しなければなりません。

キリスト者、キリスト教会の常識が、この世で非常識となっていないかを、意識し、配慮しなければならないのです。

キリスト者、キリスト教会では、「感謝します、ありがとうございます」と云う言葉を多用しますが、状況、時と場合に依っては、この世の人たちは、違和感、抵抗を覚える場合もあるんだ、と云う事を知っておく必要がありましょう。

10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。

パウロの究極の目的は、「自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせ」る事を第一としていると、断言します。

コリント教会の人たちは、否、私たちキリスト者、キリスト教会は、このパウロの模範に倣うべきなのです。

自分の利益を優先すれば、他人の利益は後回し、二の次、蔑ろになりましょう。

他人の利益を優先してこそ、キリスト者、キリスト教会に相応しい行為なのです。

11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

パウロの勧告が、常に力強いのは、具体的なのは、語ったように生きているからであり、実践の裏づけ、経験があるからであり、模範となる生き方だからです。

理想を語るのは、容易くても、適応は、実践した者にしか語れません。

そして、パウロは、御子キリスト・イエス様の生き方に倣っている、とも断言します。

私たちの多くの、一般の、弱いキリスト者には、御子キリスト・イエス様の模範に倣う生き方は、ハードルが高過ぎましょう。

パウロに倣うのも、相当にハードルが高い事ですが、御子キリスト・イエス様の模範に倣う生き方よりは、倣い易いのではないでしょうか。

そして何より、聖霊様の助けがあるのであり、御子キリスト・イエス様の執り成しがあるのですから、決して見倣えない生き方ではないのです。

【適応】

キリスト教会では、ペンテコステ、聖霊降臨を記念しますが、私たち、罪人の内に、聖霊様が入ってくださる事を、留まってくださる事を、何て素晴らしい事だろうね、本当に良かったね、で終らせてしまってはなりません。

その結果どうなったか、が大事なのです。

聖霊様が私たちの中に住まわれるのは、私たちが平安に暮らし、安穏に生きるためではありません。

苦しみを乗り越えるためでも、悲しみを癒すためでも、罪の世で聖く正しく生きるためでもありません。

聖霊様が私たちの中に住まわれるのは、31節「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すため」です。

自分の知恵や知識で、力や働きで「神の栄光を現す」事は出来ません。

自分に栄光を帰する事になり、高慢になり、躓く事に、墓穴を掘り、落ち込む事に、滅びる事になりましょう。

聖霊様が私たちの中に住まわれるのは、聖霊様の助けと導きにより、32節、誰に対しても「つまずきを与えない」言動をするためであり、33節「人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め」る生き方をするためなのです。

以上は、この世に対するキリスト者、キリスト教会の働きですが、内に目を転じて、教会での礼拝は、唯一真の神様の招きではありますが、単なる「お客様」になるのではありません。

礼拝を通して、如何に唯一真の神様の栄光を現すかを、会衆として、如何に唯一真の神様の栄光を現すかを考えなければならないのです。

ぼーっと礼拝していてはいけないのです。

礼拝全体を、奉仕の一環、と考え、奉仕者の一人である、との自覚を持たなければなければなりません。

説教は、「自分の利益」を求めるためではなく、「人々が救われるために、多くの人々の利益を求め」て語られるのであり、新来会者、初心者に気を配り、助けてこそです。

説教が始まると同時に「お休みモード」に入るようでは、「つまずきを与えない」に反する事になるのではないでしょうか。

当日は、何の担当になっていなくても、欠員を補う心構え、補佐の引き受けを心がけて、礼拝に出席しなければなりません。

それでこそ、「神の栄光を現す」礼拝、説教となり、「神の栄光」が現れるのではないでしょうか。

日本のキリスト教会が、歴史に相応しく成長してないのは、集うキリスト者の多くが「お客様」だからではないでしょうか。

教会に対して、責任を持たず、「神の栄光を現す」意識に欠けているからではないでしょか。

キリスト者は、何処の教会員であっても、何処の教会に出席していても、「お客様」意識であってはならず、何時でも、何処でも、「神の栄光を現す」意識で生きていかなければならないのです。

その助け、導きために、聖霊様は私の内に住んでくださっているのです。

聖霊様の助け、導きを頂き、共に「神の栄光を現す」者として歩もうではありませんか。

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聖書個所:コリント人への手紙第一11章2節~16

説教題:「礼拝における身だしなみ 

【導入】

コリント教会の一部の人たちの、知識や知恵を誇り、身分や地位を誇る人たちの、「自由」の好き勝手な解釈、自分たちに都合の良い解釈からの言動を発端として、コリント教会には混乱や分裂が起こり、御子キリスト・イエス様の教会として相応しくない状態に陥っていました。

この混乱の原因を作っていたのは、教会の中心メンバーである男性でしたが、女性にも広がり、混乱の度合いは、エスカレートする一方だったようです。

世界は、社会は、人間の罪ゆえに歪められてしまい、創造者なる神様が定めた秩序から外れ、男性が支配する社会、男性の専横する社会となり、男尊女卑の傾向、封建的傾向が強くなっていた時代です。

そこに、御子キリスト・イエス様の教えが普及し、創造者なる神様が定めた秩序に戻りつつあり、教会から男女平等、自由が広がるはずでしたが、教会は、人間の罪の影響を受け、男女平等、自由を履き違え、混乱は、深刻化する一方だったのです。

そこで、パウロは、教会の秩序を取り戻すべく、悪しき部分を改めるべく、お勧めをしますが、厳しく糾弾、叱責するだけではなく、良いところを認め、評価もします。

【本論】

新改訳2017版 11:2 さて、私はあなたがたをほめたいと思います。あなたがたは、すべての点で私を覚え、私があなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを堅く守っているからです。

パウロは、「私はあなたがたをほめたいと思います」と、コリント教会の人たちに呼び掛けますが、この呼び掛けは、今までの、コリント教会の一部の人たち、福音を誤解したり、曲解したりし、コリント教会内に混乱を招き、憂慮すべき、危惧すべき現状を引き起こしていた人たちではありません。

コリント教会の中には、パウロの伝えた教えを、「伝えたとおりに」、パウロの意図通りに理解し、適応し、忠実に、「堅く守ってい」る人たちがいたのであり、パウロは、コリント教会の中で、少数派ではあったでしょうが、頑張っている人たちを認め、賞賛し、励ましを与えます。

好き勝手に振舞い、混乱を起こす人たちを正すのも重要ですが、獅子身中の虫を取り除く事も、一刻を争い、優先すべき事ですが、忠実な人たちを、頑張っている人たちを励ますのは、それ以上に重要です。

少数派でも大切にする事こそ、頑張りを認める事こそ、正当な評価こそ、良い部分があるのを認める事こそ、それを公表する事こそ、何よりの力付け、励ましになるのではないでしょうか。

続けて頑張れるのであり、諦めないで続けられるのです。

堅く守ってい」るとの、評価ですが、「堅く守って」の意味は、福音の本質、原則、教理に於いて、の意味であり、礼拝、公の集まりに関する事柄は、教会の秩序、規律に関する事柄は、各地の教会の実情に相応しく、かなり自由に行なわれていたのであり、しかし、特定の地域教会に限定されない、根本的な一致、原則に於ける一致があり、外れてはいない、の意味です。

各地の教会には、裁量権が与えられており、福音の本質、原則に反しない限り、教理を逸脱しない限り、自由が認められていたのです。

これからパウロが問題にするのは、当時の女性の、礼拝出席の習慣です。

当時、礼拝において、女性は、頭にかぶり物を着けるのが一般的であり、習慣でした。

しかし、コリント教会の女性の一部は、「キリスト者は福音による救いと恵みに関して平等である」との教えを誤解し、男性と同じように、頭にかぶり物を着けずに、礼拝に参加したのです。

そこで、パウロは、この問題を扱うに際し、教会の秩序について、教会には序列がある事を指摘します。

11:3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

教会の秩序、序列は、先ず、創造者なる、唯一真の神様、次に、御子キリスト・イエス様、次に、被造物の頭なる男性、そして、女性へと続くのです。

これは創造の秩序であり、これが、「神、キリスト、男、女」の根本的な関係、序列なのであり、礼拝の序列に関わるのです。

かしら」は、「支配、支配権を持つ」や「起源、源」の意味を持つ言葉であり、単純な上下関係、従属の関係性を示しているのではなく、創造の秩序、根源性を示しているのだ、と云う事です。

男性、女性は、平等だし、同等だが、同質ではなく、これを無視した、男性と女性の混同、序列を超越した行為を戒めるのです。

パウロは、最初に、男性について語ります。

11:4 男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。

おおっていたら」を、新共同訳聖書、口語訳聖書は「物をかぶる」と訳し、新改訳第三版は「かぶり物を着けていたら」と訳しています。

おおって」、或いは「かぶり物」と訳されている言葉ですが、頭全体を覆うベール、ターバンのようなもの、ではなかろうか、と考えられています。

パウロは、礼拝に於いてのかぶり物は、男性に相応しくない、と断じます。

その理由一、頭は自由のしるしであり、神の像と栄光を現すので、隠すのは如何なものか、です。

第二に、頭を御子キリスト・イエス様に見立て、御子キリスト・イエス様以外に、上に権威を戴いているのは、如何なものかです。

第三に、かぶり物によって、御子キリスト・イエス様の栄光を隠している、です。

第一の理由が支持されるようですが、かぶり物は、当時、権威に従属する印の意味があり、教会は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕える場であり、隷属の印は、不要でしょう。

11:5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは髪を剃っているのと全く同じことなのです。

当時、女性は、「頭にかぶり物を着け」るのが一般的であり、習慣でしたが、コリント教会の一部の、熱狂的な女性が「かぶり物を着け」ずに、「祈りや預言を」していたのです。

これは、前述の、「教会は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕える場であり、隷属の印は、不要でしょう」の意味を理解した上での、「かぶり物」の拒否ではなく、創造の秩序、序列を無視した、上辺だけの、表面的な模倣であり、更に、長い髪を持つ女性の虚栄心、見せびらかしの思いが根底にあるのではないか、と危惧する警告です。

長い髪、それ自体が悪い訳ではなく、長い髪を持つのは構わないが、礼拝の場、「祈りや預言」の場では、不必要であり、不必要なモノを礼拝の場、「祈りや預言」の場に持ち込む事を禁ずるお勧めなのです。

礼拝、「祈りや預言」に不必要なモノは、長い髪だけではありません。

礼拝、「祈りや預言」に不相応な、飾り物、アクセサリー、持ち物、衣服、他にも、過ぎたる化粧や香水なども、不要です。

11:6 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

髪を切り、頭を剃る」は、奴隷の女、不倫の女、遊女などの印だったそうです。

申命記2110節、2017版は352ページ、第三版は340ページ、「21:10 あなたが敵との戦いに出て行き、あなたの神、主がその敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えてたとき、

21:11 その捕虜の中に姿の美しい女を見て、恋い慕い、自分の妻としようとする場合には、

21:12 彼女をあなたの家の中に連れて行きなさい。彼女は髪を剃り、爪を切り」、と記されています。

髪を切り、頭を剃る」は、屈辱的な事でありますが、「かぶり物」の拒否は、それと同等の意味があるのではないでしょうか、と女性の感情に強く訴えるのです。

11:7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。

パウロは、創世記126節、27節、2017版は2ページ、第三版は2ページ、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」、を思い起こさせ、主張の根拠を示します。

男性は、被造物の頂点にある故に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を礼拝する時に、「かぶり物」を着けるべきではなく、男性は、造られた姿、本来あるべき姿で、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に栄光を帰するために、「かぶり物」を着けるべきではなく、男性は、「かぶり物」を着けない事が、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の権威に従う姿勢の表明の印なのです。

一方、女性の「かぶり物」の場合は、少し違います。

8節、9節に、男性と女性の創造の経緯、男性と女性の関係、男性と女性の誕生の起源と目的が明確に記されています。

11:8男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。

女性は、男性を基にして造られたのであり、創世記221節、22節、2017版は3ページ、第三版は3ページ、「神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。

2:22神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。」

11:9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。

女性は、男性の助け手として造られたのです。

創世記218節、2017版は3ページ、第三版は3ページ、「また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」」。

創造の経緯から、男性と女性の相違を明らかにし、秩序がある事、序列がある事を明らかにします。

しかし、相違は、尊卑ではなく、補完のためであり、完全を目指すための仕組みです。

序列は、優劣ではなく、秩序であり、混乱を回避するための制度です。

11:10 それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。

御使いたち」は誰を、10節は何を教えているのでしょうか。

1、堕天使と見て、堕天使の誘惑に陥らないように、

2、礼拝の秩序を見守る、コリント教会の指導者、或いは男性信者の誘惑とならないように、

3、創造の経緯の初めからを目撃し、男女の立場、状態が正しく維持されているかを見守っている御使いたちのために、

4、公同礼拝に参加し、秩序を見守っている人たちへの証しのため、などが上げられますが、何れにしましても、女性は「かぶり物」を着ける事で、権威に、秩序に、序列に従う者である事、女性は、男性に優先しない事、女性は、男性と同質ではない事、女性は、男性に秩序として従属する事、を表明するのです。

11:11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。

女性は、男性に従属するのが秩序であり、序列ですが、従属が、隷属と誤解されないように注意しなければなりません。

男性と女性は、相違しながら、互いに依存し、助け合い、義務と責任によって固く繋がる存在です。

キリスト者の男女関係、教会の男女関係は、この関係であり、従来の、旧来の、支配と隷属の関係ではないのであり、パウロはその真意を明確にいたします。

11:12 女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。

男性と女性が、唯一真の神様の御旨としての、秩序と序列を認識し、唯一真の神様に従属する者である事、男性と女性の関係性を正しく認識し、序列を受け入れる時、男性も女性も、正しい関係の位置付けがなされ、高慢からの解放、支配的隷属から脱し、真の謙遜の道、お互いを労わり、助け合う関係が生まれるのです。

11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。

パウロは、コリント教会の人たちの、知識と知恵を誇る人たちの、判断能力を認めると同時に、自律をお勧めし、相応しく判断する事、責任ある判断をするように命じます。

多少の欠点や問題があっても、判断、決断させる事、責任を持たせる事は大切です。

責任を持たせなければ、責任感は生まれず、実践しなければ、責任能力は育ちません。

小さな問題の対処を経験してこそ、大きな問題にも対処出来るようになるのです。

責任を回避してばかりいてはならず、知識と知恵に相応しく、積極的に判断する事を勧め、命じているのです。

そして、13節で重要なのは、公同の礼拝の場で、女性が「祈る」事を前提とし、是認している事です。

女性の積極的な礼拝参加が、性差別のない礼拝が、女性に責任ある働きが委ねられ、男女共働参加の礼拝のあり方が示唆されており、画期的な事なのです。

11:14 自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、

11:15 女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。

パウロは、当時の男女の髪型の、一般的習慣を語ります。

紀元前五世紀頃から、ユダヤ、ギリシャ、ローマの地域の男性は、人種に関わらず、ギリシャ人の間から始まった習慣に倣って、兜を被る都合からでしょうか、衛生上の観点からでしょうか、髪を短く刈っていたそうです。

一方、女性は、どの地域の、どの人種も、共通して長い髪であったようです。

パウロが、詳しく論じているのは、強く論じているのは、当時、コリントには、性的倒錯の傾向が見られ、男性が長い髪をしていたり、女性が短い髪をしていたりする事があったようで、男女の違いを明らかに主張する必要を感じたから、と思われます。

パウロは、男性の短髪、女性の長髪を、創造の秩序に従う事だとし、創造の秩序に従うとき、男性も女性も、其々の使命を、最高に果たす事が出来るのです。

11:16 たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。

パウロの主張、論述に同意せず、尚も頑なに反論、強硬に反発する人たちに対して、パウロは、一般的な「習慣」、「神の諸教会」の習慣に訴えて、これ以上の説得を続けません。

ある程度までは、諦めず、説得を試みるのは必要ですが、聞く耳を持たない人、立場を弁えない人、自論を押し通す人には、何を言っても無駄であり、教会内に対立構造を作らないため、混乱の素を撒かないため、パウロは、教会の主、御子キリスト・イエス様に委ね、お任せするのです。

【適応】

教会の問題は、創造者なる神様の御旨や、聖書の教えからの、明らかな逸脱だけではありません。

社会、地域の習慣や、文化とも深く関わっています。

パウロは、創造者なる神様の御旨を、聖書の教えを、深く掘り下げ、根本的な洞察を得、社会の習慣と比較、検討し、教会への適応を提案するのです。

今日の聖書箇所では、女性が「かぶり物」を着けるか否か、から発展し、男性の長髪、女性の短髪、刈り込みまでもが扱われました。

パウロの活躍した当時は、大問題となりましたが、現代、髪型は自由であり、男性のロングヘア、女性のショートヘアに、問題性はまったくありません。

説教題を「礼拝における身だしなみ」としましたが、服装も自由です。

教会内には、この世の流行、習慣が、何の妨げもなく入り込んでいます。

しかし、全く気にする必要のない流行、習慣と、注意した方が良い流行、習慣と、注意しなければならない流行、習慣と、決して入れてはいけない流行、習慣、排除しなければならない流行、習慣があるのであり、見分けなければなりません。

単純、単一な社会であれば、見分けるのに、然程の苦労をしなくて済むでしょうが、複雑、多様化した社会では、区分けは非常に難しいと謂わざるを得ません。

創造者なる神様の御旨や、聖書の教えを基本、背景としつつ、其々の文化、時代にあった、教会の実情に沿った、具体的適応が必要とされるのです。

20年前の考え方、10年前に実践した事が、否、数年前の事が、現代では適応出来なくなっている事が、多々あるのではないでしょうか。

同じプロテスタントの教会でも、保守的、伝統的な教会と、最近の教会とでは、ずいぶん違いがあるのではないでしょうか。

同じ保守的な教会でも、派によって様々に違いがあり、それが、プロテスタント教会の良さではありますが、戸惑う事も少なからずありましょう。

大事なのは、何時でも、何処でも、何をするにも「神の栄光を現す」意識でしょう。

特に、礼拝ではこの意識が重要です。

加えて、礼拝の益になるか、礼拝の妨げにならないか、他の人の信仰の益となるか、他の人の信仰の妨げとならないか、との配慮でしょう。

派手な服装であったり、煌びやかな装飾であったり、奇抜な髪型であったなら、人の目を引き、礼拝の集中を妨げるでしょう。

礼拝堂の飾り付け、ポスター、看板が、礼拝を邪魔するようでは問題です。

礼拝に誘うのはBGMではなく、聖霊の導きであり、聖霊の働きを邪魔するようなものは全て問題です。

髪型で礼拝するのでも、服装で礼拝するのでもありません。

罪人の献げる、貧しい礼拝ですが、せめて、質素でも清潔な、静かでも堅実な、簡素でも心のこもった礼拝を献げたいものです。

ヨハネの福音書424節、2017版は183ページ、第三版は179ページ、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」。

聖霊様の助け、導きを頂き、共に「神の栄光を現す」者として、「神の栄光を現す」礼拝を献げようではありませんか。

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