2021-6-6礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一11章17節~22

説教題:「コリント教会の聖餐の実態

【導入】

コリント教会の一部の人たちの、知識や知恵を誇り、身分や地位を誇る人たちの、「自由」の好き勝手な解釈、自分たちに都合の良い解釈からの言動を発端として、コリント教会には混乱や分裂が起こり、御子キリスト・イエス様の教会として相応しくない状態に陥っていましたが、これは、コリント教会特有、独特の出来事ではありません。

何処の教会でも起こり得る事であり、この混乱の原因を作っていたのは、教会の中心メンバーである男性でしたが、教会内の有力者、実力者、古参などの言動は、老若男女を問わず、良くも、悪くも、強い影響力があるのであり、自覚と自重が求められましょう。

教会内の有力者、実力者、古参は、お手本となるような言動を執る者でありたいものですが、お手本となるような言動を執るのだ、と強く意識しないと、即ち、言動を自制しないと、自然なままでは、混乱を招くような、批判されるような言動になってしまいます。

さて、当時の社会は、主人と使用人、自由人と奴隷が混在していた時代であり、教会内にも、信徒たちも、主人と使用人、自由人と奴隷が混在していました。

身分差は歴然であり、身分の差から来る待遇の差、処遇の差も、特別問題視される事もなく、それが教会内にも入り込んでいましたが、パウロは、教会内で、歴然とした身分の差があり、その身分差が放置されている事を問題視し、問題提起を致します。

問題提起は、さらに大きな、教会の成長、前進に繋がる布石的な提起なのです。

前回は良いところを認め、評価するところからお勧めを始めましたが、今回、パウロは、「ほめるわけにはいきません」との評価から、お勧めを始めます。

【本論】

新改訳2017版 11:17 ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。

何回かお話して来ましたが、教会で大事なのは、私たちの言動の基本は、何時でも、何処でも、何をするにも「神の栄光を現す」事です。

教会には各種の「集まり」があり、礼拝の集まり、奉仕の集まり、食事の集まり、などなどがありますが、それらの集まりでも、「神の栄光を現す」のでなければなりません。

しかし、コリント教会の現実は、「神の栄光を現す」事になっていないばかりか、「神の栄光を」傷つけている、軽んじている、「害になっている」と批判されるような状態だったのです。

教会の本来の機能は、唯一真の神様の御ことばが語られ、唯一真の神様に対する讃美が献げられ、祈りが献げられ、聖礼典が執り行われる事です。

加えて、集まりは、規模、目的を問わず、御子、主キリスト・イエス様を中心とする集まりでなければなりません。

これらが正しく行なわれる時、各自が、其々、以前より勝った者となり、教会全体は成長し、「神の栄光を現す」のです。

この機能が損なわれたなら、外見は、形式は教会でも、少なくとも唯一真の神様の御子、主キリスト・イエス様の教会ではありません。

教会内の有力者、実力者、古参が中心となった教会は、○○牧師の教会、△△さんの教会であり、それでは神の栄光を現す」事は出来ません。

さて、教会は、この世の縮図であり、種々様々な職業に従事する人たち、老若男女が集うところであり、主義主張の違いがあり、価値観の違いもありましょう。

妥協出来る事もあれば、譲れない事もありましょうが、教会の本質は、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様を信じる人たちの集まりであり、職業の違い、老若男女の違い、主義主張の違い、価値観の違い、そして、身分の違いを超えて、集まり、「神の栄光を現す」のです。

しかし、コリント教会では、身分の違いを当然の事として、変えようとはせず、変える必要を感じない人たちが、混在を拒否していたようです。

11:18 まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。

パウロは、「あなたがたの間に分裂があると聞いています」と切り出し、「ある程度は、そういうこともあろうかと思います」と続けますが、これは、情報が、信頼出来る人たちからの報告である事を示唆すると共に、分裂が生じる事は、唯一真の神様の摂理であり、唯一真の神様の許しの中で起こっている事を認める発言であり、分裂が生じる事自体は、決して驚くべき事ではない事、想定される事だ、との含みのある言葉です。

教会は、御子キリスト・イエス様のお身体ですが、繋がる各部分である肢体は、各器官は、現役の罪人の集まりであり、理想的な状態ではありません。

罪人の集まりである教会には、問題は起こり得る、否、問題が起こって当然であり、問題が、表面化してこそ、顕在化してこそ、対応も、対処も、対策も取れるのです。

その点で、問題を問題として認識しない姿勢、態度こそ、問題の矮小化と、過小評価とを注意しなければなりません。

問題の正しい認識、把握、共有化こそ、解決の第一歩でしょう。

11:19 実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。

パウロは、コリント教会に起こっている問題を、18節では「分裂」と、19節では「分派」と、表現していますが、「分裂」、破れ、裂け目が起こり、「分派」、学派にまで発展し、合い争っている状況を現しているのです。

分裂」「分派」は、ないに越した事はないとお思いでしょうが、パウロは、「本当の信者が明らかにされるため」ならば、「分裂」「分派」は必要なのであり、「やむを得」ない事だ、と肯定的に受け止めます。

あくまで、「本当の信者が明らかにされるため」との条件付で、「分裂」「分派」を認めているのであり、全ての「分裂」「分派」を認めているのではありません。

物事を明らかにするためには、明確な真実だけが必要であり、憶測や推測、予測、そして、妥協や忖度は不必要です。

意見の違いがあり、「分裂」が起こるのは、「分派」が生じるのも、やむなし、と云うところですが、意見の違いが尾を引いて、蟠(わだかま)りが生じ、交わりが中断されたり、交流が断絶されたりするなら問題です。

討論をし、激論となっても、感情的になっても、怒りや憎しみを持ってはならず、討論が終わったら、冷静を取り戻し、関係も元に戻さなければなりません。

しかし、コリント教会では、何が原因であったのかは定かではありませんが、意見の違いが尾を引いて、蟠(わだかま)りが生じ、一部の人たちの間では、交わりが中断され、交流が断絶してしまったようです。

加えて深刻だったのが、顕著に現れ、問題となったのが、身分の違いから生じた、交わりの中断、交流の断絶です。

当時の社会は、主人と使用人、自由人と奴隷が混在していた時代であり、教会内にも、主人と使用人、自由人と奴隷が混在していました。

身分差は歴然であり、身分の差から来る待遇の差、処遇の差が教会内にも入り込んでいました。

11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。

コリント教会では、「主の晩餐」、即ち、聖餐に先立って、食事会、愛餐会が行なわれていたのですが、食事会、愛餐会は、教会の大切な集まりの一つであり、交わりの場であり、分かち合い実践の場であり、施し実践の場です。

富める者と貧しい者が、貧富の差なく、同じ物を食べるのです。

自由人と奴隷が、身分の差なく、一緒に食べるのです。

主の晩餐」、聖餐に与れない者が、排除される事なく、教会の集まり、交わりに加えられるのです。

食事会、愛餐会は、続く「主の晩餐」に繋がるのであり、とても大切な教会の集まり、交わりなのです。

その食事会、愛餐会が、「主の晩餐」に繋がる事になっていなかったのです。

外面的、形式的には、教会の集まり、交わりの体を為していても、真の意味で、教会の集まり、交わりになっていなかったのです。

11:21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。

コリント教会では、富む者も、貧しい者も、其々に食べ物を持ち寄り、一つテーブルで、分け合って食べる習慣があったようですが、富む者は、遅れて来る者、多くは仕事のために遅れて来る者を待たず、食べ物を持って来る事の出来ない貧しい者、奴隷信者に分け与える事をせず、自分の持って来た食べ物を、当然の権利として、自身で食べ、飲んでと、貧富の差による分裂、身分の差による分裂が起こっていたのです。

パウロは、コリント教会の、貧富の差による分裂、愛の欠如に根差す分裂の現状を鋭く指摘し、批判し、「主の晩餐」に繋がらない食事会、愛餐会は、「神の栄光を現す」事にならず、世間の物笑いになっている、と指摘するのです。

11:22 あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。

パウロは、富む者たちに詰め寄ります。

高級料理、珍味、年代物のワインを教会に持って来て、これ見よがしに食べ、飲んでいるけれど、それは、自分の家ですべき事ではないのか。教会の集まりを、交わりを私物化、私有化する事に他ならない、と指摘するのです。

教会を、自分の家のように、親しく感じるのは、居心地良く過ごせる場と思えるのは素晴らしい事ですが、教会を自分の家の延長とするのは、自分の家との区別が曖昧なのは、如何な事でしょうか。

自分の家ですべき事を、教会で行なっては、教会に持ち込んではならず、私的食事は、家で摂り、教会での公的食事、食事会、愛餐会では皆で分かち合うのです。

食事会、愛餐会に差し出した食べ物は、もう、自分のものではありません。

自分の手から離れ、御子キリスト・イエス様の所有物となったのであり、イエス様から分け与えられるのですから、イエス様に感謝すれば良いのです。

食事は肉体に必要不可欠な物であり、大切だが、教会での食事会、愛餐会は、交わりが中心であるべきであり、交わりをないがしろにしてはならない、と断じるのです。

教会での食事会、愛餐会は、食べるのが目的ではなく、何を食べるのか、何を用意するかが中心になっているようでは、「ほめるわけにはいきません」でしょう。

食べ物以外も、献品、献金も同じ考え方です。

御子キリスト・イエス様に献げたのであり、イエス様の所有物になったのであり、イエス様の所有物として、管理し、利用しなければなりません。

先にお話しましたが、教会の本来の機能は、唯一真の神様の御ことばが語られ、唯一真の神様に対する讃美が献げられ、祈りが献げられ、聖礼典が執り行われる事です。

加えて、信仰告白がなされ、信仰告白を実践する事です。

これらを纏め、要約するなら、唯一真の神様を愛し、隣人を愛する事です。

教会の集まりも、これと同じです。

自分の空腹を満たすための飲食が、これ見よがしな飲食が、教会の私的利用が、「神の栄光を現す」事、唯一真の神様を愛し、隣人を愛する事でしょうか。

信仰のない者、信仰の弱い者に対する配慮と同様に、貧しい者、身分の低い者も、御子キリスト・イエス様との交わりの中で、教会で、常に、正当な立場を与えられるべきなのです。

教会では、キリスト者の交わりでは、貧富の差が、身分の差が影響力を持ってはならないのです。

【適応】

食事会、愛餐会は、続く「主の晩餐」に繋がるのであり、とても大切な教会の集まり、交わりなのです。

コリント教会では、その食事会、愛餐会が、「主の晩餐」に繋がる事になっていなかったのです。

コリント教会での、食事会、愛餐会の具体的問題は、貧富の差と身分の差が、信徒を分裂させ、交わりが断絶され、分かち合いがなされていない事です。

きっと、友人知人は、貧富の差、実分の差を意識せず、暖かく歓迎するけれども、関係の薄い人は、誰かが相手してくれるだろう、と任せてしまう。

パウロは、食事会、愛餐会が、いい加減に行なわれているのは、聖餐の意味の理解不足、勝手な解釈にある、と見抜きます。

現代、多くの教会では、礼拝の中で聖餐式が執り行われ、礼拝後に、食事会、愛餐会が開かれると思いますが、問題は、順番ではなく、意味です。

主の晩餐」の意味は、救い主、御子、主キリスト・イエス様との交わりに与る事であり、食事会、愛餐会の意味は、救い主、御子、主キリスト・イエス様との交わりに入れられた者同士の交わりです。

主の晩餐」の実践が、食事会、愛餐会であり、食事会、愛餐会は、「主の晩餐」の適応なのです。

貧富の差、身分の差を乗り越え、意見、主義主張の違いを乗り越え、救い主、御子、主キリスト・イエス様に赦された者は、赦し合い、救い主、御子、主キリスト・イエス様に受け入れられた者は、受け入れ合い、一つ食卓を囲み、一つ皿から分け合うのです。

そこに、何のわだかまりや敵意、分裂、分派が存在してはならないのです。

主の晩餐」を、形式どおり、粛々と、厳かに行なっていても、その前後の食事会、愛餐会が、仲良し同士、気の合う者同士の食事会、愛餐会であり、分派仲間の、結束を固める目的の食事会、愛餐会であって、貧しい人、忙しい人、奴隷などを、思い遣る事がないなら、意見の違いからの、分裂を放置し、論争相手を排除するなら、「主の晩餐」は、空しいと謂わざるを得ません。

今日の説教では、「主の晩餐」を扱いましたが、「礼拝」も然りです。

ヤコブの手紙22節、2017459ページ、第三版446ページ、「あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。

2:3 あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、「あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」と言うなら、

2:4自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。

まあ、こんな、あからさまな差別はないでしょうが、似たような事が行なわれてはいないでしょうか。

式次第に従い、粛々と、滞りなく礼拝が進められて行く事が大事なのではありません。

この世を引きずって、どたばたしながら、礼拝に突入するのでは、その礼拝は空しいと謂わざるを得ません。

唯一真の神様に対する畏れがあれば、ぺちゃくちゃ饒舌(おしゃべり)は出来ず、咳(しわぶき)一つない静寂、厳粛さの中で持つ礼拝こそ、唯一真の神様の前の姿勢、態度なのではないでしょうか。

別に、教会では笑ってはいけないとか、咳をするのはけしからん、饒舌(おしゃべり)禁止を、と云っているのではありません。

人柄を知りたければ、友達を見よ、或いは、親を見よ、って言いますが、教会の実態を知りたければ、重要項目を注視するのではなく、周辺項目に注視すべきであり、礼拝の前後、聖餐の前後の様子に、その教会の実態が現れるのです。

一事が万事であり、何を大事にしている教会か、何を優先させる教会か、が大事なのであり、些事に、教会の実態が現われて来るのではないでしょうか。

何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、何を飾るか、それらが話題であるなら、何ともなく、乱雑な雰囲気が漂っているなら、その程度の教会だ、と云う事を、問わず語りで証明しているのです。

そして、些事に現れた予兆を放置するなら、教会の聖さ、本質を失い、瓦解の憂き目に遭うのは必須でしょう。

教会の聖さ、質は、礼拝、聖礼典の執行以前に、些事に、言動に現れているのです。

パウロに褒められるような、唯一真の神様に受け入れられる、「神の栄光を現す」聖餐、礼拝を献げようではありませんか。 

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聖書個所:コリント人への手紙第一11章23節~26

説教題:「聖餐式の聖定とその意味

【導入】

コリント教会の人たちは、御子、主キリスト・イエス様の愛と交わりを象徴する「主の晩餐」、即ち「聖餐」を当然の権利として受けていたのですが、コリント教会の一部の人たちは、当時の社会に存在する身分の差、貧富の差を教会に持ち込み、遅れて来る人たちを待つ事をせず、食べ物を持って来る事の出来ない人たちに、分け与える事をせず、使用人や奴隷と同じ食卓に着く事や、同じ皿から取り分ける事を嫌い、と、御子、主キリスト・イエス様の愛と交わりを、否定するような行動を取っていました。

詳細については、前回の説教をご参考になさってください。

現代日本では、身分の差はなくなりましたが、完全になくなっている訳ではありません。

在日の人たちは、日本国籍を持っているにも関わらず、罵詈雑言を浴びせられ、地方によっては部落差別が、今でも歴然として残っています。

日本国民だけではありません。

出入国管理法・難民認定法と、その執行には、大きな問題が含まれており、これらは人権問題として取り上げ、取り組まなければならない問題です。

また、貧富の差も決して小さくはなく、ワーキングプア、子どもの貧困、生活保護などは、社会問題として取り上げ、取り組まなければならない問題です。

教会の活動は、社会と切り離されたものであってはなりません。

教会で行なわれている事は、社会に強い関係性を持っているのであり、そのように理解しなければなりません。

その意識がないと、現実離れした、形式だけの、形骸化した宗教、自己満足の、独り善がりの宗教になってしまいます。

パウロは、コリント教会における「主の晩餐」、即ち「聖餐」の問題点を明らかにし、「主の晩餐」、即ち「聖餐」の起源と、意味と、守り方について、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、

パウロは、「主の晩餐」、即ち「聖餐」は、「主から受けたこと」であり、御子、主イエス様を起源とする事を宣言します。

パウロが伝えはしましたが、主から受けたこと」であり、パウロ発案の聖礼典ではない事を、パウロの功績ではない事を、パウロがどんな形ででも、賞賛を受ける事がないようにする宣言です。

主の晩餐」、即ち「聖餐」は、御子、主イエス様の権威によって、教会に与えられた聖礼典です。

教会においては、御子、主イエス様の権威の他に、何ら並ぶべき、尊ばれるべき権威がない事を、はっきりと明示し、宣言します。

主の晩餐」、即ち「聖餐」を執り行うのは、牧師ですが、牧師の権威や権限で行なっているのではなく、牧師は、御子、主イエス様から委託を受けて、「主の晩餐」、即ち「聖餐」を行なっているに過ぎないのです。

これは、「洗礼」も同じです。

著名な牧師、偉大な牧師が、厳かに執り行う「聖餐」や「洗礼」と、無名の牧師、新米牧師の執り行う、たどたどしい「聖餐」や「洗礼」は、全く同じであり、差異はないのです。

聖礼典を執り行う牧師は、道具に過ぎないのであり、道具の優劣は、聖礼典の効能に何ら影響を与える事はありません。

渡される夜」とは、俗に云う「最後の晩餐」の夜であり、イスカリオテのユダの、恐ろしい裏切りが行なわれた夜であり、恐ろしい裏切り行為を通してもたらされ、実現された、贖罪の御業に繋がる、「過越の祭り」が行なわれた夜の事です。

御子、主イエス様は、三年間の公生涯に於いて、何回かの「過越の祭り」を執り行なわれましたが、この日の「過越の祭り」は、特別な「過越の祭り」であり、後々の「聖餐式」となるのです。

11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

パンを取り」、「感謝の祈りをささげ」は、福音書からの引用ですが、三福音書、2017版、第三版で少し違いがあります。

ルカの福音書は2217節、2017版は165ページ、第三版は163ページですが、

感謝をささげ」と訳し、

2017版を見てみると、マタイの福音書は2626節、56ページ、マルコの福音書は1422節、98ページですが、「神ほめたたえて」と訳し、

第三版を見てみると、マタイの福音書は2626節、56ページ、マルコの福音書は1422節、第三版97ページですが、「祝福して」と訳しています。

この違いは、聖書記者の違いと、ギリシャ語の持つ意味の、訳出の違いであり、聖書の信頼性を損ない、疑うものではありません。

パウロの引用がルカの福音書の訳に近いのは、パウロとルカが親しかった事と関係しているかも知れません。

パウロは、ルカから伝え聞いた、御子、主イエス様の言葉を引用したのではないでしょうか。

パウロは続けて「これはあなたがたのための、わたしのからだです」との御子、主イエス様の言葉を引用しますが、これは、決して、パンが御子、主イエス様の身体に変わる、の意味ではありません。

パンが見えない変化を遂げ、パン自体に不思議な力が生じ、御子、主イエス様に対する信仰の覚醒剤になるとか、パワー補給になるのではありません。

パンはパンでしかありません。

しかし、深い意味が込められており、それが次に続く、わたしを覚えて」との御子、主イエス様の言葉の引用です。

これは、御子、主イエス様の生前の姿、行われた事を思い起こす機会とする、と云う意味ではありません。

御子、主イエス様との交わりと一致の約束に基づいて、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の、人類の救いに対して持たれる深い愛のご計画を思い巡らす機会とし、御子、主イエス様によって罪を赦され、救われた者としての自覚と、与えられた賜物と機会を生かすべき、しもべとしての自覚のお勧めなのです。

11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

ここでは「」の意味が宣言されますが、「杯は」罪の赦しと、創造者にして支配者なる神様との交わりに入れられた「契約」のしるしです。

」、即ち「ぶどう酒、ぶどうジュース」自体に、罪を赦す力がある訳でも、創造者にして支配者なる神様との交わりを可能にする効能がある訳でもありません。

」、即ち「ぶどう酒、ぶどうジュース」は、御子、主イエス様の「流された血」を象徴するのであり、御子、主イエス様の「流された血」こそ、創造者にして支配者なる神様との和解の、唯一の道であり、創造者にして支配者なる神様との和解のしるしであり、創造者にして支配者なる神様との和解は、御子、主イエス様の流された血によって、確立されるのです。

新しい契約の民として生きる決意へと導かれるのであり、それを「覚え」るのであり、一ヶ月の罪の積み上げを“0”にするのでも、罪を洗い流すのでもありません。

赦し、和解は、漠然としたものではなく、現実の恵みであり、それを体験する機会として「パン」と「」を拝領するのです。

主の晩餐」「聖餐」において、「パン」と「」が陪餐者の五感を通して、確かに現存するように、「パン」と「」は、御子、主イエス様の、裂かれた身体と流された血を想起させ、時空を越えて、霊的に、陪餐者の信仰に対して、真実、且つ現実の存在となり、信仰に益するのです。

11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

パンを食べ、杯を飲む」「たびに」であり、この「主の晩餐」「聖餐」が、繰り返し行なわれる事が前提である事が明らかです。

「洗礼」は生涯、一度限りですが、「主の晩餐」「聖餐」は、繰り返し行なわれる必要があります。

救いは、新しく生まれるのは、一度の「洗礼」で完成しますが、信仰生活は連続、継続であり、度々、御子、主イエス様の、裂かれた身体と流された血の意味を確認する必要があるのです。

主の晩餐」「聖餐」は、創造者にして支配者なる神様の恵みと真実を、自らのものとして受け入れ、覚えて終わり、ではありません。

陪餐者がなすべき事は、積極的に取り組むべき事は、御子、主イエス様の死を、死の意味を告げ知らせ続ける事であり、宣教のことばを伴う聖礼典を執行し続ける事であり、御子、主イエス様の再臨、終末を待ちつつ、聖礼典を行い続ける事です。

御子、主イエス様の死を思い、慎み深い感謝と、御国の完成を待望する心で陪餐に与るべきなのです。

【適応】

教会に於いて、信仰生活に於いて、洗礼がゴールであり、ゴールした後に、定期的に、信仰維持のための栄養補給として、聖餐に与るのではありません。

こんな思い込みがあるかも知れませんが、間違っています。

洗礼はゴールではなく、キリスト者として新しく生まれて、スタートするのです。

キリスト者とされた意味は、お客様として、聖餐に預かり、教会の席を埋めていれば、席を暖めていれば良いのではありません。

主が来られるまで主の死を告げ知らせる」のです。

洗礼を受け、キリスト者とされてから、直ちに、であり、御子、主イエス様が再臨されるまで弛まず、です。

勿論、洗礼を受けた直後は、知識もなく、何を語っていいかの判断も付きませんが、キリスト者がなすべき事は、積極的に取り組むべき事は、御子、主イエス様の死を、死の意味を、告げ知らせ続ける事です。

御子、主イエス様の死は、ユダヤの宗教支配者層の陰謀で、姦計で、濡れ衣を着せられ、非業の死を遂げられた、ではありません。

御子、主イエス様の死は、創造者にして支配者なる神様のご計画であり、創造者にして支配者なる神様のご計画は、御子、独り子、主イエス様を殺す事によって、人間が生来持つ罪、謝罪や行ない、金品では償いようのない罪を贖う事であり、罪の贖いによって、罪人である人間を、罪の無い者、義人と見做す事であり、義人と見做す事で、創造者にして支配者なる神様との交わりを回復させる事です。

この「主の死」と、その意味を「告げ知らせる」のは、主に、牧師や宣教師、伝道師が担いますが、牧師や宣教師、伝道師の働きは、時間的にも、空間的にも、限定的です。

牧師や宣教師、伝道師は、招かれなければ、家の中に、会社に、組織に入っていけません。

「宗教お断り」「宗教はちょっと・・・ね」の社会、風潮の中で、集会チラシや聖書を配布しても、受け取ってくれません。

路傍伝道、公園伝道は、出来ない、許されない時代です。

牧師や宣教師、伝道師が、未信者、見ず知らずの人と、新しく、親しい関係を作るのは非常に難しい事です。

その、謂わば、時間的、空間的隙間を埋めるのは、隈なく「主の死」と、その意味を「告げ知らせる」のは、信徒に委ねられた働きです。

マルコの福音書1615節、2017版は105ページ、第三版は103ページ、全世界に行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」、これがキリスト者の使命です。

しかし、その働き、使命は、ノルマがある訳ではなく、責任を負わされる働きではなく、苦労を背負い、苦痛を味わう働きではなく、大きな喜び、しみじみとした深い喜び、永続する喜びを与えてくれる働きなのです。

頑張ったり、無理したりする必要はありません。

出来る事を、出来る範囲で、で良いのです。

そのために、主の晩餐」「聖餐」に与るのです。

主の死」と、その意味を「告げ知らせる」働きの主体は、御子、主イエス様であり、聖霊様です。

私たちキリスト者は、主の晩餐」「聖餐」を通して、御子、主イエス様の死の意味と、キリスト者に委ねられた働きを確認し、御子、主イエス様、聖霊様の手足となって、御子、主イエス様、聖霊様の行かれる所、何処にでもくっついて行って、御子、主イエス様、聖霊様の口となって、御子、主イエス様、聖霊様と共に、「主の死」と、その意味を「告げ知らせる」時、

御子、主イエス様、聖霊様の味わわれる喜びを共有出来る特権に与れるのです。

主の晩餐」「聖餐」には、大きな喜びと祝福が伴っているのです。 

この喜びと祝福を共に体験しようではありませんか。

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聖書個所:コリント人への手紙第一11章27節~34

説教題:「聖餐に与る者の心構え

【導入】

パウロは、コリント教会の人たちに、「主の晩餐」、即ち「聖餐」が、御子、主キリスト・イエス様によって、どのように制定されたかを示し、「主の晩餐」、即ち「聖餐」が、如何に恵みに富んだ聖礼典であるか、その特権が如何に大きな聖礼典であるかを提示した後に、再び、コリント教会の現実に目を向けて、この恵みに富んだ聖礼典に、どう応答すべきか、特権を享受する事と、伴う責任について、戒めと勧告とを与えます。

【本論】

新改訳2017版 11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

全てに、メリット、デメリットがあり、主の晩餐」、即ち「聖餐」にも、メリット、デメリットがあります。

メリットについては、既に述べて来ていますので、デメリットに付いて、確認してみましょう。

パウロは、主の晩餐」、即ち「聖餐」の恵みや特権が、如何に大きいか、稀有なものかを示して来ましたが、恵みや特権は、大きければ大きいほど、責任は重く、義務も大きい事も示します。

受けた恵みを、無駄にしてはならない責任があり、与えられた特権は、正しく活用しなければならない義務があるのです。

主の晩餐」、即ち「聖餐」に於けるデメリット、とは、責任と義務なのです。

しかし、責任と義務は、決して負担や重荷、マイナス、不利益ではありません。

責任と義務を果す事は、更なる恵みに繋がるのであり、喜びに繋がるのであり、メリットは大きくなる一方なのです。

しかし、責任と義務を果さなければ、それは、単なる「怠惰」ではなく、「罪」であり、注意、訓告、勧告のレベルではなく、懲戒、実刑に値する、と警告するのです。

ふさわしくない仕方で」とは、主の晩餐」、即ち「聖餐」自体の方法、手順の意味ではありません。

式次第に則り、厳かに、「主の晩餐」、即ち「聖餐」を執行するか否か、「主の晩餐」、即ち「聖餐」に与るか否か、の意味ではなく、21節、22節で確認したように、「主の晩餐」、即ち「聖餐」の本来の意味を弁えず、「主の晩餐」、即ち「聖餐」の前に行なわれる「愛餐会」に遅れて来るキリスト者に対して、待つ事をせず、食べる物、飲む物を用意出来ない、貧しいキリスト者に対して、分け与える事をせず、身分の低いキリスト者に対して、心を配る事なく、自分勝手な飲食をし、その後に、自己中心、身勝手な思いで「主の晩餐」、即ち「聖餐」に与る態度の意味です。

主の晩餐」、即ち「聖餐」に於ける責任と義務とは、「愛餐会」に遅れて来るキリスト者を待つ事であり、我慢や忍耐、寛容が必要です。

食べる物、飲む物を用意出来ない、貧しいキリスト者に、継続的に施す事であり、大きな経済的負担が必要です。

身分の低いキリスト者、使用人、奴隷の身分のキリスト者を心から受け入れる事であり、受容や寛容が必要です。

どれも、御子、主キリスト・イエス様がお持ちの特質であり、弟子であるキリスト者が持つべき特質です。

主の晩餐」、即ち「聖餐」は、この特質を実践する場であり、訓練の場でもあるのです。

しかし、コリント教会の一部の人たちは、実践するもしないも自由だ、として実践する事を放棄し、訓練を受けるも受けないも自由だ、として訓練を受ける事を拒否したのです。

そして、権利だけは主張して、主の晩餐」、即ち「聖餐」に与ったのであり、それは、最も尊い御子キリスト・イエス様、「主のからだと血に対して罪を犯す」事であり、非常に厳しい結果を招聘する事になる、とパウロは警告を発するのです。

11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

自分自身を吟味して」の意味は、一義的には、自分自身の信仰を省みる事であり、正しい心で、本気になって、唯一真の神様の義を強く望み、自分自身の罪深さ、惨めさを知って謙り、御子、主キリスト・イエス様の内に心から安らう事留まり続ける事を願う事です。

たまに、こんな人を見受けます。

罪を犯してしまったから、と云って、聖餐を受ける事を見送る人です。

これは如何にも敬虔そう、信仰深そうに見えますが、十字架の意味を理解していません。

実際に罪を犯したか否かではなく、人は皆、罪人であり、御子、主キリスト・イエス様は、実際に罪を犯した人のためにだけではなく、全ての人のために、十字架に掛かられ、罪を贖ってくださったのです。

自分勝手に、聖餐停止に値するとかの判断を下す事は、聖餐式制定者、御子、主キリスト・イエス様の主権を侵す事であり、厳に慎まなければなりません。

ウェストミンスター大教理問答を紹介しましょう。

問一七二、自分がキリストにあること、あるいは自分のなすべき準備について疑っている者が、主の晩餐に臨んでもよいか。

答、自分がキリストにあることや、あるいは主の晩餐の礼典に対して自分のなすべき準備について疑っている者は、自分ではまだその確信を与えられていなくても、キリストへの真の関心を持っているのかもしれないし、またもし関心の不足を悟って正しく悩み、キリストにあるのを認められて、不義を離れたい、と偽りなく望んでいるなら、神のみ前にはそれを持っているのである。その場合(弱く疑い深いキリスト者たちの救いのためにも、約束がなされ、この礼典が命じられているのであるから)、彼は自分の不信仰を嘆いて、疑いを解くよう努力すべきであって、そうするなら、彼はさらに力づけられるために主の晩餐に臨んでもよいし、臨まなければならない

主の晩餐」、即ち「聖餐」を受ける事は、キリスト者の責務なのです。

加えて、重要なのが、兄弟愛に生きているか、「神を愛し、人を愛する」を実践しているか否かを省みる事です。

信仰と悔改めの全般に関わる事について、吟味するのです。

11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

みからだ」は、直接的には、御子、主キリスト・イエス様の事ですが、「主の晩餐」、即ち「聖餐」を受ける者は、御子、主キリスト・イエス様のからだである教会との関係性を「わきまえ」なければならないのです。

主の晩餐」、即ち「聖餐」は、各自が、生きて教会に結び付いている事実を考慮する必要があるのです。

単に、教会に所属している、名前を連ねているのではなく、教会に有機的に繋がり、生かされ、養われ、支えられ、守られ、導かれ、教会を通して、賜物を用い、活かし、仕えるのです。

また、主の晩餐」、即ち「聖餐」は、兄弟姉妹の交わり、一致を意識する必要があるのです。

主の晩餐」、即ち「聖餐」は、個人的な、御子、主キリスト・イエス様との結び付きの面と同時に、全体的な、教会の兄弟姉妹との結び付き、一致の面を意識しなければなりません。

主の晩餐」、即ち「聖餐」の意味を深く理解し、理解したところに従って、「主の晩餐」、即ち「聖餐」に与らなければならないのです。

一つのパンを分け、一つの杯から分けるのは、パンを介在して、杯を介在して、一つとされている事のしるしなのです。

愛餐会と主の晩餐」、即ち「聖餐」は、切っても切れない関係なのです。

これらの意味を軽んじるなら、無視するなら、主の晩餐」、即ち「聖餐」を制定された御子、主キリスト・イエス様の主権を蔑ろにするのであり、「主の晩餐」、即ち「聖餐」の恵みは、呪いになり、祝福は、裁きになるのです。

11:30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。

他の書簡に30節の具体例、実例を示唆、暗示する記述は記されていませんが、コリント教会の人たちには、周知の事実であり、この事実は、近隣教会に、手紙を回覧した教会に伝わり、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様に対する畏敬の念を起こさせ、正しい恐れを持ち、誰しも、自らを省みない訳には行かなかった事でしょう。

30節の事実は、非常に厳しい宣告です。

裁き、懲戒は、唯一真の神様の与えられる「懲らしめ」ですが、永遠の滅びに至らないための、教育的裁き、懲戒であり、裁き、懲戒は、罪への抑制、抑止になるのです。

裁き、懲戒は、滅ぼすためではなく、本来の姿、あるべき姿に立ち帰らせるための、救いの手段として用いられるのであり、裁き、懲戒を、父なる神様としての厳然とした愛のしるしと認めなければならないのです。

教会では、所謂「戒規」が執行されますが、決して「罰、懲らしめ」ではなく、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様との関係回復の手段であり、「戒規」が正しく執行されるのは、教会の健全性を現しているのです。

11:31 しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。

私たちが自分をわきまえるなら」、即ち、主の晩餐」、即ち「聖餐」の意義を弁えて、「主の晩餐」、即ち「聖餐」に正しく与っているか否かを自己吟味し、今ある自分と、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様が期待される自分とを比較、検討し、自らの罪を悔い改めるなら、「さばかれることはありません」。

11:32 私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。

いい加減な気持ち、知識、思い込みで主の晩餐」、即ち「聖餐」に与るなら、弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいる」事になりますが、これは、警告であり、本当の裁き、究極の裁き、最後の審判に遭わないための、悔い改めのチャンスを提供しているのであり、救済の手段なのだ、と諭すのです。

11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。

パウロは「兄弟たち」よ、と、慈愛に満ちた、心からの呼び掛けをいたします。

主の晩餐」、即ち「聖餐」の意味を理解し、軽んじる事のないように、「愛餐会」の意味も理解し、実践し、「主の晩餐」、即ち「聖餐」の備えとするように、とお勧めするのです。

待ち合わせ」は、一緒に「主の晩餐」、即ち「聖餐」に与りなさい、とのお勧めであり、加えて、一緒に「愛餐会」に与りなさい、「愛餐会」に於いても、常に、何をするにも、教会全体の一致を求める思いを持つように、とお勧めするのです。

11:34 空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。

「愛餐会」は、「主の晩餐」、即ち「聖餐」のための備えであり、予め食事を摂ってから、「愛餐会」に出席し、「愛餐会」では、皆が揃うまで待つ事を、パウロはお勧めするのです。

「愛餐会」は、空腹を満たすための場ではなく、「愛餐会」、教会での食卓は、交わりのためのものであり、「主の晩餐」、即ち「聖餐」に備えるためのものなのです。

パウロは、幼子に教えるように、諭すように、具体的に、繰り返し、実に忍耐深く、お勧めをします。

このほかのことについて」は、「主の晩餐」、即ち「聖餐」を巡り、関係する、他の勧告と思われますが、基本原則は、既に示しているのであり、その基本原則に沿って、適応し、運用すれば、逸脱する事は、罪を犯す事はありません。

否、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様は、導いて下さいます。

【適応】

教会に於いて、信仰生活に於いて、主の晩餐」、即ち「聖餐」は非常に重要な位置を占める聖礼典ですが、大切なのは、「主の晩餐」、即ち「聖餐」に与る事ではなく、「主の晩餐」、即ち「聖餐」の意味を理解した信仰生活を送る事です。

主の晩餐」、即ち「聖餐」の意味を理解した信仰生活とは、前回、前月の「主の晩餐」、即ち「聖餐」から、今回、今月の「主の晩餐」、即ち「聖餐」までの間に、罪を犯しはしなかっただろうか、と吟味する事だけではありません。

犯した罪の告白と悔い改めをしただろうか、と吟味する事だけでもありません。

主の晩餐」、即ち「聖餐」の前段階、或いは実践としての「愛餐会」を通して、隣人への愛を現したか、を吟味する事です。

聖餐式の「祈祷」の言葉の後半を紹介しましょう。

更に後半が重要です。

いま、このパンとぶどう酒を祝し、聖別してください。

御前に砕かれた心をもって、主の肉と血とを受ける事により、救いの恵みが確かであることを覚え、私たちが、キリストにあって一つであり、互いに主にある家族であることを覚えて、この交わりをいよいよ厚くし、共に福音のあかしに生きる者としてください。

キリスト者は、戸籍上も、現住所も、他人ですが、御子、主キリスト・イエス様の十字架により、罪赦され、縦の関係が構築され、縦の関係を機軸、支柱として、「主の晩餐」、即ち「聖餐」を受ける事によって、一つのパンを食べ、一つの杯を飲む事で、横の関係、兄弟姉妹の関係が構築され、身分、貧富の差無く、「キリストにあって一つであり、互いに主にある家族」となるのであり、教会で「この交わりをいよいよ厚くし」、即ち、関係性の強化を図り、この罪の世に出て行って、「共に福音の証しに生きる者としてください」、と願うのです。

これが、「主の晩餐」、即ち「聖餐」に与る者の心構えです。

これらを強く意識しなければならないのです。

主の晩餐」、即ち「聖餐」を受ける事で、罪を赦していただくのでも、罪の赦しを確認するのでもありません。

罪は、御子、主キリスト・イエス様の十字架で、完全に贖われ、赦されています。

御子、主キリスト・イエス様との関係は一度の洗礼で、未来永劫、完全に完成します。

一方、横の関係、兄弟姉妹の関係は継続性を必要とし、「主の晩餐」、即ち「聖餐」を受ける事で、横の関係を確認し、強化を図るのです。

しかし、「キリストにあって一つ」「主にある家族」であり、実の家族になる訳ではなく、「交わりをいよいよ厚くし」ますが、べったりとした相互依存関係を作るのではなく、何にでも、直ぐに手助けをすれば良いのではなく、良い協力関係、何時でも助け合える関係、見守り合う関係、適度な距離を保った関係を作るのであり、「共に福音の証しに生きる者としてください」ですが、ある指揮者の下で、一糸乱れず全員が、同じ目標に向って宣教する、のではありません。

主体性を尊重し、個性を尊重しますから、一見、てんでんバラバラ、好き勝手のように見えましょうが、齟齬はなく、統一されており、無駄も無く、混乱は起こらないのです。

そして、実の家族、血の繋がりから、新しく、御子、主キリスト・イエス様にある「主にある家族」に変えられるのであり、損得抜きに、否、喜んで出費を負担し、損失を被っても、交わりを持ち続けるのであり、支配、指示するのではなく、働かせるのでもなく、仕え合い、重荷を負い合い、「共に福音の証しに生きる」のです。

主の晩餐」、即ち「聖餐」は、横の関係、兄弟姉妹との関係を確認し、時に正すのであり、教会に集う人間を整え、教会を、集会を整えるのです。

この心構えが無ければ、「主の晩餐」、即ち「聖餐」の意味は、半減、激減します。

キリストにあって一つであり、互いに主にある家族であることを覚えて、この交わりをいよいよ厚くし、共に福音の証しに生きる者」となる事を願って、「主の晩餐」、即ち「聖餐」に与ろうではありませんか。 

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                                               2021-6-27礼拝

聖書個所:サムエル記第一18章1節から16節 

説教題:「主が共におられたので」

【導入】

イスラエルの軍の、全ての兵士が恐れていたゴリヤテを、若い、否、幼いと言っていい年齢の少年ダビデが、たった一人で、羊飼いの使う杖と石投げで倒してしまった事に端を発して、イスラエル軍は大勝利を手にする事が出来ました。

たった一人であっても、唯一真の神様の守りを信じての行動が、弱腰だった多くの人々に勇気を与えて、予想もしない結果を生んだ訳です。

イスラエルの人々の中に信仰者がいなかった訳ではありません。

サウルの息子ヨナタンは、一人の従者を従えて、ペリシテ人に戦いを挑んだのですが、この時のヨナタンも唯一真の神様の守りを信じて戦いを挑んだのであり、神様はヨナタンと共におられ、ヨナタンの信仰に応えて勝利を与えて下さったのです。

唯一真の神様は、神様の助けを信じて行動する者を助けて下さるのであり、無名であろうと有名であろうと、男であろうと女であろうと、壮年であろうと幼少であろうと、関係ありません。

更に言うならば、勝ち負けも眼中にはなく、唯一真の神様に従って行動する事が重要なのであって、その結果として、勝利があるのであり、場合に依っては引き分け、或いは敗北も甘んじて受けなければならない事もあり得るのです。

唯一真の神様に信頼して行動する事が最重要課題なのであって、結果はおまけのような物であり、勝利も、敗北も些細な事と言えるからなのです。

何故ならば、唯一真の神様は敗北と見える所にも、勝利を隠しておられるのであり、必要な試練である事もあり得るからなのです。

事実、御子、主キリスト・イエス様の十字架の死は、この世の力が勝利を得ての敗北の様に見えますが、罪を贖うものであり、復活に繋がる勝利の印しである事は、皆様よく知っておられる事でしょう。

この御子、主キリスト・イエス様の従順こそ、私たちの模範です。

また、敗北は罪を明かにする効果も併せ持っています。

イスラエルの人々はヨルダン川を渡り、エリコで勝利を得て、有頂天になってアイに攻め入りますが、アイの戦いで負ける事で自分たちの中に罪がある事が明確にされたのであり、負けなければ罪の自覚のないままに間違った方向に走り続ける結果となってしまうのであり、負ける事もまた唯一真の神様の憐れみであるのです。

勝つ事で高慢になるよりも、負ける事で謙りを学ぶ事が唯一真の神様のご計画でもあるのです。

唯一真の神様が離れて、災いの霊に脅かされるサウルですが、それもまたサウルに必要な訓練であり、神様を信じて、神様の命令に従うダビデを目の当たりにする事で、神様に従う事の祝福を学び、思い出し、神様の下に帰るチャンスであったのではないでしょうか。

その、悔い改めのチャンスを生かすも殺すもサウル次第であり、私たちも同じなのです。

今日は唯一真の神様が共におられるダビデの姿を見ての、サウルの反応から学んで行きたいと思います。

【本論】

18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。

戦に出た者は、その戦の結果を王様に、或いは隊長に報告しなければなりません。

ダビデはサウル王に許可を得て、ゴリヤテとの戦いに出て行ったのですから、誰の目にも明らかな結果であったとしても、サウル王に報告する義務を負っています。

聖書には、ダビデの報告の内容について記されていませんが、ダビデの報告は自慢話の類ではなく、自分の勇気、力量の誇示でなかった事は明かです。

何故ならば、ダビデは「万軍の主の御名によって、立ち向かうのだ」「この戦いは主の戦いだ」と宣言しているからであり、それ故に、勝ち誇らず「栄光は主のもの」との態度で報告する信仰者ダビデの姿は、好感を持って迎えられたのであり、信仰者ヨナタンの心に共感を生み、それ故に、

ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。

と記されているように、ダビデとヨナタンは終生(しゅうせい)変わらぬ信仰の友を得る事になるのです。

真の信仰者は、真の信仰者を見抜きます。

そして、真の愛情を与え交わすのであり、

18:3 ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。

18:4 ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。

以前の学びでお話したように、牧畜農耕民族であるイスラエルの人々の中にあって、武具、武器を持つのは極限られた人々であり、それは貴重品であり、戦いの中にあって命を守る物であり、その武具、武器を与えるというのは、命を与えると同義なのです。

ヨナタンは自分の命とダビデの命を同等のものと見たのであり、ダビデの命を守るためには自分の命をも差し出す覚悟があり、それを行動で現した、と言う事なのです

18:2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。

ヨナタンが信仰の友として、ダビデと終生(しゅうせい)変らぬ友情を交わしたのに比べて、サウルはダビデの勇者としての素質を買って、召し抱えました。

有能な部下を召し抱えるのは世の常ですが、有能なゴリヤテであっても、幼い信仰者に勝つ事が出来なかったのではないでしょうか。

有能な部下を大勢召し抱えるよりも、一人の信仰者がどんなに大きな助けになるかを、サウル王は理解していなかったのです。

唯一真の神様から離れたサウル王には、神様が共におられるか否かより、強いか弱いかが問題であったのです。

ヨナタンがペリシテ人の陣営に大混乱を起こした事を、同士討ちにまで至らせた事をどう考えているのでしょうか。

幼いダビデが、身を守る物を身に付けていないダビデが、大男の、武具に身を守り、従者を従え、武器を手にしたゴリヤテを倒した事をどう考えているのでしょうか。

運が良かった、偶然…。

信仰者は運の背後にも唯一真の神様の導きを信じ、偶然の様に見える事柄にも神様の必然を確信しますが、不信仰な者は、神様の明確なご計画にすら、運だ、偶然だ、自然の成り行きだと思い込むものなのです。

勿論、何でもカンでも唯一真の神様に結びつけて考える行き過ぎは避けなければなりませんが、世界を支配しておられるお方を無視してはなりません。

特に、偶像に従う民の代表であるペリシテ人と、唯一真の神様を信じるイスラエルの戦いは単なる勢力争いではなく、唯一真の神様と偶像との戦いであるのです。

ダビデがゴリヤテに勝ったのも、ヨナタンがペリシテ軍に大混乱を与えたのも唯一真の神様が共におられて、神様が力を与えたからです。

唯一真の神様が共におられたから、

18:5 ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めた。サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれた。

という結果となったのです。

しかし、サウルの目にはダビデは有能な部下としか映らなかった。

しかし、有能な部下は、何時しか、自分の地位を脅かす存在になり得るのです。

下克上、弱肉強食は古今東西変らぬ、王様を、支配者を脅かす不文律、掟ですが、これは世の掟であって、唯一真の神様の国の掟ではありません。

唯一真の神様の国の掟は、神様が立てられた王様であるならば、どんなに愚かな王様でも裏切る事なく従うのであり、例え自分の命が脅かされる状況であっても、決して王様に刃向かう事を選択しはしないのです。

真の信仰者は、唯一真の神様が立てられた王様、指導者を退けるのは、神様を退ける事であり、神様が立てられた王様、指導者の命令に従わないのは、神様の命令に従わない事と同じ、と考えるのです。

ダビデはどんなに危険でも、不利でも、疲れていても、唯一真の神様が立てられたサウル王の命令ならば何処へでも、何時でも出て行って戦ったのであり、どんな欠点がある王様であっても神様が立てられた王様として聞き従うダビデに、神様は常に勝利を、祝福を与えられたのです。

18:6 皆が戻り、ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた。

18:7 女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」18:8 サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」

この8節、口語訳では「サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」」と訳し、

新共同訳では「サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」」と訳しています。

サウル王の妬みがここに現されていますが、ダビデを妬むのは筋違いなのではないでしょうか。

ダビデは自分から歌ったのでもなければ、歌わせたのでもありません。

ダビデはサウル王に対して忠実であり、それはサウル王自身の目にも明らかだった筈です。

陰日向なくサウル王に仕えたのであり、だからこそ誰もがダビデを尊敬し、愛したのです。

凱旋したダビデを迎えて歌った歌は、サウル王を称える歌詞で始まり、続いてダビデを称えているのであり、1000という数、万という数も、深い意味はなく、語呂合せ、調子のいいリズム的な歌詞であり、サウル王を称える歌であった事にこそ意味があるのではないでしょうか。

サウル王は唯一真の神様に油を注がれた王様であり、その王様がダビデという助けを神様から与えられて勝利した、と歌っているのであり、また「ダビデ」は「愛された者」の意味があり、また、古代バビロニア語の「司令官」の意味を持つ「ダビドゥム」の変化ではないかと考える説もあり、少年ダビデを称えているのではなく、唯一真の神様に愛された者が一万人を打った、司令官が一万人を打った、神に愛されている者、つまりはサウル王様、司令官であるサウル王様を称えているとも、理解出来る歌なのです。

歌詞の通り、少年ダビデを称える歌であったとしても、比較され、低く評価されていたとしても、サウルが信仰者であったならば、鷹揚に受け止める事が出来たのではないでしょうか。

しかし、唯一真の神様が共におられない状態では、自分に向けられた賛辞より、ダビデとの比較に自尊心が傷つけられ、ダビデに嫉妬する思いに心は揺れ動き、

18:9 その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。

18:10 その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。

18:11 サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした。

18:12 サウルはダビデを恐れた。それは、【主】がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。

至近距離にも関らず、ダビデはサウル王の槍の餌食になる事はなかったのです。

それは決してダビデの運動神経が人並みはずれて優秀だったからではありません。

立て琴を弾きながら、横目でサウル王の挙動を終始見張っていたからでもありません。

楽器を奏される方はご承知と思いますが、どんな楽器でも楽器に、指先に神経を集中させていなければ、上手に奏する事は出来ません。

勿論、弾きなれて指が自然に運べるまでに熟練されている方もおられるでしょうが、考え事をしていたり、気も空ろでは、音を外したり、手が止まってしまうのではないでしょうか。

ダビデがサウル王の槍を逃れられたのは、神様が共におられて、守って下さったからであり、逃れさせて下さったからです。

至近距離の、絶体絶命の状態からダビデを守ったのは、唯一真の神様だと確信したサウル王は、ダビデを恐れ、

18:13 サウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは兵の先に立って行動した。

18:14 【主】が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。

18:15 彼が大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。

18:16 イスラエルもユダも、皆がダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。

信仰者は、自分より数段秀でた信仰者と共にいる事に苦痛を覚えません。

それは主にある交わりだから、安心と平安と憩いと自由があるからです。

お互いが相手を尊重し、束縛しません、されません。自由です。

永続する関係です。

しかし、信仰のない者の交わりには、不安と、疑いと、緊張と、束縛があり、その関係を維持するのは至難の業となるでしょう。

一刻も早く解消したい状況であり、側に置く事は出来ない事であり、遠く離すしかなくなってしまうのです。

サウル王に請われて宮廷に、音楽療養師として召し抱えられたのに、妬(ねた)みから疎まれ、激戦地に追いやられてしまったダビデですが、ダビデは何処に置かれても、唯一真の神様が共におられたので、決して悲観する事もなく、自暴自棄になる事もなく、与えられた使命である外敵を打つ、偶像に従う民との戦いに、先頭に立って行動したのです。

外敵を打つ、それをサウル王の命令としてだけではなく、唯一真の神様の命令として聴き従ったので、神様もダビデを助け、その行く先々で勝利を与えられたのです。

【適応】

主が共におられたので。

この言葉を、私たちは自分を主語にして考え、行動してはいないでしょうか。

唯一真の神様の御心に適う事を選ぶ、行なう。

そうすれば、唯一真の神様が共におられて助けて下さると。

でもこれは逆であって、確かに唯一真の神様の御心に適う事を選ぶ、行動するのは私かも知れませんが、私は言わば手足であって、頭(かしら)は神様なのであって、主体は神様なのです。

唯一真の神様の命令、ご計画が先にあって、それに従うのが順番です。

ダビデが何処に行っても戦って勝利を収めたのは、ダビデが唯一真の神様の手足となって戦ったからであって、ダビデは道具であり、神様が主役です。

ダビデは勝利し、隊長になる為にサウルに仕えたのではありません。

サムエルに油を注がれ、サウルに召されたからサウルに仕える様になったのです。

そして、サウルの命令を唯一真の神様の命令と受け止めて、聴き従ったのです。

現代に適応するならば、私が幸せになり、成功するために、唯一真の神様の命令に従うのではありません。

唯一真の神様の命令に従う事が全てであって、私の幸せとか、満足のためにではないのです。

多くの人は困って、悩んで、解決を求めて教会に来ますが、教会は解決の手段を提供するのが存在目的ではありません。

勿論そう言う部分もありますが、唯一真の神様に作られた人間が、造られた目的にそって生きる道を教えるのが目的であり、人の生き方が自己中心から、人間中心から、唯一真の神様中心にならなければ、神様を見る生き方に変らなければ、神様を敬う、別の言い方をするなら神様だけを恐れる生き方に変らないならば、その存在意義は疑問です。

勝利を収めるダビデを見て、サウル王はダビデを恐れましたが、本来なら唯一真の神様を恐れなければならないのであって、神様を見ていないから、ダビデを恐れる事で終ってしまうのです。

ダビデは唯一真の神様の道具なのですから、ダビデを恐れる必要はなく、ダビデを活用し、ダビデに活躍してもらって、ペリシテ人を、偶像に従う民族を徹底的に打つ事が神様の御心であって、その御心の実現のために、サウルは召されたのであり、ダビデも協力するのが、サウルの、ダビデのなすべき事なのです。

疎んじて遠ざけたり、疎まれて腐ったりするのは信仰者の姿ではありません。

ダビデは疎まれても腐らず、サウル王の命令を唯一真の神様の命令と受け止めて、何処へでも出て行って神様の僕として全力を尽くして戦ったのであり、神様もダビデと共におられて、ダビデを助けられたのです。

サウルは唯一真の神様の命令に従わず、自分勝手な行動をとってしまいましたが、神様は見捨てず、ダビデという稀有の勇者を送って下さったのですから、ダビデを遠ざける事を選ばず、ダビデを近くに置いて、ヨナタンと共に、神の国の実現のために協力する事が求められていたのです。

唯一真の神様に愛されているダビデを愛する事を通して、神様を愛する事が、神様を愛する事で、神様との関係の修復が、信仰者としての再スタートが期待されていたのに、ダビデを疎んじ、遠ざけ、返ってダビデが先頭に立って活躍することになり、ダビデの人気を高める事になり、ダビデの信望も益々上がって行く事になってしまい、妬(ねた)みを燃やし、疑心暗鬼に苛(さいな)まれ、結局は自分を窮地に立たせる事になってしまったのです。

自分に都合の良い人を周りにおいて、固めても、唯一真の神様が共におられないならば、その集まりは、名目は兎も角、この世の集まりであって、そこに神様は何の関心も、期待も寄せられません。

しかし、唯一真の神様が共におられる人の集まりであるならば、個性の衝突や、意見の違いがあっても問題ではありません。

個性や意見の違いは、神様が与えて下さった個性であり、賜物であり、意見の違いを吟味する事で、より良い方向を探し出す事が出来るからなのです。

そして何よりも、意見や個性の違いを受け入れて下さるのが唯一真の神様であり、神の国は個性豊かな人々の集まりと言う事が出来るのです。

色々な個性や賜物が在るからこそ、様々な状況に対応出来るのではないでしょうか。

神の国は「没個性」ではなく、皆が一緒の方向を見るのではなく、皆が同じ行動をするのではなく、個性を生かす、発揮する、用いて頂く所です。

唯一真の神様はサウルの個性もヨナタンの個性もダビデの個性も用いられるお方です。

唯一真の神様が共におられるなら、個性も、欠点と思われるものも生かされ、神様が共におられないならば、長所さえが人の躓きになることを覚えておく必要があるでしょう。

唯一真の神様が共におられるか、否かは、聖書の教えに忠実であるか、神様の命令に従順であるかどうかで知られるでしょう。

ダビデの場合では、唯一真の神様が立てられ、油を注がれたサウル王を、命を狙われつつも、神様に召されたもの、神様に油を注がれた者として聴き従いました。

自分の尊敬出来る人の命令に聴き従うのは難しい事ではありませんが、尊敬出来ない人の命令を聴くのは難しい事でありましょう。

しかし、それが訓練なのであり、ダビデはそれを行なったのであり、それ故に「主が共におられ」勝利を得、人々に愛され、救い主の祖先となる祝福を受けたのです。

ここにおられる皆様が「その行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼と共におられた」からである、と、その信仰を人々に賞賛される信仰者となられますようにお祈り致します。 

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