2021-7-4礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一12章1節~3

説教題:「イエスは私の主です

【導入】

パウロは、コリント教会で起こっている、様々な問題に対して、原則を語り、的確な、具体的な指示を与えます。

偶像に献げた肉や、偶像の宮で食する事について語り、女性信徒の髪型について語り教会の食事の交わり、即ち「愛餐会」について語り、「主の晩餐」、即ち「聖餐」について語ります。

それは、上意下達的な、一方的な命令、戒律、規律厳守の命令ではなく、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様の意を教えるものでした。

唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様を礼拝の対象とする礼拝のあり方の、具体的な適応を教える奨励であり、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様を中心とした上での、隣人に対する愛の交わりを実践する教会形成のお勧めでした。

様々な問題があり、混乱を起こしていたコリント教会ですが、コリント教会に良い点がなかった訳ではありません。

コリント教会の人たちは、多くの種類の賜物が与えられていたようですが、残念な事に、その賜物さえもが、混乱の原因となってしまっていたようです。

パウロは、コリント教会の現実に目を向けて、この恵みに富んだ賜物について、誤解を解き、戒めと勧告とを与えます。

【本論】

新改訳2017版 12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。

パウロはここでも「兄弟たち」よ、と親しみを込めて呼び掛けます。

パウロは使徒としての権威を持って、「聞きなさい」、などの言い方をする事も出来るでしょうが、緊張され、心を閉ざされては、意味がありません。

反感や反発を買うような言い方では、余計な手間隙が掛かる事になり、得策ではありません。

特に、コリント教会の人たちは、プライドの高い人たちが多かったようですから、配慮した言葉を選ぶのは必要な事でしょう。

続いて、「御霊の賜物については」と、書き出しますが、これは、コリント教会からの問い合わせに対する回答である事を示しています。

突然、「御霊の賜物」について語りだされたならば、不審がられ、緊張を与え、身構えさせてしまうかもしれません。

そこでパウロは、コリント教会からの問い合わせに対する回答である事を示す事で、不要な緊張や見構えを回避させたのです。

会話では、こんな配慮は中々難しい事であり、手紙の利点といえるでしょう。

しかし、手紙では、伝わり難かったり、回りくどい言い方にならざるを得ず、書くほうも、読む方も、まどろっこしく、時間が掛かってしまい、誤解などが生じかねない、と云った欠点がありますから、状況による使い分けが肝要でしょう。

さて、社会や産業などの変革期には、各地に、稀有な能力を持った者が現れ、活躍し、社会や産業界をリードするのは世の歴史の教えるところですが、キリスト教の発展期、伝播期にも、各地の教会に稀有な賜物を持った者が現れたのであり、その代表格がパウロである訳ですが、コリント教会にも、コリント教会の人たちにも、「御霊の賜物」が豊かに与えられていた、と考えられます。

恐らく、それがコリント教会の、コリント教会の人たちの誇りであったのでしょうが、「御霊の賜物」の有無や、「御霊の賜物」の種類で優劣を競い、混乱の種となってしまっていたようであり、コリント教会からパウロのところに、「御霊の賜物」についての、何らかの問い合わせがあったようであり、そこでパウロは、「御霊の賜物」について語りだすのですが、パウロは、コリント教会の現状を踏まえ、「御霊の賜物」を正しく理解するために、「御霊の賜物」の源が、創造者なる神様である事と、「知らずにいてほしくありません」事として、「御霊の賜物」が与えられた目的が、教会全体の益である事を伝えるべく、ペンを進めます。

御霊の賜物」は、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様に仕え、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様の栄光を現すためであり、公同の礼拝を中心とする礼拝生活を送るためであり、隣人に対する愛の交わりを実践するため、隣人に仕えるためです。

決して上位に立つためでも、隣人を支配するためでも、優位に立つためでも、自己満足に浸るためでもありません。

12:2 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、 誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。

以前の学びでお話しましたが、コリント教会の人たちの多くは異邦人であり、「異教徒」でした。

それがパウロと出会い、パウロの教えに触れ、キリスト教に回心したのです。

回心したとは言え、「異教徒」であった時の、異邦人であった時の考え、知識は残っており、「賜物」についても、大きな誤解があったようです。

人の持つ能力は、多くの場合、後天的であり、色々な努力などの結果、取得するものですが、「異教徒」は、異邦人は、偶像に願掛けを行ない、偶像に献げ物をし、偶像に関わる修行を行ない、偶像の与える患難辛苦に耐えて、能力を得られる、能力を授かる、と考えます。

誘われるまま」とは、自分の意思を奪われたかのように、偶像礼拝をさせる様子、悪霊に支配されている状態を言い表していることばです。

人々は、霊験あらたか、御利益がある、として「偶像のところに引かれて行き」ますが、「偶像」は「ものを言えない」のであり、偶像には、何ら能力を与える事も、授ける事も、奪う事も出来ません。

ものを言えない」は、偶像の特徴を痛烈に皮肉った表現であり、悪霊は、偽預言者や巫女を通して語り、叫ばせ、「ものを言えない偶像」に、人々を引き寄せ、偶像礼拝者たちを熱狂させ、錯乱させ、狂乱状態に引き入れ、悪霊の支配下に陥らせるのです。

パウロは、悪霊の存在を見抜いているのであり、悪霊に支配されないように、「ものを言えない偶像のところに引かれて行」く事のないように、近寄らないように、警告を発するのです。

12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

パウロは、「異教、偶像礼拝」と「キリスト教」相互に、一見、類似する「賜物」があったとしても、根本的な違いがある事を示します。

それは御子、主キリスト・イエス様に対する信仰告白があるか、ないかです。

そして、「賜物」と云うことばは、「良い物」と云う固定観念がありますが、字の如く「賜り物」の意味であり、創造者なる神様から与えられた物であり、良くも悪くも、必要であろうと邪魔であろうと、「賜り物」なのです。

即ち、長所も短所も、得手も不得手も、強健も病弱も、どれもこれも、創造者なる神様から与えられた「賜り物」なのです。

「賜り物」を用いて、創造者なる神様、御子、主キリスト・イエス様を称え、隣人に仕えるのです。

3節のことばは、嘘でも冗談でも、悪ふざけでも、強要されても、「神の御霊」が宿っている者は、「イエスは、のろわれよ」と言う事は出来ませんし、「悪霊」に支配されている者は、嘘でも冗談でも、悪ふざけでも、強要されても、「イエスは、主です」と言う事が出来ないのです。

イエスは、のろわれよ」と言う事が出来るのは、「悪霊」に支配されている証拠であり、「イエスは、主です」と言う事が出来るのは、「神の御霊」が宿っている証拠なのです。

イエスは、のろわれよ」と云うことばですが、諸説ありますので、幾つかを紹介しましょう。

一、キリスト者が裁判に掛けられ、棄教を迫られ、このことばを強制させられた。

二、反対者が集会で、キリスト者の告白を聞いて反発し、このことばを叫んだ。

三、ユダヤ人の祈りには、異教徒、異端者に対する呪いのことばが含まれており、木に掛けられる者は全て呪われた者である、と教えられており、イエスをのろいの対象とし、このことばを用いた。

この三つが、解り易い説ですが、他に、難解な説として、

四、パウロの「イエスは、主です」との告白に対立し、自らの論証のために作り出したことば。

五、「霊的な人」と自認する者が、天的キリストとの結び付きを主張して、イエスの地上での働きの一切を拒絶したことば。

の二つがあります。

何れにしましても、御子、主キリスト・イエス様を否定する全てのことばは、「神の御霊」から出た言葉ではありません。

パウロの「イエスは、主です」との、単純、明快な告白こそ、御子、主キリスト・イエス様の本質の表明、宣言であり、御子、主キリスト・イエス様に従うキリスト者の何よりのしるしであり、聖霊の生きた働きの結果なのです。

この告白のために、聖霊様は内住しておられる、と断言しても過言ではありません。

イエスは、主です」との告白を、もう少し丁寧に言うならば、「イエスは、私の主です」であり、「イエスは、私の主です」との告白こそ、何にも勝る「賜物」の現われなのです。

コリント教会では、特定の賜物、即ち「異言の賜物」が、持てはやされたようですが、異言の賜物を与えられていないと、信徒ではないと考えるのは、信徒として欠陥があるかのように考えるのは、異言の賜物を求めて奔走するのは、熱心になるのは、間違っています。

他の賜物であっても、同じです。

何の「賜物」のない信徒も全員、洩れなく、聖霊の恵みに欠けてはいないのです。

神の御霊」によって、必要な「賜物」は与えられるのであり、自分の力、誰かの助け、で得るのはありません。

神の御霊」によって、御子、主キリスト・イエス様を呪うものから、御子、主キリスト・イエス様を、私の主と告白する者へ変えられるのです。

賜物の現れは、「イエスは、私の主です」との告白に一番強く、はっきりと現れるのです。

イエスは、私の主です」との告白が先にあり、「イエスは、私の主です」との告白の下にあってこそ、特定の「賜物」が生かされるのです。

ずば抜けた、非凡な、稀有な能力であっても、「イエスは、私の主です」との告白の下になければ、御霊の賜物」ではなく、単なる特技であって、この世から、この世の人々からの賞賛は受けるでしょうが、それで終わりです。

そんなこの世でしか通用しない、空しい栄誉ではなく、「イエスは、私の主です」との告白を伴う時、賜物」は生かされ、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様の栄光を現す事に繋がるのです。

【適応】

3節の聖句、聖書は「イエスは、主です」ですが、本稿では、「イエスは、私の主です」と置き換えて、お勧めをして来ましたが、この違いについて、お話しましょう。

イエスは、主です」との告白は、事実、事象を述べたに過ぎず、私との関係性は含まれてはおらず、客観的な見解、と云う事が出来ましょう。

悪魔に支配された、汚れた者でさえ、「あなたこそ神の子です」、と叫ぶのです。

マルコの福音書311節、201770ページ、第三版69ページ、

57節、201773ページ、第三版72ページ、

ルカの福音書441節、2017117ページ、第三版116ページ、

828節、2017128ページ、第三版127ページ。

悪霊どもは、イエス様が神の子であると知っており、恐れ、怯えながらも、イエス様に従おうとは、生き方を変えようとはしませんでした。

しかし、「イエスは、私の主です」との告白は、事実、事象を述べただけではなく、私との関係性に言及する、主観的な見解であり、主体的な応答を含む宣言です。

主体的な応答とは、唯一真の神様の独り子イエス様を私の生涯の主人とする事であり、どんな時でも、どんな状況でも、唯一真の神様の独り子イエス様に徹底的に従う事であり、唯一真の神様の独り子イエス様に私の命を含む全てを差し出す事であり、唯一真の神様の独り子イエス様から一瞬たりとも離れず、常に共に歩む事です。

その応答は、唯一真の神様の独り子イエス様が私のために、唯一真の神様のご計画に従い、この世に来られ、私のために、十字架に架かり、私の罪を贖い、私に神様の独り子イエス様の義を転嫁してくださった事に対する感謝からの応答なのです。

ですから応答するに際して、一切の見返りなどを期待しないのは、当然です。

既に、比類のない、掛け替えのない恵み、祝福を頂いているのですから、これ以上の恵み、祝福を要求、期待するのは、強欲であり、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様を「僕、執事、小間使い、爺や、婆や」のように見做している、と云う事なのではないでしょうか。

そんな不遜な態度は、今日までで充分です。

今日以降は、一切の見返りなどを期待しないで、唯一真の神様、御子、主キリスト・イエス様が下さった恵み、祝福に応答して、「イエスは、私の主です」と告白し、御子、主キリスト・イエス様の僕、執事、小間使いとして

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聖書個所:コリント人への手紙第一12章4節~11

説教題:「賜物の多様性と統一

【導入】

パウロは、聖霊に依らなければ、誰も「イエスは、主です」、或いは「イエスは、私の主です」と、告白出来ない事を示しました。

イエスは、私の主です」と、告白するキリスト者には、全て、洩れなく、聖霊が内住されています。

日本には、聖霊内住の考え方に似ている、「守護霊」的な、「守り本尊」的な思想があります。

「守護霊」、「守り本尊」が、困った時に助けてくれる、危急の時に守ってくれる、迷った時に導いてくれる、と考えます。

こんな思想は、日本独特のものではなさそうです。

ギリシャ、ローマ、そしてコリントにも、似たような考え方が有り、人々は、其々守護神を選び、信仰の対象とし、祈願するのです。

守護神にはランク、差異があり、守護神のランク、差異により、与えてくださる賜物にも差があり、人々は、より霊力の強い守護神を信仰の対象とし、助け、守り、導いてもらい、能力を与えてもらうのです。

しかし、聖霊内住は、Aさん担当の聖霊が居て、Aさんを助け、守り、導き、能力を与えるのではありません。

Bさん担当の聖霊が居て、Bさんを助け、守り、導き、能力を与えるのでもありません。

Cさん担当の聖霊が居て、Dさん担当の聖霊が居て、ではありません。

Aさんに内住する聖霊と、Bさんに内住する聖霊と、Cさんに内住する聖霊と、Dさんに内住する聖霊は、同じ聖霊です。

一人の聖霊が居るだけであり、一人の聖霊が全てのキリスト者の内に住み、色々な働きをされるのです。

コリント教会の人たちは、パウロの語る、聖霊の内住と、聖霊が様々な賜物を与えて下さる、と云う事は理解出来ても、因習が影響して、聖霊の内住と、聖霊の働きの正しい理解に至ってはおらず、コリント教会で起こっている、様々な問題の原因となっているのです。

そこで、パウロは、聖霊の与える賜物について、この恵みに富んだ賜物について、誤解を解き、勧告を与えます。

【本論】

新改訳2017版 2:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。

教会には、多くの人、老若男女、身分の違う人、地位の違う人が居て、「いろいろ」、即ち、種々様々、多種多様な能力、即ち「賜物」が与えられています。

人間的に見れば、差があり、優劣があり、役立つか否か、が問われるかも知れません。

「ウドの大木」だとか、「帯びに短し、襷に長し」だとか。

現に、コリント教会では、一部の人たちが、自らの「賜物」が如何に優れているかを誇っており、凡庸な「賜物」を軽んじていたのです。

誰にでも出来る「賜物」は、大して役に立たない「賜物」は、「賜物」の部類には入らない、位の扱いだったのではないでしょうか。

パウロは、この考え方、態度の誤りを指摘し、相互に「賜物」の優劣を競い、対立、分裂する事が、如何に愚かな事かを示すために、「賜物にはいろいろありますが」、「与える方は同じ御霊です」、と断言します。

12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

教会には、「いろいろ」、即ち、多種多様な仕事、即ち「奉仕」があります。

人前での目立つ「奉仕」、もてはやされる「奉仕」、注目を集める「奉仕」、労わられ、評価される「奉仕」、あの人を助けたい、との動機からの「奉仕」、エトセトラと、縁の下の目立たない「奉仕」、出来れば避けたい汚れてしまう「奉仕」、手間隙の掛かる、疲れる「奉仕」、評価も尊敬もされない「奉仕」、エトセトラ。

パウロは、コリント教会では、人からの評価を気にする、人に見せる「奉仕」、人間を意識した「奉仕」が横行している事実を鋭く指摘し、「奉仕」するのは、仕える相手は一人、「」だけであると、断言します。

この「奉仕」と訳されているギリシャ語ですが、「接待、もてなし」の意味があり、そのように訳す事が出来ますから、「奉仕」する、「仕え奉る」との自主的、自発的、主体的、積極的な、自分が・・・的な意味が強い訳よりも、「接待する、もてなす」「お仕えする、お世話する」との謙った、謙遜な意味での理解が適切なのではないでしょうか。

人の好き嫌い、褒められたい、自己実現、自己肯定などが動機であっては断じてならないのです。

奉仕」は、「」に対してであり、「」に仕えるのであり、教会に集う人たち、群れに仕える事を通して、「」に仕えるのです。

教会の人たちからの評価ではなく、見えない所で見ておられる、見えない「」に対して仕えるのです。

12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。

教会には、「いろいろ」、即ち、多種多様な仕事、即ち「働き」があります。

奉仕」と「働き」は区別し難く、「奉仕」の種類と「働き」の種類も重複しており、区別し難いのですが、先に説明したように「奉仕」には「接待、もてなし」の意味があり、5節の主旨は、「」に対して仕える事を教えているのであり、6節では、その「奉仕」の「働き」の根源、動機を説明しているのです。

教会での「奉仕」は、個人的な動機、「」に対する感謝とか、犠牲とか、思い入れとか、誰も居ないから、ではなく、内住する「御霊」の働きにより、押し出され、促され、てなのです。

生きて働いておられる神の力を根源としているのであり、生きて働いておられる神の力を根源としていなければなりません。

人間的な動機、感謝、エトセトラからの、頑張り、犠牲や、止むに止まれぬが動機では、得意だから、好きだからでは、何時しか力尽き、燃え尽きてしまいましょう。

理解者が居ない時、励ましてくれる人が居ない時にも、人は立ち続け、進み続ける事は困難です。

どんな「働き」でも、生きて働く神の力を根源としている限り、人は立ち続け、進み続ける事が出来、弛む事なく、疲れる事もないのです。

多種多様な「働き」の根源は、生きて働く神であり、唯一真の神、独りの神、即ち「同じ神」が、全てのキリスト者に働きかけ、働きに就かせて下さるのです。

12:7 皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。

賜物」「奉仕」「働き」は、「同じ神」、唯一真の神、独りの神に由来するのであり、唯一真の神、独りの神が、「一人ひとり」に「賜物」「奉仕」「働き」を分け与えられるのであり、「同じ神がすべての人の中で、すべての働きを」なさるので、「賜物」「奉仕」「働き」は常に一致し、齟齬がなく、完全に調和が取れているのです。

同じ神がすべての人の中で、すべての働きを」なさるので、「賜物」の違い、「奉仕」の違い、「働き」の違いが、優劣を競い、対立や諍いを生み、分裂になる事はないのです。

賜物」の違い、「奉仕」の違い、「働き」の違いは「皆の益となるために」であり、違いがあって当然、違いがある事が自然、違いは必然なのです。

キリスト者は規格品ではなく、教会は規格品の集合体ではありません。

違いがあり、違いを尊重し、違いを受け入れ、違いを活用するのがキリスト者であり、教会です。

パウロは、「御霊」の違いの実例を九つ挙げて説明します。

12:8 ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。

パウロは、「知恵のことば」と「知識のことば」と分けて表現し、お勧めをしていますが、大きな違いはなく、区別は微妙です。

強いて区別し、説明するならば、「知恵のことば」とは、実際的、実践的なことばであり、成熟した、洞察のある、信仰生活の助けになることばを意味する、聖書の御ことばの適応、を意味しているようです。

知識のことば」とは、理論的、原則的なことばであり、一般的な知識の意味ではなく、聖なる事柄についての理解を助ける、信仰の根拠となることばを意味する、聖書の御ことばの解説、との理解がパウロの言いたい事なのかも知れません。

12:9 ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒しの賜物、

ここでの「信仰」は、一般的な意味の、広義の意味の「信仰」ではなく、奇跡を呼ぶほどの、唯一真の神様への全幅の信頼、「信仰」、特別な奉仕を遂行する「信仰」の意味であり、「癒しの賜物」は、種々の病に苦しむ人たちを、病から解き放つ事を通して、教会の徳を高め、御子、主キリスト・イエス様の栄光を現す「賜物」の意味です。

呪術的、秘義的癒しではありません。

列王記第二511節、2017657ページ、第三版639ページ、

何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた」。

エリシャは、癒しを行なうに際し、神秘的要素、自分の手柄になるような要素を一切排除したのです。

使徒の働き934節、2017252ページ、第三版246ページ、

ペテロは彼に言った。「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると、彼はただちに上がった」。

ペテロは、キリストが癒してくださる事を宣言してから、癒しを行なったのです。

これらは、本当に重要な事であり、癒しなどの特殊な賜物を与えられた者の、取るべき態度です。

12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

奇跡」が、どのような事柄を指しているのかは不明です。

一般的に「奇跡」と呼ばれる特殊な事、不思議な事を行なう力が与えられていたのでしょうが、特殊な力を、不思議な力を、自己アピールのために用いたり、人集めに利用したり、宣伝のために利用するのは厳禁です。

当事者しか知らない位が、最善です。

預言」は、人々に、唯一真の神様の御こころを伝えて、悔い改めと信仰を呼び起こす働きであり、未来の事を含めて、唯一真の神様の御旨を知り、知った事を人々が理解出来るように伝える賜物であり、教会に必要不可欠な働きです。

霊を見分ける力」は、「癒しの賜物」「奇跡を行なう力」「預言」「異言」にも関連しますが、癒しを行なう者が、奇跡を行なう者が、預言者が、本当に「御霊」に動かされて行ない、語っているかどうかを見分け、見定める力です。

コリント教会を含めて、諸教会が直面した、非常に困難な状況は、偽使徒、偽預言者による惑わし、混乱です。

本物か、偽者かの判断は、非常に重要であり、常に、深い洞察をもって真偽を見分けなければならず、教会に必要不可欠な力です。

異言」は、「御霊」に思いを燃やされて、人々には理解出来ないことばで、唯一真の神様に語るのであり、人々には理解出来ないことばですが、教会全体の益のために与えられた賜物です。

但し、「異言」には条件があり、また、「異言を解き明かす力」とセットでなければなりません。

コリント人への手紙第一1427節、2017348ページ、第三版339ページ、

だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。

14:28解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい」です。

パウロが、「異言」を最後に置いたのは、コリント教会で「異言」が偏重され、問題となっていた事に対する警戒であり、「異言」偏重の風潮に水を差す意図からでしょう。

12:11 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。

教会は「御霊」が働く場であり、キリスト者各人は「御霊」が働く器です。

賜物」は、様々であり、非常に多種多様、多岐に亘っていますが、出所は一つ御霊であり、7節「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです」。

同じ一つの御霊が」「みこころのままに」「一人ひとりそれぞれに」「賜物を分け与えてくださる」のですから、「賜物」の有無を論議し、一喜一憂するのは、「賜物」の種類を比較するのは、優劣を競うのも、御霊」の主権を侵す事であり、慎まなければならないのです。

各人は、「御霊」の、賜物」の配分に服し、各人に与えられた「賜物」に満足し、感謝し、他の人たちに与えられた「賜物」を尊重しなければならないのです。

賜物」が分け与えられない事も、御霊」の主権によるのであり、誰一人として必要でない人はなく、誰一人として他者を必要としない人もいないのです。

賜物が分け与えられる事は、御霊」ご自身の働きであり、「賜物」の源が、「御霊」ご自身であり、教会の中には、「賜物」が、種々様々な形で、生き生きと現されている事を、パウロは、実に雄弁に、力強く、力を込めて宣言するのです。

パウロは、教会の存在、機能の根本が、「御霊」ご自身である事を明らかにしているのです。

御霊」の働きこそ、教会を教会としている、キリスト者をキリスト者としている原動力なのです。

御霊」の働きの現われなのですから、誰も誇ったり、羨(うらや)んだり、妬(ねた)んだり、ひがんだりする事は許されないのです。

【適応】

教会には、キリスト者には、種々様々な賜物」が与えられています。

そもそも、教会には老若男女、様々な価値観、様々な思想、様々な職業、様々な立場、様々な地位、様々な年代の人たちが集まっています。

これもキリスト者の「多様性」の一端です。

この世的な観点で見れば、役に立つ人もいれば、役に立たない人もいますが、役に立つ人が優遇され、大切に扱われ、役に立たない人が冷遇され、邪険に扱われる事はありません、あってはなりません。

特別、特殊な「賜物」を持った人もいれば、凡庸な「賜物」の人もいます。

特別な「賜物」を持った人が重用され、凡庸な「賜物」の人が蔑ろにされる事もありません、あってはなりません。

誰もが、創造者なる神様が造られた作品だからであり、誰にも、「御霊」が内住されているからであり、高価で尊い存在だからです。

賜物」の有無、種類など、本当に些細な事、取るに足りない事でしかないのです。

賜物」「奉仕」「働き」で存在感を出し、必要性をアピールするのではありません。

教会は、様々な違いの人たちの集まりですが、「御霊」が働いているからこそ、違いを受け入れ、違いを越えて一つになれるのであり、整合性が取れ、調和が取れ、統一されるのです。

御霊」が働いているからこそ、教会に支配者はおらずとも、齟齬がなく、過不足もなく、バランスが取れ、統制が取れるのです。

賜物」、意見の違いが有っても、妥協や譲歩ではなく、我慢や忍耐でもなく、お互いの賜物」、意見を尊重し、協力出来るのであり、協力すべきなのです。

御霊」は、「賜物」を分け与える係りではなく、方向性を示し、誘導する「力」でもなく、多種多様な人たちを結び付ける「強力な接着剤」でもありません。

御霊」は、「人格」であり、「人格」だからこそ、協調性や親和性を引き出し、教会を麗しい形で、自然な形で統一させるのです。

御霊」が生き生きと働いてるなら、多様性が尊重され、保持されつつ、統一された教会となるのです。

賜物」の有無、種類に関わらずです。

御霊」が生き生きと働いているキリスト者は、存在するだけで教会に益となり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現すのです。

御霊」が生き生きと働いているキリスト者、そんなキリスト者の集まる教会として歩み続けたいものです。

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聖書個所:コリント人への手紙第一12章12節~21

説教題:「賜物の全体性

【導入】

パウロは、「賜物」と云うモノは、聖霊、「御霊」の主権で、「御霊」から一方的に与えられるのであり、「御霊」の思いのままに与えられるのであると、「御霊」の主導性を強く主張し、語って来ました。

賜物の出所は、「御霊」であり、賜物に優劣はない事、賜物の多様性は、「御霊」に因るのであり、誇る事も、卑下する事も許されはしないのです。

パウロは、賜物について、「御霊」の視点から語って来ましたが、賜物の多様性と統一、一致の意味理解の助けとして、更に、噛み砕いて、からだの器官、部分を例に、賜物に優劣がない事、誇る事も、卑下する事も許されはしない事を、具体的に語ります。

【本論】

新改訳2017版 12:12ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

抽象的な事や、論理的な事を、身近な物に譬えて語るのは、当時も今も変わりはありません。

パウロは、賜物の多様性と統一性、一致の関係を、「からだ」を譬えに語ります。

賜物は、多種多様であり、千差万別であり、非常に有益、有用な賜物から、不要、無用とは云わずとも、大して役には立たない賜物とは云えない賜物まで様々です。

異言の賜物と、奇跡を行なう賜物と、いやしの賜物と、信仰と、知識と、知恵とが、遜色ない、とのパウロの教えは、俄かに受け入れがたい教えでしょう。

コリント教会の人たちは、異言の賜物、奇跡を行なう賜物、いやしの賜物と、信仰、知識、知恵とは、雲泥の差、天と地ほどの差、月とスッポンの差だと、断言して憚らないのです。

その中でも特に、異言の賜物を最上位に置き、持て囃していたのです。

しかし、異言の賜物、奇跡を行なう賜物、いやしの賜物と、信仰、知識、知恵とを区別し、差を感じるのは、コリント教会のみの問題ではありません。

私たちも、少なからず、他の人の賜物を羨んだり、自分の賜物を卑下する思いが、全くない、とは言い切れないのではないでしょうか。

特に、日本人の場合、謙遜性から、「私は・・・」が美徳とされている文化では尚更でしょう。

しかし、パウロが云いたいのは、美徳云々ではなく、卑下であり、自慢であり、御霊」が与えられた賜物に、優劣、上下を付け、差別する事です。

そこでパウロは、賜物に優劣を付ける事が、如何に意味のない事かを、「からだ」「部分」を譬えに語ります。

からだには、多種多様、「多くの部分」、器官があります。

多くの部分」は、其々独立しており、其々に特有、固有の機能があり、区分するため名前をつけ、分類する事が出来ますが、「一つのからだ」の構成要素であり、お互いが不可分的なものなのです。

どれが欠けても不自由しますし、二つあるから、片方は要らない、と云う事もありません。

パウロは、「一つのからだ」を構成するのは「多くの部分」だ、と語り、その関係を、「キリストもそれと同様です」、と断言しますが、ここでパウロの語る「キリスト」は、「教会」の意味であり、御子キリスト・イエス様は、からだの一部では、断じてありません。

御子キリスト・イエス様と「教会」を同一視したり、御子キリスト・イエス様と「教会」の関係を曖昧にしたりしてはなりません。

御子キリスト・イエス様は、からだの一部ではなく、教会の一部ではなく、頭であり、主です。

多くの部分」はからだなる教会、即ち「キリスト」に帰属するのですが、「多くの部分」をコントロールするのは、頭なる、主なる、御子キリスト・イエス様だけです。

12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

パウロは、「ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人」と、二つの人種、二つの身分を挙げますが、この四つは、全ての人種、全ての身分の人たちを指し示しているのであり、「バプテスマを受け」る事で、人種、身分の区別はなくなり、「一つのからだとなりました」と宣言します。

これは非常に重要な教えですが、単に、キリスト者になる手続き、形式的な宣言なのではなく、人種、身分の差の撤廃の宣言、平等の宣言でもなく、「一つの御霊」の主権の下に生きる者となった、「一つの御霊」の働きの支配に従う者となった事を示し、宣言しているのです。

先に、「イエスは、私の主です」との告白に付いて学びましたが、「バプテスマを受け」る事は、「一つの御霊」の生きた働きによるものであり、御子キリスト・イエス様との交わり、一致に加えられた事を証しする、外面的な、目に見える、非常に重要な印なのです。

ですから「バプテスマ」は、公の礼拝などで、多くの人たちの前で、行なわれなければなりません。

バプテスマ」の持つ働き、福音の力は、各人の生き方を変える、個人的な面と同時に、人種、身分を越えて「一つのからだ」とする全体的な働き、統一的な力なのです。

みな一つの御霊を飲んだのです」は、聖餐式を指す、との見解がありますが、「一つの御霊を飲んだ」のであり、「一つの御霊」の主権の下に生きる者となった、「一つの御霊」の働きの支配に従う者となった事を強調した宣言であり、キリスト者の統一性、全体性を示唆する、重要な意味を持つ宣言なのです。

信仰に導かれた時、全ての人が「一つの御霊によってバプテスマを受け」、「一つの御霊を飲」み、「御霊」を我が内に宿し、「御霊」の働き、力によって、キリストのからだなる教会に結び合わされるのです。

12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。

14節は、12節の繰り返しですが、各部分の多様性は、からだにとって正に本質的なものであり、いずれの部分も必要とされ、其々の特有、固有の機能を持って、からだ全体のために生きるのです。

12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

コリント教会では異言の賜物が偏重されていたようですが、コリント教会の人たちの中には、キリスト者同士の間にも、其々の賜物、能力など、ありとあらゆる要素に優劣を付け、競い合い、相互に誇り、一部の人たちを見下げ、優越感に浸っている人たちが居たのです。

その結果、目立つ、特殊な賜物を持たない人たちは、「自分のような者は、からだ、即ち教会に属していない、必要とされていない」と考え、教会の交わりから身を引き、去って行く者も居たようです。

そこで、パウロは、そのように考えてはならない事を教え、自己卑下する者に対して励ましを与えるのです。

加えて、18節、「神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」を否定する事である、創造者なる神様の御旨と主権を侵す事である、として警告を発するのです。

12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。

16節、17節は、15節の繰り返しですが、「」は複雑繊細な作業に対応出来る機能を有していますが、「」は手と同じような働きが出来ません。

」と「」の比較、「」と「」の比較、「」と「」の比較は、比較的違いや差を見付け易いのですが、こんな比較には意味はありません。

」には足の、「」には手の、「」には耳の、「」には目の、「」に鼻の働きがあり、他の部分では代行出来ない事のほうが、遥かに多い、大きいのではないでしょうか。

パウロは、各部分は、各部分に与えられた立場、機能を正しく自覚して、他を妬(ねた)んだり、羨(うらや)んだり、自己卑下したりしてはならない事を教え、各部分は、各部分に与えられた立場で、多様な機能を活用して、相互に力を合わせて行く事の方がどれ程必要、大切な事であるかを強調し、教えるのです。

キリスト者が、嫉妬心を持ち、他の人と同じ賜物を持ちたい、同じようになりたいと願うのは、愚かな事であり、創造者なる神様の主権、ご計画を犯す、危険な行為である事を教えるのです。

賜物の違いは、教会が健全なキリストのからだであるために必要な事であり、教会が生き生きとしたキリストのからだであるために必要な事であり、教会は、様々な賜物を持つ人が必要とされており、賜物を持たない人も必要とされているのです。

12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。

からだの各部分の多様性は、立場の違いは、機能の違いは、創造者なる神様の主権による、創造の御業で示された御旨であり、からだの各部分の多様性は、違いは、差は、創造者なる神様の主権によって与えられた個性であり、一切の優劣はなく、瑕疵、傷、欠陥などでは決してありません。

12:19 もし全部がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。

12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。

12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。

どれ程重要、必要不可欠と思われ、実際に無いと困る部分だとしても、その部分だけでからだを構成する事は出来ません。

パウロは、からだの各部分の種々、様々な多様性を、再度強調します。

各部分に備わった特殊な働きは、それはそれで重要ですし、不可欠ですが、必要不可欠、重要な部分は、見えない、目立たない、存在している事を意識されない部分によって支えられ、或いは養われ、守られている事を忘れてはならないのです。

21節でパウロは、「」、「」、「」「」を挙げていますが、「」に塵が入った時、その塵を取るのはどの部分でしょうか。

」は、普段、どの部分によって支えられ、養われ、守られているのでしょうか。

」も、「」も、「」も同じです。

15節、16節とは逆に、自らの賜物を誇り、他の人たちを見下し、「あなたがたはいらない」、即ち「あなたたちは教会にとって不要だ、お荷物だ、厄介者だ」と考え、発言するような者も居たのです。

そんな考えは、弱い者、賜物を持たない者も含めて、一つにされる事を否定する考え方であり、断じて許される考え方ではありません。

目立つ、特殊な賜物を持たない人たちは、自分の賜物に不満を抱き、卑下し、他の人の賜物を羨んだりする者が居たようであり、パウロは、双方に対して、18節、「神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」を否定する事である、創造者なる神様の御旨と主権を侵す事である、として警告を発するのです。

全ての部分が、他の部分を必要としている事実を忘れ、実態を無視してはならないのです。

コリント教会の深刻な問題は、一に、主の晩餐を巡って表面化した、旧来の身分差別問題でしたが、加えて見過ごしには出来ない大問題となったのが、賜物の違いによって表面化した、賜物を誇り、高慢になり、見下す者と、賜物を卑下し、妬み、羨望を持つ者との間に生じた、新しい差別であり、パウロは教会の存続、キリスト者の交わりを阻害、破壊する問題として指摘し、悔い改めを迫るのです。

【適応】

パウロはからだを譬えに、どんな部分でも、不必要、無駄、役に立たない部分は無い、と断じます。

同じように、教会に於いても、どんな賜物でも、不必要、無駄、役に立たない賜物はない、と断じます。

からだの中で、例えば複雑繊細な働きをする「」ですが、「」だけによる単独、独立した働きではありません。

胴体が支えてくれるので、血管が酸素と栄養を運んでくれるので、老廃物を運び出してくれるので、心臓が新鮮な、酸素と栄養豊富な血液を送り出してくれるので、肺が酸素を取り入れ、二酸化炭素を排出してくれるので、消化器官が、豊富な栄養を取り入れてくれるので、神経網が、的確な、微に入り細に入る指示を出してくれるので・・・・・・あのような複雑繊細な動き、働きが出来るのです。

全ての部分で似たような事が行なわれており、他の部分を必要としているのです。

教会でも、同じであり、必要とされない人は、唯の一人もいないのです。

ある瞬間、ある状況下では、必要とされる人と、そうではない人とに分けられるかもしれませんが、教会全体として、どんな賜物でも、不要な賜物はなく、賜物がない人でもあっても、不要な人はいないのです。

それが教会です。

賜物がない人を邪魔者扱いするのは、もっての他であり、邪険に扱ってはならず、追い出してはならず、賜物の有無で、賜物の種類で、扱いに、待遇に、処遇に差があっては断じてならないのです。

教会に於いては、賜物の有無、賜物の種類で差別されては断じてなりません。

創造者なる神様は、賜物の種類、賜物の有無ではなく、存在そのものを愛しておられるのであり、そして、教会の試金石として賜物のない者を置いておられるのです。

教会が、賜物の種類、賜物の有無で差別をするなら、それは創造者なる神様の御こころの教会ではありません。

先に学んだ事ですが、誰もが、創造者なる神様によって造られた作品であり、誰にも、「御霊」が内住されているのであり、高価で尊い存在なのです。

この二点が重要、大切であり、創造者なる神様によって造られた事を自覚するなら、「御霊」が内住されている事を確信するなら、「賜物」の有無、種類など、本当に些細な事、取るに足りない事でしかなくなるのです。

創造者なる神様によって造られた事を自覚するキリスト者は、「御霊」が内住されている事を確信するキリスト者は、他の人の賜物などには関心も、興味もなくなり、常に「全体性」を意識し、全体の中の一部である事を自覚し、支えられている、守られている、養われている事を自覚し、謙虚、謙遜になり、協調、一致出来るのです。

「全体性」を意識する、と云っても、回りを気にしたり、評価を気にしたり、忖度したり、遠慮したり、の意味ではありません。

何かをする、しない、出来る、出来ないではなく、教会の一員であるとの自覚こそが重要、大切なのです。

少数の、特異、特殊な賜物を持った者よりも、「全体性」を自覚した者、教会の一員である事自体に意義を見出せる者が、教会に益する者となり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現すのです。

そんなキリスト者の一人として歩み続けたいものです。

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                                               2021-7-25礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一12章22節~27

説教題:「賜物の調和

【導入】

パウロは、「賜物」について、語ってきました。

賜物」は、単一ではなく、多様性があり、しかも、統一性も合わせ持っています。

違いがあって当然、違いがあってこそ、多様な働きにつながり、多様な社会に対応出来るのです。

そして、「賜物」は、人間の側の願いとか、努力とか、熱心によって与えられるものではありません。

賜物」は、聖霊、「御霊」の主権で、「御霊」のご計画で与えられるものであるからです。

賜物」には著しい偏りや重複がなく、不足や余剰もなく、混乱がなく、秩序があります。

教会の交わりが、麗しい形で行なわれるためであり、教会の働きが、円滑に進められるためです。

パウロは、「賜物」の種類、多様性と統一性を、からだを譬えに語ってきました。

更に、「賜物」を通して、お互いがお互いを必要とする事と、「賜物」の「調和」について語ります。

【本論】

新改訳2017版 12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。

ほかより弱く見える部分」が意味する、からだの部分とは、外からの強い力、衝撃などに弱い「目、眼球」のような、繊細な働きをする部分を指しているのか、からだの内側に隠れていて見えない「心臓」のような、重要な働きをする部分を指しているのではないか、と考えられます。

このような部分は、他にもたくさん挙げられますが、生きていくために必要不可欠であり、傷ついてしまうと、弱ってしまうと、他の部分で補うのは、代行するのは難しく、生きていくのは、からだを維持するのは非常に困難な事になります。

「目」は、「瞼」や「睫毛」、「涙」で保護しなければならず、「心臓」は、「胸骨」で、からだの奥深くで保護しなければならないのです。

12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、

見栄えがほかより劣っていると思う部分」と訳されている箇所ですが、新共同訳聖書では、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、口語訳聖書では、「他よりも見劣りがすると思えるところ」、新改訳第三版では、「比較的に尊くないとみなす器官」と訳しています。

見苦しい部分」と訳されている箇所ですが、口語訳聖書では、「麗しくない部分」、新改訳第三版では、「見ばえのしない器官」と訳しています。

見栄えがほかより劣っていると思う部分」、「見苦しい部分」とは、否定的な意味合いが強い訳ですが、否定的な意味合いではなく、「見栄えをよくするものでおお」われている部分、即ち、「目立たない部分」、「意識する事もない部分」を指しているのではないか、と考えられますが、パウロが、からだのどの部分を意識したのかは不明です。

先に、「弱く見られる部分」として「目」を例に挙げましたが、「目」は、単独ではちょっとグロテスクなのではないかな、と思うのは私だけでしょうか。

「目」は、「瞼」で覆われているからこそ、「良い格好」になるのであり、他に時々見え隠れする「歯」や「舌」も、「唇」で覆われているからこそ、「良い格好」になるのではないでしょうか。

「目」は非常に大切な部分であり、「歯」や「舌」は目立たないけれども大切な部分であり、だからこそ、いっそうの尊敬をもって、覆い守り、保護するような配慮がなされているのです。

但し、「見栄えがほかより劣っていると思う部分」、「見苦しい部分」を隠す、見せないようにする、無いかの如くに扱う、の意味でない事は、はっきりさせておかなければなりません。

12:24 恰好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。

一方、「恰好の良い部分はその必要がありません」。

パウロが思い描く「恰好の良い部分」がどの部分なのかは不明ですが、からだの表面に置かれている部分、からだの内部に置かれていない部分、例えば「鼻」とか「耳」とか、均整の取れた身体、とかが、「恰好の良い部分」なのかも知れません。

創造者なる神様が、「見栄えがほかより劣っていると思う部分」、「見苦しい部分」を、「見栄えをよくするものでおお」い、「からだを組み合わせ」たのです。

からだのどの部分も、創造者なる神様の愛の配慮で「組み合わ」されており、神様の配慮を必要としていない部分は、一つもないのです。

また、からだの全ての部分は、複雑に関係し、相互に依存し合い、且つ、完全に調和しているのです。

一方的な依存は有りません。

どれ一つが欠けても、全体の調和は崩れ、からだとして正常には機能しなくなります。

それ故に、21節「私はあなたを必要とはしない」などと言う事は、決して出来ないのです。

からだの全ての部分は、創造者なる神様が備え、組み合わされたのであり、全て、必要な部分であり、不要な部分は、一つもないのです。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。

からだの・・・各部分が互いのために・・・配慮し合う」、即ち「調和」の目的は、消極的な意味では、「からだの中に分裂がな」いためです。

からだがからだとして機能するためには、調和しなければならないのであり、調和しなければ、「分裂」したならば、からだの機能は著しく低下し、停止するのは必至です。

からだの各部分の調和の積極的な目的は、からだの「各部分が互いのために、・・・配慮し合うため」です。

互いを労わり合うため、進んで助け合うため、喜んで補完するためです。

からだの部分は強いられてではなく、自発的に、自律的に、からだを構成する各部分に配慮するのであり、そこに強制や、義務感などはありません。

そもそも、人間が造られた目的は「お世話するため」です。

お世話する事こそ、配慮する事こそ、人間の、からだの存在目的に合致するのです。

12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

各部分の調和がもたらすものは、分裂の回避と、お互いへの配慮だけではありません。

内面的な充実、即ち、「苦しみ」の共有、一致と、「」びの共有、一致です。

苦しみ」の分かち合いと、「」びの分かち合いです。

お互いの賜物が尊ばれ、相互に生かされるなら、苦しみ、悲しみは、当人一人の苦しみ、悲しみに留まらず、からだ全体の苦しみ、悲しみとなるのです。

同じく、当人一人の栄誉、喜びに留まらず、からだ全体の栄誉、喜びとなるのです。

喜びの共有だけでなく、苦しみ、悲しみの共有が、更なる一体感、連帯感、調和をもたらすのです。

しかし、お互いの賜物の事で優劣を競い、自慢があり、見下しがあり、妬みがあり、卑下があるなら、ある部分が苦しむ、その時、陰で喜び、ほくそ笑み、ある部分が尊ばれ、喜ぶ、その時、妬み、嫉妬を起こすなら、賜物は生かされず、混乱が起こり、反目が起こり、分裂が生じ、当人一人の問題ではなく、からだ全体に関わり、からだ全体の損失となるのです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

からだを構成する各部分は、御子キリスト・イエス様の所有物であり、御子キリスト・イエス様の権威に服するものです。

各部分は、御子キリスト・イエス様の一部として、全体の交わりの中に生き、全体のために生きるのです。

そして、各部分は、全体の交わりの中で生かされ、全体によって生かされるのです。

即ち、からだは各部分を必要とし、各部分はからだと各部分を必要とするのです。

パウロは、からだの部分の多様性、統一性、全体性、相互依存性、調和は、からだそのものである事を譬にして、賜物の多様性、統一性、全体性、相互依存性、調和の理解の助けとし、キリストのからだなる教会の理解の助けとするのです。

【適応】

先に「賜物の多様性、統一」「賜物の全体性」と云う説教題で学んで来ました。

今回は「賜物の調和」と云う説教題ですが、「統一」「全体性」と、「調和」では、ニュアンスは似ていますが、本質に於いては大きく違います。

「統一」と云う言葉は、広辞苑によれば、「多くのものを一つに統べること。統べ合わせて支配すること」であり、説教では、御霊の主権性、御霊の主導性による賜物の配分と、賜物のまとまりなどを確認しました。

「全体性」と云う言葉は、広辞苑によれば、「身体の全部。全身。一まとまりのもののすべて。総体」であり、説教では、賜物相互の関係性、依存性に付いて確認しました。

「統一」「全体性」は、御霊との関係性が重要であり、御霊に従属している事が重要である事などを確認した事でした。

さて、「調和」と言う言葉は、広辞苑によれば、「うまくつり合い、全体がととのっていること。いくつかのものが矛盾なく互いに程よく和合すること」であり、御霊の導き、助けの下で、各器官であるお一人お一人が、自主的に、自発的に、自律的に協力、協調する事に、重きが置かれています。

教会の交わりは、同じ信仰を持つ者としての統一的、全体的交わりを越えたところにあります。

つまり、単に纏まっていればいい、多少の問題があっても、統一されていればいい、ではありません。

そのような前提の下での、表面的な大人の付き合いを奨励しているのではありません。

内面的な関係性を重要視するのであり、内面的な関係性、と云っても、非常に親密な関係性を奨励しているのではありません。

勿論、遠慮会釈なし、土足でずかずかと踏み込んだり、の意味ではありません。

配慮する事であり、和合している事です。

変な遠慮はしないが、言いたい放題ではありません。

よい意味での、お互いの関係性を弁えた、大人の付き合いです。

べたべたした付き合いではなく、適切な距離感を持ちつつ、馴れ馴れしくなく、他人行儀でもなく、無理せず、自然な関係、本当に自然な関係です。

作られた自然ではなく、和合から醸し出される、滲み出て来る自然です。

お互いに気を遣っているけれど、それが負担とは、重荷とはならない関係です。

人間には罪の性質があるので、簡単には、構築出来ないでしょう。

しかし、御霊が内住しているのですから、不可能ではありません。

不可能では有りませんが、「我」が強い人には、難しい課題でしょう。

「調和」は、徹底的に仕える者の姿勢を貫かなければなりません。

「お手伝い」、「お世話」、「注意」と云う名の下での、誘導、支配、強制がまかり通ってはいないでしょうか。

「一緒に」と云いながら、相手の意思は尊重されず、自分の意の方向に誘導してはいないでしょうか。

親切、お世話の思いで始めたのに、何時の間にか、支配、強制になってはいないでしょうか。

「調和」は、私に主導権があるのではなく、私に合わせさせるのでもなく、相手の意思を尊重し、相手に合わせるのであり、相手を気遣う事で達成するのです。

「調和」を自覚した者、仕える事自体に意義を見出せる者が、教会の「調和」に益する者となり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現すのです。

 

そんな仕える者、御子キリスト・イエス様の僕の一人として歩み続けたいものです。

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