2021-8-1礼拝
聖書個所:コリント人への手紙第一12章28節~31節
説教題:「皆の益になる賜物を求める」
【導入】
パウロは、「賜物」について、色々な角度から、解り易い例を喩えに用いて語ってきました。
「賜物」に優劣はなく、「賜物」は、単一ではなく、多様性があり、しかも、統一性も合わせ持っています。
出所が御霊、聖霊だからです。
「賜物」に優劣のない事、多様性と統一性とを、からだを喩えに語りました。
からだの各部分の違いは、創造主なる神様のご計画に従って、からだがからだとして問題なく、円滑に働くためです。
円滑に、創造主なる神様のご計画通りに働くためには、単に多様性と統一性とを保持していれば良い訳ではありません。
「調和」が必要であり、各部分が各部分を思い遣る、配慮する事が必要です。
その事を、次のように纏めました。
よい意味での、お互いの関係性を弁えた、大人の付き合いです。
べたべたした付き合いではなく、適切な距離感を持ちつつ、馴れ馴れしくなく、他人行儀でもなく、無理せず、自然な関係、本当に自然な関係です。
作られた自然ではなく、和合から醸し出される、滲み出て来る自然です。
お互いに気を遣っているけれど、それが負担とは、重荷とはならない関係です。
加えて、必要な時に自然に助ける。
しかし、余計な手出し、口出しはしない。
言うは易し、行なうは難しでしょうが、教会が、創造主なる神様、御子キリスト・イエス様の御こころの教会であるためには、必要不可欠な事であり、キリスト者のあるべき姿の筆頭であるべきであり、全てのキリスト者は、「賜物」が豊に用いられるために、「調和」「和合」のために祈るべきです。
自分に関わる事が、祈りの筆頭、中心であってはならず、自分の名誉、評価、評判などが関心事であってはなりません。
自分の事は後回しでなければならず、教会の働き、創造主なる神様、御子キリスト・イエス様の御こころがなされる事が、最優先されなければなりません。
パウロは、更に、「賜物」について語ります。
【本論】
新改訳2017版 12:28 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒しの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。
「賜物」に優劣、尊卑、上下、などなどは一切ありませんが、「賜物」の偏りや、「賜物」の欠如、不足があるのは困りものです。
教会が、創造主なる神様、御子キリスト・イエス様の御こころの教会であるために、その教会で、その時に必要な「賜物」が与えられており、且つ、バランスよく与えられているのです。
教会は、創造主なる神様、御子キリスト・イエス様に対する責任と使命を果たさなければなりません。
御ことばが宣べ伝えられ、創造主なる神様、御子キリスト・イエス様の栄光が現されなければなりません。
創造主なる神様、御子キリスト・イエス様を愛し、創造主なる神様が造られた隣人を愛さなければなりません。
そんな色々な必要な「賜物」の中で、筆頭に挙げられた職制は「第一に使徒たち」であり、そして「第二に預言者たち」、「第三に教師たち」です。
この三つの職制の職務は、御言葉の解き明かしを中心とする働きです。
この職務が筆頭に上げられているのは、しかも、「第一に」、「第二に」、「第三に」と、順位が付けられているのは、教会の働きの中心であり、最も重要な働きだからです。
「第一に使徒たち」ですが、御子キリスト・イエス様に召され、御子キリスト・イエス様に仕え、御子キリスト・イエス様の権威を受けて、福音を宣べ伝え、御ことばに伴う力強い業を為す人たちです。
教会の最も大切な基盤を据える人たちであり、一教会、一地方に限定される事なく、全教会に対して責任と権威を持つ人たちであり、十二使徒が挙げられましょう。
「第二に預言者たち」ですが、御霊の導きによって、創造主なる神様の御旨、御子キリスト・イエス様の教えを伝える人たちです。
パウロは、この職務を、人の徳を高めるものとして、教会の具体的必要を見抜く、重要な役割として、特に重要視していました。
ピリポとかの名前が挙げられましょう。
「使徒たち」、「預言者たち」は、各地の教会を巡回して、現地の教会の問題に取り組み、教会の必要に応えていたようです。
「第三に教師たち」ですが、キリスト者としての信仰と生活の実践について、御子キリスト・イエス様の教えに基づいて、教会の信徒を導いた人たちです。
特定の教会を拠点として活動するのが、基本姿勢であり、テモテとか、テトスとかの名前が挙げられましょう。
この三つの職制は、似た職務であり、重複する部分が多いのですが、当時は明確に分けて考える必要があったようです。
キリスト教の伝播期であり、何の権威によって語るのかが問われた時期だからであり、職務を分け、教会の現実の問題に対応する必要があったからです。
現代に至り、「使徒たち」、「預言者たち」の働きは縮小し、主に「教師たち」に、この三つの職務が委ねられて、担っているようです。
それでも、職制については、明確な区別がされなければなりません。
現在、日本同盟基督教団では、教師職制は、正教師と補教師に分けられ、扱う職務が明確に規定されています。
これは差別ではなく、区別であり、逸脱や混乱を起こさないための知恵です。
さて、先の三つの職制、職務に続いて、五つの職制、職務を紹介します。
「力あるわざ」、「癒しの賜物」は、教会に与えられた職制であり、教会の徳を高め、教会全体の益のために用いられなければなりません。
教会を離れた個人的な働き、活動であったり、特定の人たちの利益に繋がったり、特定の人たちが讃えられ、注目される事になってはなりません。
「援助」は、教会の働きとして、弱い人たちへの配慮、支援を主とする人たちであり、貧しさ、弱さ、病気など、実際的必要を持つ者に対して、具体的援助をする人たちです。
「管理」は、「治める」の意味を持つギリシャ語であり、生活と行為の全般に亘って教会の方向を導く役割をする人たち、いうなれば、生活指導の任に当たる人たちです。
営繕的な意味合いや、物品管理の意味合いで紹介しているのではなさそうです。
「援助」、「管理」などの、地味な働きも、単なる人間的な働きとしてではなく、御子キリスト・イエス様からの任命を受け、御霊の賜物によって満たされ、御霊に導かれて遂行されていかなければならないのです。
現代では、教会によって呼称は様々ですが、長老、役員、執事などの人たちが、「援助」、「管理」などの任に当たっているのですが、教会にとって大切、必要な働きであり、敬意を持って遇なければなりません。
パウロは、最後に「種々の異言」を紹介していますが、ここに、パウロの意図が明確に読み取れましょう。
即ち、コリント教会の人たちは過度に「異言」を尊重し、「異言」をもてはやしていましたが、パウロはその考え、行動に水を差す目的を持って、「異言」を最後の最後に置いたのです。
教会の益になり、教会の必要なのは、決して「異言」ではない、とのメッセージでもあるのです。
草創期、過渡期を過ぎた教会に必要なのは、秩序立った、組織立った職制であり、職制に則った職務なのです。
スタンドプレイは不必要であり、権限を越えた言動は問題であり、職制や職務を逸脱した行為は、混乱のもとであり、教会の益にはならないのです。
良かれと思って・・・、は理由になりません。
「教師」でない者が、牧会をしてはならず、職制、職務、組織、規則を尊重し、従わなければならないのです。
それは、秩序の神に相応しい事であり、教会の益になるからなのです。
12:29 皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。
12:30 皆が癒しの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。
29節、30節は、決して使徒職の否定、預言者職の否定、教師職の否定、力あるわざの否定、癒しの賜物の否定、異言の賜物の否定、異言の解き明かしの否定、では在りません。
これらの職制や職務は、教会の中で生きて働いている、御霊の多様性の現れであり、其々は独立した働きであると共に、お互いを補い、統一され、調和があり、教会の益となる働きである事を、パウロは力強く繰り返し、表明するのです。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。
「よりすぐれた賜物」は、決して優劣ではなく、尊卑でもなく、上下でもありません。
「賜物」は、自分自身の益や誇りのために与えられているのではなく、12章7節、「皆の益となるために」、教会の益となるために与えられているのであり、「皆の益となるために」、との視点からの「すぐれた賜物」の意味であり、「皆の益となるために」、教会の益となるために、「よりすぐれた」、即ち、「相応しい」「賜物を熱心に求めなさい」、遠慮する事なく、大胆に、と理解するべきでしょう。
教会には、多種多様な御霊の賜物が与えられています。
御霊の導きに基づいて、実行可能な職制と職務が備えられています。
しかし、コリント教会の一部の人たちは、このような御霊の導きによる教会の本質を誤解し、自己中心、自己満足、そして自己卑下に陥り、コリント教会に混乱を招いていたのです。
パウロは、コリント教会の一部の人たちに向って、御霊の与える各種賜物の、共通の目的である「皆の益となるために」、教会の益となるために、と云う原則に従って、「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と、お勧めするのです。
【適応】
教会には多種多様な「賜物」を与えられた人たちがおられますが、各々が、与えられた「賜物」で満足しているようであるなら、その「賜物」で、教会に貢献している、と考えておられるなら、ちょっと残念です。
「賜物」は、磨かなければならず、また、「賜物」の種類を増やしていかなければならないのではないでしょうか。
勿論、全員が、何かしらかの「賜物」を持っていなければならない訳ではなく、全員が「賜物」の種類を増やさなければならない訳ではありませんが、教会に於いて、多種多様な「賜物」が、相互的に補完し合い、複合的に効果を高め合うように、個人に於いても、複数の「賜物」が与えられたならば、相互的に補完し合い、複合的に効果を高める事になるのではないでしょうか。
コリント教会のような、多人数の教会には、多種多様な「賜物」を与えられた人たちが大勢いた事でしょうから、「賜物」の種類も、「賜物」の数も、充分だったでしょうが、パウロは、それで満足する事なく、「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と、お勧めをするのです。
それは、パウロの宣教活動と、密接に繋がっていましょう。
パウロに与えられた使命は、全世界に出て行って、福音を宣べ伝える事ですが、「使徒たち」、「預言者たち」、「教師たち」、教職者たちの働き、即ち開拓伝道は、非常な困難が伴います。
協力者の同伴がなければ、何から何まで一人でやらなければ、対応しなければなりません。
開拓期は、それも仕方がない事かもしれませんが、何時までも、教職者にお任せなのは、教会の健全な姿とは言えません。
「使徒たち」、「預言者たち」、「教師たち」、教職者たち、説教者たちは、主に説教に専念すべきです。
開拓伝道に際し、複数の「賜物」を与えられた協力者が同伴してくれるなら、パウロは、「使徒たち」、「預言者たち」、「教師たち」は宣教活動に専念する事が出来、福音を広く届けられるのではないでしょうか。
コリント教会の人たちは、コリント教会の事だけを考えていれば良いのではありません。
コリント教会の使命は、「賜物」の不足から、充分な宣教活動が出来ない教会に、人的支援をする事であり、経済的に困窮している教会に、金銭的支援をする事です。
先に救われたキリスト者は、「賜物」に磨きをかけ、「賜物」を増やし、「賜物」を用いて、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様にお仕えし、創造者なる神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現さなければならないのであり、「賜物」を存分に用いて、神と人とを愛していかなければならないのです。
コリント教会のような大きな教会では、小さな、少人数の教会ではなお更、一人で何役をもこなさなければならない事態が起こるでしょうから、「賜物」の種類を増やし、何時でも必要に応じられるように、備えておく事が必要なのです。
「皆の益となるために」は、各個の教会の益の意味でも、所属する教会員の益の意味でもありません。
そんな小さな、縄張り意識、仲間意識、身内意識ではなく、「地上の全ての教会の益となるために」、「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」なのです。
自分の教会の事、仲間の事、身内の事を中心に考えるのは、幼子の考え方です。
キリスト教界全体の益のためを考えてこそ、大人のキリスト者の考え方です。
私たちは、そのために召されているのですから、「地上の全ての教会の益となるために」、「よりすぐれた賜物を熱心に求め」て行こうではありませんか。
2021-8-8礼拝
聖書個所:コリント人への手紙第一13章1節~7節
説教題:「愛がなければ・・・」
【導入】
パウロは、「賜物」について、色々な角度から、解り易い例を喩えに用いて語ってきました。
「賜物」には優劣がない事、多様性と統一性とを、からだを喩えに語りました。
からだの各部分の違いは、創造主なる神様のご計画に従って、からだがからだとして問題なく、円滑に働くためです。
そのためには、からだの各部分は、自分に与えられた働きを、粛々と行なっていれば良い訳ではなく、各部分が各部分を思い遣る事が、配慮する事が必要です。
パウロは、教会に与えられた御霊の「賜物」を真に生かすのは何なのかに付いて、創造主なる神様のご計画に従って、使命を全うする根底となる原動力について語ります。
【本論】
新改訳2017版 13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
パウロは、どんな「賜物」も、人々が注目し、賞賛するような有益な働きも、誰もが瞠目し、尊敬するような稀有な業も、「愛がなければ」何の意味もない、と断言します。
各部分が各部分を思い遣る事がないなら、配慮する事がないなら、即ち「愛がなければ」、どんな働きも、業も意味がない、と断定するのです。
「愛」が根底にある事が、御霊の「賜物」を真に生かす秘訣であり、創造主なる神様のご計画に従って、使命を全うする原動力であると、語っているのです。
その具体例として「人の異言や御使いの異言」を挙げます。
コリント教会では「異言」がもてはやされ、「異言」こそが最高の「賜物」だ、との風潮でした。
パウロは、その考えに水を差しますが、「異言」自体は、尊い「賜物」であり、非常に有益な「賜物」であり、パウロにも与えられていた「賜物」でした。
14章18節に、「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています」と証言している通りです。
しかも、パウロは、「御使いの異言」の「賜物」も与えられていたようです。
コリント人への手紙第二12章2節、2017版370ページ、第三版360ページ、「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
12:3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
12:4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました」と語っている通りです。
しかし、パウロは、「愛がなければ」、どんな「賜物」も根本的な意味を失ってしまう事を指摘し、「愛」の絶対的必要性、重要性を強く主張するのです。
人々の救いの助けとなり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す、「人の異言や御使いの異言」も、「愛がなければ」意味がなくなると断定し、まるで、「騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです」と断定するのです。
ここで、「どら」や「シンバル」を引用しているのは、当時の宗教事情、風潮を考慮しての事です。
先に、パウロは、異教の神に献げた肉について、異教の神殿での飲食について語りましたが、パウロが、「どら」や「シンバル」と言えば、人々は否応なしに「ディオニュソス」や「キュベレ」を連想した事でしょう。
ギリシャ、ローマでは、「ディオニュソス」などが、小アジア、フリュギア地方では「キュベレ」などが崇拝されており、その祭儀では鳴り物、「どら」や「シンバル」などなどを鳴り響かせ、神々を目覚めさせ、悪霊を追い出し、礼拝者を興奮させるために用いられ、大いに盛り上がり、人々は恍惚状態になって、熱狂乱舞の行列を繰り出す事で知られていました。
因みに、「ディオニュソス」とは、ギリシャ神話に登場する豊穰とぶどう酒と酩酊の神で、ローマ神話のバックス、或いはバッカス、エジプト神話のオシーリス、「キュベレ」とは、大地母神、豊穰、多産の女神だそうです。
歴代の預言者は、鳴り物を響かせるような形式的儀式は無意味であると警鐘を鳴らして来ましたが、パウロも、「愛がなければ」どんな「賜物」も、形式的儀式と同等だ、意味がなくなるとの警告を発しているのです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
パウロは、「賜物」に対する「愛」の必要性、不可欠性について、語り続けます。
パウロが、「預言の賜物」、即ち、「御ことばの説教」を非常に重要視しているのは、12章8節以降のリストからも、28節以降の職制、職務の話しからも、14章1節での比較からも、明らかです。
「預言の賜物」は、人々を悔い改めに導く、重要な働きであり、「預言の賜物」を支える土台、根拠となる「あらゆる奥義とあらゆる知識」を蓄え、聖書、教理、真理に精通していたとしても、「使徒、預言者、教師」として知るべき事の全てを知っていたとしても、加えて、「山を動かすほど」、と形容されるような「完全な信仰を持っていても」、「愛がないなら」、「無に等しい」、即ち、何の意義も、意味も、価値もない、と断言するのです。
「愛」こそ、あらゆる御霊の賜物を、本来の目的のために用いる事を可能にする原動力なのです。
何故「愛」が必要かといえば、人間には罪があり、良い行いも罪の影響を受け、悪しき物となっているからです。
「愛」がある事で、辛うじて良さを保持出来るのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
「持っている物のすべてを分け与え」は、言葉通り、慈善や施しを意味します。
ユダヤ教は、慈善や施しを最も大切な事と考えていて、それを連綿と行なって来ましたが、初代教会も、その良き伝統を引き継いで、慈善や施しを実践して来たのです。
「からだを引き渡して」は、身代わりの犠牲、殉教を意味しますが、御子キリスト・イエス様に倣う行為として、進んで身を挺する人たちがいたのです。
本来なら、どちらも素晴らしい行為ですが、そのどちらもが「誇ることになって」、即ち、人々に褒められたいと云う、誤った動機からなされる危険がある事を、パウロは深く憂いていたのです。
否、杞憂ではなく、使徒や預言者、教師、そしてパウロたちが各地で迫害に遭い、殉教している事は、コリント教会の人々の耳に入り、話題にもなり、正しい動機からではなく、殉じたい、真似たいと思う人たちが、「誇る」ために、「持っている物のすべてを分け与え」、「からだを引き渡」す人たちが、少なからず居たのです。
唯一真の神様の前での人の価値は、賜物の価値は、経緯や結果ではなく、動機が問われ、「愛」が原動力であるか否かで決まるのです。
続けて、パウロは、愛の特質、具体的特長を列挙します。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
1節以降、「愛」と訳されているギリシャ語は「アガペー」であり、御子キリスト・イエス様の十字架によって明らかに示された唯一真の神様の人間への愛であり、完全な愛であり、損得勘定、邪なものが一切入らない純粋無垢な愛です。
その「愛」は、キリスト者の間に、教会の交わりの中に、具体化、具現化されていかなければならないのです。
具体化の筆頭は、「寛容」ですが、「寛容」は、他者の存在と行為を、自分との関係性の価値で、判断しない事です。
どのような態度、行為に対しても、根本において相手を受け入れ続ける事、交わり、関係性を断たない事です。
「去るもの追わず」と申しますが、去らない限り、関係性は維持しなければなりません。
しかも、表面的な関係性ではなく、親身になった、本物の関係性を維持しなければなりません。
「親切」は、損得や、見返りを期待して行なってはならず、自分に害を加えようとする者に対しても、「親切」のし惜しみをしてはならず、「ねたみ」は、羨望や自己卑下から出る思いであり、全体との関わりに於ける自分の立場や、必要性を見失う事から、与えられた賜物への感謝の念や、自己の尊さを見失う事から生じるのです。
「自慢」や「高慢」は、自己中心や、肥大化した自尊心から出て来る思いであり、全体と個との有機的な関係を成り立たせる、キリストとの交わりから目を逸らす時に、心を支配する思いです。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
「礼儀に反することをせず」とは、他者の人格を常に忘れない事、尊厳に常に配慮する事です。
他者の人格、尊厳を意識するなら、礼儀に反する事にはならないでしょう。
「自分の利益を求めず」とは、自分の当然の権利を、他者のために放棄する事であり、御子キリスト・イエス様が示された道です。
「寛容」を忘れず、「自慢せず、高慢になりません」、「礼儀に反することをせず」、「自分の利益を求めず」、「人がした悪を心に留めず」を実践したならば、必然的に「苛立たず」に到達するのではないでしょうか。
「留めず」は、「記録しない、数え上げない」の意味であり、裁き主なる神様が、罪人に対して為された事であり、裁き主なる神様に罪を赦された者が、御子キリスト・イエス様の愛を受けた者が為すべき事なのです。
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
「不正を喜ばずに」は、自他によって犯された不義、不正に対して、故意でなくても、偶然であっても、一部であっても、その不正行為と、もたらす結果を是認する事は断じて出来ない、してはならない。
この世では、必要悪と容認されるような事であっても、成功し、繁栄していても、喜び、満足を共に分かち合う事は出来ない、の意味であり、「真理を喜びます」は、常に、正しい動機、正しい手段、正しい行為であるべきであり、不義や不正は完全に排除し、ほんの少しであっても不義や不正に関わってはならず、どんなに不利でも、損になっても、喜んで真理だけを選ぶ、の意味です。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
「愛」は、自己愛ではなく、他者愛であり、他者の為す「すべてを耐え」る力を与えます。
簡単に諦めたり、放棄したり、見捨てたりしてはなりません。
「耐え」は、「覆う」の意味があり、他者の言動の全てを、寛容をもって覆うのです。
「信じ」は、如何なる環境の中にあっても、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様への信仰を失わない事、「望み」は、あらゆる境遇の中で、逆境の中でも、不遇の中でも、真実である唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を見上げ、見据え続ける故に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の恵みこそ、最も現実的であり、且つ、終局的な現実である事の確信に生きる事であり、「信じ」と「望み」は対句になっています。
「忍び」は、如何なる非難を受けても、困難、患難を受け続ける、愛の積極的な行動的特長を指し、「耐え」と対句になっています。
「愛」を基礎として、「信じ」、「望み」、「耐え」、「忍び」ます。
【適応】
「愛がなければ、何の役にも立ちません」は、真理であり、「愛」こそ、キリスト者が拠って立つ所です。
他者に対する「愛」が動機となってこそ、宣教、伝道、牧会の働きも、奇跡、癒し、奉仕の働きも、慈善、施しの働きも、殉教、犠牲的行動にも意味があるのであり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の喜ばれる働きとなるのです。
一方、教えられ、命じられているから、嫌々ながら、仕方がなく、無理して、であるならば、喜びがなく、苦痛でしかないでしょうし、この世では大きく評価され、もてはやされても、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の前には何の意味もない事なのです。
「愛」が動機である事が重要であり、「愛」は必要不可欠なのです。
先に、1節以降、「愛」と訳されているギリシャ語は「アガペー」であり、御子キリスト・イエス様の十字架によって明らかに示された唯一真の神様の人間への愛であり、完全な愛であり、損得勘定、邪なものが一切入らない純粋無垢な愛です。
その「愛」は、キリスト者の間に、教会の交わりの中に、具体化、具現化されていかなければならないのです、とお話しました。
しかし、このような「愛」を、人間は持ち得るのでしょうか、実践し得るのでしょうか。
ある環境下、ある条件下、ある状況下では、可能でしょうが、常に、誰に対しても、となると、誰もが、非常に難しい、と言わざるを得ないのではないでしょうか。
特に、敵対者に対しては、心穏やかに接する事が出来ない人たちに対しては、「寛容」以下の実践は、至難の業なのではないでしょうか。
そもそも、私たちが持っている「愛」は、非常に人間的であり、自己中心的であり、見返りを期待してはいないでしょうか。
大変でも、困難でも、「愛」の原点に立ち返らなければなりません。
御子キリスト・イエス様の期待に応じなければならないのです。
大変な事であり、困難な事ですが、絶望的ではありません。
何故ならば、多くの人たちは、家族には、親族には、非常に親しい人たちに対しては、「アガペー」に類似した「愛」を実践して来ているのでは、経験を積んで来ているのではないでしょうか。
その意味で、私たちには「愛」がないのではなく、「愛」を選択的に行使している、差別を付けている、と云う事なのです。
罪の力により、「愛」を唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の御こころに適う形で行使する事が出来ず、罪の言いなり、自分の好き嫌いで行なっている、と云う事なのではないでしょうか。
「愛」を唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の御こころに適う形で行使するためには、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から受けた「愛」を思い出し、そこに立ち返り、留まり続けなければなりません。
唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が、どんなに大きな犠牲を払われたかを、忘れてはなりません。
唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の「愛」を受けるなら、宣教、伝道、牧会の働き、奇跡、癒し、奉仕の働き、慈善、施しの働き、殉教、犠牲的行動は、私たちの想像を遥かに超えた大きな結果をもたらす事でしょう。
現代、教会の力のなさ、活気のなさ、停滞が話題となりますが、教会に力、活気がないのは、停滞しているのは、計画などが悪いからではなく、「愛」が足りないからでもなく、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の「愛」からずれているからなのではないでしょうか。
キリスト者一人一人が、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の「愛」に戻り、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の「愛」を原動力、動機として、伝道、牧会、奉仕、慈善、施しに取り組むなら、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の助けがあり、守りがあり、導きがあり、教会は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の御こころの教会として、キリスト者の群れとして、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現して行くのです。
2021-8-15礼拝
聖書個所:サムエル記第一18章17節から30節
説教題:「サウル王の策略」
【導入】
ペリシテ軍とサウルを王様とするイスラエル軍の戦いは一度限りの戦いではありませんでした。
ペリシテ軍は執拗にイスラエル民族を悩ませていたのであり、ゴリヤテとの戦いの前にも後にも戦いは繰り返されていたのであり、大きな戦いもあれば小さな戦いもありました。
ゴリヤテとの戦いはイスラエルの歴史においてダビデが登場するという、意味ある戦いですが、多くの戦いの一つである事に違いはありません。
戦争は一つしかない命を差し出して戦うものであり、それだけに、勝利者、勇者には名誉が与えられ、褒賞が約束されていたのです。
サムエル記第一17章25節、2017版は510ページ、第三版は495ページ、「あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ」、との褒賞が約束されていました。
ダビデはゴリヤテを討ち取ったのですから、当然、その褒賞を受け取る権利を持っていたのであり、サウル王は褒美を与える義務がありました。
その約束が深い考えもなく交わしたものであったとしても、大げさに言ってしまった事であったとしても守らなければならない事であり、当然であると同時に今後の為にも、つまり、褒賞の約束が確かであり、これからも先頭を切って様々な戦いにおいて、敵軍と戦ってくれる人々が起こされるためにも履行しなければならない重要な意味を持つ約束であったのです。
人々の先に立ち、勇敢に戦ってもらう為にも、褒賞は誠実に履行しなければならず、速やかに実行しなければならない事であるのに、サウルはこのことにおいても不誠実であり、先延ばしにする人であったのです。
今日は支配者なる神様から離れたサウルの狡賢さ、ダビデを殺そうとする悪意ある策略の中でも、支配者なる神様に守られるダビデの姿を通して誠実さ、忠実さについて学びたいと思います。
【本論】
18:17 サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをおまえの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、【主】の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人に手を下させよう、と思ったのである。
17節の先頭に、口語訳では「その時」、第三版では「あるとき」、と云う言葉を付して訳しています。
「あるとき」と言う言葉には、ダビデがゴリヤテを倒してから、ある程度の時間経過があったことをうかがわせる表現ですが、この単語、原文にはありません。
原文にはありませんが、サウル王がダビデとの約束を遅らせていた様子を読者に教える役割を果している表現であり、サウル王の不誠実さを現す意味を持たせた訳と言えるでしょう。
サウル王は約束を遅らせるだけではなく、更なる条件を付します。
「私のために勇敢にふるまい、【主】の戦いを戦ってくれ」と。
この条件、如何にも支配者なる神様に対する熱心さの現われの様ですが、その真意は、「自分の手を下さないで、ペリシテ人に手を下させよう、と思ったのである」と記されている様にペリシテ人との戦いにおいて、ペリシテ人の手によってダビデを殺そうと謀ったものだったのです。
これは、人間の持つ罪に起因する、誰もが持ち得る考え方であり行動です。
自分の手を汚さないで他人の手によって自分の願いを達成させようとする。
自分は表舞台には出ずに裏で糸を引いて、唆(そそのか)して他人を動かし、目的を達成させようとする狡さを人は持っているのです。
この卑劣極まりない行動はサウル王に限った事ではありません。
支配者なる神様に愛され、多くを与えられていたダビデですが、バテシェバとの姦淫を隠すために、バテシェバを自分のモノとするために、忠実な部下ウリヤを激戦地に送り出し、戦死する様に仕向けたのです。
忠実な部下ウリヤはダビデの策略によって戦死してしまいますが、ダビデは支配者なる神様のご計画にあって、その命は守られ、何処ででも勝利を収め、負ける事は勿論の事、命の危険に曝される事もなかったのです。
支配者なる神様の守りによってダビデはサウル王の策略に巻き込まれずにその命が守られましたが、ウリヤはダビデの策略によって殺されてしまいました。
支配者なる神様は差別されるお方、依怙贔屓されるお方なのでしょうか。
いいえ、そうではなく、ダビデもウリヤも支配者なる神様に用いられる器であって、ダビデは命を守られる事によってイスラエル王国を築き、救い主を誕生させる大切な働きのために用いられたのであり、ウリヤは命を失う事によってダビデの罪を暴き、ダビデが支配者なる神様の義と愛を知る器として用いられたのであり、ダビデもウリヤも支配者なる神様に用いられる器である事に違いはないのです。
18:18 ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」
ダビデは自身の氏族、家族を謙遜し、サウル王家とは不釣合いであると告白していますが、そもそもサウルの部族も氏族も家族も、サウル自身がサムエル記第一9章21節、2017版は492ページ、第三版は479ページで「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか」、と告白している様に、取るに足りないものだったのではないでしょうか。
そんなつまらない、取るに足りないサウルが、支配者なる神様の恵みによって選ばれ、憐れみによって油を注がれて王様とされたのです。
しかし、サウルは支配者なる神様の選びを軽んじ、自分勝手な判断をし、行動を取り、約束を遅らせ、約束を違えると言う、自分勝手を行う高慢な者になってしまっていたのです。
ダビデの謙遜は、対照的にサウルの傲慢を浮き出すものであると同時に、支配者なる神様に油を注がれた者に対する恐れと尊敬が表現されているのであり、支配者なる神様によって立てられた者であるならば、傲慢な王様でも、自分勝手な王様でも、尊敬できない王様でも、敬わなければならない事を教えるシーンと言えるでしょう。
ダビデは全ての営みの背後には、支配者なる神様のご計画がある事を信じて、サウル王を通して与えられた命令、或いは課題を、支配者なる神様のみこころと考えて誠実に履行します。
18:19 ところが、サウルの娘メラブをダビデに与えるというときになって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。
直前になってのキャンセルはダビデを酷く苦しめたのではないでしょうか。
しかもただ単に嫁に出さない事にした、と言うのではなく、別の男に嫁がせたのです。
「ダビデよ、お前はアデリエルには及ばない男だ。だから大切なメラブを嫁がせる訳には行かない…」と、暗に言っていると同じなのです。
これはダビデに対する酷い侮辱であり、蔑みです。
とてもいたたまれない心境になってしまったのではないでしょうか。
しかし、ダビデはこのサウル王の侮蔑に対しても黙して語りません。
何度も何度も約束を違えるサウル王と接する事で、ダビデは忍耐を学んだのであり、不当な仕打ちに対する忍耐こそ本物の忍耐であり、練られた品性を生み出すものなのです。
そんなダビデの忍耐、謙遜を見る人は見ているのであり、正しく評価してくれるのです。
18:20 サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに告げられた。そのことは、サウルの目には良いことに思えた。
ダビデのサウル王に対する誠実さは、忠実さは誰の目にも明らかだったのでしょう。
ミカルは誠実な、忍耐深いダビデを何時しか愛する様になっていったのですが、その純粋な愛をも、サウル王は悪しき策略の為に利用しようとするのであり、
18:21 サウルは、「ミカルを彼にやろう。ミカルは彼にとって罠となり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう」と思った。そして、サウルはもう一度ダビデに言った。「今日こそ、おまえは婿になるのだ。」
サウル王の執拗さ、悪辣さは決して薄れる事も、なくなる事もありませんでした。
否、益々その度合いを深めるのであり、巧妙になって行くのです。
即ち、自分の娘を利用し、結果として娘が悲しむ事よりも自分の思いを達成する事が重要であり、自分さえよければ誰が悲しもうとも、苦しもうともお構いなしになってしまうのです。
サウル王は元々自己中心ですが、思いのままに行動する事が、自己点検を怠る事が、益々自己中心の度合いを深めて行くのであり、取り返しの付かない所まで行きつく事になってしまうのです。
サウル王の側近に、サウル王を諌める人が居なかったのも、不幸なことでした。
この事は私たちも注意深く自己点検しなければならない事を教えます。
自分の行動を吟味する事を怠ると、悔い改める事を怠ると、怠れば怠るほど大きく曲がって行くのであり、取り戻すためには、正しい方向に修正させるためには非常な努力が必要な事になるでしょう。
ですから毎日の悔い改め、吟味が必要なのであり、心しなければならない務めと言えるでしょう。
毎日、支配者なる神様と向き合い、心を点検、吟味し、御こころに適う思い、行いをさせて頂きたいものです。
18:22 サウルは家来たちに命じた。「ダビデにひそかにこう告げなさい。『ご覧ください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。』」
18:23サウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。
「ひそかな」言葉には、不思議と真実味が備わるものです。
根も葉もない事でも、「秘密よ」、「内緒よ」とか、「誰にも言わないでね」と釘を刺されると、疑問や曖昧さは朝日に当った霧のように消えてしまい、揺るぎ無い真実の様に感じてしまうものなのです。
サウル王の、嘘と真実を織り交ぜた、巧みな言葉ですが、何度も騙されているダビデには、にわかに希望を持たせる結果とはなりませんでした。
ダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことに見えるのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」
18:24 サウルの家来たちは、ダビデがこのように言っています、と言ってサウルに報告した。
18:25 サウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいると。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。
何度も繰り返しますが、サウル王の娘はゴリヤテを倒した事によってダビデに与えられる事が確定、成立しているのであって、これ以上の課題や条件はないはずです。
直ぐにでも娘を与えなければならないのに、ペリシテ人との戦いに駆り出させ、その約束を達成すると、約束を違えて、また違う課題を与えて、ダビデをペリシテ人との戦いに送り出すのです。
ダビデは功を競ってペリシテ軍討伐に加わった訳ではありません。
褒賞目的でゴリヤテと戦った訳でもありません。
天地創造の主を侮ったから、その主の民を嬲ったから、ゴリヤテに戦いを挑んだのであり、命がけで戦ったのです。
ゴリヤテが百人力、千人力の大男であって、そのゴリヤテを倒した実績がある、と言っても、「百人を殺す」のは容易い事ではありません。
それでもサウル王の要請で戦いに出たのは、「王の敵に復讐するため」であり、ダビデは褒賞目的で戦ったのではなく、サウル王に敵対するのは、神様に敵対することだと考えたから戦ったのであり、支配者なる神様の助けと守りを信じたからに違いありません。
その支配者なる神様のための戦いが、王の婿につながるなら、それもまた良し、とダビデは考えました。
王の婿になる事や褒賞が目的ではなかったから、約束を違えられても腐る事なく、苦情を陳べる事もなく、ダビデは何回でも戦いに出て行ったのであり、サウル王の誠実さに期待する事なく、支配者なる神様の真実に期待して戦いに馳せ参じたのです。
18:26 サウルの家来たちはこのことばをダビデに告げた。王の婿になることは、ダビデの目には良いことに思えた。そこで、期限が過ぎる前に、
18:27 ダビデは立って、部下と出て行き、ペリシテ人二百人を討って、その陽の皮を持ち帰った。こうしてダビデは、王の婿になるために、王に対して約束を果たした。サウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。
百人でも容易な数ではないのに、倍の二百人を殺し、その印しを持ち帰りました。
「陽の皮」とは、新聖書辞典によれば、男性性器の包皮の事と考えられ、単に殺すだけではなく、武具を剥ぎ、包皮を切り取ると言う、手間暇のかかる作業を行なったのであり、危険な戦場に長く滞在する事を余儀なくさせる事であり、その間に弓矢で狙い撃ちされる危険な行為であったのです。
サウル王の「陽の皮百」と言う要求は、その意味でも軽い要求ではなく、命の危険を伴う要求であり、戦いでもダビデが殺される事を願い、印しを持ちかえる事においても身を危険に曝す行為を要求する、二重三重の悪辣な要求であったのです。
しかし、支配者なる神様は危険な戦場での滞在にも壁となり、盾となってダビデを守って下さったのです。
18:28 サウルは、【主】がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。
18:29 サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはずっと、ダビデの敵となった。
18:30 ペリシテ人の首長たちが出陣して来たが、彼らが出て来るたびに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげ、彼の名は大いに尊ばれた。
サウル王の、ダビデを殺そうとする様々な計画は全て、一つも成功する事はありませんでした。
逆に、サウル王は、支配者なる神様がダビデとともにおられる事を、支配者なる神様の守りを確信せざるを得ない事となり、サウル王に忠誠を誓う家来たちが挙ってダビデを愛し、尊敬し、賞賛したのであり、益々サウル王を不安にさせ、苛立たせる結果となってしまったのです。
【適応】
サウル王は何故にダビデを恐れ、殺そうとしたのでしょうか。
ポイントは28節に記されている様に「主がダビデとともにおられ…ていることを見、また、知った」からです。
主が共にいる。
素晴らしい事であり、自身がそうありたいし、皆がそうあって欲しい事ですが、サウルにとって、それは自分との関係においての事であって、競争相手には、あって欲しくはない事でした。
競争相手には、戦う相手には、支配者なる神様に付いていて欲しくはありません。
サウルは何度も失敗していますが、サウル自身は大した失敗とは思っていなかったでしょう。
何故ならば真摯な悔い改めの言葉もなく、悔い改めを表現して着物を引き裂いたり、土を被ったりはしていないからです。
自分は一生懸命やっているし、それなりの成果は出している。
生贄を献げたのだって、サムエルが約束の時間に中々現れなかったからであり、聖絶しなかったのだって、支配者なる神様に献げる為であり、民意を尊重したに過ぎない。
充分、合格点を取っていると考えていた。
相手に非があるのであり、私が支配者なる神様に退けられる謂われはない。
しかし、支配者なる神様にとって重要なのは合格点ではなく、最後まで従ったかどうかなのです。
サムエルの来るのが遅れても、例え来なくても、待たなければならないのであり、勿体無くても、民意がどうでも、全て聖絶しなければならないのであり、それが支配者なる神様からサウルに与えられた命令であり、課題なのです。
サウルはその命令に従わなかったのであり、中途半端な従い方しかしなかったのです。
だから、支配者なる神様から、大切なイスラエルの民を任せられないとして「イスラエルの王位から退けられた」のであり、「王国を引き裂いて、これをあなたより勝れたあなたの友に与えられ」る事になったのです。
サウルは「イスラエルの王位」に関して、支配者なる神様から退けられたのであり、「王国」に関して支配者なる神様から支配権を取り上げられたのであって、それでも支配者なる神様はサウルを見捨てる事なく、その関係は続いているのに、支配者なる神様がダビデとともにいることを見て嫉妬し、サウルは支配者なる神様のお考えにずれている自分を反省する事もなく、自分を退けた支配者なる神様の事を逆恨みします。
支配者なる神様は私を退けた憎いお方であり、その憎い神様に愛されている者もまた憎しみの対象であって、サウルはダビデを執拗に排除しようとし、殺す策略に躍起になっていたのです。
支配者なる神様に直接文句を言う訳にもいかず、支配者なる神様を憎む訳にもいかず、その憎しみ、恨みをダビデに向けたのであり、ダビデを王位を狙う者、民衆を自分の方に引き込む奸臣と見て策略をめぐらし、排斥しようとしたのです。
ダビデを憎む事は、ダビデを選び、ダビデに油を注いだ支配者なる神様を憎む事であり、ダビデを殺そうとする策略は、ダビデを選び、ダビデに油を注いだ支配者なる神様のご計画を妨げる事であるのに、それに気付く事なく、支配者なる神様はサウルを見捨てたのではなく、ダビデという稀代の勇者を送って下さり、ペリシテ軍の攻撃からイスラエルを守る助けとして下さっているのに、憎しみに曇ったサウルの心は、支配者なる神様のサウルへの憐れみ深い配慮に気付く事なく、支配者なる神様に益々背を向け、滅亡への道を走り続ける事になってしまうのです。
クリスチャンであっても憎しみの心はあります。妬む心、羨む心もあります。
しかし、憎しみの心、妬む心、羨む心をそのままにしておいてはなりません。
制御しなければなりません。
サウルの例は、誰かに対する憎しみ、妬み、憤りの心は、本人も気付かないうちに、そのまま支配者なる神様に対する憎しみ、妬み、憤りとなるのであり、支配者なる神様との関係を破壊するものになってしまうことを教えています。
支配者なる神様との関係が破壊され、途絶えるならば、次ぎに築かれる関係はサタンとの関係しかありません。
人は支配者なる神様との関係を築くか、サタンとの関係を築くかかの、どちらかを選択しなければなりません。
サウルは支配者なる神様との関係を、それとは知らずに、ダビデを恨む事で、破壊したのであり、それ故に、益々わざわいをもたらす、わるい霊に悩まされる事になるのです。
苦い水と甘い水が、同じ泉からは涌き出ないように、人を妬む思いと、支配者なる神様を愛する思いが共存する事もありません。
ここにおられる皆様が人を妬む思い、憎む思いをほんの少しでも許さず、支配者なる神様に対する思いで満たされて歩まれますように。
2021-8-22礼拝
聖書個所:コリント人への手紙第一13章8節から13節
説教題:「愛は決して絶えることがありません」
【導入】
パウロは、「愛」こそ、キリスト者が拠って立つ所であり、他者に対する「愛」が動機となってこそ、宣教、伝道、牧会の働きも、奇跡、癒し、奉仕の働きも、慈善、施しの働きも、殉教、犠牲的行動にも意味があるのであり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の喜ばれる働きとなる、とお勧めして来ました。
その背景には、コリント教会の一部の人々の、極度の「賜物」重視の考え方、特に、「異言」の賜物への極端な偏重があったからです。
動機など問題ではない。
どれ程優れた「賜物」を与えられているかが重要だ、と考えたのです。
教会内で優位に立つためであり、人々から誉めそやされたいがためです。
そこで、パウロは、色々な角度から、「賜物」には優劣がない事、多様性と統一性がある事を、どの「賜物」も必要であり、「賜物」が与えられていない事も、創造主なる神様のご計画である事を語って来ました。
からだの各部分は、自分に与えられた働きを、粛々と行なっていれば良い訳ではなく、各部分が各部分を思い遣る事が、配慮する事が必要です。
パウロは、教会に与えられた御霊の「賜物」を真に生かすのは「愛」であると語って来ましたが、さらに「愛」の本質、特質に付いて、語ります。
【本論】
新改訳2017版 13:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
パウロは「愛は決して絶えることがありません」と断言します。
「愛」の本質、特質は、永続性にあるからです。
自分自身の言動を振り返る時、この世界を眺める時、「愛」があるのだろうか、と疑問を感じる事も少なからずありましょうが、「愛は決して絶えることがありません」。
「愛」を感じられなかったり、「愛」は何処にあるのだろうか、と疑問に思ったり、「愛」はなくなってしまったと、絶望する時もあるでしょうが、「愛は決して絶えることがありません」。
自分には、この世には、「愛」の欠片もなくても、「愛」そのものは、決して絶える事なく、廃れる事も、止む事もないのです。
何故なら、「愛」は、唯一真の神の本質、特質だからです。
唯一真の神は、変わる事のないお方、無限に存在され続けるお方、何ものにも影響を受ける事のないお方です。
「愛」は唯一真の神の本質、特質の現れであり、「決して絶えることがありません」。
その「愛」の永続性との対比として、「預言」、「異言」、「知識」が語られますが、「預言」、「異言」、「知識」は一時的であり、限定的であり、限界があります。
個人的には、拠り所となり、この世では、有用であり、信仰者の益となるでしょうが、用い方次第では、害をなし、取り返しのつかない事にもなりかねません。
良かれと思って、結果は悲惨な事になってしまう事もあるのです。
この世は、永続するものではなく、何時か終わりが来ます。
俗に言う「終末」が来るのですが、その時には、「預言」、「異言」、「知識」は廃れ、無用になり、必要なくなってしまうのです。
完全なものが現れるから、到来するからです。
13:9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
9節、10節では、「部分」と「完全」の対比が語られていますが、この世で「私たちが知る」事が出来るのは、「一部分」であり、「預言する」事も、「一部分」です。
「預言」も「異言」も、唯一真の神様から、「一部分」、片鱗を預かるのであり、有限な人間が知り得た事を、朧げに取り次ぐのが精一杯なのです。
「知識」は膨大な量と質があり、見極め、理解し、活用するのは、有限な人間には無理です。
仮に、「一部分」ではあっても、「知識」を見極め、理解し、活用し得たとしても、「知識」は日進月歩であり、あっという間に、陳腐な「知識」となってしまうのは、この世の常です。
人間が預かり得る「預言」、「異言」、知り得る「知識」はほんの「一部分」でしかないのです。
一方、「現れ」の日、即ち「終末の日」が来た、その時には、「完全」な「預言」、「異言」、「知識」がもたらされます。
コリント教会の一部の人たちは「預言」、「異言」、「知識」を誇りましたが、ほんの「一部分」でしかないのであり、その「一部分」すらも、ことばの壁があり、文字の限界があり、伝達の限界があり、不十分な「預言」、「異言」、「知識」でしかなかったのです。
「完全」な「預言」、「異言」、「知識」の前では、この世の「預言」、「異言」、「知識」は比べようもなく陳腐なもの、欠けだらけのもの、不完全なものでしかなく、廃れ、廃棄されるしかないのです。
そんな、この世でしか、限定的にしか通用しない「預言」、「異言」、「知識」に頼るのは、何とも愚かであり、それをパウロは「幼子」に譬えて話しを進めます。
13:11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
11節では、「幼子」と「大人」の対比が語られます。
しかしパウロは、決して「幼子」を、軽んじているわけではありません。
人は、成長過程で「幼子」を通過、経験するのであり、その貴重な経験を経て「大人」になって行くのです。
「幼子」は、知識量も、経験量も少なく、未熟ですから、「幼子として話し、幼子として思い、幼子として考え」るのは当然です。
「大人」に保護され、「大人」の指導を受けなければならず、「大人」の助けを必要とします。
しかし、何時までも「幼子」でいてはなりません。
「幼子」は、知識を蓄え、経験を積んで、階段を上るように少しずつ「大人」になっていくのであり、それを期待されています。
幼さ故の失敗、逸脱、無礼などなど、は「幼子」の時期だけで充分であり、人は、話し方に於いて、考え方に於いて、論じ方に於いて、子どもっぽさを脱ぎ捨てて、「大人」になければならないのです。
「幼子」の特徴は、近視眼的であり、局所的です。
自分を中心にした主観的、単一的な考え方をするのが特徴と云えるでしょう。
しかし、「大人」は遠くまで見渡し、大局的な見方が出来るのであり、客観的、複合的な判断が出来ます。
コリント教会の一部の人たちは、「異言」などの賜物を過度に重視し、「愛」を軽視していたのですが、それは子どもの状態である、とパウロは指摘するのです。
「大人」とは「愛」の大切さ、重要性を知っており、賜物は「愛」があってこそ、その有用性を発揮出来ると知った者なのです。
「大人」とは、賜物の種類、多さではなく、信仰歴の長さ、奉仕の量でもないのです。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
12節は、「今」と「そのとき」、即ち「終末の時」との対比、「ぼんやり」と「完全」の対比です。
「今」は、「預言」、「異言」、「知識」に於いて、即ち、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、真理を理解し、認識する事に於いて、「一部分」しか預かってはおらず、蓄えてもいないのであり、それは、まるで、「鏡にぼんやり映るもの」を見ているようだ、と譬えるのです。
現代の鏡は、ゆがみがなく、ひずみもなく、曇りもなく、ありのままを映し出していますが、少し前の鏡は、ゆがみ、ひずみ、曇っていて、ありのままとは言えないような物でしたが、パウロの時代の鏡は、青銅製の物であり、ガラス製の物もあったようですが、ゆがみ、ひずみ、曇っていて、不鮮明極まりない、現代の鏡からは比べようもない代物でした。
同じように、「今」与えられている、「預言」、「異言」、「知識」によって、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、真理を理解し、認識しようとしても、ゆがみ、ひずみ、曇っていて、役には立つけれども、瑕疵や齟齬がない訳ではなく、完全な理解、認識に至る訳ではないのです。
しかし、「そのとき」には、「そのとき」とは、来る時、即ち「終末の時」ですが、一切のゆがみ、ひずみ、曇りなく、鮮明、明瞭に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、真理を理解、認識する事になる、と断言するのです。
人間には、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、真理を認識する方法、手段として、「御ことば、聖書」と「聖礼典」が与えられており、これ以外の方法は与えられていません。
しかし、コリント教会の一部の人たちは、「御ことば、聖書」よりも、使徒や預言者、教職者をもてはやし、「聖礼典」の意味を深く考える事をせず、他者をそっちのけにして、空腹を満たす事に血眼になっていたのです。
加えて、「預言」、「異言」、或いは「奇跡」、「癒し」などの賜物を通して、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、真理を知る事が出来ると主張し、「預言」、「異言」、「奇跡」、「癒し」などの賜物を通して、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、真理を知ったと豪語する者、自己満足する者がいたようであり、これらの人物に対して、パウロは、12節を主張するのです。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
「預言」、「異言」、「知識」、「奇跡」、「癒し」などの賜物は、この世でしか役に立たないもの、限定的なもの、一時的なものでしかありません。
しかも、不十分なものであり、一定程度の効果しか望めません。
しかし、「信仰と希望と愛」は、「いつまでも残る」、即ち、永続性、永遠性を持っているのであり、「有限」と「無限」の比較であり、勝負にはなりません。
「信仰と希望と愛」は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様と人との交わりの基盤であり、この地上のみならず、来る世に於いても継続する交わりの基盤なのです。
更に「愛」は、「信仰、希望」の源であり、「愛」こそ、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様と人との交わりの基盤中の基盤なのです。
唯一真の神様の「愛」に保証された、裏付けされた「信仰、希望」だから、信じられるし、望めるのです。
唯一真の神様の、人に対する愛は、救いのご計画に於いて、その中心である御子キリスト・イエス様に於いて明らかにされました。
人は、唯一真の神様の愛に対して、「信仰、希望」で応答するのは勿論の事、「愛」をもって応答する時、キリスト者、教会は、「父、御子、御霊」との交わりの奥義に与る測り知れない恵みに生かされている事を知るのです。
唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との、永遠の愛の交わりに与るように召されたので、その交わりを現実の日常生活の、キリスト者との、教会との交わりの中で追い求める責任を与えられているのです。
キリスト者になると、良い事がある、願いが叶えられる、平安が得られる、などの効能もありますが、比較にならないのが、唯一真の神様との交わりに招かれ、生かされる事です。
唯一真の神様との交わり、一致からのみ生まれる平安なのです。
【適応】
「愛は決して絶えることがありません」は、真理であり、「愛」こそ、キリスト者が拠って立つ所ですが、ここで重要なのは、「絶えることがありません」とされる「愛」は、人の持っている「愛」ではなく、唯一真の神様が持っておられる「愛」だ、と云う事です。
人間は、唯一真の神様との間に交わした誓い、或いは契約、愛する御子キリスト・イエス様との間に交わした命を賭けた約束でさえ、平気で違えます。
マタイの福音書26章33節、2017版57ページ、第三版56ページ、「ペテロがイエスに答えた。「たとい皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った」。
飛んで26章69節、「26:69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使の女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
26:70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
26:71 そして入口まで出て行くと、別の召使の女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」
26:72ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
26:73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
26:74 するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った」。
一方、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が誓い、約束を違える事は、絶対にありません。
唯一真の神様は人を愛し、その罪を赦す、と仰られ、私たちがまだ罪人である時に、御子キリスト・イエス様を十字架に架けられ、罪人に対する愛を示されたのです。
その唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が示された「愛」に対して、キリスト者、教会に求められているのは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との愛の交わりであり、それ以外では在りません。
唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との愛の交わりが最優先、最重要使命なのです。
キリスト者として、教会として、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の示された愛に対する応答は、また、責任は、賜物を生かす事でもなければ、奉仕する事でもなく、献げ物をする事でもありません。
それらも大事ですが、何より大事なのは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を「愛」する事です。
唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を「愛」する事とは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との一対一の、誰にも邪魔されない、影響されない、親密な、静かな、深い交わりを持つ事です。
これが等閑にされていると、見様見真似の、表面的な、形ばかりの信仰生活、
義務的な奉仕、形式的な礼拝、美辞麗句の羅列、体裁を整えた祈り、自己満足な伝道に陥ります。
聖書に記されている、様々な教えは、自分自身に適応させなければ意味はありませんが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の喜ばれる形で行なうためには、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との交わりがキーになります。
唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との一対一の、誰にも邪魔されない、影響されない、親密な、静かな、深い交わりを持つ時、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様がお持ちの「絶えることがありません」とされる「愛」が、罪人に与えられるが故に、罪人でも唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を愛する事が出来るのであり、御子キリスト・イエス様に倣う事が出来るのであり、キリスト者として、賜物を用いて、奉仕を献げ、礼拝を献げ、祈りを献げ、伝道をするのです。
御子キリスト・イエス様が、御子なる神の身分を捨てて、唯一真の神様のご計画に従われたように、マタイの福音書19章21節、2017版39ページ、第三版39ページ、「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。・・・そのうえで、わたしに従って来なさい」、であり、御子キリスト・イエス様が、天の御国を出て、地上に来られて福音を届けられたように、ルカの福音書9章60節、2017版134ページ、第三版132ページ、「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」、であり、御子キリスト・イエス様が、私たち罪人の隣人となられたように、ルカの福音書10章37節、2017版136ページ、第三版134ページ、「あなたも行って、同じようにしなさい」、なのです。
唯一真の神様、御子キリスト・イエス様がお持ちの「愛は決して絶えることがありません」から、キリスト者も、死に至るまで、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を「愛」する事が出来るのであり、賜物を正しく用いる事が出来るのです。
信仰生活と云う言葉は、礼拝や祈祷会、賜物を活かした奉仕、伝道などを意味していると思い勝ちですが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との一対一の、誰にも邪魔されない、影響されない、親密な、静かな、深い交わりこそ、が信仰生活なのです。
これが確立する時、喜びに満ちた、何をするでもしないでもない自由な、無理のない、礼拝、奉仕、献金、伝道に繋がるのです。
あなたの信仰生活は、礼拝や祈祷会、奉仕、伝道が中心ですか。
それとも、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との一対一の、誰にも邪魔されない、影響されない、親密な、静かな、深い交わりですか。
2021-8-29礼拝
聖書個所:コリント人への手紙第一14章1節から6節
説教題:「預言の賜物を熱心に求めなさい」
【導入】
パウロは、コリント教会で、御霊の賜物の多様性と、賜物の一致を繰り返し、力強く語って来ました。
そして、「愛」が如何に大切かを、力強く強調して来ました。
何故ならば、コリント教会の一部の人たちは、「異言」を極端に重要視し、「異言」が如何に優れた、秀でた、突出した賜物であるかを強調し、「異言」以外の賜物の価値を認めず、「愛」の重要性、必要性を軽んじていたからです。
この傾向は、コリント教会の一部の人たちの言動ではありましたが、たとえ一部でも、教会全体に悪影響を及ぼし、放置すれば取り返しのつかない事になりかねず、正すのに大変な苦労と困難を伴なう事になるでしょう。
小さなうちに手当、対処すべきであり、パウロは、コリント教会の当面の、しかも重要な間違いを正すために、「預言」と「異言」について、具体的、且つ、的確な教えを語り続けます。
【本論】
新改訳2017版 14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
パウロは、13章で繰り返し「愛」の大切さを語って来ましたが、「御霊の賜物」、「預言」の賜物について語る前に、もう一度、「愛を追い求めなさい」と命じます。
教会の働き、活動に必要不可欠なのは「愛」だからです。
「御霊の賜物」であるか否かの判断基準は、必要性とか、有用性ではなく、希少性でもなく、「愛」なのです。
唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の、罪人に対する、罪人を救おう、助けよう、導こう、支えようとする「愛」が、「御霊の賜物」となって現われるのであり、どんな種類の「賜物」であっても、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を礼拝する信仰共同体にとって有益な「賜物」であるか否かは、そこに「愛」があるか否かなのです。
一般社会に於いては、競争社会に於いては、効率を追求する社会に於いては、「賜物、或いは、能力、技能」自体に価値があり、愛の有無など問題ではありませんが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を礼拝する信仰共同体にとって重要、必要なのは「賜物、或いは、能力、技能」自体ではなく、「愛」があるか否かです。
「愛」があれば、教会に不利益となるような行動は、個々人に不利益となるような言動は行なわないはずです。
他者に対する「愛」がないから、自分の利益を求め、自分中心の、幼子のような言動を採ってしまうのです。
その「愛」がある事を前提とした上で、「預言することを熱心に求めなさい」とパウロはお勧めをします。
コリント教会の人たちが、「御霊の賜物」の多様性と、「御霊の賜物」が与えられた目的を見失い、「御霊の賜物」の中で、「異言」の賜物のみを特別に重んじる風潮の中で、「預言」の賜物を、優れた賜物として求めるべきであると、「熱心に求め」る価値があるのは、「預言」の賜物であると、お勧めするのです。
しかし、パウロは、決して「異言」の賜物を不要だとか、役に立たない、と云って、軽視しているのではありません。
「異言」の賜物の効用は、決して小さなものではありません。
14:2 異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。
「異言」は、唯一真の神様との会話であり、非常に重要、貴重な賜物ですが、人には理解出来ない事を、言葉を、唯一真の神様に向って語るのであり、説き明かしが為されなければ、多くの人たちには理解出来ず、多くの人たちの利益には直接繋がりません。
しかし、「異言」は、人々が唯一真の神様の存在を知る手掛かりになるのであり、その有益性は決して小さくはないのです。
14:3 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。
「異言」は、唯一真の神様に対する賜物であり、「異言」の有益性は、当事者に限られているのに対して、「預言」の有益性は、万人に対する賜物であり、「預言」、即ち、「神のことば」は、多くの人々を「育て、勧め、慰め」ます。
新共同訳聖書は、「人を造り上げ、励まし、慰めます」、と訳し、口語訳聖書は、「その徳を高め、彼を励まし、慰めるのである」、と訳し、新改訳第三版は、「徳を高め、勧めをなし、慰めを与える」、と訳していますが、その背景には、コリント教会において、弱い人、悩む人の存在があり、助けなどを必要としていながら、無視、或いは等閑(なおざり)にされて来ていたからです。
パウロは弱い人々、悩む人々を思い描きながら、人々を、真の意味で「育て、勧め、慰め」るのは「預言」であると、断じているのです。
暖かい歓迎の言葉や、慰めの言葉は、寄り添う事などは、それはそれで役に立ちますし、大切ですが、真の意味で、人々を「育て、勧め、慰め」るのは、「預言」、即ち、「神のことば」だけです。
人の言葉は、時に育てますが、時に完膚なきまでに打ちのめします。
人の言葉は、時に勧めますが、時に再起不能にまで挫折させます。
人の言葉は、時に慰めますが、時に生傷を抉るように傷つけます。
人の言葉は、両刃の剣のようですが、「預言」、即ち、「神のことば」だけが、誰も打ちのめさず、挫折させず、傷付けず、麗しい形で「育て、勧め、慰め」るのです。
但し、そこに「愛」があってこそである事を忘れてはなりません。
「愛」のない、「愛」の欠けた「神のことば」は、「神のことば」の私的解釈と乱用は、非常に大きな問題となり、教会に混乱を招き、教会を破壊するでしょう。
14:4 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。
「異言」は、個々人の成長にとって、唯一真の神様との関係に於いて非常に有益ですが、「預言」の効用、有用性は、個々人を成長させ、整えると共に、教会全体を整えて、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様と交わりを持つ群れとして整えるのです。
それは、各器官と身体の関係に似ています。
ある器官が突出するのではなく、バランスよく、補い合い、統一性と調和の中で成長するのです。
キリスト者にとって、教会にとって重要なのは、個々人が整えられる事であり、個々人が成長する事ですが、そこに留まらず、教会としても成長する事です。
究極的には、自分自身の成長よりも、教会全体、群れ全体の成長を求め、願うのであり、自分の利益を求めない「愛」の実践でもあるのです。
14:5 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。
パウロは、5節でも、2節でも「異言」の重要性、有益性を認めています。
パウロ個人としては、キリスト者が皆、「異言」の賜物に与かり、活用する事を願い、望みはするものの、教会全体の益を優先して、「預言」の賜物を強く求めるよう、お勧めするのです。
パウロが繰り返し、「預言」の賜物を求めるようお勧めするのは、コリント教会の「異言」偏重を排するためであり、決して、「異言」自体を排したり、「異言」を禁じたりするのが目的ではありません。
パウロが「預言」の賜物を求めるようお勧めするのは、教会全体の益を求めるからであり、コリント教会の一部の人たちの、ことさらに「異言」を重要視し、他の賜物を軽んじ、顧みない態度が、コリント教会全体の不利益、如いては「神と人とを愛する」に反する事となるからです。
「異言」が活かされるのは、解釈が伴ってこそであり、解釈のない「異言」よりも、「預言する人のほうがまさっています」と、断言します。
とは言え、「異言」も「預言」も、「御霊の賜物」であり、優劣はありませんから、与えられた賜物に劣等感を感じたり、賜物がない事に引け目を感じたりする必要はなく、与えられた賜物を感謝し、賜物がない事も受け入れつつ、教会の益となる賜物を求め、活かす事、与えられた賜物を用いて、教会の益とする事、「神と人とに仕える」事が重要なのです。
その最たる賜物が「預言」の賜物であり、「預言する人」を教会の働きの中心に据え、尊敬を払い、「預言する」事に専念出来る環境、状況を提供する事が大切になるでしょう。
更には、「あなたがたが預言すること」にも、注目する必要がありましょう。
「預言」の賜物、働きは、伝道者、預言者、教職者などの、一部のキリスト者に与えられた賜物、また、働きではなく、キリスト者皆に与えられた賜物、働きである事を覚えておく必要があるのです。
普段の生活の中で、「神のことば、聖書」を実践して見せるのであり、自然な形で、「神のことば、聖書」を取り次ぎ、届けるのです。
キリスト者は、皆、伝道者、預言者であるとの自覚と、行動が求められている事を覚えておかなければならないのです。
14:6 ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。
パウロは、コリント教会の「異言」偏重に終止符を打つべく、結論を語ります。
パウロの判断基準は、キリスト者の「益になる」か否かであり、教会の「益になる」か否かです。
これは、決して「損益」ではありません。
3節で示されたように、賜物が、多くの人々を「育て、勧め、慰め」るか否かが、判断基準なのであり、更には、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現すか否かなのです。
非常に有益な面を持つ「異言」の賜物であり、大切な賜物ですが、コリント教会では、「異言」の賜物に対する間違った意識、認識から、「異言」の賜物を持つ者の中に優越感に浸る者、「異言」の賜物を持たない者の中に劣等感に悩む者が現れ、混乱をもたらし、「異言」の賜物の良さのみならず、「預言」の賜物の良さも、他の賜物の良さも発揮されず、共倒れしてしまったのです。
「異言」は、説き明かし、「啓示か知識か預言か教え」の賜物が伴わなければ、何の益にもならないのです。
賜物は、単独で働くのではなく、共存、共栄です、
いろいろな賜物が、お互いを高め合うのであり、いろいろな賜物が、お互いの欠けを補い合い、相乗効果を発揮し、多くの人々を「育て、勧め、慰め」、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現すのです。
【適応】
私たちが救われたのは、キリスト者とされたのは、罪を赦された喜びに浸り、安穏な生活を送るためではありません。
「預言」するため、即ち「福音を宣べ伝えるため」です。
何故、奇跡を行なうのか、何故、癒しを行なうのか、何故、支援をするのか、何故、施しをするのか。
いろいろな賜物を用いて、それらを足がかりとして、「福音を宣べ伝える」きっかけとするためです。
突然、「預言」を始め、「福音を宣べ伝え」ても、多くの人は訝しげに一瞥し、素通りするでしょう。
人間関係を構築し、話を聞いてもらうためのきっかけが、奇跡であり、癒しであり、支援であり、施しなのです。
教会には「大宣教命令」が与えられています。
マルコの福音書16章15節、2017版105ページ、第三版103ページ、「イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」」
この言葉は、直接的には12弟子たちへの命令ですが、キリスト者、全てに対する命令であり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様のご計画の推進のために召されたのであり、賜物が与えられたのです。
現代、奇跡、癒し、などの賜物の出番は少なくなり、支援、施しなどは行政などが担っている部分がありますが、「預言」、即ち「福音を宣べ伝える」働きは、教会に委ねられた特別な使命、働きであり、キリスト者全てに与えられた使命、働きです。
子どもは子どもなりの関係性と与えられた賜物で、若者は若者なりの関係性と与えられた賜物で、大人は大人なりの関係性と与えられた賜物で、老人は老人なりの関係性と与えられた賜物で、其々が其々の関係性と与えられた賜物で、他人任せではなく、「預言」、即ち「福音を宣べ伝える」のです。
しかし、「預言」、即ち「福音を宣べ伝える」働きは、決して安易な働きではありません。
皆が皆、友好的に歓迎してくれる訳では、喜んで聞いてくれる訳でもありません。
「預言」の賜物が与えられるために、「福音を宣べ伝える」の働きのために、道が開かれるために、門が開かれるために、障害が取り除かれるためにも、熱心に祈る事が命じられているのです。