2021-9-5礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一14章7節~11

説教題:「異言の賜物の弱点

【導入】

パウロはコリント教会に、御霊の賜物の多様性と賜物の一致を繰り返し、力強く語って来ました。

御霊の賜物には優劣がない事、その教会に、また、キリスト者に必要な賜物が与えられるのであり、賜物の種類を云々する事よりも、賜物を用いて唯一真の神様、御子キリスト・イエス様にお仕えする事、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事、互いに助け合う事、欠けや不足を補い合う事、支え合う事が如何に大切かを力強く強調して来ました。

その背景にはコリント教会の一部の「異言」の賜物を与えられた人たちがそれを誇り、高ぶり、他の賜物を軽んじ、他の賜物を与えられた人たちを見下していたからです。

確かに「異言」の賜物は優れた、秀でた、突出した賜物ではありますが、説き明かしが伴わなければ教会の益にはならない事、他のキリスト者の益にはならない事を語って来ました。

パウロはコリント教会の一部の人たちの「異言」以外の賜物の価値を認めず、「」の重要性、必要性を軽んじる風潮、傾向に対して、その間違いを正すために例話を交えて、御霊の賜物の多様性と賜物には優劣がない事を繰り返し、力強く語って来ましたが、「異言」について、具体的、且つ、的確に、その弱点を明らかにします。

【本論】

新改訳2017版 14:7 笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。

」は「管楽器」の意味であり、「竪琴」は「弦楽器」の意味ですが、どの種類の楽器であっても、楽器は奏者の意を伝える道具であり、音階であったり、強弱であったり、余韻であったりなどなどの技巧が伴う「変化のある音を出さなければ」、意味のある変化を与えなければ、何の感情も意味も伝達する事は出来ません。

奏者は「楽器」を用いて「変化のある音」を出し、奏者の意を伝えるのであり、聞き手も「変化のある音を」聞いて奏者の意を汲み取るのです。

楽器」の出す「変化のある音」で、喜びや悲しみ、楽しさや怒りなどを伝えるのです。

14:8 また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。

一方、「ラッパ」ですが、現代の「ラッパ」は複雑な構造を持ち、多くの音階を出す事が出来ましょうが、当時の「ラッパ」は「笛や竪琴など」と違って、極、簡単な構造であり、単音しか出せなかったようですが、それでも、長短とか、強弱で、意味を伝える事が出来ました。

民数記102節から10節、2017254ページ、第三版247ページ、「10:2 「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。

10:3 これらが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入り口の、あなたのところに集まる。

10:4 もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。

10:5 また、短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。

10:6 二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するためには、短く吹き鳴らさなければならない。

10:7 集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く大きく吹き鳴らしてはならない。

10:8 祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の掟である。

10:9 また、あなたがたの地で、自分たちを襲う侵略者との戦いに出るときには、ラッパを短く大きく吹き鳴らす。あなたがたが、自分たちの神、主の前に覚えられ、敵から救われるためである。

10:10 また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、自分たちの全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすなら、あなたがたは自分たちの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」

以上の教えは、ユダヤ人に与えられた「ラッパ」に関する教えであり知識ですが、戦闘に於ける大将、指揮官の意思、命令は「ラッパ」の音の変化によって伝えられるのは周知の事であり、喧騒の中に居る、遠く離れたところに居る兵士に対して、大将、指揮官の意思を伝える手段として「ラッパ」の重要性は誰もが知るところの知識なのです。

14:9 同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。

笛や竪琴など」や「ラッパ」で意を伝えるのと「同じように」、「ことば」も「舌で明瞭なことばを語ら」れてこそ「話していることを・・・分かってもらえる」のです。

相手の用いる「ことば」で、お互いが使い慣れた「ことば」で伝えても、「明瞭なことば」で語られなければ、即ち、口籠っていて判別出来ないことば、舌が縺(もつ)れてしまっていては、滑舌が悪ければ、或いは、聞き取れない位、小さな声、句読点を無視した区切りでは「話していることを・・・分かってもらえ」ないのです。

」の機能を正しく発揮して「明瞭なことばを語ら」れてこそ、「話していることを・・・分かってもらえる」のです。

話しことばだけではありません。

書きことばでも、殴り書き、崩し過ぎ、悪筆では書かれた「ことを・・・分かってもらえ」ず、意味の伝達は難しいのではないでしょうか。

明瞭なことば」でなければ、意思を、意味を、正しく伝達する目的を果す事が出来ないのであり、それはまるで「空気に向かって話していることになります」とパウロは語るのです。

パウロはコリント人への手紙926節で「空を打つような拳闘もしません」と語りましたが、「明瞭なことば」で語ってこそ、意思を、意味を、正しく伝達する目的を果す事が出来、話し相手の益になるのです。

14:10 世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。

パウロは10節で「ことば」は何よりも「意味」を伝達する役割を担っている事を強調しているのです。

ことば」は生きており、時代の要請もあって、新しい「ことば」が生まれ、難しい「ことば」、使われない「ことば」は廃れて行きますが、時に、意味が変化し、元々の意味とは違ってしまう事もありますが、「意味のないことばは一つもありません」。

世界には」多くの民族が居り、その民族の数以上に「多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません」と断言すると同時に、10節で「ことば」と訳されているギリシャ語は「声、音声」を意味するギリシャ語ですが、「ことば」、即ち、「声、音声」を持たない民族は居ないとの意味でも理解する事が出来るでしょう。

状況にとっては身振り手振りのコミュニケーションもあり得るでしょうが、人間は「ことば」、即ち、「声、音声」でコミュニケーションをとるのです。

ことば」で意思の疎通を図り、相互理解の助け、お互いの成長を図るのです。

14:11 それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。

外国人」と訳されているギリシャ語は「バルバロス」ですが、口語訳聖書、新改訳第三版では「異邦人」と訳しています。

この「バルバロス」は「バルバル」から派生したそうですが、「バルバロス」、或いは「バルバル」に付いて、簡単に説明をいたしましょう。

ギリシャ人はギリシャ語に対して強い誇りを持っていたようであり、特に裕福な人たち、地位の高い人たちはギリシャ語以外を馬鹿にし、周辺諸国の「ことば」を学ぼうとはしなかったようです。

当然、周辺諸国の「ことば」が理解出来ず、外国人、異邦人の話し「ことば」は「バルバル」と聞こえたようであり、「バルバル」と話す人たち、即ち、外国人、異邦人は「バルバロス」であり、転じて「野蛮人」を意味する、差別的、侮蔑的な言葉として使われていたのです。

コリント教会の一部の人たちは「異言」を語る事を誇り、熱心に「異言」を話し、自慢げに「異言」を語り続けますが、その意味が伝えられ、聞き手がその意味を理解しなければ、語り手と聞き手の間に意味の伝達がなされなければ、外国人、異邦人との会話と同じではないか。

コリント教会の一部の人たちは分からない「ことば」を話す人たちを蔑み、差別するけれども、分からない「ことば」を話す人たちを「バルバロス」と呼び、外国人、異邦人、野蛮人と見下すけれど、「異言」を語るあなたたちこそ、あなたたちが蔑む、見下す「バルバロス」、野蛮人ではないのかとパウロは語るのです。

パウロの忠告は多種多様な「ことば」を話す人たちが集まっていた商業都市コリントでは現実に即した忠告であり、コリント教会の一部の「異言」を誇り、優越感に浸る人たちに強く訴え掛けたのではないでしょうか。

【適応】

異言」は非常に有益な賜物ですが、説き明かしが伴わなければ意味の伝達が為されず、「異言」を語る者は「バルバロス」、即ち、外国人、異邦人、野蛮人でしかないのです。

さて、「ことば」は「声、音声」だけではありません。

ヘブル語聖書もヘブル語が堪能な者にとっては非常に有益ですが、ヘブル語が疎い者にとっては「異言」と変わらず役には立たず、ギリシャ語聖書もギリシャ語が堪能な者にとっては非常に有益ですが、ギリシャ語が疎い者にとっては「異言」と変わらず役には立ちません。

訳の問題、語彙の問題などなどはありますが、日本語で聖書が読めるのは、日本語で説教が聞けるのは本当に大きな益な事なのです。

聖書は共同訳、新共同訳、口語訳、文語訳、新改訳などなどがあり、其々に聖書学者が、言語学者が苦労して日本語に訳しています。

私たちの信仰の大きな助け、益になっていますが、限界がある事、弱点がある事も弁えておく必要がありましょう。

異言」は非常に有益な賜物ですが、説き明かす人を必要とすると云う弱点があります。

異言」のみならず、どの賜物にも何かしらかの弱点があります。

弱点があるから、役に立たない、ではありません。

弱点がある事を意識するなら優越感に陥る事もなく、弱点を意識し、他者の助けや支えを求めるならば、他を見下す事や蔑む事も防げるのではないでしょうか。

コリント教会の一部の人たちは「異言」を誇り、優越感に浸っていましたが、「異言」を理解出来ない人たちから見たならば、訳の分からない「ことば」を話す「バルバロス」、野蛮人に見えていたのであり、強烈な風刺、鋭い指摘をパウロは示した、と云う事なのではないでしょうか。

パウロはコリント教会の人たちに内省を求めましたが、私たちキリスト者も自己吟味、内省を怠ってはなりません。

キリスト者が罪許されている事を感謝し、救われている事を喜ぶのはキリスト者として何の不思議もありませんが、「アーメン」「感謝します」は決してキリスト者の口癖でも、常套句でもなく、心の発露ではありますが、軽々しく使っていると思われてはいないかと考えるのは、「アーメン」「感謝します」に対して世の人たちは、違和感を覚えているかも知れないと考えるのは、キリスト者でない人たちをいつの間にか、無意識レベルで憐れむような態度が少しでもありはしないだろうかと考えるのは、キリスト者である事を鼻にかけていると思われているかも知れないと、内省しなければなりません。

キリスト者はキリスト者でない人たちが大多数を占める世に福音を届けるために遣わされているのであり、弱点が原因となって福音宣教の働きの妨げとならないようにしなければなりません。

「バルバロスが、何か言ってる」、「クリスチャンのくせに」と思われては宣教の妨げになってしまいます。

賜物の弱点、自身の弱点を自覚し、常に謙って、福音宣教の働きの前進のために賜物を用いて歩む者となりたいものです。

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聖書個所:コリント人への手紙第一14章12節~19

説教題:「教会の徳を高めるための賜物を求めなさい

【導入】

コリント教会には大小、強弱、目立つ、或いは隠れた問題がたくさんありましたが、問題がある事が問題なのではなく、問題を問題視しない事、問題がないかのように取り繕う事が問題です。

問題を自覚し、適宜、適切に対処する事が大切なのであり、問題を有耶無耶にするのは、適当な対処は、お茶を濁すような対応は、いい加減な対策は、処理を先送りにするのは、大問題です。

問題を自覚させるのはプライドがあり、素直には聞いてもらえず、簡単な事ではなく、適切な対処を行なうのは伝統があり、慣習があり、抵抗があり、中々難しい事ですが、変な配慮や思いやり、忖度は教会の益にならず、キリスト者の益にもなりません。

手をこまねいていては教会は衰退し、消滅してしまうでしょう。

現代、教会に力がないのはこの辺に問題があるのかも知れません。

パウロはコリント教会の御霊の賜物に起因する問題を指摘し、御霊の賜物には優劣がない事、その教会に、また、個々のキリスト者に必要な賜物が与えられるのであると語ります。

コリント教会の人たちは御霊の賜物を求める事、特に「異言」の賜物を求める事に非常に熱心でしたが、賜物の種類を云々する事よりも、賜物を用いて唯一真の神様、御子キリスト・イエス様にお仕えする事、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事、互いに助け合う事、欠けや不足を補い合う事、支え合う事が如何に大切かを、力強く強調して来ました。

パウロはコリント教会の人たちに御霊の賜物が与えられる目的、基準をはっきり示します。

御霊の賜物が与えられる目的、基準は教会の成長のためであり、教会の徳を高めるためであり、教会を造り上げるためです。

コリント教会のみならず、御霊の賜物が与えられる目的は教会の成長のためであり、教会の徳を高めるためであり、教会を造り上げるためです。

決して個人的な満足や喜び、達成感や充実感などを得るためではありません。

パウロはコリント教会の人たちの御霊の賜物を熱心に求める姿勢を評価しつつ、コリント教会の問題が御霊の賜物が与えられる目的、基準を見失っているところにあると見抜き、適切な指示を与えます。

【本論】

新改訳2017版 14:12 同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。

パウロはコリント教会の現実に即して語りますが、これは非常に大切な事です。

仮定の話や一般論を語ってもぴんと来ないのが人間であり、自分の事とは受け止めないのが、他人の事と受け流してしまうのが罪人です。

現実のままを具体的に語ってこそ、話し相手に伝わるのです。

そして「同じようにあなたがたも」と対象を明確にさせるのは、名指しで語り掛けるのは非常に有益ですが、具体的であり、対象が明確であるだけに反発や反感を招かないための知恵も必要です。

そこでパウロは先ず、コリント教会の人たちの優れた特徴を認め、「御霊の賜物を熱心に求めている」と評価し、褒めます。

心で思っていても相手には伝わりません。

声に出し、手紙に書き記してこそ相手に伝わるのです。

その上で「御霊の賜物」を求める目的、基準は「教会を成長させるために」である事とを明確に示し、「御霊の賜物」が「豊かに与えられるように求めなさい」と勧告します。

教会を成長させるために」を、新共同訳聖書は「教会を造り上げるため」と訳し、口語訳聖書、新改訳第三版は「教会の徳を高めるため」と訳していますが、見えるところにポイントが置かれた「造り上げ」、「成長させ」との訳も良いのですが、内面にポイントが置かれた「徳を高め」との訳がより的確ではないか、含蓄のある訳ではないかと思います。

14:13 そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

そういうわけで」、即ち、「教会を成長させるために」は「異言で」語るだけではなく、「解き明かすこと」が必要不可欠なのです。

異言で語る」事で自己満足し、責任を果したと安堵していてはなりません。

異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈」らなければなりません。

或いは、「解き明かすことができる」賜物を持つ人が与えられるように「」らなければなりません。

教会を成長させるため」に益となるように祈り求め続けなければならないのです。

異言」の賜物と「それを解き明かす」賜物だけでなく、全ての御霊の賜物は「教会を成長させるために」与えられている事を忘れてはならないのです。

14:14 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。

パウロは自分を引き合いに出して「異言」の弱点を語ります。

ここでパウロは「異言」を役に立たない賜物だとか、不必要な賜物だと云っているのではありません。

異言」の賜物の有用性や重要性を充分評価し、それを前提とした上で、「異言で祈るなら」「解き明かし」が必要であり、「解き明かし」がなされなければ「私の知性は実を結びません」と断定します。

異言」は創造者なる神様の「ことば」であり、人間には理解出来ないことばであり、自分でも理解出来ないことばを語るのであり、「解き明かし」がなされなければ「実を結」ぶ事が出来ず、「私の知性」の益とはならないのです。

異言」の「祈り」は「解き明かし」がなされてこそ伝わるのであり、「解き明かし」がなされなければ「私の知性」のみならず、教会の知性にも、誰の知性にも益とはならないのです。

御霊の賜物は全て教会の益を意識し、教会の成長に繋げなければならないのです。

14:15 それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。

15節は公同の礼拝を意識した「祈り」と「賛美」についての勧告です。

公同礼拝における「祈り」と「賛美」の重要性は非常に大きいのです。

教会では、集会では「」を熱くして、即ち、体面とか、体裁とかを気にせず、熱心に「祈り」「賛美」に集中すると共に、「知性」に於いても、即ち、冷静に、思慮深く、明晰な「祈り」「賛美」をしなければならないのです。

祈り」と「賛美」は、創造者なる神様に献げるのであり、非常に個人的な、信仰告白の一環の行為として献げなければならず、と同時に、集団として一致して献げなければならず、共に集まる人々が心を一つにして、声を合わせて、心も合わせて、御子主キリスト・イエス様の父なる神様を褒め称えるのです。

公同礼拝に於ける「祈り」と「賛美」は、個人性と集団性を合わせ持つ行為なのです。

時候の挨拶から始まり、個人的な課題や独り善がりな「祈り」と、集団を無視した「賛美」は公同礼拝に於ける「祈り」と「賛美」に相応しくなく、御子主キリスト・イエス様の父なる神様に献げるに相応しくありませんが、立て板に水の如き流暢な、美辞麗句の型どおりの「祈り」と、喜びや感動が込められていない形式的な「賛美」も、御子主キリスト・イエス様の父なる神様に献げるに相応しいとは言えません。

祈り」と「賛美」は、「」と「知性」との共同作業なのです。

そして、「祈り」と「賛美」は、「個人」と「集団」との共同作業でもあり、「個人」は「集団」を意識して、「集団」は「個人」を意識して、「祈り」と「賛美」を献げなければならないのです。

その意味で司会者の存在は重要です。

式をリードすると共に、纏めるのであり、「祈り」と「賛美」を通して、御子主キリスト・イエス様の父なる神様を褒め称えるのです。

14:16 そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っていることが分からないのですから。

初心者」とは、御子キリスト・イエス様を受け入れ、キリスト者になったばかりの人たち、或いは、明確な信仰告白には至っていませんが、福音を理解している求道者たちを指すようです。

パウロの関心は公同礼拝に於ける「初心者」、即ち、御霊の賜物について、「異言」について、十分な知識や理解がない人たちに対する格別、特別な配慮です。

初心者」が戸惑わないように、悩まないように、躓かないようにです。

知性」を欠いた、即ち、解き明かしのない「異言」の「祈り」と「賛美」は、「初心者」のみならず、誰にも理解出来ないのですが、コリント教会に長く出席している人たちは「異言」の「祈り」と「賛美」の意味は分からずとも、慣れてはいるでしょうから、訝る事もなく、形式的に「アーメン」と唱和するでしょう。

しかし、それはそれで大問題です。

意味も分からず、確認と同意を現す「アーメン」、即ち「その通りです」と唱和するのは虚偽の告白であり、不信仰の極みです。

アーメン」は締めくくりの合図ではないのです。

一方、「初心者」は「異言」の「祈り」と「賛美」の意味を理解出来ないのですから「アーメン」と唱和出来ず、疎外感を感じ、寂しい思いをするのではないでしょうか。

結果、「異言」の「祈り」と「賛美」は、教会を成長させる事、教会の徳を高める事にならないのです。

14:17 あなたが感謝するのはけっこうですが、そのことでほかの人が育てられるわけではありません。

公同の礼拝は唯一真の神様礼拝の場であると同時に、信徒教育と福音宣教の場でもあります。

公同の礼拝では「異言」が語られたなら、その解き明かしがなされなければならず、「異言」と「預言」などなどは秩序をもって進行されなければならないのです。

異言」と「預言」などなどは個々のキリスト者を唯一真の神様に仕える者として相応しく成長させる事、個々のキリスト者を御子主キリスト・イエス様がお持ちの徳にまで高める事、個々のキリスト者を聖霊の住む宮として相応しく造り上げる事であり、教会を成長させる事、教会の徳を高める事、教会を造り上げる事に繋がらなければならないのです。

14:18 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています。

パウロは誰よりも多くの賜物の、優れた賜物の持ち主であり、「だれよりも多くの異言」を語って来ました。

コリント教会の人たちから見たならば羨ましい限りであり、パウロの事を自慢の種にもしていたでしょうが、パウロにとって「異言」の賜物は、働きのために与えられなくてはならない絶対必要な賜物ではなく、唯一真の神様の主権で与えられたとの認識であり、与えられているならば、精一杯用いさせていただくために、唯一真の神様に感謝を欠かしはしませんが、「異言」の賜物に対しての特別な思い入れや固執する思いはなく、決して自慢の種などではありません。

異言」の賜物などの御霊の賜物は、唯一真の神様の主権で一方的に与えられるものであり、固執したり、手放さなかったり、あの賜物が与えられれば良いのにとか、これよりあれが良いなどではなく、与えられた賜物を唯一真の神様に感謝しなければならないのです。

14:19 しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。

異言」の賜物は貴重な賜物であり、話題となり、人々の注目を集めますが、パウロの関心は人々の関心を引き付ける事ではありません。

教会を成長させる事、教会の徳を高める事、教会を造り上げる事であり、個々のキリスト者を唯一真の神様に仕える者として相応しく成長させる事、個々のキリスト者を御子主キリスト・イエス様がお持ちの徳にまで高める事、個々のキリスト者を聖霊の住む宮として相応しく造り上げる事です。

その大切な目的のために、より有益な賜物は「異言」の賜物ではなく、「知性」を用いた「五つのことば」「預言」です。

理解出来ない「異言」で「一万のことば」を聞かせられるのは苦痛でしかないのではないでしょうか。

しかし、「知性」を用いた「五つのことば」なら誰でも理解可能なのではないでしょうか。

知性」を用いた「五つのことば」の具体例は示されていませんが、パウロの宣教は単純明快、コリント人への手紙第一123節「イエスは主です」であり、使徒の働き920節、2017251ページ、第三版245ページ、「この方こそ神の子です」どです。

信仰教育は「ことば」を仲介して行なわれるのであり、日常会話のことば、誤解のないことばである事が必要でしょう。

教師が教えを語り、キリスト者が教えられた事を家族に、親族に、友人に、知人に語る、この連携が大切なのです。

ほかの人たちにも教えるために」の意味は、第一に、パウロがコリント教会などの人たちに教える、の意味とともに、第二に、パウロの教えを受けた人たちが、次の人たちに教える意味、次々に伝達する意味ではないでしょうか。

その意味でも多くのことばで伝えるよりも、少ないことばで伝える方が伝達ミスを防ぐ事が出来、効率よく伝える事が出来るのではないでしょうか。

教会に必要なのは、教会を成長させる教えのことばであり、教会の徳を高める教えのことばであり、教会を造り上げる教えのことばであり、キリスト者を成長させる教えのことばであり、キリスト者の徳を高める教えのことばであり、キリスト者を造り上げる教えのことば、「知性」を用いた「五つのことば」なのです。

【適応】

知性」を用いた「五つのことば」で教会を成長させる、教会の徳を高める、教会を造り上げる、キリスト者を成長させる、キリスト者の徳を高める、キリスト者を造り上げる、と申しましたが、ここで終わりでは、つまり、内的成長が目的では、内面の充実が目的ではありません。

内面を充実させ、内面を整えて、「立派なキリスト者になったねぇ」と評される、何処に出しても恥ずかしくないキリスト者を育てるのが目的ではありません。

教会の外に出て行くため、罪の世に遣わすため、福音の未伝地に、福音を届けるためです。

福音を知らない人たちに、家族に、親族に、友人に、知人に、見ず知らずの人たちに福音を伝えなければならないのです。

大多数を占める「異言」を理解出来ない人たちに、日常用いる普通のことばで、簡単な、短い説教を提供しなければならず、福音を知らない人たちにも理解出来ることばで、簡単な、短い説教を提供しなければなりません。

しかし、信仰を持っているキリスト者にはしっかりとした教理、教義、基礎的な事を教えなければならず、それは福音を届けるために、「知性」を用いた「五つのことば」を語るために内面を充実させ、整えるためであり、しっかりとした基礎、土台を築くためです。

信徒の育成の目的は、マルコの福音書1615節、2017105ページ、第三版103ページ、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」であり、単に福音を伝えるだけでなく、マタイの福音書2819節、201764ページ、第三版63ページ、「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、

28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」です。

福音を宣べ伝えても、守るように教えても、伝える人の誠実さ、真実さが伴わなければ、伝える事をどうして信じてもらえるでしょうか、弟子となってくれるでしょうか。

従ってくれるでしょうか、教えを受け入れ、守ってくれるでしょうか。

福音の、教えの保証としてキリスト者の内面を充実させ整えるのです。

教会の使命は信徒の育成ですが、信徒を育てるのは囲い込み、教勢を拡充させるのが目的ではありません。

伝道者として送り出すためであり、送り出した伝道者を支えるのが、教会の使命です。

伝道者は生活などの憂いなく、福音宣教、未信者教育に取り組むのです。

御霊の賜物」を求める目的、基準は「教会を成長させるために」であり、「教会を成長させる」とは各個教会の教勢の拡充の意味でもなく、各個教会を存続、永続させる意味でもなく、福音を宣べ伝える働きであり、あらゆる国の人々を弟子とする働きです。

教会を成長させるための賜物」とは特定の賜物ではなく、全世界を視野に入れた「福音宣教の働き、弟子作りのための賜物を求める」事なのです。

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聖書個所:サムエル記第一19章1節から24節

説教題:「頂点に達するサウル王のねたみ」

【導入】

サウル王のダビデに対する妬みは、サウル王の一方的な思い込みが原因であり、ダビデには何の落ち度も、問題もありませんでした。

誰にでも欠点や不得意な点があるものであり、王様の要求に100%応じられる事は稀であり、及第点を取れれば良い方なのではないでしょうか。

しかし、ダビデは要求を100%達成する人物であり、サウル王の霊的治療においても、誰も与える事の出来なかった平安を与え、安らぎを与え、憩いを与え、戦いにおいても非常に不利な戦力、状況の中にあって、完全な勝利を、圧倒的な勝利をサウル軍にもたらしたのです。

即ち、ダビデのサウル王に対する忠誠は、最高のレベルのものであり、ダビデより忠実な者は誰もいなかったのです。

サウル王がダビデを執拗に追跡する中で、祭司アヒメレクがサウル王に答える場面が記されていますが、ここに、ダビデの誠実さが証言されています。

1サムエル2214節、2017521ページ、第三版507ページ、「アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来の中に、ダビデほど忠実な者が、だれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛兵の長であり、あなたの家で重んじられているではありませんか。」

誰からも「重んじられ」、尊敬される人物。

しかし、人は罪の性質を持っているが故に、自分に取ってどんなにか有益であり忠実であっても、「重んじられている、尊敬されている」事が気に入らないのであり、妬ましく思えてしまうのです。

サウル王は唯一真の神様から選ばれた王であり、勇敢であり、ペリシテ人を打ち負かし、イスラエル人を窮地から救い出した実力者です。

サウル王は唯一真の神様に選ばれた事に、ペリシテ軍を蹴散らした事に、イスラエルの民がサウルを王様として喜んで受け入れた事に非常な優越感を感じていたのではないでしょうか。

その優越感をずたずたにしたのがダビデの活躍であり、イスラエルの民のダビデ賞賛の声であったのです。

しかも、サウルに与えられた王位はサウルから取り去られている事が明かです。

その唯一真の神様が取り上げた王位は誰に与えられるのか。

そんな王位を脅かす可能性を持つ者は片っ端から排除しなければならない。

有能な者は長く召し抱えたいが王位を脅かす者は早いうちに潰さなければならない。

この矛盾した内なる考えはダビデを必要としつつもダビデを遠ざけるしかないサウル王を苦しめ、益々わざわいの霊の活動を許す事になってしまうのです。

今日は唯一真の神様から離れたサウル王の、ダビデに対する殺意が公にされる中でも、神様が助け手を立てて下さり一方的に守られるダビデの姿を通して学びたいと思います。

【本論】

19:1 サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。

今までは隠されていたサウル王のダビデに対する殺意ですが、この時点で公にされ、誰もが知る事となってしまいました。

人に対する妬み、悪意、殺意が公にされる場面ですが、こんな事があるのでしょうか。

ドラマや映画で、敵対する組織や指導者に対する台詞として壊滅や殺戮、抹殺を命じる、宣言する場面がありますが、これは敵対する者が対象であって、仲間や忠実な者や役に立つ者に対してではありません。

しかし、組織の頂点に立つ者にとっては、その頂点の座を脅かす者は誰であっても邪魔者になり得るのであり、敵対者は当然の事として、身内や片腕と目される人物であっても邪魔者になるのであり、有能であればあるほど目障りで、厄介な存在となって、抹殺の対象となる事もあるのです。

事実、歴史は王様の残虐性を証言しており、「王の息子であるよりも豚である方が安全である」と言う様な言葉もあるくらいです。

サウル王のダビデに対する殺意が明確にされましたが、この「告げた」と言う言葉は「命じた」とも訳される言葉ですので、単に「殺そうと思っている」事が宣言されたのではなく、「殺す事を命じた」のであり、聴いた家来やヨナタンは何があったのかと訝った事でしょう。

何しろダビデは勇敢な戦士であり、人々の先頭に立って戦ってくれる勇者です。

あのゴリヤテを倒し、イスラエルを勝利に導いてくれた人物です。

サウル王だって、その事を喜んでいたではありませんか。

病んだ時には側にいて、竪琴を弾いてくれたではありませんか。

その重用していた人物ダビデとサウル王との間に何があったのだろうか。

その真相は兎も角、ダビデは誰からも尊敬され、愛されていた人物です。

ダビデの窮地を知って、そのままにしては置けません。

19:2 ヨナタンはダビデに告げた。「父サウルは、あなたを殺そうとしています。明日の朝は注意してください。隠れ場にとどまり、身を隠していてください。

19:3 私はあなたのいる野に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことを父に話します。何かわかったら、あなたに知らせます。」

ヨナタンは何よりも先ず、ダビデの身の安全に配慮し、最善の策を提案し、実行します。

身の潔白を証明する事よりも、先ずは隠れる事、安全を確保する事が重要です。

殺されてしまってからでは正しさを証明しても意味がありません。

身の潔白は自分で証明しなくても、誰かが証明してくれますし、誰も証明してくれなくても、隠されたままでいる事はないのであり、唯一真の神様が知っていて下さり、必要なら、必要な時に神様が明かにして下さいます。

ダビデにはヨナタンと言う証言者が、仲介者が、執り成し手がいたのです。

19:4 ヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに言った。「王よ。しもべダビデのことで罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。むしろ、彼のしたことは、あなたにとって大きな益となっています。

19:5 彼が自分のいのちをかけてペリシテ人を討ったので、【主】は大きな勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て喜ばれました。なぜ、何の理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪ある者となられるのですか。」

ここでヨナタンは思慮深く父であり王であるサウルに接します。

正しい事だからと言って、一方的に、一気呵成に糾弾するのは得策ではありません。

ヨナタンはサウル王の心を傷つけず、頑なにならないような配慮ある言葉を選んで説得したのであり、ポイントを明確にし、順序立てて説明を試みます。

先ず、同胞を殺す事は罪である事を諭します。

唯一真の神様は殺人を禁じています。

どんな理由があっても、人間の側の理由で人を殺してはなりません。

ペリシテ人を殺すのは、アマレク人を聖絶するのは唯一真の神様の命令であり、決してイスラエル人にとって邪魔だからでも、敵対する民族だからでもありません。

カナンの地の住民を殺すようにと唯一真の神様が命じられたのは、カナンの地の住民が偶像礼拝に陥り、淫らな行ないに耽っていたからであり、神様に背を向けた生き方を悔い改めなかったからです。

アマレク人の聖絶を命じられたのは、アマレク人がエジプトを脱出したイスラエル民族に、剣を持って挑んで来たからであり、唯一真の神様はそんな頑なカナン人を赦せなくなったのであり、時が至ってアマレク人聖絶を命じられたのです。

唯一真の神様がカナン人、ペリシテ人、アマレク人を滅ぼすよう命じられたのであって、自分勝手な理由で人を殺す事は、断じてしてはならない事であり、

それは神の形に造られた者を殺す事であり、神を毀損する事に他ならないのです。

それは、唯一真の神様との断絶を意味する事であり、それ程、重要且つ重大な罪であり、思い止まる事を説得するのです。

続いて、ダビデが如何に益をもたらす存在であるかを得々と説明します。

ダビデは、イスラエルにとってもサウル王にとっても、かけがいのない存在であり、非常な益をもたらしたのであり、カナン人を、ペリシテ人を殺す事は何よりも聖さをもたらすものであり、唯一真の神様の国の建設に寄与する事であり、その推進者であるダビデを殺す事は唯一真の神様のご計画の邪魔をする事、御国建設を阻止する事になりかねない事であるのです。

ダビデを殺す事は二重の意味で、唯一真の神様に敵対する事であり、決して人を妬んだり、排除しようとしたり、殺すほどに憎んではならないのです。

更にヨナタンは、サウル王自身がダビデを召し抱えた事実を、ダビデの活躍を喜んだ事実を思い出させようと努力しています。

サウル王の知らない事を挙げているのではなく、サウル王自身の記憶を呼び覚まし、ダビデがサウル王に対して良い事だけをし、悪い事は一切しなかった事を確認させ、ダビデ殺害を思い止まらせようとしているのです。

ここにサウル王を叱責する言葉は一つもありません。

サウル王のように優越感、自尊心の強い人への叱責は、期待するような反応を引き出す事は難しいかもしれません。

叱責は心を頑なにする事が多いのではないでしょうか。

説得するつもりが、何時の間にか、言い負かす事を喋って仕舞い易い私たちですので、このヨナタンの対応を学び、知恵のある対応をしたいものです。

静に、注意深く、誠実に語るヨナタンに、サウル王も心を開き、

19:6 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「【主】は生きておられる。あれは殺されることはない。」

19:7ヨナタンはダビデを呼んで、このことすべてを告げた。ヨナタンがダビデをサウルのところに連れて来たので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった。

ヨナタンの執り成しによってサウル王はダビデ殺害を思い止まり、以前と同じようにダビデはサウル王に仕える事になりましたが、サウル王の心からダビデに対する妬みの思いが無くなった訳ではありません。

ヨナタンの説得によって、「主は生きておられる。あれは殺されることはない」、と宣言し、ダビデ殺害命令を撤回しますが、この宣言も断固とした、強い明確な決意、意志の現われではなく、ヨナタンの説得に感情的に同意しただけであり、ダビデに対する妬みの炎が弱まっただけであり、燻り続け、切欠さえあれば大きく燃え上がる危険を孕んでいたのです。

その切欠は、直ぐにやって来ます。

それは日常的なサウル王の働きである、ペリシテ人討伐であり、

19:8 再び戦いが起こった。ダビデは出て行って、ペリシテ人と戦い、彼らを討って大損害を与えた。彼らはダビデの前から逃げた。

ダビデのサウル王に対する忠実さの故の活躍は、燻っていたサウル王の妬みの炎に油を注ぐ結果になってしまうのでした。

19:9わざわいをもたらす、【主】の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは堅琴を手にして弾いていた。

19:10 サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。

19:11 サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」

19:12 そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。

19:13 ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。

19:14 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った。

19:15 サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ」

19:16 使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった。

19:17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人が、『逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せるだろうか』と私に言ったのです。」

ミカルはサウル王の娘であり、ゴリヤテとの戦いの褒賞、ペリシテ人との戦いによってダビデの妻となった人物です。

しかし、単なる褒美、政略結婚ではなく、サウル王に対して終始一貫して忠実であり、兄ヨナタンと生涯の友情を誓うほどの人物であり、誰からも愛されるダビデに、ミカルも何時しか心を引かれるようになって、願って結婚する事になったのでした。

父サウル王が、ダビデを殺す事を命じた事は、ミカルの知る事となり、逃げて自宅に隠れているダビデの命は決して安全では無い事を感じたミカルは知恵を駆使してダビデを逃がす算段をします。

父サウル王の命令を知っていてダビデを逃がす事は、王様に対する反逆行為であり、命がけの行いです。

ここにも、唯一真の神様のダビデに対する守りを見る事が出来ます。

ダビデはヨナタンにも、ミカルにも命乞いをした訳ではありません。

この19章を読んで知る事は、ダビデの発言が一言も記されていない事であり、全てがダビデの思いを離れた所で進められ、ダビデの命が守られる方向に進んでいると言う事です。

自分で何とかしようと行動を起こさなくても、ヨナタンが、ミカルが行動を起こし、ダビデを助けるために知恵を絞り、執り成し、逃してくれたのです。

サウル王の命令に叛く事は、娘と言えども危険な事であり、特に狂気に駆られてダビデを付け狙う命令に反する行為は、自分の命の危険を意味しています。

それを承知でダビデを助けるのは、ダビデに対する単なる憐れみ、同情ではなく、唯一真の神様が働かれたのであり、神様が逃がして下さった事と言い切る事が出来るのです。

家を取り囲み、逃げ出る隙も無い中で、窓を伝って逃げられたのは、神様が見張る者の目を惑わしたからであり、隙を与えて下さったからに違いありません。

神様は試練を与えますが、信頼する者には、脱出の道をも備えて下さるお方であると言う事です。

19:18 ダビデは逃げて、難を逃れ、ラマのサムエルのところに来た。そしてサウルが自分にしたこと一切をサムエルに告げた。彼とサムエルは、ナヨテに行って住んだ。

ここでもダビデが何を話したかまでは記されていません。

サウル王の住んでいたであろうギブアと、ダビデの逃げ込んだラマは5km程しか離れていません。

逃げて、難を逃れ」た、と言うには余りにも近すぎますが、唯一真の神様の守りには距離も防備も、城壁の高さも強度も関係ありません。

鉄壁と思われたエリコの城壁さえも、人手に依らずに崩れ去ったのであり、鎧兜に守られていても、何気なく放った矢が、鎧の隙間をぬって、致命傷を与える事もあるのです。

唯一真の神様の守りを信じるダビデは、神様に仕えるサムエルに助けを求めたのであり、命の危険を犯して、サムエルはダビデを匿い、預言者の仲間とともに生活を送る事になるのですが、

19:19 するとサウルに「ダビデは、なんとラマのナヨテにいます」という知らせがあった。

19:20 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。

ダビデを愛し、命を賭けてダビデを助け匿う人々が次々と起こされる中で、サウル王に取り入り、サウル王の歓心を買おうと、密告する者が現れます。

誰にも愛されたと記されているダビデですが、ダビデの人気を妬む者がサウル王の他にもいたのであり、悪に与(くみ)する者は何処の世界にも存在するのです。

密告者の通報を受けて、サウル王は使者たち、つまりはダビデ捕縛団を派遣するのですが、窮地に陥ったダビデを助けるために、遂には唯一真の神様が立ち上がられます。

彼らは、預言者の一団が預言し、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。

19:21このことをサウルに告げる者がいたので、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。

19:22 サウル自身もラマに来た。彼はセクにある大きな井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねた。すると、「今、ラマのナヨテにいます」という答えが返ってきた。

19:23 サウルはそこへ、ラマのナヨテへ出て行った。彼にも神の霊が臨んだので、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテまで来た。

19:24 彼もまた衣服を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていた。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになった。

ラマ、ナヨテは唯一真の神様の特別な守りの象徴です。

城壁もなく、堀もなく、無防備の様に見えましょうが、唯一真の神様の霊で守られているのであり、悪しき思いが、神様の力よりも強い事はなく、神様の力によって、悪しき思いは消し去られ、預言、つまりは神様を讃美し、神様を誉め称える者へと変えられてしまうのです。

【適応】

「主がともにおられたので」と聖書はダビデを修飾していますが、正に唯一真の神様がダビデと共におられて、ヨナタンを通して執り成しを行ない、サウル王との関係回復を図り、ミカルを通して、殺害者に取り囲まれての窮地から脱出させ、神の霊を遣わして、ダビデ捕縛団の目的を果たせないようになされたのです。

ダビデに限らず、私たちも逃げるに逃げられない窮地に立たされる事が何度となくある事でしょう。

状況を幾ら検討しても、脱出の方法などない、解決の手段など考えられない。

奇蹟でも起こらなければ…

しかし、人間の力で奇蹟は起こせませんが、唯一真の神様に取っては不可能はないのであって、どんな状況からでも、どんな窮地からでも、どんな困難からでも救い出す事がお出来になるのです。

人間の努力や計画や協力でも出来ない事が、唯一真の神様の憐れみ守りによってなされるのであり、人間の努力以上の、人間の計画以上の、人間の期待以上の結果が用意されているのです。

ダビデの場合では、サウル王の執拗な追跡にあっても、サウル王の息子、娘を用いてダビデを救い、最終的には唯一真の神様自らが働きかけてダビデの命を守られたのです。

勿論、逃げ出すと言う応答が必要であり、時には窓から逃げ出すと言う非常な手段を取る事もありましょうが、自分の考えに固執する事なく、神様の導きに柔軟に応答する時、神様は必ずあなたの命を守って下さるのです。

この地上での信仰上の、或いは謂れのない不当な困難、艱難、迫害は人を通して、時には神様自らが助けて下さいます。

ダビデは逃げて、難を逃れた」、と記されている通りです。

このように、困難、命の危険から一時的に避難するだけでなく、「ダビデは逃げて、難を逃れ、ラマのサムエルのところに来た」、と記されているように、最終的にはサムエルの所、即ち、神の民に加えられる祝福が用意されているのです。

サタンは私たちを地獄に落とし入れようと暗躍しています。

唯一真の神様を信じたって、別に良い事なんかない。

返って困難や、問題が起こるだけさ。

自分の力で何とかするのが人間てもんだよ。

しかし、人間の力には限界があるのであり、出来ない事の方が多いのではないでしょうか。

特に罪の問題に対してはそうです。

罪の誘惑から身を守るのは簡単な事ではありません。

人の助けも、自助努力も、期待出来ない事の方が多いでしょう。

しかし、唯一真の神様は常に助けを用意して下さっています。

時には苦しみ、悲しみに沈む時があるかも知れませんが、それは必要な訓練であり、唯一真の神様に対する信仰が計られ、成長する時でもあるのです。

唯一真の神様はあなたの命が滅びないように、大切な宝のように守って下さり、悪しき者が触れる事のないようにして下さるのです。

ここにおられる皆様が唯一真の神様とともに歩み、唯一真の神様の懐に逃げ込み、本当の平安に憩われますようにお祈り致します。

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                                               2021-9-26礼拝

聖書個所:サムエル記第一20章1節から23

説教題:「エゼルの石(かの石、かの助け)」

【導入】

ダビデはサウル王にあらぬ疑いをかけられて、その命を執拗に狙われましたが、唯一真の神様はダビデに先駆けて、助け手を遣わし、絶体絶命の窮地から助け出して下さいました。

ダビデが助命嘆願しなくても、サウル王の息子ヨナタンは、自主的にサウル王に執り成しをして下さったのであり、サウル王のミカルは、サウル王の命を受けた使者たちを欺き、命を賭けて、窓からダビデを逃して下さったのでした。

サウル王の顧問サムエルは、預言者の仲間とともに、逃げて来たダビデを受け入れ、何の防備もないナヨテの村にダビデを匿って下さったのでした。

ヨナタンもミカルもサムエルも、唯一真の神様が背後で働かれてダビデのために働いたのであり、命がけでダビデを助け、匿ったのです。

19章にダビデの発言は記されていません。

一切の弁明も、助命嘆願も記されていませんが、これはダビデが終始一貫して受身であったという事ではなく、唯一真の神様に信頼するダビデの姿を描き、記したものであるという事です。

危急の時にこそ唯一真の神様を信頼し、自分の思いをさて置いて神様の導きに従う事が重要であり、その時神様はその信仰に答えて下さり、願う前から、願った以上の回答を用意して下さっているお方である事を知る事が出来るのです。

一先ずの危機を逃れたダビデですが、まだまだ安心出来る状況ではありません。

そこで、自らが事の真相を調べ確かめるべく、ヨナタンの所に赴き、ヨナタンが保証したサウル王のダビデ殺害宣言撤回が無効になっている事について問い質します。

【本論】

20:1 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」

191節で、サウル王のダビデ殺害計画を知ったヨナタンは、先ずダビデに事の次第を告げ、ダビデの身の安全を計ってから、サウル王にダビデの助命嘆願を行なったのでした。

この事は19章2節から5節に記されている通りであり、ヨナタンの助命嘆願を尤もと思ったサウル王はダビデの安全を保障し誓ったのでした。

しかし、その誓いも虚しく、ダビデの活躍が知らされると、サウル王の心にはダビデへの嫉妬が起こり、王位を脅かす者との思いが起こり、再びダビデ殺害の思いが燃え上がり、直接に、間接にダビデ殺害に奔走する事になるのであり、それは前回学んだ通りです。

サウル王は何故に、こんなにも簡単に誓いを破ってしまうのでしょうか。

思い起こせば、サウル王は1428節、「今日、食物を食べる者はのろわれる」との軽々しい誓いを立て、その誓いを知らなかったとはいえ破ってしまったヨナタンを、「おまえは必ず死ななければならない」と宣言しておきながら、民の助命嘆願でアッサリと翻してしまったのでした。

ペリシテ人の勇者ゴリヤテを討ち取った者への褒賞の際も、約束を違え、条件を追加し、2度も3度も先延ばしにしたのです。

息子であるヨナタンとの約束も、家来、家臣の前での誓いも、サウル王にとっては何程のモノでもなかったのです。

これは、サウル王と唯一真の神様との関係が原因しているのだと言えます。

絶対服従の神様の命令に対して、恐れなければならない神様の言葉を預かる預言者に対して、サウル王はいい加減であり、自分の考えを優先してしまう人物であったのであり、それ故に、人など恐れ、敬う存在ではなく、約束を破ろうが、約束を遅らせようが、意に介する事はなかったのであり、何時でも自分が中心であり、自分の意見を変える事に、何の躊躇も、呵責も感じはしなかったのです。

誓いと言うものは、人間対人間であっても、唯一真の神様を中心として、或いは神様を証人として交わされるモノであり、約束を破る事は、神様に対する違反行為であると知らなければならないのです。

唯一真の神様に対して誠実であるならば、当然の結果として、人に対しても誠実であろうと務めるのが自然な姿ですが、神様を恐れない、敬わないサウル王には、人に対する誠実さは期待出来ない事であったのです。

とは言え、息子ヨナタンとの誓いを忘れてしまった訳ではなく、息子に誓った手前、息子には隠れて、ダビデ殺害の行動を起こしたのであり、ヨナタンもまた父サウルの誓いを固く信じていたのであり、

20:2 ヨナタンは彼に言った。「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」

とダビデに父サウルをかばう証言を致します。

肉親の情は尊いものですが、情はモノの本質を見え難くしてしまいます。

悪くは考えたくはないものであり、良い方へと解釈する傾向があるようです。

ヨナタンもまた父サウルを尊敬し、父に従順でしたから、王としてのサウルにも信頼を置き、先の2節の発言となったのでしょう。

20:3 ダビデはなおも誓って言った。「父上は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」

20:4 ヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」

肉親の情と、ダビデと誓った終生変らぬ友情の板挟みになってしまったヨナタンですが、肉親の情よりも、神様の御名によって誓ったダビデとの友情の誓いを、ヨナタンは選んだのであり、ヨナタンの、神様との約束を第一とする信仰者としての姿が浮かび上がっているのを見る事が出来る場面です。

自分の考え、立場はさて置いて、「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」との言葉こそ信仰者の言葉であり、立場の表明です。

20:5 ダビデはヨナタンに言った。「明日はちょうど新月祭で、私は王と一緒に食事の席に着かなければなりません。でも、私を行かせて、三日目の夕方まで、野に隠れさせてください。

20:6 もし、父上が私のことをとがめたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえを献げることになっているからです』と。

20:7 もし父上が『良し』とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。

20:8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。【主】に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして父上のところにまで、私を連れ出す必要があるでしょうか。」

20:9 ヨナタンは言った。「とんでもないことです。父があなたに害を加える決心をしていることが確かに分かったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」

ダビデはヨナタンに、サウル王の心の内を探る策を提案します。

新月祭に無断欠席する事で、サウル王のダビデに対する真意を探ろうと言うものです。

この「新月祭」と言う祭りは、聴き慣れない名前の祭りですが、民数記2811節、2017293ページ、第三版284ページに次のように規定されています。

即ち「あなたがたは月の最初の日に、次のものを献げなければならない。主への全焼のささげ物として、若い雄牛二頭、雄羊一匹、傷のない一歳の雄の子羊七匹」。

同じく民数記1010節、2017255ページ、第三版247ページ、「また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、自分たちの全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすなら、あなたがたは自分たちの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である」。

祭りは、唯一真の神様に覚えられるためのモノであり、神様を覚えるためのモノである事が分かるでしょう。

イスラエルには数多くの祭りがありますが、どの祭りも娯楽としてあるのではなく、唯一真の神様に覚えられるため、神様を覚えるため、神様の為にあるのであり、それ故に決して先延ばしにしたり、中止したり、規定以外の方法や生贄で行なってはならない事なのです。

しかし、何処で、誰と、は規定されていないのであり、サウル王とともに献げるもよし、故郷に帰って親族とともに献げるもよし、なのです。

唯一真の神様に覚えられる事が祭りの目的である事を忘れてはならないのであり、サウル王と同席しない事を問題とするなら、強要するなら、ダビデの考えの通り、サウル王のダビデに対する思いが露見するのみならず、祭りの主旨を理解していない事が露見する信仰の試金石ともなっているのです。

ヨシュア記を学んで来られた皆様ですから、今更でしょうが、サウル王は、行動においても自分を唯一真の神様の上に置いているのであり、神様のための祭りさえも、自分の支配の下に置いていることが明かにされて行くのです。

20:10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が厳しい返事をなさったら、だれが私に知らせてくださいますか。」

20:11 ヨナタンはダビデに言った。「野に出ましょう。」それで、二人は野に出た。

20:12 ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、【主】にかけて誓います。明日かあさってかの今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳に入れます。

20:13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、【主】がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。【主】が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。

20:14 もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、【主】の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。

20:15 しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。【主】がダビデの敵を地の面から一人残らず断たれるときにも。」

20:16 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「【主】がダビデの敵に血の責めを問われますように。」

20:17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。

10節以降にはダビデとヨナタンの約束、誓いの言葉が記されています。

人と人との約束、誓いですが、あちらこちらに「主が」「主の」と言う言葉が出て来ます。

これは単に「」と言う言葉を入れる事によって、権威付けを試みているのではなく、二人の約束が、誓いが、唯一真の神様の主権の下で交わされている事を確認しているのであり、13節は、ヨナタン自身に向けて宣言されていますが、決して一方的な宣言ではなく、唯一真の神様を介在して、双方が負っている事を忘れてはなりません。

20:18 ヨナタンはダビデに言った。「明日は新月祭です。あなたの席が空くので、あなたがいないことが分かるでしょう。

20:19 三日目に、日が暮れてから、あの事件の日に隠れた場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。

エゼルの石」はヘブル語文法に従って訳すなら「the石、theエゼル」であり、本日の説教題に付けたように「かの石、かの助け」と訳すのが、原意に近い訳なのです。

定冠詞が付いているか否かの違いが日本語では上手く表現できない事があります。

また、ヘブル語は基本となる単語が変化しますので、サムエル記712節の「エゼル」と訳されている単語と、2019節で「エゼル」と訳されている単語は同じではありません。

それで、7章では「エベン・エゼル」即ち「助けの石」と訳し、20章では「エゼルの石」と訳し分けていますが、完全な訳とは言えない訳です。

訳の限界があり、現時点でこの違いは明らかにされていませんが、「かの石」のそばに居るからこそ「かの助け」がある事は間違いありません。

人の助けを求め、自身の努力や行動も大切ですが、唯一真の神様のそば近くに居て、神様の助けを求める事こそが最も重要な事なのです。

唯一真の神様のそばで結果を待つ。

それは忍耐を必要とし、信仰を必要とする事ですが、唯一真の神様のそばにこそ解決があるのであり、求める以上の結果が用意されているのではないでしょうか。

そのダビデに唯一真の神様から与えられる答えは次のような方法で示される事になりました。

20:20 私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。

20:21私が子どもを遣わして、『行って、矢を見つけて来い』と言い、もし子どもに『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い』と言ったら、出て来てください。【主】は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。

20:22 しかし、私が少年に『それ、矢はおまえの向こう側だ』と言ったら、行ってください。【主】があなたを去らせるのです。

20:23 私とあなたが交わしたことばについては、【主】が私とあなたの間の永遠の証人です。」

聖書に出てくる数字には意味が隠されている事が多いのですが、この「三本の矢」にはどのような意味が隠されているのでしょうか。

ヨナタンはダビデと打ち合せをしているのであり、その意味の込められた言葉を従者にかけるのですから、矢は一本でも足りるのであり、二本は無駄なようですが、聖書に記されている事に無意味な事はありません。

ヨナタンがダビデに知らせるのは、三日目の朝ですが、その三日と附合しているのかも知れません。

イエス様の十字架刑も、救いに関してはイエス様の十字架だけで事足りますが、他に二人の囚人が処刑される事で、イエス様の十字架刑が確実に行なわれたと確認されるのであり、死刑執行の最中であっても、つまり死の間際であったとしてもイエス様に対する態度、応答が、天国と地獄の差となる事を教えるのであり、ペテロの否認も、一度で充分ですが、三度目でやっと自覚するのであり、人間の愚かさを、自信の強さ、固くなさを教えるものであって、決して無駄ではないのです。

この三本の矢も、一本による偶然ではなく、確実性を高めるためであり、矢に込められるナタンの思い、それは13節から17節に記されているダビデに対する愛であり、約束に対する信頼と希望なのではないでしょうか。

矢はまた、列王記第二1317節、2017675ページ、第三版657ページに記されているように敵を打つ事の象徴であり、

1516節の、唯一真の神様がダビデの敵と戦って下さる事を、神様が守ってくださる事を意味し、現しているのです。

【適応】

「エゼルの石」こそ、唯一真の神様の愛が現される場であり、敵と戦ってくださる約束があるのであり、あらゆる艱難から守って下さる約束の象徴なのです。

かの石にこそ、かの助けがあるのであり、これはそのまま、現代の、かの教会に、かの神様の助けがある事を教えているのです。

人間を通して、社会を通して、援助や助言が与えられますが、基本は唯一真の神様のそばに立つ事です。

唯一真の神様を離れた助けは一時的なモノであり、むなしいモノであり、満足の行くモノではありえません。

しかし、唯一真の神様が与えて下さる助けは、永遠につながるモノであり、付け加える必要のないモノであり、完全なモノであり、非の打ち所のないモノです。

その唯一真の神様の約束を確認するのが「エゼルの石」なのです。

ダビデと別れるヨナタンですが、別れても「エゼルの石」を通して、ダビデとの約束を確信するのであり、ヨナタンと別れるダビデですが、「エゼルの石」を通して、ヨナタンとの約束を確認するのです。

「エゼルの石」を離れ、忘れたならば、三本の矢に込められたヨナタンの思いも忘れられるでしょう。

また、矢に象徴される唯一真の神様からの祝福を、守りをダビデは受け取る事が出来ないでしょう。

「かの石」を離れない事にこそ、「かの助け」を受け取る秘訣があるのです。

多様化した現代には、色々な形で、多くの助けが提供されています。

しかし、真の助け、解決、平安、安心、安全は教会にあるのであり、唯一真の神様にしかないのです。

神様のそばで待つ時、答えが与えられるのであり、助けが起こされ、遣わされるのです。

ここにおられる皆様が唯一真の神様から離れず、神様からの答えを待ち続け、神様とともに歩み、神様が与える本当の平安に憩われますようにお祈り致します。

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