2022-1-2礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一161節~4

説教題:「一致としての奉仕」

【導入】

パウロは、コリント教会の一部の人たちの、間違った福音理解、自分勝手な解釈と適応、信仰共同体としての教会の存続を揺るがしかねない言動や、個々人の信仰を混乱させかねない言動を伝え聞いて、厳しい勧告を与えつつ、原則を解き明かし、具体的な指示を与えてきました。

パウロとコリント教会との間には、何回かの、手紙の往復があったようですが、それは59節の「私は前の手紙で」とのことばから、明らかです。

また、71節「さて、・・・と、あなたがたが書いてきたことについてですが」とのことばから、コリント教会からパウロに質問をし、指示を仰いでいた事も明らかです。

決して、パウロとコリント教会との関係は険悪であったのではなく、むしろ、主にある麗しい交わりがあったからこそ、厳しい事も言えたし、相談も持ち掛けられたのでしょう。

本日の聖書の箇所は、パウロが「ガラテヤの諸教会に命じた」事を伝え聞いたコリント教会の人々が、パウロにより詳しい情報を知りたい、私たちも献金しなければならないのか、と手紙で質問してきた事に対する回答です。

指示待ちの態度、指示を受けなければ行動しないのではなく、常にアンテナを張って、自分たちに出来る事、どうしたら関われるかを探るのは、信仰共同体としての教会の使命の一つ、個々人の信仰者の使命の一つでしょう。

【本論】

新改訳2017版 16:1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。

献金の目的は、一に、教職者、牧会者の生活を支える事です。

教職者、牧会者が、生活の全て、衣・食・住の心配をする事なく、説教に取り組み、牧会に勤しむ、その目的を達するために献げるのです。

教職者、牧会者、その家族の健康が守られ、生活の憂いなく、説教に没頭し、牧会に励む、その目的を達するために献げるのです。

献金の目的は、二に、教会活動を円滑に行なうためです。

教会の活動は、伝道、福音宣教が中心ではありますが、同時に、並行して福祉活動を行なわなければなりません。

弱者、貧者を守り、支えなければなりません。

その目的を達するために献げるのです。

そして、三番目、忘れてはならないのが、等閑(なおざり)にしてはならないのが、遠く離れた、あまり関わりのない他教会や団体、名前も知らないキリスト者への支援です。

当時、ユダヤ教社会の中で、異教文化社会の中でも、キリスト者は疎外され、時に迫害され、社会的、経済的不利益を被り、経済的に困窮していました。

その代表が、「聖徒たち」の意味するところの人たち、エルサレム教会の人たちです。

献金の目的、一、二は、自分たちの教会に遣わされた教職者、牧会者の事であり、自分たちの教会に、直接関わる事ですから、献金する事に、献金が使われる事にも抵抗は少ないでしょう。

しかし、献金の目的、三は、遠く離れた、あまり関わりのない他教会や団体、見ず知らずのキリスト者たちの事であり、そこまで心配する必要があるのだろうか、大切な献げ物を献げる、献金する必要があるのだろうか、

自分たちの教会の教職者、牧会者、教会の事で手一杯、精一杯、目一杯であり、余裕があればともかく、困窮しているのは同じであり、他教会や団体、キリスト者たちのために献げるのは如何なものか、と考えるのです。

しかし、献金は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から受けた恵みに対する感謝と、献身の現われであって、使用目的で献げるモノではありません。

以上は、献金とその使途についての一般的な考え方ですが、パウロは、ここで、献金一般とその使途について指示を与えている訳ではありません。

聖徒たちのための献金について」語っているのであり、謂わば目的献金、指定献金、約束献金、自由献金について語っているのです。

パウロは、コリント教会の人たちに、一、あなたがたがエルサレム教会、キリスト者たちから受けた霊的恵みを覚えているならば、献げるのは自然な事なのではないでしょうか、と呼び掛けているのです。

ローマ人への手紙1526節、2017323ページ、第三版314ページ、「15:26それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。

15:27 彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。

二、教会が一致している事のしるしとして、献げるのは当然な事なのではないでしょうか、と呼び掛けているのです。

コリント人への手紙第二、813節、2017365ページ、第三版355ページ、「8:13 私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。

8:14 今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。

三、パウロと、また、使徒たちとの約束の履行として、献げるのは必然な事なのではないでしょうか、と呼び掛けているのです。

コリント人への手紙第二、95節、2017366ページ、第三版356ページ、「9:5そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。

これらの理由から、コリント教会が、エルサレム教会に支援、献金するのは、自然、当然、必然である事を教えているのです。

16:2 私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。

パウロは、献金の集め方について、原則、準備について、実に的確な指示を与えます。

献金は、充分な理解と準備を持って為されるものであってほしい、と云う事です。

趣旨を理解しないままの献金であっては、慌てての献金であっては、祈りの伴わない献金であっては、皆が献げているから仕方なくであっては、献げられた価値は半減するのではないでしょうか。

否、何の意味もない、と云っても過言ではありません。

趣旨を理解した結果、祈り、祈った結果、献金と云う形に結実するのではないでしょうか。

あなたがたは」「それぞれ」であり、富める人、裕福な人、余裕のある人ばかりでなく、貧しい人も、困窮している人も、ぎりぎりの生活をしている人も、「週の初めの日に」、御子、主イエス様の復活に基づく、キリスト者の自由を特に現す日に、「収入に応じて」「いくらかでも」「手もとに」「蓄えておきなさい」です。

収入に応じて」であり、無理をしたり、見栄を張ったり、強いられて、は相応しくありません。

いくらかでも」であり、金額の多寡ではなく、喜んで献げる事が大切なのであり、継続する事も大切です。

これは、目的献金、指定献金、約束献金、自由献金であり、十一献金とは違う性質の献金です。

十一献金は、唯一真の神様のものであり、神様のものを、神様にお返しする性質のものです。

しかし、目的献金、指定献金、約束献金は、自由献金であり、するもしないも、金額も全くの自由です。

手もとに」であり、自分の責任と義務をはっきり、しっかり自覚する事が大切です。

蓄えておきなさい」であり、先に取り分けておく事、手を付ける事なく取っておく事、即ち、聖別する事が大切です。

収入から、必要な経費を割り出し、支出として取っておき、残ったものの中から、一部を献げるのではありません。

これでは、順番が逆です。

十一献金と同じく、先ず、取り分ける事が大切です。

収入に応じて」「いくらかでも」「手もとに」「蓄えておき」、後は、自由に使っても、何に使っても、趣味に使っても、娯楽に使っても、旅行に使っても、飲食に使っても、差し支えありません。

目的献金、指定献金、約束献金、自由献金は、唯一真の神様の恵みに、主体的に、自発的に、自由に応答する特権であり、義務でもあり、また、目的献金、指定献金、約束献金、自由献金を通して、教会の全体と各個人が繋がり、生きた関係である事を告白するのです。

十一献金は、収入の十分の一を唯一真の神様、御子、主イエス様に献げる事によって、唯一真の神様、御子、主イエス様との繋がりを、生きた関係を告白するのです。

献金は、唯一真の神様、御子、主イエス様に献げる奉仕であり、非常に重要な奉仕なのです。

16:3 私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。

パウロは、献金の集め方に続いて、送り方、取り扱い方についての原則、指示を与えます。

あなたがたの贈り物を届けさせ」るのは、適当な人を見つけて、都合よくエルサレムに行く人を見つけて、或いは、人を雇って、ではありません。

あなたがたの承認を得た人たち」、即ち、コリント教会の信任を得た人に、然るべき人に「あなたがたの贈り物」を託すのであり、コリント教会の働きとして、献金を届けるのです。

手紙を持たせて」、とありますが、これが誰の手紙であるのか、パウロの手紙、紹介状であるならば、パウロの使徒としての権威と働きを通して、コリント教会からの「贈り物を届け」るのであり、コリント教会の手紙であるならば、地域教会の働きとして「贈り物を届け」るのであり、エルサレム、ガリラヤ、コリントの諸教会の間に、生きた交わりが、浮き彫りにされ、麗しい交わりが存在する事が明らかにされるのです。

この「贈り物を届け」る行為は、単なる運び屋ではなく、

祈りと、祈りの結実を届ける重要な奉仕であり、「あなたがたの承認を得た人たち」、即ち、コリント教会の信任を得た人に、然るべき人でなければならないのです。

パウロは、献金の集め方に続いて、送り方、取り扱い方について、細心の指示を与えますが、パウロ自身が、その献金を直接取り扱わない点に注意しなければなりません。

16:4 もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。

パウロがエルサレム教会に行く事になったとしても、「その人たちは」、即ち「贈り物を届け」る人たちは、「私と一緒に行くことになる」のであり、コリント教会からの献金は、コリント教会の信任を得た人、コリント教会の信徒が届けなければならないのです。

パウロ、使徒たちは、献金を取り扱わないのが、原則です。

パウロがエルサレム教会に行くなら、ついでに届けてもらえば、手間は省けるし、経費の無駄も省けるし、良い事尽くめ、と考えるでしょうが、教職者、牧会者は、その家族は、献金を取り扱わないのが、原則であり、それがパウロの教え、聖書の教えるところです。

先に申し上げましたが、諸教会の間の献金は、諸教会の間の生きた交わり、麗しい交わりであり、

コリント教会の信徒の働きとして取り組むのが、原則なのです。

【適応】

昨今、経済の低迷、不景気、感染症などの影響や、社会の構造の変化などで、経済的に厳しい状況が続き、教会では、教会員の減少などで、自教会の教職者に謝儀を充分にお渡し出来ない教会が、自教会の経済的必要に不足する教会が増えています。

教会間の交わりも薄らいで、自分たちの事は、自分たちで解決を図るしかない、など、自己責任論的風潮が漂っているきらいがあります。

しかし、困っている教会を、教職者を、また信徒を、そのままにして於いてよいのでしょうか。

そこに、御子、主イエス様の愛や、霊的共同体、信仰共同体としての一致があるのでしょうか。

教会が、御子、主イエス様を頭とし、信者を肢体とするからだであるように、諸教会も、御子、主イエス様を頭とし、各個教会を肢体とするからだです。

からだの何処かが苦しければ、からだ全体が苦しみ、苦しいところを守り、慈しむように、何処かの教会が経済的に苦しければ、諸教会が経済的な支援を考えるのは、自然な事なのではないでしょうか。

義務とか責任ではなく、御子、主イエス様の愛の現われとして、霊的共同体、信仰共同体としての一致の現われとして、見ず知らずの教会や教職者、信者のために献げるのは、唯一真の神様の御旨に叶う、御子、主イエス様の喜ばれる事なのではないでしょうか。

唯一真の神様の憐れみ、御子、主イエス様の犠牲に倣う一つが、見ず知らずの教会や信者のために献げる事なのではないでしょうか。

献げる恵みと、献げものを受け取る恵み、双方が恵みに与れるのであり、献げる感謝と、献げものを受け取る感謝、双方が感謝に溢れるのです。

そんな教会の、麗しい、生きた交わりは、世知辛い世の中に、殺伐とした世の中に、愛と希望を届けるものとなるのではないでしょうか。

関東宣教区では、宣教区内の、経済的に困窮している教会を支援する仕組み、バルナバ基金があります。

ここ数年は、三教会に、2021年の実績は其々の教会に年間36万円支援しています。

椎名町教会では偶数月にバルナバ基金のための献金を募っていますが、2022年はこの働き、活動を理解し、賛同し、加わって頂けたら、収入に応じて」「いくらかでも」「手もとに」「蓄えておき」、教会に委ねて頂き、「手紙を持たせて」、「贈り物を届け」、献げる恵み、献げる感謝を共有して頂けたら、と思い、お勧めいたします。

2022-1に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

                                       2022-1-9礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一165節~9

説教題:「パウロの伝道・旅行計画」

【導入】

パウロたちが活躍した時代、パウロのような使徒たち、教職者たちは、特定の教会でのみ、活動していた訳ではありません。

現代のように、教会毎に主任担任教師が派遣され、駐在していて、その教会を専任で担当し、責任を負い、説教、牧会をしていたのではありません。

使徒たちの数も、教職者たちの数も、各地にある教会の必要に応える程充分な、余裕のある人数ではありません。

勿論、ある一定の期間、特定の教会で説教、牧会を担当した教職者たちもいますが、それでも、その教会を拠点としつつ、地域の教会の説教、牧会を担っていたのであり、多くの使徒たち、教職者たちは、特定の教会の責任を持たず、各地の教会を巡回し、手紙などを送り、励まし、指示を与え、質問に答え、或いは、本人自らが出向いて行って、問題に対処し、時には、代理人を派遣して、教会の問題に対応していたのです。

それこそ、休む暇もなかったかと思いますが、伝道計画、伝道のための旅行計画は、必要でも、必要とされても、自分の都合や考えで行なうものではありません。

常に、創造者にして支配者なる神様の主権で行うものであり、主権者なる神様のご計画に従うものでなければなりません。

【本論】

新改訳2017版 16:5 私はマケドニアを通って、あなたがたのところへ行きます。マケドニアはただ通過し、

パウロは8節に記されている通りに、「エペソに滞在し」、エペソ地域で伝道、牧会に従事していましたが、「マケドニアを通って」、「マケドニアはただ通過し」、「あなたがたのところへ行きます」と、語っています。

マケドニア地方には教会がない訳ではなく、また、何の問題もない、模範的教会ばかりであった訳ではありません。

使徒の働き169節、2017267ページ、第三版260ページ、「その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった」と、記されているように、はっきりした救霊の思い、強い救霊の思いのある地域であり、パウロは何時も、マケドニアの諸教会の事を、心に掛けていた事でしょう。

パウロの上には、コリント教会のみならず、マケドニア諸教会の事も、重くのしかかっていたはずです。

諸教会を訪問し、励まし、慰め、奨めるのは、非常に大切な働きであり、少ない使徒たち、教職者たちなのですから、「ついでに」は、人間的に見れば、良い方策であり、特に問題はないように思えますが、よく考えてみれば、「ついでに」は大変失礼な事であり、そんな程度の扱いなのか、なのではないでしょうか。

7節に記されている通りに、「旅のついでにあなたがたに会うようなことは」慎むべきであり、十分な配慮の下で行なわなければならないのです。

パウロは、「マケドニアを通って」、「マケドニアはただ通過し」、「あなたがたのところへ行きます」と、明確に、意識的に、積極的に、是非ともコリント教会を訪問しなければならないとの意思を表明します。

16:6 おそらく、あなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。どこに向かうにしても、あなたがたに送り出してもらうためです。

パウロは、コリントに暫く「滞在する」考え、計画がある事を表明し、コリント教会に対する深い親愛の思いを伝えるのです。

この表明の背景には、コリント教会の一部の人たちの、パウロがコリントに来るはずがない、との考えに対する否定、牽制の意味もあるでしょう。

勿論、この手紙を書いた時点で、コリント訪問が確定していた訳ではなく、状況次第では、コリント訪問は見送りになる可能性もありますが、「おそらく」と、相当大きな可能性がある考え、計画である事を表明するのです。

軽々しい思い付きではなく、以前から温めてきた計画であり、いい加減な考え、思い付きからの計画ではないが、しかし、7節、「主がお許しになるなら」と、支配者なる神様の主権を明確に表明するのです。

更に、「どこに向かうにしても、あなたがたに送り出してもらう」との表明は、伝道、宣教の働きが、パウロ個人の働きではなく、教会の働き、コリント教会の働きでもある事の表明です。

伝道、宣教の働きは、個人の働きに負うところ大ですが、教会が支え、教会が送り出す、教会の働きである事を、忘れてはならないのです。

16:7 私は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。

パウロは、「主がお許しになるなら」と、創造者にして支配者なる神様のご計画、主権者なる神様の御旨に従う事を明確に表明いたします。

ついつい、伝道、宣教は、創造者にして支配者なる神様のご計画、主権者なる神様の御旨であり、テモテへの手紙第二42節、2017429ページ、第三版426ページ、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」、と教えられており、どんどん進め、何時でも進め、何処へでも進め、と思い勝ちですが、大前提の「主がお許しになるなら」を忘れては、軽んじてはなりません。

伝道、宣教の働きは、自分本位の働きではなく、また、惰性や習慣でもなく、膠着した働きであってはならず、一度決めたなら最後まで、でもありません。

創造者にして支配者なる神様のご計画、主権者なる神様の御旨に従う者として、自らの計画が変更、修正、時に中断、断念する可能性を、常に意識し、持っていなければならないのです。

私たちは、何かの計画を立て、始める時は、高揚感や生き甲斐を感じますが、計画変更や修正、そして、中断や止める事に対して、罪悪感や敗北感を感じるのではないでしょうか。

引き際を見誤り、止めるにやめられず、ずるずると進んでしまう事があるのではないでしょうか。

引き際、止め時についても、充分話し合っておき、「主がお許しになるなら」を忘れない事が大切です。

16:8 しかし、五旬節まではエペソに滞在します。

五旬節」は、「ペンテコステ」とも言いますが、2022年は65日です。

エペソに滞在」する期間は、明確では有りませんが、パウロは、「エペソに滞在」する事も重要な働きであると明確に自覚しており、「エペソに滞在」し、腰を据えて働く事を表明します。

マケドニアを通って」、「マケドニアはただ通過し」、「あなたがたのところへ行きます」と、各地を訪問する事も大切な働きであり、「エペソに滞在」する事も、伝道、宣教の大切な働きなのです。

この訪問の計画と滞在の計画は、どちらが正しい、どちらを進めるべきか、ではなく、どちらも「主がお許しになるなら」を大前提とし、見極める事が大切です。

五旬節」は、ユダヤ教の重要な節目の日であり、「ペンテコステ」は、キリスト者にとっても重要な日です。

五旬節」は、各地での伝道、宣教する絶好の機会であるとし、パウロは、「主がお許しになるなら」、「エペソに滞在」する事を表明します。

16:9 実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれていますが、反対者も大勢いるからです。

エペソに滞在」する事は、「実り多い働きをもたら」しますが、「実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれています」は、問題が起こらない訳でも、順調である訳でも、成果が保障されている訳でも、安全が保証されている訳でもありません。

安全どころか、「反対者も大勢いる」のであり、パウロは、前途多難である事を、大きな障害が立ちはだかり、激しい迫害が待ち受けている事を覚悟しています。

反対者」は、ユダヤ教の信奉者たちです。

使徒の働き2222節、2017282ページ、第三版275ページ、「22:22 人々は彼の話をここまで聞いていたが、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」

そして、異教の信奉者たちです。

使徒の働き1923節、2017274ページ、第三版268ページ、「19:23 そのころ、この道のことで、大変な騒ぎが起こった。

19:26 ところが、見聞きしているように、あのパウロが、手で作った物は神ではないと言って、エペソだけでなく、アジヤのほぼ全域にわたって、大勢の人々を説き伏せ、迷わせてしまいました。

19:28 これを聞くと彼らは激しく怒り、「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」と叫び始めた。

19:29 そして町中が大混乱に陥り、人々はパウロの同行者である、マケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕え、一団となって劇場になだれ込んだ。

これらの「反対者」の存在と、大きな障害、激しい迫害を覚悟したうえで、パウロは何時も、創造者にして支配者なる神様のご計画、主権者なる神様の御旨を重んじ、何よりその栄光を現す者として、計画を立て、時に進んで行き、時に留まるのです。

【適応】

パウロの伝道、宣教の計画は、エペソ教会の人々の事を大事、大切に思い、コリント教会の人々の事を大事、大切に思うパウロの熱意、熱心、考えから出た行動のように見えましょうが、パウロの伝道姿勢、宣教姿勢は、主がお許しになるなら」を大前提としたものです。

主がお許しになるなら」、コリント教会を訪問するのであり、「主がお許しになるなら」、エペソ教会に滞在するのです。

行きたくなくても、主が命じられるならば行くのであり、行きたくても、主がお許しにならないならば行かないのです。

本日の説教題を「パウロの伝道・旅行計画」としましたが、伝道、宣教、牧会の主体は主権者なる神様であり、「主権者なる神様の伝道・旅行計画」との言い方が正しい言い方でしょう。

パウロの、エペソ教会やコリント教会への配慮、心配、熱心は、そのまま創造者にして支配者なる神様の、主権者なる神様の、エペソ教会やコリント教会への配慮、心配、熱心です。

パウロは身一つであり、エペソ滞在中は、コリントにも、マケドニアにも、何処にもいけませんが、主権者なる神様は、伝道、宣教、牧会を必要とする地に、教会に、使徒たち、教職者たち、適任者を選び派遣されるのです。

日本同盟基督教団では、理事会が中心となって、伝道、宣教、牧会を必要とする地に、教会に、教職者、適任者を派遣します。

この世に、伝道、宣教、牧会を必要としない地はありません。

主権者なる神様が、使徒たち、教職者たち、適任者を選び派遣されるのです。

使徒の働き166節、2017267ページ、第三版260ページ、「6:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。

16:7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。

16:8 それでミシアを通って、トロアスに下った。

みことばを語ることを聖霊」が「禁じ」るなんて・・・、

イエスの御霊がそれを許されな」いなんて・・・。

でもこれらは、主権者なる神様のご計画、御旨であり、パウロたち、使徒たちは、皆、何時でも、この主権者なる神様のご計画、御旨に従ったのです。

みことばを語ること」、宣教に「進もうと」するのは、行なうのは使徒であり、教職者ですが、主権者は、創造者にして支配者なる神様である事を忘れてはならないのです。

創造者にして支配者なる神様、主権者なる神様は、人間を愛し、憐れみ、慈しんで、教職者たち、宣教師たちを遣わされるのです。

創造者にして支配者なる神様、主権者なる神様の人間に対する愛は永遠に変わる事なく、憐れみ、慈しみは、尽きる事もないのであり、今年も絶え間なく、皆さんの上に、教会の上に注がれ続けるのです。

2022-1に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

                                       2022-1-16礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一1610節~14

説教題:「パウロの同労者たち」

【導入】

パウロは非常に大きな働きをし、各地にキリスト教会を建て上げ、集う信徒を育成しましたが、パウロの働き、影響力はパウロが活躍した時代に留まらず、現代の私たちにも、このような手紙を残し、キリスト教会を建て上げ、集う信徒を育成しています。

キリスト教に対するパウロの働きは、特筆すべき、稀有な働きですが、パウロ一人の功績ではありません。

ローマ人への手紙1622節には、手紙を筆記した「テルティオ」の名前が挙げられていますが、口述筆記をした者たちや、手紙を届けた、名も記されていない者たちとの共働作業であり、重要なのは多くの同労者たちの存在とその働き、同労者たちとの協力関係です。

その同労者の存在は、コリント人への手紙第一、112節、2017326ページ、第三版317ページ、に記されているように、「「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言って」、混乱や分派、分裂の原因にもなってしまいましたが、同労者なくして、伝道、宣教の働きは進みようがありません。

その同労者ですが、アポロ、ケファなどの名の通ったベテランばかりではありません。

若手の同労者には、それなりの配慮と執り成しが必要です。

【本論】

新改訳2017版 16:10 テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにしてあげてください。彼も私と同じように、主のみわざに励んでいるのです。

年若い同労者「テモテ」をコリント教会に派遣するに際しての、パウロの、テモテに対する深い愛と、労わりに満ちた配慮のことばです。

歴史のある教会、その地域で重要な地位にある教会、例えばコリント教会などは、プライドが高く、高慢な傾向があり、若い伝道者や教職者、経験の浅い伝道者や教職者、或いは出自によっては、これらの伝道者や教職者を、軽んじるような事があるのではないでしょうか。

現に、コリント教会では、プライドが高く、高慢な傾向が顕著であり、家柄や出自、知識、地位、身分を誇っていたのであり、それらが混乱や分派、分裂の一因になってもいたのです。

テモテは、父はギリシャ人であり、母と祖母はユダヤ人と云う家庭に生まれましたが、コリントの地では、どのような見方をされ、扱いを受けたのでしょうか。

パウロの配慮のことばから察して偏見や差別があった事は、想像に難くありません。

しかし、家柄や出自、地位、身分は、伝道、宣教の働きに、全く関係ありません。

知識はあったに越した事はありませんが、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の事や御子キリスト・イエス様の事、聖霊や聖書に関する、必要最低限の知識で充分です。

話すべき事は、聖霊が示し、与えて下さるからです。

マタイの福音書1019節、2017版、第三版ともに18ページ、「10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。

10:20話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。

テモテは、伝道、宣教の働きに対する激しい妨害、迫害、戦いの中での、パウロの、頼もしい戦友の一人です。

コリント人への手紙第一、417節、2017331ページ、第三版322ページ、「そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」と記されている通りであり、

ピリピ人への手紙220節、2017397ページ、第三版385ページ、「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。

2:22 しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕して来ました。」と記されている通りです。

テモテは、パウロの全幅の信頼を受けている同労者なのであり、否、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の信頼を受けているパウロと同等の伝道者、教職者なのであり、「彼も私と同じように、主のみわざに励んでいるのです」と、パウロは最大限の賛辞をテモテに呈するのです。

ですから、

16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちと一緒に戻るのを待っています。

軽んじては」を、新共同訳聖書は「ないがしろにしては」と訳していますが、テモテ、そして伝道者、教職者に対しては、どんな形であっても、軽んじたり、蔑ろにしたり、侮るような事があってはなりません。

パウロであっても、アポロであっても、ケファであっても、若いテモテであっても、どんな伝道者、教職者であっても、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が立てられ、選ばれ、遣わされたのです。

断じて軽んじては、蔑ろにしては、侮ってはならないのであり、個人的な判断や思惑で、非難、批判したり、拒絶、排斥したりしてもならないのです。

問題があろうがなかろうが、期待通りであろうがなかろうが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が遣わされた者として、十分な尊敬を払い、「平安のうちに」受け入れ、「平安のうちに送り出」さなければならないのです。

テモテをコリント教会に派遣する一方で、「兄弟アポロ」に付いて、言及しますが、これは、パウロに宛てられたコリント教会からの手紙に、アポロを派遣して欲しいと、強い要請が書かれていたのではないかと考えられます。

16:12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くように、私は強く勧めました。けれども、彼は今のところ行く意志は全くありません。しかし、良い機会があれば行くでしょう。

自分たちの意のままにならないと、願いが受け入れられないと、パウロが反対したのだ、とか、邪魔をしたのだ、とかの推測を立て、それが真実であるかのように吹聴する者が出て来ます。

そんな邪推が起こるのを牽制し、払拭するために、コリント教会の要請に対して、「兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くように、私は強く勧めました」と、パウロが反対したり、邪魔をしたりしたのではない事を言明します。

決して、パウロが、アポロのコリント行きを阻止し、テモテや他の兄弟たちを派遣したのではない事を、コリント教会の人たちが納得し、不必要な誤解が生じないよう配慮しているのです。

アポロがコリント教会行きを強く拒んだのは、コリント教会の実情を知っており、コリント人への手紙第一、112節に記されているように、「「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言って」、混乱や分派、分裂が起こっており、自分が行く事が益にならず、混乱などを収拾するどころか、逆に火に油を注ぐ事になりかねない危惧を強く感じたからでしょう。

アポロは、今はコリント教会を訪問すべきではないと判断したのです。

パウロは、このアポロの判断を尊重しつつ、「しかし、良い機会があれば」と、コリント教会の要請にも配慮している事を、さりげなく表明しているのです。

パウロの伝道、宣教旅行計画は、パウロ個人に限らず、同労者との共働の働き、チームとしての働きであり、同労者、其々の賜物を生かす働きである事が、同労者間に共有されていた事を窺わせる記述です。

伝道、宣教の働きはチームプレーであり、個人プレー、孤立プレーではないのです。

また、伝道者、教職者の間に、伝道者、教職者と教会間にも、頻繁に交流があったことを窺わせる記述です。

伝道、宣教の働きは、個人の考えや計画、個人の働きや犠牲に負うところは大ですが、全体をコントロールしているのは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様であり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の指示で、其々が賜物を生かし、伝道、宣教の働きは強力に、継続的に、拡張的に進められていくのです。

伝道者、教職者は、常に唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の指示に従うのであり、伝道者、教職者を唯一真の神様、御子キリスト・イエス様から遣わされた者として信頼し、従い、伝道者、教職者を物心両面で支えるのが、教会の、信徒の務めなのです。

16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。

目を覚ましていなさい。」悪魔の策略に立ち向かうために、伝道者、教職者は、教会、信徒は、目を覚ましていなければなりません。

世に警告を与える者としての自覚を持っているでしょうか、世の中の動向を見張っているでしょうか。

堅く信仰に立ちなさい。」終末の希望に生きる者として、如何なる現実にも、自己満足や絶望に陥る事なく、与えられた持ち場を決して放棄しない戦士として、戦い続け、進み続ける、真の意味での忍耐が要求されるのです。

全ての源なる唯一真の神様を心から信頼し、御子キリスト・イエス様に服従し続けるよう、勧告するのです。

雄々しく、強くありなさい。」「雄々しく」を、口語訳、新改訳第三版は「男らしく」と訳していますが、その真意は、「一人前の者、大人」の意味でしょう。

未熟な、甘えた、人に頼るような、人に責任を転嫁するような、子どものような生き方ではなく、自堕落な、放縦な、半人前の生き方ではなく、自らの責任を自覚し、個人と全体との関係を考慮し、伝道、宣教と、そのための旅行に伴う、苦悩に満ちた問題、障害の数々を、自らの肩に担って生きる生き方は、唯一真の神様よりの力、聖霊の力によって満たされなければ、御子キリスト・イエス様の執り成しがなければ、到底達成する事も、耐える事も出来ないのです。

16:14 一切のことを、愛をもって行いなさい。

ここまで力強く述べて来た事の総括であり、13章で展開した「」を繰り返します。

コリント人への手紙第一13章、2017346ページ、第三版336ページ、「13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、

13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。

13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

」がなければ、伝道、宣教の働きは、前進しません。

伝道、宣教の働きは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の働きであり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の愛から出た働きだからです。

【適応】

パウロの同労者たちもまた、愛に押し出され、愛を原動力とする人たちです。

テモテが、大きな問題を抱えたコリント教会に行くのは、パウロ大先生の命令だから、依頼だから、たっての頼みだからではありません。

コリント教会の人たちが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に愛されている人たちだからであり、パウロが愛している人たちだからです。

大きな問題を抱えた教会には、出来れば行きたくはありません。

避けたいし、関わりたくはありません。

しかし、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が愛された教会であり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が愛された人たちだから行くのであり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に指名され、召命を受けたから行くのです。

アポロが何時も心に掛け、片時も忘れた事がないコリント教会に、敢えて行かないのは、コリント教会を、コリント教会の人たちを愛しているからです。

関係性が強過ぎると、情が篤過ぎると状況を見誤り、判断が鈍り、判断を誤ります。

冷静な、公平な、長期的な展望と判断が難しくなります。

コリント教会にとって益となるのは、パウロが行く事ではなく、また、アポロが行く事ではなく、行かずに祈り、見守る事です。

テモテに委ねる事です。

パウロ派の人たちは、敬愛するパウロが信頼し、派遣したテモテのことばを聞くでしょうし、アポロ派の人たちも、敬愛するアポロが信頼し、派遣したテモテのことばを聞くでしょう。

第三者であるテモテを派遣する事は、コリント教会にとって益となる判断をする事に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す判断をする事になるのです。

同労者の存在は、負担の均一化、働きの均一化、或いは、より多くの宣教地へ派遣するのも目的ではありますが、大事なのは、対応の多様性であり、個別対応と云う事でしょう。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の、私たちへの関心の高さの現われであり、一つ一つの教会の実情、実態に即して、対応してくださり、一人一人の信徒の実情、実態に即して、支え、助け、守り、導いてくださると云う事なのです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の対応は、画一的な対応ではないのです。

一つの教会として、一人の信徒として、滅びる事がないように、との配慮から、多種多様な背景を、個性を、特徴を、賜物を持つ教会、信徒、求道者のために、多種多様な背景を、個性を、特徴を、賜物を持つ伝道者、教職者を派遣してくださるのです。

御子キリスト・イエス様が立てられた、掛け替えのない教会を守るために、御子キリスト・イエス様が命を懸けて贖われた、掛け替えのない魂を救うために、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様は、伝道者たち、教職者たちを遣わされるのです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様は、人間を愛し、憐れみ、慈しんで、伝道者たち、教職者たちを遣わされるのです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の人間に対する愛は永遠に変わる事なく、憐れみ、慈しみは尽きる事もないのであり、今も、何時までも絶え間なく、教会の上に、皆さんの上に注がれ続け、必要な伝道者、教職者、適任者を派遣され続けるのです。

2022-1に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

                                       2022-1-23礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一1615節~18

説教題:「パウロの協力者たち」

【導入】

パウロは非常に大きな働きをし、各地にキリスト教会を建て上げ、集う信徒を育成してきましたが、パウロ一人の働きではありません。

多くの同労者たちとの、アポロやケファ、若いテモテやテトスなどとの連携と協力があってこそでした。

それについては、前回学んだ事ですが、一人の働きには、限界があります。

カリスマ的な伝道者や教職者の存在は、一時は隆盛を極めるでしょうが、その存在の喪失とともに、教会も衰退の一途、と云うのは、珍しい事ではありません。

一人のカリスマ的な伝道者や教職者よりも、連携の取れる、協力を惜しまない同労者の存在のほうが有益なのは、古今東西、変わらないようです。

そして、カリスマ的な伝道者や教職者であっても、そうではない伝道者や教職者であっても、開拓期、草創期、成長期、熟成期、老齢期・・・、其々に関わり方、働き掛け方が違います。

おんぶに抱っこの開拓期にある教会、何かと面倒を見なければならない草創期にある教会、自主自立を目指す成長期にある教会、開拓期、草創期、成長期にある教会を支援し、伝道者たち、教職者たちを支える熟成期、老齢期にある教会、云々。

明確な期間や区別がある訳ではありませんが、教会も成長、変化する組織であると認識しなければならず、適宜な対応、指導、教育をしなければなりません。

何時までも、伝道者、教職者に判断を仰ぎ、伝道者、教職者が牽引している教会は、子どもの教会であり、二流の教会であり、信徒が率先して組織を運営し、牽引している教会は、大人の教会であり、一流の教会なのではないでしょうか。

何時までも子どものような教会、世話になりっぱなし、面倒を掛けっぱなしの教会であってはなりません。

教会は、正に生きているのであり、時の流れとともに、成長し、時代とともに、文化とともに、地域とともに、変化し、適応し、成長し、死んでも行くものなのです。

聖書に記されている多くの教会は、コリント教会も含めて現存してはいないのです。

しかし、その働きによって開拓された教会は現在に続いているのであり、教会も伝道者、教職者も、使命を果たしたなら消え行くのも支配者なる神様の御旨なのです。

それでも教会は比較的長く、100年、200年と、その地に存在し続けますが、伝道者は数年、短ければ数ヶ月、教職者は230年、短ければ数年、長くても560年で、入れ替わります。

そこで重要になってくるのが、信徒の働き、協力です。

先の学びで、同労者なくして、伝道、宣教の働きは進みようがありません、と申しましたが、協力者なくして、伝道、宣教の働きは継続のしようがありません。

教会を、伝道者や教職者を支援する人たちこそ、必要不可欠の働きなのです。

パウロは、原則、原理を語るだけではありません。

また、抽象的な勧告を与えるだけでもありません。

パウロは、原則、原理とともに、具体的な適応勧告を与えますが、パウロは、コリント教会にあって、具体的に実践している、模範的な人たち、協力者たちを紹介し、

その協力者たちを非常に高く評価しています。

【本論】

新改訳2017版 16:15 兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。ご承知のとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。

パウロが、「ステファナの一家」を、コリント教会の模範として挙げているのは、ステファナの一家が、コリント教会の必要を見抜き、一番目立たないところで、忠実に、「熱心に奉仕してくれ」たからです。

ステファナの一家は、パウロの勧告のことば、1613節、14節のことば、「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。

一切のことを、愛をもって行いなさい」、を実践し続けて来ていたのです。

コリント教会は多くの問題を内在し、それが教会に悪しき影響を与えていましたが、ステファナの家族ように、鋭敏に、教会の必要、群れの必要を見抜き、責任を自覚し、全存在をもって担い続ける人たちによって支えられ、存在し続けて来たのです。

しかし、コリント教会では、ステファナの一家は、目立たない存在であり、軽く扱われ、評価されない存在でした。

しかし、ステファナの一家は、評価されない事に不満を持つ事もなく、忠実に、熱心に、陰日向なく、御子、主キリスト・イエス様にお仕えして来たのです。

奉仕も献金も、御子、主キリスト・イエス様に献げるのであり、御子、主キリスト・イエス様からの評価だけが重要なのです。

褒められ、評価される事は、気持ちの良いものではありますが、人からの評価を意識した時点で、その奉仕や献金は、汚れたものになってしまいます。

声の大きい人、目立つ人、が評価されやすい傾向にありますが、褒められ、評価される事が目的になっては、御子、主キリスト・イエス様の前に、価値あるものではありません。

誰にも知られない奉仕、献金こそ、御子、主キリスト・イエス様の前に価値あるものなのです。

16:16 あなたがたも、このような人たちに、また、ともに働き、労苦しているすべての人たちに従いなさい。

伝道者、教職者としてのパウロが評価するのは、御子、主キリスト・イエス様が評価するのは、どのような人たちなのか、パウロや、御子、主キリスト・イエス様が、教会の宝として、どのような人たちを重んじていたかが分かる記述です。

教会の宝は、裕福でたくさん献金する人たちではなく、地位の高い人たちでもなく、知識の豊富な人たちでもなく、名士たち、支配者層の人たちでもなく、また、立派な教職者やその同労者たちでもなく、「このような人たち」、即ち「聖徒たちのために熱心に奉仕してくれ」た人たちであり、「ともに働き、労苦しているすべての人たち」です。

裕福でたくさん献金する人たち、地位の高い人たち、知識の豊富な人たち、名士たち、支配者層の人たちに、従うのではありません。

聖徒たちのために熱心に奉仕してくれた人たちを見倣うのであり、ともに働き、労苦しているすべての人たちを見倣うのです。

教会を目立たないところで、陰で支える人たちを敬い、そんな生き方を見倣うのです。

指示、命令するのではなく、率先してしもべとなるのです。

働かせるのではなく、自らが働くのです。

教会の船頭は一人、御子、主キリスト・イエス様だけです。

その御子、主キリスト・イエス様の信任を受けた伝道者、教職者が、教会の船頭となって、教会を導くのです。

教会の、人間の船頭は一人であり、信徒は聖徒たちのために熱心に奉仕している人たちを見倣うのであり、ともに働き、労苦しているすべての人たちを見倣うのです。

この秩序が、教会を健全に成熟させるのです。

16:17 ステファナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。

ステファナとポルトナトとアカイコ」は、コリント教会の信徒たちで、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれた人たちであり、ともに働き、労苦している人たちであり、コリント教会を代表して、コリント教会からの手紙を持参し、パウロのところにやって来たのです。

「コリント人への手紙第一」は、この人たちによって持ち帰られた、と考えられています。

コリント教会の人たちが遠路はるばる、パウロのところを訪ねて来てくれた事は、離れたコリント教会の事を案ずるパウロにとって、本当に大きな喜びと平安をもたらした事でしょう。

ステファナ」、口語訳聖書、新改訳第三版では「ステパナ」と訳されていますが、ステファナとその家族は、コリント人への手紙第一116節に記されている通り、パウロがバプテスマを授けた家族であり、1615節に記されている通り、アカイアの初穂ですが、それ以上の事は、聖書から知る事は出来ません。

殉教した「ステパノ」とは別人です。

ポルトナト」は、ステファナの家族、もしくは、ステファナの奴隷であったのではないか、と考えられています。

アカイコ」は、その名前から、アカイア地方の奴隷であったのではないか、と考えられています。

ステファナは、奴隷の身分であるポルトナトとアカイコだが、御子、主キリスト・イエス様の忠実なしもべである二人を連れて、パウロのところにやって来たのでしょう。

手紙の持参は勿論の事、情報の提供も、ステファナ一人で充分でしょうが、ポルトナトとアカイコの同道は、パウロにコリント教会の、口頭による情報、新鮮な、且つ詳細な、複合的、立体的、具体的な情報をもたらした事でしょう。

人は、思い出せない事もあり、複数人のもたらす情報は、漏れや度忘れを防ぐ事が出来ます。

情報と云うものは、一元的な情報では、単純化されたり、私見が入ったり、偏見が入ったりしますから、幾つかの情報を仕入れ、総合的に、俯瞰的に判断しなければなりません。

その意味でステファナが、ポルトナトとアカイコを同道したのは正しい判断であり、パウロはより正確な、客観的なコリント教会の状況を知り得る事が出来たのです。

パウロは、ステファナとポルトナト、そしてアカイコと意思の疎通を行なったのであり、ステファナとポルトナト、そしてアカイコを通して、コリント教会と意思疎通を行なったのであり、コリント教会の問題に対して、パウロは的確な指示、助言、勧告を与える事をし得たのです。

パウロと、ステファナ、ポルトナト、そしてアカイコとの間のキリストにある交わりは、ステファナ、ポルトナト、そしてアカイコの、コリント教会に対する奉仕は、ステファナ、ポルトナト、そしてアカイコがもたらしたコリント教会の実情は、それがどんなに大きな問題を含んだものであったとしても、キリストの教会のために生きるパウロにとって、大きな喜び、励まし、希望になった事でしょう。

16:18 彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。

正しい情報がもたらされてこそ、的確な指示や勧告をする事が出来るのであり、間違い、誤りは正され、御子、主キリスト・イエス様の御旨をなす教会、信徒となるのであり、パウロは心の重荷を軽くする事が出来、「心を安らがせてくれました」と、「私は喜んでいます」と、言い得たのです。

ステファナ、ポルトナト、そしてアカイコの三人は、パウロとコリント教会の交わりを、強く、堅く結ぶ役割を果しました。

この重要な働きと、先の情報、実情報告の働きとに対して、「このような人たち」の労を「尊びなさい」とパウロは命じるのです。

この「尊びなさい」を、新共同訳聖書、口語訳聖書は「重んじなさい」と訳し、新改訳第三版は「労をねぎらいなさい」と訳していますが、パウロの、キメ細やかな配慮は、コリント教会に必要な指示なのです。

人を地位や身分で尊び、重んじ、差別する傾向にあるコリント教会に必要な指示であり、働きを評価しつつ、御子、主キリスト・イエス様にあって尊び、重んじ、労をねぎらうのであり、働きを評価するのであり、人を評価するのではありません。

人が尊ばれたり、もてはやされたりしてはならないのです。

手紙を届ける・・・コリント教会の一部の人たちは、子どもでも奴隷でも出来る働き、と見ていたのではないでしょうか。

パウロは、そうは見ていません。

手紙を届ける、情報をもたらすのは、命がけの働きであり、高く評価される働きなのであり、それをパウロは、コリント教会の人たちに示しているのです。

【適応】

有能だから、もてはやされ、有益な働きに対して、高い評価が与えられ、高い地位、高貴な身分がもてはやされ、よい扱いを受けるのは、この世の習いでしょうが、教会はそうではありません。

働きで評価されては働きのない人、幼子、ご老人、病人、障害者などは、身分などで人がもてはやされるなら、一般人は、奴隷はいたたまれないのではないでしょか。

多くを献げられない人、何も献げられない人、奉仕が出来ない人は、身の置き所がなく、地位もなく、低い身分の人は、寂しい思い、辛い思いをするのではないでしょうか。

教会では、働きで評価されるのではなく、地位や身分で評価されるのでもなく、その人の存在自体が評価されるのであり、大切な存在として扱われるのです。

パウロの協力者とは、ステファナ、ポルトナト、そしてアカイコのような働き人たちだけではなく、背後で、パウロのために祈り、ステファナ、ポルトナト、そしてアカイコのような人たちのために祈る、名もない人たちなのです。

活躍する人や、何かと目立つ人がもてはやされるのではなく、何の働きのない人も、陰の働きに就いている人も、どんな人も、大切な、掛け替えのない存在として扱われるのが、教会なのです。

パウロは、ステファナ、ポルトナト、そしてアカイコのような人たちを尊びなさい、と命じましたが、コリント教会の一部の人たちに、名もない人たちに目を向けるように、名もない人たちの働きを評価するように命じているのです。

それこそ、パウロの協力者なのです。

表立っては反対したり、非難、批判したりはしないけれども、陰で反対したり、非難、批判したりするなら、それは、真の協力者ではありません。

毒でありこそすれ、教会を真の意味で支える人ではありません。

否、教会に混乱を起こし、教会を破壊する人たちです。

表立った働きでなく、評価されなくても、そんな事は気にも掛けず、陰の働きを喜んで担う人たちこそ、真の協力者なのであり、教会を真の意味で支える人たちなのです。

例えば、コロナ禍の中で、牧師から対面の礼拝を続けたい、との意向が出された場合、信徒は、どうやるんですか、無理ですよ、ではなく、役員に考えてもらいましょう、でもなく、どうしたら対面の礼拝が出来るかを、自分たちで考え、工夫し、実行するのが、また、感染者を出さないために、教会がクラスター源とならないために、自分たちで出来る事を率先して行うのが、信徒の役目であり、協力者なのではないでしょうか。

有能な人たち、貢献する人たちがもてはやされるなら、それは、キリストの教会ではありません。

何も出来ない人たち、小さな人たちを、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様は大切に思い、掛け替えのない存在とされるのであり、何も出来ない人たち、小さな人たちを大切にする教会こそキリストの教会であり、そんな教会でありたいものです。

2022-1に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

                                       2022-1-30礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一16章19節~24

 

説教題:「音信とあいさつ」

【導入】

パウロは非常に大きな働きをし、各地にキリスト教会を建て上げ、集う信徒を育成してきましたが、パウロ一人の働きではありません。

多くの同労者たちとの連携と協力があってこそでした。

更には、名も残されていない、非常に多くの協力者の犠牲と、協力と連携とがあってこそでした。

パウロは、コリント教会の人たちに、ステファナ、ポルトナト、そしてアカイコのような人たちを尊びなさい、と命じましたが、それは、コリント教会の一部の人たちに、アポロ、ケファなどの有名な使徒や伝道者たちだけでなく、名もない人たちに目を向けるように、名もない人たちの働きを評価するように命じているのです。

それは、とりもなおさず、創造者にして支配者なる唯一真の神様が、御子キリスト・イエス様が、名もない人たちの働きを大きく評価している事の現われです。

一人一人の働きや協力は小さなものであっても、献げものは僅かであっても、創造者にして支配者なる唯一真の神様は、御子キリスト・イエス様は、十把一絡げに見る事なく、一人一人の名前を知っていてくださり、その働きや協力を別個のものと見てくださり、尊いものと見てくださり、その献げものを献身の現われと見てくださり、喜んでくださり、受け入れてくださるのです。

パウロの、これら小さな者たちに対する慈しみや配慮の程は、音信、挨拶にも現われます。

【本論】

新改訳2017版 16:19 アジアの諸教会がよろしくと言っています。アキラとプリスカ、また彼らの家にある教会が、主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。

パウロが滞在し、この手紙を書いているのはエペソと考えられていますが、「アジアの諸教会」とは、エペソを中心とするアジア州各地にある教会、コロサイの教会、ラオディキアの教会、ヒエラポリスの教会などの事と思われます。

パウロは、コロサイの教会、ラオディキアの教会、ヒエラポリスの教会などに集う人々からの音信をコリント教会に取り次ぎます。

パウロがコロサイの教会と交流があった事はコロサイ人への手紙で明らかですが、413節、2017版は406ページ、第三版は394ページに、ラオディキア、ヒエラポリスの地名が挙げられていますので、これらの教会とも密な交流があったと思われます。

エペソはエーゲ海沿岸にあり、交通の要衝であり、アジア州第一の都市ですが、内陸部にあるコロサイとは100km程離れており、コロサイとラオディキア、ヒエラポリスは、更に50kmほど離れています。

当時の交通事情を考える時、決して近くはなく、簡単に往復出来る距離ではありませんが、決して孤立しているのではなく、深い交わりがあり、地理的な困難を越えて、共に信仰の戦いを戦っていた同士なのです。

コロサイの教会、ラオディキアの教会、ヒエラポリスの教会などと、コリントの教会との繋がりは、このパウロの執り成しによって更に強く、深くなった事でしょう。

また、コロサイの教会の信徒、ラオディキアの教会の信徒、ヒエラポリスの教会の信徒などと、コリントの教会の信徒との繋がりも、このパウロの執り成しによって、更に親密な、麗しいものとなった事でしょう。

パウロのように、教会同士を、信徒同士を結び合わせるのが、取り持つのが、使徒、伝道者、教職者の大切な働きであり、自分に結び付け、取り込むのは、或いは、教会に囲い込むのは、使徒、伝道者、教職者の働きではなく、教会の働きでもなく、信徒の働きでもありません。

個人的な結び付き、関係性も重要ですが、教会、即ち、御子、主イエス様と結び付いていなければ、人間関係の終わりと共に、教会との関係も終わってしまいます。

教職者も、信徒もよくよく注意しなければなりません。

横の繋がりではなく、縦の、御子、主イエス様との繋がりを強化するために、持続させるために、教職者は、信徒は働くのです。

さて、「アキラとプリスカ」は夫婦であり、パウロがコリントで出会った人たちです。

パウロは、コリントで天幕作りをしながら、伝道の働きをしたのでありこの夫婦と協力し、苦楽を共にし、その使命を推し進めたのです。

彼らの家にある教会」とは、エペソ教会を母体とする集会所の一つ、家庭集会のようなものと考えられ、アキラとプリスカは自分の家を、家庭集会の場として提供していたのです。

エペソのような地域教会と、信徒の家庭が強く結び付いていて、伝道、宣教の働きに大きく貢献していたのです。

これは、現代でも通用する、否、信徒の家庭はいずれも、信徒の集うところ、即ち、教会となるようにする必要があり、しなければならないのです。

教会と云うと、礼拝堂や会堂などの建物を連想しますが、教会と訳されている語は、「集まり、集会、会衆」の意味ですので、信徒が集まれば、集まったところが教会なのです。

さて、日本に於いて、教会は、神社や仏閣よりも敷居が高く、気軽に入れるところではありません。

神社や仏閣は境内が広く、散歩がてらの気分で入れ、心理的抵抗も少ないのですが、教会は、建物に入るのですから、入る事には大きな抵抗があります。

しかし、信徒の家ならば、敷居は低く、入り易いでしょう。

日本では、また、宗教が禁じられている国、特定の宗教しか認められていない国にあって、家庭集会の必要性は、増しこそすれ、減ずる事はなく、益々、その必要性と重要性は増す事でしょう。

16:20 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。

すべての兄弟たち」の意味するところは、一、エペソの教会で、アキラとプリスカの家の教会以外に集まる人たち、二、エペソに旅行中のコリント教会の人たち、三、パウロと共に働いている同労者たち、協力する信徒たち、など諸説ありますが、いずれにしても、エペソの教会やアジア州の教会と、コリントの教会との、地理的隔たりにも関わらず、キリストにある親しい交わり、交流があった事を明示させる記述です。

あなたがたによろしく」とのことばには、エペソの教会の人たちの、コリント教会の人たちの安否を気遣い、消息を案ずる思いが込められていて、心温まることばなのではないでしょうか。

聖なる口づけ」は、教会での集まりの時に、互いの愛を現す慣習だったようで、パウロは、この手紙がコリント教会で読まれる時、主の日の集まりなどで読まれる時を思い浮かべ、このようにお勧めをするのです。

16:21 私パウロが、自分の手であいさつを記します。

21節のことばから、この手紙が筆記者によって書かれた事が分かります。

手紙の真正性(しんせいせい)と、内容の信憑性を保障するために、手紙の最後に、自筆で名を記すのが、当時の慣習だったようです。

と同時に、パウロの個人的な思いも込めた、心からの手紙である事を示す意味もあって、自筆で署名をしたのでしょう。

業務上の連絡に、事務連絡に自筆署名は不要でしょうし、メールに時候の挨拶などは不要でしょうが、年賀状や引越しなどの案内などの、文面は印刷でも、肉筆で一言添えるのは、温かみを感じさせる心配りでしょう。

厳しい中にも、パウロの優しさの込められた、配慮の行き届いた手紙ですが、手紙の内容は勧告であり、真摯に受け止めてもらわなければならず、読み流してもらいたくはありません。

この手紙をしっかりと、真剣に受け止めて欲しく、筆を進めます。

16:22 主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。

イエスは主です、と告白し、御子、主イエス様を愛する事は、御子、主イエス様との交わりに入れられている事の印であり、罪の呪いから解放されている事の確証ですが、「主を愛さない者は」、即ち、御子、主イエス様を愛さない事は、自ら主イエス様との交わりを拒絶する事であり、己を主イエス様との交わりから切り離す事であり、主イエス様からの祝福、恵みを受けられない、それは、「のろわれ」る事と同義だ、と断言するのです。

主を愛さない事は、自ら呪いを招く行為であり、そうならない事を願っての、逆説的表現の勧告なのです。

ここで確認しておきたいのは、「のろわれよ」は、逆説的な表現であって、パウロの本心、本音ではない、言いたい事ではない、と云う事です。

或いは、脅す意味はない、と云う事です。

パウロのみならず、伝道者は、教職者は、また信徒も、どんな形でも、状況でも、人を呪ってはなりません。

また、不幸を祈り、願っても、裁かれる事を祈り、願っても、懲らしめられる事を祈り、願っても、これらに類する事を祈り、願ってもなりません。

ユダの手紙9節、2017489ページ、第三版474ページ、「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて悪魔と論じて言い争ったとき、ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ「主がおまえをとがめてくださるように」と言いました」と書いてある通り、唯一真の神様、御子、主イエス様のお取り扱いを願うに止めるべきであり、常に、相手の人が御子、主イエス様と繋がり続ける事を祈り、願うのであり、相手の益、幸、善を祈り、願うのです。

その相手のための祈り、願いが相応しくなければ、祈り、願った益、幸、善は、返って来ましょう。

「人を呪わば、穴二つ」であり、キリスト者は、御子、主イエス様に倣って、自分を害する人の益、幸、善のために祈り、願うのです。

主よ、来てください」は、キリスト者の究極の祈り、願いであり、教会の慣用句、キリスト者の生涯に亘る姿勢です。

終末に対する希望が希薄なコリント教会に、大切な姿勢を重い出させることばであり、警告です。

常に、御子、主イエス様に目を据え続け、目を離さず、御子、主イエス様との交わりに生き続ける事を祈り、願う事が肝要なのです。

16:23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

22節のことばの裏返しです。

御子、主イエス様を愛さないならば、祝福も恵みも受けられず、呪われたようなものだが、御子、主イエス様を愛するなら、「主イエスの恵みが、あなたがたとともにあります」と宣言するのです。

信仰の基盤が、教会存在の基盤が、実に唯一真の神様の恵みの上にあるという根本的現実を明示し、常に自覚するよう、勧告を与えるのです。

16:24 私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。

パウロの、コリント教会に対する愛は、自分が建て上げた教会だからではありません。

コリント教会の人たちに対する親しさからの、懐かしさからの、人間的な愛でもありません。

パウロの視点は、「キリスト・イエスにあって」であり、御子、主イエス様の視点で、教会を愛するのであり、問題があろうがなかろうが、従順であろうが、不従順であろうが、御子、主イエス様が教会を愛されたように、パウロも教会を愛するのです。

このパウロの視点は、伝道者の、教職者の視線です。

先にも述べましたが、伝道者は、教職者は、また信徒も、どんな形でも、状況でも、人を呪っては、また、不幸を祈り、願っても、裁かれる事を祈り、願っても、懲らしめられる事を祈り、願っても、これらに類する事を祈り、願ってもなりません。

常に、御子、主イエス様と繋がり続ける事を祈り、願うのであり、相手の益、幸、善を祈り、願うのです。

コリント教会が、問題の多い教会であればある程、パウロの「私の愛が」と云うことばは、重さを増すのではないでしょうか。

パウロの厳しい警告が、コリント教会への真実の愛から出ている事が、24節に於いてはっきりと示されているのです。

あなたがたすべてとともにありますように」。

パウロは、コリント教会を一つの群れ、組織として見ています。

しかし、組織として見ているだけではなく、信徒一人一人としても見ているのであり、全員を意識して、御子、主イエス様の恵みが注がれ続ける事を祈り、願い、私の愛を注ぎ続けると約束し、宣言し、この手紙を閉じるのです。

手紙は閉じられても、唯一真の神様の憐れみと慈しみと、御子、主イエス様の恵みが閉じられる事はなく、教会の上に、信徒の上に注ぎ続けられる事を祈り、願うのです。

【適応】

このパウロの、全体を注視しつつ、信徒一人一人をも凝視する視点は、唯一真の神様、御子、主イエス様の視点です。

唯一真の神様、御子、主イエス様は、教会全体を見て、教会を憐れみ、慈しみ、教会に恵みを注ぎ続けてくださると同時に、信徒一人一人を見て、信徒を憐れみ、慈しみ、恵みを注ぎ続けてくださるのです。

コリント教会のように問題があっても、なくても、憐れみ、慈しみ、恵みを注ぎ続けてくださり、従順な信徒でも、不従順な信徒でも、憐れみ、慈しみ、恵みを注ぎ続けてくださるのです。

問題のない模範的教会、従順、熱心な信徒だけを憐れみ、慈しみ、恵みを注ぎ続けてくださるのではありません。

問題のある、悪い見本のような教会、不従順で、冷めたような信徒も、憐れみ、慈しみ、恵みを注ぎ続けてくださるのです。

その事は、この手紙が、コリント教会に宛てられている事から、問題のある一部の信徒にも宛てられている事から、明らかです。

手紙の書き出し、冒頭の挨拶、手紙の最後、締めの音信、挨拶に、はっきりと記されています。

手紙を書いたのはパウロであり、ヤコブであり、ペテロであり、ヨハネであり、ユダですが、これらの著者は、唯一真の神様、御子、主イエス様の筆記者であり、手紙の真の著者は、唯一真の神様、御子、主イエス様なのです。

唯一真の神様、御子、主イエス様の、教会に対する関心は、信徒一人一人に対する関心は、教会と信徒のみではありません。

唯一真の神様、御子、主イエス様の関心は、世界に及んでいるのであり、神など居ないと言い張る者の上にも、偶像を拝する者の上にも及んでおり、教会やキリスト者を迫害する者の上にも及んでいるのです。

それに気付いて欲しいと願っておられ、使徒を、伝道者を、教職者を派遣し、教会を建て、唯一真の神様、御子、主イエス様を知る場、唯一真の神様、御子、主イエス様と交わる場を提供してくださるのです。

手紙に認められている音信、挨拶は、手紙の定型句では、体裁を整える常套句ではありません。

唯一真の神様、御子、主イエス様の教会に対する、信徒に対する関心の高さの現われなのです。

至高の存在である唯一真の神様、御子、主イエス様が、ちっぽけな、取るに足りない教会を大切に思い、役に立たない、お荷物でしかない信徒を愛されているしるしなのです。

この教会の上には、皆さんの上には、この唯一真の神様、御子、主イエス様の憐れみ、慈しみと恵みが注がれているのです。

2022-1に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る