2022-10-2礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙3章7節から11節

説教題:「心を頑なにしてはならない」

【導入】

先日、イエス様が偉大な大祭司である事を確認しました。

罪の贖いのためには、自分自身の命を献げなければならず、身代わりであるならば、罪のない人間を生贄にして献げなければなりませんが、自分自身の命を損なってしまっては意味がありませんし、罪を犯してしまった人間の子孫である人間は、どんなに良い人も、高潔な人も、人徳のある人も、皆、罪を持つ身であり、身代わりの生贄にはなりません。

さて、罪は有耶無耶にしてはならず、明確にし、罪に対する処罰を与えなければなりません。

十戒、律法を空文にしてはならず、ルールに従って厳格に執行しなければなりません。罪を犯した人間を裁く、罰を与える、これが正義です。

罪を犯した人間を赦すためには、身代わりを立てなければならず、旧約の時代には、動物が生贄とされたのですが、完全ではないため、繰り返し、繰り返し、生贄を献げる必要があったのです。

そこで、唯一真の神様は、一切の罪を持たない神の御子、主イエス様を人間としてこの世に送ってくださり、罪を犯した人間の身代わりの生贄として献げ、人間の罪を贖ってくださったのです。

罪を裁くという正義と、罪を赦すという愛とを両立させられたのです。

これ以外に、十戒、律法に則りつつ、罪を裁き、且つ、罪を赦す方法、手段はありません。

そして、この罪の贖いを執り行うために、御子、主イエス様が大祭司として立てられ、完全、且つ、永遠の贖いを完成されたのです。

これを信じ、受け入れ、従うのが、私たちの応答です。

しかし、神が人となる、一人の人の死によって、過去、現在、未来の罪の全てが赦されるなんて、荒唐無稽な教えと思ったのではないでしょうか。

しかし、御子、主イエス様の働き以外に、罪を裁きつつ、罪を赦す方法、手段はありません。

御子、主イエス様の働きを疑う人々に、旧来の方法でも問題ないと考える人々に、警告を与えます。

【本論】

新改訳2017版 3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、

3:8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。

3:9 あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。

3:10 だから、わたしはその世代に憤って言った。『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』

3:11 わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」

鍵括弧の聖句は、詩篇957節のcから11節までからの引用です。

95:7c「今日 もし御声を聞くなら

95:8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように 荒野のマサでの日のように。

95:9 あなたがたの先祖は そこでわたしを試み わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。

95:10四十年の間 わたしはその世代を退け そして言った。『彼らは心の迷った民だ。彼らはわたしの道を知らない。』

95:11 そのため わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して わたしの安息に入れない。』」

殆んど同じですが、8節が少し違います。

この詩篇は、モーセに引き連れられたイスラエルの民が、荒野での不信仰、唯一真の神様に逆らい続けた歴史の総括であり、御子、主イエス様に従うと誓いながら、伝統や旧来の因習を尊重し、好き勝手な礼拝を献げ、人が重んじられ、人が主導権を持ち、人が中心の教会、聖書の勝手な解釈をし、聖書を人間の都合に合わせる教会に対する、群れに対する警告として、引用するのです。

3:7ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、

イスラエルの民にも、キリスト者にも、「御声」は繰り返し届けられているのです。

出エジプトの時代にはモーセやヨシュアを通して、旧約の時代には、サムエルやエリヤ、エリシャ、イザヤやエレミヤなどを通して、新約の時代にはペテロやパウロ、使徒や弟子、近現代は宣教師や伝道者、教師を通して、唯一真の神様の「御声」は届けられているのです。

エレミヤ書423節、「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。

これに対する唯一真の神様の「御声」は、「42:10 『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。

42:11 あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな・・主のことば・・わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。

42:12 わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』」と、実に明瞭、明確です。

しかし、民の応答は、「43:4 カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちと、民のすべては、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかった。」のです。

従うと表明、宣言し、「御声」を聴きながら従わないのが、前言をいとも簡単に翻すのが、そして、自分の思いの通りに事を進めるのが、罪人である人間の性のようです。

3:8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。

頑な」とは、反抗的、天邪鬼な言動、頑固、依怙地の意味でもあり、9節、「わたしを試み、わたしを試し」、即ち、「神を試み、神を試す」事です。

民数記1422章、「わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、

14:23 わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。」のです。

荒野での試みの日に 神に逆らったときのように」とは、詩篇958節、「メリバでのように 荒野のマサでの日のように」からの引用であり、出エジプト171節以降に記されている逸話です。

イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。

17:2 民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。

17:3 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」

17:4 そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」

17:5 主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。

17:6 さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。

17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。

こんな事が、それこそ「十度も」と比喩される程に繰り返されたのです。

3:9 あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。

出エジプト後、約束の地、カナンの地の偵察に際し、カナンの地を悪く言いふらした事に対する報いとして、「四十年の間」荒野を彷徨う事になるのですが、この経緯は、民数記13章でご確認願います。

この「四十年の間」、何も不足する事はなく、守りと養いを体験し、必要な訓練の時とされるのです。

申命記83節、「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

8:4 この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。

8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。

キリスト者は、この世での信仰生活で、必要な訓練を受けるのであり、ヘブル人への手紙126節、「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

12:7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

12:8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

12:9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

12:11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

御声を聞くなら」、訓練を通して、約束の地、カナンの地に入り、祝福に至らせ、「心を頑なに」するなら、約束の地、カナンの地に入る事はないのです。

3:10 だから、わたしはその世代に憤って言った。『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』

3:11 わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」

繰り返しになりますが、民数記1422章、「わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、

14:23 わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。」のです。

【適応】

ヘブル人への手紙の著者は、口先では神様に従うと宣言し、表明していても、それは建前であり、本音では、実際には、自分のしたい事をしている、自分のしたい事しかしていないキリスト者の姿に、出エジプト後の、イスラエルの民の姿を重ね合わせて見ていて、警告を与えているのです。

心を頑なに」した先には、40年の荒野での厳しい生活と、決して約束の地には入れない将来が待っているのであり、イタリヤに住むユダヤ人には、同じ轍を踏んで欲しくはなく、「心を頑なに」しないようにとの警告を与えるのです。

罪を持つ人間であり、罪の影響を免れる事は出来ません。

分かってはいるけれども、素直に聞く事が出来ない・・・。

従うべきなのは重々承知しているのだが、「御声」を最優先にするのは難しい・・・。

しかし、「あなたがたの心を頑なにしてはならない」のです。

罪を持つ身であり、罪を犯し、神様に背くような事を選び、行ってしまっても、それに対する罰や報いは、御子、主イエス様の犠牲と執り成しによって贖われています。

問題は、「心を頑なにし」続け、悔い改めない事です。

宣教師や伝道師、教師を通して届けられている、唯一真の神様の「御声」を聞こうとしない事です。

御声」を自分たちの都合に合わせて取り入れ、聞き流す事です。

警告を受けても、注意されても、意に介さず、逆に反発し、食って掛かり、不平不満を並べ立て、しかし、権利はしっかりと主張する。

モーセに対して、居れば居るで、不平不満を口にするけれど、居なければ居ないで、指導者不在を嘆き、「われわれに先立って行く神々を造ってほしい」とアロンに泣き付き、自分たちにとって都合の良い、厳しい事を言わない、何も言わない、何の力もない、金の子牛を祭り上げるに至るのです。

困った時に、苦しい時に助けてくれればいい。

後は黙っていて、余計な事は、うるさい事は言わないで欲しい。

御声」に対し、「心を頑なにし」続けるなら、約束の地に向かって進んでいるように見えても、その実は、同じ所をぐるぐる回っているだけで、結果、荒野で屍を晒す事になるでしょう。

しかし、「心を頑なにし」ないで、素直なこころで、幼子のような心で「御声」を聴き、「御声」に従うなら、皆さんは、確実に約束の地、乳と蜜の流れるカナンに入る事でしょう。

あなたは、「心を頑なにし」続けますか。

それとも、「心を頑なにし」ないで、「御声」に聞き従い、乳と密の流れる地に入る方を選びますか。

御子、主イエス様は「あなたがたの心を頑なにしてはならない」と、優しく、繰り返し、呼び掛けられています。

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聖書箇所:サムエル記第一25章23節から44節

説教題:「復讐は神のなさること」

【導入】

10人十色と申しますが、100100色であり、各々に色々な能力が与えられています。

商売の才であったり、農耕牧畜の才であったり、またダビデのように戦いに秀でている人もいる事でしょう。

其々に与えられた能力、得意な分野の知識、と言うのは意味もなく与えられたものでもなければ、自分の欲望を満たすために、好き勝手に用いる為に与えられたものでもありません。

能力は、即ち、知恵も力も、神様に与えられた文化命令を全うするために与えられたのであり、その文化命令とは、創世記128節「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」と言う命令です。

この「支配」は君臨し従属させる意味の支配ではなく「管理」の意味の支配であり、維持し、修復し、開発し、発展させる事が神様から期待されているのです。

創造当初の人間には、世界に広がって、自然を管理し、植物を育てる事が期待されたのであり、アブラハムには、「多くの国民の父」となる事、「祝福の基」となる事が期待されたのであり、出エジプト以降のイスラエル人には、律法を通して、神の民として生きる事、神の栄光を現す生き方が期待されたのです。

その働きの為に、知恵が与えられ、力が与えられ、様々な能力が与えられた事を忘れてはなりません。

ですから、知恵によって得た財産も、創意工夫によって増やした財産も、神の民として使う事が期待され、神の栄光を現すために使う事が期待されているのです。

神の民としての使い方、神の栄光を現す使い方とは、最初に神様に感謝と共に十分の一を献げる事であり、困窮している同胞は勿論の事、異邦人や異教徒さえも助けるために使う、用いる事です。

この使い方から逸脱するならば、人の評価は兎も角、神様から叱責を受ける事は間違いないでしょう。

ダビデは神様から与えられた武運、機知に長けた戦略、先頭に立って戦う勇気を、イスラエルの為に、サウル王の為に、ケイラの住民を窮地から救い出すために用いたのであり、イスラエル人の生業である牧畜に携わる人々を、その家畜を、ペリシテ人から、略奪者から守るために用いたのです。

一方、先の学びで登場したナバルは、神様が与えて下さった牧畜の知恵を用いて、カルメル地方一の富豪になりましたが、神様から富みを豊かに与えられている者は、窮乏している者に充分な施しをする事を期待されていたのに、その期待に応えず、自分の楽しみだけのために用いたのであり、分け与える事をしませんでした。

神様の期待に応えず、善に対して悪を持って報いたのですから、ダビデが怒り心頭に達するのは無理からぬ事かも知れませんが、ダビデのナバルに対する怒りは、不当なもの、と言えるでしょう。

何故ならば、ナバルはダビデに対して、契約違反をした訳でもなければ、不当な仕打ちをした訳でもないからです。

つまり、殺されても、仕方がない事をしたとは言い切れないのであり、ダビデの行為は過剰な反応と言えるのです。

そこで神様はダビデの行き過ぎた行動を諌めるべく、一人の女性を立て、用いられます。

【本論】

25:23 アビガイルはダビデを見ると、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。

25:24 彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。

ナバルの妻アビガイルは、態度にも言葉にも、謙遜の限りを尽くしてダビデに接します。

顔を伏せて地面にひれ伏した」は一言で言えば「土下座」であり、これ以上の謙遜はない姿です。

また「ご主人様」と言う言葉が14回、「このはしため」「この女奴隷」と言う言葉は7回も出て来ますが、ここにもアビガイルの謙遜の姿が現れていましょう。

この時代、身分の低い者から、上位の者、支配者・指導者に直接声をかける事が、どの程度の禁忌事項であったかは分かりませんが、アビガイルはカルメル地方一の富豪ですから「対等」とは言わなくても、ある程度の尊厳をもって接してもよかったのでしょうが、そのプライドを捨てて、奴隷の身分にまで落として、殺生与奪の権を握っているダビデに、事の次第を説明し始めるのです。

25:25 ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。

25:26 ご主人様。今、【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。【主】は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。

25:27 今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。

25節で「ナバル」の意味が語られますが、「愚か者」などと言う名前を付ける親などいませんから、本名をもじった通称、あだ名が、何時の間にか本名に代って呼ばれるようになってしまったのではないでしょうか。

何故ならば、本当に「愚か者」であったならば、カルメル地方一の富豪になれるはずもなく、ナバルは相当の知恵者、賢者であり、また、多くの使用人を束ね、采配する事の出来る切れ者、実力者であったに違いありません。

自他共に認める「賢者、実力者」であったのに、敢えて「愚か者」と名乗るところに、ある種の謙遜さを誇示すると共に、優越感を感じ、一人悦に入っていたのではないでしょうか。

しかし、この優越感と自己顕示欲こそが、「愚かさ」の極みであり、使用人の忠告を受け入れない頑固さ、頑迷さに凝り固まり、真の謙遜からは程遠い所にいる事に気付かないでいたのです。

忠言を受け付けない愚かなナバルに比べ、アビガイルは賢明な女性であり、当時の女性としては稀な行動派であり、自身と一族、使用人の命を救うために立ち上がり、ダビデに謙遜の限りを尽くして接するに至るのですが、このアビガイルの行動は、単なる助命嘆願ではありません。

アビガイルは神様によって立てられ、預言者として遣わされたのであって、それは28節以降の言葉によって知る事が出来ます。

25:28 どうか、はしための背きをお赦しください。【主】は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は【主】の戦いを戦っておられるのですから、あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。

ここでは3つの事が預言されています。

一は「確かな家を建てる」と言う言葉であり、ダビデ王朝の繁栄と永続を預言しています。

二は「主の戦いを戦う」と言う言葉であり、ダビデはこのために召されているのであり、ペリシテ人と戦うために、略奪隊からイスラエル民族を守るために武運、機知に長けた戦略、先頭に立って戦う勇気を与えられているのであって、私憤を果すために、武運、機知に長けた戦略、先頭に立って戦う勇気が与えられている訳ではないのです。

決してナバルを打つためでもなければ、サウル王を打つためでもありません。

三は「一生の間、悪が見出されてはならない」と言う言葉であり、生涯の神様の守り、導き、祝福の預言なのです。

次の預言は、

25:29 人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、【主】によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。

人生には山もあれば谷もあり、良い事ばかりがやって来る訳ではありません。

現実に、ダビデは、サウル王の謂れのない妬みによって命を執拗に狙われてはいますが、危機一髪、あわやと言うところで何回も何回も助け出されているのであり、危険を回避しているのです。

これは偶然ではなく、運が良い訳でもなく、ダビデの努力の賜物でもなく、神様の守りであり、神様が戦って下さっている事の結果なのです。

先回学んだ様に、神様の守りは、見える所は一部ですが、背後に膨大な数の守りが行なわれているのであり、神様の守りが常にダビデの回りを囲んでいる事、敵の命こそ神様によって滅ぼされる事を教えているのです。

ですから、自分から出向く必要もなく、積極的な行動に出るのは、神様の主権を犯す行為であり、神様のご計画に対する不服従と言われかねない行為であると知る必要があるのです。

25:30 【主】が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

25:31 理由も無く血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。【主】がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」

最後にダビデがイスラエルの王となる事と、復讐は主のものである事を預言して、アビガイルは口を閉じます。

アビガイルは、ダビデがサムエルの手により油を注がれた事実を知ってはいませんし、ダビデがイスラエルの王権を狙っていると考えていた訳でもありません。

アビガイルはダビデに取り入ろうとして、お世辞を言っている訳でもありません。

アビガイルは神様に示されて、預言の言葉を語ったのであり、神様は見ず知らずの、全く関りのない女性の口を通して、ダビデに神様が約束を忘れないお方であり、約束を遂行されるお方である事を示し、励ましと、選ぶべき道を示してくださったのです。

神様が付いていて下さり、守っていて下さるのですから、どんな状況にあっても右往左往する事なく、狂奔する事もなく、自分で解決の手段を講じる必要もなく、全てを、本当に全てを神様の手に委ねれば良い事を示して下さったのです。

また「復讐」についてですが、単なる「復讐」は誉められた行為でないことは皆様も承知されている事でしょうが、今日の聖書箇所の「復讐」と言う言葉は、俗に言う「復讐」ではなく、「義憤」の意味である事がわかりましょう。

ダビデはナバルの仕打ちに対して「義憤」を感じたのであり、正しい正当な鞭の執行であると考え、行動に移したのです。

「義憤」は美徳のように思われましょうが、誰がダビデにナバルを打つように命じたのでしょうか。

そもそも「義憤」は正しい事、正当な「鞭」の執行と言えるのでしょうか。

一方的な見方、判断であり、独善的、自己中心の謗りを受ける行為なのではないでしょうか。

ナバルの行為は、神様の期待からは逸脱してはいますが、神様はダビデに助言を求めた訳でも、処罰を命じた訳でもありません。

サウル王には寛容を示したダビデが、ナバルにこれ程までに怒りを現したのは、

神様との関係の間違った理解にあるようです。

神様に油を注がれた者に対する尊敬は大切ですが、油を注がれていなくても、人間の命は神様が握っておられるのであり、人が自由に出来る権利もなく、責任も与えられてはいません。

油を注がれているか否かは、働きの区別を現すものであり、命の尊厳の差別を現すものではありません。

油を注がれたサウル王の命も、豪族とは言え市井のナバルの命も、共に神様の主権の下に置かれているのであり、ダビデには、触れる事は許されてはいないのです。

アビガイルはダビデに「義憤」を捨てる事を、「義憤」を神様に委ねる事を、神様に代って預言したのであり、諭したのです。

25:32 ダビデはアビガイルに言った。「イスラエルの神、【主】がほめたたえられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。

25:33 あなたの判断がほめたたえられるように。また、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。

25:34イスラエルの神、【主】は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。」

アビガイルの礼を尽くし、謙遜を尽くした応対に、ダビデは怒りに支配されていた我を取り戻し、アビガイルを通して示された神様の忠告を受け入れ、アビガイルを送ってくださった神様を褒め称え、アビガイルを通して示された神様の判断を褒め称え、アビガイルを通して復讐を留めた神様を褒め称え、引き上げる事を宣言します。

私たちは見える人に意識が集中しますが、背後に居られるお方、背後で働かれ、支配なされて居られるお方を讃美し、褒め称えなければなりません。

感謝も讃美も、神様だけが受けるに相応しいお方なのです。

25:35 ダビデはアビガイルの手から、彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、家へ上って行きなさい。見なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」

25:36 アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは、自分の家で王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上機嫌で、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。

この「王の宴会のような宴会」そのものは、多勢の使用人と羊の毛の刈り取り職人への供応であり、村人、寡婦、孤児、困窮者への振る舞いであり、当時の慣習であって非難される事ではありませんが、人々に楽しんでもらうために、仕え人とならなければならない主人が牛飲馬食し、前後不覚に酔っている姿は、賢者の姿ではありません。

この姿はナバルの名前のごとく「愚か者」の姿であり、醜態を曝しているのであり、唯一の神様に仕える僕の姿ではありません。

イスラエルの民は、飲食にも神様の栄光を現す事が期待されているのであり、ナバルは二重、三重の意味で、神様の前から退けられる道を歩んでいた訳です。

25:37 朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。

 25:38 十日ほどたって、【主】はナバルを打たれ、彼は死んだ。

25:39 ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「【主】がほめたたえられますように。主は、私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった。【主】はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」

アビガイルの取った処置を聞いて、ナバルは気を失い、その身体は硬直し、10日の後に死亡してしまいます。

この原因が脳溢血なのか、脳梗塞なのか、神経症の一種なのかは分かりませんが、

聖書は「主は…打たれた」と記しています。

神様は神様のご計画の内にあって、人を取り扱われるのであり、命を与え、命を取り上げられるのです。

ダビデは、ナバルの死を、謗りに対する神様の報復と取りますが、続く言葉こそが重要です。

ダビデは今、善に代えて悪を返したナバルへの報復の故に、神様を褒め称えているのではありません。

ダビデが神様を褒め称えているのは、ダビデが自分の手で報復をすると言う悪を、神様がとどめられたからなのです。

アビガイルを通して、神様がとどめられたのであり、神様が現実に働きかけられた事への感謝と讃美なのであり、ダビデは自分の正しさを確認したのではなく、神様が現実世界をあまねく見ておられる事、時に適って働かれる事を確認し、神様を讃美するに至ったのです。

ダビデは人を遣わして、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。

25:40 ダビデのしもべたちはカルメルのアビガイルのところに来て、彼女に、「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました」と言った。

25:41 彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「さあ。このはしためは、ご主人様のしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」

25:42 アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女を後に従え、ダビデの使者たちの後に従って行った。彼女はダビデの妻となった。

25:43 ダビデはイズレエルの出であるアヒノアムを妻としていたので、二人ともダビデの妻となった。

25:44 サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えていた。

ナバルの死により、アビガイルは未亡人になってしまったのですが、当時の社会で、未亡人は何の保護もなく、何の生活の保証もありません。

創世記152節、3節或いはルツ記を読んでも分かるように、財産の相続権は妻にはなく、親族の男子、時には家で産まれた奴隷に与えられたのです。

未亡人となったアビガイルは、保護する者が必要だったのであり、31節の「このはしためを思い出してください」は、ナバル亡き後の保護の申し出の言葉であり、ダビデはこのアビガイルの申し出に従ってアビガイルの保護を申し出たのです。

美談ではありますが、神様は重婚を認めてはおられませんから、アヒノアムとの結婚、アビガイルとの結婚は神様の喜ばれる事ではなく、また、さり気なく44節が記されていますが、ダビデはサウル王の娘ミカルと結婚したのであり、逃亡生活と言う非常事態ではあったにしても、残して来たミカルは、パルティとの結婚を余儀なくされ、結果として神様の喜ばれる結婚にはならず、マタイの福音書532節「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。」との教えと、合わせて読み、考えなければないのです。

【適応】

現代の法治国家において、復讐は認められていませんし、どんな理由があっても、復讐をしたならば、法によって裁かれる事になります。

そうならないためでもありますが、更に積極的に、神の民として、神様に期待されている者として、神様に赦された者として、人のした悪を思わず、悪に対しても善を持って報いる生き方を目指したいものです。

「私が正しければ、神様が報いて下さる、裁いて下さる。」と言う考え方や、「報いがあったのは、私が正しかったからだ」と言う考え方が信仰的なのではありません。

むしろ、神様はそのような発想を許しません。

「私が正しい」かどうかは、神様のご計画と全く関係ありません。

「復讐」は人間の関与する問題ではありません。

今回の説教題を「復讐は神のもの」としましたが、「神様が裁きをなさる」、自分で復讐しなくても神様が復習して下さる、自分で復讐しなくてよかった…と言うような低い次元を取り扱っているのではありません。

「復讐は神のもの」と自分に言い聞かせて、問題を終らせても、それで問題が解決した訳ではありません。

誤魔化しただけであり、心の奥底で燻っているのであり、噴出する時を覗っているのです。

私たちは、神様の現実への働きかけの厳粛さ、と言う最高度の次元を、覚えなければならないのであり、神様は現実の世界での私たちの苦しみ、悲しみ、悩み、痛み、弱さを見て下さり、知って下さり、全ての問題を、既に解決して下さっているという確信に立って生きる事を願っておられるのです。

この確信に立つならば、現実の復讐という問題は問題ではなくなり、自分が手を下さないですむ、罪に関りを持たないですむ、更には人を憎まないですむ、妬まないですむ、と言う、復讐の思いから立ち切って下さっている事に気がつき、神様に感謝する事、讃美する事に繋がるのではないでしょうか。

ここにおられる皆様がダビデのように神様が現実を支配しておられる事、罪を犯さないように導かれている事、折りにかなって助け手が与えられている事、即ち神様の主権を認め、神様を讃美し、神様の栄光を、神様の恵みを世に現す者とならせて頂きたいと願うものです。 

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                                       2022-10-16礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙3章12節から19節

説教題:「信仰のゆえに」

【導入】

心を頑なにし」ないで、素直な心で、幼子のような心で、指導者モーセを通して語られる、唯一真の神様の「御声」を聴き、モーセの指導、即ち唯一真の神様の「御声」に従うなら、イスラエルの民は、確実に約束の地、乳と蜜の流れるカナンに入るのですが、しかし、現実は、聴いているようで聴いておらず、従っているようで、ここぞ、と云う時に自分のしたい事をしてしまい、結果として、約束の地、乳と蜜の流れるカナンに入る事は出来ませんでした。

モーセも、唯一真の神様の「御声」に、従わなかったため、約束の地を目前にして、約束の地に入る事は出来ませんでした。

それは、些細な事でした。

モーセは、「岩に命じろ」との指示を受けていたのに、岩を杖で叩いたために、神様の怒りを受けてしまったのです。

しかし、これは、全くの不従順ではなく、前回の指示に倣っての行動でしたが、前回は前回の状況下に於ける指示であり、今回は今回の指示に従わなければならないのです。

出エジプト記17章に記されている逸話であり、民数記20章に記されている逸話です。

この事から、私たちは注意深く聴く事、指示通りにする事、思い込みや習慣の罠に気を付けなければならない事を教えられました。

全体的には従順であっても、個々に於いて不従順であったならば、その影響は決して小さくはありません。

重大な結果、臍を噛むような結果をもたらす事になるでしょう。

民の要求に応じてしまい、金の子牛を作った兄のアロンも、モーセを非難した姉のミリアムも、約束の地には入れなかったのです。

【本論】

新改訳2017版 3:12 兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

不信仰な悪い心」は、イスラエルの民やアロン、ミリアムのような、反抗的な言動、主体的、積極的な不服従は勿論の事ですが、それだけではありません。

イスラエルの民の多くは、一部の民の過激な反抗的態度、積極的な不服従に、なんとなく同調したのでしょうし、不熱心、消極的な性質故に、深い考えからではなく、多数に流されて、ただくっ付いて行ったのでしょうが、積極的であろうが消極的であろうが、熱心であろうが不熱心であろうが、「生ける神から離れる」事に於いて、差異はありません。

離れる意識はなくても、意識的に離れた訳ではなくても、「不信仰な悪い心」の者たちと一緒に居たならば、仲間と見做されるでしょうし、朱に交われば赤くなるものです。

意識していなくても、無意識のうちに「生ける神から離れる」のであり、「生ける神から離れる」事のないように意識し、積極的に、熱心に「生ける神」に近付き、交わり続けなければなりません。

生ける神」は、御子、主イエス様をこの世に送ってくださり、罪から贖い、「生ける神」の御下にまで導いて下さるのです。

生ける神」に至る道は、唯一つであり、主イエス様を通してのみです。

主イエス様は大祭司であり、私たちの罪の贖いのための生贄となってくださったお方であり、私たちを「生ける神」に導くお方です。

その主イエス様や「生ける神」に叛き、離れるなら、その離反は、どのような理由があろうと、最大の罪であり、贖われ、救われる事はなく、「生ける神」との関係回復の手段は残されてはいません。

3:13 「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。

「今日」と言われている間」、即ち、主イエス様再臨の日まで、日々、与えられる試練に取り組んでいくのですが、試練は個人的な課題であると共に、信仰を同じくする友、集会として取り組む課題でもあります。

御ことばを中心として共に集まり、集会、礼拝では、神のことばが語られ、警告が語られ、慰めが語られ、励ましが語られます。

集会、礼拝では生き方、考え方、判断などの基準になる、共通の土台としての御ことばが語られるのですから、集会、礼拝から遠ざからないようにする事が大切です。

互いに励ましあう事を軽んじるなら、それに比例して悪の惑わしに陥り易くなるのは必至です。

孤立は、信仰にとって危険であり、避けなければなりませんが、御ことばが中心ではなく、人が中心になってしまっては、人との関係性が重要になってしまっては、忖度しあうようになってしまっては、人目を意識し過ぎるようになってしまっては、信仰の益にはなりません。

3:14 私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。

キリストにあずかる者となっている」とは、「キリストと共に立つ者となっている」の意味です。

但し、条件があります。

その人の能力、役に立つか否か・・・ではなく、「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば」、即ち、「生ける神から離れ」なければ、です。

生ける神」に愛されている者として主イエス様の横に招かれており、立たせ続けてくださるのです。

生ける神から離れ」なければ、「キリストと共に立つ者」とされるのであり、

「キリストと共に立つ者」とされているので、「生ける神から離れ」ないでいられるのです。

生ける神から離れ」ないでいられるのも、「キリストにあずかる者となっている」のも、能力や働き、決意や努力ではなく、唯々、「生ける神」の一方的な恵みであり、憐れみであり、人に誇るものは唯の一つもありません。

確信」は、「根底にあるもの」の意味であり、何を基礎としているかが問われます。

集会が、礼拝が人間的な繋がりを基礎としているなら、「最初の確信を終わりまでしっかり保ち」続け、「生ける神から離れ」ないでいる事は、難しいでしょう。

しかし、御ことば、聖書を基礎としているなら、聖霊の助けがあり、主イエス様の執り成しがありますから、「最初の確信を終わりまでしっかり保ち」続けられるでしょうし、「生ける神から離れ」る事はないでしょう。

その秘訣は、聖書です。

聖書には唯一真の神様、御子、主イエス様、聖霊様の事が詳しく記されているからです。

聖書通読が有益なのは語るまでもありませんが、有益である、に留まらず、必須、不可欠であり、聖書通読はキリスト者の義務、絶対条件であると認識しなければなりません。

考え方、価値観の基礎になるからです。

この世の価値観、考え方と、キリスト者の価値観、考え方は、似ている部分や共通する部分もあり、協力出来る事も多々ありますが、根底は非なるものです。

神観、世界観、罪観、自力救済、他力救済、人間中心か、神中心か。

聖書を中心、基礎として考え、判断するか。

命に対する考え方が違い、生き方が違い、死に対する考え方が違います。

聖書、神の御ことばを共通の基礎とするのがキリスト者であり、キリスト者であるためには、聖書、御ことばは不可欠です。

3:15 「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。

この鍵括弧は、詩篇95篇7節のcと、8節からの引用です。

聖書通読も、説教も、素直な、幼子のような心で聞かなければなりません。

批判的、懐疑的な思いを持って読み、聞いても、心には入って来ません。

信仰の糧にはなりません。

聖書を基準としなければ、正しいと信じて、批判し、迫害するに至るでしょう。

ステパノを迫害したように、パウロを迫害したように。

批判者たち、迫害者たちは、特殊な人たち、極悪な人たちではありません。

善良な人たち、熱心な人たちなのですが、人間的な考えで、聖書を基準としていないので、結果、神様、主イエス様の御旨と違っている事にも気付かず、「神に逆らっ」てしまうのです。

聖書を基準にするなら、誰もが聖書を基準とした判断となり、結果、神様、主イエス様に従う事になるのです。

3:16 では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。

カナンの地を偵察した12人のうち、カレブとヨシュアを除外する10人は、カナンの地を悪く言い、民の士気を挫きましたが、出エジプトした成人男性、凡そ60万人も、それに同調し、カレブとヨシュアを石で打ち殺そう、とまで言い出すのです。

喉が乾けば水をくれと文句を付け、空腹になれば食べ物を与えろと文句を付け、マナに飽きれば肉を食べたいと文句を付け、エジプトに帰りたい、とまで言い出す始末です。

見えるところはモーセに逆らい、カレブとヨシュアに逆らっていますが、その実は「生ける神」に「反抗し」、逆らっているのです。

見える指導者に従えない者が、見えない神に従えるはずはありません。

3:17 神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。

17節の前半は、詩篇9510節前半からの引用です。

生ける神」は、「反抗し」た者、成人男性凡そ60万人の略全てを、一瞬のうちに滅ぼす事も可能ですが、「生ける神」は、イスラエルの民を「四十年の間」、「荒野」を彷徨わせ、「屍をさら」すという罰を与え、「生ける神」に「反抗」する事の重大さを思い知らされるのです。

エジプトを脱出した者、葦の海を渡った者の全てがカナンの地に入った訳ではないのです。

3:18 また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。

3:19 このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。

従わなかった者たち」、「不信仰」な者たちには、「生ける神」の御怒りが臨み、契約における約束、乳と蜜の流れる地に入り、それを受け取る、と云う祝福と特権は奪い取られるのです。

厳しい歴史であり、現実ですが、これは、残された民への教育であり、語り継がれる教訓とするためです。

現代に生きるキリスト者への警告です。

【適応】

一方、従う者には、「生ける神」の恵みに与り、契約における約束、乳と蜜の流れる地を受け取り、そこに入り、安息を得る、と云う祝福と特権が与えられるのです。

本日の説教題を「信仰のゆえに・・・」としましたが、「生ける神」の恵みに与り、契約における約束、乳と蜜の流れる地を受け取り、そこに入り、安息を得る、と云う祝福と特権が与えられるのは、信仰の故であり、能力の有無や役に立ったか否か、功績の如何ではありません。

勿論、失敗や躓き、罪はないに越した事はありませんが、問題は、信仰であり、「生ける神」を信じて来たか、信じているか、です。

紆余曲折のない、失敗のない、罪を犯した事のない人はいません。

その点では全ての人は皆、不適合者であり、「生ける神」の恵みに与り、契約における約束、乳と蜜の流れる地を受け取り、そこに入り、安息を得る、と云う祝福と特権が与えられませんが、紆余曲折、失敗、罪、云々は、御子、主イエス様の十字架によって贖われ、解決しており、皆が、「生ける神」の恵みに与り、契約における約束、乳と蜜の流れる地を受け取り、そこに入り、安息を得る、と云う祝福と特権が与えられる者とされているのです。

キリスト者は、主イエス様に対する信仰の故に、約束の地に入れるのです。

最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば」、即ち、「生ける神から離れ」なければ、特別な功績がなくても、何の貢献をしなくても、約束の地に入れるのです。

この世で信仰を保ち続け、主イエス様から離れなければ、です。

信仰を保ち続け、主イエス様から離れないために必要なのは、聖書通読と礼拝厳守です。

何が御旨か、何が御旨でないかは、この世の一般常識、知恵などでは判断出来ません。

聖書と説教からしか知る事は出来ず、聖書と説教しか判断の基準とはなりません。

聖書も説教も、懐疑的であっては、上の空では、御旨を知る手掛かりにはなりません。

基準があるか無いか、知っているかいないか、教えられているかいないかは、雲泥の差です。

士師記2125節、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」のですが、この行き着く先は、混乱と堕落でした。

聖書と、聖書の解き明かしである説教を基準とする事こそ、この世で信仰を保ち続け、主イエス様から離れない秘訣であり、唯一の手段です。

集会と協力の一致の秘訣です。

礼拝の中でお名前を挙げた召天者は、「最初の確信を終わりまでしっかり保ち」続け、「生ける神から離れ」ずに生きた人々であり、我々も、「最初の確信を終わりまでしっかり保ち」続け、「生ける神から離れ」ずに歩み続け、共に「生ける神」の祝福に与ろうではありませんか。

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                                       2022-10-23礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙4章1節から10節

説教題:「約束の地を目指して」

【導入】

イスラエル人、ユダヤ人は、信仰の故に、「生ける神」の恵みに与り、契約における約束、乳と蜜の流れる地を受け取り、そこに入り、安息を得る、と云う祝福と特権が与えられるのであり、能力の有無や役に立ったか否か、功績の如何ではありません。

勿論、失敗や躓き、罪はないに越した事はありませんが、問題は、信仰であり、「生ける神」を信じて来たか、信じているか、です。

長い人生において、紆余曲折のない、失敗のない、罪を犯した事のない人はいません。

その点では全ての人は皆、不適合者であり、「生ける神」の恵みに与り、契約における約束、乳と蜜の流れる地を受け取り、そこに入り、安息を得る、と云う祝福と特権が与えられませんが、紆余曲折、失敗、罪、云々は、御子、主イエス様の十字架によって贖われ、解決しており、皆が、「生ける神」の恵みに与り、契約における約束、乳と蜜の流れる地を受け取り、そこに入り、安息を得る、と云う祝福と特権が与えられる者とされているのです。

しかし、約束の地を目指す強い思いもなく、篤い願いもなく、何もしないならば、或いは、世の風潮に流され、この世に同調し、妥協して、自堕落に過ごしたならば、約束の地に行き着く事は出来ません。

約束の地に入りたいと強く願い、進むべく方向を模索し続ける事が必要でしょう。

ヘブル人への手紙の著者は、イタリヤ、政治の中心、文化の中心にいて、この世の影響を強く受けているキリスト者に励ましの言葉を投げかけます。

【本論】

新改訳2017版 4:1 こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。

人は、見えないモノを恐れますが、見えないモノは何時しか意識の外に追い出し、忘れてしまいます。

唯一真の神様であっても、実態がないと、見えないと、恐れも、畏敬の念も、薄らいでしまいましょう。

恐れる心」とは、文字通りの「恐怖心」というよりは、唯一真の神様に対する畏敬の念、信頼と服従の思いであり、神様と交わした約束に対する確信であり、神様のお約束や真実さ、誠実さを疑ったり、侮ったり、軽んじたり、蔑ろにしない事でしょう。

ヘブル人への手紙の著者は、キリスト者に唯一真の神様に対する畏敬の念、お約束に対する確信、信頼と服従の思いを、「持とうではありませんか」、持ち続けようではありませんかと、お勧めするのです。

不信仰な態度を貫き通すなら、「安息に入る」事の拒否、拒絶ですから論外ですが、「安息に入る」祝福そのものは、約束として残っているのです。

チャンスは取り上げられてはいないのであり、残っているのであり、誰もが、「安息に入る」可能性はあるのです。

エジプトを脱出したイスラエルの民の内、神様を侮った民は、約束の地、「安息に入る」事は出来ませんでしたが、「安息」は、四十年の永きに亘って荒野を彷徨う間に成人した人たちと、カレブとヨシュアに与えられたのです。

強情でなければ、素直になれば、従順であれば「安息に入る」のです。

4:2 というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。

良い知らせ」とは、福音であり、御子、主イエス様を通して「安息に入る」という約束です。

ヘブル人への手紙の受取人、読者、私たちキリスト者へ示された「良い知らせ」、福音は、モーセを通してイスラエルの民へ啓示され、与えられた約束、「カナンの地に入る」と同意です。

出エジプトしたイスラエルの民は、頑なな生き方を改めず、「安息に入る」事は適いませんでした。

このイスラエルの歴史は、ヘブル人への手紙の受取人、読者、キリスト者への警告です。

イスラエルの民であるならば、自動的に与えられ、「安息に入る」のではありません。

唯一真の神様の約束を信じ、神様への従順を通して、「安息に入る」のです。

良い知らせ」、福音も、聞いた者が洩れなく「安息に入る」訳ではありません。

良い知らせ」、福音を聞いて、信じた者が「安息に入る」のです。

出エジプトしたイスラエルの民も、キリスト者も、信仰によって、「安息に入る」のです。

モーセを通して伝えられた約束も、キリスト者に伝えられた「良い知らせ」、福音も、第一に、注意深く聴かれ、よく理解され、従ってこそ、です。

出エジプトしたイスラエルの民は、「私たちは主の言われたことをすべて行います。」と固く誓いましたが、行く先々で、試練に会う度に、誓いを破ってしまったのです。

出エジプト記198節に記されています。

信仰とは、試練の中でも堅く立つ、と云う事であり、信仰を貫いた者だけが「安息に入る」のです。

4:3 信じた私たちは安息に入るのですが、「わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない』」と神が言われたとおりなのです。もっとも、世界の基が据えられたときから、みわざはすでに成し遂げられています。

鍵括弧のことばは、詩篇9511節からの引用ですが、背景となっているのは申命記134節、35節であり、ここに記されている歴史は、過去の出来事ではなく、新約聖書に繋がる出来事であり、この世の「安息」、「カナンの地」は、真の「安息」、「天の御国」を暗示するものであり、私たちへの警告です。

不信仰な者は、「安息」、「カナンの地」に入る事は叶わず、真の「安息」、「天の御国」に入る事も叶わないのです。

信仰を持って聴き、その信仰を終わりまで持ち続ける者が、旧約の時代であっても、新約の時代であっても、「安息に入る」者なのです。

わたしの安息」とは「天の御国」であり、創造の時に造られたモノであり、キリスト者のために用意されているのです。

4:4 なぜなら、神は第七日について、あるところで「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」と言われ、

鍵括弧のことばは、創世記22節からの引用ですが、「休まれた」と云う動詞は、「受動態継続」と云う形であり、「お休み中」のような意味であり、創造の業は完成を待っているのです。

造るべきモノは全て造ったが、機が熟すのを待っている、時が満ちるのを待っている状態なのです。

4:5 そのうえで、この箇所で、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と言われたからです。

ヘブル人への手紙の著者は、繰り返し申命記134節、35節を引用し、不信仰な者が「安息に入る」事はない、と断言するのです。

阻止する、拒絶される、と云うよりも、不信仰な、的外れな生き方故に、辿り着けない、入れないのです。

4:6 ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、また、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、

出エジプトした民は、不信仰の故に、「安息に入れ」なかったのですが、「安息に入る人々がまだ残って」いるのであり、「安息に入る」べき人々を求める、唯一真の神様のお働きが終わった訳ではありません。

招きは継続しているのであり、門戸は開かれているのであり、「良い知らせ」、福音は人を介して、メディアを介して、世界中に、宣べ伝えられているのです。

4:7 神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と語られたのです。

ここは、悔い改めのお勧めであり、悔い改めの先延ばしに警告を与え、「今日」、今、ここで、悔い改める事をお勧めするのです。

唯一真の神様のお約束は、変わらないのですから、モーセの時代の人々のようにではなく、ダビデの時代の人々のようにでもなく、先祖の頑なな姿勢に倣う事なく、寧ろ、歴史から学び、先祖と同じ轍を踏む事なく、唯一真の神様を信じて、「安息に入る」ように励ましを与えるのです。

4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば、神はその後に別の日のことを話されることはなかったでしょう。

ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、約束の地、乳と蜜の流れる地、カナンに引き入れられましたが、そこは、真の意味の「安息」の地ではありませんでした。

先にも申し上げたように、この世の「安息」、「カナンの地」は、真の「安息」を暗示するものであり、地上の、朽ちて行く、有限の肉体の生ではなく、天上の、朽ちる事も、病む事も、老いる事もない、永遠の生を生きる者とされるのです。その真の意味の「安息」が待っているのです。

4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

安息日の休み」は、この世的な意味ではありません。

唯一真の神様ご自身のために用意された「安息日」が、「神の民のためにまだ残されてい」るのです。

この世の「安息日」は、仕事を離れ、教会に集い、唯一真の神様を礼拝する日ですが、

真の「安息日」は、特定の日ではなく、日々毎日、24時間、唯一真の神様と真の交わりを楽しむ日々なのです。

4:10 神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。

ヨシュアの時代、イスラエルの民は、約束の地、乳と蜜の流れる地、カナンに引き入れられましたが、其処では働かなければならず、病苦があり、死、人生の終わりがありました。

しかし、「神の安息に入る」とは、食べるための、生きるための労働、「自分のわざ」から解放され、神との交わり、と云う新しい働き、生き方に入る事なのです。

4節で、「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」とありますが、時が至り、真の意味で、創造の業が完成し、完成された御国で、唯一真の神様と親しい、深い、密な交わりを楽しむのです。

【適応】

本日の説教題を「約束の地を目指して・・・」としましたが、闇雲に、がむしゃらに、突き進めば良い訳ではありません。

自力で突き進むのではなく、唯一真の神様を信じる信仰によって、神様の導きを受け、神様の助けを頂き、弛まず、進み続ける事が肝要です。

緩急があっても、時に休んでも、方向さえ見誤らなければ、大丈夫です。

目指す目的地は、御国であり、唯一真の神様です。

神様の御許に行く方向は、自分の経験や人のアドバイスでは見誤ること必至です。

この世での目的地は、人に聞いたり、地図に導かれたり、道路標識や住居表示を当てにするなどし、方法は自分の足、自動車、電車、船、飛行機などがありますが、「安息の地」、御国の方向は、聖書でしか知る事は出来ず、方法は自分の足で歩くしかありません。

明確な目的地の認識が重要であり、正しい方向を知る事が重要です。

正しい方向は聖書と、聖書に基づく説教を通してしか知る事は出来ません。

聖書に基づく説教か否かは、日ごろの聖書との親しみ如何です。

唯一真の神様の御声を聴き、理解し、その導きに従うとき、必ずや約束に地に行き着くのです。

聖書と、聖書の解き明かしである説教を基準とする事こそ、この世で信仰を保ち続け、目的地、「安息の地」、御国に行き着く秘訣であり、唯一の手段です。

御子、主イエス様の執り成し、聖霊の助けによって、「最初の確信を終わりまでしっかり保ち」続け、「生ける神から離れ」ずに歩み続け、共に「安息の地」、御国の祝福に与ろうではありませんか。

神様は、脇目も振らずに真っ直ぐに、「安息の地」、御国に向ってひたすら歩み続けるキリスト者を、暖かい眼差しで見つめ、折に適った助けの手を差し伸ばし、「安息の地」、御国に行き着く迄、面倒を見てくださるのです。

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                                       2022-10-30礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙4章11節から13節

説教題:「約束の地に入れ」

【導入】

アブラハムは、唯一真の神様、「生ける神」に対する信仰の故に、恵みに与り、乳と蜜の流れる地を受け取り、そこに入り、安息を得る、と云う祝福と特権が与えられました。

これが実現するのは、700年ほど後の事になりますので、アブラハムの子イサク、ヤコブの子孫が、契約における約束、乳と蜜の流れる地を受け取る事になります。

キリスト者も、御子、主イエス様を信じる信仰によって、約束の地、天の御国に招き入れられます。

契約によって、約束の地が与えられるのですが、問題は、信仰であり、「生ける神」を信じて来たか、信じているか、です。

能力の有無や役に立ったか否か、功績や貢献の如何ではありません。

生ける神」を信じ続け、約束の地を目指して歩み続けるなら、約束の地、乳と蜜の流れる地、天の御国に入る事が出来るのです。

生ける神」から離れるなら、「生ける神」に対する信仰を捨てるなら、約束の地に入る事は出来ません。

約束の地は自分で探す必要はありません。

エジプトを脱出した民は、雲の柱、火の柱が道案内となって、モーセという指導者が与えられて、約束の地に導かれて行ったのです。

キリスト者には、聖書と説教が道案内となって、聖霊様という助け主、導き手が与えられて、約束の地に導かれて行くのです。

ここにも、信仰が問われます。

雲の柱、火の柱、モーセという指導者を信じてこそ、従ってこそ、聖書と説教、聖霊様という助け主を信じてこそ、従ってこそ、約束の地に行き着くのです。

時々従うけど、従わない時もある、では、約束の地に行き着く事は非常に難しくなる事でしょう。

失敗や罪の有無ではなく、「生ける神」を信じ続け、従い続けて、約束の地を目指し続けてこそ、約束の地に入れるのです。

そして、そんな私たちを見守り、応援してくださっているのが「生ける神」なのです。

【本論】

新改訳2017版 4:11 ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落後しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。

ですから」と、ヘブル人への手紙の著者は、繰り返し、詩篇95篇を引用し、警告と励ましを与えます。

あの不従順の悪い例」とは、エジプトを脱出したイスラエルの民たちの事であり、

ソロモンの子、レハブアムに叛旗を翻して離れていった、北イスラエル王国に属する民たちの事であり、ダビデの子孫によって引き継がれていった、南ユダ王国に属する民たちの事です。

王たちは、民たちは、常に「不従順」であった訳ではありません。

良いところもあったのですが、総括するなら「不従順」であったのであり、「落後」して行き、約束の地から追い出され、国は滅び、消滅し、捕囚となった民たちは雲散してしまったのです。

生ける神」を信じ続け、従い続けるなら、祝福が与えられ、繁栄し、近隣の地を支配するようになり、益々栄えて行きますが、

生ける神」を信ぜず、不服従を続けるなら、呪いが与えられ、衰退し、近隣の地の支配を受け、虐げられ、搾取され、散らされ、滅びて行くのです。

イスラエルの民たちは、「あの不従順の悪い例」、事例、前例を口伝、伝承によって教えられており、キリスト者たちは、「あの不従順の悪い例」、事例、前例を聖書によって教えられているのですから、「落後しないように、この安息に入るように努め」なければならないのです。

しかし、「努め」といっても、役に立ったか否か、功績や貢献の如何、精進ではありません。

生ける神」を信じ続け、従い続ける事に於いてです。

即ち、「落後しないように、この安息に入るように」、「生ける神」を信じ続け、従い続けなければならないのです。

中々大変な課題ですが、でも安心してください。

聖書と説教、御子、主イエス様と聖霊様とが助け、導いてくださるのですから。

4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

神のことば」とは、聖書の事であり、礼拝に於いて朗読される聖書のことばです。

聖書のことばは、「生きていて、力があり」ます。

聖書は、単なる文字の羅列ではありません。

生ける神」のことばであり、「生きていて、力があ」るのです。

ヨハネの福音書11節、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」からであり、創世記1章に創造の経緯が記されていますが、「神のことば」によって万物は創造され、支えられ、保たれ、存続しているのです。

神のことば」は、必ず目的を果し、無から有を生み出し、宣言通りのモノを生み出すのです。

神のことば」は、「両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き」ます。

神のことば」は、「たましいと霊」、即ち、精神的な世界、内に秘めた心の中、深く隠されている考え・・・を見抜き、現れた言動に隠された真意を見抜き、明らかにします。

人の心は、良くも悪くも、色々な考えや謀(はかりごと)に満ち満ちています。

そのような、心の本質を明らかにするのは、「神のことば」であり、他にはありません。

人間の身体は皮膚と筋肉に覆われていて、見分け難いですが、260から300程の関節があり、200程の骨が組み合わさっているそうです。

関節と骨髄」、即ち、一つ一つの、関節と骨の肉体的な機能について、関節と骨の関係性について、連帯性についても、「神のことば」は鋭く抉(えぐ)り、明らかにします。

身体が上手く機能するためには、「関節と骨髄」の絶妙な連携、チームプレイが必要なのです。

神のことば」は、「心の思いやはかりごとを見分けることができます。

生ける神」の前に隠しおおせるモノは一つもありません。

生ける神」を騙し、誤魔化す事は出来ないのです。

4:13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

歴代誌第二169節、「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し」ておられます。

生ける神」に死角、休息、休暇はありません。

全方位、24時間、366日、見ておられます。

ヨブ記266節、「よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれることはない。

ヨブ記3421節、「神の御目が人の道の上にあり、その歩みのすべてを神が見ておられるからだ。

34:22 不法を行なう者どもが 身を隠せる闇はなく、暗黒もない。

ローマ人への手紙1412節、「ですから、私たちはそれぞれ自分について神に申し開きをすることになります」、であり、

ペテロの手紙第一45節、「彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります」、です。

私たちは、誰一人、免れる事なく、審判の席に、被告として立たされ、生涯の総決算を、人の前でもなく、自分自身に対してでもなく、「神の御前」で、「神に対して」、今までに行なってきた全ての事については勿論の事、行なうべき事を行なわなかった事について、見て見ぬ振りをした事についても、申し開きをしなければならないのです。

勿論、私たちの失敗、罪、云々は、御子、主イエス様の十字架によって贖われ、解決しており、罪に問われる事はありませんが、審判の、被告席に立たされて、洗いざらいを明かされ、それらについて弁明しなければならないのです。

恥じ入らせられる場であり、出来れば、避けたいところですが、避ける事は出来ません。

本日の説教題を「約束の地に入れ」としましたが、約束の地に入る時には、審判の場に立たなければならないのであり、審判の時に、自分の醜い姿を曝け出される恥を受けないために、少なくするために、「今日」といわれている日の間に、「神のことば」により、自分の真の姿を知り、悔い改めて、「生ける神」の憐れみに縋り、依り頼み、「神のことば」を信じ、従う生き方に、方向転換しなければならないのです。

【適応】

本日の説教題を「約束の地に入れ」としましたが、命令ではなく、懇願の意味であり、「生ける神」は、「落後しないように」、「安息に入るように努め」て、約束の地に入りなさい、と、優しく、全ての造られた者に呼び掛けられているのです。

たった一人でも滅びるのは、「生ける神」の御旨ではありません。

しかし、強制的に、無理やり、脅して、大音響で、拉致のようであっても、は「生ける神」の御旨ではありません。

マタイの福音書1027節、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい」、であり、「生ける神」は、誰も居ない寂しいところで、耳元で、小さな声で囁かれるのです。

マルコの福音書433節、「イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された」、のであり、一人一人の「聞く力に応じてみことばを話され」るのです。

しかし、素直な心で、幼子のような心で、見、聞かなければならず、批判的に、斜に構えて、では、役に立ちません。

マルコの福音書412節、「彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように」、と記されている通りです。

生ける神」の招きは、聖書と、聖書の解き明かしである説教を通して語られます。

御子、主イエス様の執り成しと、聖霊の助けによって、「最初の確信を終わりまでしっかり保ち」続け、「生ける神から離れ」ずに歩み続け、共に「安息の地」、御国の祝福に与ろうではありませんか。

生ける神」は、今日も、キリスト者を、暖かい眼差しで見つめ、「安息の地」、御国はこっちだよ、と優しく呼びかけ、約束の地に入るまで、折に適った助けの手を差し伸ばしてくださり続けてくださるのです。

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