2022-11-6礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙4章14節から16節

説教題:「神の子イエス様は 私たちの弱さに寄り添う大祭司」

【導入】

生ける神」は、「落後しないように」、「安息に入るように努め」て、約束の地に入りなさい、御国に入りなさいと、優しく、全ての造られた者に呼び掛けられている事を確認しました。

生ける神」の御旨は、全ての造られた者が、「安息の地」、御国に入る事です。

しかし、強制的に、無理やり、脅かして、拉致のようにしてでも、は「生ける神」の御旨ではありません。

個々人の自主性や考えを尊重し、従うも拒否するも自由なのです。

招きを無視し、導きを拒否し、支えを拒んでも、守りを振り払っても、自由なのですが、人間の知恵と努力とで、「安息の地」、御国には、辿り着く事も入る事も出来ません。

安息の地」、御国は、人間の知恵では見い出せず、努力では辿り着く事が出来ない場所だからです。

只々、「生ける神」の約束を信じ、「生ける神」の憐れみに縋り、御子、主イエス様の執り成しと、聖霊様の助けを受けつつ、目指すしかないのです。

ヘブル人への手紙の著者は、「心を頑なにしてはならない」、との警告を与え、「最初の確信を終わりまでしっかり保ち」続け、「生ける神から離れ」ずに歩み続け、共に「安息の地」、御国の祝福に与ろうではありませんか、と激励するのです。

しかし、一方的な、叱咤激励、自己責任論に終わるのではありません。

【本論】

新改訳2017版 4:14 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

神の子イエスという偉大な大祭司」は、「もろもろの天を通られた」との但し書きがありますが、当時、天には「階層」のようなもの、ランクのようなものがあった、と考えられていたようです。

三層説、七層説、などがあったようですが、ヘブル人への手紙の著者は、それを否定せず、階層があるとするなら、「神の子イエス」は、「もろもろの天を通られた」御方、即ち、全ての階層を自由に行き来できる超自然的な御方だ、稀有な御方だ、と云う事を現しているのです。

地上の大祭司は、幾つかの隔ての幕を通って、至聖所に入り、大祭司として職務を遂行しますが、「神の子イエス」は、真の聖所、そのものに入られ、大祭司としての職務を遂行されるのです。

ヘブル人への手紙の著者は、「神の子イエス」の特殊性、アロンの系列とは区別される特別な、超自然的な御方である事を強調するのです。

地上の大祭司の職務は、人間の犯した罪を贖う事が主たる働きです。

律法に従って、機械的に。

しかし、「神の子イエス」の大祭司としての働きは、それだけではありません。

私たちは、誰もが皆、審判の席に、被告として立たされ、生涯の総決算を、人の前でもなく、自分自身に対してでもなく、「神の御前」で、「神に対して」、今までに行なってきた全ての事については勿論の事、行なうべき事を行なわなかった事について、見て見ぬ振りをした事についても、申し開きをしなければならないのです。

勿論、私たちの失敗、罪、云々は、御子、主イエス様の十字架によって贖われ、解決しており、罪に問われる事はありませんし、主イエス様が、私たちの弁護を引き受けてくださいますが、主イエス様は、優秀な弁護士である以上の存在です。

それが、15節です。

4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

神の子イエス」は、常時、寄り添って歩んでくださる御方なのです。

人間とは桁違いの御方、全く罪のない御方、罪を犯さない御方ですが、「イエス」は、非人間的な御方なのではありません。

神の子イエス」は100%神であると同時に、人間性に於いても100%であり、真実、紛れもない人間なのです。

そして、「神の子イエス」は、人間として「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです」。

神の子イエス」が受けられた「試み」は、人間と同程度なのではありません。

謂れのない「試み」を、受ける必要も、蓋然性もない「試み」を受けられたのであり、理不尽の極みなのではないでしょうか。

勿論、使命として受け止め、積極的に、主体的に、意識的に受けられたのですが。

私たちと同じように」は、「私たちに似たものである故に」と訳す事も可能であり、私たちと同じ試みを受けられた、と同時に、私たちと同じ人間になられて試みを受けられた、と云う事なのです。

人間となられて、人間と同じ「試み」を受けられたのです。

神の子イエス」が、試みを受ける人間に同情出来るのは、単に人間愛が強いとか、人間に関心があるから、ではありません。

「高みの見物」的にご覧になって、「あらあら、かわいそうに」、と同情しているのでもありません。

真に同情出来るのは、「試み」を経験され、「試み」の強さ、鋭さ、執拗さ、抗う困難さ・・・を体験されたからです。

神の子イエス」は、人間が出会う、あらゆる「試み」を受けられましたが、「生ける神」に対する信仰は、決して弱る事はなく、「生ける神」に対する信頼は、決して揺らぐ事はなかったのです。

これは、「神の子イエス」ご自身の勝利であるばかりでなく、「神の子イエス」を大祭司とする、私たちにとっても、勝利なのです。

神の子イエス」のお働きが、私たちに転嫁されるからであり、「神の子イエス」の勝利は、そのまま私たちの勝利でもあるからなのです。

しかし、「神の子イエス」は、「わたしの模範に倣え、従え」と叱咤激励するのではなく、「私たちの弱さに同情」し、寄り添ってくださり、一緒に「試み」と向き合い、歩み続けてくださるのです。

4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

自分の弱さを、自分の過去を、試み」の結果を思い起こすなら、恥ずかしく、とてもではありませんが、「御座に近づ」く事など出来ません。

しかし、「生ける神」の「あわれみを受け、また恵みをいただいて」いるのですから、新たな試み」の時に、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ」かなければならないのです。

御座に近づ」く者は、何時でも、折にかなった助けを受ける」事が出来るのであり、これこそ、「生ける神」の「あわれみ」であり、また「恵み」なのです。

【適応】

最初の確信を終わりまでしっかり保ち」続け、「生ける神から離れ」ずに歩むのは、簡単な事ではありません。

孤独な歩みであり、「試み」の連続でしょう。

試み」の連続、と言えばヨブを思い浮かべるのではないでしょうか。

ヨブは、次々と不幸が襲い、一日のうちに、全ての財産を失い、十人の子どもを失い、自身も重い皮膚病に罹り、妻に駄目出しを受け、友人からも厳しい言葉を投げ掛けられ、心身ともにダメージを受け、自分の生まれを呪うまでに落ち込みました。

ヨブのような体験をされた方は、そう、多くはないでしょうが、「試み」は、単発なら耐えられ、散発なら忍ぶ事も出来ましょうが、連続は、精神的にも、肉体的にも、再起不能なまでのダメージを与えます。

人は、「頑張れ、あなたなら大丈夫」、「あなたのためだから」、と励ましてくださるでしょうが、励ましの言葉は、時に、棘の付いた鞭となり、ダメージを与え、崩折れさせる事もあるのではないでしょか。

もう限界、崩れそうな時、人は頼りにはならない事が多いのではないでしょうか。

ヨブのように、三人から寄ってたかって責められ、忠告を浴びせられたなら、どんなにか悲しく、辛い事でしょうか。

しかし、「神の子イエス」は、「私たちの弱さに同情」し、寄り添ってくださり、一緒に「試み」に向き合い、一緒に歩んでくださるのです。

時に、「試み」を解消してくださったり、「試み」を乗り越える知恵や力を与えてもくださるでしょうが、基本は、「神の子イエス」は、離れず、見捨てず、どんな時にも、どんな所でも、一緒に歩んでくださる、と云う事です。

神の子イエス」は、大祭司として、私たちの罪の贖いをしてくださいますが、大祭司は、至聖所に入る事を許された、数少ない、とてつもなく偉い人です。

レビ部族の者しか祭司にはなれず、祭司のうちでも、アロンの系譜の者しか大祭司にはなれず、雲の上の存在であり、近づくのを憚れる存在です。

しかし、「神の子イエス」は、大祭司でありながら、私の歩みに寄り添い、私の弱さに寄り添い、私の悲しみ、苦しみ、辛さに寄り添ってくださるのです。

余計な口出しをせず、黙って寄り添ってくださるのです。

神の子イエス」は友以上の存在として、今日も、キリスト者を、暖かい眼差しで見つめ、私たちに寄り添い、私たちを見捨てる事なく、共に歩み続けてくださるのです。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙5章1節から4節

説教題:「大祭司とは?」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、御子、主イエス様は偉大な「大祭司」である、と語りますが、主イエス様の「大祭司」職に付いて語る前に、「大祭司」の資格、資質についての一般論を語ります。

当時、「大祭司」は世俗化し、形骸化し、民衆にとって、必要な存在、なくてはならない人ではなくなっていたようです。

本来ならば、「大祭司」は一人であるはずなのに、アンナス、カヤパ、そしてヨハネ、アレキサンデルなどがいたようです。

働きの重要性から、はた、必要性から、複数の「大祭司」を置かざるを得なかったのかも知れませんが、それは詭弁でしょう。

別に、一人だと価値があり、ありがたい訳ではありませんが、既得権益や名誉に執着、固執する人間の浅ましさは、祭司職にまで及んでいたのです。

任職に際しては、時の権力者の許可を得なければ任職出来ない、というような事もあったようです。

大祭司」は誰が立てられた制度か、誰が任命者か、を忘れた結果でしょう。

ユダヤ人の、イスラエル人の霊的、政治的指導者は、「生ける神」により任職を請けた者である事が基本です。

ユダヤ人の、イスラエル人の霊的、政治的指導者とは、「王、祭司、預言者」であり、この三職は、「生ける神」に選ばれ、召し出され、立てられ、任職を受けるのです。

勇敢だから、戦術に長けているから、霊的だから、優秀だから、人徳があるから、人望があるから・・・ではありません。

「王、祭司、預言者」の三職は、「生ける神」に選ばれ、召し出され、立てられ、任職を受けるのですが、罪を持つ人間であり、弱さがあり、欠点があり、職務遂行に欠ける事も多々ありましょうが、それでも「生ける神」が選ばれ、召し出され、立てられ、任職したのですから、最大限の敬意と尊敬と礼節をもって接遇しなければならないのです。

世俗化し、形骸化した三職ですが、ここでは祭司職について、その基本的資格について記しています。

大祭司」の資質を知る事は、御子、主イエス様の大祭司職の正しい理解、深い理解に繋がるからです。

【本論】

新改訳2017版 5:1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。

大祭司」の資格の第一は、ユダヤ民族を、イスラエル民族を代表する者であり、新約の時代では「人々」、即ち、人間を代表する者である、と云う事です。

生ける神」と契約を結んだのはユダヤ民族、イスラエル民族であり、また、新約の時代では「人々」、即ち、私たち人間です。

生ける神」に対する責任を問われるのはユダヤ民族、イスラエル民族であり、人間ですから、「大祭司」は何より先に、ユダヤ民族、イスラエル民族でなければならず、他民族は「大祭司」にはなれないし、なっても意味はないのです。

同じように、「人々」、即ち、人間を代表するならば、「大祭司」は人間でなければならず、御使いが「大祭司」にはなれないし、なっても意味はないのです。

ユダヤ民族、イスラエル民族が、「生ける神」に対して負う責任に関して、ユダヤ民族、イスラエル民族に代わって、「生ける神」の前に立つ者であるために、「大祭司」はユダヤ民族、イスラエル民族でなければならないのです。

アロンとその子孫が代々「大祭司」として「任命され」、ユダヤ民族、イスラエル民族のために、「神に仕え」、「ささげ物といけにえを罪のために献げ」たのです。

ささげ物」と「いけにえ」ですが、どちらも罪のために献げられるモノであり、厳格に区別しなくても良いのですが、「ささげ物」は、包括的な意味合い、「いけにえ」は、個別的な意味合い、とするのが、理解の助けとなるでしょう。

最後に、「任命されています」と記されていますが、任命者が「生ける神」である事は、5節に「神に」と記されているとおりです。

5:2 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。

大祭司」の働きは、「ささげ物といけにえを罪のために献げ」る事が中心、最大の務めですが、「ささげ物といけにえを罪のため」の規定どおり、間違いなく、滞りなく献げれば充分なのでは、事足りるのではありません。

大祭司」は、儀式として、見える規定から逸脱してはならないのは当然ですが、内面的にも、自分が代理、代行している人々の心を理解していなければならないのです。

ささげ物といけにえ」に込められた、人間の罪、弱さを理解し、執り成す思いで献げるのです。

大祭司」は、「生ける神」が選ばれ、召し出され、立てられ、任職したのですが、罪を持つ、弱い人間であり、ユダヤ人、イスラエル人一般と、一般信徒らと何らの違いもありません。

同族、同類であり、罪人同士であるからこそ、理解出来るので「優しく接することができ」るし、「優しく接」しなければならないのです。

大祭司」の働きは、アロンの系譜の者でなければ就く事が出来ない、貴重な、区別された働きですが、働きの違いの区別であり、貴賎、優劣、差別を内包するようなものではありません。

大祭司」が、尊大に振舞ったり、人を見下すような事があってはならないのです。

無知で迷っている」とは、「生ける神」に付いての無知に起因する事です。

大祭司」は、このような「無知で迷っている人々」のために、「ささげ物といけにえ」を献げるのです。

大祭司」は、「無知で迷っている人々」に寛容をもって接し、「無知で迷っている人々」に仕えるのです。

優しく接する」を、新共同訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書第三版は、「思いやる」と訳していますが、思いやりの心こそ、「大祭司」は当然の事、ユダヤ民族、イスラエル民族に受け継がれてきた徳目であり、キリスト者に必須の徳目なのではないでしょうか。

寡婦、孤児、ハンディキャップを持つ人たちに対して憐れみの心を持ち、施しなどを実践する事こそ、「生ける神」の、「大祭司」のみならず、ユダヤ民族に、イスラエル民族に、キリスト者に期待するところなのです。

優しく接する」は、「思いやる」に止まらず、挑発的、攻撃的態度、心無い、棘のある言動に対して、寛容と同情ある態度を取る事をも含むお勧めです。

心を制して、「生ける神」の御旨を行なうのであり、「大祭司」が感情に巻き込まれれば、民に代わって罪のための「ささげ物」と「いけにえ」を献げる事が出来ず、「生ける神」の怒りを宥める事は出来ません。

大祭司」の自制と寛容が向けられる対象は、「無知で迷っている人々」です。

優しく接する」は、無関心と過干渉、無感動と過感傷の中間の状態を言い表している言葉でもあります。

民が何モノかに挑発され、感情を爆発させる時、「大祭司」は、自制心を発揮し、そのような民を受け入れる寛大さを持たなければならないのです。

しかし、罪を持つ人間の一人でしかない「大祭司」には、重荷であり、怒りの感情を爆発させ、モーセもアロンも、待望の約束の地には入れなかったのです。

臍を噛むような事にならないように、自重し、自制し、寛容を身につけなければなりません。

5:3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。

大祭司」は「民のため」に「ささげ物といけにえ」を献げますが、「大祭司」と言っても、罪人の一人に過ぎません。

自身も大小さまざまな、多くの罪を内在しているのであり、その罪を処理しない限り、「生ける神」の怒りを宥めるための、「民のため」の「ささげ物といけにえ」を献げる事は出来ません。

アロンの系図の、正統な「大祭司」であろうと、時の権力者によって立てられた「大祭司」であろうと、何より先に、自身の罪を処理しなければなりません。

自覚している罪や指摘された罪は処理出来たとしても、しかしながら、自覚していない罪は処理のし様がありません。

人間が内在する罪を完全に贖う事は不可能であり、罪を“0”にする事は出来ないのです。

しかし、「生ける神」の御子、主イエス様は神であり、主イエス様には、一切の罪はありませんから、主イエス様の「大祭司」としての働きは、完全、完璧、無謬なのです。

ヘブル人への手紙の著者は、御子、主イエス様の「大祭司」としての卓越性を、暗に示しているのです。

5:4 また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。

大祭司」の資格の第一に付いて述べて来ましたが、「大祭司」の資格の第二は、任命についてです。

自分で得るのではなく」、立候補、或いは、誰かの推薦、時の権力者に都合の良い人物が立てられ、所謂、傀儡「大祭司」であってはならないのです。

人々に評判のよい人や、獲得した票数によるのでもありません。

神に召されて受ける」職務なのであり、働きなのであり、それ以外はありえません。

全ての人が反対しても、もっと相応しいと思える人がいても、それで「大祭司」として任命される事はありません。

ヘブル人への手紙の著者は、モーセの律法に示された、正しい「大祭司」の任命を教えます。

アロンは、アロンの子エルアザルは、「生ける神」によって「大祭司」に任命されました。

任命については、出エジプト記28章に詳しく記されています。

あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。

他に、レビ記8章にも詳しく記されていますので、是非、読んでください。

一方、「神に召されて受ける」に、異を唱えた出来事の顛末が、民数記16章に詳しく記されています。

16:1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、

16:2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。

16:3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」

16:28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのわざを行なわせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。

16:29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。

16:30 しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく呑み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」

16:31 モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。

16:32 地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を呑み込んだ。

16:33 彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。

16:34 彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地がわれわれも呑み込んでしまわないか」と人々は思ったのである。

16:35 また、火が主のところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。

以上は抜粋ですが、16章全体と、他に、民数記17章、18章も是非、読んでください。

大祭司」は、アロンの子孫が引き継ぐ、世襲である事が、民数記2023節に記されています、

20:23 主は、エドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンにお告げになった。

20:24 「アロンは自分の民に加えられる。彼は、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。

20:25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。

20:26 アロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せよ。アロンは自分の民に加えられ、そこで死ぬ。」

アロンが着ていた装束の譲渡は、「大祭司」の職務の引継ぎなのです。

大祭司」の職務は、このように「生ける神」のお告げによって継承されるのです。

【適応】

大祭司」の職務だけが、「生ける神」による任命、任職なのではありません。

王も、預言者も、「生ける神」による任命、任職なのです。

ユダヤ、イスラエルの初代の王はサウルですが、「生ける神」による任命、任職であり、ダビデも、ソロモンも、「生ける神」による任命、任職であり、基本的には、王は「生ける神」による任命、任職です。

初代預言者モーセも、サムエルも、エリヤも、エリシャも、「生ける神」による任命、任職です。

ポイントは、三職は、「生ける神」に選ばれ、召し出され、立てられ、任命を受ける職である、と云う事です。

優秀であるとか、有能であるとか、人徳があるとかではなく、一方的な、「生ける神」の選びであり、召し出しであり、立たせられ、任じられるのです。

其処に、拒否権は・・・なさそうです。

「口下手だ」と、「弱い、若いから」と、辞そうが、もっと優秀な人がいようが、非常に有能な人がいようが、素晴らしい人徳の人がいようが、「生ける神」の主権で、ご計画で、御旨で選ばれ、召し出し、立て、任ずるのです。

謹んでお受けするしかありません。

そして、「生ける神」に選ばれ、召し出され、立てられ、任じられた三職に対して、敬意も払わず、従いもしないのが、民の態度だったのです。

出エジプト記321節、「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。

民はアロンに、偶像を作るよう強く迫り、アロンに罪を犯させてしまったのです。

サムエル記第一1027節、「しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。

エレミヤ書4416節、「「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。

44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。

こんな態度が、どのような結末をもたらしたかは、聖書に記録されている通りです。

生ける神」の主権を認めるとは、「生ける神」に従う事であり、「生ける神」の主権で、ご計画で、御旨で選び、召し出し、立て、任じた者に従う事ではないでしょうか。

そのとき、民は、私たちは「生ける神」の用意された祝福、恵み、平安に入れられるのです。

生ける神」の立てられた三職に従う事は訓練であり、御子、主イエス様を迎える準備なのです。

三職は、罪人に対するビフォー・アフター体制なのであり、罪を犯さないように警告を与え、罪に対する処罰を与え、犯してしまった罪を贖い、執り成しを行うのです。

三職の存在は、「生ける神」の罪人に対する関心の大きさ、高さ、深さの現れであり、「生ける神」の愛に包まれているのが、罪人である私たちなのです。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙5章5節から10節

説教題:「大祭司に任命された御子主イエス様」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、先ず、「大祭司」に付いての一般論を語ります。

時の「大祭司」は世俗化し、形骸化してしまってはいましたが、それでも、「大祭司」は民衆の罪の贖いをする働きであり、「生ける神」と民衆とを繋ぐ働きであり、必要不可欠な働きではありました。

その「大祭司」の資格の第一は、「生ける神」との契約の民を代表する者であり、民の一員でなければならない、と云う事でした。

民を代表する者であり、旧約の時代においてはユダヤ民族、イスラエル民族でなければならず、異邦人などではない、御使いなどではない、と云う事です。

大祭司」の資格の第二は、「生ける神」によって選ばれ、召し出され、立てられ、任職を受けた者でなければならない、と云う事でした。

アロンの子孫でなければならないのであり、この世の王様や権力者などの任命や承認、また、民衆の推薦などではない、と云う事です。

基本的な資格ですが、最低限の資格であり、この条件を満たさないものは「大祭司」にはなれないし、なってはいけないのです。

この「大祭司」の資格は、「生ける神」の御子、主イエス様に付いても適応されます。

主イエス様でも、満たさなければならない資格なのです。

【本論】

新改訳2017版 5:5 同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と語りかけた方が、それをお与えになったのです。

ここで、ヘブル人への手紙の著者は、主イエス様の「大祭司」への任職は、「生ける神」の任命である事を強調します。

その背景には、この世の王様や権力者などの任命や承認が必要とされていた、と云う事情があったのでしょう。

本来ならば、出エジプト記、レビ記、民数記・・・などの規定どおりに任職すれば良いのであり、この世の王様や権力者などに、お伺いを立てたり、承認を得る必要など、全くありませんが、ローマ帝国の力は強力、強大であり、睨まれたならば、民族存亡の危機を招きかねないのであり、ローマ帝国、領主に忖度をするのが、倣いとなっていた事を憂いて、基本を思い出す事を願ってのお勧めでしょう。

ユダヤ民族の、イスラエル民族の、キリスト者の基準は、聖書です。

聖書に示されている事は、聖書に従わなければならず、聖書に示されていない事は、聖書を解釈して、その解釈に近いものを基準とするのです。

勿論、聖書の教えが、現代にそのまま適応出来ない事も多々ありますが、聖書の教えの意味するところ、「神を愛し、人を愛する」、を汲み取るならば、御旨を逸脱する事は防げるでしょう。

5節の鍵括弧は、詩篇27節からの引用です。

御子、主イエス様は「生ける神」の御子であり、「生ける神」の御旨を、御旨と寸分違わず理解し、実行する力を持っていますが、自ら「大祭司」になったり、立候補したり、誘導するような工作はしなかったのです。

生ける神」によって選ばれ、召し出され、立てられ、任職を受けたのであり、ちょっと辞退してみたり、奥ゆかしさなどを演出する事もなく、只々、謹んで受けられたのです。

5:6 別の個所でも、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と言っておられるとおりです。

6節の鍵括弧は、詩篇1104節からの引用です。

メルキゼデク」は、「ゼデクは私の王である」と云う意味だそうで、創世記1418節に登場します。

サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

メルキゼデク」に付いては、ヘブル人への手紙7章に詳しく記されています。

7:1 このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

7:2 アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。

7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。

メルキゼデク」に付いては、資料は少なく、情報も少ない、不思議な人物です。

父もなく、母もなく、系図もな」い人物であり、「生涯の初めも・・・いのちの終わりも」不詳の人物であるのに、系図、血筋を何より重要視するユダヤ民族が一目置いていた、特別な人物なのです。

主イエス様の偉大さや、「大祭司」職を疑う人々に対して、聖書を引き合いに出して、「メルキゼデク」を引き合いに出して、出自も生涯も不詳の「メルキゼデク」に敬意を払うなら、主イエス様の「大祭司」への任職は、「生ける神」の任命であり、「メルキゼデク」に劣らない事を強調し、御子、主イエス様が「大祭司」である事を紹介、宣言するのです。

5:7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。

肉体をもって生きている間」と訳されている部分の直訳は、「彼の肉の日々に」であり、主イエス様が、地上におられる間、主イエス様が負われた弱い人間として過ごされた生活を意味します。

主イエス様は、霊も、精神も、肉体も、私たちと寸分も変わらない弱さを持っていましたが、常に、何時でも、絶えず、「生ける神」に信頼し、その信仰が揺らぐ事はなかったのです。

この点で人間とは大違い、桁違いです。

7節は、ゲッセマネの園での、主イエス様のお姿を思い起こさせます。

ルカの福音書2244節、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

マタイの福音書2639節、「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

主イエス様は、味わわれ、体験された苦悩の中で、祈りと願いの生涯を通して「生ける神」に徹底的に寄り頼まれたのです。

大祭司」の資格の第一は、「生ける神」との契約の民を代表する者であり、民の一員でなければならない、と云う事でしたが、主イエス様の、「生ける神」への信仰と信頼の姿が、「生ける神」に賞賛され、受け入れられ、「生ける神」は、主イエス様を代表とする民を、主イエス様に繋がる民を受け入れてくださるのであり、「生ける神」は、主イエス様と同じ境遇に置かれている者たちを助けてくださるのです。

そして、今も、主イエス様は私たちの弱さを理解し、「生ける神」の右に坐し、「生ける神」に執り成し続けてくださっているのです。

主イエス様は、神の御子としての力で、肉の弱さ、人間としての苦悩を退け、解決されようとはしませんでした。

主イエス様は、人間として、肉の弱さ苦悩を味わわれ、試練を受け止められたのです。祈りが聞かれない、と云う試練を通して敬虔を学ばれ、祈りが聞かれなくても「生ける神」への信仰と信頼が揺らぐ事はなかったのです。

かように民の代表者たる主イエス様の「大祭司」としての働きは大きいのです。

5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、

次に、ヘブル人への手紙の著者は、主イエス様の「大祭司」として、民を、人間を思いやる面に付いて語ります。

主イエス様は、「生ける神」の御子であり、「生ける神」と同じであられるのに、父なる「生ける神」に従う事は、正しい事であるとする、模範を示されたのです。

「同じ」を誤解し、不従順、不服従の正当な理由としますが、役割があり、指揮命令系統があり、秩序があり、従順と服従を通して、敬虔と謙遜を身につけるのです。

そんな損な役回りはごめん被ります、とか、あの働きがやりたい、この働きは嫌です、とか、人から賞賛される働きをやりたい、縁の下の働きは辞退します、とかであってはなりません。

生ける神」の召しと任命に従うのであり、それが、ユダヤ民族の、イスラエル民族の、キリスト者の道です。

そして、「生ける神」に従うと、幸せ、喜びなど、良い事が待っている訳ではありません。

それどころか、苦難や困難、誤解や非難など、嫌な事が待っている事の方が多いのではないでしょうか。

しかし、主イエス様は、苦難が待っている「生ける神」に従う道を、黙々と歩まれたのです。

イザヤ書504節、「50:4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。

50:5 神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、

50:6 打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。

イザヤ書532節c、「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。

53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

主イエス様が、この「生ける神」に従う道を、苦難、困難の道、試練の道を歩まれたからこそ、

5:9 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、

私たちの罪に対する刑罰の贖いが完成したのです。

主イエス様の、「生ける神」に対する従順が、私たちの救いに繋がっている事を忘れてはなりません。

主イエス様は、人間として生まれ、人間の代表となり、人間として罪に対する刑罰を受けられたのですが、全て、ご自分の考え、計画ではありません。

全て「生ける神」のお考えであり、ご計画であり、主イエス様は、「生ける神」のお考え、ご計画に完全に従われたのです。

主イエス様の従順の結果、「ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源とな」ったのです。

従順であり、不承不承であってはなりません。文句たらたらであってもなりません。

理解し、同意し、賛同し、積極的、自主的に、しかし、先走る事なく、「生ける神」のお考え、ご計画に完全に従ったのです。

5:10メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。

10節は、6節の繰り返しですが、「大祭司」は、生ける神」の選び、任命で、「大祭司と呼ばれ」るのです。

時の王、権力者の任命を受けた者が、民衆から祭り上げられ、民衆の信任を受けた者が、「大祭司と呼ばれ」るのではありません。

大祭司」は、生ける神」の信任を受けた者が、任命されるのであり、これは、三職、王、祭司、預言者の際立った特徴です。

御子、主イエス様は、この三職を兼ね備えたお方なのです。

人間のように欠けや瑕疵、齟齬を含みつつ、一定期間、職に就いて、次の人に引き継ぐのではありません。

欠けや瑕疵、齟齬のない、完全な、しかも、永遠に、なのです。

著者は、「メルキゼデク」と対比させていますが、比較になりません。

こんな素晴らしい大祭司」が、生ける神」によって、私たちのために立てられているのです。

【適応】

人間の「大祭司」も「生ける神」によって立てられ、任命され、私たちのために働いているのですが、

欠けや瑕疵、齟齬があります。

それでも素晴らしい働きをするのですが、主イエス様は「生ける神」の御子であり、完全、無謬なお方であり、「生ける神」の御こころ、御旨を欠けなく、瑕疵なく、齟齬なく、なされるのです。

過不足も、逸脱もありません。

生ける神」の御こころ、御旨を欠けなく、瑕疵なく、齟齬なく、過不足も、逸脱もなく、であるならば、御使いでも可能ですが、「大祭司」は民を代表する、と云う点で、御使いは不適格であり、人間でなければならず、人間であるならば、欠けも、瑕疵も、齟齬も、過不足も、逸脱も付きものです。

そもそも罪を内在しているので、無謬な、欠けも、瑕疵も、齟齬も、過不足も、逸脱も一切ない働きは望みようがありません。

そこで、「生ける神」の御子、主イエス様が人間として生まれ、「大祭司」として立てられ、任命を受け、着任されたのです。

大祭司」の働きは、選ばれた特別な人だけの働きであり、本当に大切な、貴重な働きですが、私たち罪人のために働くのであり、謂わば「使用人」です。

決して「ご主人様」ではありません。

本日の説教題は「大祭司として任命された御子主イエス様」ですが、これは、「大祭司」席に着座され、ふんぞり返って、罪人を見下ろし、罪人に采配を振るい、罪人を働かせている姿を現しているのではありません。

逆に、祭服を端折り、袖を捲くり、奔走している姿を現しているのです。

生ける神」の御子、主イエス様は、「ご主人様」であるべきお方なのに、「生ける神」から任命を受け、「使用人」、「大祭司」となって、私たち罪人に仕えておられるのです。

但し、仕える、と云っても、御用聞きのような働きではなく、困った時の神頼み的な働きでもなく、便利屋的な働きでもなく、私たちには手の出しようのない、如何ともし難い、罪の問題のために、罪の贖いと、悔い改めの執り成しのために、信仰者として生きるために、証し人として歩むために、「生ける神」との交わりを維持するために、仕えてくださるのです。

そして、主イエス様はこの働きに適任、否、唯一無二、他の追従を許さないお方なのです。

ヘブル人への手紙415節、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

このお方が「大祭司」となって私たちのために身を粉にして働いて下さっているのです。

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                                       2022-11-27礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙5章11節から14節

説教題:「神のことばの初歩に留まっていてはならない」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、先ず、「大祭司」に付いての一般論を語りました。

その「大祭司」の資格の第一は、「生ける神」との契約の民を代表する者であり、民の一員でなければならない、と云う事でした。

大祭司」の資格の第二は、「生ける神」によって選ばれ、召し出され、立てられ、任職を受けた者でなければならない、と云う事でした。

続いて主イエス様が、「大祭司」である事を詳しく説明しました。

主イエス様は、ユダヤ人、イスラエル人であるヨセフとマリヤの子として生まれた紛れもない人間であり、第一の資格はクリアです。

第二の資格についても、主イエス様は「生ける神」から任命を受けたのであり、これもクリアです。

更に、主イエス様は「生ける神」の御子であり、その言動に些かの瑕疵もなく、齟齬もありません。

加えて、主イエス様は非常に従順、謙遜であり、「生ける神」の御旨、御こころから逸脱するような言動も、過不足も一切ありませんでした。

主イエス様は紛れもない「大祭司」であり、且つ、主イエス様がどれ程適任であるかを詳しく説明しました。

しかし、詳しく、丁寧に説明しても、その説明を受け取る側の備えが出来ていなければ、「馬の耳に念仏」であり、意味不明のことばの羅列でしかなく、益になるどころか、反発、排斥に繋がり、攻撃にさえなるのです。

著者は、読者の霊的状態について、憂いを覚え、警告と勧告とを語ります。

【本論】

新改訳2017版 5:11 このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。

著者は、先に、ユダヤ人、イスラエル人周知の「メルキゼデク」について、軽く触れましたが、非常に深い内容を持つ事柄であり、更に詳しく語る必要を感じており、この後7章で解き明かすのですが、その前に、読者に対して辛辣な言葉を投げ掛けます。

説き明かすことは困難です」、何故ならば、「あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです」、即ち、「あなたがたは、聴く準備が出来ていない、理解する力がない」から、今、「説き明しても無理だ、無駄だ」、と断言するのです。

言い難い事をずばりと言いますが、現状を正しく認識する事こそ、スッテップアップの要です。

自分の意見に固執している人は、自分の考えに自信を持っている人は、自分は正しいと確信している人は、他の人の意見や考えを聴く事が出来ません、受け付けません。

「聴く準備が出来ていない、理解する力がない」、と云うよりも、持っている知識や知恵に照らし合わせてしか判断しないのであり、持っている知識や知恵が妨げとなり、他の人の意見や考えを受け入れず、また理解しようとしないのです。

土や砂利は水を良く吸い込みますが、アスファルトやコンクリートは水を殆んど吸い込みません。

取り入れなければ、受け入れなければ、水は流れて、何の働きもしないまま終わってしまいます。

とりあえず受け入れる事が重要です。

受け入れるならば、何らかかの働きが期待出来ましょう。

どんな意見や考えでも、先ずはきちんと聴き、受け入れ、疑問や違いを確認してから判断し、取捨しても、遅くはないのではないでしょうか。

先入観や決め付けは判断を誤りますから、注意しなければなりません。

著者は、読者が主イエス様の「大祭司」職の意味を理解する事を願いつつ、ユダヤ人、イスラエル人のプライドや知識、知恵が邪魔をしており、今は聞かせても無駄であると見抜いての警告、勧告を発するのです。

5:12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。

教師になっていなければならない」との聖句は、教職者、祭司や長老、律法学者やパリサイ人などの職についている人々に対する警告、勧告を意味しているのではありません。

「人に教える事が出来るようになっている」の意味であり、充分理解し、実践しているからこそ、教える事も出来るし、その教えに説得力も生ずるのです。

年数からすれば」、即ち、信仰生活の長さは充分であるのに、その信仰歴に見合った成長を遂げていないことを憂いて、警告と勧告とを与えるのです。

神が告げたことばの初歩」に留まっているのは、「固い食物ではなく、乳が必要」な人のようであり、それはまるで、何時までも自分の好きな物、食べたい物だけを食べるような、「幼子」のような食生活に似ていると言うのです。

大人」の食生活は、健康を考えて好き嫌いなく万遍に食べ、身体のために節制するのであり、同じように、「神が告げたことばの初歩」に留まり続けるのは恥ずかしい事であり、従うに厳しいことばであっても、難しいことばであっても、先ずは傾聴しなければならないのです。

拒絶し、受け入れないのではなく、喜んで、自発的に、積極的に取り入れていくようにしなさい、と警告し、勧告を与えるのです。

固い食物」と「」の対比は、ギリシャ哲学で好んで用いられた比喩であり、皆が良く知っていた言葉だそうです。

パウロもコリント人への手紙第一31節以降に引用しています。

兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。

3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

3:3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

ヘブル人への手紙の著者は、パウロの言葉を想起させ、「神が告げたことばの初歩」に留まり続けるのは、パウロの言う「肉の人、ただの人」と同じだ、と警告するのです。

自分では霊的な人だと自負していたとしても、従うに厳しいことばや難しいことばを避けているなら、霊的な「幼子」であり、「肉の人、ただの人」だと、指摘するのです。

5:13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。

乳を飲んでいる者」とは、聴き触りの良いことばだけを聴く、抵抗なく聞き従えることばだけを聴くような人たちの事です。

聖書のことばの表面的なところに留まり、書かれている事だけを行ない、繰り返す事で満足するような人たちの事です。

生ける神」との深い、親密な交わり、関係よりも、人との交わりを好み、表面的な、「らしさ」だけで満足するような人たちです。

クリスチャンはこうあるべき、教会はこうあるべき、云々に拘る人たちです。

厳しい教えは遠ざけ、それは無理、それはちょっと、と取り組まなければ、成長は見込めませんし、「義の教え」に通ずる事は出来ません。

義の教え」とは、「生ける神」が人間に求める、「生ける神」との正しい関係を教える教えであり、即ち、「生ける神」との契約についてを教える教えです。

十戒、律法を守れば祝福を、永遠の命を、であり、十戒、律法に反すれば呪いを、永遠の死を、です。

生ける神」との契約に付いて正しく、充分に理解している者が、「義の教えに通じて」いる者であり、「生ける神」との正しい関係を保つ事が出来るのです。

生ける神」のみ、御子、主イエス様のみ、とする生き方、考え方こそ、「大人」の生き方です。

5:14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

人間には、良心があり、道徳心があり、超越した存在を感じ、恐れ畏まる心がありますが、これら生来のものでは、また、この世の知識や知恵で、「生ける神」との契約に付いて正しく学び、充分に理解し、実践する事は出来ません。

固い食物は」、即ち、聖書の教えの全体であり、従うに厳しいことばであっても、難しいことばであっても、熱心に聴き、従う思いを持つ者が、初歩の段階から先に進む事が出来るのです。

ここに、特進とか、飛び級のようなものはありません。

地道に、一段一段ずつ進むしかありません。

善と悪を見分ける感覚」は、机上の学びでは身に付きません。

経験・・・訓練」こそであり、実践してこそなのです。

固い食物」を取り入れる事で「大人」になっていくのであり、「大人」だから「固い食物」を取り入れる事が出来るのでしょう。

【適応】

知識や知恵は、常にアップデートして行かなければなりません。

初歩の教えのままでは、陳腐な情報や仕組みのままでは、現状維持すら出来ません。

取り残され、祝福を手にする事は、永遠の命を手にする事は出来ないのではないでしょうか。

教えの初歩に留まっていたなら、霊的な成長は見込めず、「幼子」のままです。

大人が子どもの服を着ていては窮屈ですし、子どもが大人の服を着ていてはだぶだぶで相応しくはないでしょう。

子どもは子どもの服が、大人は大人の服が相応しく、機能的にも最適です。

身体の大きさに合わせた服が必要であるように、子どもは、神のことばの初歩をしっかり学び、大人は、神のことばの初歩を出て、次の上位のステップに進み続けるのです。

一気に大人になるのではなく、「経験・・・訓練」を積み重ねて、大人になって行くのです。

経験・・・訓練」を避け、安易な道を選び、現状維持に甘んじるなら、大人になる事は出来ません。

失敗を恐れて進むのを恐れ、経験した事だけを繰り返すなら、安心で安全でしょうが、成長は見込めません。

これは成長しないと駄目、と云う事ではなく、成長を期待してくださっている「生ける神」と主イエス様に、どんな形であっても応えたいと考え、応答する、と云う事であり、「生ける神」と主イエス様は、どんな結果であっても喜び、愛でてくださる、と云う事です。

例を挙げるなら、幼子は、意地悪をする人には意地悪で応答するでしょうが、成長した人は、意地悪をする人に対し、意地悪で応答する事はせず、受け流す事が期待され、更に成長した人は、意地悪に対して親切な応答をする事が期待されるでしょう。

幼子は、自分中心の考え方、行動ですが、成長した人は、自分を制した行動が出来、更に成長した人は、生ける神」と主イエス様の考えを基にした行動をするでしょう。

相手を赦し、受け入れるだけでなく、相手のために犠牲を払うのです。

中々、難しい事ですが、成長する事にも、生ける神」と主イエス様が助けてくださいます。

また、失敗に対する責任は主イエス様が取ってくださっています。

不安に対する恐れは主イエス様が引き受けてくださいます。

失敗や不安を恐れず、「生ける神」と主イエス様を信頼して進む事を、「生ける神」と主イエス様は願っておられるのです。

救われた事に満足し、そこに留まりますか。

それとも、救われた事に感謝し、信仰の高嶺を目指して成長しますか。

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