2022-12-4礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙6章1節から8節

説教題:「成長・成熟を目指して進む」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、霊的な「幼子」である読者へ、「大人」になる事を強く勧めます。

現状維持はこの世の生き様、生活などでは選択肢の一つかもしれませんが、キリスト教信仰に於いて現状に留まる事は背教に繋がる恐れがある事です。

ユダヤ教の影響が強く影響しており、土着の宗教の影響も強く受けているのであり、知らず知らずのうちに変質し、明確な意識もないうちに異なった信仰となってしまいかねないのです。

これは何時の時代でも、現代に生きるキリスト者にも当てはまる事であり注意しなければなりません。

常に成長し続けなければならないのです。

コリント人への手紙第二416節「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」に相応しくです。

ヘブル人への手紙の読者は現状維持の状態に永く留まっていたようであり、現状脱出は、そして「大人」になる事は喫緊に取り組まなければならない課題なのです。

悠長な事を言ってはいられません。

ヘブル人への手紙はギリシャ語で書かれ、日本語に翻訳されているのでニュアンスが伝わり難いですが、妥協や容赦のない、強い意志が込められたお勧めとして受け止めなければならないのではないでしょうか。

聖書のことばは流し読みするためではなく、説教は聞き流すためではなく、生き方が、考え方が変わるために読み、聴くのです。

【本論】

新改訳2017版 6:1 ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、

6:2 きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

1節の「初歩の教え」と2節の「基礎的なこと」は同じ事の別表現です。

ヘブル人への手紙の著者の願いは、1節の「成熟を目指して進もうではありませんか」であり、3節の「先に進みましょう」です。

これも同じ事の別表現でしょう。

幼子」は同じ事を繰り返すのが特徴です。

同じ事を飽きずに繰り返します。

「もう一回、もう一回」と繰り返し、エンドレスです。

興味のある事には熱中しますが、興味を失うとあっさり捨てて、見向きもしません。

一方、「大人」は必要であるなら反復を厭いませんし、そこに変化や工夫を取り入れ、興味のない事にも取り組み、自身の成長や社会への貢献なども意識しますが、「幼子」はそんな自身の成長や社会への貢献などと云う事は意識しません。

初歩の教え」、「基礎的なこと」とは、

第一は「死んだ行いからの回心」であり、「死んだ行い」とは「生ける神」に対する不信仰、不敬、反逆などの死に至る行いであり、「回心」とは、それらの行いをはっきりと自覚する事であり、口で告白して、悔い改める事です。

第二は「神に対する信仰」であり、「生ける神」を信じる事であり、従う事です。

生ける神」を信じる事と「生ける神」が遣わされた者を信じる事は同じ事ですから、「生ける神」が遣わされた御子、主イエス様を信じる事であり、従う事です。

更には、主イエス様が遣わされた使徒、教職者に聞き従う事です。

旧約の時代、エジプトを脱出した民が約束の地に入れなかったのは、「生ける神」に不平を呟き、「生ける神」が遣わされたモーセに従わなかったからです。

第三は「きよめの洗いについての教え」です。

基本となる教えは出エジプト記、レビ記、申命記などに記されている教えであり、ユダヤ教の教えを基本としており、「きよめの洗い」を非常に重要視するグループもあったようで、汚れに対して非常に慎重な立場を取り、神経を使い、日に何度も「きよめの洗い」を行ったようです。

きよめの洗い」ですが、ここでは「洗礼、バプテスマ」を意味してはいなさそうです。

第四は「手を置く儀式」です。

旧約の時代は、任職の時と罪を生贄に転嫁する目的で行なわれていましたが、新約の時代は聖霊を受ける意味で行なわれたようです。

第五は「死者の復活」です。

イザヤ書2619節「あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります」であり、エゼキエル書37章には、夥しい数の干からびた骨が生き返る様子が描かれています。

第六は「永遠のさばき」です。

さばきは「生ける神」に対する不信仰、不敬、反逆などに対する報いであり、「さばき」に容赦はありません。

これら六つの教えはキリスト教独自、特有の教えではなく、ユダヤ教と共通する教えです。

そして、これらの教えが主イエス様に対する告白としっかり結び付けられて理解する必要があります。

ヘブル人への手紙の著者は、ユダヤ教の知識はキリスト教にとっても有益である事を認めつつ、主イエス様と結び付けられないと教えは一人歩きし、ユダヤ教への回帰や逆戻り、また、異端につながる事を心配、懸念し、「初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか」、「基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう」と、警告しているのです。

6:3 神が許されるなら、先に進みましょう。

現状維持、停滞、そして後退は「生ける神」の御旨ではありません。

先に進」む事が「生ける神」の御旨です。

先に進」む事は「初歩の教え」、「基礎的なこと」の正しい理解と密接に関わっています。

初歩の教え」、「基礎的なこと」が正しく理解されていなければ、「先に進」む事は出来ず、曲がったり、停滞したり、後退しても、その事に気付かないでしょう。

初歩の教え」、「基礎的なこと」が基本となって高度な教えを取り入れられるのであり、応用、適応が可能になるのです。

6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、

6:5 神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、

6:6 堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

4節から6節のことばは、カナンの地を偵察した故事を思い浮かべてのことばなのではないでしょうか。

カナンの地を探り、カナンが良い地である事を確認しながら、カナンの地を悪く言い、カナンに入ろうとはしなかった人々の事です。

主イエス様と出会い、主イエス様の素晴らしさを認めながら、主イエス様から離れていってしまう人々の事も意味しているのでしょう。

聖書を読み、警告を聴き、罪を示されて、罪を自覚しながらも、罪や悔い改めをうやむやにし、悔い改める事をせず、警告を無視する人々です。

これは決して少数の人々の事ではありません。

多くの人が福音に触れ、救いに与り、霊的な祝福を体験しながらも、この世に戻り、流されて行ってしまうのです。

2世紀のローマのキリスト者は、洗礼を受ける事を「光を受ける」と表現したそうですが、「光に照らされ」の意味は、洗礼という限定された状況を意味するのではなく、主イエス様は世を照らす真の光であり、主イエス様の「光に照らされ」た、の意味で理解すると良いでしょう。

洗礼は「光に照らされ」た後の応答であり、「光に照らされ」た事実は変わらないのです。

ここにも、罪人の頑なさを見る事が出来ましょう。

光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わった」なら、皆が皆、主イエス様に留まり続ける訳ではありません。

誰もが「堕落してしまう」可能性を秘めているのであり、主イエス様の力に触れ、真理として受け入れ、祝福を受け、体験した者が、暫くの間、信仰生活、教会生活を送りながら、試練に会って躓き、あの人が、と云うような人が、信仰から、教会から、主イエス様から離れて行ってしまう事もあるのです。

マルコの福音書4章、種蒔きの喩えの中の5節、「また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった」のです。

ここで注意したいのは、不注意や偶然で犯してしまった罪と故意の罪とは区別されるのであり、主イエス様とその力と恵みを知り、弁えながら、主イエス様に背くならば、それは最も悪質なキリスト否定であり、「そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」と断言するのです。

6:7 たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、

6:8 茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。

ヘブル人への手紙の著者は、誰もが良く知る「土地」を比喩として語ります。

土地」は自力のみで「有用な作物を生じる」訳ではありません。

土地」は「たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで」、「有用な作物を生じる」のであり、「茨やあざみを生えさせる」なら、即ち、「耕す人たちに有用な作物を生じ」させないならば「無用」であり、「のろわれ」、「焼かれてしまうのです」。

【適応】堕落してしまうなら」、「有用な作物を生じ」させないなら、「のろわれ」、「焼かれてしまうのです」。

堕落まで行かないけれども・・・、何の成果も出せていないし、貢献も出来ていないなあ・・・。

しかし、心配はいりません。

世界に存在する全てのモノは「生ける神」の所有物であり、「生ける神」は何ものをも必要とはされませんし、仕えられる必要もありません。

寧ろ、私たちに必要なモノを与えてくださり、ある意味、私たちに仕えてくださっているのです。

堕落も罪も失敗も、悔い改めるなら全て赦されますし、主イエス様が守ってくださいます。

だからといって何もしないで良い訳ではなく、何もしない理由にはなりませんし、

堕落しても、罪を犯しても、失敗しても良い訳ではありません。

悔い改める事を望んでおられるのです。

エゼキエル書1823節「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか。・・神である主のことば・・彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。

エゼキエル書3311節「彼らにこう言え。『わたしは生きている・・神である主のことば・・わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』

ユダヤ人、クリスチャンの悔い改めは勿論の事、異邦人の滅びるのも望まれはしません。

ヨナ書310節「神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった」のです。

前回の説教は「神のことばの初歩に留まっていてはならない」でしたが、今日の説教「成熟を目指して進む」も同じ意味です。

歩みの鈍い亀や蝸牛も、岩にへばり付いたまま動かないように見える鮑なども、ゆっくり動いていて、いつの間にか移動しているように、幼子も、いつの間にか背丈も伸びて、見違えるように成長しているように、キリスト者として、信仰者として、成熟する事が求められているのです。

その成熟、成長に対しても、生ける神」は私たちに必要なモノを与えてくださり、おりに叶った助けを与えてくださるのです。

ルカの福音書1113節「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます

私の信仰がなくならないように「聖霊を与えてくださり」、堕落しないように、罪を犯さないように、失敗しないように、助けてくださり、支えてくださり、守ってくださるのです。

あなたは生ける神」に何を願いますか。

健康ですか、お金ですか、地位や名誉ですか。

私の信仰がなくならないように、堕落しないように、罪を犯さないように、失敗しないように、「聖霊を」、助け主、救い主、贖い主、主イエス様を求めるなら、それにこたえてくださらない訳はないのです。

生ける神」は、この世に御子、主イエス様を送って下さり、私たちの罪の問題を解決してくださり、聖霊を送ってくださり、私たちが信仰者として、キリスト者として成熟するようにしてくださったのです。

一緒に成熟を目指し、この世で「生ける神」と主イエス様にお仕えして行こうではありませんか。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙6章9節から12節

説教題:「約束を待ち続ける」

ヘブル人への手紙の著者は、霊的な「幼子」である読者へ、非常に厳しいことば、お勧めの数々を挙げ、「大人」になる事を強く勧めます。

現状維持は、この世の生き様、生活様式などを安易に取り入れるならば、妥協するならば、それは霊的な「幼子」の状態であり、ユダヤ教への回帰、背教に繋がる恐れがあり、この世の影響を強く受け、土着の宗教の影響も強く受け、知らず知らずのうちに変質し、明確な意識もないうちに、異なった信仰に進みかねないのです。

キリスト教信仰を維持する事は非常に難しく、この世とは距離を置かなければなりません。

しかし、一方でこの世に生きているのであり、この世と関わって生きているのであり、この世に福音を届けなければならないのであり、知恵が必要です。

関わり過ぎてはならず、無関心であってもならないのです。

注意しなければなりません。

ヘブル人への手紙の著者は、厳しい警告、勧告のことばを語って来ましたが、読者が萎縮をしたりしないように、また、反発をしたり、反抗心を起こしたりしないように、良い点を上げ、励ましを与えます。

この点、パウロとは、逆の語り方です。

パウロは誉めてから、注意する。

どちらにしても、生き方が、考え方が変わるために、霊的な「幼子」から、霊的な「大人」に成長、成熟するための勧告なのです。

【本論】

新改訳2017版 6:9 だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。

ヘブル人への手紙の著者は、「愛する者たち」、と呼び掛けます。

ヘブル人への手紙の著者が、どんなにか「あなたがた」、即ち、イタリア、その近郊に居るユダヤ人たちの霊的成熟、成長を願っているかの気持ちが込められた、親愛の情が良く現された呼び掛けです。

ヘブル人への手紙の著者は、厳しい警告、勧告を語って来ましたが、「あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています」、と語ります。

色々と、幼い部分、足りない部分、欠けや抜けもあり、それを認め、成熟を目指し、成長して欲しいけれども、それに余りある「もっと良いこと」、良い働き、良い行いがある事を認め、「救いにつながる」と「確信しています」、と語るのです。

これは、「救い」を「確信しています」の意味でしょう。

もっと良いこと」、とは、御霊の実が結ばれている事を示唆しているのではないでしょうか。

ガラテヤ人の手紙522節、23節、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

イタリア、その近郊に居るユダヤ人たちは、これらの御霊の実を、豊かに結んでいたのではないでしょうか。

そして、ヘブル人への手紙の著者はそれを認め、正当に評価し、表明しているのです。

ついつい、良い点の評価、表明は控え目になり勝ちで、欠点を列挙、羅列し勝ちですが、パウロ式か否かは別にして、良い点を正当に評価し、ことばにするのは大切な事でしょう。

また、否定語を多用し勝ちですが、肯定語を多く用いたいものです。

例えば、「聖書を読まなきゃ駄目でしょ」、ではなく「聖書を身近な書物としましょう」などであり、「幼子」は、誉め、励まして、成熟を、成長を促すのです。

6:10 神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。

私たちは、良くしてくれた事は忘れ、嫌な事は何時までも忘れない傾向がありましょうが、「生ける神」は、良い事も、悪い事も、全てを、一切を覚えておいでで、正当に報いられるお方です。

マタイの福音書1040節から42節、「10:40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。

10:41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。

10:42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。

これは、「聖徒たち」に対する自覚的な奉仕、愛の業ですが、広く、「神の御名のため」の奉仕、愛の業は、次のようなものです。

マタイの福音書2534節から、「25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。

25:38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。

25:39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

25:41 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火にはいれ。

25:42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、

25:43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』

25:44 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』

25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。

聖徒たちに仕え」る事は、名もない人々に施しをし、助け、憐れみをかけるのは、「生ける神」に対してなされた行為として覚えられ、「生ける神」が報いてくださるのです。

この世では正当に評価されず、不当な処遇を受けたとしても、来る世では正当に評価され、適正な処遇が用意されているのです。

6:11 私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、

私たちの希望について」、即ち、「生ける神」の罪人に対する救いのご計画、罪の贖いである御子、主イエス様に対する信仰について、「十分な確信を持ち続け」る事が重要です。

私たちは、この世に生きているので、この世の影響を強く受け、土着の文化、習俗、宗教の影響も強く受け、知らず知らずのうちに変質し、明確な意識もないうちに、異なった信仰に進みかねないのです。

自分の「熱心さ」ではなく、生半可な知恵や知識、プライドや自信も、要注意です。

誰か特定の人の、或いはある組織の「熱心さ」ではなく、関係性や力関係でもなく、対抗心や競争心でもありません。

熱心さ」の対象が何であるかが重要です。

間違った「熱心さ」や、的外れな「確信を持ち続け」ても、意味はなく、成熟も成長も見込めません。

生ける神」の「熱心さ」に対して、信徒もまた、「確信を持ち続け」る事に対して「熱心さ」を持ち続けなければならないのです。

6:12 その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。

霊的な「幼子」であり続けてはなりませんが、教えられることに於いては「幼子」であり続けなければならず、

成熟と成長を目指す「大人」であり続けなければなりませんが、自信過剰な、他人の意見や忠告を受け入れない、頑なな「大人」になってはなりません。

間違った「熱心さ」は禁物ですが、消極的になってはならず、寧ろ、信じ抜いた人々、信仰に生きた人々の例に倣うよう励ますのです。

しかし、信じ抜いた人々、信仰に生きた人々は「約束のもの」を手に入れる事はありませんでした。

ヘブル人への手紙1113節、「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

1036節、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

怠け者」、の意味は、怠ける、手抜き、の意味よりも、諦め易さ、消極的さ、の意味での理解が適当でしょう。

周りから、自分自身も、成熟してないなあ、成長してないなあ、と思えるかもしれませんが、成熟、成長は、そもそもゆっくりとしたものであり、「雨後の筍」は、特殊な例であり、一般的な成長過程の姿ではありません。

一般的な成長過程は、時間が必要であり、その成長は微々たる物でしかありません。

無理な期待や詰め込みは、成熟や成長の妨げになりかねません。

取り入れ、消化、吸収、そしてゆっくりとした時間の流れが、成熟の一般的な成長過程でしょう。

其処には、成長を待ち、見守る「忍耐」が必要不可欠です。

諦めたならば、成長できません。

忍耐」を支えるのが、「生ける神」に対する「信仰」であり、「忍耐」が、「信仰」とともに働いて、成熟、成長し、「約束のものを受け継ぐ」のです。

諦めず、消極的にならず、寧ろ、積極的に「忍耐」し、信じ抜いた人々、生き抜いた人々の例に倣うようにと、励ましのことばをかけるのです。

【適応】

約束のものを受け継ぐ」の、「約束のもの」とは、見えるものではありません。

御子、主イエス様の贖いによって罪を赦され、主イエス様がお持ちの義を転嫁され、主イエス様と共に御国を受け取り、御国に入る事です。

しかし、古の信仰者が、「約束のものを受け継ぐ」事はありませんでした。

先に紹介したとおりです。

重要なので繰り返しますが、ヘブル人への手紙1113節、「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

1036節、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

約束のものを受け継ぐ」のに必要不可欠なのは「忍耐」です。

アブラハムは、「生ける神」の約束の成就を待ち切れずに、この世の策を弄し、禍根をもたらす事となってしまいました。

ユダヤ人は、「生ける神」の約束、救い主の誕生を待ち続け、わたしたちは、「生ける神」の約束、新しいエルサレムの到来、主イエス様の再臨を待ち続けています。

主イエス様は、マタイの福音書1627節、「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。」と仰いましたが、何時、来られるのでしょうか。

黙示録311節、「わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。

黙示録2212節「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。

黙示録2220節、「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

直ぐに、と仰られてから、凡そ2000年が経っています。

救い主、御子、主イエス様のお誕生も、気の遠くなるような年月を待った結果です。

わたしたちの信仰は、「忍耐」である事をもう一度確認し、押さえておきたいと思います。

アブラハムは、「生ける神」の約束、アブラハムとサラとの間に子が生まれる、との約束の成就を待ち切れずに、この世の策を弄し、禍根をもたらす事となってしまいましたが、同じ轍を踏まぬよう、ローマ帝国、異邦人の支配や搾取の中で、この世の安心、安全、安穏を願うのではなく、「生ける神」のご支配、贖い主、救い主のご降誕を待ち望んだユダヤ人に倣って、主イエス様の再臨を「忍耐」して待ち望みつつ、日々、「生ける神」、主イエス様のお約束に対する「信仰」を堅くする思いで、アドベントの時を過ごそうではありませんか。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙6章13節から20節

説教題:「変わらない神の約束」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者が、アブラハムと、その信仰の歩み、あり方に特別な関心を持ち、読者に紹介するのは、第一に、天におられる父なる神様を信じる者の代表、父とされているからです。

創世記174節、5節、「17:4 「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。

17:5 あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。

第二に、大祭司、メルキゼデクに関する出来事と、深い関係があるからです。

創世記1418節から19節、「14:18 また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。

14:20 いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」

第三に、ユダヤ人、イスラエル人なら、誰でも知っている名前であり、親しんでいるからであり、細かい説明などが必要ないからです。

それで著者は、神の約束が変わらない事を説明するのに、アブラハムを例に紹介するのです。

【本論】

新改訳2017版 6:13 神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、

約束」は、別の言い方をするなら「契約」ですが、「約束」、契約には、通常、「約束」、契約内容を認めた書類が伴い、双方の確認、合意がなされた印として、承認の印章、サインなどが印されます

或いは、第三者に立ち会って頂いて、その「約束」、契約の確かな事の保証をして頂きますが、その立会人、保証人は、当事者が信頼する者、誰もが良く知る有力者、或いは、誰もが認める権力者など、当事者よりも「大いなるもの」に立ち会って頂くのが通常です。

間違っても、見ず知らずの人や子どもなどを立会人、保証人にする事はありません。

或いは、禁治産者など社会的な責任を果せない人を立会人、保証人にする事もありません。

それで、「神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓」われたのです。

旧約の時代、「約束」、契約には、次のような儀式が伴いました。

創世記155節以降、「そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

15:6 アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

15:7 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを導き出した主である。」

15:8 アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」

15:9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」

15:10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。

15:11 猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。

15:12 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。

15:13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。

15:14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。

15:15 あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。

15:16 そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」

15:17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

15:18 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。

切り裂かれた動物は、「約束」、契約、そして誓いを破った者に科せられる処罰の象徴です。

旧約の時代には、このような罰則が、双方に約束、確認されたのです。

6:14「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。

14節は、創世記2217節からの引用であり、創世記2218節は、アブラハムの信仰が全世界に及ぶ様と、その理由を宣言している箇所です。

22:17確かにわたしはあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。

22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

一人の信仰者の行動は、一人に留まらず、全世界に及ぶのであり、アブラハムの信仰は、ユダヤ人、イスラエル人、キリスト者への祝福の基となり、アブラハムの従順は、世界の祝福の基となっているのです。

6:15 このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。

約束のものを得」るのに必要なのは「忍耐」ですが、「信仰、従順」が伴うのは言うまでもありません。

唯々、耐えるのではなく、天におられる父なる神様への信仰と従順の故に、耐えるのです。

天におられる父なる神様は、アブラハムと「約束」、契約を交わしました。

創世記121節からと、創世記1314節からと、創世記155節からと、創世記171節からに記されていますので、ご確認願います。

これらの「約束」、契約の担い手としてイサクが与えられます。

そして、アブラハムの信仰と従順に対する試練が与えられます。

創世記221節からに記されていますが、「約束」、契約の担い手、最愛の息子イサクを生贄にする、と云う試練です。

イサクが死んだならば、先の「約束」、契約は反故になってしまいますが、この試練を通して、アブラハムの信仰と従順が真実なものである事が、服従に於いて現され、イサクを取り戻し、「約束」、契約の実現を保証する事となったのです。

6:16 確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。

ヘブル人への手紙の著者は、13節で確認した事を、人間の習慣から説明します。

この世の全ての「約束」、契約は、人間同士の「約束」、契約ですが、実は天におられる父なる神様との「約束」、契約もあるのです。

この考え方は、ユダヤ人、イスラエル人の考え方であり、そしてキリスト者の基本的考え方としなければなりません。

人間同士の間に不都合が生じても、天におられる父なる神様との「約束」、契約であり、変更も破棄も出来ませんし、誰も口出し出来ないのであり、誠実に履行しなければならず、「すべての論争を終わらせる保証と」なるのです。

その特徴が顕著に現われているのが、結婚の誓約です。

天におられる父なる神様の前で、結婚の誓約をするのであり、当事者同士の誓約であると同時に、天におられる父なる神様との誓約であり、天におられる父なる神様に対して責任があり、死が二人を分かつまで、貞節を守り、結婚生活を維持しなければならないのです。

6:17 そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分のご計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。

天におられる父なる神様の、アブラハムとの間に交わされた「約束」、契約は、ご自身に対する「誓い」であり、この「誓い」は、決して変わる事はありません。

天におられる父なる神様に、移り変わりはないのであり、こんなに確実な事はありません。

天におられる父なる神様の「約束」、契約の不変性、確実性が、「約束の相続者たち」、即ち、アブラハムの肉的子孫、即ち、イサクの子孫、ユダヤ人、イスラエル人と、アブラハムの霊的子孫、即ち、キリスト者にも適応され、保証されるのです。

6:18 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。

前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た」を、新共同訳聖書は、「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来た」、口語訳聖書は、「前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきた」、新改訳第三版は、「前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た」、と訳しています。

この世のものに「希望」を置くのではなく、また、この世から、友人や知人から「力強い励ましを受ける」のではなく、天におられる父なる神様の「約束と誓い」であるが故に、「希望」を置く事が出来、また、「力強い励ましを受ける」事が出来るのです。

約束と誓い」は、天におられる父なる神様の主体性を根拠としたものであり、これ以上信頼を置けるものはありません。

6:19 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。

この世のものや人に「希望」を置いても、移り変わりがあり、信頼、安心出来るものではありません。

しかし、天におられる父なる神様の「約束と誓い」であるが故に、不動であり、不変であり、また、何ものの影響も受けません。

まるで、大海原で、船を留めておく「錨のようなものであ」る、と著者は説明するのです。

幕の内側」とは、天の至聖所の意味であり、ここに、私たちの「希望」が届けられる事こそ、私たちの究極の目標です。

この世で安全に、安穏に、健康に、平穏に、優雅に、何不自由なく過ごせても、天に入れなければ、それらはみな空しい、としか言えないのではないでしょうか。

私たちが持っているこの希望は」、「幕の内側にまで入って行く」の意味が、20節で説明されます。

6:20 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

私たちの「希望」は、「幕の内側」、天の至聖所に届けられ、「大祭司となられ」た「イエス」が「そこに入り」、天におられる父なる神様に取り次いでくださるのです。

この世では、陳情などがなされ、予算配分の時期には、予算獲得の陳情がなされます。

陳情書などは受け取っては下さるのですが、陳情書などの殆どは、為政者、決定権者の手に届く事はありません。

何年か前に、永田町内閣府に、「教会と国家」委員会の抗議声明を届け、読み上げた事がありますが、総理大臣秘書が聞いてくださり、受け取ってはくださるのですが、そこでストップ。

為政者、決定権者の手に届く前に、却下されてしまいます。

そこで有力、強力な仲介者の存在が重要になってくるのですが、「私たちが持っているこの希望は」、有力、強力な仲介者、「大祭司となられ」た「イエス」によって、天におられる父なる神様に届けられ、「大祭司となられ」た「イエス」の口添えがあり、確実に聞き届けられるのです。

【適応】

有力、強力な仲介者、「大祭司となられ」る「イエス」もまた、天におられる父なる神様のお約束の成就であり、私たちのために、この世に遣わされたのです。

天におられる父なる神様は、誠実なお方であり、そのお約束が忘れられる事も、変更になる事も、反故になる事もありませんから、確実な約束なのであり、一片の不安材料はないのですが、「大祭司となられ」た「イエス」が、「幕の内側」、天の至聖所に入られ、父なる神様とのお約束を補佐、サポートする体制を構築し、お約束の実現に寄与されているのです。

天におられる父なる神様の誠実さと、「大祭司となられ」た「イエス」との、二重の確実性で、約束が完成へと進められているのです。

天におられる父なる神様の、人間に対する関心は、これらに極まるのではないでしょうか。

約束は約束であって、約束の成就は、人間に任されているのであるならば、罪を持つ人間には至難の業、否、実現不可能な業なのではないでしょうか。

そこで、天におられる父なる神様は、御子、主イエス様を、人間としてこの世に送られ、人間の罪を主イエス様に負わせ、人間の罪を完全に贖い、主イエス様の義を人間に分かち、人間を義とし、御国に招き入れてくださるのです。

更に、主イエス様は「幕の内側」、天の至聖所に入られ、人間のために執り成し続けてくださっているのです。

本当に、至れり尽くせり、なのだと、驚くばかりです。

このご計画の完成は、主イエス様再臨の時を待たなければなりませんが、このご計画は、天におられる父なる神様のお約束であり、確実に成就するご計画であり、更には、主イエス様が「大祭司となられ」て「幕の内側」、天の至聖所に入られたのです。

約束が変わらないだけではなく、約束の成就に、いささかの疑いの余地も、一切の不安材料もないのです。

更に重要なのは、私たちは、改めて犠牲を払ったり、不足を補ったりする必要が一切ない、と云う事です。

何か罪を犯したり、天におられる父なる神様を疑うと、約束が取り消されたり、+αの課題が付け加えられたりする事はありません。

主イエス様のお働き、贖いは完全であり、何も付け加える必要はありません。

何か、完全であろうと努力しなければならない訳でも、正さなければならない訳でもありません。

御旨に適う者になりたいと願うなら、天におられる父なる神様、主イエス様、聖霊様が正してくださいます。

私たちのなすべきは、唯々、天におられる父なる神様のお約束を信じ続け、主イエス様に従い続けるだけです。

旧約聖書に記されている約束の一切が確実な約束であり、主イエス様の誕生と十字架に於いて、約束の半分が完成し、今、約束の完全な、最終的な完成に向って、着実に、確実に進められているのです。

主イエス様のご降誕は、天におられる父なる神様のお約束が確かである事の証拠です。

主イエス様のご降誕は、過去の出来事ですが、主イエス様の再臨のお約束の確かさの証拠でもあるのです。

天におられる父なる神様の変わらないご計画、お約束に対する「信仰」を堅くする思いで、アドベントを主イエス様の再臨を待ち望む思いで、ご計画の完成を待ち望む思いで過ごそうではありませんか。

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                                       2022-12-25 クリスマス記念礼拝

聖書箇所:ルカの福音書2章1節から20節

説教題:「きょう、救い主がお生まれになられた」

説経者:結城 晋次 牧師 (日本同盟基督教団 引退教師)

説教は非掲載です。

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