2022-2-6礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙1章1節~8節

説教題:「コロサイ教会の人たちへの挨拶」

【導入】

コロサイは、パウロがコリント人への第一の手紙1619節で紹介しているアジアの諸教会の一つです。

パウロがコリント人への手紙を書いたのは、エペソと謂われ、紀元55年頃と謂われていますが、このコロサイ教会の人たちへの手紙を書いたのは、紀元60年頃、場所については諸説あり、エペソとも、カイザリヤとも謂われていますが、有力なのはローマです。

パウロは、ローマで幽閉されながらも、各地の教会の問題に精力的に対応していたようです。

コロサイは、紀元前四、五世紀頃は、ラオディキア、ヒエラポリスと共に、政治と商業の町、東西の交通の要衝の町として栄えていましたが、パウロの時代には、小さな町になってしまっていたようです。

しかし、過去の栄光は捨てがたく、忘れがたく、プライドが高く、劣等感や偏狭性に捕らわれ、それが教会に、信仰にも影響していたようです。

コロサイの教会に異端思想が入り込み、福音の純正さと、教会の平和を蝕みつつあることを伝え聞き、憂えたパウロは、福音の正しい理解に立った信仰生活と教会形成とを教え、諭すために、この手紙を書いたのです。

【本論】

新改訳2017版 1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、

パウロの使徒職としての働きは、パウロの才能や資質に因るのでも、或いは自覚的、自発的選択や自負に起因するのでもありません。

神のみこころによる」と告白している通り、支配者なる、唯一真の神様の御こころ、御旨による選び、召しであり、恵み、憐れみで使徒とされた事を明らかにする告白であり、これは、全ての使徒、伝道者、教職者、そして信徒、証し人たる者の拠り所です。

宣教、伝道の働きに就くのは、雄弁だからでも、広い見識を持っているからでも、造詣が深いからでもありません。

朴訥でも、世間知らずでも、浅い知識しか持っていなくても、宣教、伝道の働きに就くのです。

宣教の主体者である御子、主イエス様の御こころ、御旨、選び、召しで、宣教、伝道の働きに就くのです。

キリスト・イエスの使徒」とは、「御子、主キリスト・イエス様の復活の証人」の意味であり、宣教の主体者である御子、主イエス様の御こころ、御旨で選ばれ、召し出され、権能と使信を委ねられて、遣わされた者であり、宣教の主体者である御子、主イエス様の代理、大使であり、御子、主イエス様の代弁者である事を意味するのです。

パウロは、この務めを、復活の主イエス様から直接与えられたので、「キリスト・イエスの使徒」と言い得たのです。

決して自称でも、思い込みでもありません。

疑う余地のない、正真正銘の「キリスト・イエスの使徒」だと断言するのです。

このように言い得たのは、御子、主イエス様のために死ぬ覚悟が出来ていたからに他ありません。

生半可な覚悟ではなく、人からの評価でもなく、御子、主イエス様との揺るぎ無い信頼関係が出来ていたからです。

御子、主イエス様との堅固な繋がり、結び付きこそ、この世との関係や人間との関係など、横の繋がりを良好なものにする秘訣です。

兄弟テモテ」は、リステラでパウロと出逢い、見出された弟子です。

使徒の働き161節、2017267ページ、第三版260ページ、「16:1それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシヤ人であった。

16:2 彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった」。

テモテは単に評判がよかった人、有能な人であっただけなのではなく、「キリスト・イエスの使徒」としての資質を備えた人であり、パウロの同労者として、宣教と伝道の働きに従事し、貢献したのです。

このテモテを、コロサイ教会に紹介する意図から、連名にしたのでしょう。

同労者の存在を知っておいてもらうのは、大切な事です。

宣教、伝道の働きは、共同の働きだ、と申し上げましたが、普段から教会と宣教師、伝道者、教職者を結び付けておかなければ、関係作りをしておかなければ、いざ、と云う時に間に合いません。

1:2 コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。

先にお話しましたが、コロサイは、紀元前に栄えていた町ですが、今は没落し、過去の栄光に縋り、劣等感や偏狭性に捕らわれ、ビジョンも見い出せず、と云った状況に陥っていたようです。

そんな状況は、悪魔に入り込む隙を与える事となり、異端思想に翻弄されてしまったのでしょう。

しかし、パウロは、そんなコロサイ教会の人たちに、「聖徒たち」と呼び掛けます。

更には、「キリストにある忠実な兄弟たち」との賛辞を呈するのです。

この呼び掛け、賛辞は、挨拶以上の意味が込められています。

即ち、「聖徒」は、御子、主イエス様との関係、縦の関係性を示し、「兄弟たち」は、神の家族と云う横の関係性を示し、コロサイ教会の人たちを、聖徒として、兄弟として見ている事を表明するのです。

唯一真の神様に選び分かたれ、神の民の一員とされている事を最大に評価しているのであり、これは、極めて意義深い事です。

この励ましが、この一言が、どんなに影響力があるか、信仰を捨てるか否かの岐路に立った時、信仰に留まらせるのは、こんなことばにあるのではないでしょうか。

続く「恵み」は、ギリシャ的挨拶であり、「平安」は、ユダヤ的挨拶ですが、この特徴的な言葉を合体させた「恵みと平安」と云う言い回しはパウロならではです。

パウロは、コロサイ教会の問題点、劣等感や偏狭性に捕らわれた人たちに、駄目出しをしたり、異端思想に害されている実態を指摘するのではなく、批判、糾弾するのでもなく、福音を受け入れた事実に着目し、それを評価し、「恵みと平安」を執り成し祈るのです。

1:3 私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。

コロサイの人たち、また、ギリシャ人たちの挨拶の習慣は、相手の健康と繁栄を神々に祈り、感謝するものだったようですが、各々が、各々の信じる神に祈願したのであり、多分に迷信的な、漠然とした祈りと感謝です。

しかし、キリスト者の祈りと感謝は、コロサイの人たちの慣習に従いながら、対象を明確にし、表明しており、「主イエス・キリストの父なる神」に祈りと感謝を献げるのです。

対象が明確だと、祈りも明確、具体的にならざるを得ず、感謝もまた然りです。

パウロは、感謝の理由を述べます。

1:4 キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。

4節、5節には、キリスト教の三本柱「信仰、愛、望み」が表明されています。

先ず、「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰」です。

御子、主イエス様の贖罪の業に対する信仰であり、御子、主イエス様を信じて、従う生き方を実践する事です。

次に、「すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛」です。

現在の生活で、状況下で、兄弟を愛する事を実践し、敵をも愛する事を実践するのです。

福音は信じるものですが、心の中の問題ではなく、概念的なものではなく、生き様、行動に現われてこそであり、コロサイ教会の人たちは、精一杯、実践して来たのであり、パウロはそれを高く評価するのです。

1:5 それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。

5節には「あなたがたのために天に蓄えられている望み」が表明されていますが、

唯一真の神様の約束であり、唯一真の神様によって用意され、守られ、将来に与えられる確実な、堅実な約束、希望です。

この望みのこと」は、「福音の真理のことば」によってもたらされますが、「福音」は、「真理」であり、「真理」は、「ことば」によって表現され、届けられます。

ことば」であるために、書き記す事が出来、正確に宣べ伝える事が出来、誰もが理解する事が出来ます。

論理性、客観性を持っており、思想として弁証する事が出来ます。

もしも、福音が、感覚的なもの、超自然的なものであったなら、神秘的な、一子相伝的なものであったなら、真理とは言えず、八百万の神信仰や有象無象の神々に対する信仰と同レベルのものとなってしまい、普遍性も永続性もないものとなってしまうでしょう。

福音に対する信仰は、ことばを聴く事から始まり、理解し、決心に至らせるのです。

ことばの大切さを噛み締め、真摯にことばに取り組まなければならない事を、教えられましょう。

1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。

神の恵み」とは、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の御子の受肉、御子が人間となられた事であり、御子、主イエス様が、私たちの罪の贖いのために、私たちを義とするために十字架で死なれ、私たちに永遠の命を与えるために復活された事です。

この事を「本当に理解したとき」、人は変化し始め、「成長し」「実を結び」ます。

この変化を「聖化」と言いますが、人其々であり、劇的に変化する人もいれば、何も変わらないような人もいますが、御子、主イエス様のお取り扱いを受けている事は確実です。

神の恵みは、知的理解や概念的把握に満足し、留まっている限り、本当の理解には至らないでしょう。

神の恵みは、御子、主イエス様のしもべとしての一歩を踏み出し、歩み続ける時、理解するのであり、自分の罪深さ、無力さ、弱さを実感し、唯一真の神様の愛を、御子、主イエス様の贖いの大きさを、知るに至るのです。

其処には、国境や人種、文化やイデオロギーは何の妨げにもなりません。

福音は、真理だから、コロサイのみならず、同時多発的に「世界中で起こっている」のであり、世界中に広がり続けるのです。

実を結び」は、個人の充実、内面的な充実であり、「成長し」は、周囲への働きかけであり、これこそ、福音の持つ、真理の力であり、働きなのです。

1:7 そういうものとして、あなたがたは私たちの同労のしもべ、愛するエパフラスから福音を学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、

同労のしもべ」と訳されているギリシャ語は、「仲間の、一緒の」と「奴隷、しもべ」の合成語ですが、ここでパウロは同労者、仲間を紹介しているのではなく、パウロと同じ生き方をしている者を紹介しているのであり、主人の、御子、主イエス様の意のままに生きる者の紹介なのです。

パウロが同労のしもべである事を強調するのは、多くの教師が、御子、主イエス様のことばとご意思に服さないばかりか、御子、主イエス様が教えるように命じられたにも関わらず、命じられた事を教えず、人集めに、教勢拡張に奔走していたからでしょう。

これでは、御子、主イエス様のしもべと言えないばかりか、異端の原因となり、御子、主イエス様の敵、妨げとなっていたのです。

同労のしもべは、「キリストに忠実に仕える者であり」、信徒が「実を結び」、「成長」するために働く者なのです。

エパフラス」は、正しくは「エパフラデト」であり、コロサイ教会との関わりや、働きの詳細は解りませんが、パウロが最大級の評価を述べているところから、エパフラスのような人物が、各地に遣わされ、宣教の働きに就き、伝道に勤しみ、各地に教会を建て上げ、教会形成をしていったのです。

使徒や宣教師、伝道者、教職者の大切な働きは、教会形成です。

建物を建て上げても、信徒がいなければ、信徒が成長していかなければ、烏合の衆であり、異端の嵐に翻弄され、この世の波風に弄ばれ、消え去って行くのではないでしょうか。

福音の前進は、エパフラスのような宣教師、伝道者、教職者の働きに拠るのであり、キリスト教の著しい進展を支えたのです。

1:8 御霊によるあなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた人です。

福音が人々に届けられるためには、福音を仲介する人たちが必要です。

御子、主イエス様は、私たちがこの福音の仲介者となる事を望んでおられます。

私たちが持っている、生来の「愛」は、自己中心的な愛であり、打算的であり、利己心に根ざした、自己満足の域を脱し得ないものでしかありません。

しかし、聖霊に満たされたエパフラスのような、真の宣教師、伝道者、教職者は、相手の値打ち、功績、素質、関係性を無視し、愛するに価しない者を、進んで愛の対象として選び、その者をひたすら愛し、交わり、結び付く事を願い、行動するのです。

御子、主イエス様が十字架で示された、無償の、一方的な、自己否定的な、最高の模範を実践した者たちによって、福音は、真理は、世界中に届けられたのです。

【適応】

福音の真理は、ことばによって伝えられ、世界に広がり続けてますが、それで完成とは云えません。

聴く者がいて、聴いて生き方を変えられてこそ、目的は達せられるのです。

福音を届ける者の存在と働きは、大切ですが、福音を聴く者の存在も、大切なのです。

人間は、良くも悪くも周囲の影響を受け易い生き物です。

反対する人が現われれば、なんとなく、反対の立場を選び、賛成する人が現われれば、なんとなく、賛成の立場を選ぶ傾向があります。

パウロのような、テモテのような、エパフラスのような宣教師、伝道者、教職者たちの語る事を、真剣に聴くなら、肯定的に聴くなら、どっちつかずに迷っている人たちは、宣教師、伝道者、教職者たちの語る事に興味を持つのではないでしょうか。それは、エパフラスに劣らない、宣教師、伝道者、教職者に劣らない働き人と云えるのではないでしょうか。

コロサイ教会の人たちは、エパフラスを受け入れ、その話を熱心に聴き、実を結び、成長したのです。

成長させ、実を結ばせてくださるのは唯一真の神様、御子、主イエス様ですが、

福音を聴く者がいなかったら、成長にも、結実にも繋がらないのです。

聴く働きを、決して侮ってはならないのです。

コロサイ教会は、異端の教えに惑わされてはいましたが、聴く耳を持っているからでもあり、正しい教えを伝えれば、正しい方向に進めるのであり、決して失望する事も、切り捨てる事をしなくてよいのです。

現代は、総じて評論家的な、批判的な見方をする傾向があるようです。

何でもかんでも鵜呑みは問題ですが、端から否定的、懐疑的であっては、福音は届きようがありません。

唯一真の神様、御子、主イエス様が求めておられるのは、評論家ではなく、実践家であり、コロサイ教会の人たちは、エパフラスのような、無名の働き人を受け入れ、その語ることを熱心に聴いて、実践した人たちです。

このような人たちによって、教会は存続し続け、福音宣教の働きは続けられるのです。

唯一真の神様、御子、主イエス様は、福音を受け入れ、実践する者を、至高の存在として評価されるのであり、そんな人たちをパウロは評価し、唯一真の神様、御子、主イエス様が評価されるのです。

唯一真の神様、御子、主イエス様のこのコロサイ教会のたちに対する評価は、現代の教会に対する、私たちに対する評価であり、教会の上には、私たちの上には、この唯一真の神様、御子、主イエス様の憐れみ、慈しみと恵みが注がれているのであり、その事が手紙に挨拶として現されているのです。

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聖書箇所:サムエル記第一21章1節から15節

説教題:この人は、かの地の王ダビデではありませんか

【導入】

2019年冬に発生した新型コロナウィルスは、あっという間に全世界に広がり、猛威をふるい、感染者数のみならず、死亡者数も膨大な人数になってしまいました。

ワクチンが開発され、対処薬が開発されてはいますが、今だに、不安な毎日を送らざるを得ない状況にあります。

本当に安心して生活出来るようになるには、まだまだ時間が掛かるようです。

疾病という地球規模の問題だけではありません。

人間関係の問題と言うのも、部外者からはいとも簡単に解決出来ると思いますし、当事者であっても何とかなると思うものなのではないでしょうか。

多くの人生相談の回答者は、如何にも的確と思えるアドバイスを提供しますが、しかし、単純に見えても非常に根の深いものであり、一度抉れた関係と言うものは、簡単には元に戻らないばかりか、見かけは元の様相を示していても、捩れて戻した複雑な歪が内在しているのであり、その歪は関係をより複雑にしてしまう方向に働く事が多い様です。

サウル王とダビデの間の確執も、ヨナタンと言う調停者が入って、一度は落着しましたが、根本的な解決ではなく、サウル王の側には妬みが燻っていたのであり、暫くは平穏な関係が維持された事でしたが、ダビデの活躍によってサウル王の妬みに火が付き、再びダビデの命を狙う事になるのでした。

一方的なサウル王の思い込みであり、嫉妬から発展した、ダビデとの確執。

ダビデには何の落ち度もない事は当のサウル王も頭では解かっているはずです。

だからこそ、ヨナタンの執り成しによって、一度は解決したかのように見えたサウルとダビデの関係ですが、しかし、問題はダビデの活躍や、それに伴う賞賛にあるのではなく、サウル王にあるのであり、唯一真の神様からサウルに委ねられた王権に対する執着が原因なのです。

2031節、2017518ページ、第三版504ページ、でサウルが言っているように「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ」…これが原因です。

そもそも、王権は唯一真の神様から委ねられたモノであり、預かっているモノです。

唯一真の神様から要求があれば即時返還しなければならないモノであり、命ぜられれば譲渡しなければならないモノなのです。

このイスラエルと言う国の支配権を誰が持っているのか、本当の支配者が誰なのかの認識があれば、サウル王もダビデに嫉妬する事もなかったのではないでしょうか。

しかし、唯一真の神様のモノを、我がモノとしたところに、サウル王の失敗があったのであり、王権を引き継ぐ者に対する異常なまでの殺意に翻弄される事になるのです。

ヨナタンや、ミカルの助けにより、窮地を脱出したダビデは、旧知の祭司アヒメレクに助けを求むべく、ノブの地に赴きます。

【本論】

新改訳2017版 21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。

この「ノブ」と言う地は、巻末の地図には載っていませんが、ベニヤミン部族に与えられた地にあるサウルの「ギブア」と、ダビデの故郷「ベツレヘム」の中間にある「エルサレム」から2km程の所にある町です。

サウルのギブアから56kmしか離れていないのですから、ダビデは迫り来るサウル王の追っ手の心配とともに、ベツレヘムにいる家族の身も案じたのではないでしょうか。

サウル王は激した挙句に、跡取息子のヨナタンをも殺そうとする程の人物であり、ダビデに援助を与える者を皆殺しにする非情さを持つ王様です。

一刻も早く、なるべく遠くに逃げたいところですが、飲まず食わずでは生きて行けませんから、食料の調達に、知り合いを訪ねる事になる訳です。

とは言え、不用意に立ち寄るのは双方に危険を招き寄せる行為であり、誰でもと言う訳にはまいりません。

そこで信頼の置ける人物として「祭司アヒメレク」を訊ねたのであり、必ず助けてくれるとの確信があって訪ねたのでしょう。

アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」

ダビデはサウル軍の逸材であり、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と謳われ、誰もが皆知っている人物です。

多くの兵士を束ねる総大将であり、供の者が誰も居ないと言うのは不自然であり、噂と言うものはあっという間に広がりますから、ここノブの地にもサウル王とダビデの噂は伝わっていたに違いありません。

詳しい事情は解からないにしても、只ならぬ問題がある事は知れ渡っており、先の様な質問となったのでしょう。

21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。

祭司アヒメレクの疑惑を払拭する、なる程と思わせる蓋然性のある回答を致します。

ダビデはサウル王の為に命をかけて戦う勇士であり、特命を受けて隠密の行動を取る事はあり得る事です。

隠密行動に対する質問は赦される筈もなく、続く質問を遮る意味でも、ダビデは話題を変え、アヒメレクを訪ねた本来の目的を果すべく、願い事を申し述べます。

21:3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」

21:4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」

21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」

21:6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日【主】の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。

祭司アヒメレクは、ダビデの要請に対して、「聖別されたパン」、唯一真の神様に献げたパンを与えます。

この唯一真の神様に献げたパンは、本来は祭司とその家族しか食べてはならないモノであり、この事はレビ記2210節以降に記されています。2017217ページ、第三版211ページ、「22:10 一般の者はだれも、聖なるものを食べてはならない。祭司の居留者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。

22:11 しかし、祭司に金で買われた者はこれを食べることが許される。また、その家で生まれた者も祭司のパンを食べることが許される。

22:12 祭司の娘は、一般の者と結婚したなら、聖なる奉納物を食べてはならない。

22:13 祭司の娘が、やもめあるいは離縁された者となり、子もなく、娘のときのように再びその父の家に戻っているなら、父の食物を食べることが許される。しかし、一般の者はだれもそれを食べてはならない。

また、唯一真の神様に献げられた性質上、汚れた者は食べてはならないパンなのです。

この事もレビ記223節以降に記されています。2017217ページ、第三版210ページ、「22:3 彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエルの子らが主に対して聖別した聖なるものに、汚れたままで近づくなら、その人はわたしの前から断ち切られる。わたしは主である。

22:4 アロンの子孫のうち、ツァラアトに冒された者、または漏出のある者はみな、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、汚れている者、精を漏らす者、

22:5 あるいはすべて人を汚す群がるものに触れる者、または、いかなる汚れであれ人を汚れさせる人間に触れる者もそうである。

22:6 これに触れた者は夕方まで汚れる。その人は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。

ここで、2番目の、汚れに対する問題はクリヤ出来たとしても、1番目の、祭司とその家族だけが食べる事を許されている規定は如何ともしがたい事です。

律法を遵守するなら、決して与えてはならないパンであり、「一般の者はだれもそれを食べてはならない」のであり、しかも、この5つのパンは、1つが10分の2エパ、即ち約46リットルのパンである、と言う事実です。

祭司アヒメレクは先の規定を知らなかった訳ではなく、知っていて尚且つ、ダビデが要求する通り、そのままに十分な量を与えたと言う事の意味を考えたいと思います。

祭司アヒメレクはダビデと言う稀代の勇士が、有名人が頼んだから、律法を犯しても与えたのでしょうか。そうではありません。

困っている人が居て、その人もまた、唯一真の神様の愛する人であるが故に与えたと言う事なのであり、情けは、憐れみは律法に優先すると言う事実を教えているのです。

イエス様もマタイの福音書12章でこの事を実践しておられます。

201722ページ、第三版21ページ、「12:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。

12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」

12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか。

12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。

律法は他人を縛る為にあるのではなく、自分を律する為にあるのであり、神を愛し、人を愛する為の規定である事を忘れてはなりません。

祭司アヒメレクは、律法の本当の意味を知り、表面的な律法の規定に縛られる事なく、律法の目的を正しく行なったのです。

この唯一真の神様の御心に適った、微笑ましい経緯を見ていたのは、当事者のダビデとアヒメレクだけではありませんでした。

21:7 ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が【主】の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──

よりによって、運の悪い事に、サウル王の側近に目撃されてしまったのですが、決して、「よりによって、運の悪い事に」ではなく、唯一真の神様によって引き止められていた、と言う事実を見逃してはなりません。

もしも、このドエグが居なかったならば、22章に記されている惨劇は起こらなかったのであり、唯一真の神様は親切な祭司アヒメレクをどうして守って下さらなかったのだろうかと、悩む私たちですが、親切にした祭司アヒメレクが悪い訳でもなく、唯一真の神様が冷たいお方なのでもなく、サウル王の偏狭さが問われたのであり、サウル王の非情さが明かにされたのであり、サウル王の唯一真の神様に対する侮りの思いと、唯一真の神様のしもべに対する傲慢さが明かにされるのであり、サウル王は、サウル王に対する唯一真の神様の悔い改めのチャンスを、何度も何度も無にしている事実を見るのです。

人は内なる欲望に導かれて滅びに至るのであり、内なる欲望を甘く見てはならないのです。

さて、当面の必要であるパンを手にしたダビデは、続けて護身の為の武器を祭司アヒメレクに求めます。

21:8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」

21:9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」

それにまさるものはありません。私に下さい。

何度もサウル王に裏切られ、追われ、命を狙われても、3m近い大男と戦った時の、あの唯一真の神様に対する信頼、信仰は何処に行ってしまったのでしょうか。

剣も槍も敵を倒す絶対的な武器ではなく、盾も兜も身を守る絶対的な武具ではない事を、羊飼いをしながら学んだのではなかったでしょうか。

獅子の牙から、熊の爪から守って下さった唯一真の神様の守りを信じて、その信仰でゴリヤテと戦ったのであり、その信仰に応えて、唯一真の神様はダビデに勝利を与えたのではありませんか。

サウル王に追われ続けて、心も身体も休まる間がなかったとしても、武器に頼るべきではありません。自分の知恵に頼るべきではありません。人に頼るべきでもありません。

武器も知恵も頼りにはならず、返って問題を引き起こすのみである事は、聖書の世界だけではなく、私たちの日々に経験する所ではないでしょうか。

ダビデは祭司アヒメレクに武器を求め、それをサウル王の側近ドエグに目撃されましたが、これこそがダビデの失敗であり、武器を与えた事が決定的な要因となって、祭司アヒメレクはサウル王に殺される事になったのです。

武器は決して身を守るものにはならず、自分をも、関係のない人をも傷付ける事になってしまうのです。

21:10 ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た。

21:11 アキシュの家来たちはアキシュに言った。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」

21:12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

21:13 ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした。

21:14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見ているように、この男は気がふれている。なぜ、私のところに連れて来たのか。

21:15 私のところに気がふれた者が不足しているとでもいうのか。私の前で気がふれているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

最後にダビデは自分の知恵に頼って、「ガテの王様アキシュ」に保護を求めます。

この「ガテ」はペリシテ人が支配する町であり、アキシュの出自ははっきりしませんが、ダビデと何かしらの親交があったのでしょう。

当時のパレスチナは、イスラエル人対ペリシテ人、と言う単純な構図ではなく、小さな王国が割拠していたのであり、利害関係で手を結んだかと思うと、敵ともなる、そんな不安定な国際状況であったのです。

この事はサムエル記1421節、2017501ページ、第三版488ページにも「それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった」と記されている通りです。

優勢な方について、少しでも損失を防ぎ、少しでも利を得ようとしていたのであり、時には敵として戦い、時には手を組んでより強力な外敵と戦ったのです。

詳細は兎も角、ダビデは唯一真の神様によって命ぜられ、滅ぼさなければならない敵国に保護を求めたのであり、人を頼ったのであり、武器を求めた事と合いまって、ダビデの決定的な失敗と言わなければ成らないでしょう。

しかし、ダビデの目論見の通りに事は運びません。

イスラエル王国の体制はともあれ、外国からは、既にダビデが王様であると見られていたのであり、唯一真の神様のご計画の通り、サウルは退けられており、ダビデが王として立てられている事が諸外国に伝わっていた訳なのです。

この事はダビデを驚かせた事でしょう。

本人は一兵卒のつもりでも、異邦人から見たならば一国の王と映っていたのであり、諸外国から恐れられていた事が明白となったのです。

そこで急遽、気が狂った振りをしなければならず、人としての尊厳を捨てる屈辱を味わった訳ですが、それもこれも唯一真の神様から目を離し、人を頼りにしたからに他ありません。

【適応】

少年時代の、羊を飼っていた時の、ゴリヤテと戦った時の、唯一真の神様に対する信頼、信仰は何処に行ってしまったのでしょうか。

食料を求めた事も、武器を求めた事も、保護を求めた事も、根は一緒です。

「人はパンのみにて生きるにあらず。」

神の言葉、即ち神の約束にあるのであり、決して物や地位や、道具や人に頼ってはならないのです。

唯一真の神様が養って下さるのであり、唯一真の神様が守って下さるのです。

唯一真の神様が助けて下さるのであり、唯一真の神様が導いて下さるのです。

しかし、この事は簡単に受け入れられる事ではありません。

始めは獅子も恐れず、熊にも怯まず、ゴリヤテにも挑んだ信仰者ダビデですが、長引く迫害や、不安定な現状は人の心を苛み、ぼろぼろにするものです。

弱気になってしまい、あれこれ打開策を考え、物や人に頼ってしまい、結果、ますます唯一真の神様を見失ってしまい、その事にも気付かずにさ迷い続けてしまうのです。

これでは唯一真の神様も愛想を尽かしてしまうのではないでしょうか。

いいえ、決して唯一真の神様がダビデに、私たちに愛想を尽かす事はありません。

悔い改めるのを待っているのであり、帰って来るのを待っていてくださるのです。

ダビデに良い所があるからではなく、唯一真の神様が選んで、唯一真の神様が召したから、選びも召しも変わる事がないのです。

この人は、かの地の王ダビデではありませんか」とのアキシュの家来たちの告白は、唯一真の神様によって促されての告白であり、サウル王の下から逃げ出し、さ迷い歩くダビデに、現実ではなく、唯一真の神様の約束を思い起こさせたのではないでしょうか。

その唯一真の神様の約束を思い出し、アキシュに助けを求めた自分を恥じ、とんでもない所に来たとの後悔の念があいまって「気が違ったかのようにふるま」わせたのではないでしょうか。

現実を見て弱気になり、物や人に頼る誘惑は誰にでも訪れます。

しかし、どんな時でもどんな状況でも、唯一真の神様が私たちを忘れる事も、見捨てる事もありません。

唯一真の神様から離れて物や人に頼る時、唯一真の神様は異邦人の口を通して、「この人は、かの地の王ダビデではありませんか」と言わしめて、現実ではなく約束を思い出させて下さるのです。

唯一真の神様はダビデへの言葉と同じように、現実の苦しみの中でさ迷う私たちに今日も「この人は、神の国の住人ではありませんか」と声を掛けて下さっているのです。

声を掛けるだけでなく、自分の努力に頼らない、自分の力と知恵に頼らない、人の力と知恵に頼らない、唯一真の神様主導の助けと導きを示して下さるのです。

しかし、唯一真の神様主導の助けと導きは人其々であり、画一的、具体的に「こうだ」と言えるものではありませんが、信じて従った時、明かにされ、「アーメン」との頷きが与えられるでしょう。

ここに居られる皆様が、この唯一真の神様の約束、宣言を信じて、唯一真の神様だけを頼って、信じて歩み続け、神の国に凱旋する事を願って止みません。

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                                       2022-2-20礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙1章9節~12節

説教題:「コロサイの人たちのための祈り」

コロサイは、パウロがコリント人への第一の手紙1619節で紹介しているアジアの諸教会の一つです。

パウロとコロサイの教会と関わりが、またコロサイで福音を宣べ伝えたエパフラスとパウロとの関係が、どの程度のものだったのかは不明ですが、コロサイの人たちは、エパフラスを受け入れ、その話を熱心に聴き、実を結び、成長したのであり、そのことをパウロは非常に喜び、高く評価するのです。

ところが、福音の進展と共に、福音の進展の邪魔をするものが必ず現われ、成長を妨げ、実を結ばないようにします。

パウロはコロサイの教会に異端思想が入り込み、福音の純正さと、教会の平和を蝕みつつあることを伝え聞き、憂えたパウロは、福音の正しい理解に立った信仰生活と教会形成とを教え、諭すために、この手紙を書いたのです。

ですから、直ぐにでも本題に入り、福音の真理を詳しく語りたいところでしょうが、その前に、パウロは自分がコロサイの教会の信者に対して、特別の関心を持っていることを伝えます。

その関心は、支配でも、指導でも、教導でも、信仰の先達として、でもありません。

御子、主イエスにある、愛する兄弟姉妹として、であり、霊の同胞、魂の家族としての篤い思いからです。

パウロの篤い思いはともかく、パウロとコロサイの教会の人たちとの交流は、深いものでは、強いものではなかったようですから、性急に、ずかずか入り込み、拒絶、拒否されるような事にならないように、細心の注意を払い、コロサイの教会の人たちの好意を得ようとの配慮を致します。

こうした配慮は、コロサイに限りません。

単刀直入、直ぐにでも本題に、は時に有効な手段でしょうが、少しでも相手との人間関係、信頼関係を作るための手間は、無駄な時間でも、不必要な工作でもありません。

回り道に思えても、ちょっとした、当たり障りのない会話が、関係性を良くするのであり、その後の話をスムーズにするのであり、

不必要な心理的障壁を取り去る事になるのであり、教えを聴き、受け入れる心理的備えとなるのです。

パウロは、エパフラスから、或いは、他の伝道者たちから伝え聞いたコロサイの教会の人たちの、成長し、実を結ぶ歩みを聞いて、喜んだ事だけではなく、神への感謝と祈りを継続している事を伝えます。

【本論】

新改訳2017版 1:9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。

パウロとコロサイの教会との関係は、コリントの教会などとは比較にならないほど、希薄な関係だったのではないでしょうか。

否、パウロが、コロサイの教会に手紙を出すのは、これが初めてだったのかも知れません。

しかし、パウロにとって、関心の度合いは親密性でも、期間でもなく、御子、主イエス様を頭とする関係性であり、この関係性に勝る関係性はなく、行った事もない教会のために、会った事もない人たちのために祈るのは、パウロにとって、当たり前な事、当然な事、否、パウロにとって、コロサイの教会のために祈るのは、義務でも責務でもなく、内から湧き上がる、御子、主イエス様に対する信頼の故であり、祈らずにはいられない、感謝せずにはいられない事なのです。

誰からの要請でもなく、コロサイの教会が必要としているからでも、宣教の拠点になるとか、伝道の核になるとかなど、将来のための布石であるなど、政治的な思惑からでもないのです。

コロサイの教会のために祈るのは、パウロに与えられた使命でもなく、唯々、御子、主イエス様が愛される教会だから、御子、主イエス様が愛される人たちだから、祈らずにはいられないのです。

執り成しの祈りの原点は、これにあります。

知人だから、知り合いだから祈るのではありません。

見ず知らずの教会と、そこに集う人たちのために祈るのです。

パウロは何を「絶えず」、「祈り求めて」いたのでしょうか。

パウロは「どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。」と祈ります。

重要なのは「あらゆる霊的な知恵」と、「あらゆる霊的な理解力」によって、「神のみこころについての知識に満たされ」る事です。

神のみこころについての知識」は、この世の知恵、神秘主義や、グノーシス主義、ギリシャ哲学、などなど、当時の知識人たちが、高度に発展させた特別の知識や学問を習得する事で得る事は出来ません。

また、物事を明確に分析し、事柄の本質を決定するために必要なのは、この世で培った経験や体験、教えを基にした理解力ではありません。

これは、学校教育や知識の習得を否定するものではありません。

神のみこころ」の事は、「霊的な」「知恵と理解力」とで取り組まなければならないと云う事なのです。

健全な神知識と、健全な神理解は、唯一真の神様を恐れる事と、神と共に歩む事がベースになっている事でしか得られません。

唯一真の神様を恐れる事と、神と共に歩む事を抜いた、知識、知恵、理解は、自分が中心であり、単なる知識であり、知恵であり、主観的な理解でしかなく、信仰生活は、聖書通読や礼拝、奉仕などは、義務的になり、形式主義に陥り、喜びもなく、感謝もなく、になってしまいましょう。

神のみこころについての知識」は、唯一真の神様を恐れる事と、神と共に歩む事とが伴ってこそ、身に付くのであり、知識偏重の弊害に陥らないための秘訣、と云えるでしょう。

この実践があってこそ、この体験を通してこそ、「神のみこころ」を理解出来るのであり、苦しみや悲しみを、「神のみこころ」として理解し、受け止める事が出来るのであり、理不尽な出来事や憤りを感じる出来事にも、唯一真の神様の存在と、神の主権を認める事が出来るのです。

せっかくキリスト教信者になっても、続かなかったり、挫折したり、離脱したり、棄教したりするのは、また、喜びや感謝が少なく、迷いや恐れが多いのは、「霊的な」「知恵と理解力」が足りないから、「神のみこころについての知識」が身に付いていないから、が原因なのではないでしょうか。

その意味で、「霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされる」事は、信仰生活に、霊的成長に必要不可欠なのです。

一日の始まりに祈る習慣と、聖書の継続的通読とは、大きな助けになる事でしょう。

1:10 また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。

主にふさわしく歩み」とは、「主に喜ばれ」る歩みであり、結果として「実を結び」、「成長」する事です。

あらゆる点」であり、教会生活とこの世の生活と分けた考え方、生き方ではありません。

教会ではキリスト者らしく敬虔に、模範的に。

しかし、社会では法律を犯さなければ、多少の事は目を瞑って、清濁あわせ飲む、

家庭や職場では権威主義的、専横的では、「主にふさわしく歩み」とは言えないでしょう。

あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされ」た信仰生活は、御子、主イエス様の足跡に従う歩みであり、二元的生き方、建前と本音を使い分ける生き方を戒め、この世の道徳、或いは、聖書の字義的理解と適応、律法的になってしまう危険や誘惑に陥らない秘訣です。

あらゆる点で主に喜ばれ」る事が、重要であり、人を喜ばせるためでも、自分を喜ばせるためでも、自己実現のためでもありません。

あらゆる良いわざ」は、この世の一般的な基準に従って正しい事を行うに留まらず、御子、主イエス様の行いを絶対的な基準として、それに倣う行いです。

実を結」ぶ事が期待されますが、何かの成果を求めているのではありません。

目に見える、外に現われた結果ではなく、御子、主イエス様がご覧になられる隠れた実であり、内的成長と、内的成長が行動となり、考え方となって現われる事が期待されているのです。

それは、雰囲気が変わります。

周囲に影響を与えます。

教会の実は、教勢の増加でもなく、新教会堂建設でもなく、記念誌発行でもなく、一人一人が、御子、主イエス様に似た者となる事なのです。

1:11 神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

2017版では「支配」と訳されていますが、新共同訳では「力」、口語訳では「勢い」、第三版では「権能」と訳されています。

教会は、特定の誰かが支配するところではありません。

唯一真の神様がご支配されるところと云うよりも、唯一真の神様が臨在されるところであり、唯一真の神様と同じ空間に居合わせ、息吹を感じ、時を共有し、共に過ごし、身を委ねる場なのです。

昨今、オンライン礼拝を取り入れている教会が増えつつありますが、オンライン礼拝に切り替えてしまい、対面の礼拝を見合わせるのは問題です。

礼拝は対面が基本であり、それは礼拝が、信徒たちと共に、唯一真の神様と同じ空間に居合わせ、息吹を感じ、時を共有し、共に過ごし、身を委ねる場だからです。

唯一真の神様と同じ空間に居合わせ、息吹を感じ、時を共有し、共に過ごし、身を委ねるからこそ、全能の神の力により「強くされ」るのですが、この「強くされ」は、継続や持続を意味する現在分詞形であり、「強くされ続ける」のであり、故に「どんなことにも忍耐し、寛容でいられ」るのです。

忍耐」は、単に、患難辛苦が過ぎ去るのを待つ忍耐ではなく、眼前に広がる、決して順風ではない信仰の道を走り続ける、走り抜く資質の事であり、「寛容」は、自分に向って為された挑発や敵対行為に対して、ことばによると、行為によるとに関わらず、一切の報復をせず、それらの行為に対して忍耐するのみならず、善を以って応じる資質の事です。

この「忍耐、寛容」は、唯一真の神様と同じ空間に居合わせ、息吹を感じ、時を共有し、共に過ごし、身を委ねてこそ、得られる資質です。

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ続ける」ので、信仰生活の出発から、完成まで、「忍耐、寛容」の歩みをさせていただけるのです。

1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

聖徒の相続分」とは、将来与えられるモノであり、今は見る事は出来ませんが、御子、主イエス様が再臨される時に与えられる「御国」です。

光の中にある」「御国」です。

キリスト者は、この地上にではなく、唯一真の神様が臨在される御国を相続するのであり、「相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった」、「光の中にある」「御父に、喜びをもって感謝をささげること」こそ、キリスト者の務めなのです。

そもそもは、唯一真の神様との約束を破り、神の園から追い出された身であり、一切の権利を喪失した身ですが、御子、主イエス様の犠牲、贖いにより、「相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった」のです。

剥奪された資格を、憐れみで与えられたのであり、決して獲得したのではありません。

主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長」すると、剥奪された資格が戻される、与えられるのでは、決してありません。

何の行いや功がなくても、剥奪された資格を、憐れみで与えられるのです。

だから「光の中にある」「御父に、喜びをもって感謝をささげる」のです、祈るのです。

この世での信仰生活に伴う、あらゆる患難辛苦に対しての解消や解決、解放を祈るのも祈りですが、「相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった」事に対して、もっともっと多くの時間と労力を割いて、「御父に、喜びをもって感謝をささげること」がキリスト者の務めなのです。

義務ではなく、使命でもなく、内から溢れる「喜びをもって感謝をささげること」が、キリスト者の自由であり、存在理由なのです。

【適応】

私たち罪人に対する、唯一真の神様のご計画、御旨、行為は、恩恵の一語に尽き、

恩恵の源である神様に対する私たち罪人の応答は、感謝の一語に尽きざるを得ません。

多くのものを献げても、神様のものを神様にお返ししたに過ぎず、多くの犠牲を払っても、御子、主イエス様の犠牲に勝るものはありません。

恩恵に対する感謝を、義務でもなく、責任でもなく、「喜びをもって」、慈愛溢れる神様に献げるのです。

自己中心の価値観からの、主観的な祈り、患難辛苦からの解放、問題解決の祈りではなく、唯一真の神様のご支配の中に入れられ、自己中心の価値観から解放された事への感謝の祈りであり、神様の御こころに、己を従わせる祈りを献げる者となるために、祈るのです。

また、パウロのように、見ず知らずのコロサイの教会の人たちのために、絶えず、祈り求めるのであり、あらゆる隣人に対して、敵対する人たちのためにも、絶えず、祈り求めるのです。

9節「あなたがたが・・・神のみこころについての知識に満たされ」るように、10節「主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長」するように、11節「あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられ」るように、12節「御父に、喜びをもって感謝をささげることができ」る者とされるように、執り成し祈るのです。

否、特権、恵みとして祈る者とされているのであり、この権利を行使する事が感謝となり、更なる祈りに繋がり、えもいわれぬ喜び、溢れる感謝に繋がるのです。

他者のために祈る事は、祈り手が増える事であり、更に祈りが広がっていくのであり、祈りが祈りを呼び、祈りが祈り手を起こし、唯一真の神様への感謝が溢れ、神の国を地上で味わう事になるのです。

真の神様を知らない人たちに、唯一真の神様の存在をお知らせするのが、キリスト者の役目です。

その役目のためにも、祈り手とされている恵み、特権を感謝し、日々、祈る者として歩んで行こうではありませんか。

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                                       2022-2-27礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙1章13節~20節

説教題:「御子による、御子のための和解

【導入】

パウロはコロサイの教会に異端思想が入り込み、福音の純正さと、教会の平和を蝕みつつあることを伝え聞きましたが、コロサイの教会の人たちは、異端思想に惑わされ易い、愚かな人たちであった訳ではありません。

多少、人の話しを鵜呑みにし易く、信じ易い、お人好しの部分があったかもしれませんが、熱心であり、一途な面があったのではないでしょうか。

しかし、冷静さや慎重さを欠いた熱心や一途は、間違った方向に進み易く、走り過ぎてしまい易い面があるのではないでしょうか。

コロサイの教会の人たちは、熱心ではありましたが、偽教師の教えを吟味する事なく、聖書に照らし合わせる事もせず、受け入れ、取り入れてしまったのでしょう。

そこで、パウロは、御子、主イエス様に関する正確な知識を教えるべく、この手紙を書き送った訳なのです。

不正確な知識では、偽りの教えの影響を受けるのは当然です。

正確な知識こそ、偽りの教えに対抗するために、必要不可欠なものなのです。

私たちも、今一度、否、繰り返し、御子、主イエス様に付いての知識が、正しいものであるかを確認して行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

御父」は、唯一真の神様の事であり、「御子」は、唯一真の神の御子、主イエス様の事です。

コロサイ地方も、ギリシャ神話やローマ神話の影響下にあり、ギリシャ神話の主神たる「ゼウス」を、ゼウスは全知全能の神であり、オリンポスの神々の支配者であり、ゼウスの子として「アポローン、アルテミス、ヘルメース・・・」などを思い浮かべたのではないでしょうか。

パウロは、常に偽りの教えを意識し、ギリシャ神話などの神々を連想しないように、誤解を招かないように配慮しながら、唯一真の神様、唯一真の神の御子を意識して、御子の神性と先在性を強調し、創造の業における御子の働きと、御子が被造世界の支配者である事を明確に説明します。

かつては、「暗闇の力」、即ち、悪霊、サタンに代表される、御子、主イエス様に敵対する勢力の支配の中にいた「私たち」ですが、「暗闇の力から救い出」され、12節で語られているように、「光の中にある」のであり、御子、主イエス様再臨の時に、「愛する御子のご支配の中に」、御子、主イエス様を中心とした、愛と聖さと光の満ち満ちた世界、新しい世界、新しい王国の中に移されるのです。

パウロは、「暗闇の力」と「愛する御子のご支配」の対比を明確にしますが、それは、コロサイの教会に侵入した偽教師たちが、「霊と肉」の二元論に並行して、「光と暗闇」などの言葉を用いて、人々の関心を集める教えを説いていたからではないか、それに対抗する意味ではないかと思われます。

続けてパウロは「移し」の意味について語ります。

1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

移すとは、単純な移動の意味ではなく、また、救出や解放の意味でもありません。

キリスト者にとって重要な意味を持つ根本の教えであり、「罪と死」から救出、解放され、「贖いと赦し、命」を得る、と云う事です。

この、得るのもが如何に大きいか、大事かを認識しなければなりません。

古代世界において、戦勝国は敗戦国の人たちを捕らえて、他の国へと強制移動させました。

北イスラエル王国の人たちは、捕囚の民としてアッシリアに連れて行かれ、南ユダ王国の人たちは、捕囚の民としてバビロンに移住させられました。

失うものは非常に大きく、得るものは極めて少ない、苛酷な移動ですが、御子、主イエス様にある移動は、「罪と死」を捨てて、「義と命」を得るのです。

罪の赦し」は、私の過去、現在、将来の、全ての、どんなに大きな罪にも適応され、全ての刑罰と罪責の清算が済んでいる事を意味しているのです。

しかも、私は何の働きも、犠牲も、一切ないにも関わらずなのです。

御子、主イエス様は、ご自身を犠牲として、悪霊、サタンとの戦いに勝ち、悪霊、サタンの支配下にあった人たちを、愛と聖さと光の満ち満ちた世界、新しい世界、新しい王国の中に移し置いて下さったのです。

それが「移し」の意味です。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

御子」は「見えない神のかたち」であると、宣言しますが、「かたち」の意味するところは、模倣や類似の類の意味ではありません。

本質的に、実質的に似た者、同等、同質である事の宣言です。

人が、神のかたちに似せて造られたのとは、全く違います。

人が、あくまで神の似姿に創造された存在であるのに対して、「御子」は、万物の創造に先立って、「神のかたち」を有しておられたのであり、被造物ではなく、創造者なのであり、神なのです。

1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。

御子」は創造の業の主体であり、万物の創造者、あらゆる法則、摂理、原理、制度の創造者なのです。

御子」は如何なる被造物とも区別され、如何なる被造物に先立ち、如何なる被造物に勝り、如何なる被造物の上に臨在されるお方である事が、明確に宣言されます。

1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

全ての被造物は、「御子」によって造られ、「御子」のために造られ、「御子」によって「存在し」、「御子」によって保持されているのです。

御子にあって成り立っています」の意味は、「御子」によって造られた被造物は、その造られた目的の通りに存在し続け、被造物全体との関係でも、造られた目的に向かって役立てられつつ、存続し続ける、の意味です。

御子」と無関係に存在するものはなく、「御子」と関わりなく存在し続ける事もないのです。

1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。

教会」は「御子」の「からだ」であり、「御子」は「教会」の「かしら」なのです。これは、非常に重要な教えです。

教会」を軽んじる事は、「御子」を軽んじる事であり、「御子」を「かしら」としない「教会」は、似非である事を宣言します。

人が中心になったり、人が崇められたり、人が決定権を持つのならば、そこは御子、主イエス様の教会ではありません。

人が虐げられ、人が差別され、特定の人が重んじられ、特定の人が軽んじられるならば、そこは御子、主イエス様の教会ではありません。

教会」は、「かしら」である「御子」から、絶えず霊的な力の供給を受け、存続し続ける「からだ」、有機体、人の集合体なのです。

御子」は「教会」を指導する「頭脳」であり、「御子」は「教会」を統治、支配する「意思」なのですから、「教会」で語られる御ことばと、「教会」の働きの全ては、一つ一つ「御子」に指導され、統治され、支配されなければならないのです。

御子は初めであり」は、15節で語っている通りです。

死者の中から最初に生まれた方です」は、御子、主イエス様の十字架の死と、墓からの甦りの事実です。

寡婦の息子、ラザロ、会堂管理人の娘、百人隊長のしもべ、なども生き返りましたが、何れも、暫く後に死んでおります。

しかし、御子、主イエス様は、甦り、天に昇られたのです。

すべてのことにおいて第一の者となられました」は、この世の創造においての先在性と、真の意味で甦り、天に昇られた事、霊的世界、新しい世界における、両方の意味で、第一号となられた事です。

コロサイの偽教師の教えは、御子、主イエス様の先在性の否定であり、イエス様は偉大な預言者ではあるかもしれないが、甦りや昇天を否定するものであり、パウロはこの偽教師の偽の教えを完全に否定するのです。

1:19 なぜなら神は、ご自身の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、

ご自身の満ち満ちたもの」とは、唯一真の神様の本質である、「愛」であり、「愛」を「すべて」、余すところなく、完全な形で、「御子のうちに」、主イエス様に「宿らせ」たと宣言するのです。

見る事の出来ない、唯一真の神様を、見える形にしたのが、御子、主イエス様であり、御子、主イエス様を通して、唯一真の神様の愛を世に現した、示したのです。

愛に満ち満ちているからこそ、御子、主イエス様は、「和解」と云う大事を達成する事が出来たのです。

1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

御子、主イエス様の「和解」の業は、唯一真の神様と人間との間に存在する裂け目、亀裂を修復し、行き来を、交わりを可能にするのです。

御子、主イエス様の「和解」の業は、唯一度で完全に目的を達成させる、完成させるのです。

御子、主イエス様の「和解」の業は、十字架の上で流された血によって為されたのです。

御子、主イエス様の「和解」の範囲は、人間との間だけに限られたものではなく、「万物」であり、地にあるものも、天にあるものをも、含む、包括的なものなのです。

これらを、一方的に、唯一真の神様の側からの働きかけだけで行なわれたのであり、誰の、どんな助けや指示、援助も必要なく、過不足なく、行なわれたのです。

偽教師の教えは、この世界は悪であり、救われる事も、癒される事も決してない、と考えていましたが、毀損してはいても、世界は唯一真の神様の作品であり、神の愛の対象であり、パウロは、「和解」は、被造物全てに及ぶと宣言するのです。

唯一真の神様と全ての被造物の和解であると共に、被造物相互の和解であり、調和と秩序の回復と云う、壮大なテーマなのです。

【適応】

唯一真の神様との「和解」と云う大事業は、人間の知恵を幾ら結集しても、お金を山と積んでも、世界中の財宝を集めても、生贄を延々と屠り続けようとも、どうにもなるものではありません。

自分自身を生贄として差し出したとしても、自分の罪咎に充当するのさえ、十分なものではありません。

人の罪咎は、その人自身の問題ではなくなっているのであり、他人にも、自然にも、世界にも悪しき影響を与えているのであり、それらに対して責任を負い、償う事など、到底出来る事ではないのです。

しかし、唯一真の神様の御子、主イエス様によるならば、和解」は可能なのです。

天地万物を造られたお方は、天地万物を御こころのままにする事が出来るお方であり、天地万物を遥かに凌駕するお方ですから、「和解」は可能なのです。

宣言しさえすれば完全に完了するのですが、しかし、それでは、唯一真の神様が決められた、「罪は生贄によって贖う」と云う定め、契約、約束を破る事になり、唯一真の神様に相応しい事ではないばかりか、一番やってはいけない事なのです。

罪咎を贖うには、生贄が絶対に必要であり、完全な贖いのためには、生贄自体に問題や瑕疵があってはならず、完全な生贄、即ち、罪咎のない、瑕疵の一切ない、善そのものを生贄としなければならないのです。

この世は、人間の犯した罪咎で毀損しており、完全な生贄は存在しません。

即ち、全人類、全世界を生贄としても、人間の犯した罪咎を贖う事は出来ないのです。

そこで、唯一真の神様は、「和解」のために、罪咎の一切ない、完全な生贄、掛け替えのない、ご自身を生贄として差し出し、人間の、自然の、世界の罪咎を贖ってくださったのです。

唯一真の神様のための、御子のための和解、人間を含む被造物全てとの和解は、人間の罪咎の贖いは、御子によらなければならないのであり、その贖いを、御子、主イエス様は凡そ2000年前、エルサレムのゴルゴダの丘の十字架で成し遂げてくださったのです。

現実世界を見るならば、贖いが完成しているとは、和解が成されているとは、到底納得出来る様相ではありませんが、間違いなく、贖いは成されたのであり、和解も成っているのです。

和解の完成を見るのは、御子、主イエス様再臨の時ですが、私たちは、間違いなく、和解の中に置かれているのであり、和解の中に生かされているのです。

和解の完成の日を待つ望みつつ、和解の中に置かれている自覚と、和解の福音を届ける働きを、生涯の働きとして取り組み、その役目のためにも祈り、歩んで行こうではありませんか。

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