2022-3-6礼拝

聖書箇所:サムエル記第一22章1節~23節

説教題:「神への信頼の回復」

【導入】窮地に立たされた時、人は考えられないような行動を、咄嗟に取ってしまう事がある様ですが、神様に信頼して生きて来たダビデもまた、窮地に立たされた時、人を頼り、食べ物を求め、武器を求めてしまい、更に敵国の王様に保護を求めるという大失態を犯してしまったのでした。ダビデは一介の兵士ではありません。ダビデという稀代の勇士の事を知らぬ者はなく、助けを求めたつもりが、アキシュの家来たちが騒ぎ出し、思わぬ方向に動き始めて、慌てて気が狂った振りをして、その場を凌ぐと言う屈辱を味わう事になってしまったのです。サウル王の狂気の姿を見慣れたダビデは、そのサウル王の真似をして急場を凌いだのでしょうが、その屈辱と自己嫌悪はダビデの心を打ちひしがせた事でしょう。しかし、ダビデは打ちひしがれる中から唯一真の神様を見上げ、讃美したのです。アビメレクの所を追い出され、逃れた時、我に返って歌ったのが詩34篇と言われています。ダビデの心境を見事に歌っていますので、少し長いのですが紹介しましょう。

34 ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。

34:1 私はあらゆるときに 主をほめたたえる。私の口には いつも主への賛美がある。

34:2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

34:3 私とともに主をほめよ。一つになって 御名をあがめよう。

34:4 私が主を求めると 主は答え すべての恐怖から 私を救い出してくださった。

34:5 主を仰ぎ見ると 彼らは輝いた。彼らの顔は辱められることがない。

34:6 この苦しむ者が呼ぶと 主は聞かれ すべての苦難から救ってくださった。

34:7 主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り 彼らを助け出される。

34:8味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ 主に身を避ける人は。

34:9主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には 乏しいことがないからだ。

34:10 若い獅子も乏しくなり 飢える。しかし 主を求める者は 良いものに何一つ欠けることがない。

34:11 来なさい。子たちよ 私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。

34:12 いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと 日数の多いことを愛する人は。

34:13 あなたの舌に悪口を言わせず 唇に欺きを語らせるな。

34:14 悪を離れて 善を行い 平和を求め それを追い続けよ。

34:15 主の目は 正しいひとたちの上にあり 主の耳は 彼らの叫びに傾けられる。

34:16 主の御顔は 悪をなす者どもに敵対し 主は彼らの記憶を地から消し去られる。

34:17 苦しむ者が叫ぶと 主は聞かれ そのすべての苦難から救い出してくださる。

34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ 霊の砕かれた者を救われる。

34:19 正しい人には苦しみが多い。しかし 主はそのすべてから救い出してくださる。

34:20 主は彼の骨をことごとく守り その一つさえ 折られることはない。

34:21 悪は悪しき者を殺し 正しい人を憎む者は責めを負う。

34:22 主は そのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける人は だれも責めを負わない。

信仰を回復し、立ち上がるダビデの心が描かれていて、本当に私たちを力付ける詩篇ですが、人は種を蒔けば刈り取りもせねばなりません。アキシュを頼った結果として、屈辱と自己嫌悪を味わいましたが、祭司アヒメレクを頼った結果として、助けてくれた祭司の一族に悲惨な結果を与えてしまう事となってしまうのでした。

【本論】22:1 ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。

このアドラムと云う場所については諸説ありますが、ダビデの故郷ベツレヘムの南西20km程の所ではないかと考えられています。サウルの住むギブアからは30km以上離れており、潜めていた息がやっと出来るようになった、と言うところでしょうか。この逃避行の時に、洞穴で歌ったと言われているのが詩56篇、詩57篇、詩142篇などであり、ここにも信仰を回復して行くダビデの姿を垣間見る事が出来ます。信仰的な立ち直りは、人を精神的にも肉体的にも、安定させ、強く雄々しくさせます。打ちひしがれた人の下には、誰も近づかないでしょうが、雄々しく立ち直ったダビデを頼って、人が集まって来ます。

彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。

22:2 そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。

ダビデの命を執拗に狙うサウル王ですから、ダビデの親族も安心は出来ません。

ダビデの兄弟や父の親族も、そしてサウル王の統治下で苦しみ、差別されている者やサウル王の部族、氏族ではないと言う事で冷遇されている者たちも集まって来て、一つの集団を組織します。ダビデは「困窮している者、負債のある者、不満のある者たち」つまり、苦しみ悲しむ者を受け入れたのであり、共にいたのであり、彼らに寄り添ってくれたのです。彼らはダビデの下で、どんなにか慰められた事でしょうか。比べてサウル王は、勇敢な者、力のある者を召し抱えましたが、それは実力主義、能力主義であり、隙を見せる事の出来ない、緊張の連続であり、決して居心地の良いものではなかったでしょう。しかし、ダビデの下には、傷ついた者、弱った者、悲しんでいる者が集まったのであり、そんな役に立たない者たちも受け入れられたのであり、憩う事が許されたのです。とは言え、年老いた両親を当てのない旅に同行させるのはしのびなく、

22:3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどのようなことをされるか分かるまで、どうか、父と母をあなたがたと一緒に住まわせてください。」

22:4 ダビデは両親をモアブの王の前に連れて来た。彼らは、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。

このモアブと言う土地は、ダビデの父エッサイの父オベデの母ルツの故郷であり、塩の海を隔てて80km以上離れており、避難先として、身を寄せるにうってつけの場所であったのです。両親の事を思うダビデの姿は、どんな状況でも、「あなたの父と母を敬え」との律法を守る姿であり、十字架の上で母の将来を案じヨハネに託すイエス様の姿を彷彿とさせるものです。両親の安全を確認したダビデに、神様は使命を与えられます。

22:5 預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」それで、ダビデはそこを出て、ハレテの森へやって来た。

モアブの地は、人間的に見れば安全であっても、イスラエル人に与えられてはいません。イスラエル人が留まっていてはならない地であり、ましてや、イスラエル王国を確立させると言う、重大な使命を帯びているダビデが、逃げ、隠れていて良い訳がありません。神様は預言者ガドを遣わし、ダビデに使命を思い出させます。ダビデの下に、困窮している者、虐げられた者、弱い者、悲しんでいる者がダビデを頼って集まる一方で、サウル王の下には、王様と家来と言う関係で、支配者としもべと言う関係で人が集められていました。

22:6 サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかったことを聞いた。サウルはギブアにある高台のタマリスクの木の下で、槍を手にして座っていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。

22:7 サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け、ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全員に畑やぶどう畑をくれたり、おまえたち全員を千人隊の長、百人隊の長にしたりするだろうか。

22:8 それなのに、おまえたちはみな私に謀反を企てている。息子がエッサイの子と契約を結んでも、だれも私の耳に入れない。おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めることをせず、今日のように、息子が私のしもべを私に逆らわせて、待ち伏せさせても、私の耳に入れない。」

ダビデが弱者、当てのない人々を受け入れ、寄り添って生きているのに、サウル王は家来を立たせ、槍を手にし、愚痴を溢しているのです。自分だけが座ると言うのは、家来を立たせると言うのは、上下関係を、支配関係を現している姿であり、槍を手にしている姿は、家来を信頼できない心を現しているのであり、威嚇であり、脅しであり、力による支配を現しています。そして、愚痴を溢し、褒賞をちらつかせ、サウル王と同族の優位性を誇示し、忠誠を誓わせようとするのです。このサウル王の愚痴、身勝手な言い分は、知恵ある者が聞くならば、良識ある者が聞くならば、根拠のないモノである事は明白です。7節の言葉ですが、土地は神様が与えて下さるものであって、モーセによって分割され、12の部族に与えられた土地であり、分け合わなければならないモノなのです。決して、回りの国々の様に、褒賞として、王様の所有物の中から下賜される物ではないのです。ベニヤミン部族の全員が千人隊の長に、百人隊の長になれる訳がなく、ダビデが、ヨナタンが、サウル王に対して如何に忠実、誠実であるかは、説明するまでもなく周知の事であったのです。サウル王の回りに立たされた家来たちは、サウル王の身勝手な言い分を、苦々しい思いで聞いていたのではないでしょうか。それが証拠に、追従する者もなく、暫しの沈黙が続く訳ですが、この重苦しい空気を破って、サウル王に取り入ろうとする者が現れます。

22:9 サウルの家来たちのそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。

22:10 アヒメレクは彼のために【主】に伺って、彼に食糧を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」

先日学んだ様に、ドエグは神様の計らいによってノブの地に、祭司アヒメレクの下に留められていたのであり、ダビデと祭司アヒメレクの会話の、遣り取りの一部始終を目撃していたのであり、正しく報告する事が、神様に期待されていたのではないでしょうか。しかし、ドエグは、その名前の意味は「気遣う、案じる、臆病な」なのですが、ダビデと祭司アヒメレクとの関係を気遣う事なく、ダビデとサウル王との関係の修復を案じる事なく、自分の利益を気遣い、家来の中での昇進を案じ、不正確な内容を恣意的に、サウル王の意に沿った形で上奏するのです。極めつけは「ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました」と言う件でしょう。武器を与える事は、最大の協力であり、同調者である事の証しでしょう。また、戦いの勝者は、敵の強さの象徴や、偉大さの象徴を奪い去り、我が物とします。その象徴は王冠であったり、煌びやかな装束であったり、そして剣などの武器であったりするのです。戦士はそれらの分捕り物を王様に献上し、王様の偉大さを称えるのであり、代りに王様は土地や別の分捕り物を下賜するのです。ペリシテ人の勇士であるゴリヤテの剣は、当然、サウル王に捧げられるべき物であると考えたでしょうし、それをダビデが奪い隠し、アヒメレクが与え、ダビデが我が物とした、と聞いては、二重三重に怒り、

22:11 王は人を遣わして、祭司アヒトブの子アヒメレクと、彼の父の家の者全員、すなわち、ノブにいる祭司たちを呼び寄せた。彼らはみな、王のところに来た。

22:12 サウルは言った。「聞け、アヒトブの子よ。」彼は答えた。「はい、王様。ここにおります。」

22:13 サウルは彼に言った。「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼のために神に伺い、そうして彼は今日のように私に逆らって待ち伏せしている。」

22:14 アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来の中に、ダビデほど忠実な者が、だれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛兵の長であり、あなたの家で重んじられているではありませんか。

22:15 私が彼のために神に伺うのは、今日に始まったことでしょうか。決して、そんなことはありません。王様。このしもべや、父の家の者全員に汚名を着せないでください。あなたのしもべは、この事件について、いっさい知らないのですから。」

アヒメレクは自分のなした行為の弁解ではなく、ダビデの忠実さ、ダビデの立場、ダビデの人間性を持ち出して、ダビデには謀反の徴候が一欠けらさえも無い事、ダビデの為に神に伺ったのも、ダビデにくみしたからではなく、サウル王よ、あなたの忠実な家来であるからこそ、以前から行なっていたことを行っただけなのであり、ダビデにも私にも謀反の思いは全く無いと力説し、告白するのです。しかし、自分の考えに凝り固まったサウル王は聞く耳を持ちません。

22:16 王は言った。「アヒメレク、おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全員もだ。」

22:17王は、そばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、【主】の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、ダビデが逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、【主】の祭司たちに手を下して討ちかかろうとはしなかった。

一方的な判決であり、情け容赦のない宣告です。祭司の一族を皆殺しにせよとの命令は余りのものなのではないでしょうか。殺されるのは、「咎を負った者に限る」と言うのがイスラエルの掟です。人は自分の咎によって殺され死ななければならないのであり、子が父の咎によって殺されてはならず、父が子の咎によって殺されてもならないのです。仮にアヒメレクに謀反の思いがあったとしても、その為に死ぬのはアヒメレクだけであって、一族に類が及んではならないのです。このイスラエルの掟を無視し、サウル王は祭司の一族の絶滅を命じます。それは非常に徹底したものであり、

22:18 王はドエグに言った。「おまえが行って祭司たちに討ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが行って、祭司たちに討ちかかった。その日彼は、亜麻布のエポデを着ていた人を八十五人殺した。

22:19 彼は祭司の町ノブを、男も女も、幼子も乳飲み子も、剣の刃で討った。牛もろばも羊も、剣の刃で。

冤罪で一族が、しかも祭司の一族が皆殺しにされると言うのは尋常の事ではありません。この、祭司に手を下すと言うのは、神様に対する敵対行為であり、神様を殺すと言う事です。祭司を呪ったりするのも、神様に対する呪いであり、決してしてはならない行為です。サウル王にとって、神様ですら支配出来ると考えたのであり、五月蝿い事を、意にそぐわない事を言う祭司など、居なくても良い、居ない方が都合が良いと考えたのでしょうか。目障りな祭司が居なくなれば、自由に出来ると考えるのは世の常でしょう。が、正しい指針を与えてくれる祭司が居なくて、どうして神様の御心を知る事が出来るでしょうか。正しい道を選ぶ事が出来るでしょうか。祭司が居ない、と言う事がどんなに大きな、取り返しのつかない不利益を生み出す事かの考えもなく、感情に任せて、祭司を殺してしまうのでした。その、神様を排除し、羅針盤のない船の様にさ迷う道を選んだサウル王に比べ、神様はダビデには道を指し示す祭司を遣わして下さったのです。

22:20 アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、一人逃れてダビデのところに逃げて来た。

22:21 エブヤタルはダビデに、サウルが【主】の祭司たちを殺したことを告げた。

22:22 ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、彼がきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全員の死を引き起こしたのだ。

何処の世界にも蝙蝠に例えられる人物が居るものです。機に敏で、優位な方に付いて、美味い汁を吸おうとする。しかし、美味いと思って吸った汁は、腹の中で苦くなり、吐き出さざるを得なくなるものです。例え不利であっても正直に、正しい事を選んでいく時、それは後で豊かな実を結ぶ事につながって行く事を忘れてはなりません。一方、そんな蝙蝠のような人と出会った時の対応ですが、この世の知恵では、憂いは取り除いておく事をよし、とするかも知れません。が、確実に裏切ると分かっていたとしても、絶対とは言い切れないのです。自分自身ですら、その時になって見ないと分からないものなのではないでしょうか。

私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知らせると思っていた」結果そのダビデの思い通りに「あなたの父の家の者全部の死を引き起こした」。でも、裏切るとの前提で人と接する生き方は、何とも寂しいものなのではないでしょうか。きっと知らせないで居てくれると、期待通りとは行かなくても、不利な事はしないで居てくれるだろうと希望的に、肯定的に考え、生きる事が出来るなら何と幸いなのではないでしょうか。勿論、長い人生、裏切られ、がっかりさせられる事の方が多いかも知れませんが、私たち自身が罪の性質を持ち、裏切る事の多い者なのであり、それなのに神様は、私たちが裏切らないと思って見て居て下さっているのであり、私たちもそれに倣った生き方が出来たなら幸いな人生となるのではないでしょうか。

22:23 私と一緒にいなさい。恐れることはない。私のいのちを狙う者は、あなたのいのちを狙う。しかし私と一緒にいれば、あなたは安全だ。」

ダビデは依然としてサウル王に命を狙われる身分ですが、この様に言い得たのは神様の守りを確信したからに違いありません。安全は万全の防備を構築する事で得られるのではなく、神様の下に身を置く事で得られるのです。厚い、頑丈な城壁に囲まれても、崩れない城壁はないのであり、裏切り者、内通者が出ない保障も確証もないのです。貧弱な城壁でも、役に立たないような武器しかなくても、神様が守り戦って下さり、強力なアッシリヤの軍隊でさえ主の使いが出て行って、185千人を打ち殺し、エルサレムを開放してくださるのです。

【適応】少年時代の、羊を飼っていた時の、ゴリヤテと戦った時の神様に対する信頼、信仰に立ち戻らされたダビデは、立ち直り、虐げられた人々を受け入れ、集めました。しかし、城壁に囲まれた安全地帯に入れられたのではありません。依然としての逃亡生活であり、しかも400人を引き連れての逃亡生活です。食べる物にも、寝る所にも苦慮したに違いありません。しかし、ダビデには神様の御心を求める事の出来る祭司が、エブヤタルが与えられたのであり、これこそが神様からの祝福であり、希望であったのです。この世的には満たされ、守られ、何不自由なく過ごせたとしても、神様の導きがなく、何処に行くのかが判らない事ほど不安な事はありません。しかし、不充分な物しかなくても、危険でも、不自由を強いられても、希望があるなら耐えられるのではないでしょうか。何時まで続くか判らない逃亡生活を送るダビデにとって、祭司エブヤタルが送られて来たのは、神様がダビデを見捨てていない証拠であり、守って下さっている明確な保証であり、それ故に、ダビデは洞穴での告白と共に、アヒメレク一族に発せられたサウル王の皆殺し命令は、ダビデにも当て嵌まる命令の中で、「私と一緒に居ればあなたは安全だ」と確信を持って告白、宣言する事が出来たのです。私たちには聖書が与えられており、聖霊が与えられていますから、不安に苛まれる事も、希望を失う事もありません。ここに居られる皆様が、この神様の約束、宣言を信じて、神様だけを頼って、信じて歩み続け、たとえ死の陰の谷を歩く事があっても、災いを恐れず、希望を持って平安に生きる事を願って止みません。

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                                       2022-3-13礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙1章21節から23節

説教題:「信仰に踏み留まりなさい」

【導入】

唯一真の神様の一方的な憐れみ、恵みによって、御旨、ご計画によって御子、主イエス様の贖いによって、神様と罪人である私たちとの和解が成立しました。

和解の完成は御子、主イエス様再臨の時まで待たなければなりませんが、断絶していた神様と私たちの関係が修復されたのであり、交流が再開したのです。

私たちは唯一真の神様の御旨を知る事が出来、私たちの祈りは神様に届けられるのです。

今までは私たちの罪が大きな妨げとなり、私たちは唯一真の神様の御旨を正しく知る事が出来ず、私たちの祈りは神様の御旨に適うものではなく、神様の喜ばれない自己中心な、我がままな祈りしか出来ませんでしたが、神様の御旨に適う祈りを、神様の栄光を現す祈りを献げる者へと変えられたのです。

しかし、私たちには罪の性質が残っており、うっかりすると知らず知らずのうちに唯一真の神様に相応しくない祈りを献げてしまっているかも知れません。

正しいと信じ、唯一真の神様、御子、主イエス様が喜ばれると思い込んで、神様、イエス様を悲しませてしまいかねないのが私たち罪人の生き方なのです。

それは罪を持つ身であり、仕方のない事なのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、

神から離れ」、神に対して「敵意を抱き」、「悪い行いの中にあ」ったとは、ずいぶん暗い、悲惨な生き様ですが、これは決して多くの偶像崇拝者、一部の無神論者、また極一部の攻撃的な異端者、原理主義者、少数の無法者、アウトローの生き方ではありません。

多くの人は神に熱心であり、信仰心に篤いと思い、神に近づきたいと思い、特別扱いして欲しいと思って善行に励み、功徳を積む事に熱心なのではないでしょうか。

神社仏閣などへの初詣の人出の数の多さは、その事を雄弁に物語っているのではないでしょうか。

しかし、パウロは多くの人の熱心は的外れであり、御利益主義であり、善行や功徳は結局自分のためでしかない、と見抜いており、全ての人が唯一真の「神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にあ」ると断言するのです。

唯一真の神様に対する意識的な反逆や罪悪行為を自らの喜びとするような輩(やから)は極々少数派でしょうが、神様に対して的外れな人たちは決して少なくはなく、間違った熱心ほど性質(たち)の悪い事はありません。

神様に忠誠を尽くしている、滅私奉公、大儀名分に殉ずる、と称して、非人道的行為、大量殺戮、無差別殺戮が行なわれるのです。

神様を利用して自己目的を達成しようとしているのであり、自己実現を図っているのです。

人の持つ罪の故に、罪が影響するのは、罪の持つ性質が見え隠れするのは仕方がない部分はあるのですが、罪の現われを許しては、甘んじて受け入れてはなりません。

1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。

かつては」、唯一真の「神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にあ」ったのは紛れもない事実ですが、神様は罪咎の一切ない御子、主イエス様を十字架に架け、肉を裂き、血を流して、人の罪の贖いを成し遂げてくださったのであり、「」、神と人とは「和解」したのです。

唯一真の神様が御介入くださった事により「和解」が成立し、祝福に満ちた生涯に入れられたのです。

和解」は御子、主イエス様が受肉され、人となられ、十字架で贖いの死を遂げられて成就したのです。

他の如何なる手段、方法によるのではありません。

唯一真の神様との「和解」の目的は罪人を「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者とし」、唯一真の神様の「御前に立たせるため」なのです。

法廷の席に被告として、罪人として「御前に立たせるため」なのではなく、「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者とし」て、「御前に立たせるため」なのです。

1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。

和解」の目的は罪人を「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者とし」て、唯一真の神様、御子、主イエス様との関係の回復、交わりを持つためであり、自己満足や自己実現のためであっては、また、怠慢の手立てとしてでもありませんから、「和解」して、無罪放免、何処へ行くも、何をするも自由、一切の束縛がなくなるのではありません。

唯一真の神様、御子、主イエス様と「和解」して、神様、主イエス様にお仕えするのです。

そのためには、「信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません」。

唯一真の神様に対する「信仰に土台を据え」、唯一真の神様に対する「信仰に・・・堅く立ち、・・・福音の望みから外れることなく」、「信仰にとどまり続けなければなりません」。

季節毎に渡り飛ぶ、渡り鳥のようであってはなりません。

神様の御許に、主イエス様の御許に留まり続けなければなりません。

失敗があって居心地が悪くなってしまっても、弱さ故に誘惑に負けてしまって居た溜まれなくなってしまっても、不都合があっても居辛くなっても、決して離れては、出て行ってはなりません。

失敗も、弱さも、不都合も、過去の失敗も、現在の弱さも、未来に犯す罪も、御子、主イエス様の十字架によって完全に贖われているのであり、訴追される事も、何かしらかの追徴が科せられる事も、「和解」が反故になる事もないのです。

この「福音」は「天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられて」いるのです。

この「和解」、即ち「福音」は特定の民族だけに、選ばれた者だけに伝えられる性質のものではありません。

天の下のすべての造られたもの」であり、万民に提供されているのであり、富む者にも、貧しい者にも、老いたる者にも、若く幼い者にも、健康な者にも、病気勝ちな者にも、罪を自覚し、罪に悩む者にも、罪を意識しない者にも、津々浦々にまで伝えられているのです。

勿論、受け取るか、拒否するかは自由ですが、届けられる事に於いては、一切の差はありません。

その届ける働き人として召されたのがパウロであり、テモテであり、使徒たちであり、数多の伝道者たち、宣教師たちなのです。

【適応】

和解」、即ち「福音」は「天の下のすべての造られたもの」に届けられていますが、先ずは、受け取るためには「信仰にとどまり続けなければな」らず、そして、手放さないためにも「信仰にとどまり続けなければなりません」。

更に言うならば、「信仰」のみに「とどまり続けなければなりません」。

「信仰のみ」は大原則であり、鉄則です。

例外はありません。

ある人には課題が課せられたり、条件が付けられるということもありません。

しかしながら、「信仰のみ」は何となく心許なく、何かを付け加えたくなります。

一方的な恩寵のみでは申し訳ないから、何か人間の側でも犠牲を払わなければ、と考え勝ちですが、本当に「信仰のみ」であり、唯一真の神様のお約束に対する信仰のみ、御子、主イエス様の十字架の贖いに対する信仰のみなのです。

信仰に何かを付け加えたならば、例えば礼拝出席日数、奉仕の分量、頻度、質、献金の総額、犠牲の質、量、などなどを付け加えたならば、其々に基準を設けなければならず、数値化し、客観的な指標を設けなければならず、基準に対する条件を設定しなければならず、但し書き、例外規定、などなどを付加しなければならず、項目毎の比重なども、数値化させ、可視化させなければならなくなるのではないでしょうか。

数値化させ、可視化させる事は励みにはなりますが、信仰は数値化にも可視化にも馴染むものではありません。

数値化、可視化は比較するには適しているでしょうが、信仰は自分自身であっても比較するものではありませんし、ましてや他人と比較するものではありません。

唯一真の神様に、御子、主イエス様に対する信仰であり、信じるか、信じないか、だけなのです。

聖書は信仰によって歩む事の重要性を強く訴えています。

ヘブル人への手紙11章、2017451ページ、第三版438ページ、「11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

11:2 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。

11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。

11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。

11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていいたのです。

11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

11:13 これらの人たちはみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。

11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。

11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても語れば、時間が足りないでしょう。

11:33 彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

11:34 火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗送させました。

11:35 女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせていただきました。また、ほかの人たちは、もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けました。

11:36 また、ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、

11:37 また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。

11:38 この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。

11:39 これらの人たちはみな、その信仰によって賞賛されましたが、約束されたものを手にいれることはありませんでした。

11:40 神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

信仰に踏み留まる秘訣は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」です。

しかし、御子、主イエス様から目を離してしまう弱さを持っているのが、私たちなのです。

マタイの福音書1428節、201730ページ、第三版29ページ、「14:28 するとペテロが答えて「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」言った。

14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。

14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

14:31イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

信仰の道、歩みは順風満帆ではありません。

紆余曲折があり、もう駄目、と思える事もしばしばでしょう。

そんな時、人に頼りたくなり、何かに縋りたくなるでしょう。

ペテロのように、御子、主イエス様を目の前にしても、信仰が大きく揺らぐ事があるのです。

そんな時、間髪入れず、「主よ。助けてください」と叫ぶなら、たとえ、怯えて、声を出せなくても、竦んでしまって、助けを求められなくても、御子、主イエス様は「すぐに手を伸ばし、彼をつかんで」くださり、沈まないように、溺れないようにしてくださるのです。

私たちはこのお約束の中に置かれ、生かされているのです。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで

信仰に踏み留まり」続けようではありませんか。

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                                       2022-3-20礼拝

聖書箇所:サムエル記第一23章1節~14節

説教題:「当てのない逃亡」

【導入】

ロシアのウクライナ侵攻は、224日に始められ、間もなく1ヶ月になろうとしています。

1ヶ月、と一口に言ってしまうには、余りに過酷な状況であり、まだ停戦、和平交渉の足掛かりさえ見出せないような過酷な状況の中に置かれている多くの人々にとっては、長い日時であり、過去の話ではなく、現在も戦火の中に置かれているのであり、まだまだ先の見えない状況ではありますが、希望を失わないでいて欲しいと祈るばかりです。

人は過酷な状況に長く置かれていると希望を失い、やる気も失せ、自分の事も、人の事もどうでもよくなってしまうものです。

困っている人を見ても、自分だって大変なんだ、人の事など構ってなどいられない。

他人の心配よりも、自分の事で手一杯だ。

困難な時こそ他人を頼っちゃ駄目だよ、其々が頑張って行かなければ駄目だよと、したり顔で言う人が現れるのも仕方のない事かも知れません。

日本には「天は自ら助くる者を助すく」と言う言葉がありますが、これは何もしないで、人の援助ばかりを当てにしている人を戒めた言葉であり、戦地の人々は1ヶ月も頑張って来たのですから、「よく耐えて来ましたね。安心しなさい。後は私たちに任せて。これからは私たちが何とかするからね。充分頑張ってきたね」との言葉を掛けるのが公僕たる政治家の務めなのではないでしょうか。

政治家でなくても、頑張ってきた人に、苦しみに耐えてきた人に「頑張れ、しっかりしろ」は言ってはならない言葉であり、慰労の言葉こそが、苦しみを共感、共有する言葉こそが、当てのない避難生活をして来た人々に必要な言葉なのではないでしょうか。

さて、ダビデも、ダビデと共にいる人々も、当てのない逃亡生活を続けていたのであり、食べ物の調達にも、休む所を探すにも困難を極めた事でしょう。

更には、400人を引き連れての逃亡生活は、極めて目立つ集団であり、サウル王に知られないように、目立たないように、と相反する課題を背負っていたのであり、一人の逃亡生活とは比較にならないストレスとなったことでしょう。

しかし、ダビデはこの逃亡生活の中で、自分たちの窮乏生活からの脱却、安全な生活への渇望の中で、他者への配慮、援助と云う相反する課題を唯一真の神様から与えられ、一人の信仰者として、またイスラエルの王としての訓練の時を過ごすのです。

【本論】

新改訳2017版 23:1「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」と言って、ダビデに告げる者がいた。

このケイラとは、2017版には載っていないのですが、第三版の巻末の地図「12部族に分割されたカナン」の下の方、赤い字で「ユダ」と書かれた「ダ」の字の上の方にあります。

この時ダビデはサウル王の追跡を逃れて、ユダの地を転々としていたのであり、何処に居たのかを正確に示す事が出来ません。

それなのに人々は、ギブアに居るサウル王を頼らずに、逃亡中のダビデを探し出して、ダビデに援助を求めたのであり、これはイスラエルの人々が、イスラエルの実質的な王様が誰であると見ていたかの記録であると言う事が出来るのです。

名目では、建前ではサウルがイスラエルの王様でありましたが、実質はダビデがイスラエルの王様だったのであり、人々は本当の王様に助けを求めたのです。

誰でも頼られて悪い気はしないものですが、しかし、ダビデは逃亡の身です。

導入で「困っている人を見ても、自分だって大変なんだ、人の事など構ってなどいられない。他人の心配よりも、自分の事で手一杯だ」とお話ししたように、王様に追われる身の者が、王様に代って助けなければならないとは、普通考えないでしょう。

しかし、ダビデは唯一真の神様に選ばれ油を注がれた、実質的なイスラエルの王様です。

しかも、ダビデには祭司アヒメレクの子エブヤタルが付いているのであり、サウル王には、自ら招いた結果ではありますが、唯一真の神様の御心を知る手掛かりになる祭司を皆殺し、一掃してしまったのであり、それは唯一真の神様を排除してしまったのであり、

それは唯一真の神様がサウル王と共には居ない事、ダビデと共にいる事の目に見える確証です。

唯一真の神様が共にいる者は状況の如何によらず、神様に従わなければならないのであり、唯一真の神の民であるイスラエルが助けを求めて来たならば、応じなければならないのです。

23:2 ダビデは【主】に伺って言った。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」【主】はダビデに言われた。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」

23:3 ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」

このダビデの部下の反応こそ、誰もが陥り易い応答であり、説得力のある意見と言えるでしょう。

我々の現状をよくご覧下さい。

手助けをする余裕がない事ぐらい、考えるまでもないではありませんか。

先ずは我々の安全ですよ。

ペリシテ人は黙って打たれてはくれませんよ。

どんな反撃に合うか解からないし、ケイラとサウルの住むギブアは30kmそこそこですよ。サウル王が来ない保証なんかないんですよ…。

気持ちは解かるけど、何もしないのが最善策じゃないんですか…。

しかし、ダビデは、同族の苦しみを傍観する為に唯一真の神様に選ばれ、油を注がれた訳ではありません。

神様に召された者であるが故に、自分の状況、都合、考えを置いて、神様の御心を行なわなければならないのです。

そこで、御心を確認すべく、

23:4 ダビデはもう一度、【主】に伺った。すると【主】は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」

23:5 ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。

ケイラはユダ部族の町であり、ダビデと同族の人々が住む町ではありますが、唯一真の神様が「ケイラに下って行け」と仰ったから戦ったのであり、神様に従うダビデに神様は大勝利を与えて下さったのでした。

食料にこと欠いていたダビデ一行に、必要を充分与えて下さったのであり、それは唯一真の神様の言葉に従ったからである事を覚えておかなければなりません。

現状を見て行動を控えるのではなく、唯一真の神様の御心ならば、不利であっても、厳しい状況であっても、御心を選んで行く時、神様は大いなる祝福を与えて下さるのです。

信仰による行動こそ、有り余る祝福を頂く秘訣、と言えるでしょう。

23:6 アヒメレクの子エブヤタルは、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、エポデを携えていた。

「エポデ」と言うのは祭司の装束であり、胸にポケットがあり、そこに「ウリム・トンミム」と言う名前の「クジ」を入れ、そのクジによって神意を伺っていました。

唯一真の神様はある時には夢や幻によって、ある時には直接、また、ある時にはクジによって御心を示したのであり、「祭司がエポデを携えている」と言う事はどんなにかダビデをまた、一緒にいる民を励ました事でしょうか。

この様に唯一真の神様は見える形でもダビデとその一行に励ましを与えて下さったのです。

23:7 一方、ダビデがケイラに来たことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された。彼は扉とかんぬきのある町に入って、自分自身を閉じ込めてしまったのだから」と言った。

23:8 サウルは、ケイラへ下ってダビデとその部下を攻めて封じ込めるため、兵をみな召集した。

ダビデが唯一真の神様に伺い、神様の御心を行う姿に比べて、サウル王は神様のお名前を引き合いにはしていますが、自分勝手な思い込みであり、神様の御心を知ろう、従おうとの思いは露ほどにもない事は明白です。

何しろ、神様の御心を知る大切な手掛かりである祭司を皆殺しにしてしまったのですから。

そもそもサウルは信仰における従順に欠けていたのであり、サムエルを通して示された唯一真の神様の御心に従おうとはしなかったのであり、例え祭司が残されていても、その忠告も、進言も聞かなかったであろう事は想像に固くありません。

ダビデの動静を知ったサウル王は急遽討伐隊を組織し、ダビデ征伐に動き出し、その事は直ぐにダビデに伝わります。

23:9 ダビデは、サウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」

23:10 そしてダビデは言った。「イスラエルの神、【主】よ。しもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。

23:11 ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、しもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、【主】よ。どうか、しもべにお告げください。」【主】は言われた。「彼は下って来る。」

23:12 ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」【主】は言われた。「彼らは引き渡す。」

エポデのポケットに入っているウリムとトンミムは「イエス・ノー」の二者選択の道具です。

そこでダビデは、サウル王が下って来るか否か。

ケイラの人々はダビデを引き渡すか否か、を唯一真の神様に伺ったのであり、神様はダビデを導くべく、「イエス」の答えを与えたのでした。

ケイラは存亡の危機の中、ダビデに助けられたのではなかったでしょうか。

「義理人情」に篤い日本人でなくても、当然の感謝として、ダビデを匿い、保護するべきと考えるのが当然でしょう。

しかしケイラの人々はダビデを匿い保護する事を拒否したのですが、これはケイラの人々が感謝の気持ちのない冷たい人々だったのではなく、唯一真の神様の配慮であったと見るのが、聖書の読み方なのではないでしょうか。

ダビデを匿えば、それは美談にはなりましょうが、ケイラにも、ダビデ一行にも、サウル軍にも甚大な被害が出るのは明かです。

神様はケイラに、ダビデ一行とサウル軍を戦わせるためにケイラを救ったのではありません。

ダビデを守らせるためにケイラを救ったのでもありません。

ダビデがケイラに遣わされたのは、損得ではなく、見返りではなく、どんな状況でも唯一真の神様の御心に従う事を学ばせたのであり、城壁や援軍によって守られるのではなく、神様によって守られている事を学ばせる為であったのです。

そして、ケイラに頼るべきではない事を、唯一真の神様にのみ頼る事を徹底的に学ばせるための、ご計画なのです。

23:13 ダビデとその部下およそ六百人は立って、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラから逃れたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。

23:14 ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。

こうして唯一真の神様はケイラにも、ダビデ一行にも、サウル軍にも一人の死者も出さずに、当初の目的を果したのであり、ペリシテ軍には甚大な被害を与え、ダビデ一行には有り余る食料を与える結果となったのです。

それもこれも、ダビデが自分の利害、損得、考えよりも、唯一真の神様に聞き従ったからであり、神様もまた、ダビデをサウルの手に渡す事なく守って下さったのです。

【適応】

ダビデ一行は食べ物にも、寝る所にも不自由していました。

また、ダビデ一行はよく訓練された軍隊ではなく、烏合の衆、不平不満の民の集まりです。

武器も武具も充分ではない処の話ではなく、足手まといになりかねない幼子や女性も居た事でしょう。

常識で見れば、ケイラを助けるなどとの選択は有り得ない事でしょう。

しかし、唯一真の神様の御心は、常識的な判断ではなく、同じ神の民の窮状を知って助ける事を願っていると言う事です。

そして実際に行動を起こす時、一人の被害者も出さず、ケイラを救い、ダビデ一行には豊富な食料を与えたと言う事なのです。

教会は其々に財政状況、教勢に違いがありますが、同じ神の教会であり、神の民です。

援助を求めている教会があるならば、協力を求めている人々がいるならば、見返りを考えずに、援助の手を、協力の手を差し出さなければなりません。

教会財政が逼迫していても、支援の手を断ってはならないのであり、消極的、内向きになってはならないのです。

将来のために蓄えておく事はこの世の知恵ではありますが、唯一真の神様の知恵ではありません。

厳しい財政の中でも惜しみなく支援するならば、神様はもっと多くのモノを与えて下さるでしょう。

唯一真の神様は多く献げる者に多くを与えて下さるのです。

神様の御心に教えに積極的に聴き従うならば、教勢は増えなくても、一人一人が成長し、一騎当千の信仰の勇士の集う教会としてくださるのです。

これが神様の経済であり、神様のご計画なのです。

神様の経済、ご計画にこの世の常識や経験は通用しません。

教会も献金も神様のモノであって、私たちのモノではありません。

大事にするのは大切ですが、大事にし過ぎて、神様の御心から外れた選択、使い方をしてはなりません。

教会も献金も、私たちをも、唯一真の神様の思い通りに、ご計画通りに自由にお使いください、と差し出す時、例えダビデの当てのない逃亡生活のような状況の中でも、必要が満たされ、守られ、導かれたように、教会は神の教会として立ち続けるのです。

決して敵の手、サタンの手に渡される事はありません。

ここに居られる皆様が、この唯一真の神様の約束、宣言を信じて、神様だけを頼って、信じて歩み続け、神様に惜しみなく献げ、神様に自由に使って頂く事を願って止みません。

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                                       2022-3-27礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙1章24節から29節

説教題:「現わされた奥義」

【導入】

多くの宗教では功徳を積む事、善い行いをするとか、たくさん献げるとか、難行苦行、修行を積むとかが奨励され、その多寡によって、救われたり、罪が減免されたりする、と考えます。

或いは、救われたら、罪が減免されたなら、相応の善い行いをしなければならない、と考えましょう。

しかし、パウロは言います。救いは、唯一真の神様のお約束を信じる信仰だけであり、神様のお約束は、御子、主イエス様の十字架の死を、私の罪の贖いであると信じる事だけなのです。

勿論、生き方が変わり、唯一真の神様の喜ばれる事をするのを、罪から離れる事を期待されますが、期待に反したからといって救いが取り上げられる事はありません。

失敗しても、罪を犯してしまっても、期待に反しても、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」「信仰に踏み留まり」続けさえするなら、救いから洩れる事はないのです。

そして、人間には、救いの手段として、唯一真の神様が提供してくださった、御子、主イエス様を信じる道しかないので、パウロたち使徒は、宣教者たちは、伝道者たちは、教職者たちは、日夜、御子、主イエス様を伝え続けているのです。

御子、主イエス様を伝える事は、唯一真の神様の御旨ですから、神様の保護や助けがあろう筈であり、妨害や迫害はなりを潜める筈ですが、しかし、保護や助け以上に、苦難や労苦があり、妨害や迫害を避けて通る事は出来ません。

【本論】

新改訳2017版 1:24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。

パウロは、「あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」と語りますが、単なる精神論や建前、人気取りの詭弁ではありません。

使徒の働き915節の預言の実現です。2017251ページ、第三版245ページ、「9:15しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。

9:16 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。

伝道、宣教の働きに、様々な苦しみが伴うからこそ、取り組んでいる働きが、唯一真の神様の召しである事の保障、確信になるのです。

あなたがたのために受ける苦しみを喜びとし」、「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言っていますが、この「苦しみ」は、決して贖罪の苦しみの意味ではありません。

キリストの苦しみの欠けたところ」とは、御子、主イエス様の贖罪の業だけでは不十分であるとか、欠けがあるとかの意味ではありません。

伝道、宣教の働きに伴う苦難、労苦であり、殉教などを暗示するものでもありません。

パウロは、否、全てのキリスト者は、「自分の身をもって」、「キリストのからだ、すなわち教会のために」、苦難や労苦を引き受けなければならないのです。

観念的、概念的な信仰や、キリスト教的な、ロマンティックな、雰囲気だけを味わうような、困難が起こると逃げ出すような信仰に陥り易い私たちに対する警告です。

御子、主イエス様は、贖いの業を全うされましたが、贖いの事実と、その結果生じる唯一真の神様との和解の使信は、全世界に宣べ伝えるべきものであり、その働きは、パウロに、伝道者たちに、教職者たちに、教会に、キリスト者たちに委ねられているのです。

パウロは、この働きのために、どれ程努力し、苦闘しているかを語っているのです。

1:25 私は神からゆだねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。

神からゆだねられた務め」とは、教会を建て、教会を形成していく働き、即ち、群れを纏め、組織的に伝道に取り組む群れとする働きであり、パウロは「私は・・・教会に仕える者となりました」と告白し、この働きを常に意識している事を告白します。

教会に仕える者」とは、「あなたがたのために受ける苦しみを喜びと」する者であり、「神からゆだねられた務め」に殉ずる者であり、全ての教職者たち、キリスト者たちの目指すところなのです。

教会に仕える者」とは、人を指図し、人を動かす者ではなく、「奥義」を伝えるために、自ら動き回り、苦労を率先して引き受ける者なのです。

教会、群れの使命は、「奥義」、即ち、御子、主イエス様の贖いの事実と、その結果生じる唯一真の神様との和解の使信を、全世界に宣べ伝えるのであり、建物としての教会の維持や、存続ではありません。

パウロや教職者たち、キリスト者たちが召されたのは、あなたがたに神のことばを、

1:26 すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。

パウロや教職者たちは、教会やキリスト者たちは、この務めを御子、主イエス様から受けているのです。

ここでパウロは「奥義」と云う言葉を使っていますが、多くの宗教には「奥義、秘義、密儀」などと呼ばれるものが存在します。

当時、地中海世界に伝わっていた密儀宗教では、教団への入会に際して、或いは、加持祈祷などに際して、特別な秘義、儀式が存在していたようです。

しかし、これらの「奥義」の出所は不明で、教団のエリートや支配者層など、極、一部の人だけに受け継がれ、二重三重のベールに包まれた秘密中の秘密だったのですが、パウロは、これらを意識し、これらとの違いを意識し、これらとの混同や誤解を明確にします。

パウロの伝える「奥義」は、人の考え出したものではなく、おどろおどろしい儀式などでもなく、秘密裏に伝承、継承されるものでもありません。

パウロの伝える「奥義」は、ある意味、単純、明快なもの、そして広く公開されているものです。

小さな子どもでも理解出来るものであり、特別な知識や、学歴がなくても理解出来るものです。

奥義」の出所は、唯一真の神様なのであり、神様の内に隠されているのであり、神様の御旨の時に、神の僕らに啓示されるものなのです。

ダニエル書218節、19節、20171508ページ、第三版1449ページ、「2:18 それは、ダニエルとその同僚たちがほかのバビロンの知者たちと一緒に滅ぼされることがないように、この秘密について天の神のあわれみを乞うためであった。

2:19 そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに明らかにされた。ダニエルは天の神をほめたたえた。

世の「奥義」は隠す性質のものですが、パウロの伝える「奥義」は「余すところなく伝える」ものあり、この務めを教会は、御子、主イエス様から受けているのです。

この務めの実践は、キリスト者個々人が行いますが、教会に委ねられた、教会固有の務めである事は覚えておかなければなりません。

奥義」を「余すところなく伝える」働きはキリスト者個々人の確信を必要としますが、教会に与えられた務めであるとの認識を持たなければならない働きなのです。

教会の務めとして取り組み、個々人が働き、「奥義」はユダヤ人のみならず、異邦人にも漏れなく伝えられ、ユダヤ人のみならず、異邦人にも、唯一真の神様に対する従順をもたらすに至るのです。

1:27この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

人間には測り知り難い、唯一真の神様の御思いの内に秘められた「奥義」、秘密ですが、世の「奥義」のように、秘密にしておく事が目的ではありません。

時至って、ユダヤ人たちのみならず、異邦人たちに啓示される神のご計画であり、御子、主イエス様を褒め称えるご計画なのです。

ローマ人への手紙159節、2017321ページ、第三版313ページ、「15:9 また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。

このご計画は、今、現実となったのです。

勿論、進展途上ではありますが、確実に、着実に、「奥義」は広がり続けているのであり、「奥義」を受け入れた者には、御子、主イエス様が内住し、終わりの時に、御子、主イエス様、再臨の時に、キリスト者が受ける栄光を、天の御国を受け継ぐ事を保証するのです。

1:28 私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。

御子、主イエス様の事は「奥義」ではありますが、「秘義、密儀」などの類ではなく、誰にでも公開されていて、誰もがその恩恵に与れるのです。

「秘義、密儀」などの類を伝授するためには、長い修行期間を必要とし、伝授するに相応しいかが問われます。

今風に言うならば、合格率、数%、と云ったところでしょうか。

多くの者が、伝授出来ずに脱落して行きますが、パウロたちの伝える「奥義」は、望めば誰でも知る事が出来、その恩恵に、漏れなく与る事が出来るのです。

合格率100%であり、言い方を代えるなら、伝え甲斐がある、と云う事でしょう。

勿論、伝える人の能力や、伝えられる人の能力も影響しますが、だからこそ、「あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教え」るのです。

この働きが無駄になる事はありません。

何故ならば、「キリストの力によって」いるからです。

1:29 このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

奥義」はユダヤ人のためだけのものでも、特定の人のためのものでもありません。

ローマ人への手紙1625節、2017325ページ、第三版316ページ、「16:25 私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって、

16:26永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる」のです。

パウロは、この日が来るのを待ち望みつつ、コロサイの人たちのみならず、世界中の人たちが、信仰の成長、成熟を遂げてくれる事を願い、宣教の働きに勤しんでいるのです。

御子、主イエス様に仕える道は、労苦と奮闘の道であり、実に多くの困難と試練が待ち受けています。

自分を見れば、余りに無力で小さな土の器に過ぎない事に愕然とし、大きな衝撃を受け、呆然とし、失望せざるを得ないでしょう。

その時こそ、自分にではなく、「自分のうちに力強く働くキリストの力」を覚えよ、とパウロは叫ぶのです。

ピリピ人への手紙412節、2017400ページ、第三版387ページ、「4:12 私は、貧しくあることも知っており、豊むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」。

これこそ、あらゆる境遇に対処する秘訣なのです。

【適応】

世の「奥義」なるものは、有益なものもあるにはあるでしょうが、万民に有益か否か、となるとはなはだ疑問です。

「現された奥義」との説教題は、奥義中の奥義、秘義中の秘義を説き明かす説教のような印象を与えてしまうかも知れませんが、奥義」は、ある意味、単純です。

以下は以前に語った事ですが、大事な事なので繰り返します。

奥義」とは、「隠された神の知恵」であり、「救いのご計画」であり、御子キリスト・イエス様の存在と、お働きの事です。

唯一真の神様の御子が人となって、この世に来られた。

しかも、私たち罪人の、罪の贖いのために、十字架上で死ぬために、この世に来られた。更に、墓に葬られ、三日目によみがえり、天に昇られた、永遠の命を与えるために、戻って来られる。

キリスト教の根本でありますが、この世は、これらの教えを全く受け付けません。

先ず、唯一真の神様と、神の御子キリスト・イエス様の存在自体を否定します。

自分たちに都合の良い神は肯定しますが、贖い、身代わりの死は、荒唐無稽な話として、受け入れません。

よみがえり、昇天、再臨は、神話の類として、聞き流します。

確かに前例がなく、類似の話はどれも出所不明で、信憑性に大きく欠けるからです。

しかし、前例がないからといって一笑に付し、片付けてしまって良いのでしょうか。

出所不明、著者不明の、類似の話として一纏めにし、同一視し、無視してしまって良いのでしょうか。

前例がないからこそ、複数の記者により、予め預言され、聖書に纏められているのであり、類似の話が多いからこそ、歴史上に実在した預言者、指導者によって書かれ、聖書に纏められているのです。

聖書は、「隠された神の知恵」であり、「神の奥義の書」と呼ぶ事が出来ます。

聖書には、「救いのご計画」が記され、御子キリスト・イエス様に付いてと、お働きが記されているのです。

巷に溢れている、所謂「奥義」の類は、有益なものもある一方で、毒にも薬にもならない、怪しげなものも多いようですが、それでも、「奥義」に至るのは、悟るのは、開眼するのは、厳しい訓練、修行、忍耐、患難辛苦にも耐えなければなりませんし、それこそ、気の遠くなるような歳月を必要としますが、聖書には、「奥義」、「隠された神の知恵」、「救いのご計画」、御子キリスト・イエス様の存在と、お働きの事がはっきりと、記されています。

訳の違い、版の違い、などで、微妙な違いは生じますが、「奥義」は、聖書で、簡単に、手にする事が出来るのです。

この世では、簡単に手に入るものは、偽物が多い。

しかし、聖書は、誰もが、何時でも手にする事が出来るのです。

しかし、ここに、唯一真の神様が、仕掛けを付けています。

即ち、聖書を唯一真の神のことばと、信じるか、否か、です。

勿論、「御子キリスト・イエス様の執り成しと、聖霊様の助け」が必要である事は確認するまでもありません。

人間には、自分の力で「奥義」を知る事が出来ず、唯一真の神様の憐れみ、恵みで、「奥義」に出会い、唯一真の神の御子キリスト・イエス様の贖いの働きと、聖霊の助けにより「奥義」として受け止められ、信じない者には、荒唐無稽の物語、として受け止められるのです。

信じる者は、永遠のいのち、永遠の憩い、に至り、信じない者は、無限の苦しみ、悲しみに至るのです。

奥義」は、地の果てにあるのではなく、海の底にあるのでもなく、意味不明の言葉で書かれているのでもありません。

身近にあり、今、手にしており、誰にでも理解出来る言葉で書かれています。

以上は以前に語った事の繰り返しでしたが、

付け加えたいのは、この「奥義」を自分の内に留めない事です。

世に「奥義」と呼ばれるものの類は、秘密にしておくものであり、秘密であればある程、神秘的であればある程、ありがたがり、「奥義」が結束を強め、組織に留まらせ、組織を永続させる力にもなるのでしょう。

しかし、キリスト教の「奥義」は、世に現す事が唯一真の神様の御旨であり、宣べ伝える事に価値を見出します。

世の「奥義」は、外部流出を防ぎ、秘密にしておく事に価値を見出しますが、

しかし、キリスト教の「奥義」は公開するものであり、積極的に伝え、広めるものです。

世の「奥義」は、世から隠すものですが、キリスト教の「奥義」は、世に現すものであり、内に留めてはならないのです。

パウロたちが「奥義」を世に広めたからこそ、私たちは「奥義」に出会い、受け入れ、救われたのです。

世に「奥義」を現す事は、キリスト者の使命ではありますが、大きな喜びに繋がる事なのです。

時が良くても悪くても、「奥義」を宣べ伝える事と、食べるにも飲むにも、何をするにも神の栄光のため、を意識して生きようではありませんか。

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