2022-4-3礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙2章1節から7節

説教題:「牧会的配慮」 

【導入】

パウロは今、ローマの獄中にあり、不自由な生活を強いられていました。

皇帝ネロの前で開かれる裁判を待つ身であり、死刑を宣告される可能性の高い情勢です。

皇帝ネロの気分次第で、明日にでも裁判が開かれ、即刻、死刑が執行されるかも知れない状況です。

自分の身の事で精一杯で、他への気配り、配慮など出来そうもない状況ですが、パウロは常に、関わる全ての教会への配慮を忘れず、キリスト者への配慮を忘れず、最優先させています。

キリスト教伝播期の、使徒、伝道者、宣教者、教職者の少なかった時期であり、パウロのみならず、教職者の誰もが、複数の教会の、多くのキリスト者の事を、日夜、片時も忘れず、寝食を忘れて牧会に取り組んでいたのです。

それこそ、休む暇もなかった事でしょうし、パウロは獄中の身であり、出来る事は限られていたでしょうが、パウロの書簡から、本当に必要な牧会的配慮が何かを、汲み取って行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 2:1 私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。

あなたがた」とはコロサイの教会の人たちであり、「そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たち」とは、コリント人への手紙第一1619節、2017版は353ページ、第三版は344ページ、「アジアの諸教会がよろしくと言っています」、と紹介しているような、エペソを中心とするアジア州の各地にある教会、ラオディキア、ヒエラポリスなどの教会や、そのキリスト者の人たちを指しているのでしょう。

他にも、大小様々な教会が、それこそ雨後の筍のように生まれていた事でしょうから、地方都市には、名も知られていない教会が数多くあった事でしょう。

パウロは、ご自分のいのちを捨てられた大牧者、御子、主イエス様の歩まれた道に従おうと決意し、ひたすら努めたのです。

その結果の「苦闘」は以下のようなものです。

コリント人への手紙第二1123節、2017版は370ページ、第三版は359ページ、「11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。

11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、

11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、

11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。

名もない教会に対する、そこに集うキリスト者に対する配慮は、並々ならぬものがありました。

諸教会と、そこに集うキリスト者のために、具体的な、現実的な、肉体的な苦しみがあり、更には、精神的な重責が圧し掛かり、「心づかい」と云う抽象的な重荷も背負っていたのです。

知ってほしい」は、泣き言ではなく、また、同情や励ましが欲しくて言っているのでもありません。

程度の違いこそあれ、使徒たち、宣教者たち、教職者たち共通の「苦闘」であり、「苦闘」に屈する事のないように、宣教の働きが頓挫しないように祈って欲しいとの依頼なのです。

更に、パウロは「苦闘」の目的を語ります。

2:2 私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。

苦闘」の目的一、「愛のうちに結び合わされ」るためです。

御子、主イエス様と「愛のうちに結び合わされ」る事です。

御子、主イエス様の愛を中心とした交わりであり、御子、主イエス様の愛を核とする結合、結束、一致です。

異端は分派的性格を持っており、仲間を分裂させる傾向を持っているのですが、

それに対抗し得るのは、御子、主イエス様と「愛のうちに結び合わされ」る事です。

御子、主イエス様の愛に基づく一致、団結、結合のみです。

この主イエス様と愛によって結び合わされていない時、教会は分裂し、消滅するでしょう。

体裁だけは整っていたとしても、それはもう教会ではありません。

苦闘」の目的二、「心に励ましを受け」るためです。

異端の教えにより、コロサイの教会のキリスト者たちのうちには、少なからず動揺と憂慮とがありましたが、パウロたちの「苦闘」により、彼らが教育され、「心に励ましを受け」、正しい信仰を取り戻し、再び信仰の確信に立ち、信仰の道を雄々しく進むのです。

苦闘」の目的三、「豊かな全き確信に達」するためです。

確信のない、知識だけの教えは、不毛であり、分派や分裂の元凶になりますが、対照的に、聖霊に照らされた知識や理解は、単なる意見とは区別され、唯一真の神様の真理に対する生きた確信となり、「神の奥義であるキリストを知るようになる」のです。

2:3 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。

当時、異端論者は、救われるためには、より高度で、複雑な一連の知識、覚醒、悟り、即ち、奥義が必要であるとし、

その奥義は、書き纏められていたそうですが、普通の人には隠されていました。

異端論者は、それをギリシャ語で「隠され」たもの、「アポクリュフォス」と呼んでいたそうです。

人の目から隠された奥義であり、普通の人を閉め出す特殊な知識、奥義です。

これに対して、パウロは、私たちの宣べ伝える知識、知恵の全ては御子、主イエス様の内に隠されてはいるが、実は、恵みによって、全ての場所にいる、全ての人たちに現されている、と宣言します。

キリスト教の「奥義」は、隠された「奥義」ではなく、啓示された、現された「奥義」なのです。

パウロたちは、この現された「奥義」を伝えるために「苦闘」しているのです。

2:4 私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするためです。

まことしやかな議論」とは、当時の法廷用語であり、説得力を持ったことばで、上手に論拠を揃えて正しいものにしてしまう、影響力を持ったことばで、会議を牛耳って、誤った方向に向けてしまう、の意味だそうです。

教会は、まことしやかな論述に、説得力のある人のことばに、影響力のある人のことばに、惑わされないように、教会の拠って立つところ、「キリストのうちに」「隠されている」「知恵と知識」を鮮明にし、忠実に従い、勝手な解釈をする事なく、しっかり堅持し続けなければならないのです。

教会の全ての基準は、「キリストのうちに」「隠されている」「知恵と知識」です。

影響力のある人のことばや、説得力のある人のことばに従うのではなく、聖書の教えに対する、愚直なまでの従順です。

聖書と云う基準があってこそ、教会の秩序、聖礼典の権威、秩序正しさが保たれるのであり、教会の秩序は、聖礼典は、御子、主イエス様の制定どおりに執行されなければなりません。

アレンジやアドリブ、勝手な変更、或いは、人間的な忖度や配慮は厳禁です。

2:5 私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、あなたがたの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。

パウロは、「霊において」コロサイの人たちと一つに結ばれている、と述べます。

何となく一緒にいて、適当に行動を共にしている事が大切なのではなく、

霊的な一致、思い、目的に対する、御子、主イエス様に対する目的の一致が大切なのです。

秩序」と「堅い」は、共に軍隊用語だそうであり、「秩序」は、一致と、よく規正された慣習と、すべての規律の遵守、を意味し、「堅い」は、強固さ、堅固さ、を意味するそうです。

軍隊では、上官の命令に従い、即、行動する事が求められます。

勝手な判断や、勝手な行動は許されません。

自身の命に関わるからであり、部隊全員の命に関わるからです。

キリスト者の使命は、御子、主イエス様に強固に結び付き、イエス様の命令に忠実に、徹底して従う事です。

そんなコロサイ教会のキリスト者たちの姿を見て、パウロは喜びます。

御子、主イエス様との繋がりが強固な教会は、試練や苦難にも揺るがされず、毅然と立ち続けるでしょう。

一方、人間的な繋がりの強い教会は、人間関係がそのまま教会に現われ、普段は居心地のよい教会として存在するでしょうが、試練や苦難にはひとたまりもなく瓦解するでしょう

2:6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。

受け入れたのです」は、単なる受容ではありません。

主キリスト・イエス」に関する言い伝えを「受け入れたので」はなく、「隠されている」「知恵と知識」、御子、主イエス様ご自身を「受け入れた」事を覚えておかなければなりません。

教会で、説教で、いい話を聞いた、で終わってはなりません。

主イエス様を受け入れ、唯一真の神様に対して悔い改め、神様に対する考え方が変わり、神様の前に生かされている、との自覚が与えられるのです。

キリストにあって歩みなさい」は、主イエス様に依り頼みつつ、その歩みから逸れる事なく、その道を歩み続けるように、の意味です。

キリスト者の歩みは、これが全てです。

同じ信仰の友は、入れ替わりますが、主イエス様は、何時までも同行してくださいます。

信仰の友には、その人のペースがありますが、主イエス様は、常に私のペースに合わせてくださいます。

遅れる事もなく、先に行ってしまう事もありません。

私が立ち止まれば、主イエス様も立ち止まられ、歩き出すまで何時までも待っていてくださいます。

生活の全領域、全行程に於いて、「キリストにあって歩みなさい」。

2:7 キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。

根ざし」は、御子、主イエス様との生命的結合と、主イエス様を生活の中心に据える事を意味しており、植物が、土の中に深く広く、がっしりと根を下ろし、土と一体となり、土の中の養分を吸い取り、成長するように、キリスト者は、「キリストのうちに」根を下ろし、一体となり、「キリストのうちに」ある養分を吸い取り、成長するのです。

過去にこの関係に入れられましたが、今もこの関係は続いており、将来に於いても続く事を意味します。

決して人間関係を手掛かりとして、成長するのではありません。

建てられ」は、堅固で、しっかりとした土台の上に家が建てられている事を意味しますが、キリスト者は、御子、主イエス様という土台の上に「建てられ」ているので、強く、永く立ち続ける事が出来るのです。

教えられたとおり」、キリスト者は、受け入れた教えと信仰を忘れる事なく、教えられた通りに、変質させる事なく、保持し続けなければなりません。

異端に惑わされないために、です。

キリスト者の生活は、信仰生活、家庭生活、社会生活は、人間的な力や関係性の上にではなく、御子、主イエス様を土台とし、主イエス様の力の上に、教えの上に据えられているので、信仰の嵐、患難辛苦に耐え続ける事が出来るのであり、立ち続ける事が出来るのです。

感謝」は健全な信仰生活の印です。

感謝」は謙虚な気持ちの中から生まれ、湧き上がってくるものです。

感謝」は、自分たちに、内に向きがちな思いを、唯一真の神様、御子、主イエス様に向けさせます。

不平不満を呟かず、悪口雑言を口にせず、無駄口を叩かず、常に讃美と感謝を、がキリスト者の務めなのではないでしょうか。

【適応】

さて、本日の説教題は「牧会的配慮」ですが、「配慮」の意味は人間的な意味、気配りとか、忖度とか、遠慮とか、同情の類ではありません。

キリスト者を、求道者を御子、主イエス様に「結び合わせる」ために、「キリストを知るようになるため」に、「惑わ」される事のないようにするために、「キリストに対する堅い信仰」を持つように、「キリストにあって歩」むように、「教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝」するように配慮するのです。

このために大事なのは、説教と聖書通読、デボーションなどであり、聖日、礼拝厳守などであり、聖日、礼拝厳守などのために配慮する事、支援する事、相談に乗る事でしょう。

先に、教会の全ての基準は、「キリストのうちに」「隠されている」「知恵と知識」です。

影響力のある人のことばや、説得力のある人のことばに従うのではなく、聖書の教えに対する、愚直なまでの従順です。

聖書と云う基準があってこそ、教会の秩序、聖礼典の権威、秩序正しさが保たれるのであり、教会の秩序は、聖礼典は、御子、主イエス様の制定どおりに執行されなければなりません。

アレンジやアドリブ、勝手な変更、或いは、人間的な忖度や配慮は厳禁です。とお話しました。

洗礼や聖餐の式次第は、聖書の教えの通りに、主イエス様の聖定の通りにしなければなりませんが、

人間が決めた事、例えば礼拝開始時間、礼拝回数、礼拝式次第・・・などは状況に合わせて変える事もあるでしょう。

大事なのは、聖書と云う基準、主イエス様の教えを正確に、忠実に語る事です。

黙示録2218節、2017519ページ、第三版503ページ、「22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。

22:19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。

聖書が何と言っているか、主イエス様が何と仰られているか、について語るに、遠慮したり、忖度したり、譲歩したり、妥協したり、有耶無耶にしたりしてはなりません。

基準、原則を語り、基準、原則の意味を語り、適応するための手助けをするのです。

群れの全体に配慮しつつ、信徒一人一人の実情にも配慮し、信徒の全体に注意を払い、信徒が迷わないように、はぐれないように、挫折しないように手助けをするのです。

牧会的配慮」は、べったり密着する事ではなく、寄り添う事でしょう。

包み込む事ではなく、見守る事でしょう。

近寄り過ぎず、離れ過ぎず、適度な距離を保つ事でしょう。

代行、代わってやるのではなく、補助、手助けする事でしょう。

罪を有耶無耶にするのではなく、罪である事を悟らせ、罪から離れるように諭す事でしょう。

この姿勢は、御子、主イエス様の姿勢であり、主イエス様は片時も離れる事なく、常に寄り添い、見守り、助け手を送ってくださり、

私たちが迷わないように、はぐれないように、挫折しないようにしてくださるのです。

この働きを教師は主イエス様から受けたのであり、教師に限らず、キリスト者の働きでもありましょう。

教会に、教会の人間関係に、人間的な温もりを求めるかもしれませんが、人間同士の結び付きを強めるのでもなく、教会に結び付けるのでもなく、御子、主イエス様に結び付けるのです。

主イエス様に結び付いているか否かが重要なのであり、そのために配慮し、関わるのです。

主イエス様と結び付いている事が何より大切であり、そのための配慮であり、働きかけなのです。

主イエス様と結び付いていてこそ、キリストの教会なのであり、そのための配慮なのです。

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聖書箇所:コロサイ人への手紙2章8節から10節

説教題:「あの空しい騙しごとの哲学に注意しなさい」

【導入】

パウロは今、ローマの獄中にあり、不自由な生活を強いられていましたが、ローマは政治の中心であり、交通の要衝であり、情報の集積地であり、文化の発信地でもありました。

その地の利を生かして、パウロは各地の情報を仕入れ、各地に手紙を書き送る事が出来たのであり、宣教の働きは、大いに前進した事でしょう。

旧来の方法に固執するのは得策ではありません。

本来の目的を忘れず、新しい方法を模索し、吟味しつつ利用するのが賢明な方法、と言えるのではないでしょうか。

現代、感染症の対策として、一時期は礼拝や集会の自粛、見合わせが主流でしたが、SNS、インターネットなどを介して、礼拝や集会が開かれるようになり、現在はその利便性により、多くの礼拝や集会が、SNS、インターネットなどを併用して開かれるようになりました。

しかし、SNS、インターネットなどを利用した礼拝や集会が主流になる訳では、取って代わる訳ではありません。

SNS、インターネットなどを利用した礼拝や集会に全く問題がない訳ではありません。

特に礼拝は対面が基本です。

礼拝は、唯一真の神様、御子、主イエス様の前に集まる事に意味があり、信徒同志が一堂に会し、交わる事に意味があるからです。

教会、礼拝、信仰生活に取り入れても問題がないもの、条件付なもの、取り入れてはならないもの、を吟味しなければなりません。

パウロの書簡から、教会、礼拝、信仰生活に必要なものが何かを、見て行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 2:8 あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。

パウロは、「哲学」、学問全般、一切合切(いっさいがっさい)を否定している訳ではありません。

また、知識や知恵を否定しているのでもありません。

学問や知識、知恵は有用であり、有益であり、農業、産業、医学などの発展に貢献し、生活を豊かにします。

宗教にも、大いに益をもたらします。

教義のない宗教は、何を信じているのかも定かではなく、拠って立つ根拠が不明確で、何の説明も出来ないあやふやなもの、曖昧模糊なもの、信じるに足りないものになってしまうでしょう。

神論、人間論、罪論、キリスト論、教会論などがある事により、説明が出来、共通の認識を持つ事が出来、確信を持って従えるのです。

ここでパウロが否定しているのは、「あの空しいだましごとの哲学」であり、「あの空しい」とは、真理を持たず、人を真に生かす力を持たない教えの事であり、「だましごと」とは、不毛さと虚偽性を、人を魅了する表現、様式、儀式をもってして糊塗し、人をたぶらかす教えの事です。

パウロは、「あの空しいだましごとの哲学」、即ち、人間の理性を判断の最高審判者の座に据えて、全ての事を解釈しようとする、この世の知恵や知識を否定しているのです。

信仰の要素としての知識や知恵は必要ですが、闇雲に従う事は少しも勧めてはいませんし、「あの空しいだましごとの哲学」の「捕らわれの身にならないように、注意しなさい」との警告を与えます。

注意しなさい」は、「絶え間なく見張りなさい」の意味であり、一人一人が「あの空しいだましごとの哲学」か否かを検証しなければならないのです。

使徒の働き1711節、2017270ページ、第三版263ページ、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

人の教え、意見を鵜呑み、丸呑みにするのは、反対に何でもかんでも否定するのも危険です。

良く調べ、聖書に照らし合わせて、取捨選択しなければなりません。

2:8b それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。

私たちの信仰の拠り所は、「キリストによるもの」にあります。

人間の言い伝え」、「この世のもろもろの霊によるもの」は、この世に属する知識や知恵であり、「キリストによるもの」、御子、主イエス様に基づく知識や知恵ではありませんが、「人間の言い伝え」に頼り、陥り易いのが人間なのです。

マルコの福音書75節、201779ページ、第三版78ページ、「7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」

7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は、口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

7:7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』

7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」」。

「昔の人たちの言い伝え」、「人間の命令」の全てが無意味だ、空しい、間違いだ、とは断定しません。

実体験に基づくものであり、経験から学んだことであり、有益なものも数多くありますが、「昔の人たちの言い伝え」、「人間の命令」が、「キリストによるもの」より優先されてはなりません。

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

神の満ち満ちたご性質」、唯一真の神様の「ご性質」は、人となられた御子、主イエス様、「キリストのうちに」「宿ってい」る、とパウロは断言します。

これは、異端の教えを強く意識した発言です。

異端の教えは、「(唯一真の神の)御子が、人となられる」、と云う事は、神と云う「ご性質」を離れた、特権を手放されたのであり、イエスは人であり、神ではない、と解釈しました。

これをケノーシス(・キリスト論)と言います。

また、グノーシス主義に立つ人たちは、唯一真の神と物、肉体などとの、純粋な結合は不可能であるとの前提に立って、(唯一真の神の)御子が人となられたのは、仮想的なものに過ぎない、イエスは人であり、神ではない、と主張したのです。

この異端の教えに対して、パウロは、イエス様は神だ、「神のご性質」が「満ち満ちた」お方だ、と反論するのです。

異端の教えは、密儀的な祭儀や、微に入り、細に入った戒律を守ったり、世界のあらゆる領域を支配する諸々の霊を礼拝する事によって、段階的に全ったき者へと上昇し、神の世界に達し得ると考えたのです。

パウロは、これらの考えを真っ向から否定します。

2:10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

あなたがた」キリスト者は、御子、主イエス様との神秘的な結合を通して、イエス様の救いに与り、イエス様に「満たされているのです」。

イエス様のいのち、義、聖、に与り、イエス様のいのち、義、聖、に満たされていると説くのです。

異端の教え、密儀的な祭儀や戒律を守ったり、諸々の霊を礼拝する事によって、諸々の霊に満たされるのでは、断じてありません。

キリストはすべての支配と権威のかしらです」。

御子、主イエス様は、比類なき権威を持つ、諸々の霊の、遥か上に座するお方です。

御子、主イエス様は、諸々の霊を制圧し、諸々の霊に対して絶対的支配権を有しておられるお方です。

決して諸々の霊と同列であったり、類似するお方ではないのです。

【適応】

哲学のみならず、学問全般は有益ですが、信仰の益になるか否かは甚だ疑問です。

否、信仰の益になるのは、コロサイ人への手紙23節、「2:3 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」であり、キリスト者の基準は、教会の基準は、「キリストのうちに」「隠されている」「知恵と知識」です。

これらは「聖書」に示されています。

哲学や学問一般を信仰生活、教会統治の基準とするのではなく、また、影響力のある人のことばや、説得力のある人のことばに従うのでもなく、聖書を基準とする事であり、聖書の教えに対する、愚直なまでの従順です。

聖書と云う教えに従ってこそ、信仰生活、教会の秩序、聖礼典の権威、正しさが保たれるのであり、教会の秩序は、聖礼典は、御子、主イエス様の制定どおりに執行されなければなりません。

パウロは、哲学や学問一般を否定しているのではなく、「あの空しいだましごとの哲学」に警戒しなければならない、との警告を与えているのです。

キリスト教と名乗っていても、聖書以外に基準とするものがあっては、それは正当なキリスト教ではありません。

人が権力や統治の頂点に立つなら、それもキリスト教ではありません。

一部の人の判断や決定であってはなりません。

誰もが、聖書の教えで判断し、決定しなければなりません。

あの空しいだましごとの哲学に・・・注意しなさい」は、哲学、学問一般に対する警告とともに、影響力のある人の教えや、説得力のある人の教えにも注意し、引き込まれないようにしなければなりません。

惑わしの手口は、非常に巧妙です。

近しい人が、信頼する人が、近付いてくるのです。

使徒の働き2030節、2017277ページ、第三版271ページ、「20:30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

聖書の勝手な解釈にも注意しなければなりません。

ペテロの手紙第二120節、2017474ページ、第三版461ページ、「1:20 ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

私的解釈は滅びを招く事だからです。

ペテロの手紙第二316節、2017477ページ、第三版464ページ、「3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。

3:17 ですから、愛する人たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。

3:18 私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。

霊的成長の秘訣は、「キリストにあって満たされ」る事であり、23節、「キリストのうちに」「隠されている」「知恵と知識」です。

「あの空しい騙しごとの哲学」に対抗する秘訣も、「キリストにあって満たされ」る事であり、「キリストのうちに」「隠されている」「知恵と知識」です。

主イエス様に満たされ、主イエス様と結び付いている事が何より大切であり、そのための知識であり知恵なのです。

主イエス様と結び付き、満たされるために必要なのは、この世の知識や知恵ではなく、聖書に記されている、「キリストのうちに」「隠されている」「知恵と知識」なのです。

御子、主イエス様は、パウロを通して「あの空しい騙しごとの哲学に注意しなさい」と、呼び掛けて下さると同時に、主イエス様が執り成して下さり、聖霊が助けて下さいます。

主イエス様は生きておられ、私たちと共に歩んでくださり、魂を救い、魂を養い、魂を成長させて下さるのです。

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                                       2022-4-17 イースター記念礼拝

聖書箇所:マルコの福音書16章1節から8節

説教題:「よみがえられた御子 主イエス様」

【導入】

日本での、人生最大のイベントと言って思い浮かぶのは結婚式、披露宴、そして葬式でしょうか。

結婚式、披露宴には両親、兄弟、親戚、会社の上司、同僚、友人知人、時には両親の関係者や土地の名士をも招く事もあるようであり、50人から100人、時には招き切れずに別の会を設けて、そこでも数十人に祝ってもらう事もあるようです。

それでも招待状でお招きするので、規模は人為的に決められる訳です。

一方、葬式は家族、親戚などの身内から、会社関係、ご近所関係、友人関係と幅広く、特別に招待状がある訳ではありませんから、何百人規模になる事も珍しくはありませんから、結婚式の比ではないかも知れません。

まあ、現役の方の葬儀は大規模に為らざるを得ませんが、リタイヤされた方の葬儀は、身内だけで簡素に…が主流となっているようです。

御子、主イエス様の時代の葬儀はどのようであったのでしょうか。

ルカの福音書712節に当時の葬儀の様子についての記述があります。

7:12 イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。

親戚だけの簡素な葬儀ではなく、「町の人々が大勢」付き添う葬儀であった事が解ります。寡婦の独り息子の葬儀ですから、同情する人々で、慰めようとする人々でごった返していた事が記録されている訳です。

もう一つ紹介しましょう。古くはヤコブの葬儀の様子が創世記507節から11節に記されています。全文を読むのは省略しますが、ヤコブの家族、一族郎党は勿論の事、エジプト王パロの家臣、長老、戦車や騎兵も伴う、荘厳な葬儀が執り行われたのです。

御子、主イエス様の時代の、結婚式の様子はヨハネの福音書21節から11節に記されています。これも全文を読むのは省略しますが、充分用意した「葡萄酒」が無くなる位に盛大なものであった事が解ります。

御子、主イエス様の時代の、ユダヤ人の結婚式、葬式は、コミュニティーで、地域で祝い、地域で悲しむものであり、盛大に行われたのであり、特別な事情でも無い限り、ひっそりとは行われなかったのです。

その、特別な事情が「罪人」の葬儀であり、更には呪われた刑である「十字架」に付けられた者の葬儀なのです。

刑死者の亡骸は放置されるが普通であり、墓に入れる事は、憚られました。

それでも、逃げ出した弟子に代わって、恐れ慄いて遠くから見守る事しか出来ない弱い女性たちに代わって、ピラトに遺体の引渡しを申し出る事の出来る立場にある、有力者アリマタヤのヨセフやニコデモが備えられ、簡素ではありましたが遺体の処理をし、参列者の居ない、取り急ぎの埋葬が行われたのでした。

遠くから見守るしかなかった女性たちですが、意を決して、更なる丁重な葬儀を行なうべく立ち上がった記録が161節以降に記されています。

【本論】

新改訳2017版 16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

説明するまでも無く、ご存知の事でしょうが、ユダヤの一日の終りは、現代の時間で言うと、夕方の6時であり、そこから新しい一日が始まるのです。

夕方の6時ですから季節にも因りましょうが、残照が辺りに漂っている時間帯です。

人々の往来も活発であり、商店は開いており、店仕舞いまでにはまだまだ時間があります。

勿論、安息日は商売をしてはなりませんが、金曜日の夕方6時に閉められていた店も、安息日が終わる土曜日の夕方の6時から開店し、人々の必要に応じてくれました。

丸一日が経過しているのですから、普段の日よりも混んでいたのではないでしょうか。

安息日が終わって、行動を起したのは頼りにはならないと思われていた女性たちでした。

御子、主イエス様の死から丸一日も経過しているのに、弟子の姿が見えないのは何とした事でしょうか。

恐ろしさや、嫌疑に巻き込まれるのを避けたためであるかも知れませんが、御子、主イエス様の死によって絶望感と挫折感に打ちひしがれ、何もする気が起こらなかったのではないでしょうか。

女性たちにしても、絶望感と挫折感は同じでしょう。

しかし、御子、主イエス様に何かをして差し上げたかったのでしょう。

ですが、御子、主イエス様の身体には没薬とアロエを混ぜ合わせたものがたっぷり塗られており、更に塗る必要はありません。

簡易的ではあったかも知れませんが、丁重に埋葬されているのであり、初めからやり直す必要もありません。

パレスチナの温暖な気候から考えても、傷だらけの身体が丸一昼夜を経過しているのですから、巻かれている布を取るのには相当の勇気と覚悟がいる事でしょう。

祭司、長老たちや、官憲に妨害されるかも知れません。

御子、主イエス様の信奉者として厳しい追及を受けるかも知れません。

しかし、御子、主イエス様に対する深い愛情が、それらの妨げを乗り越えさせ、行動に移したのであり、御子、主イエス様の本格的な埋葬のために、香油を買い求めさせたのです。

16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。

「週の初めの日」とは安息日の次ぎの日の事であり、女性たちが香油を購入した日と同じ日です。

香油と共に、御子、主イエス様の身体を拭う布や、水を汲む物、水、新しい布なども用意した事でしょうが、それらを持って、朝日が昇る前に、まだ辺りが薄暗い時に待ち合わせて、アリマタヤのヨセフ私有の墓地に横たわっている御子、主イエス様の下へと向ったのです。

ふと気付いたのは、墓の入り口を塞いでいる石の事でした。

16:3 彼女たちは、「だれが墓の入口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

墓は横穴式で、入り口は石で塞がれ、獣に中を荒されるのを防いでいましたが、簡単には動かせないように、非常に重い石で塞いであり、男性数人掛りで動かすものであり、女性の力ではびくともしません。

思案に暮れながら墓に到着すると、

16:4 ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。

マタイの福音書282節には、石が動かされた次第が記されています。

28:2 すると見よ。大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。

唯一真の神様は、神様に従う者を助けるのに躊躇も、延期もなされず、即座に、速やかに助け手を送られ、障害を取り除いてくださいます。

最適のタイミングで、且つ、必要をきっちり満たし、過不足はありません。

墓の石は、何時間も前から開けっ放しになっていたのではなく、女性たちが諦めて帰ってしまってから動いたのでもありません。

入れるか入れないかのような中途半端な開き方ではなく、問題なく入れるように開いていたのです。

困難や障害を想定し、その対策を考慮するのは問題ありませんが、不安に陥ったり、思い煩ってはなりません。

不安や思い煩いは何の解決にも繋がらず、心と骨とを蝕むだけです。

信仰を持って進む時、解決は既に与えられていると知るのではないでしょうか。

進まなければ、諦めてしまえば、障害が取り除かれている事を知り得ないのです。

女性たちの心配は唯一真の神様に届いており、見事に解決されており、重い石は、障害は女性たちの到着と同時に取り除かれたのです。

16:5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。

墓の入り口は前庭のようになっていましたが、少し低くなっており、狭いので、覗き込むには膝を付くような形にならなければならず、入るには腰を折り曲げ、かがみ込むようにして入らなければなりません。

真っ暗な墓の中に入り、顔を上げた所、青年が座っている姿が目に飛び込んで来ました。

非常に驚」くのは当然です。今、目の前で石が動いたのであり、直後に墓に入ったのですから、墓の中に誰も居るはずがありません。

驚愕するのは当然でしょう。

この青年の出で立ちは「真っ白な衣」でしたが、「真っ白な」は超自然的な存在である事と、地位の高さ、高貴、偉大さを現している表現です。

即ち、御使い、天使であり、相応しからぬ墓の中に、塞がれていた墓の中に出現したのです。

驚き、声も出ず、立ち竦む女性たちに向って、青年は声を掛けます。

16:6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。

16:7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」

ここにはキリスト教の根幹となる、重要な神学的教え、宣言が記されています。

一つ目は「あの方はよみがえられました」と言う宣言です。

復活の告知、宣言であり、キリスト教は復活のイエス様を信じる宗教なのです。

御子、主イエス様の死は、私たちの罪のための、身代わりの死であり、罪を贖うための死であり、死がなければ罪の赦しはあり得ないのです。

しかし、死んでお終いではありません。

続く御子、主イエス様の復活により、私たちに永遠の命が与えられるのであり、死と復活が重要なのです。

キリスト教は死者を崇める宗教、死者を祭る宗教ではありません。

死んだ御子、主イエス様の教えを奉じる宗教でもありません。

死んだ御子、主イエス様を懐かしんだり、慕い、憧れる宗教ではありません。

勿論、目には見えない御子、主イエス様を慕い、天国でお会い出来る事を憧れる部分がありますが、甦られた、生きておられる御子、主イエス様を慕い、憧れるのであり、復活が大前提でなければならないのです。

二つ目は「そこでお会いできます」と言う宣言です。

顕現の告知、宣言です。

「顕現」ちょっと難しい言葉ですが、はっきりと現れる事、明らかに現し示す事であり、実体の無い幻や映し絵、影のような物ではない事を宣言しているのです。

キリスト教は御子、主イエス様との出会いを体験する宗教なのです。

御子、主イエス様との出会いは、様々であり、一様ではありません。

劇的な体験をされた方もいらっしゃるでしょうし、クリスチャンホームに育ち、自然に信仰を持ち、漠然とした感覚の方もいらっしゃるでしょうが、何時か、御子、主イエス様の存在を実感する時、御子、主イエス様のご臨在を確信する時が必ず与えられます。

キリスト教は御子、主イエス様との人格的な交わりの宗教であり、絶対に必要なのであり、この体験、経験が出来るとの宣言なのです。

勿論、肉の目で見、手で触れる訳ではありませんが、何時もそばに居られる事を、決して離れられない事を、何時も見て居られ、見守ってくださっている事を体験するのです。

但し「ガリラヤで」と宣言されている事を見逃してはならないでしょう。

ガリラヤ」は現在の絶望や逃避行からの脱出であり、初心に戻る事への勧めでしょう。

現代に生きる私たちに適応するならば、物理的場所で考えるなら「教会」であり、精神的、社会的に考えるなら「この世を離れて」「この世の価値観を捨てて」ではないでしょうか。

この世に留まり続けていては、御子、主イエス様にはお会い出来ません。

犠牲を払い、自分の命さえも捨てなければ、御子、主イエス様にお会い出来ないのです。

但し、恍惚状態や、半覚半眠状態での体験ではなく、心身ともに明確、明晰な状態での体験であり、集団催眠、洗脳等とも区別されなければなりません。

三つ目は「弟子たちとペテロに」、特に「ペテロに」と言う宣言です。

赦しの宣言であり、キリスト教は御子、主イエス様に赦しを宣言される宗教なのです。

御子、主イエス様を見捨てたのは、裏切ったのは、呪ったのは、他でもない、イエス様の弟子、中心的な12弟子だったのですが、その見捨てた張本人である弟子たちに、裏切った当事者、呪った本人に重要な教理を委ねられたのです。

再献身への召命と言う事も出来るでしょう。

再献身は、赦しが前提であり、裏切り者にさえ全幅の信頼を置き、新しい働きを期待されている事の査証です。

特にペテロは自己嫌悪に陥っており、二度と御子、主イエス様のお顔を見られないと覚悟していたのではないでしょうか。

弟子たち」に自分は含まれない、自分は決定的な、取り返しの付かない大失態を演じてしまった、と自覚していた事でしょう。

そんなペテロの心境をご存知の御子、主イエス様はペテロを名指し、赦しを宣言されたのです。

御子、主イエス様のご配慮は、こんな所にまで及んでいるのであり、誰一人として脱落されるのを良しとはなさらないのです。

キリスト教は御子、主イエス様の死で、墓場から新しい展開が始まったのであり、弟子たち、ペテロ、私たちも、自分に死ぬところから新しい展開が始まるのです。

勿論、罪を内在していますから、失敗もあるでしょうし、自我が頭をもたげる時もあるでしょうが、御子、主イエス様はどんな失敗でも、何回でも、何時でも、赦してくださるのですから、安心して御子、主イエス様に会いに行けるし、お仕え出来るのです。

16:8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

御子、主イエス様の復活と、お会い出来ると言う喜びの知らせ、その喜ばしき知らせが、弟子たちに告げられているのに、何故、女性たちは震え上がり、気も転倒してしまったのでしょうか。

人間は、理解を超えた出来事に遭遇すると、思考は停止してしまうようです。

俗に「頭の中、真っ白」と言う状態に陥ってしまうのです。

誰も居ないはずの墓の中に、白い衣を纏った御使いが座っていて、その事だけでも理解出来ないのに、更に語られた事が、理解を超えた復活と、再会の知らせなのですから、茫然自失の状態になるのも、仕方のない事でしょう。

女性たちの体験は、単なる不思議体験、珍しい体験、恐怖体験ではなく、御使いにまみえ、キリスト教の教義、奥義を聞かされるという、神的体験です。

理解を超える、否、理解出来ない事を体験させられたのですから、気が転倒するのは、正気を失うのは、当然です。

しかし、そんな、茫然自失の状態も、長くは続かなかったようです。

皆さん、お持ちの新改訳聖書2017版には、105頁に「別の追加文」として、8節のその後が記されています。

〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たち短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。〕

マタイの福音書288節には、「28:8彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。

ルカの福音書249節には、「24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。」と記されており、戸惑いや、不思議な事に出会っての混乱や思考停止から立ち直るのに多少の時間がかかったようですが、我に返ってすぐに、御子、主イエス様復活の喜びを伝えたのです。

これが、福音宣教の始まりであり、伝道の本質なのです。

十字架で死んだ御子、主イエス様が復活された、生きておられる御子、主イエス様に出会った。

裏切った私たちを責める事なく、私たちに会ってくださる。

誰が信じるでしょうか。

気が触れた、とか、幻を見たのだ、とか、戯言を吹聴しているに過ぎない、と評価され、相手にされないでしょうが、知らせた事によって、「きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた」のです。

【適応】

墓場は人生の終着点ですが、そこに人生の新しい出発点があったのです。

墓場で甦られた御子、主イエス様は、私たちに希望を与えます。

私たちは墓場のような希望のない者であり、汚れた物しか持ってない者です。

しかし、御子、主イエス様はそんな私たちを憐れみ、私たちの中に入ってくださり、甦って永遠の朽ちない命の出発点となってくださったのです。

キリスト教の教義の根幹に関わる宣言が発せられ、か弱い女性に最初の伝道が委ねられたのです。

屈強な弟子ではなく、知識豊富な弟子ではなく、頑強な弟子ではなく、能力豊かな弟子ではなく、数にも入れられない女性たちに、社会的に見下げられていた女性たちに、弱い者に、小さな者に、無きに等しい者に福音が委ねられたのです。

これが、福音宣教の出発点なのですから、逆に言えば、誰もが福音の担い手になれるのであり、誰もが福音宣教の適格者なのです。

伝える事は御子、主イエス様が甦られた事と、イエス様が生きておられる事と、礼拝で御子、主イエス様にお会い出来ると言う事です。

礼拝は教会で、が主ですが、家庭でも、職場でも、学校でも可能であり、即ち、何処ででも御子、主イエス様とお会い出来るのです。

勿論、だからと言って教会に行かなくても良い、家で、独りで礼拝を守れば良いとの奨励をしているのではありません。

教会には御子、主イエス様から、唯一真の神様から特別な使命と祝福が注がれているのであり、教会は御子、主イエス様を頭とする身体であり、教会と言う共同体を通して、一人一人の信者が結び合わされ、有機的に働くのであり、福音宣教の前進に大きく貢献するのです。

組織的な、現代に繋がる教会が出来上がるのはまだまだ後の事になりますが、御子、主イエス様、甦りの宣言と、その事実を宣べ伝える事から福音伝道が始まったのであり、この墓場での出来事は、キリスト教の歴史、宣教の歴史の、原点なのです。

そして、私たち、弱く、小さな、大した事の出来ない者にも、委ねられている働きなのです。

御子、主イエス様はよみがえられ、生きておられ、私たちと共におられ、私たちを養い、導いてくださるのです。

共に、イースターを祝おうではありませんか。

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                                       2022-4-24礼拝

聖書箇所:サムエル記第一23章15節から29節

説教題:「激励と密告、ヨナタンの激励とジフ人の密告」

【導入】

日本のみならず、世界中で自然災害が起こっており、その被災地では復旧、復興作業が精力的に進められていますが、その一翼を担っているのが、ボランティアの働きである事は誰もが認める事でしょう。

彼らは何の訓練も受けてはおらず、また特殊な能力を持つ人々でもありません。

大した役には立たないかも知れない、否、返って足手まといになるやも知れないと思いつつも、少しでも何かのお手伝いが出来ればと、手弁当で、自費で、犠牲を払って、自己責任で、何の見返りも求めないで参加しているのです。

本当に尊い働きであり、その犠牲に神様が必ず報いて下さる事でしょう。

困っている人を、助けを求めている人を、放っては置けないのは古今東西変らない、人間の持つ良い面と言えるでしょう。

そして、助けてくれた人々に対して、今は何もお返し出来ないけれども、次には私たちが、困った人を助けようと言う決意が生まれ、それが世代を越え、国境を越えて広がって行くのでしょう。

この様に素晴らしい流れが起こるのと同時に、混乱の機に乗じて、善からぬ事を考える者たちがいるのも悲しい現実でしょう。

さて、ダビデが自分たちの身の安全を図る事で手一杯の状況に置かれていながら、ケイラの住民の救出に向かったのは、

同族の危機を見過ごしには出来なかったからであり、唯一真の神様の命令であったからです。

ダビデが命をかけてケイラの人々を救ったのは、決して見返りを求めての行為でなかった事は確実です。

見返りを求めていなかったとは言え、ケイラの人々は、その命を救われた恩義に報いず、ダビデを匿う事もせず、サウルに引き渡すであろうとは何とも悲しい事ですが、ダビデは神様に対しても、ケイラの住民に対しても何の恨み言も口にせず、ケイラを離れ、ジフの荒野をさ迷う逃亡の旅に置かれてしまうのです。

【本論】

新改訳2017版 23:15 ダビデは、サウルが自分のいのちを狙って、戦いに出て来たのを見た。そのとき、ダビデはジフの荒野のホレシュにいた。

ジフの荒野のホレシュ」とはダビデが逃げ出して来たケイラから20kmほど南東の方角にある町です。

サウルの住むギブアからは40kmほどですので、決して安心出来る場所とは言えません。

しかも、鬱蒼と茂った森の中ではなく、疎らにしか草木の生えていない荒涼とした場所であり、身を隠すに相応しいとは言えない場所です。

しかし、14節に「神はダビデをサウルの手に渡されなかった」と記されている通りに、唯一真の神様の守りがあって、ダビデはサウルの執拗な追跡から守られて、ホレシュで一息つく事が出来たのです。

しかし、信仰の勇者であるダビデであっても、繰り返し襲い来る恐怖を押える事は難しい事です。

そのような時、唯一真の神様は肉体の守りだけではなく、精神的な守り、慰め、励ましをも用意して下さるお方なのです。

23:16 サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに行って、神によってダビデを力づけた。

23:17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなることを確かに知っているのです。」

ヨナタンが、父サウルのダビデに対する憎しみを知りつつ、ダビデにくみする者を皆殺しにすると言う異常事態の中にあっても勇敢にもダビデを訪ね、力づけたのは、人間的な友情の温かさのみではなく、将来に関する唯一真の神様のご計画について、ヨナタンなりに確信があったからに違いありません。

ヨナタンは、サムエルによってダビデに油が注がれた事を知ってはいません。

しかし、真の信仰者であるヨナタンは、全ての出来事の中に唯一真の神様のご介入を、ご臨在を確信し、ダビデこそ唯一真の神様に選ばれ、サウルの次ぎにイスラエルの王になる方であるとの確信があったのであり、それ故に唯一真の神様によって立てられた王様に忠誠を尽くすべく、また、ダビデとの間の子々孫々に至るまでの親交の約束の故に、サウル王に隠れてダビデに会いに来たのであり、「神によってダビデを力づけ」たのです。

八方手を尽くしてもダビデの居場所を特定出来ないサウル王に比べて、ヨナタンは難なくダビデにまみえる事が出来たのです。

ここに唯一真の神様の導きがあるのは勿論です。

何故ならば、逃亡者であるダビデの側には常に見張りがいて、サウル王の軍隊が近づいて来たならば、数人の斥候が近づいて来たならば、即座に退却したのでしょうし、ヨナタンも王子ですから単独行動ではなく、数人の部下を引き連れての行動であったでしょう。

遠くから見張っているダビデの見張りにはヨナタンの部隊と、サウル王の斥候との区別はつかないはずです。

しかし、ダビデはこの見張りの者に最大限の信頼を置いていたに違いありません。

何故なら、見張りの行動如何によって、絶滅の危機が訪れるからであり、もしも裏切られたなら一たまりもないからです。

ダビデの信頼篤い見張りは、単に見張りの役割をこなすだけではなく、敵味方の判断をし、ヨナタンであると、ダビデの無二の親友であると見定め、ダビデに引き合わせたに違いないのです。

愚鈍な見張りであったならば、敵が来たと、状況だけを報告し、ホレシュを立ち去ったに違いありません。

唯一真の神様は中心人物に導きを与えるのみならず、関係者にも導きを与えるのであり、状況をも支配され、ご計画を進めるお方であると言う事なのです。

風の音にも怯える逃亡生活の中で、唯一真の神様はヨナタンを送り、ダビデと再会させ、ダビデに激励を与え、イスラエルの王になると言う将来のご計画を示して下さったのです。

23:18 二人は【主】の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。

23:19 ジフ人たちは、ギブアのサウルのところに上って行って、言った。「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。

23:20 王よ。今、下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちが彼を王の手に引き渡します。」

この「ジフ人」と言うのはユダ部族に与えられた相続地に住むユダ部族の人々であり、ユダ部族に属するダビデとは非常に近い血縁に当る人々です。

勿論、サウル王のベニヤミン部族とも同じイスラエル人であり、血縁にはありますが、ダビデとの関係の方が強く、濃いのは言うまでもない事です。

そのダビデとより強い、近い関係にある親族が、サウル王に接近し、ダビデの動静を報告し、「私たちが彼を王の手に渡します」とまで言い、忠誠を誓うのです。

新共同訳では「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です」と訳していますが、守るべき身内を売り渡すとは、ジフ人に一体何があったのでしょうか。

それは、サウル王が祭司アヒメレクの一族を皆殺しにした事が原因していると考えられるでしょう。

唯一真の神様に仕える者は、特別な存在であり、一目も二目も置かなければならない存在です。

ましてや歯向かうなどと言う事は考えられない事であり、殺害するなどあり得ない事であるのに、サウル王はそれを行なったのであり、ダビデの同族と言う事だけで嫌疑を掛けられる充分な理由になるのであり、それを案じたジフの人々は一族を守る為にダビデを密告する事になったのではないでしょうか。

ここに人間の弱さを垣間見る思いが致します。

人は自分を守る為には、何の利害関係もなくても、密告するのであり、取り入っておけば何時か必ず益になると思うものなのです。

しかし、歴史の記録は決してそうはならない事を記しています。

人を損得で密告する者は、保身の為に切り捨てる者は、必ず密告されるのであり、裏切り者の末路は裏切られて終るのです。

真実に生きる事こそ大切であり、唯一真の神様はそのような誠実な人を守って下さるのです。

23:21 サウルは言った。「【主】の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。

23:22 さあ行って、さらに確かめてくれ。彼が足を運ぶ場所と、だれがそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。

23:23 彼が潜んでいる隠れ場所をみな、よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ。そのとき、私はあなたがたと一緒に行く。彼がこの地にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出す。」

ヨナタンが確たる情報もないままに出掛けて行ったにも関らずダビデと再会出来たのに比べて、サウル王は確たる情報にも関らず、その信憑性を疑い、ダビデを捕らえるチャンスを逸してしまったのでした。

サウル王の人を信じない性向がここにも影響したのであり、人を信じると言う事が如何に大切かを教える場面ではないでしょうか。

人を信じても裏切られる事や、期待通りでない事の方が多いかも知れませんが、信じる事にこそ、人生を豊かにする秘訣があるのではないでしょうか。

誰も信じない、誰にも期待しない人生は、誰にも信じてもらえない、誰からも期待されない人生に繋がって行くのではないでしょうか。

信じてもらう事によって、期待される事によってお互いが成長するのではないでしょうか。

とにかく、唯一真の神様はあらゆる形でサウル王の魔の手からダビデを守って下さったのであり、不思議な導きでヨナタンとの再会を果し、激励を与えて下さったのです。

23:24 彼らはサウルに先立ってジフへ行った。一方、ダビデとその部下は、エシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいた。

23:25 サウルとその部下はダビデを捜しに出て行った。このことがダビデに知らされたので、彼は岩場に下り、マオンの荒野にとどまった。サウルはこれを聞き、マオンの荒野でダビデを追った。

23:26 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来たとき、

この「マオンの荒野」はジフの南10km程の所にあります。

ここも荒野であって、身を隠す森もなく、400人からの集団が身を隠す場所などはなく、山の向こう側とこちら側、見つかるのは時間の問題、絶体絶命…と言う時にも、唯一真の神様の不思議な計らいが興ります。

23:27 一人の使者がサウルのもとに来て、「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」と言った。

23:28 サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩山」と呼ばれた。

23:29 ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。

唯一真の神様に聞き従わない愚かな王であってもサウルはイスラエルの王様です。

イスラエルの危機に当るのがサウル王の使命ですから、ペリシテ人が攻めて来たとの知らせを受けて、ダビデ討伐は諦めて、イスラエル救出に向かう事となり、ダビデは窮地を免れる事になるのです。

この「仕切りの岩」と言う名称は「分ける(halaq)」と言う意味のヘブル語から来ていますが、唯一真の神様は正に出逢い頭の瞬間であっても、即座に引き離す事が出来るお方であり、悪の力はダビデに指一本さえ触れる事が出来ないのです。

その後ダビデ一行は「エン・ゲディ」に住む事になりますが、このエン・ゲディは塩の海の西岸にあり、無数の洞窟があり、自然の要塞、隠れ家であり、唯一真の神様はダビデに暫しの安息を与えて下さったのです。

【適応】

そもそも逃亡生活と言うものは非常な困難を伴うものですが、ダビデの場合は更に過酷なものとなりました。

全てが敵…と言うような状況でも、不思議に助け手が現れ、窮地を脱する事が出来るものですが、ダビデの場合は違うようです。

助けてあげたケイラの住民には裏切られ、ジフの人々には何の悪い事もしていないのに密告されると言う仕打ちを受けたのです。

ダビデがジフの町に逃げ込んだかどうかは解かりませんが、ケイラでの経験から人は頼りにならない事を学んだのではないかと思われます。

命を守り、助けてあげても裏切られるならば、何の関係もない者が助けてくれる、匿ってくれる訳がない事を学んだのであり、ジフの町には一切の援助を願いはしなかったのです。

ダビデが頼りにしたのは唯一真の神様だけであり、神様の送って下さるもの、導きだけを頼りに歩んで行った時、神様はあらゆる危機から脱出させて下さり、自然の要害に憩わせて下さったのです。

また、ケイラの住民の裏切りを知った時には、大きな絶望感を、虚無感を味わった事でしょうが、すかさず唯一真の神様はヨナタンと言う励まし手を送って下さったのです。

ダビデはジフ人がサウル王に密告していると言う事実を知らなかったでしょうが、唯一真の神様はダビデが対策を練らなくても、善後策を講じなくても、ダビデの知らないうちに対策を練り、善後策を講じて下さり、あらゆる艱難から守って下さるのです。

人は自分で出来る事には限界がありますし、全てを知る事は出来ませんから、知り得ない事には対策は、準備は出来ません。

しかし、唯一真の神様は全てをご存知であり、ダビデの状況も、サウル王の状況も、ジフの住民の状況も知った上で、最善の策を講じて下さるのです。

ダビデの知り得ない所で唯一真の神様は働かれたのであり、ダビデの命は守られたのです。

私たちも同じなのではないでしょうか。

私たちは知り得た事で、唯一真の神様の恵みや守りに感謝しますが、私たちが知り得るのはほんの一部であって、夢にも思わない所で唯一真の神様は働いて下さっていて、私たちを守って下さって、助けて下さって、導いて下さって、支えて下さっているのです。

鉄壁と言うか、二重三重と言うか、兎に角、完全に守られているのであって、その絶対的な圧倒的な唯一真の神様の守りの中で、訓練として、ほんの一時、大小様々な試練が与えられるのです。

耐えられないような試練があっても、それはほんの一部であって、もっともっと大きな厳しい試練から守られている事を覚えなければならないのではないでしょうか。

一つの試練の背後には膨大な数の試練があったのであり、それは私たちが知らないうちに唯一真の神様が防いで下さっていた事を覚えなければならないのです。

唯一真の神様はそれ程までに私たちを愛して下さっているのです。

ここにおられる皆様も、唯一真の神様の守りの中に置かれているのであり、今艱難の渦中に置かれていても、それは耐えられる艱難だからこそ与えられているのであって、それ以上の艱難は「仕切りの岩」によってあなたに触れる事すら出来ないという事実を知って頂き、唯一真の神様だけに寄り縋って艱難という訓練を乗り越えて、神様の用意して下さった安息に憩われますようにお祈り致します。

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