2022-5-1礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙2章11節から15節

説教題:「御子 主イエス様と共に生きる」

【導入】

礼拝のあり様は、歴史があるのだから、伝統に則って行なうべきであり、変えないのが良い、いやいや、時代のニーズに合わせて変えるのが良い、新しいものを取り入れるのが良い。

いろいろな考えがあるでしょうが、礼拝の本質、唯一真の神様を礼拝する事、神様に赦されて、招かれて、神の前に出る、時間を献げ、賛美と祈りとを献げ、奉仕と献金を献げるのであり、礼拝を通して、神様を第一とする生き方を学び、生活で実践するのです。

礼拝の本質から逸脱しなければ、相当な自由が許されましょう。

信仰者としての生き方ですが、聖書の教えからは決して逸脱してはならず、勝手な解釈、また削除や追加をしてはなりません。

旧約の時代、救いの条件は、割礼を受ける事と律法、十戒を守る事でした。

割礼は、旧約の契約のしるしであり、唯一真の神様との契約に入ったしるしであり、神への従順の約束と、神に献身したしるしです。

新約の時代に入り、救いの条件は、御子、主イエス様を信じる信仰だけであり、割礼を受ける事や律法、十戒を遵守する事が救いの条件ではない事が示されました。

律法や十戒は、「罪」が何かを知るための道具であり、割礼はあくまでも契約に入った「しるし」であり、割礼を受ける事で罪が赦され、救われる訳ではないのです。

しかし、コロサイ教会の異端の教師たちは、救われるためには、信仰だけでは不十分であり、救いの条件として割礼を要求し、教会内に混乱を巻き起こしていたのです。

旧態依然の割礼を奨励する考えに、パウロは異を唱えます。

【本論】

新改訳2017版 2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。

パウロは、「あなたがたは人の手によらない割礼を受けました」と語ります。

旧約時代の「割礼」は廃棄されたのではなく、「割礼」は形と意味を変えたのです。

パウロは、「あなたがたは・・・キリストの割礼を受けたのです」、即ち、御子、主イエス様から霊的な割礼を受けたのだ、主イエス様と繋がったのだ、と語り、主イエス様と霊的に結合される事こそ重要である、と教えるのです。

肉のからだ」は、文字通りの意味であると共に、堕落し、腐敗している私たちの人格を含む、存在の全ての意味です。

その「肉のからだ」を「脱ぎ捨て」た、即ち、罪深い過去、忌まわしい行いの日々を断ち切ったのであり、罪と汚れを除去したのであり、聖くないモノ、唯一真の神様に相応しくないモノの全てを捨てたのです。

と同時に、「キリストの割礼を受けたので」あり、唯一真の神様に受け入れられる者とされ、神様と繋がり、御子、主イエス様と繋がり、新しい契約の民の一員として迎え入れられたのだ、と語るのです。

肉のからだ」を「脱ぎ捨て」る、「キリストの割礼」とは、「バプテスマ」、洗礼です。

2:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

バプテスマ」、洗礼は、旧約の「割礼」と同じように、唯一真の神の民となる、契約のしるしです。

公には、「バプテスマ」、洗礼に於いて宣言されます。

バプテスマ」、洗礼は、水の中に沈められますが、それは、御子、主イエス様の葬りへの参与を、「肉のからだ」を「脱ぎ捨て」た事を象徴するものであり、水の中に留まらず、直ぐに引き上げられますが、それは、主イエス様の復活に与った事を、「キリストとともによみがえらされた」事を、即ち、新しいいのちによみがえらされた事を象徴します。

罪深い過去、忌まわしい行いの日々を断ち切る事、罪と汚れを除去する事、聖くないモノの全てを捨てる事、そして、唯一真の神様に受け入れられる者とされる事、神様と繋がり、御子、主イエス様と繋がる事、新しい契約の民の一員として迎え入れられる事は、人間の努力や、願いにあるのではなく、また、「バプテスマ」、洗礼の水、そのものに霊的な力があって、罪と汚れが除去されるのでもありません。

神の力を信じた」事によるのです。

この「神の力を信じ」る信仰も、人間の力ではなく、唯一真の神様の憐れみであり、一方的な恵みなのです。

2:13 背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。

背き」とは、唯一真の神様への不服従、不従順の歩みであり、神様の御旨を知りながら、御旨に背き歩む事であり、罪の何たるか、何が罪であり、その結果はどうなるかを知りながら、罪から離れず、罪の中を歩み続ける事です。

肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがた」とは、唯一真の神様の存在を知らず、律法なしに、野放図、自由奔放に生きていて、亡びるしかなかった異邦人、異教徒の生き方であり、神様との交わりに入れられる前の、全く希望のない生き方です。

同時に、罪の力に抗えず、罪に打ち負かされて、文字通り、神の前に「死んだ者」であったのですが、「肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがた」を、「キリストとともに生かしてくださいました」、と宣言します。

キリストとともに」であり、即ち、御子、主イエス様と共に、天の御国に入れられ、「生かしてくださ」るのであり、即ち、永遠に、生きる者とされるのです。

更に、2:13b 私たちのすべての背きを赦し、と続きます。

すべての背きを赦し」は、過去、現在、将来の全ての罪の赦しの宣言であり、「赦し」は、神の無償の、無代価の、一方的な恩恵によるものなのです。

その恩恵の意味を、当時の、誰もが知っている「債務証書」を用いて説明します。

2:14 私たちに不利な、様々な規程で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

様々な規程」とは、十戒や律法、また、それらの解釈による規則の類です。

それらは、私たちの罪、咎を明らかにし、その罪、咎に対する刑罰をも明らかにします。

債務証書」とは、当時の社会で一般的に使われていたことばであり、負債者が返済を約束して署名した、法律上の覚え書きであり、「借用証書」と同じような意味、使い方です。

無効にし」とは、パピルス紙の「債務証書」の表面を削り、インクの文字を削り取る事であり、「債務証書」、「借用証書」の記載事項、約束事、そのものを抹消する事です。

後で蒸し返したりする事の無い、完全な抹消です。

これは、単に、帳消しにしたのではありません。

私たちは、唯一真の神様に対して罪を犯しており、莫大な負債を負っています。

罪の報酬は死であり、死を以ってして、罪に対する精算をしなければならないのです。

その罪に対する「債務証書」、「借用証書」を、「十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」。

御子、主イエス様が、負債の全てを負い、支払いを済ませた、完済してくださった、と云う事です。

債務証書」、「借用証書」の記載事項、約束事が完全に行なわれた、完了された。

だから、「債務証書」、「借用証書」の無効が宣言された、と云う事なのです。

決して有耶無耶にしたのでもなく、阿吽の了解でもなく、双方の合意でもなく、御子、主イエス様が「債務証書」、「借用証書」の約束事項を、私たちに代わって果しててくださった、と云う事です。

2:15 そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。

異端の教師たちは、割礼の強要と共に、諸々の霊は、神と人との間を取り持つ仲介者である、と教え、コロサイ教会の人たちを惑わし、諸々の霊を礼拝する事を要求していたのですが、御子、主イエス様は、私たちを縛っていた、悪の力、諸々の霊の力から解放してくださったのです。

当時の社会は、ローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国軍は各地に遠征し、侵略し、支配下に置き、略奪物を携え、捕虜を引き連れて、凱旋して来ましたから、15節の状況は日常的な事であり、すんなりと理解出来たのではないでしょうか。

ローマ帝国の力の誇示であり、逆らう者への見せしめでもありましょう。

ローマ市民はともかく、被支配者たちは、奴隷たちは複雑な思いで見ていた事でしょうが、悪の力、諸々の霊の力、罪に支配されて、苦しみ悩んでいた者にとっては、御子、主イエス様の凱旋は、主イエス様の力と支配を連想、想起させる状況であり、喜びに溢れるもの、大きな希望となった事でしょう。

【適応】

割礼を受ける事は、唯一真の神様に従う事の決意の表明であり、しるしですが、洗礼を受けるのは、御子、主イエス様を信じ、従う事の決意の表明であり、しるしですが、大事なのは、決意の表明やしるしではなく、神様に従い、御子、主イエス様と共に生きているか否か、です。

弁論大会のような、立派な決意表明を発表しても、生まれて七日目に割礼を受けても、改宗し割礼を受けても、洗礼を受けても、形だけであるなら、無意味、否、百害あって一利なしです。

大事なのは、コリント人への手紙第一718節「7:18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。

7:19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。

唯一真の神様に対する信頼と従順であり、「神の命令を守ることです。

ガラテヤ人への手紙、56節「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

御子、主イエス様に対する「愛と信仰」です。

神の命令とは、ヨハネの手紙第一323節「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

御子、主イエス様に倣って、「私たちが互いに愛し合うことです。

そして、もう一つ大事なのは、割礼が廃棄され、洗礼に取って代わったのではない、と云う事です。

割礼そのものに、何か神秘的な力、効能があって、罪咎を切り離すのではありませんし、洗礼そのものや水に、何か神秘的な力、効能があって、罪咎を切り離すのでもありません。

割礼を受ける事は、唯一真の神様に従って生きる事の確認のしるし、スタートの意味で非常に大事ですし、洗礼を受ける事は、御子、主イエス様と共に生きる事の確認のしるし、スタートの意味で非常に大事です。

しかし、割礼や洗礼は、スタートであり、ゴールではありません。

その道程は決して順風満帆ではなく、患難辛苦が待ち受けているのは確実ですが、御子、主イエス様が執り成して下さり、聖霊が助けて下さいます。

主イエス様は生きておられ、私たちと共に歩んでくださり、魂を救い、魂を養い、魂を成長させて下さるのです。

信仰の道は、罪咎の償いの行脚ではありません。

既に、罪咎は、主イエス様の十字架で贖われ、「債務証書」は白紙になっています。

この世でも、来る世でも、罪咎に対する債務、負債の一切ない、晴れ晴れとした生涯を歩み出すのです。

この晴れ晴れとした、主イエス様と共に生きる生涯に、あなたも踏み出されては如何でしょうか。

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聖書箇所:コロサイ人への手紙216節~19

説教題:「食物規定、御使い礼拝について」

【導入】

前回、「債務証書」、「借用証書」に付いて学びました。

債務証書」、「借用証書」には、債務について、返済方法や期限について、返済不履行に対する罰則等についての取り決めが記されています。

私たちは、唯一真の神様に対する、膨大な債務、負債を抱えており、その債務、負債は、とてもとても負い切れる物ではなく、死をもってして償うしかなかったのです。

しかし、御子、主イエス様が十字架に掛かってくださり、死をもって贖い、完済され、私たちの債務、負債は、清算されました。

私たちの「債務証書」、「借用証書」は、「完済済み」として処理され、その「債務証書」、「借用証書」は、白紙に戻されたのです。

私たちは、膨大な債務、負債、「債務証書」、「借用証書」に怯える事なく、唯一真の神様の前に出る事が出来、御子、主イエス様と交わる事が出来るようになったのですが、コロサイの教会では、異端の教師たちは、禁欲主義的な、食物や暦に関する規定の他、御使い礼拝などを盛り込んだ教えを吹聴し、キリスト者たちを惑わし、教会内に混乱を巻き起こしていたのです。

そこで、パウロは、禁欲主義的教えや、御使い礼拝の因習に囚われないようにとの警鐘を鳴らします。

【本論】

新改訳2017版 2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。

異端の教師は、「食べ物と飲み物について」、きよい物、きよくない物のリストのようなものを作り持って、コロサイ教会内に広めていたようです。

そもそもユダヤ人は、唯一真の神様から、きよい動物、きよくない動物について、食べても良い物、食べてはならない物に付いての教えを受けています。

最初に、創世記7章に、きよい動物、きよくない動物の概念が登場し、レビ記11章や申命記14章には、きよい生き物、汚れた生き物の、具体例が列挙されています。

これに付け加えたリストなのか、自分たちで新たに考え出したリストなのかは不明ですが、このリストに照らし合わせて、コロサイ教会の人々の飲食を批判し、また特定の食べ物の制限、禁止を奨励したのでしょう。

しかし、「食べ物と飲み物」が人を汚す事はありません。

マタイの福音書1511節「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」。

ローマ人への手紙146節「食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです」。

テモテへの手紙第一43節「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。

4:4 神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません」。

食べ物と飲み物」は、感謝して受ける事が重要なのです。

食べ物と飲み物」の制限、禁止などは宗教と結び付き易く、敬虔さの表現として重んじられますが、救いの条件ではなく、祝福の条件ではなく、信仰の代用にも、交換条件にもなりません。

コリント人への手紙第一88節「私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません」。

また、「祭りや新月や安息日」の規定も、唯一真の神様から指示を受けています。

祭り」については、出エジプト記2314節などに、「新月」については、民数記1010節などに、「安息日」については、出エジプト記1623節などに記されていますので、これらの前後をお読み願います。

列王記第一1226節に記されていますが、ヤロブアム王は、勝手に考え出した祭りを行なうように民に命じたのですが、異端の教師もまた、土着の宗教の慣習を取り入れ、また、勝手に考え出した祭りを行なうようにコロサイ教会内で、積極的に働きかけたのです。

律法は廃棄されたモノではなく、古来からの習慣は大切な歴史であり、尊重しなければなりませんが、教会に取り入れる際には、慎重に吟味しなければなりません。

食べ物と飲み物」の制限、禁止などや、「祭りや新月や安息日」の規定は、キリスト教信仰を補完するモノでも、完成させるモノでもありません。

ましてや、救いの条件などでは決してありません。

しかし、異端の教師は、必要不可欠なモノであると教えて、コロサイ教会を混乱させていたのです。

キリスト者は、「債務証書」、「借用証書」から自由にされ、救われたはずなのに、逆戻りして、再び、「債務証書」、「借用証書」の奴隷になろうとしているのですから、パウロは、これらの教えに関わらないよう忠告、警告するのです。

2:17 これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。

食べ物と飲み物」の制限、禁止などや、「祭りや新月や安息日」の規定などや、律法や古来からの慣習などは、私たちの弱さ、足りなさ、罪を自覚させる事に於いて、御子、主イエス様を指し示す役割に於いて、非常に重要であり、意義のあるモノですが、御子、主イエス様を指し示すモノであり、「」にしか過ぎず、「食べ物と飲み物」の制限、禁止などや、「祭りや新月や安息日」の規定などの遵守を主張するなら、主イエス様の贖いの御わざの意味を喪失させる事になりましょう。

主イエス様が「本体」、主体なのであり、「本体」と「」とは、明確に区別されなければならないのです。

」に惑わされて、「本体」を見失う事があってはならないのです。

2:18 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、

自己卑下」と訳されているギリシャ語は、字義通りに訳すと「謙遜に於いて欲している」となり、これはヘブル語的慣用句だそうで、「謙遜を気に入っている」「謙遜を楽しんでいる」を意味するそうです。

即ち、本心から、真剣に謙っている訳ではなく、謙遜そうに振る舞う事を楽しんでいるのであり、猫をかぶり、人を騙して楽しんでいる者の、人からの評価を期待している者の姿なのです。

御使い礼拝」ですが、唯一真の神様は、余りにも崇高な存在であり、一方、人間は真に汚れた存在、無価値であり、人間は神様に近付く事は出来ない、と考えるが故に、神様との間を取り持つ、仲介者的な諸霊、「御使い」の力と助けを借りなければならないと考え、更に、仲介者的諸霊、「御使い」には、それ相応の礼を尽くさなければならない、礼拝を献げなければならないと考え、主張したのです。

この主張は、真の仲介者、御子、主イエス様の存在とお働きを拒否する事であり、断じて容認出来る事ではありませんが、しかし、「御使い礼拝」は、360年のラオデキヤ会議で禁じられるまで、広く、根深く浸透していたそうです。

ここで注意したいのは、「自己卑下」と「御使い礼拝」ではなく、「自己卑下」の現われとして「御使い礼拝」を行なっていたのであり、謙遜な人、信心深い人と見られる事を欲して身を低くし、諸霊にそれなりの尊敬を現し、礼拝を行なっていた、と云う事なのです。

食べ物と飲み物」の制限、禁止などや、「祭りや新月や安息日」の規定の遵守は、偶像や自然物に対する礼拝、「御使い」に対する礼拝など、対象を増やしていく事は、宗教心を満足させた事でしょう。

しかし、自分の宗教心を満足させる事は、他人からの評価を期待する事は、御子、主イエス様に結び付く事の妨げにしかなりません。

当時の密儀宗教では、密儀を受けて聖所に入る資格を得て、また、入会して聖域に入り、神から特別の幻や啓示を受けた、と主張し、そのような体験を誇ったそうですが、キリスト教会でも、幻を見る事は、特殊な体験であるが故に、信仰深さ、熱心さの現われと見られ、一目置かれるようになり、自尊心を満足させた事でしょうが、御子、主イエス様からは離れていると言わざるを得ません。

2:19 かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。

御子、主イエス様を愛している、信じている、と言っても、自分の行為、禁欲であるとか、宗教的慣習に対する熱心に頼っているならば、主イエス様と結び付いているとはいえません。

異端の教師は、外見上は熱心な、敬虔なキリスト者のように振舞いますが、本質に於いて、御子、主イエス様とは、結び付いてはいません。

御子、主イエス様が、頭である教会は、「このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです」。

主イエス様と「つなぎ合わされ」てこそ、「節々と筋によって支えられ」、いのち、活力を受け続ける事が出来るのであり、「神に育てられて成長していくのです」。

食べ物と飲み物」、何を食べるか、禁じるか、で救われるのでも、成長するのでもなく、祭りや新月や安息日」をどのように行なうか、で救われるのでも、成長するのでもありません。

これらは、如何にも効果がありそうに、意味がありそうに思えますが、全く意味も効果もありません。

否、主イエス様と繋がっている、との錯覚を与え、思い込みの、根拠のない歩みを続けさせ、至るところは滅びなのです。

【適応】

まことしやかな、異端の教師、異端の教えに影響されている信徒のことばに惑わされないように、注意しなければなりません。

食べ物と飲み物」について、今一度確認いたします。

マタイの福音書1511節「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」。

ローマ人への手紙146節「食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです」。

テモテへの手紙第一43節「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。

4:4 神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません」。

祭りや新月や安息日」について、ローマ人への手紙145節「14:5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

14:6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

14:7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

14:8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。

特定の日を重要視する事には、特別視する事には、注意しなければなりません。

背景、故事来歴に注意しなければなりません。

大事、大切なのは、「安息日」であり、安息日は、唯一真の神様、御子、主イエス様を礼拝するのであり、礼拝は神様が語られることばが中心でなければなりません。

サムエル記第一39節「主よ、お話しください。しもべは聞いております」、です。

聞きたい事を聞き、聞きたくない事は聞かないのではありません。

どんな事が語られるのかを期待しつつ、礼拝に臨むのです。

神のことばに従う意思と決意を持ち、礼拝に臨むのです。

御使い礼拝」を行なうキリスト教会は存在しないでしょうが、謙遜、謙りの現し方として、聖母マリヤや聖人に執り成しを願うような方法を取り入れてはならず、功績のあった人などが崇められる傾向にも、注意しなければなりません。

パウロは、「食べ物と飲み物」、「祭りや新月や安息日」、「御使い礼拝」について、正しい理解と対応を求めているのであり、惑わされないよう、主イエス様から離れてしまうことがないようにと警告するのです。

食べ物と飲み物」、「祭りや新月や安息日」、「御使い礼拝」などは、偶像礼拝や異端宗教の特徴といっても過言ではありません。

食べ物と飲み物」、「祭りや新月や安息日」、「御使い礼拝」などに頼ると、どうしても他人と比べる事になり、また、創意工夫などが入り込み、際限がなくなります。

そんな必要は一切ありません。

何故なら、「食べ物と飲み物」で汚れる事はないからであり、「祭りや新月や安息日」のみで礼拝を献げるのではなく、生き方を通して礼拝するのであり、私たちには本物の仲介者、御子、主イエス様がおられ「御使い」の力も助けも借りる必要はなく、唯々、主イエス様にお縋りすればよいのです。

主イエス様を信じて、主イエス様に繋がっている事だけ、離れない事だけを考えて歩む事が、何より大切なのです。

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聖書箇所:コロサイ人への手紙220節~23

説教題:「この世の幼稚な教えから離れなさい」

【導入】

パウロは、212節で、「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

2:13 背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、

2:14 私たちに不利な、様々な規程で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」、と語りました。

パウロは、「あなたがたは・・・様々な規程」から解放された、と語りましたが、それは、十戒や律法の勝手な解釈や適応から、また、諸々の諸霊と呼ばれるものの支配から、それらにまつわる低次の教えから、先祖代々伝えられて来た因習や根拠のない習慣などから、完全に自由にされ、唯一真の神様の恩恵の世界に移され、御子、主イエス様のご支配の下に置かれた事を意味するのです。

しかし、長年慣れ親しんで来た考え方や長年行って来た因習、慣習は、一朝一夕で払拭する事は出来ません。

異端の教師の教えは巧妙であり、また、私たちの惑わされ易い性質は、簡単には変わりません。

そこで、パウロは、御子、主イエス様から与えられた自由を捨てて、不自由な奴隷の状態に、「様々な規程、債務証書」に縛られた状態に逆戻りしないように、異端の教師の吹聴する、禁欲主義的教えや、御使い礼拝の因習に逆戻りしないようにと、

再び、繰り返し忠告を与えるのです。

【本論】

新改訳2017版 2:20 もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、

この世のもろもろの霊」ですが、私たちは、如何にも怪しげな、胡散臭そうな風貌の人に、粗野、乱暴な、調子の良い事ばかりを並べ立てる言動の人に騙される事はないように、悪霊とか悪魔、サタン、などと聞くと警戒し、距離を置き、まず、取り込まれ、騙される事はないでしょう。

しかし、信用出来そうな身だしなみ、風貌、丁寧な、親切そうな言動の人は信じ易く、騙され易いように、熱心な教師とか信徒には、胸襟を開き、心を許してしまうのではないでしょうか。

問題なのは、教会に入り込んでいる「この世のもろもろの霊」であり、悪霊、悪魔、サタンの手先となってしまった、そしてその事に気付かない教師とか信徒であり、

非常に巧妙に、人の心に入り込み、心を掴み、自信たっぷりに、他の教え、選択肢など考えられないかのように断定的に、しかし、それと悟られないように巧妙に誘導します。

この世のもろもろの霊」を、第三版では「この世の幼稚な教え」と訳していますが、「この世のもろもろの霊」は即ち、「この世の幼稚な教え」を広める輩であり、如何にも信頼出来そうな教派の様相をしていても、高尚な教義であっても、

御子、主イエス様を蔑ろにする教えであり、その教えは幼稚と謂わざるを得ず、子ども騙しにしか過ぎません。

その代表的な戒めが21節です。

2:21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。

異端の教師、偽教師の教えは、禁欲主義的な性格の教えであり、これは「べからず主義」と呼んだらよいのでしょうか。

つかむべからず、味わうべからず、さわるべからず・・・」、「やすむべからず、遊ぶべからず・・・」などの禁止事項に終始します。

異端の教師、偽教師の教えは、質素主義的、倹約主義的な性格の教えであり、物欲、金銭欲、所有欲・・・などなどの欲望、欲求を制する事、阻止する事を徳目と考え、教えたのです。

しかし、これらの否定的な、戒律主義的な禁止事項の遵守は、消極的な生き方になり、前例主義、何でも上にお伺いを立てなければ行動出来なくなり、指示待ちの、事なかれ主義に陥り、相互監視の弊害に陥り、責任ある積極的行動に踏み出す事が出来ず、創造性や発展性を阻害してしまい、その弊害は計り知れず、大きな損失、不利益をもたらすでしょう。

様々な規程、債務証書」から自由にされたのに、また、自ら、「様々な規程、債務証書」の呪縛、束縛に戻るのか、戻ってはならない、とパウロは警告を発するのです。

2:22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。

パウロは、二つの点から、異端の教師が禁じる事柄の無意味さを指摘します。

使ったら消滅するもの」とは、この世限りのモノであり、永続性のない、一時的なモノであり、腐心するに値しないモノでしかありません。

永続するモノ、未来に影響するモノにこそ、心を配り、取り組まなければならないのです。

「つかむな、味わうな、さわるな」といった定め」や、「使ったら消滅するものについての定め」は、「人間の戒めや教え」、即ち、人間が考え出したモノであり、時代や地域、文化や状況などで変わってしまうモノであり、不偏性も一貫性も持ち合わせていません。

何よりも問題なのは、被造物に付いての取り決めであるのに、創造者である唯一真の神様が関与も、承認もされていない事であり、神様から委託された案件でもなく、

創造者である唯一真の神様に対する主権侵害であり、重大な罪である、と云う事です。

2:23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

唯一真の神様の定めに因らない礼拝は、異端の教師の教えに限らず、個々の信者の個人的な好みや考えによって編み出された礼拝は、「人間の好き勝手な礼拝」と呼ぶべきであり、「何の価値もなく、肉を満足させるだけです」。

唯一真の神様の定めに則った礼拝であっても、自己満足のための礼拝であるならば、神様が喜ばれ、善しとされる礼拝ではありません。

礼拝の目的は、唯一真の神様礼拝であり、自己満足、安心、平安のため、恵みを受けるため、満たされるため、などではありません。

また、「自己卑下」については、18節で学んでいますが、本心から、真剣に謙っている訳ではなく、謙遜そうに振る舞う事を楽しんでいるのであり、猫をかぶり、人を騙して楽しんでいる者の、人からの評価を期待している者の姿なのであり、謙遜な人、信心深い人と見られる事を欲して身を低くし、礼拝を行なっていた、と云う事なのです。

肉体の苦行」ですが、異端の教師は、肉体は悪霊の住処(すみか)であり、肉体的難行苦行を課す事により、悪霊が追い出され、汚れが取り除かれ、浄化される、

聖さ、正しさに近付くと考え、これを推奨したのですが、これも自己満足のためであり、「何の価値もなく、肉を満足させるだけです」。

肉を満足させる」と言っても、一時的な満足であり、直ぐに足りなさに、焦燥感にさいなまれるのではないでしょうか。

異端の教えが、人々に受け入れられ、多くの人々が引き込まれるのは、キリスト教の基本的教理、真理に真っ向から衝突するのを避け、自分たちの教えは、考えは、キリスト教の基本的教理、真理を補完し、欠けを補い、神に近づく信仰へ、聖さの完成へと導くものであると主張したからではないか、と考えられます。

強硬に戦いを仕掛けるのは得策ではなく、懐柔するのが得策であり、そのためには、入り込み易い手段である、旧来の因習を取り入れた礼拝や、異教の難行苦行を取り入れる事は、抵抗も少なく、人々から歓迎された事でしょう。

そして、内部から教会を変質させ、唯一真の神様から離れさせる大きな流れ、うねりとなるのです。

そうなると、その流れ、うねりを変えるのは、至難の業と謂わざるを得ないでしょう。

そうなる前に、警告を発し、この世の幼稚な教えに惑わされないように、警告するのです。

【適応】

御子、主イエス様を信じる前の、キリスト教を知る前の礼拝は、形式に則った、厳かな礼拝こそが礼拝だと思い、また、自分なりに編み出した手順でこそ、御利益があり、庇護を受けられる、と考えて来たのではないでしょうか。

また、献げ物や修行には、効果があると信じられ、長年、熱心に取り組んで来たのですから、考え方を切り替えられず、簡単には止められず、あっさりと離れられはしません。

人は変化を好まず、やって来た事を続けたい、という欲求があります。

やって来た事が無駄になる事に、耐えられません。

その点で、異教の教師の教えは、過去の継続を奨励するものですから、人々の目には、好ましい教えとして映り、賢い教えとして受け入れられ、人々は挙って異教の教師の教えに惹かれてしまったのではないでしょうか。

しかし、異端の教えは、人間の自尊心を満足させるだけの教えであり、アダムから受け継いだ罪深い人間性と傲慢とを変革し、聖め、唯一真の神様に近づける働きも力も、全くないのです。

否、異端の教えは、唯一真の神様を見えなくさせ、迷わせ、離れさせる強い力、働きなのです。

冒頭で、「この世のもろもろの霊」を、第三版では「この世の幼稚な教え」と訳していますと、お話ししましたが、「この世の幼稚な教え」から離れる事は、より豊かな礼拝、より良い信仰生活に結び付いています。

異端の教えに頼らなくても、私たちには、御子、主イエス様がおられ、ご自身が生贄となられ、完全な贖いがなされ、最高の礼拝を準備しくださっているのであり、私たちは、その礼拝に招かれているのです。

主イエス様が受けられた苦しみ、悩み、恥に勝るものはありませんが、それは、私たちが受けた苦しみ、悩み、恥と見做され、主イエス様の「義」が私たちに転嫁され、私たちは「義」と認められるのです。

難行苦行をしなくても、完全な「義」を手に入れる事が出来るのです。

「キリストのみ、信仰のみ」は、単純な教理であり、主張ですが、これは、人間が考え出した教理ではありません。

唯一真の神様の恩恵であり、計り知る事の出来ない知恵から出ているのです。

人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

多くの信徒は、自分の自己満足のためではなく、唯一真の神様に喜んで頂こう、との動機から発しているのでしょうが、神様が喜ばれる礼拝は、創意工夫を凝らした、差別化した礼拝ではなく、歯を食いしばって頑張る事でも、励む事でもなく、御子、主イエス様の犠牲に感謝する事です。

多くの信徒は、自分の自己顕示のためではなく、少しでも良いものを献げたい、との動機から発しているのでしょうが、主イエス様が最高の献げ物となってくださっているのであり、何も加える必要はありません。

私たちには本物の仲介者、御子、主イエス様がおられるのですから、礼拝に差別化を意識したり、創意工夫を加える必要もなく、患難辛苦に飛び込み、耐える必要もなく、課題を設定して、達成する必要もありません。

惑わすだけの「この世のもろもろの霊」や「この世の幼稚な教え」に頼るのでもなく、「この世のもろもろの霊」や「この世の幼稚な教え」から離れ、唯々、主イエス様を信じて、主イエス様から離れない事だけを考えて歩む事が、何より大切なのです。

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                                       2022-5-22礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙31節~4

説教題:「上にあるものを求めなさい」

【導入】

パウロは、214節で、「あなたがたは・・・様々な規程、債務証書」から解放された、と語り、20節では、「この世のもろもろの霊」、第三版では「この世の幼稚な教え」と訳していますが、私たちは、諸々の諸霊と呼ばれるものの支配から、それらにまつわる幼稚な教えから、先祖代々伝えられて来た因習や根拠のない習慣などから、完全に自由にされた、と語ります。

続けて、パウロは、「様々な規程、債務証書」から解放された者に、「この世のもろもろの霊」、「この世の幼稚な教え」から自由にされた者に期待される生き方について語ります。

教理、原則を語り、適応、具体例を語るのが、パウロの手紙の特徴です。

あなたがたは解放された、自由にされたのだから、再び「様々な規程、債務証書」に縛られた状態に逆戻りしないように、異端の教師の吹聴する、禁欲主義的教えや、御使い礼拝の因習に逆戻りしないための生き方について、具体的な適応を語るのです。

【本論】

新改訳2017版 3:1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

キリスト者は、御子、主イエス様の贖いによって罪を赦され、「あなたがたはキリストとともによみがえらされ」、神の国の民とされました。

この事は、キリスト者に霊的な、新しい視点を与えます。

キリスト者は、地上に生きているため、この世のモノ、地上の過ぎ去って行くモノ、滅びて行くモノ、朽ちて行くモノ、消え去って行くモノに強い影響を受けますが、これらに支配され、心を奪われ、振り回されてはならないのです。

キリスト者は、この世に生きてはいますが、将来、「神の国、永遠に続く国」に入れられるのですから、将来、「神の国、永遠に続く国」に入れられる事を意識して、この地上での、束の間にしか過ぎない生き方を考えなければならず、「神の国、永遠に続く国」の住民である事を意識して、この地上のモノの価値を解釈し、判断しなければならないのです。

上にあるものを求めなさい」であり、地上のモノに惑わされてはならず、エサウのように、食べたら無くなるモノと長子の権利を交換するような愚を冒してはならないのです。

キリスト者は、御子、主イエス様に倣う者とされたのですから、常に、主イエス様を意識しなければならず、人間が見るようにではなく、御子、主イエス様が見るように見なければならず、何が、唯一真の神様の前に価値、意味がある事か、御旨である事かを吟味し、取捨選択していかなければならないのです。

感情や状況に支配され、影響を受けた判断、言動ではなく、内住される聖霊様を通して、主イエス様の御旨を知り、主イエス様の御旨をこの地上で行なって行く事が期待されているのです。

このように生きる秘訣は、天におられ、栄光を身に纏っておられる主イエス様のお姿を見つめ、「永遠」の価値があるモノだけに、意識的に関心を持つ事です。

この世の物への拘りを捨て、無用なモノは、意識的に意識から排除しなければなりません。

しかし、パウロは、この世的なモノに反対し、この世の一切の活動や営みから離れ、仙人のように、世捨て人のように、何もしないで「神の国、永遠に続く国」の事だけを考えていれば良い、と語っているのではありません。

この世からの逃避や、厭世主義に入る事が、パウロの本意ではありません。

この世に引きずられず、縛られず、しかし、この世に関わりを持ち続けるのです。

何故なら、キリスト者の使命は、この世と関わりを絶つ事ではなく、この世に唯一真の神様の栄光を現し、御子、主イエス様の贖いを伝え、「神の国、永遠に続く国」の事をお知らせする事だからです。

御子、主イエス様がよみがえられたのは、「神の右の座に着」かれるためであり、私たちをご自身と共に「神の国、永遠に続く国」に引き上げるため、「神の国、永遠に続く国」に招き入れるためであり、キリスト者は、この事を、この世に伝え、広めなければならないのです。

3:2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。

上にあるものを思いなさい」とは言っても、「神の国、永遠に続く国」の事を、あれこれ想像する事を奨励しているのではなさそうです。

思いなさい」は、「期待する、待ち焦がれる」の意味で理解すると良いでしょう。

「神の国、永遠に続く国」にあるモノは、地上のモノの延長ではありません。

全く新しい、全く素晴らしい、朽ちる事も、錆びる事も、衰える事も、壊れる事もないモノであり、想像出来ないモノなのです。

「神の国、永遠に続く国」の民としての、新しい生活に相応しく、また不可欠なモノが用意されているのであり、それらを受け取る事が出来るのです。

地にある」全ての物は、人間の犯した罪の影響を受け、本来の働きをしていませんし、本来の目的も果していません。

悪しき影響を及ぼし、時に、害毒を振り撒いています。

地にある」者は、自己を中心として、地上の事ばかりに執着し、血眼になって自分の利益を追求し、人を踏み台にしても自分の名誉のために画策します。

しかし、「神の国、永遠に続く国」の民とされた者は、御ことばを中心、基準として、「上にあるもの」、唯一真の神様、御子、主イエス様を証しし、お仕えして行こうと努めるのです。

人は心にある事を外に現します。

無意識であっても、知らず知らずのうちに、心にある事を行なうのです。

しかし、意識する事によって、無意識は制せられ、変革する事が出来ます。

意識的に御子、主イエス様の事を思い続ける事が、キリスト者の行き方の第一歩なのです。

お金の事ばかりを考えていると、何でもお金に繋がり、健康の事ばかり考えていると、何でも健康と繋がります。

何時も考えている事が、その人の考えの土台となり、その人を作り上げ、形造って行くのです。

上にあるものを思い」続け、「地にあるものを思」わなくすると、この世にあるモノに縛られる事は徐々になくなるのです。

単に、5節に列挙されている「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲」、8節に列挙されている「怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことば」に縛られなくなるだけでなく、「悪の実」を結ぶ事はなくなるのです。

これら「悪の実」は、唯一真の神様、御子、主イエス様の忌み嫌われるモノであり、「神の国、永遠に続く国」の民に相応しいモノではありません。

上にあるものを思い」続ける事は、「地にあるもの」、「悪の実」から離れる、最善の、そして唯一の方策なのです。

3:3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。

3節の表現は、ギリシャ人の埋葬に対する考えを引用し、発展させた教えです。

即ち、ギリシャ人は、人が死んで葬られる事を、「地中に隠される」、と表現したそうですが、「死」という言葉を忌み嫌い、「隠れる」と言い換えただけであり、ここに希望や、復活とか永遠の思想はなく、あるのは消滅、虚無でしょう。

しかし、パウロは、キリスト者の死を、「キリストとともに神のうちに隠され」、と表現し、「」を唯一真の神様、御子、主イエス様に結び付け、「あなたがたは」、主イエス様の復活と、永遠のいのちに結び付けられているのだ、と語るのです。

死は終わりではなく、「神の国、永遠に続く国」の民になる事なのです。

3:4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

キリストが現れると」、即ち、御子、主イエス様再臨の時、「神のうちに隠され」ていた「あなたがた」は、「キリストとともに」、御子、主イエス様の「栄光」に包まれて、「現れます」、即ち、復活します、と宣言します。

パウロは、御子、主イエス様再臨の時に付いて、何時か、何処か、を語りませんが、再臨の確実性に付いては、いささかも、疑ってはいません。

御子、主イエス様が再臨される時、終末の時、唯一真の神様のご計画は完全に遂行されるのです。

何時、どんな形でなのかは、知る由もありませんが、知る必要はありません。

大事なのは、終末がある、という事。

その時、御子、主イエス様が再臨される、という事であり、キリスト者は、この世の生活に於いて、復活の主、イエス様に生かされている事をこの世に示す事です。

復活の主、イエス様に生かされている事とは、主イエス様の御旨を行なう事です。

この世と関わりを持たない隠遁生活をおくるのでも、孤高の仙人のような生活をおくるというのでもありません。

再臨、終末は、遥か先の事ではありません。

また、現在は、終末と区別される、終末の直前の時代というのでもありません。

現在と終末は繋がっており、その連続性の中で、キリスト者は復活の主にあって生きる事によって、終末に受け取る祝福を、今ここでこの身に帯びている事を世に示すのです。

終末の祝福とは、「神の国、永遠に続く国」に招き入れられる事であり、この世で、「神の国、永遠に続く国」の民として生きるのです。

「神の国、永遠に続く国」に招き入れられてから、「神の国、永遠に続く国」の民として生き始めるのではなく、「神の国、永遠に続く国」に招き入れられる前から、「神の国、永遠に続く国」の民として生きるのです。

この世にあって、御子、主イエス様が今ここにおられるかのように、主イエス様からの祝福を受け取り、この身に帯びているかの如くに、「神の国、永遠に続く国」の民として生きるのです。

【適応】

その秘訣は、「上にあるものを求めなさい」「上にあるものを思いなさい」です。

地上にあるモノを求めても、何の意味もありません。

地上にあるモノを参考にしても、何の意味もありません。

地上にあるノは、変わるモノであり、朽ちて行くモノであり、消えて行くモノです。

頼りにならず、支えにならず、助けにもなりません。

この世のもろもろの霊」や「この世の幼稚な教え」も地上にあるモノであり、頼りにならず、頼れるのは自分だ、と悟って切磋琢磨しても、患難辛苦に飛び込み耐えても、課題を設定し達成しても、意味はありません。

頑張れば頑張るほど、限界を感じ、空しさを覚え、不甲斐なさに苛まれ、自己嫌悪に陥るだけなのではないでしょうか。

上にあるものを求めなさい」「上にあるものを思いなさい」は、上を目指し、目標にして、この世を生きる、歩むのではありません。

先に、「上にあるものを思いなさい」に付いてお話しましたが、「思いなさい」は、「期待する、待ち焦がれる」の意味で理解すると良い、とお話しました。

即ち、御子、主イエス様に期待し、待ち焦がれるのであり、主イエス様から目を離さないで、この世を生きるのであり、歩むのです。

私たちには、主イエス様から目を離さない事が期待されるのであり、何かを達成する事や失敗しない事、主イエス様のお役に立つ事が期待されるのではありません。

主イエス様から目を離さない事が重要であり、その結果、目標や課題を達成しなくても、達成しても、「神の国、永遠に続く国」に招き入れられ、「神の国、永遠に続く国」の民とされるのです。

主イエス様から目を離さない事が重要であり、失敗しても、失敗しなくても、「神の国、永遠に続く国」に招き入れられ、「神の国、永遠に続く国」の民とされるのです。

主イエス様から目を離さない事が重要であり、主イエス様のお役に立てなくても、お役に立てても、「神の国、永遠に続く国」に招き入れられ、「神の国、永遠に続く国」の民とされるのです。

地上のモノは、移ろい、私たちを惑わし、目的地である「神の国、永遠に続く国」に行き着く事を阻みます。

この世にあるモノは、肉の目には確実なモノに、信頼出来るモノに見えましょう。

上にあるもの」は、肉の目には見えず、不確実なモノに、信頼出来そうもなく感じましょう。

しかし、「上にあるもの」は、変わる事が無く、移ろう事が無く、「上にあるもの」から目を離さないなら、迷う事は無く、回り道をする事も無く、目的地である「神の国、永遠に続く国」に必ず行き着く事が出来るのです。

主イエス様を信じて、主イエス様から離れない事だけを考えて歩む事が、何より大切なのです。

私たちを導くために、主イエス様は、神の右の座に座っておられるのです。

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                                       2022-5-29礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙3章5節~11

説教題:「古い自分と決別しなさい・・・キリストがすべて」

【導入】

キリスト者は、御子、主イエス様の十字架の死と共に、古い自分に死に、御子、主イエス様の復活と共に、新しく生きる者とされました。

御子、主イエス様と共に死んだ、と云う事は、罪に対して死んだ、と云う事であり、罪に対して死んだ、と云う事は、罪は、私たちに対して、どのような支配権をも持たない、と云う事です。

私たちは、罪に支配される事はなくなったのですが、罪の影響下にある事は紛れもない事実です。

キリスト者は地上に生きる身であり、古い性質、罪と戦い続けなければなりません。

パウロは、コロサイ教会の人々に、主イエス様再臨の時に与えられる栄光のからだを頂くための準備の必要性を説いて来ました。

古い自分に死に、新しく生きる必要性を説かれた時、何となく解ったような気にはなりますが、漠然としており、何をしたら良いのか、何をしてはならないのかは、判然としません。

そこで、パウロは、栄光のからだを頂くための備えとして、その具体例を語ります。

【本論】

新改訳2017版 3:5 ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。

地にあるからだの部分、すなわち」、古い自分、古い性質、罪から出て来る行為が列挙されます。

淫らな行い、汚れ」ですが、この言葉は、実際に行なわれる不道徳、破廉恥な性的行為を指し示し、変態的な性的嗜好行為、倒錯的な性的嗜好行為、獣姦、同性愛などを指し示します。

加えて、当時の異教社会では、婚前交渉、婚外交渉、見せ掛けだけの結婚が、当然の事として受け入れられ、公然と行なわれていたのです。

そうした社会の中で、創造者にして支配者なる、唯一真の神様、諸規則の制定者の定め、一夫一婦制に従い、男女両性の間で持たれる関係こそ、祝福の基であり、唯一真の神様の定められた夫婦関係、性に関する定めに従って生きる、キリスト者の存在は、極めて意義深いものなのです。

「性」の乱用は、唯一真の神様の定めを蔑ろにする、不道徳、破廉恥極まりない行為であり、極めて重大な結果、唯一真の神様との関係の破壊、自身の破滅をもたらしましょう。

情欲、悪い欲」ですが、この言葉は、内面的な不道徳、破廉恥な想像をたくましくする事を指し示し、「情欲、悪い欲」が昂じて、「淫らな行い、汚れ」に至るのであり、「情欲、悪い欲」に手を打たなければ、「情欲、悪い欲」にメスを入れなければ、真の解決には至らないのです。

パウロは、「貪欲を殺してしまいなさい」と、命じます。

ストア派の倫理では、「貪りは飽く事のない自己追求として、あらゆる罪悪の根源である」と定義していますが、「貪欲」は、飽く事のない欲望、欲求の追求であり、止まる事のない、度を越した所有欲であり、他人のものにまで欲望を拡大させる事です。

「お金」を欲したなら、盗みでも、詐欺でもする。

「名誉・名声」を欲したなら、度を越した野心を持ち、裏切りも不義理も辞さない。

「権力」を欲したなら、冷酷、横暴な専制君主にさえなる。

「性」を欲したなら、相手の人格などお構いなし、性犯罪さえ犯す。

貪欲」は、単なる、究極的な自己中、自分本位な生き方ではありません。

貪欲」に身を委ねるなら、「貪欲」に神の座を与える事であり、「貪欲」を神とする偶像礼拝に他ならないのです。

3:6 これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。

偶像礼拝は、唯一真の神様の忌み嫌われる行為であり、「神の怒りが・・・下ります」。

神の怒り」は、人間の罪に対する、唯一真の神様の、聖にして義なる反応です。

異邦人の、偽教師の、真理を阻もうとする不義なる行為に対して、そして、神の民の、不信仰と不義なる行為に対しても、「神の怒り」は下り、厳格に執行されます。

この「神の怒り」を逃れる道は唯一つ、御子、主イエス様の十字架しかありません。

神の怒り」を宥めるのは、十字架だけであり、「神の怒り」抜きにして、十字架の正しい理解はあり得ません。

昨今、教会の礼拝、説教では、愛や憐れみ、赦しが強調されますが、「神の怒り」の大きさ、激しさ、厳しさがしっかり語られ、しっかり理解され、しっかり受け止められてこそ、赦しの大きさが際立ち、十字架の意味も際立つのです。

神の怒り」を抜きにした、愛や憐れみを強調する救済論は、お念仏やお題目、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」などを唱えるだけの救済思想は、パウロの説く、教会が届ける福音とは異質のものです。

3:7 あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩み方をしていました。

パウロは、コロサイ教会の人たちに、以前の状態、暗黒の中にいた事を思い起こさせ、現在の栄光と希望に溢れる現状とを対比させます。

3:8 しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。

怒り」とは、明らかにされた、表情に現わされた、憎悪の感情と態度であり、「憤り」とは、激しく燃え盛る、強い怒りの感情であり、「悪意」とは、人を意識的に傷つける心根であり、「ののしり」とは、悪口、名誉毀損、誹謗中傷の類であり、卑俗な言葉、棘のある言葉、辛辣な言葉で人を傷つける事です。

恥ずべきことば」とは、猥褻な言葉、淫らな事を暗示させる、汚らわしい言葉であり、相手を追い詰め、困らせ、苦しむのを楽しむような言葉です。

パウロは、これら、対人関係における、悪い習慣とはきっぱり縁を切るように、強く命じます。

人間の「怒り」は、堕落した性質から生じた感情であり、罪と怨恨を帯びていて、非常に見苦しく、何の良いものも生み出しはしませんが、唯一真の神様の「怒り」は、聖にして義なる本性から生じたもので、人を謙らせ、敬虔にさせ、真の悔い改めに向わせます。

3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、

偽りを言ってはいけません」は、現在、命令形であり、今まで行なって来た、嘘に塗り固められた生き方、悪習とは、きっぱり縁を切るように、強く命じます。

古い人」の特徴的「行い」は、5節から9節に列挙されている通りですが、「その行ない」を、5節「殺してしまいなさい」であり、8節「捨てなさい」であり、9節「脱ぎ捨て」なければならないのです。

殺すか、生かし続けるか、捨てるか、持ち続けるか、脱ぎ捨てるか、着続けるかの、二者選択であり、中間はないのです。

そして、これら、5節から9節に列挙されている「古い人」の特徴的「行い」は、程度の差こそあれ、誰もが必ず持っている事なのであり、他人事ではありません。

対岸の火事を決め込んではならず、自分の事として、真剣に取り組まなければならない事なのです。

その行ない」は、御子、主イエス様に与るキリスト者には、縁も所縁もない事であり、キリスト者の生活の中に持ち込んでは、また、あらゆる場面で関わりを持ってはならないのです。

3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて」、「新しい人を着たのです」から、新しい生き方が期待されます。

」は本来、「それを造られた方のかたちに」似せて造られており、全ての種類の動物と区別された、特別な存在です。

霊的な存在であり、「人を造られた方」と霊的な交わりを持つ事が出来る特別な存在です。

理性を持ち、知性をもち、道徳性を持ち、宗教性を持ち、文化を形成します。

しかし、罪により、「人を造られた方」との霊的な交わりを絶たれ、理性を失い、知性を悪用し、道徳性を捨て、宗教性を支配に利用し、文化を破壊し、自分勝手な生き方を続けて来ました。

しかし、御子、主イエス様の贖いにより、「新しい人を着た」のであり、「人を造られた方」との霊的な交わりを回復し、御子、主イエス様のいのちと力が注がれ、「新しくされ続け、真の知識に至」るのです。

コロサイ教会の異端の教師たちは、パウロたちが教え伝える知識に加えて、神秘的な知覚、即ち、グノーシスの必要性を主張しましたがパウロは、異端の教師たちの誤りを言外に指摘し、「真の知識に至」るのは、神秘体験などではなく、「古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて」、「新しい人を着」る事、御子、主イエス様との深い、絶えざる交わりを持ち続ける事、御子、主イエス様のいのちと力とが注がれ続ける事だ、と主張したのです。

3:11 そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

ギリシア人もユダヤ人も」は、単に人種の差別ではなく、ギリシア人などの優生思想、ユダヤ人の選民意識の対立、差別であり、「割礼のある者もない者も」は、ユダヤ教に改宗した者の中にも、割礼の有無で対立、差別があったのです。

未開の人」とは、非文化圏の人たちの事であり、「スキタイ人」とは、北方の草原地帯で生活する遊牧民の事ですが、最下等の野蛮人と見られ、この両者は文化的な面から、ギリシア人などから差別されていたのです。

奴隷も自由人も」ですが、当時、「奴隷」は法的には財産であり、一個の家財や道具、家畜に過ぎず、「生きた道具」と呼ばれ、人格はなく、経済的に、社会的に、階級的に差別されていたのです。

そこに、パウロは、新しい見方を与えます。

社会的には、また、機能、役割の上では区別が存在したとしても、差別があってはならないと教えるのです。

御子、主イエス様を中心とする時、全ての人間的対立や差別が取り除かれて行くのです。

長年、当たり前な事として、自然な事として受け入れて来た差別を取り除く事を、無意識のレベルに染み込んでいる差別意識を取り除く事を教え、実践する事は、福音の大きな、素晴らしい業績のひとつです。

これを成し得るのは「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」、との教えです。

【適応】

思考、判断、行動、の規準は「キリスト」です。

御子、主イエス様がお考えになられるように考え、御子、主イエス様が判断されるように判断し、御子、主イエス様が行動されるように行動するのです。

御子、主イエス様は、「ギリシア人」「のうちにおられ」、「ユダヤ人」「のうちにおられ」、「割礼のある者」「のうちにおられ」、「割礼のない者」「のうちにおられ」、「未開の人」「のうちにおられ」、「スキタイ人」「のうちにおられ」、「奴隷」「のうちにおられ」、「自由人」「のうちにおられ」るのです。

ギリシア人」を、「ユダヤ人」を、「割礼のある者」を、「割礼のない者」を、「未開の人」を、「スキタイ人」を、「奴隷」を、「自由人」を差別する事は、「キリスト」を差別する事であり、自分を王様、支配者、神の座に置く事です。

5節から9節に列挙されている「古い人」の特徴的「行い」は、「新しい人を着た」者に相応しくはありません。

新しい人を着た」のであり、「古い人をその行いとともに脱ぎ捨て」たのですから、一切関わってはならないのです。

自分の努力や熱心では難しい事でしょうが、「新しい人を着た」のであり、「キリストが・・・うちにおられるのです」から、大丈夫です。

古い人をその行いとともに脱ぎ捨て」たのであり、別の言い方をするならば、「古い自分と決別しなさい」でしょう。

堅く決意するのであり、不退転の覚悟で取り組むのです。

性別、人種、身分、職業、貧富、階層、主義主張などで差別しては、差別されては、差別させてはならないのです。

キリストが・・・すべてのうちにおられる」ので、性別、人種、身分、職業、貧富、階層、主義主張などの差別はなくなっており、既に、隔ての壁は壊され、社会のあらゆる差別に苦しむ人たちに、本当の福音がもたらされているのです。

福音は、思想ではなく、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」を体現させる事であり、全ての人の人格を認め、お互いに尊重し合う事の実践なのです。

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