2022-6-5 ペンテコステ記念礼拝
聖書箇所:ヨエル書1章1節、2章28節から32節
説教題:「聖霊の注ぎ」
【導入】
今日の礼拝はペンテコステ記念礼拝と命名しています。
プロテスタント教会には幾つかの重要な記念礼拝がありますが、ペンテコステ記念礼拝もその一つです。
他には、イースター記念礼拝、クリスマス記念礼拝が重要なものとして上げられるでしょう。
どの記念礼拝も、それぞれに意義深い礼拝でありますが、今日献げるペンテコステ記念礼拝は、私たちにとって非常に関係の深い礼拝であります。
何故ならば、クリスマスとイースターはイエス様が主人公ですが、ペンテコステは私たちが主人公だからです。
勿論、唯一真の神様のご計画にあってであることは言うまでもないことですが、
ペンテコステの出来事は、私たちに直接関り、私たちの生き方、信仰生活に劇的な変化をもたらすものであるからなのです。
私たちは罪の性質を持っていて、それは強く私たちに付きまとい、決して離れることがありません。
ですから、人間は自分の力で神様の喜ばれる行動を行なうことができず、唯一真の神様の教えに反する行動、罪の奴隷としてしか行動することができません。
良い行いのように見えても、その行動の動機を探って行けば不純であったり、自己中心であったりするのです。
人に認めてもらいたい思い、褒めてもらいたい思いが見え隠れし、何時の間にか自分中心になっている。
唯一真の神様が中心であるはずの礼拝も、何時の間にか自分が中心になっていて、自分の都合が優先し、自分の考えで決めてしまう。
奉仕も献げ物も、自分で決めてしまっている。
しかも、その自己中心性に気が付かず、最高の礼拝を献げている、最高の奉仕を献げている、献げ物を献げていると思い込んでいるのです。
私たちがどんなに犠牲を払ったとしても、唯一真の神様の払われた犠牲に及ぶものはなく、貧しい礼拝、貧しい奉仕、貧しい献げものしか献げられないのが現実なのです。
しかし、ペンテコステの日に、聖霊が下られ、私たちの心の中に住んでくださった時から全てが変わりました。
しかも、この聖霊が私たちに注がれると言う恵みは、一時的なものではなく、永続的なものであり、一方的な、唯一真の神様の恵みであり、神様の預言の成就なのです。
聖霊が注がれてこそ、私たちの礼拝は最高の礼拝となり、奉仕も献げものも最高のものとなるのです。
この聖霊が注がれると言う預言、約束は、今日のテキストのヨエル書に記されています。
【本論】
1:1 ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。
ヨエルと言う預言者は「ペトエルの子」であると記されていますが、その出自ははっきりしません。
活躍した時代も不明であり、注解書の解説によれば、紀元前8世紀頃とも、紀元前5世紀頃とも言われ、諸説ありますが、決定付ける証拠はありません。
しかし、証拠の有無が問題なのではなく、その預言の成就こそが大切なのであることは言うまでもありません。
このヨエル書には二つのキーワードがあります。
一つは「イナゴ」であり、今一つは「主の日」です。
「イナゴ」は破壊と荒廃を象徴しており、「主の日」は神様の裁きと贖いを象徴しています。
ヨエルの活躍した時代を特定することはできませんが、ユダヤ人が偶像を礼拝し、神様を顧みなくなった時から、自然災害がユダヤ人を苦しめ、隣国の脅威がユダヤ人を苦しめたことは歴史の事実であり、聖書に記されている通りです。
ユダヤ人の住んでいるパレスチナ、カナンの地は「乳と蜜の流れる地」と形容される滋味豊かな土地です。
春の雨、秋の雨によって、土地は潤い、豊かな実りを人々に提供していました。
唯一真の神様が砦となり、盾となってくださり、あらゆる外敵から守ってくださっていたのに、その唯一真の神様を捨て、偶像に寄り頼んでしまった時から、土地は豊かな実りを生み出す力を失い、苦労して育てた作物もイナゴが襲来して食い荒らし、外敵が押し寄せて殺戮(さつりく)と簒奪(さんだつ)を繰り返すようになってしまったのです。
イナゴは文字通り、自然災害を現しており、膨大な数のイナゴが襲来し、ありとあらゆる草木、野菜果物を食い尽くしてしまいました。
それでも悔い改めず、益々偶像に頼るユダヤ人に、異郷の人々がイナゴの大群のように押し寄せて来て、人々を殺戮し、家財を奪って行ったことを象徴的に表現しているのです。
度重なる自然災害、人的災害を通しての唯一真の神様からの警告、懲らしめですが、先にも申し上げた通り、人は罪の奴隷状態にあるため、神様の御心に適う行動をとることができないのが現実なのです。
そこで唯一真の神様はご計画を立て、御子、主イエス様を世に送り、十字架に付けて、人間の罪の刑罰を精算し、主イエス様の復活により人に新しい命を与えると言う約束を成就なされたのです。
更に、ヨエルの預言にあるように「わたしの霊」、つまり聖霊を注ぎ、新しい命に相応しい生き方ができるようにしてくださったのです。
2:28 その後、わたしは すべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。
2:29 その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。
この聖霊は「すべての人」に注がれています。
「あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る」と、老若男女を問わずに聖霊が注がれることを約束しています。
また「男奴隷にも女奴隷にも」と、身分を問わずに聖霊が注がれることを約束しています。
この「男奴隷にも女奴隷にも」は国籍を現している表現でもあります。
男奴隷、女奴隷と呼ばれる人々は諸外国から捕虜として連れて来られた人々や、売買されて来た人々、外国人であって、国籍の違う彼らにも分け隔てなく聖霊が注がれることが約束されているのです。
この聖霊の注ぎは、唯一真の神様の一方的な憐れみであって、私たちのどんな行為も必要とはしません。
男であっても女であっても、老人であって青年であっても、自由人であっても奴隷であっても、ユダヤ人であっても外国人であっても、文字通り全ての人に聖霊が注がれるのです。
聖霊の注ぎは人間に対する最高の贈り物です。
何故ならば、御子、主イエス様と言う救い主のことも、神様と言う創造者のことも、聖書の教えも、律法の意味するところも、聖霊の助けがなければ正しく理解できず、受け入れることができず、行なうことができないからなのです。
目の前に宝があっても、金庫に入っていたら手に入れることはできませんが、金庫を空けてくださる方が居れば、宝を手に入れることができます。
同じように、赦しが、救いが、永遠の命が目の前にあっても、罪の奴隷となっていて、目が見えず、手足を縛られ、手足を出せない状態であったならば、赦しも、救いも、永遠の命のことを知ることができず、手に入れることはできないのです。
しかし、聖霊が注がれる時、罪の縄目は断ち切られ、目が見えるようになり、手足は自由になって赦しを、救いを、永遠の命を手に入れることができるのです。
これが、ヨエル書の主題である「イナゴ」に象徴される苦難、艱難の後に続く「主の日」のできごとなのです。
主の日に聖霊が注がれると、全ての人が預言をし、夢を見、幻を見ると記されていますが、これは唯一真の神様との全面的な関係の回復であり、霊的な礼拝を献げることであり、各々に与えられた賜物に従って、賜物を用いて唯一真の神様に仕えることを現しています。
人間の側の主体性に依ってではなく、聖霊の働き、主導、導きに依って、唯一真の神様との関係が回復し、真の礼拝、奉仕、献げ物を献げることができるようにされるのです。
「負んぶに抱っこ」って言いますが、唯一真の神様は、赦しと救いを用意してくださったのみならず、それを受け取るまで、助け導いてくださるのです。
しかし、「主の日」は良いことばかりが約束されている訳ではありません。
「主の日」は贖いの日、恵みを享受する日であると同時に裁きの日、審判の日であることも忘れてはなりません。
2:30 わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。
2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
黙示録に記されているような天変地異が起こり、世界各地に争い、迫害が起こります。
血が流され、火と煙の柱が、ユダヤ人とエジプト人を分け隔てたように、キリスト者とそうでない人とを分ける時がやって来るのです。
あちらこちらに偽キリストが現れ、人々を惑わすでしょう。
2:32 しかし、主の御名を呼び求める者は みな救われる。主が言ったように、シオンの山、エルサレムには 逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、主が呼び出す者がいる。
ヨエル書の主題である「主の日」は救われる人々と、裁かれる人々を二分する日です。
「主の日」に裁きの日に「主の御名を呼び求める者はみな救われ」ます。
逆に「主の御名を信ぜず、呼び求めない者」は裁かれるのです。
全ての人に聖霊が注がれますが、すべての人が受け入れる訳ではなく、全ての人が救われる訳ではないのです。
聖霊の注ぎを拒まず、受け入れた人だけが救われるのです。
恐るべき災害を逃れ、生き残った僅かな者の内から、辛うじて救われる人が起されるのです。
【適応】
聖霊が下ると言うヨエルの預言を、ユダヤ人は千秋の思いで待っていたのではないでしょうか。
更に、イエス様の弟子たちは、イエス様が昇天された時の約束と重ねて合わせて、待ち焦がれていたことでしょう。
律法を守ることでは達し得なかった礼拝、奉仕、献げ物が、私たちの心の中に住んでくださる聖霊の働きによって、助けによって唯一真の神様に受け入れられる礼拝、奉仕、献げ物になるのです。
罪に支配されて、制限付きの、不自由な礼拝しかできない人々に聖霊が注がれる時、唯一真の神様との関係が正され、真の礼拝が献げられるようになりますが、聖霊が注がれることの素晴らしさはこれだけではありません。
更に聖霊の働きは、古い契約である律法の束縛から解放して下さり、新しい契約であるキリストに仕える者にしてくださると言うことです。
コリント人への手紙第二3章6節「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」
御霊は私たちを生かすのです。
だからペンテコステが大切なのです。
聖霊が下ると言う事はものすごい事なんです。
罪に汚れた私たちの中に、唯一真の神様が聖霊となって入ってくださるって言う事です。
しかも、一時的な滞在ではなく、永久に離れることなく、ずっと住んでいてくださるのです。
想像して下さい。
父なる神様、子なるイエス様から遣わされて、神である聖霊様が私たちの内に住んで、私たちと一緒に生涯を歩んで下さるのです。
失敗しても離れず、裏切っても出ていかないのです。
私たちが悟るまで、従うまで忍耐強く導いて下さいます。
私たちの内に住む聖霊を通して、唯一真の神様、御子、主イエス様の思いが、私たちに知らされ、聖霊の働きによって、知らされた通りに生きるように変えられて行くのです。
これがペンテコステです。
聖霊が注がれて、生き方が変わるのです。
事実聖霊を受けたペテロは群集の前で堂々と説教をしました。
エルサレム教会の誕生です。
聖霊を注がれた弟子達は迫害を受けながらも各地で福音を宣べ伝えました。
家の教会の誕生です。
その働きのスタートはペンテコステにあります。
聖霊が注がれたから、弱かった弟子たちは強くされたのです。
聖霊を注がれた人々は全世界に出ていって証人となりました。
各地に教会が誕生して行きました。
主イエス様と出会い、聖霊を注がれたパウロは、迫害する者から、伝道する者へと変えられました。
弱かった人々が、強くされ、間違った人々が、正されて行ったのです。
それも事実ですが、ペンテコステのすばらしさは、そんな過去のこと、他人事ではないのです。
クリスチャン一人ひとりに聖霊が注がれ、新しい生き方に変えられるルーツがここにあると言う事なのです。
私たちは自分の力で自分を変えることはできません。
罪の奴隷となっているからです。
しかし、聖霊様が注がれるなら、私たちは変えられ得るのです。
変えられたいと願い、聖霊様を受け入れるなら、私たちはキリストに仕える者に変えられるのです。
聖霊様は神様であられるのに、その地位を捨てて、地上に下りて、私たちの内に住んでくださるのです。
そこまでして下さる神様に、どんな言葉で感謝を捧げれば良いのでしょうか。
神の御子、主イエス様が人となって地上に来られ、私たちの罪のために死んでくださった、と言うことだけでもすごい事なのに、更に聖霊様が私たちの内に住んで下さる恵みに感謝しようではありませんか。
聖霊降臨。
使徒の働き2章3節に記されているように「炎のような舌が分かれて現われ、一人ひとりの上にとどまった。」のです。
この一人ひとりはあなた、あなた、あなたです。
唯一真の神様は私たち一人ひとりを愛して、一人ひとりに聖霊を注いで下さったのです。
そして「とどまった」と記されていますが、これは電車や自動車が停車したのとは違います。
この「とどまる」と言う言葉は、位につかせる、任命する、と言う意味を持つ言葉です。
どのような任務かは人其々ですが、皆さん一人ひとりに任務が与えられています。
イエス様が再び来られる日は迫っています。
聖霊を注がれた私たちは、その日を見据えて、与えられた任務を全うしようではありませんか。
ボーッとしている為に神様はあなたに聖霊を注がれたのではないのです。
ペンテコステの日に際し、その聖霊が注がれた意味を考えて下さい。
神様はあなたの生き方が変わる事を願って聖霊を注いでくださいました。
ここに居られる皆様が、聖霊を注がれた者として、律法の奴隷ではなく、キリストの奴隷として、神を愛し、人を愛する、新しい生き方を歩まれ、益々神様に喜ばれ、祝福された生涯を歩まれますように。
2022-6-12礼拝
聖書箇所:コロサイ人への手紙3章12節から17節
説教題:「互いに赦し合い、愛し合いなさい」
【導入】
パウロは、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」と語りましたが、単なる思想や概念、理想を語ったのではありません。
「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」を体現させる事、実践する事が重要であり、全ての人の人格を認め、お互いに尊重し合う生き方を実践しなければなりません。
その、実践の具体的現われこそ、「互いに赦し合いなさい、愛し合いなさい」です。
黄金律であり、パウロは新しくされた人の特質、備えるべき徳目について語ります。
【本論】
新改訳2017版 3:12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
「あなたがた」、直接的にはコロサイ教会の人たちですが、現代の私たちに語られているのは、言うまでもありません。
何故ならば、これらの語り掛けは、時間を越えて、地域を越えて、人種を越えて、「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」、即ち、キリスト者に語られているからです。
キリスト者は、唯一真の神様の恵みの中に招かれ、入れられた身分の者であり、パウロは、先ず、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者「として」、即ち、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者「とされている」自覚をしっかり持つよう、促します。
この自覚をはっきり持たないと、これから語られる事柄が理想論になり、概念的になり、他人事になり、取り組む優先度の低い事柄となってしまうからです。
先ず「深い慈愛の心、親切」ですが、新共同訳、口語訳では「憐みの心、慈愛」と訳し、第三版では「深い同情心、慈愛」と訳していますが、これらの、他者に対する思いやりのある優しさ、特質、徳目は普遍的な、ヒューマニズム的な特質、徳目ではありません。
当時の社会一般では、身に障害を持つ人や病人などは、無用、不要の存在として扱われ、老人や孤児に対する配慮、身寄りのない者に対するいたわりなども、微塵もなかった時代です。
パウロは、このような時代、社会の中にあっても、「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として」、人間としての真の同情心を持ち、他者に対して深い思いやりのある優しさを持つよう促すのです。
「柔和」は、自分の権利や利益を主張せず、常に相手の権利を尊重し、利益を考え、穏やかに接する態度であり、「寛容」は、他者の愚かさや無知、無礼に対しても、決して節度のない批判や愚痴を持って反発しない態度であり、他者からの嘲笑や軽蔑、悪意ある言動に対しても、決して怨みや怒りを駆り立てない生き方です。
これらの特質、徳目は、律法主義的に、戒律として強制される類の特質、徳目ではなく、唯一真の神様の、恩恵の契約に基づいて、選び、分かたれ、神の民とされた者が持つべき特質、徳目のお勧めです。
これらを可能ならしめるのは、私たちは、被造物に過ぎないという自覚と、罪故に、地獄に行くしかない者であったにも関わらず、御子、主イエス様の十字架の贖いによって罪赦され、義と認められ、神の民とされた信仰に基づく自己観に立つ者のみが、持つ事が出来る特質、徳目なのです。
自分を何者でもないと認識し、神の憐れみの対象と自覚し、自分の中には自己を主張する権利など一片も存在しないと真に認識する者こそ、自然に他者に対する態度となって現れて来るのです。
他者に対して、柔和、寛容という態度となって現れ、真に忍耐深くあり得るのですが、これらの特質、徳目は、罪深い私たちの内から生まれ、生じるのではなく、「着なさい」であり、御子、主イエス様がお持ちの特質、徳目であり、着させて頂き、持つ事が出来る類の特質、徳目なのです。
3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
コロサイ教会の中には、否、どの時代の、どの地域の、どの教会の中にも、多かれ少なかれ考え方の相違があり、価値観の相違があり、意見の相違があり、高じて「不満を抱いた」りする事があります。
それは一方的なものではなく、「互い」であり、双方が「忍耐し合い」、「赦し合」わなければならないのです。
しかし、これらも律法主義的に、戒律として強制される類の命令ではなく、パウロは、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」、とお勧めします。
「忍耐し合い」、「赦し合」う事は、良い人間関係を作り上げるために取り組まなければならない第一の事ですが、自己の立場に強く固執する性質を持つ人間には、非常に難しい事です。
頭では分かっていても、感情がついていかないのです。
そこでパウロは、御子、主イエス様は、あなた方が「互いに赦し合」うよりも遥かに多く、「あなたがたを赦してくださった」事を思い出させ、主イエス様の実践に倣うようお勧めを致します。
また、主イエス様の教え、マタイの福音書6章12節、主の祈りの一節、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」、であり、マタイの福音書18章21節、「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」」に従うよう促すのです。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
ここでもパウロは「愛を着けなさい」と、お勧めします。
私たちの内にある「愛」は、また、私たちから出て来る「愛」は、自己中心的であり、利己的、選択的、排他的です。
私たちは、様々な目的で結び付いています。
利益を得る関係として、欲望の対象として、利用すべき道具として・・・。
相互に利害が絡み、複雑な人間関係を生じさせています。
「愛」が欠けた人間関係は、結局のところ、役に立つ間だけの、利用する価値がある間の関係であり、行き着くところは、傷付け合ってしまう関係なのです。
ですから、私たちは、御子、主イエス様がお持ちの「愛を着け」る必要があるのです。
「愛は結びの帯として完全です」、とありますが、「愛」は、「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容」と「忍耐」と「赦し」などの特質、徳目を私に強く、しっかり結び付け、相手のために喜んで犠牲を払い、不利益をも甘んじて受ける事が出来るようにしてくださるのです。
そして、これらの特質、徳目を唯一真の神様の喜ばれる徳目、特質に高めてくださるのです。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
「キリストの平和」は、御子、主イエス様によってもたらされる「平和」であり、唯一真の神様との「平和」、即ち、和解をもたらすのみならず、自己の利害には非常にシビア、敏感な人間同士の間にも「平和」、即ち、和解をもたらすのです。
「平和」は、精神的平和、内面的平安など、静態的、消極的な意味だけではなく、対外的平和、社会的平安など、動態的、積極的な意味合いです。
「支配する」は、競技に於いて、勝敗を決定する審判員に当てて使われた言葉であり、「キリストの平和」が審判員となって、個人的な利害を制し、事態を収拾するのであり、教会は一致を保ち、その働きを進めて行く事が出来るのです。
パウロは「感謝の心を持つ人になりなさい」、とのお勧めをします。
「忍耐」する事も、「赦」す事も、一大決心を必要とする大変な事であるのに、更に、「感謝」しなさいなんて無理な相談だ、と考える人もおられるのではないでしょうか。
実社会に於いても、感謝する事は案外、少ないのではないでしょうか。
そこから、人間関係の軋み、不調和、ズレが生じるのではないでしょうか。
今更「ありがとう」なんて、なんとなく、恥ずかしい事かも知れませんが、キリスト者は、「召されて一つのからだとなったので」すから、率先して感謝を現し、手本を示していこうではありませんか。
3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
「キリストのことば」は、主イエス様が語られたことばか、主イエス様について語られたことばか、の解釈の違いがありますが、大事なのは、どちらにしても、知っているだけ、記憶しているだけ、理解しているだけでは、不十分であり、みことばへの従順を示唆している、という事です。
「住む」であり、その人の内に定着し、その人の考え、行動の基準となり、生き方とならなければならないのです。
決して、座敷牢に閉じ込めておく、の意味であってはなりません。
そして、個人的なお勧めであると同時に、「あなたがたのうちに」であり、共同体へのお勧めである事に注目しなければなりません。
みことばへの従順と、みことばの分かち合いこそ、群れをまとめ、麗しい礼拝を献げ得るのです。
「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い」と勧められていますが、教会を批判の場、或いは糾弾の場、吊るし上げの場としては断じてなりません。
「知恵を尽くして」であり、充分な配慮の下で、注意深くです。
マタイの福音書18章15節以下、「18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」
教会は、「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌」う場としなければなりません。
「詩と賛美と霊の歌」は、諸説あり、「詩」は詩篇、「賛美」はマリアの賛歌、ザカリヤの賛歌、シメオンの賛歌、などで、これらに含まれないものや、即興的な歌を「霊の歌」と区分しているようですが、厳密な区別がある訳ではなく、礼拝に於ける神讃美である事が重要です。
人々の心を整え、纏め、神のことば、説教に向けさせ、相互に励まし合うのです。
公的な、教会での礼拝のみならず、私的な、日常生活全体が神礼拝と繋がるような生き方が求められているのではないでしょうか。
3:17ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
教会での立ち振る舞い、言動と、私生活に於ける立ち振る舞い、言動に区別はなく、何時も同じようであるべきでしょう。
唯一真の神様が支配される領域と、神から離れた人間の自主性によって支配される領域とを区別する二元的思想、聖なる分野と、世俗の分野とを区別する考えは、危険であり、キリスト者が受け入れてはなりません。
常に、唯一真の神様、御子、主イエス様を意識した言動が求められています。
コリント人への手紙第一10章31節、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」でしょう。
緊急事態や無意識はともかく、直ぐに冷静さを取り戻し、唯一真の神様、御子、主イエス様を意識した言動に戻らなければなりません。
【適応】
私たちは、日常生活と教会生活とに区別を設けてはならず、日常生活でも教会生活でも、喜びに溢れる時も悲しみに沈む時も、楽しくても苦しくても、健康でも病気がちでも、順調な時も不遇な時も、主イエス様を介して唯一真の神様に感謝を献げ、御名を褒め称える事が求められているのです。
日常の活動、家事も、仕事も、娯楽も、休息も、「主イエスの名において行い」、教会の活動、礼拝も、賛美も、奉仕も、交わりも、「主イエスの名において行」うのです。
日常生活、教会生活、日常活動、教会活動、どれも、人との関わりが伴います。
考え方の相違があり、価値観の相違があり、意見の相違があり、軋轢が生じ、衝突が生じます。
これらが生じるのは仕方がありませんが、人間関係、交わりが断絶するまでに拗らせてはなりません。
人間関係、交わりを破壊させてはならず、御子、主イエス様が「七回を七十倍するまで」と教えられた如くに、赦し合い、赦し合い、赦し合い、そして愛し合い、愛し合い、愛し合わなければならないのです。
自分の力で赦すのではなく、自分の力で愛するのでもありません。
「着なさい」であり、御子、主イエス様がお持ちの特質、徳目を着させて頂き、赦すのが難しいあの人を赦すのです。
御子、主イエス様がお持ちの「愛を着け」、愛するのが難しいあの人を愛するのです。
赦す事も、愛する事も、自分の力ではなく、御子、主イエス様の力でなすのであり、赦した事で、愛した事で不利益が生じたり、上下関係や優劣が生じる事はなく、調和、平和、和解が生まれ、保たれるのです。
この世は自己中心の世であり、赦す事が難しい世であり、愛する事が難しい世です。
しかし、皆様は、御子、主イエス様がお持ちの特質、徳目を着させて頂き、御子、主イエス様がお持ちの「愛を着け」ておられるのであり、教会で、キリスト者は赦しと愛を実践するのであり、キリスト者は和解、調和、平和をもたらす者として、この罪の世に遣わされているのです。
御子、主イエス様の赦しと愛、和解と調和と平和とを届けようではありませんか。
マタイの福音書5章9節、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
2022-6-19礼拝
聖書箇所:コロサイ人への手紙3章18節から21節
説教題:「キリスト者の家庭の姿」
【導入】
パウロは、一般的な原則、教えを語り、続けて、具体的な問題に対する適用について語ります。
パウロは、当時の社会制度を前提とし、時代背景を踏まえつつ、その社会制度、時代背景の中で、キリスト者としてどのように考え、取り組んだら良いかについて語ります。
今日の箇所では、男尊女卑の時代にあって、父権が絶対視されていた社会にあって、キリスト者に相応しい家庭の姿について語ります。
【本論】
新改訳2017版 3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
パウロは、夫婦の間の服従関係について語ります。
先ず、パウロは、「妻たちよ」と、婦人に呼び掛け、「夫に従いなさい」と命じます。
何故ならば、「夫に従」う事は、「主にある者にふさわし」い行動であるからだ、と語ります。
当時の、ユダヤの法律によれば、妻は一種の「モノ」であり、妻は夫の所有物と見做されていました。
ですから、夫は妻に対して、一方的に、自由に離婚をする事が出来ましたが、妻には、法的な権利は何もなく、言い渡されるがまま、従うしかなかったのです。
パウロが言うところの「夫に従いなさい」は、妻や女性に対して一切の権利を認めない当時の男尊女卑の社会を、また、女性を男性よりも劣った者、と見る考え方を肯定しているのでもありません。
「夫に従」う事は、唯一真の神様の、創造の秩序の中で定められた制度であり、夫に従う事は、神様の御旨なのです。
唯一真の神様が設けられた夫婦というパートナーシップの関係において、女性は男性の上に立つ者でも、男性と同じ機能を果す者でもなく、男性を助ける者なのです。
創世記2章18節、「2:18 また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」」。
コリント人への手紙第一11章3節、「11:3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」。7節から9節、「11:7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。
11:8 男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。
11:9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです」。
エペソ人への手紙5章23節24節、「5:23 キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい」。
夫と妻はそれぞれ固有の任務を任せられており、それを互いに誠実に、最善に遂行していく事によって、真の夫婦というパートナーシップとして機能し、家庭という実が作り上げられるのです。
「主にある者にふさわしく」は、キリスト者全ての言動の根本であり、基盤であり、基本です。
唯一真の神様の御旨を前提とし、理解、適応する事なしに、服従や従順を持ち込み、強制するならば、支配、屈従という愛のない関係をもたらす事になるのです。
妻には、誠実なる服従が求められているのであり、真心から真実に夫に従うのであり、形式的に、見かけ上の、嫌々ながらの服従であってはならないのです。
3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。
続いて、パウロは妻に対する夫の姿勢を語ります。
「夫たちよ」と、呼び掛け、「妻を愛しなさい」と命じ、「辛く当たってはいけません」との命令を付け加えます。
この「愛」は、「アガペー」の愛であり、一般的な愛を意味する「フィレォー」や、性的な愛を意味する「エラオー」ではありません。
神の似姿として造られた妻の人格を認め、尊重し、どんな時でも、どんな状況でも愛し続けるのであり、主イエス様が抱いておられた心を持って、絶えず妻の幸福と平安のために配慮し続けるのです。
エペソ人への手紙5章25節、「5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」。
18節、19節に於いて、キリスト者夫婦の相互に対する責任が明らかにされます。
当時の社会の男尊女卑の風習は、当時の夫婦関係に強く影響し、夫は妻をモノのように支配し、妻は夫に隷属、従属するのでした。
当時の婚姻法は、夫を優位に立たせるものであり、夫を容易に独裁者や暴君の位置に就かせるものであり、結婚生活は、夫の欲望や必要のためであり、妻は、嫡子を産むための道具であったのです。
そうした風習に影響されたキリスト者の中にも、妻に辛く当たる事があったのかもしれません。が、パウロは、支配、従属を昇華させ、新しい、相互の責任、役割の意味を持たせたのです。
即ち、夫は妻を「アガペー」の愛で「愛」するのであり、妻は真心から真実に「夫に従」い、唯一真の神様から与えられた使命、家庭を通して唯一真の神様の栄光を現すのです。
キリスト教において、結婚が協同とか共同と言われるゆえんが強調されます。
3:20 子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。
次に、パウロは親子の関係について語ります。
先ず、「子どもたちよ」と呼び掛け、「両親に従いなさい」と命じます。
何故ならば、「両親に従」う事は、「主に喜ばれること」であるからだ、と語ります。
「主に喜ばれること」とは、「主に受け入れられること」です。
「両親に従」う事は、唯一真の神様の、創造の秩序の中で定められた制度であり、「両親に従」う事は、神様の御旨なのです。
聖書の教えは、両親、父と母を核として構成される家庭と云う単位、群れを作る事です。
両親、父と母は、子に対して、唯一真の神様の代理者として立つべく、召されているのです。
唯一真の神様は、両親、父と母に、子を訓練、養育する責任を与えると共に、親として固有の権威を与えられたのです。
両親、父と母に従い、敬う事は、唯一真の神様の命令であり、祝福が約束されている事です。
十戒、第五戒、出エジプト記20章12節、「20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」。
しかし、両親、父と母に従わず、敬わない者には、極めて厳しい処罰が与えられます。
出エジプト記21章17節、「21:17 自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」、であり、
申命記21章20節、「21:20 町の長老たちに、「私たちのこの息子は強情で逆らいます。私たちの言うことに聞き従いません。放蕩で大酒飲みです」と言いなさい。
21:21 町の人はみな彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。イスラエルはみな聞いて恐れるであろう」です。
イエス様は唯一真の神の御子であられるのに、両親に仕えるという模範を示されました。
ルカの福音書2章51節、「2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた」のです。
両親、父と母に従い、敬う事は、「主にある者にふさわし」い事なのです。
3:21 父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。
続いて、「父たちよ」と呼び掛け、「子どもたちを苛立たせてはいけません」と命じます。
「苛立たせ」を、新改訳聖書第三版は「おこらせて」と訳していますが、
「苦々しい思いをさせ」てはならないのです。
この背景には、唯一真の神様は、両親、父と母に、子を訓練、養育する責任を与えられましたが、当時の社会は、父権が絶対視されていた社会であり、子を訓練する、養育する責任など、意識しなかった社会であり、子どもの人格、人権など顧みられなかった社会です。
子を厳格に、厳しく扱うのが一般的な社会にあって、父に対して、子の人格形成上の教師として召された者であると自覚するように、
申命記6章6節、「6:6 私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。
6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。
6:8 これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」。
箴言22章6節、「22:6 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」。
テモテへの手紙第一3章4節、「3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません」。
家庭を治め、形成するために召された者である、と自覚するように、自らが、子の尊敬に値する者として成長する事が、主の期待するところである事を再認識するように、促すのです。
「意欲を失わないように」を、新共同訳聖書、口語訳聖書は「いじけるといけないから、いじけるかもしれない」と訳し、新改訳聖書第三版は「気落ちさせない」と訳していますが、厳し過ぎて、意欲を失わせてしまい、いじけさせてしまい、気落ちさせてしまったならば、元も子もありません。
子どもを注意深く、忍耐強く、愛情深く、養育、訓練しなければならないのです。
【適応】
テモテへの手紙第一3章5節「3:5自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか」、
3章12節、13節「3:12執事は一人の妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません」。
「3:13執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです」。
テモテへの手紙は、教会の秩序、監督や執事の資質について教えていますが、家庭の秩序、親に対しての資質として受け止める教えでもありましょう。
家庭の秩序は、両親、父と母は、威厳と愛情を持って、子どもを訓練、養育するのであり、子どもは、両親、父と母に対して、尊敬と愛情を持って、服従するのです。
家庭に於いて、両親、父と母は、唯一真の神様の代理人であり、このような権威と秩序が家庭を治める時、家庭は唯一真の神様の祝福を豊かに受け、麗しい家庭となるでしょう。
そして、家庭を教会、両親を霊的指導者、子どもを信徒との関係に置き換えて受け止めるのも、意義深い事でしょう。
家庭の秩序が、家庭を祝福し、教会の秩序が、教会を祝福するのです。
この秩序が、世の中に広まる時、世の中は創造の時の秩序を取り戻すのではないでしょうか。
祝福を受けるのではないでしょうか。
家庭は、両親と子どもという最小の集まりですが、創造の秩序の中で、唯一真の神様が造られた最初の集まりであり、祝福の基なのです。
キリスト者はこの祝福の基とされているのであり、家庭を治める事は、最高の使命であり、多大の犠牲を払ってもよい価値あるものなのです。
唯一真の神様の喜ばれる家庭を造る事こそ、価値ある事であり、キリスト者の大事な使命なのです。
2022-6-26礼拝
聖書箇所:コロサイ人への手紙3章22節から4章1節
説教題:「キリスト者の主従の姿」
【導入】
前回の説教で確認した事ですが、パウロの手紙の書き方、説教、奨励は、一般的な原則、教えを語り、続けて、具体的な問題に対する適用について語ります。
パウロは、当時の社会制度を前提とし、時代背景を踏まえつつ、その社会制度、時代背景の中で、キリスト者としてどのように考え、取り組んだら良いかについて語ります。
今日の箇所では、奴隷制度の社会にあって、奴隷の人権は無視され、奴隷の命の尊厳が軽んじられていた社会にあって、キリスト者に相応しい主人と奴隷の姿について語ります。
【本論】
新改訳2017版 3:22 奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。
パウロは「奴隷たちよ」と呼びかけ、「すべてのことについて地上の主人に従いなさい」と命じます。
導入で申し上げたように、当時の社会は、奴隷制度の社会であり、一般的に、奴隷の人権は全く無視され、奴隷の命の尊厳は軽んじられていた社会であり、一刻も早く、奴隷制度の撤廃を実現すべく、社会的、政治的な行動に出るのが、キリスト者の務め、と思いましょうが、パウロは、そんな性急な行動には出ませんし、また過激な行動を奨励しもしません。
奴隷の身分から開放され、自由人になったとしても、何の社会的な保証がある訳ではなく、自由に職業に就ける訳でもなく、食や住む所を確保するのも簡単な事ではありません。
ホームレスになるしかなく、物乞いをし、人々に邪険に扱われ、非人間的な扱いを受け、極度に軽蔑された貧民街、貧民窟に落ちて行くしかなかったのです。
奴隷を解放するならば、解放された奴隷の受け皿も用意しなければならず、社会の仕組みをも改革しなければならないのです。
パウロは、何の保証もない、過酷な生活に至るしかない奴隷の解放ではなく、奴隷制度を容認しつつ、その制度の中で、奴隷の人格、人間としての尊厳を確保し、劣悪、非人間的な奴隷制度に、実質的な終止符を打つ事を提唱するのです。
その道に至る事を願いつつ、パウロは最初に「奴隷たちよ」と、呼びかけ、「すべてのことについて地上の主人に従いなさい」と命じます。
過酷な主人であっても、厳しい命令に対しても従順であり、辛い仕事にも耐え、常に誠実に取り組むよう、お勧めします。
当時のローマ法によれば、奴隷は家財道具の一種としての扱いであり、家畜並みに扱われ、労働基準法などの、労働者の保護や労働条件に関する規定はなく、主人の思いのままでした。
疲れていようが、寝不足だろうが、体調が悪かろうが、働かされるのであり、病気になった時、或いは大怪我をした時、多少の手当てはしてもらえるでしょうが、回復の見込みがなければ、役に立たなくなったなら捨てられるだけであり、野垂れ死にが待っている、そして、基本的には結婚も出来ず、これが当時の奴隷の扱われ方だったのです。
そんな、非人間的な、家財、家畜並みの扱われ方を前提としつつ、「人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。」と、命じます。
キリスト者の行動の基本的考え方、方向性は、「人々は、私に何をしてくれるだろうか」を期待する事ではなく、「私は、人々に何をしてあげられるだろうか」と問い、行動する事です。
誰かに依頼するのではなく、誰かに仕向けるのでもなく、自らが、何が出来るかを考え、行動するのです。
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
しかも、「人に対してではなく、主に対してするように」、「心から」と、勧めます。
マタイの福音書25章34節、「25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
25:39いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」
ヨハネの福音書1章27節、「1:27 私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」との謙りの自覚と、見返りやイメージアップを目論んではならないと云う事でしょう。
「してやった」、という意識がある時、その行為は、善行は、施しは、奉仕は、好意ではなくなり、悪臭ぷんぷんの偽善に成り下がるでしょう。
マタイの福音書6章1節、「6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
6:2 ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
6:3 あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」です。
誰にも知られないところに、真価があると、聖書は教えているのです。
これ見よがしな行動は、子どもの行動であり、隠れた行動こそ、キリスト者の行動だ、と聖書は教えているのです。
3:24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
ユダヤの律法では、奴隷を苦しめては、悩ませてはならず、人間的な扱いをしなければならず、蓄えをする事が許され、ヨベルの年には解放しなければなりませんでしたが、当時のローマ法によれば、奴隷は一切の私物、財産の類を持つ事を許されていなかったようです。
何しろ、家財の一種、家畜並みの扱いなのですから、当然でしょう。
この世には、何の希望もありませんが、しかし、地上の主人に対して、唯一真の神様、御子、主イエス様に対してするように、「真心から従い」、「心から行なう」者には、「報いとして御国を受け継ぐ」と、断言するのです。
“0”、滅びから“無限”、永遠の命、憩いへの大転換です。
誠実に、裏表なく、建前と本音もなく、誰に対しても「真心から従い」、「心から行なう」ならば、「報いとして御国を受け継ぐ」との約束が与えられているのです。
この約束が、反故になる事はありません。
「真心から従い」、「心から行なう」価値があるのです。
3:25 不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。
一方、「不正を行う者」は、その報いを、唯一真の神様、御子、主イエス様から受ける事になります。
ローマ人への手紙14章12節、「14:12 ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることにな」るのです。
勿論、御子、主イエス様の贖いによって、罪は赦されていますが、して来た事に対して、しなかった事に対して、申し開きをしなければならないのです。
「報い」について、聖書は具体的に記していませんが、マタイの福音書24章51節、「24:51 彼をきびしく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
テサロニケ人への手紙第二1章6節、「1:6 神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え」、が参考になるのではないでしょうか。
まあ、歯ぎしりするような報いには、誰しも関わりたくはないでしょうが、報いの如何に関わらず、身分の如何に関わらず、地上の主人に対してだけでなく、誰に対しても、「真心から従い」、「心から行な」おうではありませんか。
4:1 主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。
パウロは「主人たちよ」と呼びかけ、「正義と公平を示しなさい」と命じます。
当時、権利のすべては主人に属し、義務のすべては奴隷のものと考えられていました。
指示、命令、奴隷が何をするもしないも、一切の権は主人にあり、奴隷には絶対服従のみが課せられ、一切の反論は許されず、結果責任を負わされました。
そのような状況の中で、パウロは、「主人たち」に対して、自分の権利や特権の主張ばかりでなく、「奴隷」にたいして、「正義と公平」とを伴った、対人間としての態度、責任ある態度を取るよう説くのです。
家具、家電や家畜に対して「ありがとう、ご苦労様」なんて言いませんが、身分は違いましょうが、「奴隷」は人であり、それなりの態度を取るように、お勧めをするのです。
パウロの教えは、当時の常識を外れた、突飛な教えと思われたでしょうが、パウロの教えは、その社会制度の中で、その時代背景の中で実現可能な、御心の実現法なのです。
【適応】
主人と奴隷の関係は、非常に偏った関係ですが、一般的な労使は、本来、同等であるはずですが、どうしても、雇う側は優位にあり、雇われる側は弱い立場にあるようです。
雇われる側は、監視の目が届かなければ手を抜き、隙を見つけては怠けようとしましょうが、ルカの福音書17章10節、「17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行なったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」と、謙虚さをもって、誠実に、忠実に仕えるのであり、雇う側は、目一杯働かせようとし、賃金支払いを先延ばしにしようとしましょうが、しかし、唯一真の神様は見守っています。
ヤコブの手紙5章4節、「5:4 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。」と、強欲な、吝嗇な雇い主に警告を与えています。
パウロは、唯一真の神様は、主従、労使、双方にキリスト者らしい対応を求めているのです。
双方に犠牲を強いているのではなく、「正義と公平」を奨励しているのです。
雇う側は、働きに対する正当な支払いを惜しんではならず、定期的に休みを与えなければならず、財政状況が悪いからといって、支払いを遅らせたり、賃金カットしたりしてはならず、忙しいからといって休みを与えないのは、「正義と公平」に反する事です。
また、雇われる側は、「真心から従い」、「心から行な」わなければならず、働きに見合った報酬を要求する事と、休みを取る事は当然の権利と心得なければならないのです。
奴隷が苛酷に扱われ、搾取が公然と行なわれていた社会、時代にあって、「正義と公平」を奨励し、怠ける事、手を抜く事が常態化していた社会、時代にあって、「真心から従い」、「心から行な」う事を奨励したのです。
特別な事をするのではなく、ある意味、当たり前の事を行なうようにとの奨励なのです。
キリスト者が、其々の義務と責任を果す時、罪にまみれ、混沌とした世に、自分さえ良ければ、と云う風潮に、創造の時の秩序が呼び戻され、祝福がもたらされるのではないでしょうか。
キリスト者の存在が、意味あるものとなる事を期待してやみません。