2022-7-3礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙4章2節から6節

説教題:「キリスト者の姿」

【導入】

何回かの説教で確認した事ですが、パウロの手紙の書き方、説教、奨励は、一般的な原則、教えを語り、続けて、具体的な問題に対する適用について語ります。

パウロは、当時の社会制度を前提とし、時代背景を踏まえつつ、その社会制度、時代背景の中で、キリスト者としてどのように考え、取り組んだら良いかについて語ります。

当時の封建的家長制度、男尊女卑、身分制度、奴隷制度の社会にあって、キリスト者に相応しい姿について語って来ましたが、締めくくりとして「祈り」に付いて語ります。

【本論】

新改訳2017版 4:2 たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。

パウロは、コロサイ教会の人たちに「たゆみなく祈りなさい」と、勧めます。

キリスト者が唯一真の神様の喜ばれる日常生活を送るためには、唯一真の神様の御旨を知らなければならず、唯一真の神様の御旨を知らなければ、唯一真の神様の喜ばれる事を行なう事も出来ず、的外れな生き方、考え方、行動しか出来ません。

この、的外れな生き方こそ、「罪」なのですが、キリスト者として相応しい生き方を実践するためには、御子、主イエス様の執り成しが必要不可欠であり、聖霊様の助けが必要不可欠なのです。

唯一真の神様の御旨を知らずして、また、御子、主イエス様の執り成しと、聖霊様の助けを得ずして、キリスト者が唯一真の神様の喜ばれる日常を実践する事はあり得ないのです。

このために必要不可欠なのが「祈り」であり、「たゆみなく祈りなさい」と勧めるのです。

この世で賞賛される生き方、推奨される考え方は、「自力本願」でしょう。

創意工夫し、患難辛苦に耐えて、頑張り、道を開き、本願成就する。

しかし、これが適応出来るのは、この世での働きとか、地位とか、目標であり、事、救いに関して、罪の赦し、贖いに関しては、何処にも、何時の時代にも、誰一人として居ません。

救いに関して、罪の赦し、贖いに関しては「他力本願」であり、御子、主イエス様の十字架しかないのです。

ですから救われるために、罪赦されるために、贖われるために祈らなければならず、キリスト者が唯一真の神様の喜ばれる日常生活を送るために、キリスト者として相応しい生き方を実践するために、御子、主イエス様の執り成しと、聖霊様の助けを求めて、「たゆみなく祈り」続けなければならないのです。

たゆみなく祈」るのは、キリスト者が唯一真の神様の喜ばれる日常生活を送るために、キリスト者として相応しい生き方を実践するためであり、あれが欲しい、これが欲しい、病気の治癒、問題の解決、などばかりに終始する祈りでは、祈りの目的を履き違えていると謂わざるを得ないでしょう。

また、気が向いた時にだけ、と云うような気まぐれな祈り方や、単に習慣化している、単調な、同じことばの繰り返し的な祈りや、美辞麗句を並べた流暢な、人に見せ、聞かせる祈りも、唯一真の神様に献げるに相応しくはありません。

マタイの福音書65節、「6:5 また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

6:7 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

感謝をもって」は、真の祈りに欠かせない要素です。

祈りは、私たちの内的、霊的いのちを、あらゆる誘惑と攻撃から守ってくれる武具であると共に、過去、現在、そして未来に、私たちに与えられる恵みを覚えて、献げる謝恩のことばでもあり、義務と特権として、唯一真の神様に「感謝をもって祈」るのです。

目を覚ましていなさい」・・・パウロは、ゲツセマネの園での弟子たちの様子を想起したのでしょうか。

マタイの福音書2641節、「26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。

悪魔はささやき、惑わします。

祈りは、気休めにしか過ぎない、と云う気持ちを私たちの内に起こさせます。

混乱に乗じて、気を動転させ、祈り、そのものを忘れさせるように、働きかけます。

疲労感を煽り、雑念を起こし、気を散らさせ、祈りを散漫なものに貶めようとします。

これらの誘惑に対しては、絶えざる、不屈の祈りの実践が重要であり、祈りに於いては、気力を集中し、心を集中し、知性を集中する必要性があるのです。

4:3 同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。

祈りの力を、身を以って体験して来たパウロは、「私たちのためにも祈ってください」と、祈りの支援の要請を致します。

各地を訪問し、各地に教会を建て上げて来たパウロですから、祈祷課題は山ほどあったのではないでしょうか。

自分の身の安全などや、反対者がその矛先を向けないように、理解者、協力者が与えられるように、海の難、山の難、盗賊の難、などなどや、各地の同労者の事も大きな気がかりではあったでしょうが、それよりも、何よりも、パウロの祈りの課題は、福音宣教のみに集中、集約し、「神がみことばのために門を開いてくだ」さるようにと、「キリストの奥義を語れるように」であったのです。

福音宣教の前進と、御子、主イエス様の御降誕、十字架、復活を正しく語る事が最優先すべき祈りだったのです。

祈りの支援の必要性を認識していないのは、祈りの力を過小評価しているからであり、祈りに応えてくださる唯一真の神様に対する信仰が不足しているからであり、また、果すべき務めが何であるかを正しく認識していないからでしょう。

務めを最善に果すための知恵、活力をひたすら求めるのです。

私は牢につながれています」は、牢から解放される事を祈ってください、の意味ではなく、獄中にあり、福音宣教の機会の自由を奪われ、行動の制限を受けていますが、そのような状況下であっても、その中で最善を尽せるように、大胆に、何にも妨げられる事なしに、「キリストの奥義を語れるように」、と心から願っているのです。

4:4 また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。

神がみことばのために門を開いてくだ」さっても、語る側に確固たる確信と信念が欠けていたならば、準備が不足していたり、語ることばに明確さが欠けていたりしたならば、せっかくの機会も無に帰する事でしょう。

「泥縄」では訳に立ちません。

「備えあれば憂いなし」であり、「語るべき語り方で明らかに示すことができるように」常日頃から備えておくのであり、そのために「祈ってください」なのです。

4:5 外部の人に対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。

パウロは再び、コロサイ教会の人たちにお勧めをします。

教会の外にこそ、福音を届けなければならないのであり、「機会を十分に活か」さなければなりません。

常日頃から、福音を伝える者として任命されている、この世に派遣されている、と云う意識を持ち、語るべき事の用意をしておかなければなりません。

これは神学を修めなければならない、の意味で捕らえる必要はなく、聖書に親しみ、礼拝を欠かさず、キリスト者としての言動を心がける事でしょう。

日常の些事が、些細な言動が、福音宣教の前進や後退に、大きな影響を与える事があるのです。

行動に出る機会を、目ざとく捕らえ、その好機を価値あるものとする実践的な生き方が求められているのです。

知恵をもって行動し」なければなりません。

知恵の欠いた言動によって、例えば、聖書知識をひけらかしたり、優越感を振り撒いたり、批判的な物言いをしたり、押し付けがましい言動によって、未信者に嫌な思いをさせ、或いは追い詰め、キリスト教に対する反発を招き、キリスト教を嫌うようにさせてしまう事もあるのです。

知恵の欠いた言動によって、御子、主イエス様や教会が未信者から中傷を浴び、反発や排斥に繋がる事もあるのです。

未信者との交際により、世俗的にならないように、ミイラ取りがミイラにならないようにしなければならないのです。

4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。

親切」を、新共同訳聖書は「快い」と訳し、口語訳聖書は「やさしい」と訳していますが、「親切」な、心のこもったことばは、真実なことばは、話し方のコツや、魅力的な話し方以上の効果を現すのではないでしょうか。

キリスト者は絶えず唯一真の神様の恩恵、憐れみ、恵みを経験し、感謝しながら生きています。

この事実は、自然と、語ることばと、その内容に反映するのではないでしょうか。

美辞麗句の羅列の、空虚なことば、即ち、経験の伴わない知識の伝達だけのことばは、人の心に染み入りません。

朴訥で、たどたどしくても、経験に基づく真剣なことばは、人の心に染み入るのではないでしょうか。

語る者は、謙遜に、優しさを込めたことばを語らなければなりませんが、「塩味の効いた」と形容されている事に注意しなければなりません。

料理を美味しくするのも、駄目にするのも、塩加減次第と申します。

語ることばが、無味乾燥なもの、空虚なものとならないように、しかし、退屈感や重苦しさ、威圧感などを与えないように、配慮しなければなりません。

聞く人を惹きつける事が出来ることばを、もっと聴きたい、深いところを知りたい、と思ってくださるようなことばを語れるように、備えておきたいものです。

【適応】

キリスト者にとって、宣教、伝道の機会は、日常の生活と共になされるべきでしょう。

兵士のように、招集が掛かって、武具で身を固め、武器を装着し、いざ、出陣・・・ではありません。

キリスト者にとって、24時間、366日が、宣教、伝道の機会であり、常日頃から備えておくことが必要なのです。

エペソ人への手紙611節、「6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。

6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。

6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。

6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

ここでも「祈りなさい」と命じられていますが、祈りは、キリスト者の、最大、最高、最善、最適の武具であり、武器なのです。

その武具、武器を与えてくださるのは唯一真の神様であり、御子、主イエス様であり、コリント人への手紙第二104節、「10:4 私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。

この無敵と言っても過言でない武器が、そして武具が祈りによって与えられるのです。

祈りは、悪魔が恐れているものであり、だからこそ、あの手この手で、祈りの無力さをささやき、祈りは、気休めにしか過ぎない、と云う気持ちを私たちの内に起こさせます。

混乱に乗じて、気を動転させ、祈り、そのものを忘れさせるように、働きかけます。

疲労感を煽り、雑念を起こし、気を散らさせ、祈りを散漫なものに貶めようとするのです。

キリスト者である事を、何によって示すか、現すか、といったなら、答えは「祈り」ではないでしょうか。

不安や恐れ、疑問や挫折を追い払うのは、自身の力や他人の助けではなく、祈りの力です。

礼拝も奉仕も、献金も交わりも、祈りが伴ってこそ、完全なものとなるのではないでしょうか。

本日の説教題、「キリスト者の姿」とは、祈る姿であり、祈る日々の積み重ねなのではないでしょうか。

行動する事も大事ですが、全てに先立つのは祈りなのです。

祈るものとされている特権を感謝しつつ、与えられた祈りの賜物を用いて、キリスト者の祈りの姿そのものが、福音宣教の働きに大きく貢献しているのです。

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聖書箇所:サムエル記第一24章1節から22節

説教題:「正しい決断」

【導入】

十戒、その第6戒は「殺してはならない」です。誰も好き好んで殺人を犯す事はないと思いますが、殺人事件が世界中でなくならないのは何故でしょうか。怒りや憎しみの感情を制する事が出来ないのが一因かも知れません。

また、大義名分、イデオロギーが一因となっている事もあるでしょう。

東ヨーロッパで起こっている戦争、アメリカの独立記念日に起こった銃乱射事件は何が原因なのでしょうか。自民族の保護、独裁者からの解放、テロリストとその支援組織の壊滅、大量破壊兵器の撲滅、核兵器の拡散防止。色々な主義主張で始めた、平和を求める、正義の名の下での戦いですが、平和が訪れるどころか、憎しみが憎しみを呼んでいるだけなのではないでしょうか。

真の平和はいつになったら訪れるのでしょうか。平和は戦いで得る事が出来るのでしょうか。そもそも、何が正義なのでしょうか。

それぞれが正義を掲げて戦っているのです。どちらが本当の正義なのでしょうか。

世界の国と国との間には、民族と民族の間には、イデオロギーとイデオロギーの間には100%の正義、100%の悪、などと言う事はなく、普遍的な正義・絶対的な正義などという事もなく、正義は時代や地域や状況で変わってしまうものなのです。

ですから、正義を旗印に戦争を始めて、平和を実現させようとする試み、決断は、とても危険な事なのではないかと思います。

唯一真の神様は、イザヤ書24節で、「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。」との御言葉をくださっています。

ですから、裁きは唯一真の神様に委ねるべきなのです。

武力などの力で解決を計るのではなく、平和的手段で忍耐強く交渉を重ねる事を、唯一真の神様は望んでおられるのではないでしょうか。

今日は、不当な仕打ちに対しても、自分で解決の道を模索し、決断し、切り開くのではなく、唯一真の神様に全てを委ねると決め、それを実践したダビデの生き方から考えて見たいと思います。

【本論】

ダビデはサウル王から、不当な仕打ちを受けます。不当な仕打ちどころか、命を狙われ続ける事になるのです。

その理由を聖書は次のように記しています。

第一サムエル186節、「18:6 皆が戻り、ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた。

 18:7 女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」

 18:8 サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」

15節「18:15 彼が大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。

18:16 イスラエルもユダも、皆がダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。

そして、第一サムエル2031節、「20:31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」との決意を固め、公言するのです。

サウル王はダビデの人気を妬み、嫉妬しました。その嫉妬は、自分たちの王位を狙う者との疑惑を生み、その疑惑は成長して、言われの無い確信へと変貌して行くのです。そして、自分たちの王位を狙う者として恐れ、ダビデの命をつけ狙うようになったのです。

一方ダビデはサウル王の息子、親友のヨナタンを通して、謀反の思いが無い事、誤解である事をサウルに伝え、サウルも一時は了解するのですが、妬み、嫉妬の炎は消える事が無く、繰り返し、ダビデの命を狙い続けるのです。

そんな逃亡、追跡が繰り返される中で、先ほど読んで頂いた第一サムエル24章のエピソードが登場します。

24:1 サウルがペリシテ人を追うのをやめて帰って来たとき、「ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいます」と言って、彼に告げる者がいた。

24:2 サウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭を選り抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。

ダビデ一行は600人程ですが、全員が戦闘員ではありません。武器も有り合せの物しかありません。

一方、サウル軍は選り抜きの、3000人の精鋭部隊です。いくらダビデが戦上手でも、これでは闘いになりません。あっという間に、蹴散らされてしまう事でしょう。

双方に死傷者が出る事は避けたい事であり、直接戦う事を避け、逃げ隠れしながら、サウル軍をやり過ごそうとします。

そんな時、ダビデにとって千歳一遇のチャンスが訪れます。

24:3 道の傍らにある羊の群れの囲い場に来ると、そこに洞穴があった。サウルは用をたすために中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、その洞穴の奥の方に座っていた。

なんとサウル王が「用をたすために」、ダビデ一行が潜むほら穴に入って来たと言うのです。

この「用をたすため」は、直訳では「足をおおう」であり、ユダヤの文化において「足」は行動全体を象徴します。

「おおう」は「隠す」事であり、守るとか休息を意味しますので、つまり「用をたすため」とは即ち「休息、昼寝」であろうと考えられるのです。

であれば、護衛の兵隊は、ほら穴の手前で見張っているでしょうから、これは、千歳一遇のチャンスです。

24:4 ダビデの部下はダビデに言った。「今日こそ、【主】があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」ダビデは立ち上がり、サウルの上着の裾を、こっそり切り取った。

24:5後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。

24:6 彼は部下に言った。「私が【主】に逆らって、【主】に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は【主】に油注がれた方なのだから。」

24:7 ダビデはこのことで部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、洞穴から出て道を歩いて行った。

ダビデの部下はダビデにサウル王殺害を勧めます。

この『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ。』と言う言葉は何処から出てきたのでしょうか。

聖書を調べて見ましたが、この言葉と同じ言葉は見つかりませんでした。

可能性の一つは、ゴリヤテとの戦いでのダビデが発した言葉からの推測です。

それは、第一サムエル1746節にある「17:46 今日、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。」と言う言葉です。

この時の状況は、神様が始めて戦に出るダビデに励ましと、決意を与えた言葉ですが、ダビデの部下の兵士はこの言葉をサウル王との関係に適応してダビデにサウル王殺害を決意させようとしているのです。

しかし、神様の御言葉の適応は慎重に吟味しなければならず、自分の都合に合わせて解釈してはなりません。

ゴリヤテとの戦いで示された神様の言葉を、サウル王との諍いに適応するのは間違った考えです。

御言葉の適応は慎重に吟味しなければなりません。一つの言葉から、自分の都合に合わせた解釈をしたり、極端な解釈をするのはとても危険な事です。

例えば誰かと喧嘩をしている人が居たとします。この人が聖書を読んでいて、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ。』と言う箇所を読み、「これだ」と思い込んで、行動に移したとしたら、それはとても恐ろしい事ではないでしょうか。

でも、あり得ない事ではないのです。一つの言葉から、極端な解釈をしたり、自分の都合に合わせた解釈・適応をする事のないように、前後の聖書箇所、関連箇所など、聖書全体を学ばなければなりません。

ダビデは神様の言葉を自分の都合に合わせたり、勝手な解釈はしませんでした。

部下の進言をきっぱりと退けたダビデは、驚くべき行動に出ます。

24:8 ダビデも洞穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。

24:9 そしてダビデはサウルに言った。「なぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のことばに、耳を傾けられるのですか。

24:10 今日、【主】が洞穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたの目はご覧になったのです。ある者はあなたを殺すようにと言ったのですが、私は、あなたのことを思って、『私の主君に手を下すことはしない。あの方は【主】に油注がれた方だから』と言いました。

24:11 わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着の裾をよくご覧ください。あなたの上着の裾を切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって、私の手に悪も背きもないことを、お分かりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私のいのちを取ろうと狙っておられるのです。

24:12 どうか、【主】が私とあなたの間をさばき、【主】が私のために、あなたに報いられますように。しかし、私はあなたを手にかけることはいたしません。

24:13 昔のことわざに『悪は悪者から出る』と言います。私はあなたを手にかけることはいたしません。

24:14 イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。だれを追いかけておられるのですか。死んだ犬の後でしょうか。一匹の蚤の後でしょうか。

24:15 どうか【主】が、さばき人となって私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて擁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」

ダビデはサウル王の前に無防備な姿をさらけ出し、積極的に、誠意を込めて自分の立場を説明します。

王よ」と尊敬を込めて、「わが父よ」と親愛の情を込めて呼びかけるのです。

単なる命乞いではありません。

切り取った上着の裾を見せて、殺すチャンスを自分の意思で放棄した事。謀反の心がない事。唯一真の神様に裁きを委ねた事などを、礼儀正しく説明したのです。

ダビデは与えられたチャンスを、サウル王に真実を尽くす機会としました。

サウル王を殺す決断をして、一気に事の解決を図ろうとはしなかったのです。

これは、レビ記1918節の「19:18 あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。

申命記3235節の「32:35 復讐と報復はわたしのもの。それは彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべき時が速やかに来る。」に聴き従ったからであり、裁きを全面的に神様に委ねたからに他ありません。

それに対するサウル王の反応は、次のようなものでした。

24:16 ダビデがこれらのことばをサウルに語り終えたとき、サウルは「これはおまえの声なのか。わが子ダビデよ」と言った。サウルは声をあげて泣いた。

24:17 そしてダビデに言った。「おまえは私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした。

24:18 私に良いことをしてくれたことを、今日、おまえは知らせてくれた。【主】が私をおまえの手に渡されたのに、私を殺さなかったのだから。

24:19 人が自分の敵を見つけたとき、その敵を無傷で去らせるだろうか。おまえが今日、私にしてくれたことの報いとして、【主】がおまえに幸いを与えられるように。

24:20 おまえが必ず王になり、おまえの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。

24:21 今、【主】にかけて私に誓ってくれ。私の後の子孫を断たず、私の名を父の家から消し去らないことを。」

24:22 ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。

サウル王はダビデと和解し、ダビデを受け容れる宣言をしますが、一時的な、感情的なものです。

サウル王の言葉は何時でも感情的で、一時的なもので在る事は、第一サムエル19章の出来事でも明らかです。「19:6 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「【主】は生きておられる。あれは殺されることはない。」」と誓ったにも関らず、その直ぐ後で、ダビデに槍を投げつけ、殺そうとするのです。

今回の約束も直ぐに破棄され、ダビデ殺害を繰り返し、26章のエピソードとなって行くのです。

サウルの生き方は、唯一真の神様に選ばれた者としての自覚が無く、神様の前に生きると言う事が確立してないので、人の意見や、状況、その時の感情に翻弄される生き方になってしまうという実例と言えるでしょう。

しかし、ダビデは自ら手を下す事は勿論の事、部下を使ってでもサウル王の命に触れる事はしませんでした。

直接でも、間接的であっても、自分で裁く事はしませんでした。

裁きは、唯一真の神様に委ねました。

ここまで神様に委ねる事が出来たのは、ダビデが持っていた唯一真の神様に対する信頼・信仰と、唯一真の神様の選びによってイスラエルの王にされていると言う自覚に加えて、逃亡生活の中で、訓練がなされたからではないかと思います。

危機一髪の所での守り。逃亡生活の中でも、助けを求める人々に援助の手を差し伸べる事が出来た事など。

どれを見ても、唯一真の神様の守りがあったからこそであり、唯一真の神様に守られているなら神様に委ねるのが間違いのない選択であるとの確信を得たからなのではないでしょうか。

自分の判断、決断は、決して信頼の置けるものではないが、全知全能の神様の判断、決断なら間違いはない。

自分でサウル王を排除したならば、後で思い返した時、心地よいものではありません。苦々しい、嫌な思い出として記憶されてしまうのではないでしょうか。

そんな自分の感情を引き合いに出すまでもなく、唯一真の神様が立てられたお方と自分との関係は、唯一真の神様と自分との関係に他ならない、との考えこそがダビデの考え方であり、それ故に、唯一真の神様によって立てられたサウル王に、決して歯向かう事もなく、ましてや殺害するなど微塵も考えはしなかったのです。

例え非はサウル王にあっても、サウル王を糾弾するのはダビデの仕事ではありません。

ダビデはサウル王の家臣であり、どんなに駄目な王様であっても、サウル王への忠誠こそが、唯一真の神様のダビデに求めたもう所であり、サウル王殺害は、唯一真の神様に弓を引く事に他ならないのです。

ダビデは逃亡生活の中で唯一真の神様の守りを体験し、更には裁きを神様に委ね切る訓練が積み重ねられていったのです。

【適応】

もし、ダビデが、これらのチャンスでサウル王を殺していたらどうなったでしょうか。ヨナタンは父の仇として、永遠の友情を誓った親友の、ダビデに闘いを挑まなければなりません。サウル王の一族であるベニヤミン族と、ダビデの一族であるユダ族が、敵味方に分かれて闘い、イスラエル12部族はこの争いに巻き込まれて行く事になるのです。

平和をもたらすはずの、祝福の基となるはずのアブラハムの子孫が、災いの元、殺し合いの元となるのです。

ダビデに続くイスラエルの歴史、救いの歴史は大きく変わった事でしょう。

しかし、ダビデは唯一真の神様のテストに合格します。合格の秘訣、それはダビデの生き方です。

ダビデの生き方は、私たちに、三つの事を教えてくれます。一つ目は、唯一真の神様に油注がれた方、唯一真の神様が立てられた権威に対する恐れです。

ローマ131節「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

ダビデは不当にも命を狙いつづけるサウル王に対して、「【主】に油注がれた方」として見ていました。

尊敬出来ない部分を持つ人物であったとしても、唯一真の神様によって立てられた王様として、歯向かう事をしなかったのです。

唯一真の神様によって立てられた権威には、神様が退けられる時まで敬い、徹底的に従うべきなのです。

二つ目は、復讐などは唯一真の神様に委ねる事です。

ローマ1219節「12:19 愛する者たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。

復讐をしてはいけません。

直接はもちろん、間接的であっても、人間に復讐する事は許されていません。

旧約聖書では、目には目、歯には歯と言われて、同等の報復を認めていますが、これはあくまで「同等の」であって、過剰な報復は許されていません。

ダビデは殺されてはいないのですから、サウルを殺す事は過剰な防衛・復讐に当たる訳です。

更に新約聖書では、同等の報復すら認めていません。右の頬を打つものには、左の頬を打たせ、上着を取る者には、下着も与える様に教えています。

悪い事に対しても、善い事に対しても、徹底的に善い事で報いるのがキリスト者の生き方なのです。

悪に対する報いは唯一真の神様の仕事なのです。

そして、三つ目は、全て唯一真の神様のご計画は私たちの益となると言う事です。

ローマ828節「8:28 神を愛する人たち。すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

この世界には理不尽な事が多く起こります。

悪が栄え、神を愛する人々が苦しむのを見る事は辛い事です。

何故、どうして、こんな事が許されるのでしょうか、不思議です。

しかし、唯一真の神様は悪人が滅びる事よりも、悔い改めて生きる事を願っておられます。

唯一真の神様は悪人を裁く事よりも、救いたいと願っておられるのです。

唯一真の神様は神を愛する人々には更なる訓練を与え、信仰の高嶺へと導いてくださいます。

唯一真の神様のなさる事は、悪人にとっても、神を愛する人々にとっても、益となる事なのです。

これらの事を、私たちは知っているのですから、唯一真の神様の立てられた権威に従い、裁き・復讐を唯一真の神様に委ねる事が最善の選択と言えるのです。

その時、神の国が到来し、真の平和が実現するのではないでしょうか。

人の知恵、人の力で平和を求めても、罪人である私たちには、解決も、和解ももたらす事は出来ません。

かえって、混乱と、憎しみをもたらすだけです。

それは、冒頭で申し上げたように、世界の平和が武力によっては今だに実現しない現実を見ても明らかなのではないでしょうか。

人は罪の性質を持っているので「正しい決断」など出来ない相談なのです。

正しい決断は正しいお方にしか出来ない働きなのであり、正しいお方、平和の主であるイエス様にしか平和は造れないのですから、イエス様に委ねるのが最善の策であり、最短の道なのです。

唯一真の神様に委ねる事が、正しい判断であり、正しい決断なのです。

ここにおられる一人一人が自分で解決を図る事なく真の解決者であり、裁き主である唯一真の神様に委ねて、神様の解決の時を、忍耐を持って待つ者とされたいと願います。

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                                       2022-7-17礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙4章7節から14節

説教題:「パウロの同労者たち」

【導入】

パウロの手紙の書き方、説教、奨励は、一般的な原則、教えを語り、続けて、具体的な問題に対する適用について語ります。

手紙を書く主目的は、教会の、信徒の問題の解決のためであり、教会の、信徒の進むべき方向を示すためです。

時候の挨拶が長々と続いたり、関係のない話がつらつら書かれていたならば、大切な時間と資源の浪費であり、受け取り人、読み手はがっかりするのではないでしょうか。

余りにも事務的過ぎるのは問題ですが、挨拶や消息はそこそこにして、直ぐに本題に入るのが、適切であり、親切と云うものなのではないでしょうか。

パウロは獄中にあり、裁判を受ける身であり、外出の制限はあったでしょうが、手紙を書く時間は充分あった事でしょう。

その充分すぎる時間を有効に使い、各地の教会の、信徒の問題の解決のために、指針と導きを与えていたのです。

この手紙ですが、手紙は、誤解や齟齬を防ぐ事の出来る情報伝達手段として有益なのですが、当然、受け取り人が明確です。

パウロは囚人であり、囚人の関係者が、囚人の巻き添えを食うのは珍しい事ではありません。

囚人の関係者となる事には、危険が伴うのですから、宛先を明確にする手紙は、手紙に名前が記される事は、大きな危険を伴う事なのであり、また、手紙は高価な情報伝達手段でありましたが、パウロは危険を覚悟し、費用を惜しまずに、積極的に、手紙を書き送り続けたのです。

手紙を通して、受け取り人に、読み手に、宣教の働きに召されているとの自覚や当事者意識、連帯が生まれるからであり、宣教協力に益するからです。

手紙の結びとして、パウロの側に立って、危険を覚悟し、労苦を惜しまない同労者、支援者、友人の名前が挙げられます。

【本論】

新改訳2017版 4:7 私の様子はすべて、愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべであるティキコが、あなたがたに知らせます。

手紙のあて先は、コロサイ教会宛であったり、コリント教会宛であったりはしますが、手紙は回覧される事が前提であり、主目的を、大事な事を、信仰の本質、根幹に関わる事を中心に書き、パウロの獄中の様子や詳しい消息などは、手紙に書き洩らした事や、書き尽くさなかった事などは、「ティキコ」に託され、口頭で伝えたのです。

パウロの様子は、コロサイ教会の皆さんの、大きな関心事ではあったでしょうが、パウロの事は枝葉の事であり、口頭で充分、と判断したのでしょう。

現代のように、ワープロで本文を書き、推敲して、完成したものをプリントアウトする、と云うような便利な時代ではありません。

インク消しがある訳でもなく、間違えたなら、削らなければならず、手紙は手間暇と、お金が掛かる作業なのです。

大事な事、誤解されて困る事、信仰の本質、根幹に関わる事は文字、手紙にし、枝葉の事は口頭で、知らせる事にしたのです。

4:8 ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。

ティキコをあなたがたのもとに遣わ」し、パウロの「様子を知」らせるのは、「心に励ましを受ける」ためです。

パウロの「様子を知」らせるのは、心配して欲しいからではなく、パウロとより親しくなるためでも、パウロと親しい事で、教会内や仲間内で優位に立つためでもありません。

パウロと共に、福音宣教の働きに取り組むためです。

福音宣教の働きの故に受ける迫害や圧迫はパウロだけのものではありません。

福音宣教の働きに就く者は、外部から迫害や圧迫を受け、内部からも批判や中傷を受けるのです。

パウロの受ける迫害や圧迫の実態、事実を知る事は、迫害や圧迫を耐え忍ぶ、乗り越える、大きな助けになるのではないでしょうか。

この「ティキコ」は、使徒の働き204節に、エペソ人への手紙621節、テモテへの手紙第二412節、テトスへの手紙312節に記されていますので、働きなどをご確認願いたいと思いますが、「ティキコ」には、「愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべ」との賛辞を附している事から、パウロの信頼の度合いの大きさが、いかに大きかったかを知る事が出来るでしょう。

4:9 また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。

パウロの「様子を知」らせるのは、「ティキコ」一人だけではありません。

オネシモと一緒に」パウロの「様子を知」らせると言うのです。

一人の報告では、思い違いや報告し忘れなどが伴いましょうが、二人の報告なら、正しい報告が、漏れのない報告が期待出来ましょう。

更に手紙も持参しているのですから、過不足のない、正確な報告が期待される事でしょう。

この「オネシモ」ですが、コロサイ教会の教会員であったピレモンの奴隷です。

詳細については「ピレモンへの手紙」をお読み頂ければと思いますが、「オネシモ」は、主人であるピレモンの所から逃げ出した逃亡奴隷であり、ローマでパウロと出会い、キリスト者とされ、パウロに仕える者となり、今回パウロの使者となったのですが、逃亡奴隷が、主人の所に戻ると云うのは、簡単な事ではありません。

逃亡奴隷には、非常に苛酷なお仕置きが待っているからであり、ご主人であるピレモンのいるコロサイ教会に行くという事は、世にも恐ろしい事、命がけの事であり、逃げ出したい誘惑との戦いでもあったのです。

そのような状況の中で、パウロは「オネシモ」に「忠実な、愛する兄弟」との賛辞を附す程に信頼し、使者として遣わすのです。

パウロは「オネシモ」に付いて、「奴隷」とか、「逃亡、脱走」とかのことばを附していません。

オネシモ」への、パウロの愛情と信頼を感じさせる配慮であり、と同時にピレモンへの配慮でもありましょう。

オネシモ」がピレモンの所を逃げ出した奴隷である事は、周知の事でしょうが、何でもあからさまにするのが正しい配慮ではありません。

ピレモンに赦す事を命じ、不問にする事を命じるのが正しい行動でもありません。

敢えて、伏せるのは、ピレモンが、パウロの期待以上の事をしてくれるとの信頼からの配慮なのです。

「秘すれば華なり」と申しますが、当事者だけが知っていれば良い事もあるのです。

誰にも知られず、当事者と神様だけが知っておられる。

そして、神様の喜ばれる事を、密かに行なうのが、キリスト者の、教会の麗しい姿なのではないでしょうか。

4:10 私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています。

アリスタルコ」は、使徒の働き204節に記されていますが、テサロニケ人であり、パウロと苦楽を共にした同労者であり、ローマでパウロと共に囚人となっていたようです。

マルコ」は別名「ヨハネ」ですが、パウロの信頼を著しく失ってしまった人物です。

詳しい経緯は、使徒の働き1313節、1537節に記されています。

しかし、今は、パウロの信頼を得るまでに、関係を修復していたのです。

誰にでも失敗はあり、信頼を失う事も多々あるでしょう。

しかし、それを何時までも引きずっていては、過去の失敗を理由に遠ざけていては、福音宣教の進展はありませんし、福音宣教にとって大きな損失です。

福音宣教の前進のために、過去の失敗を悔い改めるように執り成し祈り、悔い改めたならば、過去の確執は一切忘れ、積極的に受け入れ、迎え入れなければならないのです。

4:11 ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼のある人では、この三人だけが神の国のために働く私の同労者です。彼らは私にとって慰めになりました。

ユスト」は、ユダヤ人キリスト者で、この時、パウロと一緒にいた、と云う情報しかないようです。

二人三人だけの同労者であっても、信頼の置ける同労者は、何よりの慰めと励ましになる事を教える一節です。

一騎当千の、信頼される信仰の勇者になりたいものです。

4:12 あなたがたの仲間の一人、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。

エパフラス」は、コロサイ人への手紙17節に記されているように、コロサイ教会で教えた過去があり、コロサイ教会の人たちとは周知の仲であり、親しい関係にあったようですが、今は、パウロと共にいて、「あなたがたのために祈りに励んでいます。

教職者の働きは、直接には説教によって、間接には熱心に祈る事によって、「神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように」するのです。

そんな模範的教職者であったが故に、「キリスト・イエスのしもべ」との賛辞を附されたのでしょう。

ここにも祈りの本質が示されています。 

祈りは、キリスト者が、「神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように」と、執り成し祈るのであり、キリスト者が、罪の世に、唯一真の神様と御子、主イエス様の栄光を現すように祈るのであり、キリスト者が、罪の世で、朱に交わらずに、キリスト者として歩むために祈るのです。

唯一真の神様と御子、主イエス様の事を知らない世の人々に、唯一真の神様と御子、主イエス様の事を伝えるキリスト者として歩むために祈るのです。

妨げの中でも、語り続け、証しし続けるように、祈るのです。

祈りが全てに先行し、全てを支える、と云っても過言ではありません。

また、祈りは交わりです。

祈りによって、唯一真の神様としっかり交わり、正しい関係が結ばれてこそ、福音宣教の働きが、説教が、そして信徒同士の交わりが、正しく機能するのです。

直接、福音宣教の働きに、説教に関わらなくても、祈りによって宣教師を、教職者を支えるのであり、信徒同士の交わりが制限されても、祈りによってお互いを支えあうのです。

4:13 私はエパフラスのために証言します。彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスにいる人々のため、たいへん苦労しています。

エパフラス」は、コロサイ教会だけでなく、「ラオディキアとヒエラポリスにいる人々のため」にも、祈ったのです。

この二都市は、コロサイの西2~30kmの近さにあり、関係が深く、似たような問題を抱えていたのではないでしょうか。

エパフラス」と「ラオディキアとヒエラポリス」との関係の度合いは不明ですが、近隣教会のために、そこにいる信徒のため祈るのも、教職者の大切な働きなのです。

現代は情報が溢れていますが、必要な情報は、正しい情報は多くはないようです。

雑多、無益な情報に惑わされないよう、取捨選択の知恵をいただき、祈りの輪を広げ、祈り続けたいものです。

4:14 愛する医者のルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

ルカ」は、ルカの福音書、使徒の働きの著者です。

ルカ」は「医者」でありましたが、医者としての高収入や地位、名誉、安定した生活を投げ捨てて、パウロに同道し、パウロと共に患難辛苦を味わい、パウロの主治医として、パウロに仕え、また、福音宣教者として、働いた人物です。

愛する」との賛辞を附すほどに、信頼していたのです。

一方、「デマス」には、何の賛辞も附されていません。

この時点では、パウロと共にいて、パウロに仕えていたようですが、テモテへの手紙第二410節に、「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました」、と書かれていますが、そんな兆候が見え隠れしていたのかも知れません。

ルカのように、献身的に仕える者がいる一方で、パウロの身辺にも、パウロに不満を抱く人物がいたのです。

しかし、これは不思議な事でも、稀有な事でもありません。

御子、主イエス様に不満を抱く者、敵対する者がいたように、弟子と呼ばれる者の中に、裏切る者がいたようにです。

【適応】

御子、主イエス様の弟子の中に、裏切る者がいましたが、イエス様は裏切るまで、弟子の中に置いてくださり、弟子として受け入れ、接し続けてくださったのです。

パウロの同労者の中に、離れて行く者がいましたが、パウロは離れるまで、同労者の中に置いてくださり、同労者として受け入れ、接し続けてくださったのです。

裏切る予兆があった時、離れていく素振りがあった時、この世の接し方は、ちょっと距離を置いたり、重要な事は任せなかったり、時には諮問したり、質したりもするでしょうが、裏切るまでは、離れるまでは、親しく、また、全幅の信頼の上で接するのがイエス様やパウロの対応でした。

最後の最後の瞬間まで、弟子として接してくださり、同労者として接してくださるのです。

その間、その弟子のために、その同労者のために、祈り続けて、執り成し続けてくださるのです。

ルカの福音書2232節、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」です。

裏切る者、離れて行く者、失敗する者、を非難するのは簡単です。

結果を見て、「こうなると思っていた。」「やっぱりね。」・・・

なんと悲しいことばでしょうか。

弟子のために、教職者のために、信徒のために祈るのが、イエス様の務めであり、同労者のために祈るのが、同労者の務めであり、信徒のために祈るのが、教職者の務めであり、教職者のために、信仰の友のために祈るのが、信徒の務めです。

キリスト者には、祈る務めが与えられており、祈る賜物が豊かに与えられているのです。

この務めと賜物を活用しない手はありません。

福音宣教者が働きから離れないように、信徒が信仰から離れないように、そして、「神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように」祈るのです。

教会を支える、教職者を支える、信徒を支える祈りがなされるのが、教会であり、教会、信徒の交わりなのです。 

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                                       2022-7-24礼拝

聖書箇所:コロサイ人への手紙4章15節から18節

説教題:「パウロの、教会宛の挨拶」

【導入】

パウロが手紙を書く主目的は、教会の、信徒の問題の解決のためであり、教会の、信徒の進むべき方向を示すためです。

パウロに相談を持ちかけた手紙に対する、回答の手紙である場合もあるでしょうが、パウロからの個人的な、私信の手紙も数通あります。

直接の当事者である教会や個人宛の手紙であると同時に、地域を越え、文化を越え、時間を越える、普遍的な問題に対する指針を示す手紙でもあります。

現代に置かれた教会に、現代に生きるキリスト者に、大きな、貴重な指針を与える手紙です。

即ち、全てのキリスト者に宛てられた手紙であり、全てのキリスト者が受取人なのです。

今、直接には問題を抱えていない、困っていないかも知れませんが、いつ何時、問題に巻き込まれ、困難に遭遇するかも知れません。

身近な兄弟姉妹が、問題に巻き込まれ、困難の最中にいるかも知れません。

この手紙が、そんなキリスト者を想定した手紙である事を、全てのキリスト者に宛てられた手紙である事を示すのが、手紙の最後の挨拶文なのです。

【本論】

新改訳2017版 4:15 どうか、ラオディキアの兄弟たちに、またニンパと彼女の家にある教会に、よろしく伝えてください。

ラオディキアの兄弟たち」、即ち、ラオディキアの教会からコロサイの教会迄は、解説書によれば、直線距離で16km程度だそうです。

しかし、どちらの教会も、正確な位置は不明であり、道も効率を考えて、重機を使って造成された道ではなく、歩き易い処を選ぶうちに、自然に出来た道なのですから、くねくね曲がっており、実際は20km前後であったのではないかと思われます。

大人の足で5時間前後、決して近いとは言えない距離ですが、キリスト者の少なかった時代にあっては、信仰の友の存在は、何よりの存在であり、お互いの間に、麗しい交流、暖かい交わりが、盛んに行なわれていた様です。

ニンパと彼女の家にある教会」、即ち、実質的なラオディキアの教会ですが、「ニンパ」個人の家が解放され、教会として使われていたのです。

コロサイの教会は、ピレモンの家が開放され、教会として使われていたようですが、各地にある教会は、自前の教会、会堂であるよりは、個人の家の一室、一部を解放して、の形だった様です。

現代での、家庭集会、地域集会のようなものであったようであり、教会堂の形態も、礼拝の形態も、様々であったようです。

信仰の表明としての、使い勝手や効率を考えての会堂ではなく、既存の建物、個人の家を教会、会堂として利用したのであり、過渡期の柔軟な考え方、と言えるでしょう。

形が整ってくるのは素晴らしい事ですが、目的と本分を忘れてはなりません。

4:16 この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキア人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。

この手紙」は、コロサイ教会宛の手紙ですが、「あなたがたのところで読まれたら、ラオディキア人の教会でも読まれる」事を命じているのは、興味深い事です。

パウロは、最初から回覧される事、回覧する事を想定して、手紙を書いているのです。

人は、深刻な問題を抱えていても、見栄なのでしょうか、プライドなのでしょうか、問題なんか無いように振舞います。

しかし、問題に対する対処、対策が回覧されたなら、第三者的立場を装いながら、情報を得る事が出来るのではないでしょうか。

コロサイ教会に宛てられたパウロの私信ですが、牧会的な広い視野を持つ内容であり、全ての地域の、全ての文化の、全ての時代の教会に宛てられた手紙でもあるのです。

今は役に立たなくても、何時かは役に立つのであり、誰かの役にも立つのであり、教会の中だけで役に立つのではなく、クリスチャン向けの手引書、指南書でもなく、人類全てに益する内容なのです。

人を介してではありますが、唯一真の神様から、この神様に造られた人間に宛てられた手紙だからです。

聖書は、私たちキリスト者全てにとって、有益な書物です。

テモテへの手紙第二316節、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

3:17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

ラオディキアから回って来る手紙」は、現存していませんが、パウロから諸教会に宛てて書かれた数多くの手紙の一つです。

パウロの他、何人の著者が、何通の手紙を書いたのか、失われたのかは不明ですが、現存し、聖書に纏められた福音書、手紙は27です。

そして、御子、主イエス様に付いて必要な事は、イエス様との交わりに入り、イエス様と共に生き、イエス様に仕えるために必要な事は、纏められた27で充分、完全なのです。

今後、○○の福音書、△△への手紙・・・が発見されても、聖書に加えられる事はありません。

4:17 アルキポに、「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように」と言ってください。

アルキポ」は、ピレモンへの手紙2節に登場し、紹介されていますが、パウロから「戦友」との賛辞が附されている人物です。

ピレモンの家の一員、と推測され、コロサイの教会では指導的立場、牧会者的立場にあったようであり、パウロの良き理解者、協力者ではあったようですが、自発的、積極的ではなく、リーダーシップを発揮する人物ではなかったようであり、パウロがいない今、持っている資質が発揮されないのは、キリスト教界にとって大きな損失であり、「「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように」と言ってください」と励ましの言葉を掛ける事を託すのです。

パウロは、アルキポが、常に勇気を奮い起こして、主から託された働きに、全力を尽すように望み、この言葉を手紙に認めたのです。

このパウロの言葉は、アルキポに、そして、コロサイの教会の人々にも、誰が教会の指導者であるかを示す言葉なのです。

パウロの言葉は、リーダーにはその自覚を促し、コロサイの教会の信徒には、誰がリーダーかを明確にし、従うように促す、言葉なのです。

リーダーシップ争いは、教会を分裂させ、破壊します。

誰がリーダーかを周知させ、一人のリーダーの指揮の下で教会を纏め、一致団結して、福音宣教の働きに取り組んでいかなければならないのです。

福音宣教の働きは、「船頭多くして船山を登る」であってはならないのです。

多少、頼りないところがあり、積極性に欠けても、一人のリーダーを立て、リーダーに従うのが、御子、主イエス様の御旨であり、秩序なのです。

4:18 パウロが自分の手であいさつを記します。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。

手紙は、助手、代筆者がいて、口述筆記、と云う形態が一般的であった訳ではありません。

貴族、官僚、裕福な家では、代筆者がいて、口述筆記が行なわれていたようですが、一般家庭では、そもそも手紙などを書く必要がないばかりか、一般人は、読み書きなど出来ないのが普通だった社会です。

パウロの場合は、立場上、手紙を書く必要があったのであり、視力が弱かったようであり、口述筆記に頼らざるを得なかったようですが、自分の手紙である事の証明として、手紙の真正性のために、自筆で一筆認め、署名をしたようです。

私が牢につながれていることを覚えていてください」は、含蓄のあることばです。

決して、牢獄から解放されるように祈ってください、との要請の言葉ではありません。

牢獄に繋がれていても、語るべき事を語れるように、書き送るべき事に対して妨げが起こらないように祈ってください、との要請なのであり、また、教職者、宣教者、伝道者は、鎖につながれ、束縛され、自由が奪われていても、福音宣教の言葉は繋がれてはいない、どんな妨げがあっても、広がり続けるように祈ってください、との意味の宣言でもあるのです。

福音宣教の働きは、直接には一教職者、一宣教者、一伝道者、一教会の働きのように見えましょうが、福音宣教の真の働き人は、唯一真の神様であり、御子、主イエス様なのです。

神様、イエス様を繋ぎ止める事は、働きを止める事は不可能であり、教職者は、宣教者は、伝道者は、教会は、各地に置かれているのであり、福音宣教の働きが止まる事も、滞る事もないのです。

恵みがあなたがたとともにありますように」との、恵みを宣言する言葉も、単純な祝福の意味ではありません。

恵み」とは、福音宣教の働きが委ねられている事、福音宣教の働きの故に迫害や患難を受ける事であり、使徒の働き540節、「使徒たちを呼び入れて、むちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえで、釈放した。

5:41 使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った」のです。

【適応】

教職者は、宣教者は、伝道者は、教会は、その働きは孤立無援の働きのように見え、思えましょうが、

列王記第二617節、「主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のであり、唯一真の神様に仕える者には、万軍の主の軍の守りがあるのです。

仮に、守りが無くても、先に紹介した使徒の働き541節の言葉は、何よりの支えであり、慰めであり、励ましなのではないでしょうか。

キリスト教会の少ない時代の、地方都市のキリスト教会は、信徒の少ない時代のキリスト者は、片身の狭い思いをした事でしょう

しかし、各地にキリストの教会があり、多くのキリスト者がおり、相互に支えあっていたのです。

そして大使徒パウロが、コロサイの教会の事を気に掛けていたのであり、問題に対する具体的な指針を与える、深い配慮の手紙を送ってくれたのです。

しかし、こんな個別指導的手紙は何時までも続けられるものではありません。

個別指導を受ける事や、そういう時期がある事を否定するものではありませんが、何時までも、指導を受ける、おんぶに抱っこでは、子どもの教会であり、大人の教会を目指さなければなりません。

そのパウロの思いは、アルキポに対する指示に現れています。

コロサイの教会にも、コリントの教会のような特定の指導者に対する派閥、特定の指導者擁立の動きがあり、問題が燻っていたのではないでしょうか。

コリント人への手紙第一111節、「私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。

1:12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。

指導的立場の者が複数擁立されている時、コリントの教会のように、指導者が複数いて、其々が支持するような場合、或いは、コロサイの教会のように、誰が指導者なのか曖昧な時、サタンの暗躍を許す事になり、教会に混乱を招き、教会を分裂に至らせます。

ガラテヤ人への手紙17節にあるように、「動揺させ」る者がいて、教会を混乱させるのであり、テトスへの手紙110節にあるように、「惑わす者」がいて、教会を混乱させるのです。

コロサイの教会に必要なのは、パウロの助言や指導を受け続ける事ではなく、また、指導者を立てる事でもなく、既に遣わされ、立てられている「アルキポ」が、コロサイの教会の指導者であるとの自覚を持ち、行動する事であり、コロサイの教会の信徒が、既に遣わされ、立てられている「アルキポ」を指導者として認め、「アルキポ」を中心に、教会を運営して行く事です。

中央集権的に、上意下達的に、個々の教会に対して、都度、指示や指針を与えるのではなく、個々の教会に遣わされ、立てられた指導者を中心に、個々の教会の自主性や独自性、地域の特性に合わせた運営をして行くのです。

そして、この指示は、命令、上意下達ではなく、自然な形の、自発を促すお勧めであり、教会宛の手紙の締めくくりに相応しい言葉なのではないでしょうか。

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                                       2022-7-31礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙1章1節から4節

説教題:「神の啓示」

【導入】

このヘブル人への手紙ですが、手紙の特徴である宛名が無く、自己紹介もありません。

そこで、これまでに、著者が誰なのか、が調べられ、パウロであるとか、バルナバであるとか、アポロ、シラス、プリスキラとアクラ、ローマのクレメンス、などの名前が挙げられているようです。

最も有力なのがパウロですが、文体や神学の点で、似ているところもあるけれど、異なる点もあり、パウロと決定は出来ないようであり、神のみぞ知る、に留めておくのがよいようです。

執筆年代についても、諸説ありますが、他の手紙や関連資料などから推測して、紀元65年から69年頃と見られており、執筆場所は、1324節の、「イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています」との言葉から、イタリヤ以外のところである事は確実ですが、これでは余りにも範囲が広過ぎますが、これも、神のみぞ知る、に留めておくのがよいようです。

この手紙には、明確に宛名が記されていませんが、受け取り人は、手紙の内容などから、おそらくはイタリヤにいたユダヤ人だろうと、考えられています。

分からない事だらけですが、重要なのは内容なのではないでしょうか。

御子、主イエス様に対する信仰を持たせて頂いてから、ある程度の年月を経てはいたが、信仰は余り成長してはおらず、そこに、迫害が加わり、最初のうちは迫害に会っても、耐え、信仰を守っていたが、迫害に耐えられなくなり、信仰を捨てる者、ユダヤ教に戻る者が、少なからずいたのです。

著者は、このような状況の中で、キリスト者を励まし、信仰に留まらせ、御子、主イエス様による救いは、ユダヤ教の祭儀、生贄による救いより、遥かに優れたものである事を再度確認し、教える必要を感じ、この手紙を書いたのであろう、と考えられています。

【本論】

新改訳2017版 1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、

世の中には多くの宗教がありますが、その多くは、人間が見出したもの、或いは悟ったもの、考え出したものであり、理想であったり、想像であったり、連想であったりです。

一方、ユダヤ教とキリスト教の特徴は、「神は、語られました」と云う事実の上に立っているのであり、聖書は、唯一真の神様の語られたことばを纏めたものである、と云う事であり、人間の恣意的なものが一切入っていない、と云う事です。

唯一真の神様が語られ、人間の理解の限界はあるにしても、それを受け止め、人々に取り次ぎ、そして聞いた者は、唯一真の神様のことばとして受け入れ、従うのが、ユダヤ教であり、キリスト教です。

1節は、旧約の時代の、長い期間にわたる、アブラハム、イサク、ヤコブに対する、そして、イスラエル民族、即ち、ヤコブの子孫に対する、唯一真の神様の語り掛けについてです。

預言者たち」とは、唯一真の神様のことばを人々に取り次ぐ者の事であり、御使いであったり、預言者であったり、祭司であったり、学者であったりです。

多くの部分に分け」とは、イスラエルの歴史書であり、律法の書であり、詩歌であり、物語であり、預言書です。

多くの方法」とは、自然の出来事を通してであったり、夢であったり、幻であったり、神託であったりです。

語り掛け方は様々、色々、異なっても、唯一真の神様が語られた、と云う事実は変わらないのであり、唯一真の神様は、人間に対して強い関心を持っておられ、積極的に接してくださるのです。

1:2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。

この終わりの時」、即ち、新約の時代の、唯一真の神様の語り掛けについてです。

唯一真の神様は、「御子にあって」、即ち、主イエス様によって、「私たちに」、即ち、イスラエルの子孫に、アブラハムの霊的子孫であるキリスト者に「語られました。

唯一真の神様の御こころ、御旨は、旧約の時代には「預言者たち」を通して啓示され、新約の時代には「御子」によって啓示されたのです。

預言者たち」は過不足無く働き、啓示を取り次ぎましたが、人を介してであり、働きも、期間も有限であり、啓示の取り次ぎは完全ではありませんが、しかし、「御子」は神そのものであり、御子、主イエス様が直接この世に来られ、介入されたのであり、啓示の完全な現われとなったのです。

啓示の次元が違うのです。

間接的な啓示か、直接の啓示か、です。

おぼろげな啓示か、クリアな啓示か、です。

模型での啓示か、実物の啓示か、です。

御子、主イエス様のご生涯、私たちのためにこの世に生まれ、私たちの罪の贖いのために死なれ、私たちのために甦られ、私たちのために昇天されたのです。

現代に生きる私たちを含めて、多くの人たちは、御子、主イエス様に直接会う事は出来ませんが、御子、主イエス様がこの世に来られた意味は比類のないものであり、過去、現在、未来、全ての人類のためであり、御子、主イエス様によって、唯一真の神様と私たちとの間の隔ての壁が壊され、御子、主イエス様を介して、唯一真の神様と繋がっているのです。

私たちは、時空を越えて、唯一真の神様と繋がっているのです。

神は御子を万物の相続者と定め」られました。

詩篇28節、「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果て果てまで あなたの所有として」、と証言している通りです。

御子によって世界を造られました。

ヨハネの福音書13節、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

コロサイ人への手紙116節、「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」と証言している通りです。

1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

唯一真の神様は、余りにも聖く、義なるお方なので、罪を持つ人間は、その姿を見る事も、その声を聞く事も、近づく事も、同じ空間に存在する事も出来ません。

しかし、御子、主イエス様は、罪こそありませんが、完全な人間であり、且つ、唯一真の「神の栄光の輝き」と、唯一真の「神の本質の完全な現れ」とを合わせ持っておられるのです。

御子、主イエス様は100%人間であり、100%神である、と云う稀有な、ユニークな存在なのです。

その御子、主イエス様は、「その力あるみことばによって万物を保っておられます」とありますが、始めに、何もないところから、「その力あるみことばによって」万物を創造されたのであり、御子、主イエス様の御ことばによって創造された万物は、御子、主イエス様の御ことばによって生かされ、動き、存在し続けているのです。

世界、万物は、成り行き任せ、偶然の連続、自然に流れているのではなく、全て、御子、主イエス様の摂理によって、御旨に向かって進んでいるのです。

創造の御わざと、摂理の御わざによって、世界、万物は存在し、保持されているのです。

伝道者の書3章1節、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。

3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。

3:3 殺すのに時があり、癒すのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。

3:4 泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。

3:6 求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。

3:7裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。

3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある」のであり、すべて御旨であり、ご計画であり、摂理の御わざなのです。

御子は罪のきよめを成し遂げ」、は説明するまでもなく、十字架による、贖いの御わざであり、罪からの聖めの御わざであり、御子、主イエス様のみが成し得る御わざなのです。

創造の御わざ、摂理の御わざに勝るとも劣らない、偉大な御わざを成し終え、「いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

いと高き所」、「大いなる方の右の座」とは、言わずと知れた天国の事であり、神の都の、神の座です。

詩篇1101節、「主は 私の主に言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」と詠われている通りです。

1:4 御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。

御子が受け継いだ」「御名」とは「御子」であり、「御子は、御子を受け継いだ」のであり、「御子は、御子という称号を受け継ぎ、名実共に御子になられた」のです。

更に詳しく言うならば、「御子は、地上での働き、使命を完遂され、天に昇り、御子の称号を受け、御子になられた」のです。

御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方」との、但し書きの背景には、ユダヤ教における、「御使い礼拝」の思想が、ここにも影響していた事を窺わせます。

コロサイ人への手紙218節で学んだ事ですが、再度確認致しましょう。

「御使い礼拝」とは、唯一真の神様は、余りにも崇高な存在であり、一方、人間は汚れに汚れた存在であり、全く無価値であり、人間は神様に近付く事は出来ない、と考えるが故に、神様との間を取り持つ、仲介者的な諸霊、「御使い」の力と助けを借りなければならないと考えました。

更に、仲介者的な諸霊、「御使い」には、それ相応の礼を尽くさなければならない、礼拝を献げなければならないと考え、主張したのです。

この主張は、真の仲介者、御子、主イエス様の存在とお働きを拒否する事であり、断じて容認出来る事ではありませんが、しかし、「御使い礼拝」は、紀元360年のラオデキヤ会議で禁じられるまで、広く、根深く浸透していたそうです。

御使いは、優秀な助手であり、重要な働きをし、必要な存在ではありましょうが、御子、主イエス様とは比較になりません、そもそも比較すべきではありません。

御子、主イエス様は「神」であり、御使いはどんなに優秀、重要、必要でも「被造物」にしか過ぎません。

御子、主イエス様は「主権者、支配者」であり、御使いは「従属者、僕」でしかありません。

御子、主イエス様は「比類のないお方」であり、御使いは、「その他大勢、」でしかありません。

【適応】

1節から4節で、御子、主イエス様の事が紹介されましたが、ここには、御子、主イエス様の三職、即ち、預言者職、祭司職、王職が述べられています。

2節で、「私たちに語られました」とありますが、これは預言者の働きの事です。

3節で、「罪のきよめを成し遂げ」とありますが、これは祭司の働きの事です。

同じく3節で、「いと高きところで、大いなる方の右の座に着かれました」とありますが、これは王職に着任された、と云う事です。

御子、主イエス様のお働きは、多岐に亘り、其々がとても重要であり、私たちに強く、深く、広く、永続的に関わりますが、時間軸で考え、三つに分けると、預言者職は、過去の事であり、祭司職は、現在の事であり、王職は、将来の事、最後の審判に関わる事、と分類し、考える事が出来るでしょう。

今生きている私たちに、強く、深く関わるのは、祭司職であり、罪の贖いの御わざと、唯一真の神様に取り次ぐ御わざ、なのではないでしょうか。

勿論、三職とも強く、深く関係し、広く影響し合いますが、現実の問題として祭司職に関心が集まり、無意識の中で預言者職、王職に関心が薄くなるのは仕方が無い事かも知れません。

しかし、バランス良く学び、理解しないと、優しいイエス様と云う面だけが強調される事になり、裁きが軽んじられる事に繋がり、救いの必要性も重要視されなくなる可能性があります。

御子、主イエス様に従う、と云う点も疎かになるかもしれません。

唯一真の神様の啓示の正しい理解は、イエス様の三職を正しく理解し、意識する事です。

聖書や説教は、イエス様の言葉であるとの意識で読み、聴く事、将来、死後に永遠の裁きがある事、その裁きに向って生きている事、裁きの場に於いて、罪の贖いが終わっており、御国に招かれている事を、覚える事、御国に於いて、御子、主イエス様に従う訓練の時である、との認識が、啓示の正しい理解なのです。

啓示の勝手な理解と解釈は、或いは、一部だけの理解と解釈、一部の強調は、偏った理解と解釈に繋がり、混乱を招き、信仰の道から外れ、離れてしまいます。

神様が啓示された御子、主イエス様を、即ち、聖書全体を通して理解し解釈する事が信仰の道を歩むコツであり、知らず知らずのうちに、外れ、離れないコツなのです。

啓示は正しく理解してこそ、信仰に益する事を忘れてはならないのです。

それを示すのが、ヘブル人への手紙であり、現代の私たちに宛てられた手紙なのです。

 

神の啓示である御子、主イエス様を正しく理解し、神様の祝福を漏らさず受け取ろうではありませんか。

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