2022-8-7礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙1章5節から14節

説教題:「掲示された御子とは」

【導入】

図書館には、偉人伝のコーナーがあり、またご家庭でも偉人伝をお持ちの方がおられ、子どもの頃、読んだ記憶をお持ちの方は多いのではないでしょうか。

その中に、イエス様の本も、「ガンジー」、「シュバイツアー」「リンカーン」・・・などと並んでいたのではないでしょうか。

このイエス様ですが、人類愛を実践した人、博愛主義を貫いた人、偉人の一人として描かれていたように記憶していますが、神の子であるとか、人間の罪の贖いのために死んだ、と云う点は、強調されてはいなかったように思います。

あくまで、偉大な人間、偉人として描かれていたと思います。

イエス様が活躍した時代、弟子たちや多くの人々は、イエス様の不思議な力、奇跡を目撃し、イエス様に対して偉大なお方、エリヤやエリシャのような預言者の一人、との認識を持ってはいましたが、一歩進んで、天的存在、即ち、御使いの一人、御使いのトップ、程度の認識であったようです。

ペテロや弟子たちの、「あなたは神の子です」、との告白や、百人隊長の「この方は、まことに神の子であった」、との告白の「神の子」には、注意が必要です。

当時、神に受け入れられている人々、神に従う人々を「神の子」と呼んだのですが、あくまで「人間」であり、イエス様に対して、神の御子、神の独り子、神ご自身、との認識を持ってはいなかったようです。

啓示された御子が、単に素晴らしいお方、比類のないお方、御使いの一人ではなく、神そのものである事を、御使いとは雲泥の差のお方である事を、比類のないお方である事を教える必要を覚え、著者はペンを進めて行くのです。

【本論】

新改訳2017版 1:5 神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と。またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と。

前回、この手紙は、イタリヤにいるユダヤ人に向けて書かれたと推測される、とお話しましたが、ユダヤ人は、詩篇を愛唱し、多くを暗唱していました。

そこで、著者は、ユダヤ人が良く知っている詩篇から引用しますが、5節の鍵括弧、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」は、詩篇27節、「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日 あなたを生んだ」からの引用です。

聖書は、唯一真の神様の御こころ、御旨、摂理について語っている「啓示」の書であり、「啓示」の書として受け止め、読み、解釈しなければなりません。

人間の歴史を語り、人間との関わりを記録していますが、人間の罪からの贖いの計画の予告と遂行が記されている書、として解釈しなければならないのです。

詩篇が語り、示している「わたしの子」とは、御子、主イエス様の事であり、創造したのではなく、「生んだ」との宣言、として解釈するのです。

生まれた・・・と云うより、分かれた、に近いかも知れません。

次の鍵括弧、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」は、サムエル記第二714節、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」からの引用です。

この聖句、直接的には、ダビデに対する神の御こころを、預言者ナタンが取り次いだものですが、著者は、これを唯一真の神の独り子、御子、主イエス様に対する宣言、と解釈したのです。

親子の関係の深さ、強さは多くの人が理解出来る事であり、聖書は、他にも、夫婦の関係などを譬えに用いて、理解の助けとしてくださるのです。

1:6 そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」

この長子」が、前節の「あなた」、「」であり、本節の「」であり、御子、主イエス様の事である事は、文脈から明らかです。

この世界に送られたとき」は、初臨、受肉の時であり、再臨の時でもあり、御子、主イエス様は天上世界に於いても、「すべての御使い」から、礼拝を受けるべきお方なのです。

御子、主イエス様は、常に、何処ででも、全ての被造物から礼拝を受けるに相応しいお方である事を、御子、主イエス様の唯一性、卓越性を宣言するのです。

鍵括弧の、「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ」は、詩篇977節、「すべての神々よ 主にひれ伏せ」からの引用です。

詩篇では「神々よ」と訳していますが、注釈に「御使いよ」とあり、文脈に沿って訳し、引用したのでしょう。

唯一真の神様は、御子、主イエス様を礼拝する事を命じられていますが、御子、主イエス様に対する礼拝は、唯一真の神様に帰せられ、唯一真の神様に対する礼拝は、御子、主イエス様に帰せられるのです。

逆に、御子、主イエス様に対する不敬は、唯一真の神様に帰せられ、唯一真の神様に対する不敬は、御子、主イエス様に帰せられるのです。

ユダヤ人の、あらゆる人々の、イエス様に対する不敬、侮りに対する警告の意味でもありましょう。

私たちも、同じ過ちに陥らないように、注意しなければなりません。

1:7 また、御使いについては、「神は御使いたちを風とし、仕える者たちを燃える炎とされる」と言われましたが、

鍵括弧の、「神は御使いたちを風とし、仕える者たちを燃える炎とされる」は、詩篇1044節、「風をご自分の使いとし 燃える火をご自分の召使いとされます」からの引用です。

唯一真の神様は、御使いたちを用いて、自然現象を通して、御こころ、御旨を、推し進められるのです。

ユダヤの言い伝えに、「御使いは、風のように速く、火のような力を以って、神の命令を遂行する」、或いは、「御使いは風、または火となる」を意識しての事と思われますが、御使いたちは、どんな優秀でも、役に立っても、被造物でしかなく、命令の通りにしか行動出来ません。

しかし、御子、主イエス様は主権者であり、主体的に行動されるのであり、その違いは歴然です。

1:8 御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。

1:9 あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」

8節、9節に跨る鍵括弧の、「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く」は、詩篇456節、7節、「神よ あなたの王座は世々限りなく あなたの王国の杖は公平の杖。

45:7 あなたは義を愛し 悪を憎む。それゆえ 神よ あなたの神は 喜びの油を あなたにそそがれた。あなたに並ぶだれにもまして」、からの引用です。

御使いたちは優秀であり、主権者の命令を一切の落ち度なく、完全に遂行するでしょうが、主権者の御こころ、御旨を推し量り、推測し、予測し、予想し、想像し、想定し、行動する事は出来ないのです。

出来ないと云うより、してはならないのです。

優秀な御使いとは、分を弁える者であり、越権行為を慎む者であり、主権者の御こころ、御旨のみを行なう者なのです。

しかし、御子、主イエス様は神であり、主体的に判断し、決断し、決行するのであり、その王権、統治は永遠であり、その支配、裁定は正しく、食い違い、ミス、不備は全くないのです。

神の国では、完全な正義と裁きが行なわれ、完全な愛と受容が行なわれるのです。

罪を有耶無耶にする事も、大目に見る事もなく、罰すべき罪は罰し、神の義を完全な形で現し、行なうのです。

且つ、愛の神の本質を完全に現し、イエス様の贖いによって、過去、現在、未来の罪を完全に赦し、イエス様の義と祝福を被造物全てに与えてくださるのです。

1:10 またこう言われました。「主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

1:11 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。

1:12 あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

10節から12節に跨る鍵括弧は、詩篇10225節から27節、「あなたは はるか昔に地の基を据えられました。天も あなたの御手のわざです。

102:26 これらのものは滅びます。しかしあなたは とこしえの方です。すべてのものは 衣のようにすり切れます。外套のように あなたがそれらを取り替えられると それらはすっかり変えられます。

102:27 しかし あなたは変わることがなく あなたの年は尽きることがありません」、からの引用です。

御子、主イエス様が、創造の業の主体者である事が宣言され、属性が宣言されます。

属性とは、独立性、不変性、無限性、単一性の事ですが、独立性とは、他の何ものにも依存する事がない、と云う事であり、不変性とは、その属性、御こころ、御旨、約束に於いて変わらない、と云う事であり、無限性とは、限界が無い、と云う事であり、単一性とは、唯一無二の神であり、三つの位格、父、子、御霊、があるが、ひとりの神である、と云う事です。

多神教がはびこる中で、これらの属性の宣言は、私たちの信じるお方が、どんなお方なのかを明確にするものであり、意義深い事なのです。

1:13 いったいどの御使いに向かって、神はこう言われたでしょうか。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と。

13節の鍵括弧は、詩篇1101節、「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで」、からの引用です。

御子、主イエス様の即位を背景とした、喜びの詩歌であり、敵、悪魔、サタンとその軍勢に対する勝利を喜び、万軍の主の力、威光を褒め称える詩歌なのです。

この世の戦いのように、辺境での小競り合いが続いていたり、残党が出没したり、ゲリラ的に抵抗していたりしているのではありません。

完全に掌握しているのであり、完全な支配下にあるのであり、完全な勝利、圧倒的な勝利を得て、凱旋するのです。

1:14 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

唯一真の神様の右の座、玉座に着座された御子、主イエス様に比べ、大きな働きをし、勝利に貢献した、忠実無比な御使いたちですが、誉れを受けるのは、御使いたちではなく、御子、主イエス様だけです。

勿論、御使いはそれなりの報いを受けるでしょうが、御使いの本分は、忠実である事、従順である事、であり、忠実であった、従順であった、と評価されることが誉れなのです。

救い」は、資格のない罪人に与えられる恵みであり、報酬や対価ではありません。

救い」を受ける資格も権利もない者が、唯一真の神様の一方的な恵み、憐れみ、アブラハムやダビデの信仰を継承した者たちに与えられ、「受け継ぐ」のです。

この「受け継ぐ」を、新改訳聖書第三版は「相続者」と訳していますが、何の働きがなくても、貢献をしなくても、子であれば相続出来るのであり、「救い」とは、そういう性格のものなのです。

御使い」は、御子、主イエス様に仕えると同時に、それは「救いを受け継ぐことになる人々」、「相続者」に仕える事であり、それは、「御使い」は人間よりも下位にある、の意味ではありません。

御使い」は、御子、主イエス様と人間を繋ぎ合わせ、関係回復の手助け、導き、密接な関係作りのために造られた存在だ、と云う事なのです。

【適応】

御子、主イエス様の、全体像を知らないと、間違った信仰に進んでしまいます。

「神は愛です」が、「神は義です」でもあります。

「主イエスは愛です」が、「主イエスは義です」でもあるのです。

義とは、正義、公正であり、再臨の時には、世界は、全ての人は裁きの場に立たなければならないのです。

厳格に裁かれるのであり、其処には一切の憐れみや情状酌量の余地はありません。

愛とは、犠牲であり、再臨の時には、裁きの時には、御子の犠牲、贖いを信じる者は、その罪を赦され、御子に受け入れられ、御子と共に御国に招き入れられるのです。

愛とは、罪を問わない事ではなく、罪を有耶無耶にする事でもありません。

罪の身代わりをしてくださった事です。

罪の刑罰は厳格に執行されるのであり、罪の刑罰を御子が受けて下さった事により、私たちの罪が清算された、と云う事なのです。

裁きの厳格さ、罪の刑罰の大きさ、厳しさ、恐ろしさを知ってこそ、正しく認識してこそ、赦し、即ち、愛の大きさ、広さ、深さ、優しさが実感出来るのではないでしょうか。

裁きの厳格さ、罪の刑罰の現実感が希薄、曖昧だと、赦し、愛も曖昧、漠然としたものになってしまいましょう。

罪を明確にし、罪人を赦すために来られたのが、御子、主イエス様であり、啓示された御子、主イエス様に仕え、罪人に仕えるのが、御使いたちの使命です。

御使い礼拝、聖母礼拝、聖人崇敬は、或いは、人間の働きを重要視する事は、御子、主イエス様の必要性、お働きを貶めるものです。

関わってはなりません。

救い主は啓示された御子、主イエス様だけであり、他の何ものも必要としないのです。

この啓示された御子、主イエス様を信じる者とされて、罪の赦しに与っている事を喜び、この罪の世に、啓示された御子、主イエス様の事を証しし続けようではありませんか。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙2章1節から4節

説教題:「救いのすばらしさ」

【導入】

イエス様の活躍した時代、弟子たちや多くの人々は、イエス様の不思議な力、奇跡を目撃し、イエス様に対して偉大なお方、エリヤやエリシャのような預言者の一人、エリヤやエリシャのような預言者の甦り、との認識を持ち、或いは、天的な存在、即ち、御使いの一人、御使いのトップ、との認識は持っていたようですが、イエス様に対して、神の御子、神の独り子、神ご自身、との認識を持ってはいなかったようです。

イエス様の語られたことばも、預言者や御使いのことばと同列であり、「権威ある教え」、「悪霊でさえ従うことば」と認識してはいましたが、「神のことば、啓示」としては受け止めなかったようであり、受け入れなかったようです。

ちょっと厳しいことばや真理を語ると、過激な教えとして激しく反発し、受け入れず、イエス様を排斥しようとさえしたのです。

御使い、預言者が語ったことばは、唯一真の神様から預かったことばであり、権威があるのであり、権威を認め、従わなければなりません。

更に、イエス様が語られたことばは、唯一真の神様から預かったことばであると同時に、神ご自身のことばでもあるのです。

権威があるだけではなく、語ったことばは、現実となるのです。

世の中には、すばらしい教えの類は山ほどありますが、それは理想でしか、希望でしかありません。

声を揃えて、声を大にして「平和、戦争反対」と叫んでも、戦争はなくならず、平和は到来せず、悲惨な現実が続くだけです。

しかし、御子、主イエス様が「平和」を宣言するならば、平和は到来し、平和が実現するのです。

御子、主イエス様のことばには、権威と力があるのです。

悔い改めのことばを並べ立てても、謙遜になる事を、罪滅ぼしの行脚を行なう事を約束し、実行しても、罪は赦されません。

しかし、御子、主イエス様が赦しを宣言されるなら、どんな罪も赦して頂けるのです。

御子、主イエス様は、赦す権威と力とを兼ね備えていらっしゃるのです。

一方、御使いや預言者、使徒や弟子、宣教師や牧師などは、御子、主イエス様が赦しの権威と力をお持ちになられている事は伝えられますが、赦す事は出来ません。

そして、御使いや預言者のことばを信じず、受け入れないのは、或いは軽んじるのは、御子、主イエス様を信じないのと、受け入れないのと、軽んじるのと同じだ、との警告を与えるのです。

【本論】

新改訳2017版 2:1 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。

啓示や福音は、御使いを通して、或いは預言者を通して、使徒を通して、現代に生きる私たちは、聖書を通して示され、宣教師や牧師を通して聞く訳ですが、「聞いたことを」記憶し、「しっかりと心に留め」続けておかなければなりません。

のみならず、聞いた啓示、福音の権威と力に対して、従順でなければなりません。

時に、反発を覚えても、従うのが大変でも、大きな犠牲を伴っても、人から後ろ指を指される事になっても、非国民と罵られても、家族、親族、友人、知人を捨てても、みことばに従わなければならないのです。

押し流されないように」と訳されているギリシア語は、指輪などが「抜け落ちる」、或いは、記憶などが「消える」事を意味するそうです。

記憶から、すっぽり抜け落ちさせてしまっては、記憶から消え去らせてしまってはなりません。

だからと言って、記憶の奥深くに押し込め、二度と日の目を見ない、と云うのでは問題です。

記憶に留め、且つ、常に記憶を呼び覚まし、確認し、記憶違いが起こらないように、思い込みや、願望が入り込み、いつの間にか、入れ替わってしまわないように、間違ってしまわないように、本質から外れてしまわないように、点検を怠ってはならないのです。

罪の贖い、赦し、永遠の命を得る、御国に入る・・・、人間にとってこれ以上大切、重要な事は無いからです。

代替はないからです。

他の方法はないからです。

自分の力でこれらを得る事は出来ないからです。

唯一真の神様が啓示された、御子、主イエス様から目を離してはならないのです。

2:2 御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、

御使いたちを通して語られたみことば」とは、主に「律法」の事ですが、律法は御使いたち、モーセのような預言者たちを通してもたらされましたが、律法は廃棄されたのではありません。

御子、主イエス様は律法を完成させるために来られた事を忘れてはなりません。

律法は、即ち「基準、規定」であり、基準や規定により、何が「違反」であり、何が「不従順」であるかが明らかにされます。

律法は、十戒に代表される基準、規定ですが、基準、規定があるから、違反か否かがはっきりします。

基準、規定が無いところには、罪も存在しません。

野生の果物や、野生の動物を取って食べても、問題ありませんが、果樹園の果物や、牧場の家畜を取って食べたなら、犯罪です。

「園の中央の木の実」は食べてはならないのであり、食べたなら、罪であり、死ぬのです。

変わらない基準、規定があるから、誰が判断しても、何時判断しても、何処で判断しても、誰に対しても、同じ判断が出来ます。

基準、規定は、公正、公平な判断のために必要不可欠なものなのです。

そして、基準、規定に照らし合わせて、処罰されるのです。

気分次第、状況次第、関係性、損得で判断が変わったり、処罰が変わるという事は、あってはならない事なのです。

それが、唯一真の神様が、御使い、預言者を通して語られた「律法」なのであり、律法は、厳格に適応され、情け容赦なく執行されなければならないのです。

2:3こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。

御使い、預言者を通して語られたみことばには、絶対的な権威があるのです。

であるなら尚更、唯一真の神ご自身が提示された御子、主イエス様と、その主イエス様が提示された「救い」を受け入れず、拒絶し、排斥するなら、「処罰を逃れること」は出来ないのです。

御使いや預言者の言う事だから、使徒たちや弟子たちの言う事だから、宣教師や牧師の言う事だから信じられなかった、と言い逃れをしたとしても、神のことばを否んだのであり、言い逃れが赦されるはずはなく、厳格に処罰されるのであり、唯一真の神の御子である主イエス様を受け入れないなら、尚更、「処罰を逃れること」は出来ないのです。

ここで注意したいのは、御使いや預言者たちのもたらした律法を聞く者にも、御子のもたらした、弟子たちや、宣教師や牧師たちの伝えた「救い」を聞く者にも、従順が求められているのであり、処罰が伴う、と云う事です。

救いは、福音は、律法と異なり、命令としてではなく、招きとして語られました。

しかし、招きを拒み、蔑ろにする事は、律法への不服従、違反と同じように、否、それ以上に大きな処罰を招いてしまうのです。

御使いや預言者が語った律法、御子、主イエス様が語った救い、そして、御子、主イエス様の弟子たちや宣教師、牧師たちが語った救いに、遜色、違いはないのです。

現代に於いて、有名な教会に所属し、著名な牧師から洗礼を受けた事がステータスになりかねませんが、どの教会に所属し、誰から洗礼を受けたかに、全く違いはありません。

教会や牧師に権威があるのではなく、「父と子と聖霊」の御名に権威があるからです。

御使いたちや預言者たちが語ろうが、御子、主イエス様が語ろうが、使徒たちや弟子たち、宣教師たちや牧師たちが語ろうが、神のことばが語られたのであり、権威があるのであり、神のことばに対する従順が求められるのです。

2:4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。

御使いと預言者がみことばを語った時、御子が救いを語った時、使徒と弟子が救いを語った時、

」は、「しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって」、語った事が信じるに値するとの保証を与えてくださいました。

御使いと預言者が語った事に対して、御子が語った事に対して、使徒と弟子が語った事に対して、疑う者も、反発する者もいたでしょうが、「」は奇跡を通して、語った事の確かな事を、「証ししてくださいました」。

使徒の働き222節、「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い」、であり、

43節、「使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた」のです。

現代に於いて、「不思議としるし」を見る事はないかも知れません。

しかし、全くない訳ではなく、唯一真の神様が必要と思われるなら、宣教師や牧師の語るみことばと救いの保証のために、「不思議としるし」が伴う事もあるのです。

しかし、基本は、「みことば」です。

【適応】

唯一真の神様は、基本的には「みことば」を使って、御子、主イエス様の救いを、

救いのすばらしさと唯一性を世に伝えようと計画され、使徒や弟子を、宣教師や牧師を派遣されました。

救いのすばらしさはことばに言い現し尽くせませんが、ことばを使って救いのすばらしさを、真理を、御こころを伝えるのが、唯一真の神様のご計画です。

コリント人への手紙第一121節、「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。

1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、

1:24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

1:25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

そして、私たちは、ことばだけで信じるか、否か、の選択を迫られます。

ことばだけで信じるのが、信仰です。

救いのすばらしさは、ことばでは言い現せませんが、ことばに頼るのであり、ことばだけで信じるから、信じ続けられるのではないでしょうか。

御子、主イエス様を見た事がなくても、信じられるのは、ことばの力なのではないでしょうか。

奇跡が必要だと、次のステップでも奇跡を必要とし、確信が揺らいだ時、奇跡が無いと確信を取り戻せなくなってしまうのではないでしょうか。

奇跡は次の奇跡を要求し、止まる事が無いのではないでしょうか。

大事な事は、信じる事であり、信じた時、信じた通りになるのです。

罪人の救いは、御子、主イエス様の贖い、赦し、永遠の命を信じる事であり、御子、主イエス様を信じた時、罪人は贖われ、赦され、救われ、永遠のいのちを与えられるのです。

もし、何かを差し出さなければならないのなら、何も持たない者は、この救いに与れません。

もし、何かを成さなければならないのなら、何も出来ない者は、この救いに与れません。

あなたは招かれているのであり、招きに応じるだけで救われるのです。

救いのすばらしさは、ことばにあるのであり、其々が理解出来ることばで提供されているところにあるのです。

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                                       2022-8-21礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙2章5節から9節

説教題:「主イエスは救いの創始者」

【導入】

人間の努力、精進、善行、献げ物、或いは研究、探求では、決して得られない罪の贖い、罪の赦し、永遠の命、御国に入る事が、御子、主イエス様の十字架の、贖いの死、甦り、昇天によって完成しました。

そして、人間は、この御子、主イエス様の十字架に込められた唯一真の神様の御旨、ご計画を信じるだけで、罪の贖い、罪の赦し、永遠の命を得、御国に入る事が出来るのです。

唯一真の神様の御旨、ご計画は、隠されてはいますが、決して見つけ難いものではありません。

御使いを通して示され、預言者を通して示され、使徒の口を通して語られ、弟子の口を通して語られ、ことばによって伝えられました。

聖書に纏められ、自国のことばで、理解出来ることばで、平易なことばで伝えられました。

一部の国、地域では聖書を手にする事が出来ず、聖書を読む事が出来ませんが、色々な方法で、放送を通して、宣教師を通して、或いは旅行者を通して、ビジネスを通して、福音のことばが伝えられています。

福音のことばは、伝えられ、聞く事は可能なのですが、逆に、簡単過ぎて信じられない、と言った方が、現実かも知れません。

そこで、信じてもらいたいがために、福音のことばに何かを付け加えたり、削ったり、勝手な解釈を施したり致しますが、福音のことばに、一切付け加える必要はなく、削ってはならず、都合の良い解釈をしてはなりません。

御子、主イエス様は唯一真の神の独り子であり、私たちを救うためにこの世にお生まれになり、私たちの罪の贖い、赦しのために死なれ、私たちに永遠の命を与え、天国に招き入れるために甦られた事を伝えれば良しです。

これらが、人間に与えられた働きです。

「救い」と云うご計画の立案者は唯一真の神様であり、御子、主イエス様は創始者であり、実行者であり、推進者であり、完成者なのです。

【本論】

新改訳2017版 2:5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。

御子、主イエス様は、「来たるべき世」の真の支配者です。

来たるべき世」とは、御子、主イエス様、再臨の日に完成する新天新地の事、御子、主イエス様の昇天の後、唯一真の神様の右の座に着かれた時から始まった、新しい世界秩序の事、との理解がありますが、どちらであっても、御子、主イエス様が支配者であり、どんなに優秀、有能でも、「御使いたち」が御子、主イエス様に代わって王座に着き、被造物を掌握し、支配し、実権を行使する事はありません。

御子、主イエス様だけが、「主の主、王の王」だからです。

来たるべき世」を、「御使いたちに従わせる」事は、唯一真の神様の御旨、ご計画ではありません。

御使いたち」は、唯一真の神様、御子、主イエス様に仕える僕であり、また、人間の助け手であり、決して人間の上に立つものでも、「来たるべき世」を、支配するものでもありません。

2:6 ある個所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。

2:7 あなたは、人を御使いより わずかの間 低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、

2:8 万物を彼の足の下に置かれました。」

6節、7節の「」は、格の違いはありますが、どちらも同じギリシア語であり、「人、人間、この人」と訳せるギリシア語です。

26節から8節の鍵括弧の聖書箇所は、詩篇84節から6節からの引用です。

8:4人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

8:5 あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。

8:6 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。

詩篇では、4節、前者の「人」と訳されているヘブル語は「人、人類、個人」を意味するヘブル語であり、後者の「人」と訳されているヘブル語は「アダム」ですが、固有名詞ではなく、名詞です。

日本語ではどちらも「人」と訳しています。

詩篇の作者ダビデも、ヘブル人への手紙の筆者も、創造に於いて、人間に与えられた使命である、被造物を支配する役割を与えられた者としての認識と、人間の罪と脆弱さ故に、その使命を全うできなかった事を意識しつつ、アダムの子孫として100%人間であり、唯一真の神の御子として100%神である主イエス様が、唯一真の神様から与えられた使命、被造物世界の支配者、新天新地の支配者となると云うご計画を担い、完成へと導くお方である事を示唆しているのです。

7節後半と8節前半、「これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました」は、

御子、主イエス様が、主の主、王の王として就任され、御座に着座され、栄光と権力を受けられる事を誉め歌ったものであり、讃美と誉れを受けられる、唯一のお方である事を歌っているのです。

8節後半、神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

御子、主イエス様が王座に着かれる時、「万物」は、主イエス様の支配下に「置かれ」、「彼に従わないものを何も残されません」。

これは、決定事項であり、変更も修正もありません。

但し、5節、「来るべき世」に於いてであり、主イエス様再臨の時に、私たちはこれを目撃する事になるのですが、主イエス様のご支配は、既に始まっているのであり、完成に向って着実に、確実に、進んでいるのです。

主イエス様のご支配は、世界の隅々にまで及んでおり、主イエス様のご支配を免れるものは唯の一つもありません。

人間を含む、御使いを含む被造物の全てが主イエス様の下に額づくのです。

御使いがどんなに有能、優秀でも、「万物を・・・足の下に置かれ」、「従わせ」るのは、御子、主イエス様だけであり、「栄光と誉れの冠をかぶ」るのも、主イエス様だけなのです。

今現在、万物が主イエス様のご支配の下にはありませんが、疑っては、不安になってはなりません。

主イエス様のご支配は、不確定な事ではなく、確実な事です。

何故ならば、唯一真の神様の御旨、ご計画であり、御子、主イエス様が創始者であり、主イエス様ご自身が実行者となられて、これらのご計画を推進されているからです。

唯一真の神の御子ご自身が創始者、推進者なのですから完成は確実なのであり、疑う必要も、不安になる必要もないのです。

2:9 ただ、御使いよりもわずかの間 低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

主イエス様を見た人たちの中には、ヨセフとマリアの子としてしか見る事をせず、神から遣わされたお方、との認識がなく、敬意も、尊敬も払いませんでした。

また、主イエス様の十字架を目撃した弟子たち、人々の中には、主イエス様の死を以って、神様の御旨、ご計画は頓挫した、全て水泡に帰した、と判断し、離れて行った人たちも大勢いた事でしょう。

しかし、それは、人物や出来事の一部を見ての判断、推測、憶測であり、人の子として、極々普通に生まれる事、「死の苦しみ」を受けられる事こそ、御旨、ご計画の中心であり、これが無くてはならず、これがあってこそです。

人間は、一部しか知る事が出来ず、一面しか見る事が出来ません。

その事を重々弁えて、一部で、一面で全体を判断、推測する事のないよう、決め付ける事のないよう、注意しなければなりません。

人間は、一部、一面しか知り得ない、知り得ない部分にこそ真実がある、見えない面にこそ真理が隠されている、との謙虚さを常に持っていなければ、忘れてはなりません。

御子、主「イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」。

死の苦しみ」を「味わわれ」る事こそ、唯一真の神様、御子、主イエス様の御旨、ご計画であり、救いのご計画完成への重要な手順、ステップなのです。

【適応】

御子、主イエス様は救いの創始者であり、実行者であり、推進者であり、完成者なのです。

御使いも、人間も、御子、主イエス様のしもべ、お手伝いであり、救いの御ことば、福音を知らない人たちに伝える働きを委ねられているのです。

テモテへの手紙第二42節、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

この命令は、信徒一人一人に与えられた、大切な使命であり、働きです。

宣教師、牧師は少数ですが、信徒の数は膨大です。

同盟教団の資料によれば、教師の数は429人であり、信徒の数は12433人だそうです。

信徒は家庭に、地域に、広く遣わされており、深く関わりますので、その働きと期待は非常に大きいのです。

信徒の全ては、罪の世に派遣され、救いの御ことば、福音を伝える宣教師なのですが、しかし、無理矢理、強引に聞かせる必要はありませんが、語るチャンスを逃してはならず、信仰を強要してはなりませんが、良き模範となり、常に、御子、主イエス様を指し示す言動が期待されるでしょう。

そのためには、ヘブル人への手紙122節、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」が肝要です。

戦争や内戦が起こり、貧富、経済格差が拡大し、疾病が蔓延し、そこに付け込むかのように、救世者を名乗る者が現れ、或いは、「私こそ、救い主だ、キリストだ」と、主イエス様の救いのご計画の完成者を名乗る、人心を惑わすような、大小、様々な動き、働きが活発化します。

マタイの福音書245節、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わします」が、こんな惑わしに乗って、騙されてはなりません。

救いの福音は、人間の考え出した理想や希望などではなく、曖昧なもの、不確定なものなどではないのです。

救いの創始者は御子、主イエス様、唯お一人だけであり、救いの福音は、確実なものであり、皆様は無条件でこの救いに招かれているのです。

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                                       2022-8-28礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙2章10節から14節

説教題:主イエスは救いに導くお方」

【導入】

前回、確認した事ですが、人間の努力、精進、善行、献げ物、或いは研究、探求では、決して罪の贖い、罪の赦し、永遠の命を得る事は出来ず、御国に入る事は出来ないのです。

只々、御子、主イエス様の十字架の、贖いの死、甦り、昇天のみであり、このご計画は、創造の時に決定していた事でした。

そして、このご計画は着々と進み、現在に至っているのです。

世の中には、色々な計画、プロジェクトがあり、短期計画から、中長期計画、更には何世代にも亘る計画もあります。

それらの計画ですが、実行に移されて程なくして状況が変わって、変更をしなければならなくなる場合もあり、また、数世代経た時には、立案者、主要メンバーは居なくなり、スタッフも入れ替わり、状況、環境が大きく変わり、変更を余儀なくされる場合もありますが、唯一真の神様と、その御子、主イエス様のお立てになられたご計画は、推進者、実行者も唯一真の神様と、その御子、主イエス様であり、何年、何百年、何千年経とうが、一切の変更は無く、着々と、粛々と目標、目的に向かって進んで行きます。

この世の計画は、推進者、実行者が代わらなくても、目標の変更は無くても、手段や方法には、時代に合わせた変更が加えられますが、唯一真の神様、御子、主イエス様のご計画は、御子、主イエス様が推進者、実行者であられるので、手段に於いても、方法に於いても、変更はありません。

人間を導くお方は、御子、主イエス様だけであり、誰もが、必ず、確実にゴールイン出来るのです。

【本論】

新改訳2017版 2:10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

先にも述べましたが、人間は、自分の努力、精進、善行、献げ物、或いは研究、探求で、「栄光」を得る事は出来ません。

人間は、唯一真の神様の姿に似たものとして造られ、唯一真の神様の栄光を反映するものとしての使命が与えられているにも関わらず、罪を犯したために、罪を内在する存在となり、何をしてもしなくても罪の悪しき影響を受け、唯一真の神様の「栄光」を現す事は出来ず、罪を離れるどころか、寧ろ、罪に親しみ、罪に浸たり、「栄光」を踏み躙り、後ろに投げやってしまったのです。

そこで、唯一真の神様は、「多くの子たちを栄光に導くために」、「彼らの救いの創始者」、「創始者」とは、草分け、開拓者の意味ですが、御子、主イエス様をこの世に、人間のために遣わし、「多くの苦しみを通して」、即ち、辱め、罵り、嘲り、十字架刑、に遭わせられました。

これらの苦しみを経て、最終的には御子、主イエス様の死によって、人間の罪を贖い、人間を「完全な者とされ」、即ち、人間が失った「義」を与え、「義なるものとされ」、栄光へと到達する道を切り開き、歩ませてくださったのです。

義に至る道を新しく切り開かれた、その目的は、人間、被造物を通して、唯一真の神様、父なる神様の「栄光」を現すためなのです。

万物の存在の目的であり、また原因でもある」とは、唯一真の神様、父なる神様の事です。

これらのご計画は、即ち、十字架と復活こそ、唯一真の神様の御わざの最大のものであり、唯一真の神様のなさった全ての事は、唯一真の神様に相応しいご計画であると告白し、唯一真の神様を賛美すべきなのです。

唯一真の神様賛美こそ、被造物の存在理由であり、存在目的なのです。

2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。

聖とする方」とは、御子、主イエス様の事であり、「聖とされる者たち」とは、私たち人間、罪人たちの事です。

御子、主イエス様の祭司職と、私たちの関係を示すことばであり、御子、主イエス様の罪の贖いの死によって、人間は罪を赦され、「完全な者とされ」、義とされ、神の子とされるのです。

御子、主イエス様は、「兄弟」たちが主イエス様に従って栄光の道を歩むように、「兄弟」たちと同じ人間性を採られ、罪の贖いのために「兄弟」たちの受くべき死の試練も受けられたのです。

唯一真の神様のご計画であると同時に、御子、主イエス様自ら、ご計画の推進者、実行者となられたのです。

御子、主イエス様のお働きにより、私たち人間は、罪人は、唯一真の神様を礼拝し、唯一真の神様に仕えるものとされ、その「栄光に導き」入れられるのです。

一人の方」とは、唯一真の神様の事です。

ご計画の全ては、最初から最後まで、創造者にして支配者なる、唯一真の神様お一人だけである事を宣言することばです。

先にお話したように、この世の計画、プロジェクトは、最初から最後まで立案者が監督し、同じメンバーが担当する、と云う事は希でしょう。

しかし、人間の救いと云う遠大な計画は、終始一貫して唯一真の神様と御子、主イエス様が監督し、担当しているのですから、その時々による差異は、全く起こらないのです。

2:12 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」

12節は、詩篇2222節、「私は あなたの御名を兄弟たちに語り告げ 会衆の中であなたを賛美します」、からの引用です。

詩篇22篇の読み手はダビデですが、ダビデの、ユダヤ民族に対する語り掛け、呼び掛けであり、ダビデの、唯一真の神様に対する強い愛と深い信頼からの、神賛美の詩篇です。

ヘブル人への手紙では、御子、主イエス様を頭とする信仰共同体への語り掛けであり、教会、即ち、信仰共同体の中心、頭が御子、主イエス様であるべき事と、神賛美であるべき事の表明でしょう。

教会は、神礼拝、神賛美の場です。

副次的に、神様から恵みを受けたり、信徒同士の交わりを持ったりもしますが、教会の中心は神の招きと、招きに応答した神の民による神礼拝と神賛美です。

信仰共同体、賛美共同体と言っても良いでしょう。

御子、主イエス様の大きな犠牲を感謝し、唯一真の神様を礼拝し、賛美するのが、信仰共同体である教会の使命であり、あるべき姿なのです。

2:13 また、「わたしはこの方に信頼を置く」と言い、さらに、「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」と言われます。

始めの鍵括弧は、イザヤ書817節c、「私はこの方に望みを置く」、からの引用です。

イザヤが預言した状況ですが、イザヤの預言は王や民に無視され続けていました。

そこで、イザヤは、預言を封印し、保管するよう弟子に命じました。

後に、預言が成就した時、イザヤが語ったことばが、神のことばであった事が証しされるためでした。

神様に信頼しない状況は、イザヤの時代のユダヤ人だけではありません。

この手紙はイタリア在住のヘブル人に宛てられた手紙ですが、平時には神様に信頼していても、緊急時、アクシデントに遭遇するとパニックに陥り、右往左往する信者が大勢居たのでしょう。

現代でも、実情は同じようなものなのではないでしょうか。

そんな中で、神様に「信頼を置く」、揺るぎ無い生き方は、人々の関心を集め、人々から一目置かれ、尊敬を受け、信頼を置かれるのではないでしょうか。

次の鍵括弧は、イザヤ書818節a、「見よ。私と、主が私に下さった子たちは」、からの引用です。

イザヤが預言した状況ですが、王や民は神に信頼せず、従わなくても、イザヤが望みを掛けたのは、イザヤの弟子と、イザヤの子どもでした。

イザヤの弟子と子どもは、イザヤに倣って神に信頼していたのであり、イザヤの希望となったのです。

イエス様の時代、祭司、律法学者、パリサイ人たち指導者たち、知識人たちが、また多くのユダヤ人が、御子、主イエス様を信頼せず、見限り、離れて行きましたが、残された少数の弟子と、イエス様を信じる民が、イエス様の希望となったのです。

現代、少数の、神に「信頼を置く」信者を、主イエス様がどれ程大切に思い、慈しみ、愛おしく思っておられるかが窺える引用なのではないでしょうか。

預言者、使徒、弟子、みことばを宣べ伝える者のことばが、民に受け入れられず、預言者、使徒、弟子、みことばを宣べ伝える者があざけられますが、預言者、使徒、弟子、みことばを宣べ伝える者は、御子、主イエス様自らが守ってくださいます。

また、神に「信頼を置く」信者を、御子、主イエス様が蔑ろにされるはずがありません。

御子、主イエス様がいのちを掛けて贖ってくださった魂ですから、救いに導くまで、守ってくださいます。

【適応】                                                

人間には、都合があり、また、寿命があり、限界があり、自身も弱さを持っているので、何時でも、何処でも、また何時迄でも、何処迄でも、面倒を見る事は、世話をする事は、助ける事は出来ません。

しかし、御子、主イエス様は、神ご自身であり、同時に、何処にでも存在出来るお方であり、永遠のお方であり、無限のお方であり、何時でも、何処でも、何時迄でも、何処迄でも、決して離れる事なく、面倒を見てくださり、世話をしてくださり、助けてくださり、救いに導いてくださるのです。

信仰が弱くても、怖くなっても、不安がっても、大丈夫です。

マタイの福音書1428節、「するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。

14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。

14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。

他に、マタイの福音書823節~、175節~、マルコの福音書435節~、ルカの福音書18節~、26節~、などが、参考になり、励まし、慰めになるでしょう。

御子、主イエス様の助けは、間髪を入れずの、即対応であり、手取り足取り、負んぶに抱っこ、至れり尽くせり、何度でもなのです。

救いに導くのは、信仰の先輩兄姉ではありません。

教会の長老格の方々でもありません。

人を頼る時、人に躓きます。がっかりさせられます。裏切られます。

イザヤ書222節、「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。

マタイの福音書1514節、「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。

自分の知恵に頼るのも、自分で道を切り開くのも、賢明な策ではありません。

箴言1412節、「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。

唯一真の神様は、救いの導き手として御子、主イエス様を立ててくださり、送ってくださったのであり、主イエス様は、救いのご計画の立案者であり、実行者であり、推進者であり、的確、適切、最善の助け手、導き手なのですから、主イエス様に頼るのが、一番なのです。

否、主イエス様に頼らず、人に頼るのは、主イエス様を信頼していない証拠であり、主イエス様が悲しまれ、ご計画の立案者、唯一真の神様を悲しませる事なのです。

救いに導くお方は御子、主イエス様、唯お一人だけであり、人も、本も、何ものも救いに導く事はないのです。

御子、主イエス様の導きに従うなら、あなたの救いは確実です。

主イエス様から目を離さない事だけです。

ヘブル人への手紙122節、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

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