2022-9-4礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙2章14節から18節

説教題:「主イエスは救いの完成者」

前回、確認した事ですが、とても大事な事なので繰り返しますが、救いに導くのは、信仰の先輩兄姉のお手本、教会の長老格の方々のアドバイス、教職者の指導ではありません。

信仰の先輩兄姉の、教会の長老格の方々の、教職者の、お手本、アドバイス、指導も役に立ち、有益ですが、頼るのは人ではありません。

人を頼る時、人に躓きます。

イザヤ書222節、「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。

マタイの福音書1514節、「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。

自分の知恵に頼るのも、自分で道を切り開くのも、賢明な策ではありません。

箴言1412節、「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。

頼るべきは、みことば、聖書、説教に示された御子、主イエス様です。

唯一真の神様は、救いの導き手として御子、主イエス様をお立てくださり、送ってくださったのであり、主イエス様に頼るのが、一番なのです。

否、主イエス様に頼らず、人に頼るのは、唯一真の神様を、御子、主イエス様を信頼していない証拠であり、主イエス様が悲しまれ、ご計画の立案者、唯一真の神様を悲しませる事なのです。

ヘブル人への手紙122節、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

そうすれば、必ず救いを得る事が出来ます。

これが、唯一真の神様のご計画であり、御子、主イエス様がご計画の全貌を熟知され、最善に導くお方であるからです。

【本論】

新改訳2017版 2:14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、

血と肉を持っている」とは、「死ぬべき身体を持っている」の意味です。

人間は、事故、病気に遭わず、長生きしたとしても、その寿命は120年前後です。

細胞レベルで観察するなら、毎日、何千、何万という数の細胞が死に、同じ数だけの細胞が生まれて来るそうです。

しかし、無限に繰り返す訳ではなく、身体全体としては、老いて行き、120年前後で、死を迎えるのです。

イエス様は、唯一真の神の御子ですが、人間と全く同じに生まれ、怪我もするし、病気にもなるし、細胞レベルでは人間と同じく、毎日、何千、何万という数の細胞が死に、同じ数だけの細胞が生まれてを繰り返しているのです。

主イエス様は、その誕生の時から、成長の過程に於いて、正真正銘の人間であり、死ななければならない身体をお持ちなのであり、私たち人間と寸分の違いもないのです。

それは、主イエス様が私たち人間と真の一体関係を持つためです。

一体であるからこそ、人間の代表となり、人間の身代わりにもなれるのです。

この唯一真の神様のご計画に対して、主イエス様はご自分の自由意志で「血と肉」を「お持ちになりました」。

強制ではなく、仕方なくでもなく、受けざるを得ないから、でもありません。

ご自身が人間の救いの計画の立案者であり、実行者であり、教導者であり、完成者であると明確に自覚され、人間の救いのために、人間と全く同じ身体を持つ事が必要不可欠、必須であるからです。

そして、死ぬ事が人間の救いのために必要不可欠、必須だからです。

身代わりは、完全、完璧な形で死ななければなりません。

仮死であっては、また、死なない身体であってもならないのです。

一時的な死、即ち、蘇生術によって息を吹き返したりするのも駄目です。

本当に完全、完璧に死ななければならないのであり、完全、完璧に死ぬ事によって、罪の贖いが完成するのです。

しかし、主イエス様の死は、悪魔と云う「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼ」すためです。

滅ぼ」すとは、「無力にする、無きに等しいものにする」の意味であり、

ヨハネの手紙第一38節、「悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました」、であり、

コリント人への手紙第一1526節、「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」、と記されている通りです。

」、そのものは、いまだ、存在しますが、「」は、罪と結び付いて働く時、唯一真の神様と断絶させる力となり、人間には抗えない強大、強力な力ですが、主イエス様の「」によって、「」の持つ力、意味が変わり、唯一真の神様と断絶させる力は無に等しくなったのです。

2:15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

罪に対する唯一真の神様の怒りは凄まじいものであり、裁きは筆舌に尽しがたいものです。

」は、単なる生物学的な死、精神的な死、消滅、霧消、終わりではなく、唯一真の神様の怒りに直面する事、対面する事、裁きに服する事です。

唯一真の神様の怒りと裁きの当事者となるのであり、「」は、将来の恐怖、脅威であるだけではなく、現実の恐怖、脅威なのです。

その恐怖、脅威は、「死の恐怖に・・・一生涯奴隷としてつながれていた」と表現されていますが、本当にその通りなのではないでしょうか。

民族毎に、其々の文化に、死後の世界観があり、日本では閻魔大王が裁判官となり、天国に行くか、地獄に行くかが決められるのであり、「」は大きな不安、恐怖、脅威でしょう。

しかし、「」が罪の裁きとしての意味を持たなくなる時にのみ、「」の恐怖、脅威から真に自由にされるのであり、それは、主イエス様の贖いの死によってのみ、もたらされるものなのです。

勿論、未知の世界に入るのですから、不安や疑問はあるでしょうが、厳しい裁きが待っていない事は確実なのであり、大きな安心なのではないでしょうか。

2:16 当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。

主イエス様がもたらした、「」の恐怖、脅威からの「解放」の恩恵に与かるのは、「御使いたち」ではなく、「アブラハムの子孫」です。

しかも、一般的な意味の「子孫」ではなく、血縁の子孫、肉の子孫ではなく、唯一真の神様に対する信仰に於いての「アブラハムの子孫」、霊的な意味での「子孫」であるキリスト者を「助け出してくださるのです」。

助け出す」と訳されているギリシア語は、「手を引く、掴む、捕らえる、獲得する」、と云う意味のことばであり、単に、窮地から助け出す、脱出させる、安全地帯に置く、の意味ではなく、手を引いて導き出し、導き続ける、保護の下に置く、所有する、の意味です。

一時的なものではなく、永続的であり、不変的、断定的な約束、宣言です。

ここで注意したいのは、「助け出してくださるの」は、「アブラハムの」「子孫」であり、単数である、と云う事です。

御使いたち」は複数であるのに対して、「子孫」は単数なのです。

即ち、主イエス様の関心は、「御使いたち」にあるのではなく、「アブラハムの子孫」、一人一人にあるのであり、十把一絡げで「助け出してくださるの」ではなく、個別対応で、其々の状況下で「子孫を」、即ち、「あなたを」「助け出してくださるの」だ、と云う事です。

当然、一人一人、時期も、方法も違うでしょうし、違って当然なのです。

2:17 したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。

大祭司」の職務は「神に関わる事柄について」であり、民の一員として、民の代表として、唯一真の神様に対して責任を負うのであり、民の罪を贖い、唯一真の神様を宥めるための献げ物を献げる事です。

他にも、民を聖めるための祭儀を行なう事、神殿で奉仕する事などに関わりますが、民の一員として、民の代表として、唯一真の神様に仕えるのです。

大祭司」の特質は、「あわれみ深」く、「忠実」である事です。

忠実」なだけ、或いは「あわれみ深」いだけでは充分ではなく、「あわれみ深」く、且つ、「忠実」でなければなりません。

職務に「忠実」でありつつ、「あわれみ深い」、即ち、人間が受ける苦難と試練に同情し、人間が持つ、弱さと脆(もろ)さ、儚(はかな)さと危うさとを理解し、融通が利き、配慮があり、寛大、寛容である、なのですが、これは、人間の業ではありません。

主イエス様だから成し得るのであり、主イエス様だけが成し得るのです。

主イエス様は、唯一真の神の子であり、罪の無い者であるが故に、神の前に出る事が出来、また、「大祭司」として、民の罪を贖って、民の一員として、民の代表として、民の代わりに神の前に出る事が出来るのです。

大祭司」としての「忠実」さは、唯一真の神様に対して「忠実」でなければならず、民に対しても「忠実」でなければなりません。

神に対して卑屈であったり、上辺だけの、表面的な仕え方であったりしてはならず、民に対して横柄であったり、高飛車であったりしてはならないのです。

罪は神の怒りを引き起こし、罪の贖いが成り立つためには、神の怒りが宥められなければなりませんが、このために「大祭司」が必要なのであり、主イエス様が私たちの罪を贖うために、血肉をもつ人間となられ、「大祭司」となられ、ご自身の死をもって、宥めの供え物となられた、と云う点に、キリスト教の贖罪の徹底的な恩恵性があるのです。

人間の側の犠牲とか、献げ物などが無意味だ、と云うのではなく、主イエス様の贖罪がすべてであり、完全であり、付け加えなければならないものは何もないのです。

2:18 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

主イエス様の同情は、側に立ってはいるかもしれませんが、距離を置いて、安全地帯から見ている者の姿ではありません。

理想論、机上の空論で、指示を出しているのでもありません。

私たちが経験する苦難と試練で、主イエス様が経験されなかった、味わわれなかったものは唯の一つもありません。

主イエス様は、人間となられ、血肉に於いて苦難と試練を受けられ、民の贖いとなられ、また、民の代表として、民の贖いの業を成すべき「大祭司」となられ、唯一真の神の前に立たれ、二大使命を全うされたのです。

人間が持つ、弱さと脆(もろ)さ、儚(はかな)さと危うさとを共有し、理解し、苦難と試練を経験し、その上での助けであり、これ程、力強い助けが他にあるでしょうか。

人間は、世話好きな人でも、献身的な人でも、身内であっても、犠牲を厭わない人でも、

自分の都合があり、自分たちの生活があり、自身も弱さを持っているので、何時でも、何処でも喜んで、また何時迄でも、何処迄でも、世話をする事は、助ける事は出来ません。

しかし、主イエス様は、神ご自身であり、同時に、何処にでも存在出来るお方であり、永遠のお方であり、無限のお方であり、何時でも、何処でも、何時迄でも、何処迄でも、決して離れる事なく、面倒を見てくださり、世話をしてくださり、助けてくださり、救いに導いてくださるのです。

唯の一人として脱落者を生まず、救いを完成してくださるのです。

【適応】

主イエス様のみが、救いの完成者であり、多くの御使いや、また、人間も「救い」と云う働きに関わりますが、救いを完成させるのは主イエス様のみです。

誰の、どんな助けも必要とはしません。

立案に於いて、推進に於いて、完成に於いて、主イエス様が主体であり、主イエス様自らが、人間を導き、助け、救いに入れてくださるのです。

人間には応答が必要ですが、人間の犠牲や助けは一切不必要です。

主イエス様は救いの完成者であり、救いは完成しています。

大した貢献をしていなくても、犠牲を払っていなくても、救いに洩れる事はありません。

救いの条件が変わる事はありません。救いは完成しているからです。

救いに洩れる事はありません。救いの条件が変わる事がないからです。

人間世界では、手土産を持って行ったり、失礼の無い服装や格好をして行ったりしますが、主イエス様の救いを受けるには、何も必要なく、手ぶらで、服装も姿かたちも、普段のままで良いのです。

着飾ったりする必要もなく、襤褸を着ていても、救いに相応しい肉体、服を用意してくださいます。

救いに一切の欠け、不足は無く、唯一、必要なのは、主イエス様の救いに応答する事だけです。

救いは、自発的に入るものであり、一切の強制や無理強いはありません。

救われた後、不足を補ったり、欠けを満たしたりする必要もありません。

あなたは、あなたのままで良いのです。

準備、万端整い、主イエス様はあなたを待ってくださっているのです。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙3章1節から6節

説教題:「主イエスは偉大な大祭司」

【導入】

どの宗教にも、祭儀を執り行う者が立てられ、神と衆人との執り成しをしますが、ユダヤ教でも、祭儀を執り行い、唯一真の神様と衆人との執り成しをする者として、祭司が立てられ、特別な祭儀、執り成しを行なうものとして、大祭司が立てられます。

ユダヤ教の祭司は誰もがなれる訳ではなく、アロンの子孫である事が条件です。

その年の最年長の祭司が、大祭司になるのですが、新約の時代には、大祭司が、その職務を退いても、その職名と権力は残り、そして、何人かの大祭司が立てられたようですが、

イエス様の時代には、ルカの福音書32節に記されていますが、アンナス、カヤパの二人が、使徒の働き4章6節には、アンナス、カヤパの他に、ヨハネ、アレキサンデルの名前も記されています。

職務の重要性から、何人かが立てられていたのでしょうが、権力への執着、既得権益を手放したくなかった、が実情なのかも知れません。

職務の重要性から、何人かが立てられていたのでしょうが、祭司も大祭司も罪を持つ人間であり、自身の罪を贖ってでなければ、その職務に就く事は出来ません。

そして、職務に忠実であろうとしても、罪を持つ身であり、罪の影響を受け、常に正しい、唯一真の神様の御旨に相応しく職務を遂行出来る訳でもありません。

しかし、唯一真の神の御子である主イエス様は、神であり、罪は無く、唯一真の神様と一体であり、唯一真の神様の御旨に寸分違わない、相応しい職務を遂行出来るのです。

主イエス様は偉大な大祭司であり、稀有な大祭司であり、唯一無二の大祭司なのです。

【本論】

新改訳2017版 3:1ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

著者は、イタリアに住むユダヤ人に、「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と、最高の賛辞を込めて呼び掛けます。

天の召しにあずかっている」とは、主イエス様の贖いによって義とされ、永遠の安息に与るために召し出された、の意味であり、天の御国に入る資格を持つ、の意味です。

キリスト者は、主イエス様の贖いによって聖とされ、唯一真の神様の子とされ、主イエス様を頭、長子とする神の家族の様であるが故に、「聖なる兄弟たち」と呼ばれるのです。

主イエス様は、唯一真の神様ご自身を、究極的に、完全に啓示するための「使徒であり」、即ち、「預言者」です。

且つ、神の前に人間を代表して、神に関する事柄を、罪の影響を一切受けないで、完全な形で成し遂げる事の出来る「大祭司」です。

旧約に於いて、預言者職と祭司職を一人が担う事は極希であり、通常、別の人間が立てられ、遣わされます。

その点で、モーセのような働き人は希であり、例外中の例外、異例中の異例と言えるでしょう。

モーセは、神の御旨、啓示を伝える預言者であり、同時に、罪を贖う生贄を献げ、神の前に執り成す、祭司の働きをする特別に選ばれた人であったのです。

そんな重要な働きを兼務する、偉大な、稀有な人物でしたが、モーセは非常に柔和で、謙遜な人でもありました。

民数記123節、2017版では、「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった」と、第三版では、「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」と記されています。

更に、モーセの忠実さが特筆に価する事が証しされます。

3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

モーセの働きは、「神の家全体」に関わる事でした。

神の家」の意味は、一、幕屋、聖所に関する事柄、即ち、設営や祭儀の規定に関する事柄、二、神の民に関する事柄、即ち、民の、罪の贖いや聖めに関する事柄ですが、モーセは、これら二つの意味に於いて、規定を逸脱する事なく、定めの通り、寸分も違わずに、忠実に「神の家」に仕えたのです。

モーセの忠実さに対する、唯一真の神様の信頼、神ご自身による評価は下記の通りです。

民数記127節、8節「12:7b しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。

12:8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。

モーセは、唯一真の神様から絶大な信頼と、類希(たぐいまれ)なる評価を得ていましたが、しかし、それを笠に着て高ぶる事は決してなく、高慢、尊大に振舞う事もなく、常に謙っていたのです。

こんな偉大な、柔和、謙遜な、忠実なモーセですが、それにもまして偉大で、柔和、謙遜で、忠実なのが御子、主イエス様です。

モーセと主イエス様の違いは、「神の家」に対する忠実さと、「ご自分を立てた方」、即ち、唯一真の神様に対する忠実さの違いとして記されていますが、しかし、この違いは、決して小さな違いではありません。

どちらも、唯一真の神様に対する忠実さの現れですが、モーセの忠実さは、人間としての有限性、罪を持つ身の限界などを前提とした忠実さであり、一方、主イエス様の忠実さは、神としての完全さ、独立性、不変性、無限性、単一性に於ける忠実さであり、雲泥の違い、月とスッポンの違いです。

3:3 家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。

モーセが如何に偉大であり、謙遜であっても、主イエス様には及びません。

それを著者は、「」と「家を建てる人」とで現します。

立派な家は、或いは建造物は、それはそれで評判になり、時に、観光名所になったりもしましょうが、「」よりも「家を建てる人」が「大いなる栄誉」を受けるのです。

初期の神殿と王宮は、壮大、荘厳でしたが、ソロモンが建てたのであり、ソロモンが讃えられました。

モーセが如何に偉大でも、謙遜でも、人間であり、神様から最高の評価を得ても、罪深い人間でしかありません。

人間は、神様が造られた被造物、謂わば「」のようなものであり、しかし、主イエス様は、神ご自身であり、この世界の創造者であり、神の御国の建設者であり、「家を建てる人」のようであり、「大いなる栄誉」を受けるに相応しいのです。

主イエス様は、忠実さに於いて、誠実さに於いて、謙遜さに於いて、モーセの比ではありません。

3:4 家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。

ここでも著者は、モーセの働きを評価しつつ、主イエス様がモーセよりも偉大である事を説明しようとしています。

」よりも、「家を建てる人」が「大いなる栄誉」を受けるのであり、更には、「すべてのものを造られたのは神」であり、「大いなる栄誉」を受けるのに相応しい、と断じるのです。

すべてのものを造られた・・・神」とは、主イエス様の事であり、モーセの働きは偉大であり、ユダヤ民族の基礎を作り、世界の祝福の基としましたが、主イエス様は「」としての御国を造り出されたのであり、また、聖霊の「」としての人間を造られたのであり、主イエス様こそ「大いなる栄誉」を受けるべきなのです。

3:5 モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

モーセの働きは、偉大であり、且つ、広範に亘りましたが、後に来る、主イエス様の働きを、イスラエルという民族の歴史、歩みを通して、幕屋や聖所、様々な規定を通して示したのです。

モーセの働きは、主イエス様に依る救いの予表であり、唯一真の神様の御旨、ご計画を予め示す働きなのです。

モーセの働きは、ヨシュアとエルアザルに引き継がれ、預言者と祭司に引き継がれましたが、その働きは、ユダヤ人に限定された、カナンの地に限定されたものでした。それでも、偉大な働きであり、賞賛に値しますが、何処までも、唯一真の神様の「しもべ」の身分の中での働きであり、偉大な、忠実な一介の「しもべ」であり、「神の家」の一員、ユダヤ民族の一員として、忠実であった、と云う事なのです。

3:6 しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。

主イエス様は、ユダヤ民族の一員として、「神の家を治め」つつ、唯一真の神の「御子として神の家を治め」たのです。

忠実」に、完全にであり、ユダヤ民族の血縁の一員として、ユダヤ民族を治め、アブラハムの信仰に繋がる、霊的群れの一員として、キリスト者を治めるのです。

神の家」とは、私たち、キリスト者の事ですが、「神の家」となるためには、条件があります。

即ち、「確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば」です。

確信」とは、聞いた事、主イエス様のお約束に対してであり、また、語ったり、告白したりする事に於いて、大胆に、率直に、です。

希望による誇り」とは、主イエス様のことば、約束に疑いや不安を持たず、待ち望む事、希望に満ちた喜びを持ち続ける事です。

キリスト者は何より、信仰に生きる者であり、その信仰は希望と切り離せません。

また、目に見えない天の御国を遥かに望んで喜ぶ者なのです。

なんとなく信じるのではありません。

淡い希望ではなく、確実な事として待ち望むのです。

そして、この確信や希望を揺るがす事、試練は、絶え間なくやって来るでしょう。

しかし、心配は無用です。

私たちには、偉大な大祭司、罪を持つ人間ではない、神の御子、主イエス様が付いておられ、過去、現在、将来の罪の贖いを完全に成し遂げられ、日々執り成していてくださるのです。

【適応】

罪を持つ、人間の大祭司でも、その献げ物、執り成しには、格別の効果があり、民を罪より贖い、義とし、救う力があるのです。

人間の大祭司でも、如何に偉大な、衆人には成しえない、アロンの子孫にのみ赦され、委ねられた働きですが、しかし、それでは完全ではないとして、神様は主イエス様を立てられたのです。

罪の全くない、完全な義、そのものである神の御子、主イエス様が大祭司として私たちのために立てられ、私たちの罪を贖い、主イエス様の義を纏わせ、救ってくださるのです。

人間の大祭司は、民の罪を贖うために、繰り返し、生贄を献げなければなりませんし、先ず、自身の罪を贖ってでなければなりませんが、主イエス様は、罪の全くない身であり、ご自身の罪を贖う必要は無く、民を贖うために、唯一度、ご自身を献げ、民の罪の贖いを完成させたのであり、完全な義を纏わせ、救いを完成させたのです。

世の中には偉大な人はたくさんいますが、どんな偉大な人でも、人格者でも、自分で自分の罪を贖う事は出来ません。

罪の贖いのためには、自身の命を差し出す以外にはないからです。

贖いのために、命を失ったなら、何の意味もありません。

罪の贖いは、人間の業ではなく、神の業であり、御子、主イエス様だけが成し得る業なのであり、偉大だとか、稀有だとか、どんなことばでも、言い表せないお働きなのであり、お方なのです。

そのお方が、私たちの大祭司となって、私たちの罪を贖い、義とし、唯一真の神様と和解させ、天の御国に入る権利を与え、永遠のいのちを与えてくださったのです。

私たちの成すべきは、御子、主イエス様の大祭司としてのお働きを認め、感謝を献げ、賛美を献げる事です。

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聖書箇所:詩篇32篇1節から11節

ダビデによる  マスキール

1. 幸いなことよ その背きを赦され 罪を覆われた人は。

2. 幸いなことよ 主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。

3. 私が黙っていた時、私の骨は疲れ切り、私は一日中うめきました。

4. 昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ 夏の日照りで乾き

   きったからです。

5. 私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。

   私は言いました。

   「私の背きを主に告白しよう」と。

   すると、あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。

6. それゆえ、敬虔な人はみな祈ります。

   あなたに向かって あなたがおられるうちに。

   大水は濁流となっても、彼のところに届きません。

7. あなたは私の隠れ場。

   あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で 私を取り囲んでくださいます。

8. 私は あなたが行く道で あなたを教え、あなたを諭そう。

   あなたに目を留め、助言を与えよう。

9. あなたがたは 分別のない馬やらばのようであってはならない。

   くつわや手綱 そうした馬具で強いるのでなければ 

   それらはあなたの近くには来ない。

10.悪しき者は心の痛みが多い。

   しかし、主に信頼する者は恵みがその人を囲んでいる。

11.正しい者たち。

   主を喜び、楽しめ。

   すべて心の直ぐな人たちよ、喜びの声をあげよ。

説教題:「赦してくださいました」

説教者:野寺 博文 牧師 (赤羽聖書教会 主任担任教師)

(説教本文は非掲載といたします) 

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                                       2022-9-25礼拝

聖書箇所:サムエル記第一25章1節から22節

説教題:「裕福な者に期待される働き」

【導入】

ペリシテ軍の侵略、略奪に対抗する者として、イスラエル民族の願いとして、サウルが王として立てられましたが、サウル軍、即ちイスラエル民族は牧畜、農耕民族であり、戦いに慣れてはいませんし、武器も充分とは言えません。

その数多の戦いにおいて、サウル軍へのゴリヤテの挑発に端を発したダビデの登場とその活躍。

ダビデの活躍によって勝機を掴んだサウル軍は大勝利を手にし、人々はサウル王を、ダビデを称えましたが、その賞賛の声はサウル王を不安にさせる賛辞でした。

即ち「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。

サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。

ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。

その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。

サムエル記第一18章に記されている通りです。

そして、このサウル王の疑いは日毎に増して行き、遂にはサウルの王権を狙う者と確信するようになり、サウル王はダビデの命を狙い続け、ダビデは逃亡生活に入る事を余儀なくされてしまったのです。

このダビデの逃亡生活が何年続いたのかを聖書は記していませんが、サウル王の統治は、諸説ありますが、長めの説を採用するなら凡そ30年。

ダビデが徴用されたのがサウル王の統治の中盤であるなら凡そ15年。

初期であるなら20年、あるいはそれ以上の逃亡生活を強いられていた事になる訳です。

15年であるにしても20年であるにしても、逃亡生活は決して快適な筈はなく、不自由な、不安な、危険な毎日であった事でしょう。

逃亡生活という、自分たちの事でさえ持て余すような状況の中で、ダビデは神様の命令でケイラの住民を窮地から助け出し、また、サウル王を殺すチャンスに遭遇しながら、「神様に油注がれた方に手を下すのは正しい事ではない」との判断でサウル王を生かして帰してしまうのでした。

ダビデの逃亡生活の中での出来事は、聖書にはほんの幾つかかのエピソードしか記されていませんが、大切な事を教えており、また私たちに必要な事を教えています。

ダビデも私たちも表面的な事しか見えませんし、知り得ませんが、神様は背後で、私たちの知り得ない所で働いて下さっているのであり、私たちの知り得る事は氷山の一角ですが、その背後には海に沈んでいる氷山のように、非常に大きな神様の護りがある事を学びました。

そして、護られ、支えられている者は、期待もされている事を忘れてはならないのです。

ダビデは命を狙われての逃亡生活の中でも護られている者として、サウル王の殺害の手から救い出されている者として、ケイラの住民を窮地から救い出す事を神様から期待され、その期待に応じましたが、同じ様に、神様から富みを豊かに与えられている者は、窮乏している者に充分な施しをする事を期待されているのであり、今日はその事を聖書から確認したいと思います。

【本論】

25:1 サムエルは死んだ。全イスラエルは集まって、彼のために悼み悲しみ、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒野に下って行った。

ダビデの逃亡生活において、サムエルの存在は決して小さなものではなかったでしょう。

直接にダビデに助言や援助を与えはしなかったにしても、サウル王に諫言出来る立場にあり、ヨナタンと共にダビデの弁護に尽力したに違いありません。

サウル王がその弁護を聴く耳を持たなかったにしても、サムエルはサウル王に影響力を持つ人物であり、イスラエルの霊的指導者である事に異論はないでしょう。

その霊的指導者が亡くなった、と言うのはサウル王にとって、イスラエル民族にとって、そしてダビデにとっても非常に大きな痛手です。

霊的指導者とは言っても、罪人の一人であり、完ぺき、無謬ではありませんが、居るか居ないかは大きな違いです。

霊的指導者の欠如は地図のない旅行であり、羅針盤のない航海のようなものです。

何処に行くのかも分からず、迷っている事、自分が何処に居るのかさえも分からない状況です。

サムエルの言葉に聴き従わないサウル王はともかく、ダビデにとってサムエルは神様の御心を知る手掛かりであり、精神的な支えでもあったのです。

たった一行、さり気なく記していますが、ダビデはどんなにか息消沈した事でしょうか。

また、イスラエルの人々も、独断先行するサウル王を諌める者のいなくなった事に、どんなに大きな不安を覚えた事でしょうか。

勿論、神様は様々な時を捕らえて、預言者を送って導きを与えて下さいますが、偉大な指導者の死は、イスラエルの将来に、サウルの歩みに、ダビデの未来に、不安を覚えずにはいられません。

さて、サムエルの住むラマと、サウル王の住むギブアとは目と鼻の距離です。

サムエルを葬ったダビデは、サウル王との接触を避け、南へ80km程離れたパランの荒野に身を隠します。

25:2 マオンに一人の人がいた。カルメルで事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた。

25:3 この人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。

この「マオン」と言う場所は、23章の、ダビデとサウル王が山の向こう側とこちら側とで、今にも鉢合わせと言う緊迫した状況の舞台となった場所であり、このマオンにナバルと言う名の人物が住んでいました。

ヨブ記に登場するヨブの財産「羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを所有していた」には遠く及びませんが、それでも聖書は「ナバル」が「非常に裕福」であったと記しています。

そしてその富みに相応しい規模で「羊の毛の刈り取りの祝いをしていた」のです。

この祝いの様子は36節で「王の宴会のような宴会」と記されていますが、これは決してナバルが奢り高ぶって、身分不相応な宴会をしていたと言う糾弾の意味を込めた記述ではなく、当時の慣習であり、年に一度の大盤振る舞いの様子を記している、と読む必要があります。

この大盤振る舞いには意味があり、家人、しもべに対するボーナスであり、羊毛の刈り取り職人に対する供応の意味もある宴会なのです。

更には、村の人々や、寡婦、身寄りのない人々にも分け与えるために、非常に多くの料理が、酒が用意されていたようです。

各地に点在する村や町でも、このような宴会が催されていたのであり、貧しい者はそれを聞きつけて、施しを受けるのが当時の慣わしであったのです。

そして、この祝いの事を聞きつけたのが、他でもない、逃亡中のダビデ一行だったのです。

25:4 ダビデは、ナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。

25:5 ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行ってナバルのところに着いたら、私の名で彼に安否を尋ね、

25:6 わが同胞に、こう言いなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。

25:7 今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちと一緒にいましたが、彼らに恥をかかせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何かが失われることもありませんでした。

25:8 あなたの若者たちに尋ねてみてください。彼らはそう報告するでしょう。ですから、私の若者たちに親切にしてやってください。祝いの日に来たのですから。どうか、しもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

25:9 ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。

600人の部下とその家族を養う責任を持つダビデですから、食料の事は悩みの種であったに違いありません。

日頃、貧しい物しか与えられない心苦しさは、この朗報を聞きつけて一気に晴れたのではないでしょうか。

そこでダビデは10人の若者を遣わし、600人分の食料を分けて貰う為に、丁寧に、謙って、礼を尽くしてお願いを申し述べるのです。

その中心はナバルの持ち物である、財産である羊や雇い人を、守ってあげた、と言う事に尽きます。

当時、羊などの家畜は放牧であり、牧童の目の届かない所で、家畜を盗むのは珍しい事ではありませんでした。

もっと悪質に、牧童を蹴散らし、時には牧童を殺して家畜を奪って行く集団が出没するなかで、ダビデ一行は進んでナバルの財産と雇い人を保護したのであり、当然の報酬として、受け取る権利を行使しようとしたに過ぎないのです。

しかも、強引にではなく、紳士的に願い出たのですから、雇い人でもなく、旧知の村人でもありませんが、援助を求めた者に快く応じるのがナバルに求められていた事なのではないでしょうか。

ところが、

25:10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。

25:11 私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」

1011節のナバルの言葉は、非常に激しい侮蔑であり、罵りです。

このナバルは、3節に記されているように「カレブ人」であり、ヨシュアと並ぶ信仰者「カレブ」の子孫であり、ダビデと同じユダ民族であり、また、ダビデは時の人でしたから知らぬはずがありません。

想像するにナバルもサウル王を恐れて、ダビデとの関りを避けたかったのかも知れませんが、神様がナバルに求めていたのは、サウル王を恐れる事ではなく、富みを与え、祝福を与える神様を恐れ、神様の喜ばれる事を選ぶ事なのではないでしょうか。

羊三千頭、やぎ千頭と言う財産は、ナバルが育て、増やした家畜かも知れませんが、神様が与え、育て、増やして下さった事を忘れているのではないでしょうか。

家畜の食べる草、飲む水は、誰が与えて下さるのでしょうか。

羊の種類は多く、一概に言えませんが、通常一頭しか産みません。

弱い部類の家畜であり、自然繁殖する家畜ではなく、人が守ってあげなければ育たず、増えない家畜なのです。

それだけに、ナバルとしては自分が育てた自分の家畜、との意識が強かったのでしょうが、しかし、家畜は、財産は、神様が預けて下さった物であり、神様がダビデを通して守って下さったのであり、ナバルはその良き管理者でしかないのであって、本当の持ち主であるお方の意向に沿って管理しなければならないのです。

富んだ者が、多く与えられた者が、貧しい者、困窮している者に与えるのは、イスラエルの掟であり、惜しみなく与える者を、神様は更に祝福して下さるのです。

ナバルの罵声を浴びたダビデの遣わした若者は、手ぶらでダビデの下に戻ります。

25:12 ダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。

25:13 ダビデは部下に「各自、自分の剣を帯びよ」と命じた。それで、みな剣を身に帯びた。ダビデも剣を帯びた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。

サウル王に対しては寛容であり、神様の主権を第一と考え行動するダビデですが、

ナバルの事に対しては寛容を示さず、神様に伺いもせず、直ちに報復の行動に出ます。

このことに付いては次回の学びに譲り、先に進みましょう。

25:14 ナバルの妻アビガイルに、若者の一人が告げて言った。「ダビデがご主人様に祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、ご主人様は彼らをののしりました。

25:15 あの人たちは私たちにとても良くしてくれたのです。私たちは恥をかかされたこともなく、野で一緒にいて行動をともにしていた間、何も失いませんでした。

25:16 一緒に羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは私たちのために防壁となってくれました。

25:17 今、あなたがどうすればよいか、よく考えてください。わざわいがご主人とその一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」

忠告を受けつけない者ほど、扱いにくい存在はありません。

しかし、ここで注意喚起しておかなければナバルのみならず、ナバルに属する者も巻き添えにあってしまうのですから、しもべとして黙している事は出来ません。

ナバルには諫言できなくても、ナバルの妻は聡明な夫人であり、事態がのっぴきならない状況である事を伝え、なすべき行動を取るように促します。

25:18 アビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、

25:19 自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。あなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。

ここに記されている数量は、正確でしょが、その大きさ、重量は想像するしかありませんが、パンは21章で学んだ様に、1個が4.6リットル前後の大きさと考えられますし、皮袋は一つが山羊や子牛1頭分の容量であり、炒り麦は1セアが7.6リットルですから、5セアで38リットルであり、600人が食べるに充分な量ではないか、と思われます。

しかも、夫に内緒で、これだけの量を持ち出したのですから、「羊の毛の刈り取りの祝い」が如何に盛大、豪華であったかが想像出来るでしょう。

25:20 アビガイルがろばに乗って山陰を下って行くと、ちょうど、ダビデとその部下が彼女の方に下って来るのに出会った。

25:21 ダビデは、こう言ったばかりであった。「荒野で、あの男のものをすべて守ってやったので、その財産は何一つ失われなかったが、それは全く無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した。

25:22 もし私が明日の朝までに、あの男に属する者のうち小童一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」

本当に間一髪、と言うところで間に合った訳ですが、神様の守りは、導きは、罪を犯さないようにとの配慮は、偶然ではなく、必然であり、不充分なものではなく、必要充分なもの、完全なものなのです。

【適応】

ナバルは与えられた財産、家畜を、自分の力で得た物、自分の創意工夫で増やした物と考えて、それは自分個人の物、自分の意のままになる物と考え、そのように行動しました。

しかし、先にもお話しましたが、植物も動物も、そして人間も、生きる為に必要な物は全て外から、神様から与えられるのであり、11節の「私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか」、との表現は所有権と支配権を宣言していますが、全ての物は神様の所有物であり、全ては神様の支配下にある事を忘れ、自分を神の位置に置いた宣言に他ありません。

働かざる者食うべからず、貧しいのは自己責任…との考え方もありましょうが、好き好んで貧しくなる人はありません。

止むに止まれぬ事情によって貧しくなるのであり、物乞いは決して気持ちの良いものではありません。

しかし、乏しい中に置かれてこそ、神様に養って頂いている事を切実に感じる事の出来る恵みである事もまた、真実です。

つまり、与えられる事も祝福であり、施しを受ける事も感謝に繋がると言う事なのです。

神様の物であるならば、神様の定めた通りに管理するのが私たちに求められていることであり、律法に記されている通りに、地の産物の、つまり全収入の十分の一を神様に献げ、自由に出来る十分の九をも、自分の楽しみとするばかりでなく、貧しい人々、助けを求める人々に施す事が神様から期待されているのです。

そして、私たちの廻りから、貧しい者、助けを求める者が絶える事はないのですから、特に神様の祝福を多く頂いて「王の宴会のような宴会」を開く恵みに与っている者は、見ず知らずの他人の為にも、援助の手を開かなければならないのです。

神様は持たない物をも差し出せと仰っているのではありません。

また、お世話になった人や、これからお世話になる可能性のある人に親切にする事を奨励しているのでもありません。

自分とは何の利害関係がなくても、助けを、援助を、支援を求める者に、憐れみの心を閉ざしてはならないのであり、神様が見えない所で働いて下さり、与えて下さり、増やしてくださり、祝福して下さっているのは、私たちが神様の代理人となって、神様の遣わしたもう、困っている人に施す為であり、それは祝福であり、また感謝な事なのです。

現在、新聞などで報道されている被災者、避難者に目が向けられていますが、報道されない弱者、生活困窮者は私たちの身の回りにも多勢いるのです。

それらの人々の、その日の食べ物、その日の必要を満たして差し上げるのも教会の大切な使命です。

もし「私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか」と言ったならば、神様はどんなに悲しまれる事でしょうか。

そして、私たちに預けた祝福を、富みを取り上げて、神様の御心を実践する者に預けるのではないでしょうか。

裕福な者の責任、それは神様から祝福を受けた者の責任と言い換えても良いでしょう。

ここにおられる皆様がナバルのように憐れみの心を閉ざす者ではなく、神様の御心を知って行なって、豊かに施し、神様の恵みを世に現す者とならせて頂きたいと願うものです。

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