2023-1-1礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙7章1節から3節

説教題:「義の王、平和の王メルキゼデク」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者が、アブラハムと、その信仰の歩み、あり方に特別な関心を持ち、読者に紹介するのは、第一に、天におられる父なる神様を信じる者の代表、父とされているからであり、第二に、大祭司、メルキゼデクに関する出来事と、深い関係があるからであり、第三に、ユダヤ人、イスラエル人なら、誰でも知っている名前であるからでした。

また、メルキゼデクを紹介するのも、ユダヤ人、イスラエル人なら、誰でも知っている名前であるからです。

しかし、メルキゼデクの、聖書での登場回数は10回であり、創世記1418節、詩篇1104節だけであり、旧約聖書での登場回数は、たったの2回なのです。

残りの8回はヘブル人への手紙であり、ヘブル人への手紙の著者だけが、メルキゼデクを用いて、主イエス様との類似性を説明しているのです。

パウロなども、メルキゼデクを、主イエス様の説明に多用しても良さそうなものですが、一切ありません。

それは、著者の視点や考え方の違いであり、個性、特徴であり、良し悪しではありません。

先に、パウロは、良い点を褒めてから忠告するスタイルであり、ヘブル人への手紙の著者は、忠告してから良い点を褒めるスタイルだ、とお話しましたが、どちらも全てをご支配しておられる生ける神様の遣わしたもう働き人であり、常に、適材適所であり、失敗やミスキャストはないのです。

著者は、主イエス様の事を説明するのに、メルキゼデクを例えに用いて説明をするのです。

【本論】

新改訳2017版 7:1 このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

この戦いの事は、創世記141節から2節に記されています。

14:1 さて、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代のことである。

14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラすなわちツォアルの王と戦った」。

シンアルの王」たちの連合軍と、「ソドムの王」たちの連合軍との戦いに巻き込まれ、捕虜となってしまったロトを救い、奪われた財産を取り戻すために、アブラハムは「シンアルの王」たちの連合軍に戦いを挑み、無事、ロトを救出し、「ソドムの王」たちが奪われた物を略奪し、凱旋したのですが、そこに現れたのが「サレムの王」「メルキゼデク」です。

創世記1418節から20節までに次のように記述されています。

14:18 また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。

14:20 いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」

メルキゼデク」は、カナンの地、ヨルダンの低地に存在した都市国家の一つ、「サレムの王」であり、王と祭司を兼務しており、カナンの地、ヨルダンの低地での祭儀を一手に引き受け、執り行っており、一目置かれていた、特別な存在だったようです。

メルキゼデク」は、「ソドムの王」たちと親しい関係、同盟関係にあったようですが、何らかの理由で、この戦いには参戦していなかったようです。

しかし、「ソドムの王」たちの連合軍の勝利のために祈願していたようであり、「シンアルの王」たちの連合軍を「打ち破」り、「ソドムの王」たちの財産を取り戻した「アブラハム」を「祝福」するために、「帰るのを出迎え」たのです。

ソドムの王」たち、そして「メルキゼデク」の喜びが、如何に大きかったかが伺い知れる記録です。

7:2 アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。

メルキゼデク」の「祝福」に対する「アブラハム」の応答は、「シンアルの王」たちからの戦利品、略奪品の「十分の一」を贈る事でした。

勝利祈願の支援に対して、「祝福」に対して、膨大な量の物品を以って、感謝を現したのです。

十分の一」と云う比率は、創世記1420節に最初に登場し、自発的な献げ物の目安になったようです。

ある意味、最低限であり、ロトの救出に対する感謝と、「シンアルの王」たちの連合軍に対する勝利の感謝を、「すべての物の十分の一」で現したのです。

アブラハム」は、「メルキゼデク」に直接、お世話になったのではなく、旧知の関係でもなく、この時だけの関係であっても、目一杯の感謝を現したのです。

これが「祝福」を受けた者の姿であり、手本にしたいものです。

彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です」。

メルキゼデク」の名前の由来が語られますが、御子、主イエス様の本質、そのものではありませんか。

勿論、「メルキゼデク」は人であり、生ける神の御子、主イエス様とは雲泥の差ですが、それでも、最大限の尊敬と敬愛とを受け、それに相応しい贈り物を受けていたのです。

7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。

3節の聖句は、「メルキゼデク」の神秘性の強調であり、「メルキゼデク」の偉大性を演出する上での表現であり、決して、本当に「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもな」い訳では、「いつまでも祭司としてとどまっている」訳ではありません。

メルキゼデク」の偉大性、卓越性の表現であり、生ける神の御子、主イエス様を預言することばなのです。

当時の社会は、戸籍がある訳ではなく、出生記録もなく、死亡記録もありません。

重要な事の一切が、拠りどころである「系図」さえもが、口伝なのであり、信憑性にかけますが、それでも、大きな尊敬と敬愛を受け、それに相応しい贈り物を受けていたのです。

ここで著者が言いたいのは、レビ系の祭司ではない者が、レビ系の祭司に劣らない待遇を受けていた事であり、生ける神の御子、主イエス様の予表である、と云う事です。

メルキゼデク」は模型であり、実物である主イエス様に似ている、と言いたいのです。

メルキゼデク」がどんなに偉大でも、稀有な存在でも、また、ユダヤ人の、イスラエル人の祭司がどんなに偉大で、特別な存在でも、人である限り、必ず死ぬのであり、「いつまでも祭司としてとどまっている」事は出来ません。

祭司」として完全に、しかも、永遠には、生ける神の御子、主イエス様だけがなし得るお働きなのです。

【適応】

大きな尊敬と敬愛を受け、それに相応しい贈り物を受ける、人間の有限な働きですが、生ける神の御子、主イエス様は、「祭司」として完全に、しかも、永遠に、人間の罪を贖い、祝福してくださるのです。

その、「祭司」としてのお働きに加えて、「義の王」と「平和の王」として、罪人のために、お働きくださるのです。

しかも、何の見返りも求めず、要求もなさらずにです。

義の王」、「平和の王」としてのお働きですが、「義の王」として、正義を行なう者、不義を行なわない者を祝福し、「平和」に招き入れ、正義を行なわない者、不義を行なう者を罰し、「平和」から追放するのではありません。

祭司」として完全に、しかも、永遠に、罪を贖ってくださり、正義を行なわない者、不義を行なう者の受ける罰を完全に、永遠に贖ってくださり、祝福し、「平和」に招き入れてくださるのです。

」を完全に全うしつつ、祝福されるに相応しくない者をも祝福し、「平和」を完成させてくださるのです。

これは生ける神の御子、主イエス様だけがなし得るお働きであり、この、主イエス様のお働きは完全であり、他の何ものの追従を許しません。

人間の側で、何かを付け加えなければならない事はありません。

人間が、何かを止めなければならない事もありません。

人間の弱さ、儚さを知っても、人間の祭司は有限な働きしか出来ませんし、それ以上は期待できません。

しかし、主イエス様は、「祭司」としても、「義の王」、「平和の王」としても、完全に、無限に、期待以上のお働きをしてくださるのです。

今までもそうでしたし、これからもそうです。

祭司」、「義の王」、「平和の王」、主イエス様の見守りと導きの下で、歩み続け、憩い続け、真の平和に向かって進み続けようではありませんか。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙7章4節から10節

説教題:「十分の一」

【導入】

メルキゼデク」は、カナンの地、ヨルダンの低地に存在した都市国家の一つ、「サレムの王」であり、王と祭司を兼務しており、カナンの地、ヨルダンの低地での祭儀を一手に引き受け、執り行っており、一目置かれていた、特別な存在、重要な存在だったようですが、聖書での登場回数は、旧約聖書で2回、新約聖書で8回です。

その8回の全てが、このヘブル人への手紙ですから、特別、重要な割にはずいぶんと偏っていますが、御子、主イエス様の偉大性、特殊性、唯一性を現すのに、うってつけの人物は、他に見当たらないようです。

そして重要なのは、聖書を理解するのには、聖書から引用する、と云う基本を外れないことでしょう。

時には、この世の偉人を引用し、体験談なども引用しましょうが、基本は聖書からであり、常に、聖書の教え、或いは記述と比べて判断するのです。

私たちの判断基準、行動規準は、聖書であり、この世の一般常識や慣習、習慣は参考にはなりますが、基準とするのは危険です。

よく、「普通はこうするでしょう」などと言いますが、「普通」は、多分に我田引水的である事に注意しなければなりません。

私たちの判断基準、行動規準は、常に聖書です。

今日も、その聖書から、教えられたいと思います。

【本論】

新改訳2017版 7:4 さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。

4節aの記述から、このヘブル人への手紙の読者が、「メルキゼデク」の偉大性に、何かしらかの疑問を抱いていた様子が窺われます。

ギリシャやローマの哲学、文化などの影響を受けていたのかも知れません。

旧約聖書に、たった2回しか記述がなかったとしても、回数の問題ではなく、意味が重要なのです。

創世記1420節にも記されているように、「族長であるアブラハム」が、「メルキゼデク」に「一番良い戦利品の十分の一を与え」たのです。

アブラハム」は、単なる族長、数多いる族長の一人ではありません。

世界は「アブラハム」とその子孫によって祝福されるのであり、「アブラハム」とその子孫でなければ、祝福を受けられない、と云う事です。

アブラハム」とその子孫とは、「アブラハム」の霊的子孫と、「アブラハム」の血縁の子孫のことであり、そうでなければ、祝福を受けられない、と云う事です。

それほど偉大な「アブラハム」ですが、「メルキゼデク」に「一番良い戦利品の十分の一を与え」たのです。

この故事こそ、「メルキゼデク」の偉大性の、何よりの証拠だ、と著者は言うのです。

戦利品」を振舞う、と云う習慣は、古くからあったようで、ギリシャ、ローマなどに見られる戦争の習慣でもあったそうですが、著者は、「戦利品の十分の一を与え」たことを、聖書の教えとの関係で解釈し、「戦利品の十分の一」は、決して対価や振る舞い、施しなどではなく、「メルキゼデク」の偉大性故の、当然の行為であると論証しているのです。

アブラハム」が、「メルキゼデク」に「十分の一を与え」たことは、「メルキゼデク」の偉大性の故に、であり、前回お話したように、お世話になっている訳でなくても、旧知の間柄でもなくても、「メルキゼデク」が偉大だから、受けるべきお方だから、「十分の一を与え」たのです。

アブラハム」は、「メルキゼデク」に「戦利品の十分の一を与え」ましたが、其処には、大きな尊敬や敬意が込められていた事は言うまでもありません。

7:5 レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、同じアブラハムの子孫であるのに、民から、すなわち自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています。

レビ族、そしてアロンの子孫は、「自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています」。

この命令は、民数記1821節から28節に記されています。

18:21 さらに、レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。

18:22 これからはもう、イスラエルの子らは、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪責を負って死ぬことのないようにするためである。

18:23 会見の天幕の奉仕をするのはレビ人であり、レビ人が彼らの咎を負う。これは代々にわたる永遠の掟である。彼らはイスラエルの子らの中にあって相続地を受け継いではならない。

18:24 それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。」

18:25 主はモーセに告げられた。

18:26 「あなたはレビ人に告げなければならない。わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一を、イスラエルの子らから受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として献げなさい。

18:27 これは、打ち場からの穀物や、踏み場からの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。

18:28 こうして、あなたがたもまた、イスラエルの子らから受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を献げなさい。その中から主への奉納物を祭司アロンに与えなさい。

人としてどんなに偉大な人でも、レビ人、祭司には、レビ人、祭司であるが故に、「十分の一」を献げる、それが聖書の教えです。

7:6 ところが、レビの子らの系図につながっていない者が、アブラハムから十分の一を受け取り、約束を受けたアブラハムを祝福しました。

レビの子らの系図につながっていない者」、即ち、「メルキゼデク」が、「十分の一」を受け取ったのです。

確かに、「メルキゼデク」は、サレムの王であり、王と祭司を兼務しており、祭儀を一手に引き受け、執り行っており、一目置かれていた、特別な存在、重要な存在だったようですが、「アブラハム」とは、無縁であり、「十分の一」を贈る理由も義理も所縁もありません。

7:7 言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです。

祝福」は、「よりすぐれた者」から、「より劣った者」に与えられるものですが、「よりすぐれた者」とは、祭司たちのことであり、「より劣った者」とは、民たちのことです。

よりすぐれた者」と「より劣った者」の違いは、働き、職務であり、身分、貴賎、上下ではありません。

メルキゼデク」は、究極的な啓示者である御子、主イエス様の雛形であるが故に、「よりすぐれた者」として「アブラハム」を「祝福」するのです。

7:8十分の一を受けているのは、一方では、死ぬべき人たちですが、他方では、生きていると証しされている人です。

死ぬべき人たち」とは、レビ系の祭司たちのことであり、「系図」によって働き、職務に就くことが出来、また、死ぬべき人間である事が暗示されています。

一方、「生きていると証しされている人」とは、「メルキゼデク」のことですが、ヘブル人への手紙73節に、「系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく」と記されており、死によってその働きが中断する事がなく、継承の手続きも不要である事が暗示されます。

そして、「よりすぐれた者」が、御子、主イエス様を暗示しているのは、言うまでもありません。

7:9 言うならば、十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して十分の一を納めたのでした。

7:10 というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ父の腰の中にいたからです。

よりすぐれた者」に対して、「アブラハム」のみならず、「アブラハムを通して」、まだ生まれていない、陰も形もない曾孫の「レビ」が「十分の一を納めた」と言うのです。

これが聖書の基本的な思想、考え方です。

アブラハム」の行為は、子孫に強く、深く関わり続けるのです。

恵みは千代に及び、咎は三代に、四代に及ぶのです。

アダムの行為によって、罪が継承され、主イエスの行為によって、恵みが継承されるのです。

親の生き方が、良くも悪くも子、孫、曾孫に影響するのであり、生ける神様との関係性を大事にする生き方を、考え方を、行動を子孫に継承し、恵みの中を歩み続けたいものです。

これこそ、最高の遺産なのではないでしょうか。

逆に、生ける神様との関係を蔑ろにする生き方は、恵みを受け損なう生き方であり、生ける神様との関係を蔑ろにする生き方が手本となるなら、そして、この世の常識や慣習を基準とする生き方を伝えるなら、これ以上の負の遺産はないのではないでしょうか。

【適応】

本日の説教題を「十分の一」としましたが、これは十一献金などを奨励する意味ではありません。

十分の一」はノルマでも義務でもありません。

聖書は、「十分の一」は祝福の基であると教えており、もしも、祝福を受け損なっているとするなら、その原因は「十分の一」なのかも知れません。

マラキ書310節、「3:8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。

3:9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。

3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。――万軍の主は言われる――わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。

十分の一」は、税金の類でもなければ、対価や振る舞い、施しやカンパの類でもありません。

万物は生ける神様のものであり、「十分の一」は、神様のものを神様にお渡しする行為です。

十分の一」を献げたから、「祝福」されるのではありません。

多く献げると、それに比例して多く祝福されるのではありません。

渋ると、それに比例して祝福も減少するのでもありません。

奮発すると、神様も奮発し、渋ると、神様も渋るのではありません。

十分の一」は生ける神様のものであり、神様のものを神様にお渡ししないなら、着服であり、着服がのろいの元であると、聖書は教えているのです。

決して、呪われないため、祝福を受けるために「十分の一」を行なうのではなく、「十分の一」は生ける神様のものだから、神様にお渡しするのであり、それ以上でも、それ以下でもありません。

しかし、「十分の一」を行なうとき、生ける神様は「天の窓を開き」、「あふれるばかりの祝福」を、私たちに本当に必要なものが注がれるのです。

否、既に「祝福」に与り、罪人である私たちの罪が赦され、大きな祝福の中に置かれているのであり、聖霊が注がれているのです。

十分の一」を行なうとき、「十分の九」が「祝福」され、更に「祝福」が増し加えられるのです。

その「祝福」は、過去にも、現世にも、将来にも及びます。

過去の事はどうしようもない、とお思いかもしれませんが、過去の問題を益に変えられる力が、生ける神様にはあるのです。

ヨセフの故事を思い出していただければ、納得でしょう。

勿論、だからといって、問題行動を容認したり、奨励したりするものではありません。

また、全てが益になる訳でもありません。

種を蒔けば、刈り取りもする事になります。

アブラハム」は、ロトとその財産を取り戻すと云う「祝福」に与り、「十分の一」を行い、「メルキゼデク」は「アブラハム」を「祝福」したのです。

アブラハム」は、「祝福」に与り、「十分の一」を行い、更なる「祝福」を受けたのです。

私たちは、「祝福」に与るに足りない者であるのに「祝福」されているのであり、「十分の一」を行うなら、更なる「祝福」を受けるのです。

私たちが生ける神様を知る前に、生ける神様は私たちを知っていてくださり、私たちが生ける神様を愛する前に、生ける神様は私たちを愛していてくださり、「祝福」してくださっているのです。

その「祝福」は、主イエス様、と云う形で現されています。

これからも、この、生ける神様の「祝福」の内を、主イエス様と共に歩み続けようではありませんか。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙7章11節から14節

説教題:「アロンの系譜の祭司」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、ユダヤ人、イスラエル人に馴染みの深い旧約聖書に登場する「メルキゼデク」を引用し、その卓越性を紹介し、御子、主イエス様との類似性に展開し、御子、主イエス様の卓越性の説明とします。

メルキゼデク」は、「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて」、と紹介されています。

神秘的な人物であるかの如くに、創作されている人物像ではありますが、「メルキゼデク」は、偉大な人物である事に違いはなく、御子、主イエス様の偉大性、特殊性、唯一性を現すのに、うってつけの人物であり、御子、主イエス様の予表なのです。

さて、祭司の働きは、唯一真の生ける神様と、私たち罪人との間を取り持ち、私たち罪人を、唯一真の生ける神様に近づける働き、執り成しの働きですが、罪人の一人である人間の祭司には、この働きを完全に果す事は出来ません。

しかし、人間の祭司が不要、無駄、役に立たない、と言いたいのではありません。

人間の祭司の働きには、限界がある事を教え、「メルキゼデク」のような、否、「メルキゼデク」を越える祭司が必要であり、「メルキゼデク」を越える、比類のない大祭司こそ、御子、主イエス様であると紹介するのです。

しかし、単に首を挿げ替えただけ、と云う話しではありません。

祭司の働きは、律法とセットであり、祭司が変わるなら、律法も変わらなければなりません。

有限な、瑕疵を含む執り成しから、無限、完全な執り成しへの変化なのです。

【本論】

新改訳2017版 7:11民はレビ族の祭司職に基づいて律法を与えられました。もしその祭司職によって完全さに到達できたのなら、それ以上何の必要があって、アロンに倣ってではなく、メルキゼデクに倣ってと言われる、別の祭司が立てられたのでしょうか。

祭司職」は「レビ族」が担う、と云う取り決めは、モーセを通して与えられた、生ける神様が制定された「律法」に「基づ」くものです。

ささげ物、いけにえに付いての、微に入り細に入る規定と、献げる者の資格、献げ方に付いても、微に入り細に入る規定がありました。

そして、天にある幕屋、本物の神殿の模型、雛形である、地上の幕屋、仮の神殿で祭儀が執り行なわれましたが、それらは、「完全さに到達でき」るものではありませんでした。

そもそもが模型、雛形を通してなのですから、不完全であり、充分、注意を払っても、気が付かないミスが起こり、瑕疵が隠されているかも知れないのです。

ですから、常に、不完全さを意識しつつ、完全を求めて執り行ない、頻繁に執り行なう必要がありました。

より洗練された儀式を執り行ない、落ち度なく儀式を執行しなければならず、本当に、神経の磨り減る働きです。

それでも、完全さからは程遠く、「別の祭司が立て」られる必要があったのです。

別の」は、「同列、同種のものの中から、別の」、の意味ではなく、「異種のものの中から、別の」、の意味です。

より優れた者、ではなく、全く別の者を、です。

レビ族」の中から、より優秀な者を、「祭司職」に選出、任命するのではなく、「レビ族」とは全く別の、「レビ族」とは無関係の者の中から、「祭司職」を選出、任命するのです。

しかし、ユダヤ人、イスラエル人は、旧約聖書に絶大な権威を認め、旧約聖書のみを権威ある規範としていましたから、旧約聖書が教える「レビ族の祭司職」のみにしか、権威を認めない人々が大勢いたのです。

このように考える人々に、「メルキゼデクに倣ってと言われる、別の祭司が立てられ」る事は、詩篇1104節で預言されている事であり、聖書が教え、示している事であり、聖書の権威に外れる事ではない、と諭すのです。

7:12 祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません。

変われば」、「変わらなければ」は、変更、変化の意味ではなく、「廃止」と同じ意味あいです。

「旧来の祭司職が廃止されるならば、旧来の律法も廃止される」、と読み替えると分かり易いかもしれません。

イスラエルは、祭司の国として組織され、維持され、幕屋、神殿を中心として礼拝が献げられて来ました。

この幕屋、神殿で奉仕するのが、「レビ族の祭司職」です。

ここには、先に話しましたように、不完全さ、瑕疵が付きまとっています。

完全、無謬は、罪を持つ人間には、地上の幕屋、神殿ではなし得ない働きです。

しかし、御子、主イエス様が来られ、地上の幕屋、神殿は廃止され、本物の幕屋、神殿で奉仕する祭司が立てられる必要があり、大祭司として就任されるのが、御子、主イエス様なのです。

旧来の規範では、幕屋、神殿で奉仕するのは「レビ族の祭司職」ですが、新しい規範では、幕屋、神殿で奉仕するのは「メルキゼデクに倣ってと言われる、別の祭司」なのです。

そのお方こそ、御子、主イエス様です。

7:13 私たちがこれまで語ってきた方は、祭壇に仕える者が出たことのない、別の部族に属しておられます。

私たちがこれまで語ってきた方」とは、ユダ部族に属する御子、主イエス様の事であり、「祭壇に仕える者が出たことのない、別の部族」とは、「レビ族」の末裔ではない、地上の幕屋、神殿で奉仕する者ではない、「レビ族」以外の者、の意味です。

レビ族」は、ある意味、特殊な部族です。

統治の権限とは別に、統治権、王様の意向を超越する形で、「レビ族」には祭壇に仕える権限が与えられ、ユダヤ民族、イスラエル民族の宗教行事を一手に引き受け、贖いをなし、執り成しをなし、それらを独占していたのです。

独占の弊害もあったでしょうが、統治や政治の混乱や覇権、権力闘争とは無関係であれたのです。

勿論、時には王様に忖度し、時の権力に迎合する事もあったでしょうが、祭壇に仕える事に、純粋であれたのであり、律法の命じる通りに、祭壇に仕えたのです。

しかし、罪を持つ人間の限界があり、アロンの系譜ではない、更に完全な祭司を必要としたのです。

7:14 私たちの主がユダ族から出られたことは明らかですが、この部族について、モーセは祭司に関することを何も述べていないのです。

律法は、この地上での規範を示すものです。

地上には、「レビ族の祭司職」がいるので、モーセは「ユダ族」について「何も述べていないのです」が、御子、主イエス様のお働きは、天にある、本物の幕屋、神殿でのお働きであり、地上の規範である律法に記載がないのは、当然といえば当然の事です。

【適応】

私たちには、律法が与えられ、生き方の規範が示されています。

その規範に外れた場合の救済措置として、ささげもの、いけにえの規定が示され、贖いがなされます。

しかし、私たちは、罪を持つ身であり、律法の通りに生きる事が出来ず、贖いは必要不可欠です。

しかし、贖いもまた、完全ではありません。時間差、タイムラグがあるからです。

贖いは、規範に外れた場合の救済措置ですが、罪を犯した直後、即時に贖いを行なえる訳ではありません。

時間差、タイムラグがあり、贖いを行なう前に召されたならば、救われる保証はありません。

ユダヤ人は、イスラエル人は、それを何よりも恐れていたようです。

律法には限界があり、不完全であり、完全な贖いが必要なのですが、人間では無理です。

そこで、全く罪を持たないお方が「祭司職」に就き、完全なささげ物をもって贖いを行なわなければならないのですが、全く罪をもたないお方、完全なささげ物、どちらも地上にはありません。

罪のない、唯一真の生ける神の御子、主イエス様が「祭司職」に就き、ご自身を完全なささげ物として贖いを行なわれ、私たち罪人の完全な、過去、現在、未来の罪に対する贖いがなされるのです。

ここで押さえておきたいのは、「レビ族の祭司職」は不要であるとか、廃止されたのではない、と云う事です。

不完全ではありますが、依然として必要な働きであり、律法も、聖書も廃棄されたのではない、と云う事です。

マタイの福音書517節、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します」、であり、

ヨハネの福音書1035節b、「聖書が廃棄されることはあり得ない」のですから、

マタイの福音書2323節、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」、であり、律法が廃棄される事はなく、疎かにしてはならない事なのであり、律法の全体を行なわなければならないのです。

これは、律法を行なうと救われるとか、律法至上主義を奨励しているのではありません。

律法や聖書は、生ける神様の御旨を教えるものであり、基準を教えるもの、規範を教えるものです。

生ける神様に造られた人間は、生ける神様の御旨、基準、規範を知らなければならず、基準に達し得ない者である事を自覚し、贖いを必要とする者である事を自覚するために、律法や聖書があるのです。

そして、天上での、完全な贖いを望みつつ、地上でも不完全な贖いを行なうのです。

生ける神様は、地上で行なわれる、アロンの系譜の祭司の不完全な働きと、罪人の不完全な礼拝や贖いを受け入れ、祝福し、天上での完全な贖いを用意してくださっています。

アロンの系譜の祭司の働きは、私たちが恵みの中に生かされている恵みを知る手掛かりなのであり、御子、主イエス様の贖いの必要性を教える恵みなのです。

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                                       2023-1-22礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙7章15節から19節

説教題:「新しい祭司」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、御子、主イエス様の卓越性の説明として、ユダヤ人、イスラエル人に馴染みの深い旧約聖書に登場する「メルキゼデク」を引用します。

しかし、「メルキゼデク」は、偉大な祭司であり、王であるかもしれませんが、唯一真の神様に仕えるユダヤ人、イスラエル人と関わりなく、そのような人物、「メルキゼデク」から、偉大な族長であるアブラハムが、世界の祝福の基であるアブラハムが祝福を受け、「メルキゼデク」に戦利品の最も良いものを、十分の一も与えたのです。

この時点で、ユダヤ人に律法は与えられておらず、「メルキゼデク」と律法との関係性の意味は隠されていました。

さて、ユダヤ人、イスラエル人は、律法を尊重し、唯一絶対の規範としますが、律法そのもの、律法の一字一句、或いは、律法の一字一句を守る事が大事なのではなく、律法を与えたお方の御旨を、常に意識する事が大切なのです。

律法は完全なものですが、律法による贖いでは、贖いに与れない現実に対して、唯一真の神様は、新しい贖いを用意されるのですが、律法を廃棄するものではなく、律法に追加するものでもありません。

人間による祭司では、牛や羊などによる献げ物では、贖いが全うされないなら、完全な祭司を用意され、完全な献げ物を用意され、贖いを全うされるのです。

メルキゼデク」は、そして御子、主イエス様は、唯一真の神様から与えられた律法に、祭司の資格として示されているレビ部族でもなく、アロンの子孫でもありません。

しかし、ユダヤ人、イスラエル人の規範は律法のみならず、旧約聖書全体であり、御子、主イエス様は、ユダ族の出身ですが、詩篇1104節で宣言されているように、「とこしえに祭司」なのです。

メルキゼデク」は、新しい祭司制度が用意されている事を予告するものであり、御子、主イエス様の出現を預言するものなのです。

【本論】

新改訳2017版 7:15 もしメルキゼデクと同じような、別の祭司が立つなら、以上のことはますます明らかになります。

唯一真の神様が与えられた律法は完全なものですが、レビ部族、アロンの子孫の祭司に、即ち、人間に完全さを求める事は出来ません。

人間は罪を持つ身であり、寿命があり、不完全であり、完全と永遠とを求める事は出来ません。

そこで、唯一真の神様は、「メルキゼデクと同じような、別の祭司」を立てられたのです。

もしも、レビ部族、アロンの子孫の祭司で贖いや執り成しが全うされるなら、「別の祭司が立つ」必要はありません。

別の祭司が立」てられた、と云う事は、「以上のこと」、即ち、律法としては完全でも、それを行う祭司、献げ物の限界があるのであり、レビ部族、アロンの子孫の祭司職の不完全さが「明らかにな」った、と云う事なのです。

注意したいのは、不完全であっても、不必要ではない、と云う事です。

完全なものが現れるまで、何らかの形で、贖いや執り成しがなされ続けなければならず、不完全さを自覚し、完全を希求する願望を失ってはならないからです。

不完全なら要らない、不完全でもしょうがない・・・ではないのです。

常に完全を追及する、ユダヤ人の、イスラエル人の、律法に対する真摯な態度は、見倣うべきでしょう。

その上で、罪を持つ人間の限界を自覚し、唯一真の神様の憐れみに縋るのです。

7:16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらず、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。

その祭司は」は、即ち、主イエス様は、「肉についての戒めである律法」によって立てられた、レビ部族、アロンの系譜に属する子孫の祭司ではなく、この世に限定された働きでもありません。

主イエス様は、「朽ちることのない、いのちの力」、即ち、唯一真の神様によって立てられた、「朽ちることのない、いのちの力」、即ち、完全な贖い、過去、現在、未来に対する効力を持つ贖いを与える祭司として就任されたのです。

主イエス様は、本物の模型、雛形に過ぎない、本物の影に過ぎない、地上の幕屋、神殿に仕えるのではなく、天にある本物の神殿に仕えられるのです。

主イエス様のお働きは、律法の規定に縛られた、制約のある働きではなく、唯一真の神様の子としての権威を持って、神殿に仕えられるのです。

人間の祭司のように、代々、その働きを継承しなければならないのではなく、継承によって不安定性や可変性を生じる事はなく、決して弱まる事はなく、朽ちる事もなく、世の変化や政治権力などの影響を一切受けない、唯一の、永遠のいのちの力として、その働きを続けられるのです。

7:17 この方について、こう証しされています。「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である。」

鍵括弧は、詩篇1104節からの引用ですが、この「祭司」の働きが、「とこしえ」であると、その永遠性を宣言しています。

聖書は、アロンの子孫の祭司職について、その永遠性を宣言しています。

出エジプト記4013節、「40:13 アロンに聖なる装束を着せ、油注ぎを行って彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせる。

40:14 また彼の子らを近づかせ、これに長服を着せる。

40:15彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」、

民数記2513節、「25:11 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによってイスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。

25:12 それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。

25:13 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行なったからである。』」

しかし、これらは、ユダヤ民族、イスラエル民族に於ける、祭司職の規定であり、また、ある特定の人物が祭司職に留まり続ける事や、その永遠性を保証し、宣言したものではありません。

人間の祭司は有限、しかもほんの僅かの期間しか幕屋、神殿に仕える事が出来ません。

しかし、御子、主イエス様は、「メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司」として神殿に仕え、罪人の贖いと執り成しをなし続けられるのです。

7:18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために廃止され、

弱く無益な」は、「完全でない」の意味であり、「廃止され」は、「取り除かれる」の意味です。

完全ではないから、これに頼り、これを唯一無二の拠りどころとするのを止めましょう、です。

ここで押さえておきたいのは、アロンの系譜の祭司職は不要であるとか、廃止されたのではない、と云う事です。

アロンの系譜の祭司の働きは、この世に於いて必要であり、不完全ではありますが、依然として必要な働きであり、廃棄されたのではない、と云う事です。

贖いの働き、また、執り成しの働きは、有益であり、私たちが、贖い、執り成しを必要とする、弱い存在である事を自覚させます。

天上での、御子、主イエス様による、完全な贖い、執り成しを望みつつ、地上でもアロンの系譜の祭司が、不完全な贖い、執り成しを行なうのです。

唯一真の神様は、地上で行なわれる、アロンの系譜の祭司の不完全な働きと、罪人の不完全な礼拝や贖いを受け入れ、祝福し、天上での完全な贖いを用意してくださっています。

アロンの系譜の祭司の働きは、私たちが恵みの中に生かされている恵みを知る手掛かりなのであり、御子、主イエス様の贖い、執り成しの必要性を教える恵みなのです。

アロンの系譜の祭司の働きを疎かにしてはなりませんが、アロンの系譜の祭司の働きを絶対視したり、唯一無二の拠りどころとしてもならないのです。

それは、御子、主イエス様の祭司職の否定であり、唯一真の神様の主権、御こころの侵害です。

7:19 ──律法は何も全うしなかったのです──もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。

律法は何も全うしなかったのです」は、「律法」の否定ではありません。

律法」の不完全性の表明であり、「もっとすぐれた希望」への誘導です。

しかし、旧約聖書に記されている「律法」が無益であるとか、無用であると言いたいのではありません。

旧約聖書に記されている「律法」や聖所、祭司の務めは、罪人を唯一真の神様に近づけるものであり、律法に示されている規定や制度は、それなりに役割を果しましたが、「もっとすぐれた希望が導き入れられ」たのですから、それに働きを譲らなければならないのです。

神に近づく」方法、道が示されたのであり、この方法、道が、周知されるために、古い、不完全な「律法」は、退かなければならないのです。

古い、不完全な「律法」が、何時までも影響力を放っていたならば、「もっとすぐれた希望」の妨げであり、その害毒、損失は計り知れません。

「古いものは良い」と申しますが、全てに当てはまる訳ではありません。

十分な機能を発揮しない古い、不完全な「律法」は廃棄され、新しい「律法」に、働きを譲らなければならないのです。

【適応】

古い律法と決別するのは、今まで慣れ親しんで来た律法と決別するのは、簡単な事ではありません。

人間は保守的で、変化を嫌います。

変化には、大きな不安心が伴いましょうから、また、体制や制度を大きく変化させ、既得権益を失う事にもつながりますので、ある人々からは大きな抵抗も起こり、多くの人は、現状に甘んじてしまうのですが、それでも古い律法に別れを告げなければなりません。

古い律法に固執するのは、もっとすぐれた希望」の妨げであるだけでなく、危険でもあります。

新しいものだけが与え得る祝福を失うからであり、そこに示されている神の力と恵みに対して疑いを持ち、不信仰の心を抱く事になるからです。

現状維持派と新体制派とに二分させる事になるかも知れません。

袂を分かつだけでなく、諍いが起こるかも知れず、唯一真の神様の御名を汚す事になり得るのです。

源流を同じくする宗教間の諍いは、非常に悲しい事ではないでしょうか。

私たちが頼り、従うべきは、古い律法」による、アロンの系譜の祭司職ではなく、「メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司」となられた御子、主イエス様です。

古い律法」によるアロンの系譜の新しい祭司、ではなく、別の制度での「メルキゼデクの例に倣う、とこしえの祭司」、なのであり、アロンの系譜の祭司職ではなし得なかった働きを、完全、且つ、永遠になしてくださるのです。

アロンの系譜の祭司職の働きは、罪人を、唯一真の神様に近づけ、執り成するものであり、謂わば、手助けであり、それ以上は期待出来ませんが、「メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司」となられた御子、主イエス様のお働きは、罪人と唯一真の神様とを結び付け、直接の交わりを提供するものなのです。

乗り物に例えるなら、古い乗り物は地上しか走れませんし、燃料の制限があり、道に迷う事が多々あり、乗り物自体が故障しますし、運転技術も必要であり、運転は本当に疲れます。

しかし、新しい乗り物は、何処でも、何処まででも、無制限に進む事が出来、間違いなく目的地を目指して進み、必ず目的地に着き、不具合が生じる事は全くないのであり、運転手は御子、主イエス様であり、私は、と云うと、優雅に、何の心配もなく助手席に、です。

古い祭司と新しい祭司は、これ程の違いなのです。

皆さんは、この新しい祭司、「メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司」となられた御子、主イエス様に導かれて、唯一真の神様の御許に向かって進んでいるのです。

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                                       2023-1-29礼拝

聖書箇所:マルコの福音書14章32節から42節

説教題:「目を覚まして祈っていなさい」

説教者:野寺 恵美 牧師 (日本同盟基督教団 赤羽聖書教会牧師)

説教は非掲載です。

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