2023-10-1礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙12章18節から24節

説教題:「天の都に近づく」

【導入】

前回の学びでは、唯一真の神様に対する信頼、従順と服従、その神様が立てられ、遣わされた方に対する従順と服従について学びました。

問題があるサウル王でも、誰であっても、神様が立てられた故に、自身の手でも、部下の手でも、弓を引いてはならないのです。

それは訓練であり、義と認められるためです。

先日の学びで、聖められる事の大切さを学びましたが、訓練は聖とされるためでもあります。

私たちの内には、義も、聖もありませんが、主イエス様の義と聖が転嫁されるのであり、義であり、聖であると見做され、義人の受ける報いを、聖なる人の受ける報いを受け取る事が出来るのです。

その報いは、義人と聖なる人だけに与えられる特権であり、対価や報酬として与えられるのではなく、恵みとして与えられるのです。

そもそも、義人と見做されるのも、聖なる人と見做されるのも恵みなのですが、最大の恵みは、天の都に近づき、入り、唯一真の神様、主イエス様と交わりを持てる事です。

古の人々は、唯一真の神様と見(まみ)える事を切に願っていましたが、身の程を弁え、自分の内には義の欠けらも、聖が少しもない事を承知しておりましたから、親しく招いてくださったとしても、畏敬の念と礼儀礼節とを忘れず、神の臨在に対して、軽々しく近づく事は勿論の事、見る事もしなかったのです。

【本論】

新改訳2017 12:18 あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、

12:19 ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

18節、そして、19節前半の記述は、出エジプト記1916節から19節に記されている状況です。

シナイ山で十戒を授かった時の状況です。

三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

19:17 モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。

19:18 シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

19:19 角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。

19節、後半の記述は、出エジプト記2018節、19節に記されている状況です。

民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。

20:19 彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」

燃える火、黒雲、暗闇、嵐」は、神、臨在の印であり、「ラッパの響き」は、警告の印です。

無意識であろうと、うっかりであろうと、興味本位であろうと、悪意や邪(よこしま)な気持ちがなくても、不敬に対しては非常に厳しい処置が取られたのです。

この姿勢は、イエス様の時代にも、引き継がれています。

イエス様の罪状は、神様に対する不敬でしたが、神様に対する不敬は何より重大な犯罪だったのです。

しかし、その不敬の基準は曖昧で、恣意的であり、意図的な使われ方をしていましたが、神様に対する畏敬の念、敬意は本当に徹底したものだったのであり、不敬に対しては本当に徹底した取締りがなされていたのであり、生活の隅々にまで、考え方の根底にまで浸透していたのですから、18節、19節、続く20節、21節のことばの受け止め方は、私たちとは大きく違う事でしょう。

12:20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

これは出エジプト記1912節から13節に記されている記述です。

あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。

19:13 その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。

山・・の周囲に境を設け・・」、即ち、聖域、結界を設定し、「山に登り、その境界に触れ」ては、即ち、その内側に入っては、聖域に触れてはならないのです。

現代、聖域、結界という意識、考えが薄れ、聖域を意識する事なく、平気で土足で踏み込むような社会ですが、神域には、それなりの敬意を払わなければならないのではないでしょうか。

この世にありながらも、日常の慌ただしさ、雑踏の中にあっても、静謐に身を置き、静まり、神様と対面する事が許されている特権を感謝し、恐れつつも大胆に神の前に進み出たいものです。

12:21 また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

21節の状況は、十戒を授かった時の状況ではなく、別の状況での出来事と思われますが、「その光景」について、註解書は、アロンが民の要求に応じ、金の子牛を鋳造したため、神様が激しく怒り、民を根絶やしにしようとした、その時の状況ではないか、と解説しています(申命記919節参照)

モーセは神様に愛された人物であり、非常に親しい関係ですが、常に恐れ敬う態度を持ち続けた人物です。

寵愛を受け、重用されていると、高慢、尊大になりかねませんが、新改訳第三版、民数記123節に記されていますが、「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」のです。

民に対する怒りを、我が事として受け止め、民と一緒になって恐れ、赦しを乞い願ったのです。

そんなモーセだからこそ、神様に召し出され、用いられたのでしょう。

唯一真の神様の前に出る、近づくと云う事は、非常な恐れを伴う事であり、何か粗相があれば、不敬があれば、直ちに死が与えられるのです。

緊張の上に緊張したのではないでしょうか。

しかし、主イエス様の贖いを受けた者は、恐れ、怯える必要はありません。

12:22 しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、

12:23 天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、

あなたがた」、即ち、キリスト者が「近づいているのは」、朽ちて、滅び行く世界ではありません。

また、唯一真の神様が降りて来られた聖なる山、シナイ山でもありません。

ダビデがエブス人から奪って、政治と宗教の中心としたシナイ山、ダビデの町、エルサレムでもありません。

ソロモンが神殿を建てたエルサレム、絢爛豪華、荘厳なエルサレム神殿でもありません。

この世の教会とは、大きさに於いて、荘厳さに於いて、美しさに於いて、聖さに於いて、機能に於いて、比べ物にならない、真の教会です。

唯一真の神様がご臨在になられる「シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」であり、「天に登録されている長子たちの教会」です。

ユダヤ社会に於いて、長子には特別な祝福、特権が与えられましたが、その祝福、特権に誰もが招かれ、与る事が出来るのです。

既に世を去った者も、今、この世に居る者も、これからこの世に生まれ出る者も、総てを含む、主イエス様の義と聖を転嫁された人々が集うところに「近づいているの」です。

まだ誰も見た事のないところですが、その素晴らしさは筆舌に尽しがたいところです。

場所の素晴らしさとともに、集う人々の素晴らしさが語られます。

そこは「すべての人のさばき主である神」と共に、「無数の御使いたち」、「完全な者とされた義人たち」が集うところなのです。

聖い神様とは距離を置かなければならず、御簾(みす)の様な物で遮られ、深く首を垂れていなければならないのではありません。

神様の間近で、何の妨げもなく、顔と顔とを会わせる事が出来るのです。

面会時間の指定があり、時間制限があり、でもありません。

何時でも、何時迄でも、神様と交わりを持つ事が出来るのです。

それは、私たちの努力や精進、訓練で得たものではありません。

12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。

唯一真の神の御子、主イエス様が、「契約の仲介者」となられ、「契約」、即ち、律法の要求を完全に、且つ、永遠に完成され、主イエス様を信じる信仰と言う「契約」に組み入れられ、獲得したのです。

ユダヤ社会に於いて、「契約」には、動物の血を注ぎかける事が不可欠ですが、「イエスの血」が「注ぎかけられ」、完全、且つ、永遠の効力を持つ「契約」が締結されたのです。

この「契約」は、未来永劫に破棄、変更される事はなく、数年毎の更新の必要もなく、永遠に有効であるのです。

主イエス様の義と聖が転嫁され、誰もが「シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」、「天に登録されている長子たちの教会」に招かれているのです。

【適応】

私たちキリスト者は、確実にシオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」、「天に登録されている長子たちの教会」に近づいています。

しかし、近づいている、イコール、其処に入る、ではありません。

近づいてはいても、いつの間にか、気が付かぬうちに逸れてしまって、あらぬ方向に行ってしまう可能性を秘めています。

立ち止まってしまったり、諦めてしまったり、後戻りしてしまうかも知れないのです。

そこで大切なのは、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事です。

そして、大切なのは、こちらからの一方的な思い込みや願望ではなく、主イエス様からのレスポンス、助けがある、と云う事です。

以前にも紹介しましたが、大切な聖句ですので繰り返します。

創世記2815節、「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

イザヤ書4110節、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ書432節、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」、「天に登録されている長子たちの教会」に近づくために必要なのは、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事です。

シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」、「天に登録されている長子たちの教会」は、荒唐無稽な夢物語ではありません。

シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」、「天に登録されている長子たちの教会」に近づく事は、必然的にこの世と距離を取る事になりますが、この世との関係を断つのではありません。

この世に対して、働きかけ続け、「シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム」、「天に登録されている長子たちの教会」の存在を知らしめ続けなければなりませんが、しかし、肉の目で見る事は出来ませんし、存在を証明も出来ません。

しかし、この世に対して、働きかけ続けなければならず、生き方で証しし続けなければなりません。

この世には、終わりがある事、裁きがある事を証しし続けると同時に、死を恐れる事なく、死は終わりではなく、その先がある事、死の先に希望を置いた生き方、それを意識した生き方をする事です。

この世の苦しみ、悲しみ、病気、困難などには終りがある事、来る世では永遠の命が与えられ、喜び、楽しみに満ちている事、神様、イエス様との親密な交わりがある事を期待している生き方をする事です。

そんな希望に満たされた生き方が、キリスト者に与えられた使命なのです。

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聖書箇所: ヘブル人への手紙12章25節から29節

説教題:「天からの声に耳を傾ける」

【導入】

私たちの信仰生活で大切な事は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事です。

しかし、悪魔の、「イエスから、目を離」れさせる方法、誘惑は巧妙であり、その力は強力であり、一度ならず繰り返し、絶え間なくやって来ます。

油断すると、気を抜くと、あっという間に悪魔の誘導に陥ってしまいます。

自分では「イエスから、目を離さない」でいる、自分は大丈夫、と思っていても、その意識すら、悪魔は利用して、自己吟味や内省する事を不必要と思わせ、聖書の私的解釈、恣意的取捨選択を行なわせ、いつの間にか、そして益々、唯一真の神様、主イエス様から離れさせるのです。

自分流の神様、イエスを作り上げ、それを信じるようになって行くのです。

主イエス様は聖書を廃棄するために来られたのではなく、完成させるために来られました。

マタイの福音書517節、「わたしが律法や預言者を廃棄するたに来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。

これを否定するような教えや考えを植えつけ、吹聴します。

悪魔の誘惑は多方面に亘ります。

個々人に働きかけ、群れにも働きかけます。

個人の尊厳を必要以上に過大評価し、教えられる姿勢や従順を軽んじさせ、指導をパワラハなどと言い換え、群れ、教会に混乱と分裂を起こすのです。

ヘブル人への手紙の著者は、モーセの故事を紹介します。

【本論】

新改訳2017 12:25 あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。

モーセは、唯一真の神様に見出され、選ばれ、立てられ、遣わされた人物です。

唯一真の神様は、モーセの個性、知識、経験のみならず、欠点、短所なども承知の上で、モーセにユダヤ人を、イスラエルの民を託したのです。

モーセは語り部であり、モーセの口を通して、唯一真の神様が語られました。

モーセは祝福を語り、呪いを語り、導きを語り、警告を語りました。

エジプト脱出の時は、モーセの導きに従い、警告にも従った民ですが、数日も経たぬ内の、道中での、荒野に於いての困難、飲み水の問題、食料の問題などに遭遇すると、モーセに詰め寄り、モーセに不平不満をぶつけ、モーセを非難し、モーセを「拒んだ」のです。

形の上ではモーセに対する非難であり、モーセを「拒んだ」のですが、それはモーセを見出し、選ばれ、立てられ、遣わされた、唯一真の神様を「拒んだ」事と同義であり、「処罰を免れなかった」のです。

ヘブル人への手紙37節、「3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、

3:8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。

3:9 あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。

3:10 だから、わたしはその世代に憤って言った。『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』

3:11 わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」

モーセの警告、指導に聞き従わなかったユダヤ人は、イスラエルの民は、唯一真の神様に打たれ、その場で死ぬ事になり、また、エリコの町偵察に際しての、モーセに対する非難と拒絶に付いては、40年もの永きに亘って荒野を彷徨う事になり、二十歳以上の全ての男子は、荒野に屍を晒す事になったのです。

神様の代理であるモーセに対しての不平不満、不敬であっても、斯様な措置が取られるのであり、「まして、天から警告を与える方」、即ち、主イエス様に「背を向けるなら」、即ち、主イエス様を拒むならば、どんなにか厳しい「処罰」が与えられる事でしょうか。

唯一真の神様、主イエス様を侮っては、軽んじてはならないのです。

それは、「処罰」が与えられるからではなく、大きな祝福、喜び、平安を逃してしまうから、神様、イエス様との交わりが絶たれてしまうからです。

12:26 あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく、天も揺り動かす。」

あのときは御声が地を揺り動かしました」は、出エジプト記1918節、「シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」との故事の事であり、

もう一度、わたしは、地だけではなく、天も揺り動かす」は、イザヤ書1313節、「それゆえ、わたしは天を震わせる。大地はその基から揺れ動く。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に。」からの引用であり、

ハガイ書26節、「まことに、万軍の主はこう言われる。『間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。」からの引用でしょう。

地だけではなく、天も揺り動かす」との約束、宣言が真実である事を、故事を引用して読者に語りかけるのです。

12:27 この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。

揺り動かされないもの」とは、天の御国の事であり、「揺り動かされない」のみならず、何物からの影響を受けず、変わらず、永遠に存在するのです。

比べて、この世の物は、変化する物は、朽ちていく物は永続出来ず、「取り除かれ」なければならず、そのために、「地だけではなく、天も揺り動かす」のです。

かつてなかった、未曾有の、大地震が起こり、天も揺り動かされるのであり、たわわに実が付いた樹木を揺さぶると、熟した実が落ちてくるように、御国に相応しくない、不要な物の全ては、振るい落とされるのです。

黙示録612節に預言されている事が現実となるのです。

また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。

6:14 天は、巻物が巻かるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。

6:15 地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力のある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。

6:16 そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。

6:17 神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。

大地震が起こり、天も揺り動かされるのは、「神と子羊の御怒り」の始まりのしるしであり、裁きが行われ、行なって来た事に対して、為すべき事をしなかった事に対して申し開きをし、報いを受けなければならないのです。

報いの一つは、義と認められ、聖と認められ、御国に招き入れられる事であり、もう一つは、罪人と認められ、穢れていると認められ、御国に拒絶される事です。

人間は全て罪人であり、穢れていますが、主イエス様の贖いによって義と認められ、聖と認められていますが、主イエス様の贖いを信じ、受け入れる者は、義と認められ、聖と認められ、御国に招き入れられるのです。

12:28 このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

義と認められ、聖と認められる手段は、唯一、主イエス様の贖いのみです。

主イエス様の贖いは完全であり、無限です。

祝福も恵みも、主イエス様の贖いに凝縮しており、膨大な祝福と恵みであり、充分過ぎる祝福と恵みであり、それは、独り占めするためではなく、それはまだ主イエス様の贖いを知らない方々に、お分かちするためであるのです。

そして、主イエス様の贖いを信じ、受け入れる者のなすべき事は、「感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげ」る事です。

神に喜ばれる礼拝」であって、自分を喜ばせる礼拝ではありません。

神に喜ばれる礼拝」とは、礼拝を献げる事を中心として、目標として、一週間を過ごす事であり、礼拝を献げる事を最優先事項とし、仕事、家事、都合、計画などを調整する事でしょう。

日曜日に教会に行かないと落ち着かない、とか、何となくすっきりしない、とかは、自己満足の礼拝であり、「神に喜ばれる礼拝」とは、似て非なる礼拝でしょう。

私たちは罪人であり、「敬虔と恐れをもって」の礼拝とは程遠い礼拝しか献げられませんが、それでも、心身を整え、身だしなみを整えて、礼拝に臨みたいものです。

夜勤明け、介護疲れなどで転寝をしてしまったとしても、それを責め、非難する事はなく、大きな犠牲を払って礼拝を献げている事を喜び、「神に喜ばれる礼拝」と認めてくださるのです。

12:29 私たちの神は焼き尽くす火なのです。

唯一真の神様、主イエス様の前に、隠し通せる事はなく、全てが明るみに出されます。

私たちの神は焼き尽くす火」であり、上薬は、衣装は、虎の皮は、「焼き尽く」され、本質が明らかにされます。

敬虔と恐れをもって」の礼拝か、敬虔そうに振舞い、恐れを演技しているか、全てご存知です。

究極的に、悔い改めない者は、主イエス様の贖いを受け入れない者は、全てを「焼き尽くす火」に投げ込まれてしまいます。

イザヤ書3314節、「罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者たちを震えがとらえる。 「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられるか。私たちのうち、だれが、とこしえに燃える炉に耐えられるか。」

黙示録2015節、「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

218節、「しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」

しかし、主イエス様によって贖われた者は、義と聖と認められた者は、この火に会う事はないのです。

【適応】

私たちの信仰生活で大切な事は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事です。

目を離さない」と云う事は、「天から警告を与える方に私たちが背を向け」ない事であり、本日の説教題にあるように、天からの声に耳を傾ける」事です。

しかし、主イエス様の姿を直接見る事は出来ませんし、主イエス様の声を直接聴く事は出来ません。

主イエス様の姿は、霊の目で見、主イエス様の声は、霊の耳で聴くのですが、具体的には、礼拝と聖書通読とデボーションなどの励行です。

説教を通して、聖書通読を通して、デボーションなどを通して、主イエス様の姿を見るのであり、説教を通して、聖書通読を通して、デボーションなどを通して、主イエス様の声を聴くのです。

ですから、聖霊様の助けを頂いて、主イエス様の朧げな姿を凝視し、イエス様の小さな声を聴き逃さないようにしなければなりません。

しかし、説教にも、聖書通読にも、デボーションなどにも、この世が高く、強く、広く深く影響します。

この世の忙しさ、慌ただしさ、目まぐるしさに、目を惑わされ、耳を奪われては、本当に必要なものを見失い、聴き逃し、或いは、自分勝手な解釈、理解になってしまいます。

この世の情報は、大洪水のようであり、溢れておりますが、キリスト者にとって必要な情報は僅かであり、この世の圧倒的な量の情報に埋もれてしまい、見出すのは簡単ではありません。

簡単ではありませんが、しかし、キリスト者にとって本当に必要な情報は、聖書の中にあるのです。

この世の溢れる情報の中から探し出すのではなく、必要な情報は聖書の説教と、聖書通読と、聖書からのデボーションなどにあるのです。

公同の礼拝に於いても一人静まり、語られる説教の中に、臨在される主イエス様を見、その声を聴くのです。

雑踏の中でも、家庭でも、職場でも、一人静まり、主イエス様の声に耳を傾けるのです。

至福、とも言える一時であり、この祝福にキリスト者は招かれているのです。

天からの声に耳を傾ける」時間は、忙しく、慌ただしく生きる現代人にとって、無駄な時間のように思えましょうが、また、効率よく、ズームやユーチューブなどで礼拝を・・・と考えましょうが、移動時間で整えられ、備えられるのであり、教会と言う空間に身を置く事で、唯一真の神様、主イエス様に包み込まれる祝福に与るのです。

天からの声に耳を傾ける」時間は、唯一真の神様によって造られた人間には必要不可欠な時間であり、人間が人間性を回復し、人間らしく生きる秘訣なのです。

天からの声に耳を傾ける」は、命令ではなく、義務でもなく、権利であり、特権なのです。

この特権に、共に与ろうではありませんか。

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聖書箇所: ヘブル人への手紙13章1節から6節

説教題:「愛の実践

【導入】

私たちの信仰生活で大切な事は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事ですが、唯、傍観していれば良い訳ではありませんし、凝視していれば良い訳でもありません。

主イエス様が何をなされたかをつぶさに見、見た事を、即ち、お手本を、教えられた事を実践する事が求められ、期待されているのではないでしょうか。

勿論、主イエス様のなされた事の全てを忠実に再現し、実行する事が求められ、期待されているのではありません。

その時点で出来る事を、居合わせた場所、状況、時代、文化などの中で出来る事を、いろいろな制約や制限などの中で出来る事を、また、与えられた賜物、時間などの中で出来る事を実行する事が求められ、期待されているのです。

個々人に違いがあり、皆が同じ事をしなければならない訳ではなく、するタイミングも其々です。

自発が大切であり、割り当てられてではなく、強制的でもなく、喜んでが大切であり、嫌々ながらではなく、不承不承でもなく、何をするかもしないかも、何時するか、何時辞めるかも、個々人の判断に任されているのです。

ピレモンへの手紙14節、「それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。」とある通りです。

主イエス様は私たちに何を求め、期待されているのでしょうか。

【本論】

新改訳2017 13:1 兄弟愛をいつも持っていなさい。

主イエス様は、なすべき事の第一として「兄弟」を愛する事を、即ち、「隣人」を愛する事を命じます。

133篇に詠われている様にです。

見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。

133:2 それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。

133:3 それはまた ヘルモンから シオンの山々に降りる露のようだ。主がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

兄弟愛」は、キリスト者の、数多くある徳目の一つですが、その重要性は抜きん出ており、中心、本質であり、最優先しなければならない、実践しなければならない項目です。

ローマ人への手紙1210節、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」と命じられています。

続いて「兄弟愛」の具体例を語ります。

13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。

旅人をもてなすこと」は、アブラハムの例、創世記18章の例やロトの例、創世記19章の例を挙げるまでもなく、ユダヤ人、イスラエル人が是とし、徳として代々受け継がれている良い慣習ですが、

必要不可欠な資質である、と云う事です。

パウロの教え、ローマ人への手紙1213節、「聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい」、であり、テモテへの手紙第一32節でも、テトスへの手紙18節でも繰り返し、ペテロの教え、ペテロの手紙第一49節、「不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい」、でもあります。

旅人をもてなすこと」は、ユダヤ人、イスラエル人、キリスト者だけの専売特許ではなく、ギリシャ人も、旅人をもてなす事を大切な徳と考え、実践していた様です。

その背景の一端は、当時の宿の性質にもあったようです。

当時の宿には、いかがわしい宿も多く、キリスト者や不品行を避けようと考える人たちは、また、貧しい人たちは、キリスト者の家や篤志家の家に宿泊させてもらっていたようです。

キリスト者や貧しい人たちなどに宿を提供する事は大切な事であり、必要な事でしたが、しかし、キリスト者などに成りすまして、宿代を浮かそうとする、そんな不心得者に対する警戒から、「旅人をもてなすこと」を躊躇する人々もいて、この良い習慣が損なわれてもいたようですが、ヘブル人への手紙の著者は、この良い習慣を絶やす事のないように、もてなしの精神が萎縮してしまわないようにと、励ましの言葉を掛けるのです。

13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いや」る事については、ヘブル人への手紙1034節に、「あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし」、と記されているように、実践して来たのです。

弱者、虐げられている人たち、身寄りのない人たちに対する哀れみの心は、「兄弟愛」そのものであり、強く奨励します。

マタイの福音書2535節、「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

そして、大切なのは、誰に対しても、哀れみの心、「もてなし」の心を働かせる事であり、

同族だから、同胞だから、知り合いだから、余裕があるから、ではなく、常日頃から、日常の事として、見ず知らずの人に対しても、「もてなし」の心、哀れみの心を働かせるのであり、結果、御使いと知らずに、主イエス様と知らずに、お世話をし、もてなす事になるのです。

思いやりなさい」は、同情する事を勧めているのではなく、「共に苦しむ」の意味で理解し、実践する事を勧めているのです。

13:4 結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。

結婚」は、唯一真の神様が制定された制度です。

創世記218節、「また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

創世記224節、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

そして、唯一真の神様の御旨、創世記128節、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う全ての生き物を支配せよ」のために、「結婚」するのです。

結婚がすべての人の間で尊ばれ」ですが、唯一真の神様の御前に於ける「結婚」と、この世の法に於ける「結婚」とでは、意味が違います。

唯一真の神様の御前に於ける「結婚」とは、先に紹介した通りであり、基本的に離婚はあり得ません。

この世の法に於ける「結婚」とは、双方の合意による約束であり、離婚も可です。

キリスト者とこの世の人たちとでは「結婚」に対する考え、立ち位置が違います。

キリスト者には、「結婚がすべての人の間で尊ばれ」るようにする責任がありますから、キリスト者は、唯一真の神様の御前に於ける「結婚」の誓約の意味を語り、実践していかなければならないのです。

結婚がすべての人の間で尊ばれ」るとは、性欲の解消的な、快楽を貪る的な性的結合ではない事を、即ち、「寝床が汚されることのないようにしな」ければならないのです。

淫行」を、新共同訳聖書は「みだらな者」、新改訳聖書第三版や口語訳聖書は「不品行」と訳していますが、広く、性的な罪の事を指し示し、「姦淫」は、結婚の誓約を破る事を、離婚再婚、浮気などを指し示します。

結婚」が、単なる制度になってしまった現代、キリスト者の責任は、非常に大きい、重いといわざるを得ません。

13:5 金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

金銭を愛する」とは、金銭に重きを置き過ぎる事であり、金銭を拠りどころとする事です。

ルカの福音書1613節、「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。

テモテへの手紙第一610節、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

テモテへの手紙第一66節、「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

6:7 私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。

6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。

金銭に重きを置き過ぎる事であり、金銭を拠りどころとする事を戒めているのであり、金銭が不要だとか、蓄財や資産運用が罪だ、と言っているのではありません。

135節の鍵括弧「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」は、申命記316節、8節、ヨシュア記15節からの引用です。

唯一真の神様からの、力強い励ましのことばであり、確実な約束のことばであり、唯一真の神様を愛し、神様を拠り所とする生き方が、神様によって造られた人間に必要であり、相応しい事を教えています。

13:6 ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」

6節の鍵括弧は詩1186節からの引用であり、135節の約束に対する応答です。

イザヤ書222節、「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。

人間は、どんなに優秀でも、多くの人から頼られていても、慕われていても、知識にも、能力にも、経験にも、体力にも、財力にも、全てに限界があり、必ず死にます。

元気な人でも、その寿命は保証されている訳ではなく、この先何十年も生きるかもしれませんし、明日死ぬかも知れない不確定なモノである、と云う事を意識した生き方をしなければならないのです。

儚い命だから自由奔放に生きよとか、刹那的に生きる事を勧めているのではなく、

唯一真の神様によって与えられた命であり、生かされている、と自覚しているかなのです。

【適応】

兄弟愛」の聖書的な実践は、様々な犠牲が伴いますから、相当の覚悟が必要ですし、口で言うほど簡単な事ではないでしょう。

自分の事や家族の事、知り合いの事などを優先するのが普通であり、他人様は、知り合いでもない人は、後回しにするのが普通であり、時には無視する事もあるでしょう。

相手の非を重箱の隅を突くようにして探し出し、上げ連ね、誇張し、正義は我にありと断言し、相手を一方的な悪に仕立て上げ、悪と断定し、非難し、賛同者を募り、攻撃する・・・のが世の常でしょうが、キリスト者は、こうであってはなりません。

唯一真の神様は、人間の罪の一切合切、原罪を、現罪をも、主イエス様に転嫁し、贖いを完成し、義と認め、聖と認めてくださったのであり、唯一真の神様との、真の、麗しい交わりを回復してくださったのです。

神様との関係に於ける罪の大きさや重さに比べて、人間同士の罪の大きさや重さなどは比較にもならない、軽微なモノでしかないのではないでしょうか。

大きな罪を赦された者同士として、「兄弟愛」を実践して行く事が求められ、期待されているのではないでしょうか。

不幸にして諍いが起こった時、どちらかかに肩入れするのではなく、肩入れを表明し、諍いを煽るような策を弄するのではなく、仲介役を表明し、仲介に徹し、和解に導き、平和を作り出すのが、キリスト者の役目であり、キリスト者に期待されている働きなのではないでしょうか。

世界の平和の実現は、キリスト者に託されていますが、先ずは、身近な関係から「兄弟愛」を実践して行こうではありませんか。

キリスト者を通して、平和が造り出され、広がるのです。

マタイの福音書59節、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

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                                       2023-10-22礼拝

聖書箇所: サムエル記第一30章1節から6節

説教題:「虚偽がもたらしたもの・・・連れ去られた家族」

【導入】

「他に道はない」。

この決断に至るまでには、色々の出来事があった訳であり、安易な考えで決めた訳ではなく、何の努力もしなかった訳ではなく、即決した訳でもありません。

身の危険を犯しながらも誠意を尽くしてサウル王に身の潔白を説明したのであり、ヨナタンを通して何度も執り成しを試みたのであり、また、一気呵成に問題を解決し、神様のお約束である、イスラエルの王位に付く、絶好のチャンスであるサウル王殺害の誘惑にも、「主に油そそがれた方、私の主君に対して手を下すなど、主の前に絶対に出来ないことだ」、と語り、自らは勿論の事、家来の手によっても、サウル王を殺害する事を選択しはせず、サウル王から逃れるために、サウル王の執拗な追跡を避けるために、苦肉の策、最終手段として先の言葉を発し、ガテの王マオクの子アキシュの所に逃れたのであり、保護を求めたのでした。

しかし、ガテの王、即ち、ペリシテ人に助けを求めるには、ダビデのユダヤ人と言う出自は不都合であり、また、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」とのダビデの武勲を称える歌はペリシテ人の憎しみを買うものであって、その、憎しみや疑念、不都合を解消するためには、サウル王に憎まれていること、敵対関係にある事をアピールし、嘘で塗り固めた演出をする事になるのでした。

今日はユダのネゲブを襲った、とか、エラフメエルのネゲブを襲った、とか、ケニ人のネゲブを襲った、などと言って、ユダヤ人の憎しみを買うような行為をしているとの嘘の報告をし、アキシュを騙し続けたのであり、アキシュ率いる連合軍が、サウル王率いるユダヤ人と戦うために出陣する場面では、ダビデの出陣を要請するアキシュに対して、ダビデは「では、しもべがどうするか、お分かりになるでしょう。」と答え、アキシュの為に命をかけてイスラエル軍と戦う事を約束、宣言するのです。

自分の命と家族の命、そしてダビデを慕って集まり、ダビデを頼って集まった人々の命を守る為であったからと、あの時はあれしかなかった、仕方がなかった、と言うかも知れません。

「生きていてこそ」「生きる事が優先」、「家族を守る事が大事」「群れを守る事が優先」と言う考え方の前には、倫理も、道徳も、尊厳も、果ては聖書の教えも霞み、何でもやるでしょうし、やるしかなくなるでしょう。

手っ取り早い方法、直ぐに効果の現れる方法を採用するでしょう。

しかし、人は神様の命令、律法に従う時、神様に覚えられ、人としての尊厳が保たれるのではないでしょうか。

また、神様に信頼する時にこそ、助けが与えられるのではないでしょうか。

神様への信頼、と言う点では失敗してしまったダビデですが、神様を恐れるダビデに、神様はダビデの知らない所でダビデを守り、イスラエルと戦わなければならない状況から脱出させて下さいました。

しかし、神様への信頼を捨てて、人に頼った結果の実は刈り取らなければなりません。

共に聖書を紐解いて行きましょう。

【本論】

アキシュと、アキシュを長と仰ぐ領主たちの連合軍に、アキシュの要請で加わる事になり、イスラエルと戦わなければならない立場に立たされてしまったダビデですが、しかしそれは、神様のご計画として将来イスラエルの王になるダビデにとって、絶対に避けなければならない事です。

しかし、嘘で固めた報告をして来たダビデをアキシュは信用して護衛の長に抜擢し、しかも連合軍の殿(しんがり)を務める信頼をも得ていたのです。

そのアキシュの要請に対して、どのような言い訳をしたらアキシュの不審を買わず、イスラエルと戦わずに済み、しかも、友好関係を維持出来るか、幾ら知恵を絞っても、丸く収まるアイデアなどあろうはずがありません。

のっぴきならない状況に追い込まれたダビデに対して、神様は沈黙する事なく、アキシュに従う領主たちの口を通して、ダビデを連合軍から離脱させて下さいました。

ダビデへの処置は、ダビデに与えられた領地で待機する、と言うものでした。

この人知を越えた神様の計らいに、ダビデは、ダビデと共に従軍した兵士たちは心底からホッとしたのではないでしょうか。

しかし、この安堵は長く続くものではありませんでした。

30:1 ダビデとその部下が三日目にツィクラグに帰ったとき、アマレク人はすでに、ネゲブとツィクラグを襲っていた。彼らはツィクラグを攻撃して、これを火で焼き払い、

30:2 そこにいた女たちを、子どもも大人もみな捕らえ、一人も殺さず、自分たちのところへと連れ去っていた。

先の学びで、地理的な状況を確認致しましたが、アキシュたちの連合軍はアフェクに集結し、イスラエル軍の待つイズレエルに向けて進軍している最中に、ダビデは領主たちの不審を買って、ダビデ一行はツィクラグに戻される事になった訳です。

3日の道程(みちのり)は、凡そ100kmと言う所でしょうか。

アキシュの要請によってダビデ一行はツィクラグを出発し、アフェクでアキシュ、ペリシテ人の領主たちと合流し、イスラエル軍の待つイズレエルに向かう途中でツィクラグに戻されたのですから、行くのに3日、戻るのに3日、都合6日の道程は、凡そ200kmの行軍は、途中休憩が与えられたにしても、決して楽なものではありません。

早く家に帰って疲れを癒したい、6日も留守にした家族に会って安心したいと思うのが人情でしょう。しかし、

30:3 ダビデとその部下が町に着いたとき、なんと、町は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。

30:4 ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

30:5 ダビデの二人の妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。

ツィクラグを襲ったのはアマレク人であると記されています。

彼らアマレク人は27章に記されているように、ツィクラグの南、エジプトに至る地域に住んでいる人々であり、ダビデが襲い、略奪し、皆殺しにした地域の人々です。

ダビデはアマレク人のみならず、ゲゼル人、ゲシュル人を一人も生かしておかず、一人も残さずに皆殺しにしたのですから、アマレク人たちはダビデをどれ程憎んでいた事でしょうか。

ダビデ軍が遠征している留守の隙を覗っていたに違いありません。

今までは、ダビデはツィクラグを拠点として出かけ、近辺の町々を襲っていたのであり、何かがあれば直ぐに戻れる所にまでしか出かけなかった事でしょう。

しかし、今回はアキシュの要請で100km以上も離れた所に、しかも、戦いは何日も続きますから、アマレク人に取っては積年の恨みを晴らす、絶好のチャンスと映ったのではないでしょうか。

家族、一族皆殺しの仕返しに、復讐の思いでツィクラグを襲ったのでしょうから、ダビデの家族が、ダビデに従う人々の家族が虐殺されても当然の状況の中で、唯の一人も殺される事なく、捕虜とされた事に、神様のご介入があった事を見なければならないのではないでしょうか。

神様を離れて、自分で最善の策を考え、アキシュのもとに下り、無慈悲とも言える殺戮を繰り返したダビデに対して、神様は、自分で始末を付けるがよい、とは仰られずに、ダビデの家族を、共にいる人々を、老人を、女を、子どもをアマレク人の憎しみから守って下さったのです。

アマレク人が、人々を殺さず人質にしたのは奴隷としてエジプトに売ろうとの計画からでしょうが、一人も殺さなかった事に、神様の深い愛と憐れみを覚えずにはいられません。

何故なら、拉致し、連れて行くには老人や赤ちゃん、また病人は足手まといになります。

奴隷として売れるのは従順な子どもたちと壮健な人々だけです。

その壮健な人々も、男であったなら何時反乱を起こすか知れたものではありませんから、殺してしまうのが常道なのです。

それを、唯の一人も殺さず、老人、赤ちゃん、全てを拉致して行ったのですから、このアマレク人の行動が常識を外れた行動であり、そこに神様のご介入があった事を読み取らなければならないのです。

しかし、この事は、聖書を読む私たちに与えられた神様の教えであって、家族を奪われると言う災いの渦中にある人々にとっては、そんな余裕はありません。

神様の恵みや憐れみを感謝する前に、旅の疲れと重なって、悲痛に暮れ、泣く力もなくなるまでに打ちひしがれてしまったのでした。

その悲しみは、憎しみとなってダビデに向けられます。

30:6 ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。

こんな事になったのはダビデ、お前のせいだ。

人々は殺気だってダビデに詰め寄ります。

ここに至ってダビデは目が開かれ、神様に立ち帰ります。

ダビデはツィクラグが破壊され、人々が拉致される事を許された神様を呪うのではなく、この出来事を、神様に立ち帰るきっかけを与えて下さる神様からのチャレンジ、イスラエル人の不倶戴天の敵、アマレク人を、その残党を一掃するチャンスと捉え、神様に立ち帰ったのです。

【適応】

神様は決してダビデを捨てられる事はなく、ペリシテ人アキシュに保護を求めるダビデを見守っておられました。

神様が表立って登場される事はありませんでしたが、ダビデの行動を逐一ご覧になっていたのです。

ダビデも神様を全く忘れた訳でも、神様を捨てた訳でもありません。

神様がダビデの行動を是認しておられるとは思っていなくても、神様の沈黙に甘んじていたのであり、神様の沈黙を安易に捉えていた事は否めないでしょう。

しかし、今ここで、部下との確執の中で神様の下へと戻らされたのです。

信頼していた部下の非難の中で、石打にしようとする険悪な状況の中で、自分が真に頼るべき存在に目が開かれ、遠い存在だった神様への語りかけが始ろうとしている、神様との関係の修復が始ろうとしている瞬間なのです。

神様から離れた人を、神様は状況を用いて、神様の下に引き戻して下さいます。

但し、その引き戻すご計画は、決して強制的なものではなく、自発を促すような形で示される事が多いようです。

勿論、緊急処置で、強制的に、と言う事がない訳ではありませんが、神様は人の意志に反する事を、無理矢理になさる事はありません。

園の中央の木の実は、食べる事も選べたし、食べない事も選べたのです。

何処へ行くのか分からない旅は、出かける事も選べたし、出かけない事も選べたのです。

愛する息子を献げよとの命令は、献げる事も選べたし、献げない事も選べたのです。

これらの選択は、行動の選択ではなく、神様の命令に従うか否かの選択であり、言い方を代えるならば、神様に委ねるか否かの選択であると言う事なのです。

ダビデに与えられた試練は全て、神様の命令を守るか否か、神様に委ねるか否かの選択である事に気が付かなければなりません。

サウル王との関りにおいては、神様の立てられた、神様に油を注がれた王様として、神様に委ねて、その命に反する事をしませんでしたが、自分と家族と、部下と部下の家族の命に関る試練においては、神様に委ねる事をせず、自分で解決を、安泰をはかろうとしましたが、思わぬ方向に事態は進み、サウル王と戦わなければならない状況に陥ってしまったのです。

更には、長く留守にしたために、アマレク人の暗躍を許す結果となり、家族を奪われると言う窮地に陥ってしまったのです。

神様の命令に従うならば、神様に委ねるならば、何の問題も、危機も、危険も起こらないと言うのではなく、神様の命令に従っても、神様に委ねても、問題は起こるし、危機に見舞われるし、危険を防ぐ事は出来ないのですが、神様の命令に従うならば、神様に委ねるならば、やって来る問題、危機、危険は神様の主権の下にあり、神様が責任を持って対処して下さり、齟齬なく完全な解決に導かれ、結果私たちの益になり、神様の栄光が現れる事になると言えるのであり、自分の考えで行動し、神様に委ねないならば、やって来る問題、危機、危険、全てに対して自分で対処しなければならず、問題解決の手段が、次ぎの問題を引き起こす悪循環に陥り、人にはどうしようもない問題に発展して行くのであり、神の民として相応しくない行動を取ってしまい、結果、神様の御名を汚してしまう事になると知らなければならないのです。

私たちの人生において、色々と選択しなければならない問題が起こってくると思います。

それは一見、信仰とか、神様と関係がないか、関係の薄い問題と思えるかも知れませんが、神様は全ての主権者であられますから、関係のない問題などなく、全てを神様の教え、聖書に照らし合わせて考えなければならないのです。

第一コリント1031節「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」です。

このみ言葉は飲食の問題を扱っているのではなく、生活全般、生き方、考え方を教える御言葉です。

ダビデに振りかかった問題も、明確に神様に関る問題では失敗しませんでしたが、逃げる、命を守ると言う、非常に個人的、人間的な問題では、自分で何とかすると言う前提に立って行動し、結果、窮地に陥り、部下からも見放されてしまう事になってしまったのです。

神の民として譲れないモノと、命を守るために譲れないモノとの違いがあるのではなく、何を第一にするかの違いであり、神の民として生きるために神の命令を大事にするか、この世の事だからと、この世のルールに従って判断するかの違いにかかっているのです。

ここにおられる皆様は神の民に属する方々ですから、この世のルールや常識、習慣、慣習に従って行動するのではなく、神様の示された聖書に従って、神様に委ねて判断、行動して頂きたいと思います。

失敗しても、神様は見捨てず、軌道修正の道を準備して下さっていますから安心して下さい。

でも、軌道修正しないままでは、神様の下に行く事はできません。

今のあなたの目の前にある問題は、お金の問題、健康の問題、家族の問題、会社や組織の問題、或いは地域や社会との問題でしょうか。

金策に奔走する、名医を探す、カウンセラーに相談する、云々。

キリスト者も、ダビデと同じように、世の人々と同じ行動をするのでしょうか。

キリスト者は、それらの対策の前に、神様に祈り、信頼し、委ねるのがキリスト者なのではないでしょうか。

キリスト者に一番必要とされているのは、何かをする事ではなく、神様に信頼を置く事なのです。

それらの問題は、神様を信頼し、委ねるために与えられた問題なのではないでしょか。

今、軌道修正をして、自分の力や知恵に頼る事なく、策を弄する事なく、神様に頼って、縋って、祈って、委ねて、神様の与えて下さる平安に憩われますよう願って止みません。

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                                       2023-10-29礼拝

聖書箇所: ヘブル人への手紙13章7節から8節

説教題:「真の指導者、永遠の指導者、主イエス様」

 

【導入】私たちの信仰生活で大切な事は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事であり、主イエス様が何をなされたかをつぶさに見、見た事を、即ち、お手本を、教えられた事を実践する事が求められ、期待されているのではないでしょうか。

しかし、生活の全てに、主イエス様のお手本や教えがそのまま適応出来る訳ではありません。

主イエス様の時代とは、雲泥の違いがある現代社会ですから、また、新しい事や物が、次々に生まれてくる現代社会ですから、主イエス様のお手本や教えを、そのまま適応する訳には行かない事や、どのように考え、どう対処したら良いのかと、悩む事が多々ある事でしょう。

そこで重要になってくるのは、適切な指導者が居るかどうかであり、必要な時に、適切な指導を受けられるかどうかです。

失敗を犯さないために、回り道をしないために、罪を犯さないために、適宜、指導を受ける事が重要であり、失敗を犯したための、回り道をしたための、罪を犯したための後始末に奔走しないために、行動を起こす前に、指導を受けるのが最善でしょう。

古の時代には、律法に関しては、宗教的な事に関しては、社会的な事に関しても、慣習などに関しても、祭司たちがいて、律法学者たちがいて、パリサイ人たちがいて、指導を行ない、長老たちもいて、指導を行なっていました。

「困った時の神頼み」ではなく、先ずは計画、立案などの初期段階から、問題解決などに取り掛かる前から、指導を受けるのが最善なのではないでしょうか。

特にキリスト者は、先ずは、何よりも先に、唯一真の神様、主イエス様に祈り、知って頂き、関与して頂き、人間の指導者からも、指導を受ける、と云う順番を忘れてはなりません。

私たちに必要不可欠な指導者について、ヘブル人への手紙から学んで行きましょう。

【本論】新改訳2017 13:7 神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。

ヘブル人への手紙の著者は、読者たちが主イエス様を信じる信仰に入った時に、「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを」、即ち、御言葉を語った指導者たちの事を「覚えていなさい」、と命じます。

指導者たち」は、読者たちの所属している教会を設立した人たちであり、読者たちにとって、最も身近な指導者たちであり、親しい関係の指導者たちです。

一般的な世の指導者たち、即ち、学校の先生たちではなく、政治家たちではなく、士業の人たちではなく、カウンセラーたちでもなく、「神のことば」によって読者たちを養い、導く指導者たちです。

初代教会の時期、キリスト者たちの指針となる新約聖書は纏められておらず、キリスト者にとって、初代教会にとって、制度も、設備も、経験もない教会にとって、指導者の存在は非常に重要、有益でした。

その指導者たちの多くは、ヘブル人への手紙1317節、24節に記されているように、現に、今も生きて、指導者として活動していますが、指導者たちの一部は、その使命を終えていますが、彼らの言動はキリスト者たちの記憶に残り、キリスト者たちの良き模範となっていました。

指導者たちの教えは、指導者が生きている間だけではなく、その死に於いても、臨終の間際にあっても、キリスト者のあるべき模範を示したのであり、「彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい」、と命じます。

新約聖書が纏められていない時代なのですから、キリスト者の指針となるのは指導者たちの指導であり、模範です。

勿論、良き指導者であり、良き模範を示し、残したでしょうが、良き指導者といえども人間であり、罪人であり、その指導が完全、完璧、無謬であった訳ではありません。

有限な人間は、得た知識、知恵、経験から予測し、予想でしか指導出来ませんが、それは完全、完璧な指導、模範ばかりではありません。

知りえない事柄については、お手上げであり、想像の上での、想定の上での指導しか出来ませんので、時に間違ってしまう事もありますが、それでも有益です。

何故ならば、唯一真の神様が立てられ、主イエス様が遣わされた指導者だからです。

唯一真の神様が立てられ、主イエス様が遣わされた指導者に従うのは、益になるからですが、訓練でもあるからです。

ヨハネの手紙第一420節、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

ここは兄弟愛についての教えですが、「愛する」を「従う」、「兄弟」を「指導者」と読み替えると、137節の理解の助けになるでしょう。

即ち、「神に従うと言いながら指導者に従わないなら、その人は偽り者です。目に見える指導者に従わない者に、目に見えない神に従うことはできません。」

そして大切、大事なのが「彼らの生き方から生まれたものをよく見て」、「その信仰に倣」う事です。

指導者たちの「生き方」の全てが、主イエス様の前に正しい、キリスト者に相応しい、とは限りません。

瑕疵があっても、欠点があっても、齟齬があっても、否、瑕疵だらけでも、欠点だらけでも、齟齬だらけでも、指導者たちの「生き方」を「」うのではなく、「あなたがたに話した」、「神のことばを」、そして「彼らの生き方から生まれたものをよく見て」、「その信仰に倣」うのです。

マタイの福音書231節、「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。

23:2「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。

23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。

長所や短所も、利点や欠点もある人間の指導者ですが、唯一真の神様が立てられた指導者であり、主イエス様が遣わされた指導者であり、現実世界での指導者であり、充分な尊敬を払い、従う事が、唯一真の神様と主イエス様の主権を認める事であり、唯一真の神様と主イエス様のご栄光を現す事であり、唯一真の神様と主イエス様を愛する事であり、キリスト者たちの信仰の益となり、更なる祝福に繋がるのです。

指導者たちの「生き方から生まれたもの」は、記憶され、記録され、新約聖書となり、後のキリスト者たちの生き方に大きな影響を及ぼし、助けとなりました。

どんなに有益であり、優れた指導者であっても、休まなければならず、年中無休で対応する事は出来ません。

老いますし、死を免れる事も出来ません。

何時までも生きていて、キリスト者を導く事は、助言を与える事は出来ません。

しかし、

13:8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

死によって次々と変わらざるを得ない地上の祭司たち指導者や、教会の指導者たちと違って、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

主イエス様は神であると同時に人間であり、人間の弱さ、限界を持った上で、試みにあわれ、試みに打ち勝たれたのです。

ヘブル人への手紙415節、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

人間には死や病があるため、指導の務めを続ける事が出来ませんが、ヘブル人への手紙724節、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。

7:25 したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

主イエス様は永遠に良き指導者として私たちと関わり続けてくださるのです。

ヘブル人への手紙912節、「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

ヘブル人への手紙1012節、「キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き

指導者としてキリスト者を支え、助け、慰め、守り、導いてくださるのです。

主イエス様こそ、私たちが信頼し、何もかも委ねる事の出来る、真の指導者、永遠の指導者、唯一無二の指導者なのです。

【適応】この唯一真の神の御子、主イエス様が指導者として、私たちキリスト者に寄り添い、支え、助け、慰め、守り、導いてくださるのですから、恐れる事も、不安になる事も、迷う事もありません。

主イエス様は全知全能であり、不変であり、無限のお方ですから、主イエス様に得手不得手はなく、どんなに大きな課題でも、どんなに根の深い問題でも、また逆に他愛ない悩みでも、完全、円満な解決に導いてくださる力をお持ちのお方です。

24時間、366日、どんな問題でも、どんな課題でも、どんな悩みでも聴いてくださるのですが、即時に解決してくださる訳ではありません。

その課題を通して訓練し、その問題を通して訓練し、その悩みを通して訓練してくださるのであり、それはキリスト者にとって必要な事なのです。

主イエス様の主権で、御旨の時に、願った通りになるかもしれませんし、願った通りではない結果かもしれませんし、思いもよらない結果かもしれませんが、解決に導いてくださるでしょう。

或いは、その課題、問題、悩みをそのまま受け入れる事が、主イエス様の御旨かも知れません。

御旨を待てずに、策を弄した結果は、強引に誘導した結果は、アブラハムの例、ヤコブの例などで明らかです。

禍根を残し、諍いの種となり、不和を生み、憎しみや争いを引き起こす事になるのです。

しかし、主イエス様の御旨の時を待ち、御旨に従うなら、キリスト者たちの益、更なる祝福となるばかりではなく、主イエス様の御栄光が、この世に輝き亘るのであり、この罪の世が唯一真の神様、主イエス様を知るに至るのです。

主イエス様は真の指導者、永遠の指導者であり、常に、キリスト者に寄り添い続けてくださるだけでなく、キリスト者を通して、罪の世に働きかけ、関わり続け、この罪の世が唯一真の神様、主イエス様を知るに至り、この世が贖われ、この世が救われ、この世に真の平安、和解がもたらされるに至るのです。

この働きの一端は、キリスト者が真の意味で、主イエス様を指導者とする事に掛かっており、全てのキリスト者が全ての問題、課題、悩みに対して、主イエス様を指導者とする時、キリスト者に大きな祝福をもたらし、大きな益となり、この世にも大きな祝福と、大きな益をもたらすのです。

キリスト者が主イエス様を指導者とする事で、この世も主イエス様が真の指導者である事を知るに至るのです。

キリスト者は、主イエス様の指導を受けられる特権の中に置かれているのであり、既にこの祝福の中に置かれているのです。感謝するとともに、益々主イエス様を指導者として仰ぎ、従って行こうではありませんか。

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