2023-11-5礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙13章9節から16節

説教題:「神に喜ばれるささげもの」

【導入】

唯一真の神様、主イエス様は、独立、不変、無限、単一、全知全能のお方であり、如何なるものの影響を一切受けず、何の助けも、奉仕も、献げ物も必要とはしません。

私たちの言動は、私自身と、関わる人たちに影響を及ぼすだけであり、唯一真の神様、主イエス様には、何らの影響も与えません。

しかし、唯一真の神様、主イエス様は、私たちの存在や言動に無関心である訳ではありません。

唯一真の神様によって造られた人間であり、造られた目的に沿っての存在であり、言動であるならば喜ばれ、造られた目的を外れた存在となってしまい、言動であったならば悲しまれる事でしょう。

そして、造られた目的に沿っての存在であり、言動であるように、聖霊様を導き手、助け手として遣わし、主イエス様を執り成し手としてくださっているのです。

唯一真の神様、主イエス様に喜ばれる存在、言動とはどのようなものか、ヘブル人への手紙から学んで行きましょう。

【本論】

新改訳2017 13:9 様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。

様々な異なった教え」とは、具体的に何でしょう。

主イエス様や使徒たち、即ち、ペテロやパウロたちの教えに付け加えた教え、取り除いた教え、勝手な解釈を施した教え、俗に言う「キリスト教の異端」に「迷わされてはいけません」との忠告を与えます。

加えて、ローマ文化、ギリシャ文化などの影響を受けた教え、グノーシス主義、二元論などの影響を受けた教えにも「迷わされてはいけません」と忠告するのです。

ここで注意したいのは、旧約聖書に記された律法の規定を否定しているのではない、と云う事です。

主イエス様の教えは、旧約聖書に記された律法をベースにしたものでありますが、律法の字面(じづら)通りの解釈や適応、即ち、行動を強制し、或いは禁止、制限し拘束する事を戒め、律法の本質を考え、神と人とを愛する教えとして理解し、解釈し、適応、実行する事を求めているのです。

マタイの福音書517節、「わたしが律法や預言者を廃棄するため来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。全てが実現します。

5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」と仰られている通りです。

キリスト者の益になるのは、「食物の規定」、律法の規定を遵守する事ではなく、主イエス様の執り成しと聖霊様の導き、と云う「恵み」である事を忘れてはなりません。

食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした

律法の規定は全体を守ってこそであり、一つでも違反すれば、即ち、ヤコブの手紙210節、「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです」。

規定は分かり易いだけに、取り入れてしまい勝ちですが、コロサイ人への手紙221節、「「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。

2:22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。

2:23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

ローマ人への手紙1417節、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです

律法は「神を愛し人を愛する」と云う目的を達成するための手段であり、本来ならば、律法の遵守は、嬉しい、楽しい、喜ばしい事であるのに、「神を愛し人を愛する」事を忘れてしまったのであり、手段が目的になってしまい、字面(じづら)を追うだけの、苦しいだけの、辛いだけの、喜びのないものになってしまったのです。

13:10 私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕えている者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。

13:11 動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。

私たちには一つの祭壇があります」とありますが、象徴的な祭壇であり、そこで献げられたのは主イエス様です。

11節はレビ記1627節の教えです。

罪のきよめのささげ物の雄牛と、罪のきよめのささげ物の雄やぎで、その血が宥めのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に運び出し、皮と肉と汚物を火で焼く」のですから、10節に「食べる権利がありません」と記されていますが、焼かれてしまうので食べる事が出来ないのです。

13:12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

主イエス様は、「門の外で」、エルサレムの町、神殿を出て、ゴルゴタの丘で、十字架に架かられたのです。

門の内、宿営の内は、唯一真の神様のご臨在される所であり、地上的な拠り所であり、安全、平安が約束されている、と考えられていましたが、一方、「門の外」、「宿営の外」は、唯一真の神様と隔絶された、神様不在の呪われた所であり、地上的な拠り所、安全、平安を失う事を意味する所、と考えられていたのです。

主イエス様は、「門の外」、「宿営の外」に出て行かれ、其処にいる罪人、唯一真の神様と隔絶された人たち、神様不在の呪われた地と考えられていた地に住む人たちのために、私たちのために「苦しみを受けられた」のです。

その「苦しみ」によって、唯一真の神様との親しい交わりが回復したのであり、これ程に、大きな祝福、恵みがあるでしょうか。

さて、門の内、宿営の内にいた人たちは、本当の意味で、唯一真の神様と親しい交わりを持っていたのでしょうか。

門の内、宿営の内に唯一真の神様はご臨在されているのでしょうか。

律法を字面通りに守る事にあくせくし、見せ掛けだけの信仰、信仰深く見せるだけの、形骸化した信仰になってしまっていたのであり、唯一真の神様を見ない、神様の事より、自分の義を立てる事にあくせくする所に神様はご臨在されるのでしょうか。

門の内、宿営の内こそ、唯一真の神様と隔絶された所になっていたのであり、神様不在の呪われた地になっていたのではないでしょうか。

13:13 ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

規定、手順を落ち度なく行なう事を最高の礼拝と考え、自分の考えに、小さな世界の中で満足するような、門の内、宿営の内に留まる事なく、主イエス様に倣って、「門の外」、「宿営の外」に出て、主イエス様に倣って、主イエス様の受けられた苦しみ、「辱めを身に負」う者となる事が期待されているのであり、そんな生き方が期待されているのです。

13:14 私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。

地上の宿営、幕屋は、天にある本物の宿営、幕屋の模型であり、私たち、キリスト者が目指すのは、近づいているのは、立派に見えても、荘厳でも、古び、朽ちてしまう、地上の宿営、幕屋ではありません。

永続しない地上の宿営に、幕屋に希望を置くのは愚かな事です。

私たち、キリスト者は誰も見た事はないけれど、古びる事はなく、朽ちる事もない、永遠に存在、存続する天上の、本物の宿営、幕屋を目指しているのです。

13:15 それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。

古びる事はなく、朽ちる事もない、永遠に存在、存続する天上の、本物の宿営、幕屋におられる唯一真の神様に相応しいささげものはなんでしょうか。

いろいろな制限や条件が必要な、焼かれてなくなる動物のささげものなどではなく、朽ちていく穀物などのささげものなのでもありません。

エペソ人への手紙519節、「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」

コロサイ人への手紙316節、「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

キリスト者は、罪のためのいけにえは、繰り返しささげる必要はありませんが、「賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実」は「絶えず神にささげ」続けなければならないのです。

それはキリスト者に相応しいささげものだからであり、何よりも、唯一真の神様が喜ばるささげものだからです。

ささげものは、規定や手順に従ってささげるのではなく、喜びと感謝をもって、「イエスを通して」ささげる時にのみ、唯一真の神様に受け入れられるのです。

更に、唯一真の神様が喜ばれるささげものがあります。

13:16 善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。

善を行うことと、分かち合うこと」は、義務でもありませんし、救いの条件でもありませんが、唯一真の神様、主イエス様が何より「喜ばれる」事なのです。

何故ならば「善を行うことと、分かち合うこと」は、唯一真の神様、主イエス様がお持ちの徳であるからです。

キリスト者が、唯一真の神様、主イエス様に似たものであるか否かは、行動に現われ、「善を行うことと、分かち合うこと」を喜んで実践しているならば、そのキリスト者は唯一真の神様、主イエス様に似たものであり、唯一真の神様、主イエス様に相応しい、唯一真の神様、主イエス様に喜ばれるささげものをしていると知れるのです。

ヤコブの手紙127節、「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないように自分を守ることです。

ローマ人への手紙121節、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

ペテロの手紙第一25節、「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。

【適応】

神に喜ばれるささげもの、とは「善を行うことと、分かち合うこと」なのですが、それだけではありません。

マタイの福音書2323節、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」、であり、主イエス様は、「律法学者、パリサイ人」に対して、「十分の一を納め」る事、「律法」は大事であり、「おろそかにしてはいけないが」、疎かにしなければそれで充分なのではない、「正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」、と叱責するのです。

律法は、神を愛し、人を愛するためのものであり、廃棄される事はありません。

とても大事なものなのですが、使い方を間違えてはならないのであり、使い方を間違えなければ、非常に有益なのです。

即ち、「律法」は「善を行うことと、分かち合うこと」と不可分の関係であり、お互いは同列に置かれており、補完し合って、神に喜ばれるささげものとなるのです。

律法学者、パリサイ人」のように、「律法」を行なう事だけでは、不十分であり、福祉団体、慈善団体のように、「善を行うことと、分かち合うこと」だけでも不十分です。

唯一真の神様、主イエス様を土台とした「律法」と「善を行うことと、分かち合うこと」があって、「律法」はその機能を充分に果たし、「善を行うことと、分かち合うこと」も、麗しい行為となるのです。

唯一真の神様、主イエス様を土台としなければ、「律法」は人間の行動を監視し、縛るものになり、「善を行うことと、分かち合うこと」は、自己満足やヒューマニズムになってしまうでしょう。

律法」も「善を行うことと、分かち合うこと」も、人の目を意識した偽善的行為になってしまうでしょう。

神様が見ていなくても、人が見ていなくても、神を愛し、人を愛するために「律法」も「善を行うことと、分かち合うこと」も行なうのであり、キリスト者はその両方を兼ね備えた存在であり、この罪の世に、自分中心の世に、「律法」による麗しい秩序をもたらす存在であり、「善を行うことと、分かち合うこと」による隣人愛を実践する存在なのです。

キリスト者は、このために召され、救われ、罪の世に遣わされているのです。

キリスト者は神に喜ばれるささげものを献げられる、数少ない存在であり、神に愛される稀有な存在、貴重な存在、宝なのです。

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                                       2023-11-12 創立記念礼拝 アンテオケ宣教会アピールデー

聖書箇所:使徒の働き13章1節から12節

説教題:「エルサレム教会からアンティオキア教会へ」

説教者:吉永輝次牧師(アンテオケ宣教会国内主事、勝田聖書教会牧師、JOMA事務局長)

    説教は非掲載です。

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                                       2023-11-19礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙13章17節から19節

説教題:「指導者のために祈る」

【導入】

信仰生活の要は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事であると、繰り返し語ってまいりましたが、問題の最中にあっては、苦難、困難の渦中にあっては、試練の最中にあっては、病苦の渦中にあっては、中々「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事は簡単な事ではありません。

問題に心を奪われ、苦難、困難に押し潰され、試練に翻弄され、病苦に打ちひしがれ、主イエス様から目を離し、主イエス様が見えなくなってしまい、主イエス様を見失ってしまい、この世的な対策に、知恵を駆使した、これしかないと思える妙案?に走り、見える人間に、有限な人間に、頼ってしまうのではないでしょうか。

その結果は、問題を更に大きくし、苦難、困難をより複雑にし、試練を長引かせ、病苦を耐え難いものとしてしまうのではないでしょうか。

この世の策に、人間の知恵や妙案?に走ってはならず、人間に頼り、縋ってはなりませんが、唯一真の神様、主イエス様は、聖霊様以外にも、助け手を送ってくださっています。

【本論】

新改訳2017 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。

ヘブル人への手紙の著者は、最初に、教会の指導者、即ち、教師についての一般論を語ります。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」と。

聞き、また服従」する根拠は、教会の指導者たちは、教師たちは、唯一真の神様、主イエス様が選ばれ、立てられ、遣わし、教会に置かれたからです。

この世の指導者たちは、国民が選び、都民、県民が選び、区民、市民が選び立てた指導者であり、また、株主総会や役員会などで選び立てられた指導者ですが、教会や教団の指導者たちは、唯一真の神様、主イエス様の主権で選ばれ、立てられ、遣わされているのです。

ですから「指導者たちの言うことを聞き、また服従」すると云う事は、唯一真の神様、主イエス様「の言うことを聞き、また服従」すると云う事なのです。

逆に言えば、指導者たちや教師たちの言う事を聞かず、また服従しないならば、唯一真の神様、主イエス様の言う事を聞かず、また服従しない、と云う事なのです。

また、指導者たちや教師たちを批判するならば、唯一真の神様、主イエス様を批判する、と云う事なのであり、厳しい裁きを受ける事になるのは言うまでもありませんが、更に厳しい裁きを受ける事になるのが教会の指導者たち、教師たちです。

ヤコブの手紙31節、「私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

17節b、「この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。

見張りをしている」は、字義通りには「寝ずの番をしている」のであり、教会の指導者たち、教師たちは、唯一真の神様、主イエス様から委ねられた信徒の霊的な状態に付いて気を配り、信徒に霊的成長のための糧を提供し続けるのです。

17節c、「ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。

信徒の霊的状態を見守り、気を配り、霊的糧を提供し続ける指導者たち、教師たちの存在と、その働き程、尊いものはないのです。

指導者たち、教師たちには、大きな責任が負わされています。

ピリピ人への手紙216節、「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

信徒が「彼らの間で」、即ち、罪の世で、「世の光として輝くため」に、指導者たちは、教師たちは「努力し」、「苦労し」ているのです。

13:18 私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。

ヘブル人への手紙の著者は、指導者たちや教師たちに付いての一般論に続き、この手紙の受取人と深い、密な関係にある、責任を負う立場にある「私たちのために祈ってください」との要請をします。

正しい良心」、「正しく行動」は、唯一真の神様、主イエス様に対してであり、民衆に迎合するような説教や指導ではなく、体験談や抽象論などでもなく、耳障りの良い、薬にならないような説教、一般論的な指導ではなく、聖書の解き明かしであり、信仰生活への適応です。

ウエストミンスター大教理問答、「問一、人間のおもな、最高の目的は、何であるか。

答、人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」とある通りであり、信徒が唯一真の神様、主イエス様の栄光を現し、唯一真の神様、主イエス様を喜ぶ信徒となる事です。

時に厳しい説教や指導もあるでしょうが、教会を教会足らしめるのは、教会を聖く保つのは、指導者たちや教師たちの、「正しい良心」、「正しく行動」に基づく弛まらざる牧会です。

その尊い、重要な働きのために必要なのは、信徒の祈りなのです。

コリント人への手紙第二111節、「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。

1:12 私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。

指導者たちや教師たちに対する祈りは、唯一真の神様、主イエス様の栄光を現すものとなり、巡って自分に益するのです。

指導者たちや教師たちの中には、偽指導者や偽教師も紛れ込んでいた事でしょうから、それを明らかにし、排除し、教会を教会足らしめ、教会を聖く保つために、信徒の祈りは不可欠なのです。

13:19 私があなたがたのもとに早く戻れるように、なおいっそう祈ってくださるよう、お願いします。

ヘブル人への手紙の著者は、読者たちとの再会を切望しており、再会を妨げているものが何なのかは不明ですが、その妨げが取り除かれるように、熱心に祈って欲しいと願っているのです。

指導者や教師にとっての喜びは、信徒が唯一真の神様、主イエス様と固く結び付いて、信仰に固く立って歩んでいる事です。

指導者たちや教師たちにとって、信徒が信仰から離れた、信仰を捨てた、教会には行っていない、という事を聞く事程悲しい事はありません。

大きな試練を乗り越えて、信仰を保ち続けている、教会で用いられている、という事を聞く事程嬉しい事はありません。

【適応】

祈り」は一方通行ではありません。

信徒が指導者たちや教師たちのために、唯一真の神様、主イエス様に祈るのであり、指導者たちや教師たちが信徒のために、唯一真の神様、主イエス様に祈るのです。

唯一真の神様、主イエス様を介在して、祈りによって、信徒と指導者たちや教師たちが繋がるのであり、この繋がりを妨げるもの、切るものはありません。

具体的な、詳細な祈祷だけが祈りであり、唯一真の神様、主イエス様に届くのではありません。

流暢な祈りや美辞麗句の羅列だけが祈りであり、唯一真の神様、主イエス様に届くのでもありません。

マタイの福音書66節、「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

本音を隠した建前の祈りでは、唯一真の神様、主イエス様に届きません。

具体的でなくても、詳細不明でも、名前だけでも、その人を思い、その人の顔を思い浮かべて祈るなら、唯一真の神様、主イエス様に届くのではないでしょうか。

流暢な祈りや美辞麗句の羅列よりも何よりも、たどたどしくても真剣に祈るなら、唯一真の神様、主イエス様に届くのではないでしょうか。

そして、そのような祈りこそが、信徒と指導者や教師お互いを強く結び付け、群れの一致、教会の一致を生み出し、育むのです。

そんな麗しい交わり、結び付きを唯一真の神様、主イエス様が守ってくださるので、群れも教会も揺るぐ事はないのです。

祈祷課題は、信徒同士でも分かち合い、お互いのために祈りますが、祈りは、信徒同士で聞かせ合うものではありません。

祈りは、唯一真の神様、主イエス様に向って語るのであり、ですから、具体的である必要も、詳細である必要も、流暢である必要も、美辞麗句である必要もないのです。

子どものように素直で、単純な、飾らない、本音の吐露である祈りが唯一真の神様、主イエス様に相応しいのであり、届くのです。

信徒は、指導者たちや教師たちのために真剣に、一心不乱に祈るのであり、そして、指導者たちや教師たちは、信徒のために真剣に、一心不乱に祈るのであり、先日、学んだように、時に断食祈祷、徹夜祈祷を献げるのです。

ルカの福音書612節、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

この状況は断食と徹夜を示していますが、断食祈祷も徹夜祈祷も、祈りに集中するためであり、断食祈祷や徹夜祈祷が唯一真の神様、主イエス様に届く祈りなのではありません。

唯一真の神様、主イエス様を信頼し、委ねた祈りは唯一真の神様、主イエス様に届くのであり、唯一真の神様、主イエス様に委ねた以上、後は唯一真の神様、主イエス様の主権にお委ねするのです。

教会の強さの一つは、祈りと比例している事です。

しかし、祈りは長ければ長い程良い、と云うものではありません。

また、同じ言葉の繰り返し、くどいのも、問題でしょう。

マタイの福音書67節、「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

この後、主の祈りが続く訳ですが、忙しい現代ですから、長時間祈る事は難しい、だから祈れない、祈らない、ではなく、分割してでも祈るべきであり、何とか時間を確保して、祈りたいものです。

特に指導者たちや教師たちのための祈りは重要です。

信徒の霊的益と福音宣教の働きに直結しているからです。

ルカの福音書102節、「そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

指導者たちや教師たちのために熱心に祈る信徒、教会、指導者、教師を物心両面で強力に支える信徒、教会、そして、指導者たちや教師たちは、信徒のために熱心に祈る教会を目指して祈ろうではありませんか。

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                                       2023-11-26礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙13章20節から25節

説教題:「あなた方を整えてくださるお方」

【導入】

信仰生活の要は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事であると、繰り返し語ってまいりましたが、それは、自分の力、知恵や知識や経験、この世の人の知恵や知識や経験、物などに頼ってはならず、常に唯一真の神様、御子、主イエス様を信じ、信頼し、聴き従う、委ねる、と云う事です。

しかし、前回もお話しましたが、問題の最中にあっては、苦難、困難の渦中にあっては、試練の最中にあっては、病苦の渦中にあっては、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事は簡単な事ではありません。

問題に心を奪われ、苦難、困難に押し潰され、試練に翻弄され、病苦に打ちひしがれ、主イエス様から目を離し、主イエス様が見えなくなってしまい、主イエス様を見失ってしまい、この世的な対策に、知恵を駆使した、これしかないと思える妙案?に走り、見える人間に、有限な人間に、頼ってしまうのではないでしょうか。

その結果は、問題を更に大きくし、苦難、困難をより複雑にし、試練を長引かせ、病苦を耐え難いものとしてしまうのではないでしょうか。

この世の策に、人間の知恵や妙案?に走ってはならず、人間に頼り、縋ってはなりませんと、言うのは容易な事ですが、実践するのは、中々に難しい事です。

そこで、主イエス様は、普段の生活の中で、簡単な問題、小さな苦難、困難、軽い試練、病苦を与え、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、聴き従う、委ねる訓練を与え、より難しい問題、大きな苦難、困難、重い試練、病苦に負けないように、乗り越えられるように備えくださるのです。

【本論】

新改訳2017 13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、

20節は、「頌栄」の宣言であり、御子、主イエス様が、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主」であり、唯一真の神様の本質が、「平和の神」である事を宣言するものです。

唯一真の神様は、正義の神であり、不正や策略、嘘や誤魔化しを憎み、えこ贔屓や忖度なく、正しく裁く神であり、正しき者にも、悪しき者にも、其々に相応しい報いを与えられる、と云う非常に厳しい面をお持ちですが、唯一真の神様の本質は、「平和の神」であり、愛に富んだお方であり、被造物と、被造物の頂点に立つ人間との平和、和解、交わりを強く望んでおられるのです。

そして、罪にまみれた人間ために、罪の世を彷徨う「」のような人間のために、御子、主イエス様をこの世に送り、十字架に付け、主イエス様が流された「血によって」人間の罪を贖い、罪を赦す、と云う契約を立てられ、主イエス様が流された「血によって」、この契約を「永遠の契約」としてくださったのです。

そして、主イエス様を「死者の中から導き出され」、即ち、甦らされ、「私たちの主」としてくださったのです。

13:21 あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。

あなたがたを整え」を、新改訳聖書第三版は「完全なものとする」、と訳し、新共同訳聖書、口語訳聖書は「備えて」、と訳していますが、この言葉は、「壊れたものを修理する、失われたものを回復する」の意味のギリシャ語です。

自己中心な、自分勝手な、自由気ままな生き方をし、与えられた力、知恵、能力を自分の思い通りに使い、この世や他人との調和など、考えもしなかった者が、誤りが正され、壊れたところが修復され、欠けたところが補われ、調和ある者とされるように、祈られ、助け、導き、守られるのです。

整え」られる目的は、良い人になる事ではなく、有益な人になる事でもなく、唯一真の神様との壊れた関係が修復され、交わりが再開させられる事です。

そんな大切な、重要な、誰にも出来ないお働きをなさるのが「イエス・キリスト」なのです。

そこで、「栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように」との頌栄を宣言するのです。

13:22 兄弟たちよ、あなたがたにお願いします。このような勧めのことばを耐え忍んでください。私は手短に書いたのです。

勧めのことば」とは、このヘブル人への手紙の事であり、著者は、手紙と言うよりは、奨励、説教を強く意識して、この書を書いたと思われます。

耐え忍んでください」を、新共同訳聖書は「受け入れてください」、口語訳聖書は「受け入れてほしい」、新改訳聖書第三版は「受けてください」と訳しています。

受け入れ難い内容があり、書き言葉なので分かり難い内容もあったのでしょうが、「耐え忍んで」最後まで読んでください、読んだ内容を「受け入れてください、受け入れてほしい、受けてください」と懇願するのです。

大切な内容であり、信仰に大きく益するからです。

私は手短に書いた」とありますが、13章に亘る長文ですから決して短くはありません。

きっと、是非に伝えたい事を、厳選して書いたのでしょうが、それでもこんな分量になってしまったのであり、ヘブル人への手紙の著者の熱意が伝わる箇所です。

読み直す度に、修正したり、加筆したり、削除しなければならないところがあるのが、奨励であり、説教です。

13:23 私たちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼と一緒にあなたがたに会えるでしょう。

この「私たちの兄弟テモテ」は、伝統的に「テモテへの手紙」の受取人のテモテであると考えられています。

テモテが釈放された」と言う事は、テモテが投獄、拘束されていたという事ですが、状況、詳細は不明です。

パウロがローマで監禁されていた時には、パウロと共にいたので、その時の状況の事なのかも知れません。

ヘブル人への手紙の著者は、テモテが来るのを待ち、テモテと共にヘブル人への手紙の宛先である教会を訪れようとの計画を立てていたようですが、当時の道事情、旅の困難さ、治安などを考える時、現実にはならなくても、ヘブル人への手紙の読者にとって、大きな励まし、喜び、希望となった事でしょう。

13:24あなたがたのすべての指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく。イタリアから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。

先に学んだ通り、「指導者」や、また「聖徒」は、所属する教会は別でも、働きの場は別でも、同じ唯一真の神様、主イエス様に仕える者たちであり、同じ唯一真の神様、主イエス様を信じる者たちであり、唯一真の神様、主イエス様に繋がる同士、仲間であり、このヘブル人への手紙のみならず、書簡は、お互いの間で、多くの教会や信徒に伝えられ、回覧される事が期待されているのです。

指導者」、働き人の少なかった時代、情報伝達手段が限られていた時代、書簡は大切な学びのツールであり、共通理解のツールであり、信者を繋ぐツールであったのであり、書簡の重要性は、現代とは比較にならない重要なものだったのです。

13:25 恵みがあなたがたすべてとともにありますように。

最後に簡易的、簡潔な祝祷で締め括られます。

簡易的、簡潔ではありますが、また、形通りの文言ではありますが、この一行に、著者の、読者に対する万感の思いが込められており、著者と読者の間に、深い、暖かい交流があった事を窺い知る事が出来るのではないでしょうか。

祝祷は長ければ長い程良い、と云うものではなく、くどいのも問題でしょう。

表現の仕方、表情、態度などは人それぞれです。

表現、表情が豊かな人もいれば、さほどでもない人、冷たい印象の人もいます。

上辺だけの人もいれば、心からの人もいます。

祈りにも共通しますが、祝祷の祈りも、唯一真の神様、主イエス様に対するものであり、簡潔に、威厳をもって、明瞭に宣言するのが、祝祷の真髄でしょう。

【適応】

あなたがたを整え」てくださるのは、この世の知恵や知識、経験ではありません。

教会に立てられた指導者でもなく、信仰生活の長い信徒でもありません。

勿論、助けにはなり、聖書の学びなども有益ではありますが、「あなたがたを整え」てくださるのは、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエス」です。

主イエス様の力、贖いによって唯一真の神様との、壊れていた関係が修復し、断たれていた繋がりが回復し、交わりが再開するのです。

この働きが出来るのは、主イエス様だけです。

教会に立てられた指導者や説教、聖書の学びやデボーション、聖書通読などは、自分が完全な者ではない事を、壊れた者である事を、失われた者である事を、そして、自己中心な、自分勝手な、自由気ままな生き方をし、与えられた力、知恵、能力を自分の思い通りに使い、この世や他人との調和など、考えもしなかった者である事を自覚させるものです。

そして、自分の努力や忍耐、修行や鍛錬などでは、完全な者となる事も、修理された者となる事も、回復させる事も出来ないのであり、自己中心な、自分勝手な、自由気ままな生き方から離れる事も、与えられた力、知恵、能力を主イエス様の御旨、願い通りに使う事も、この世や他人との調和を優先させる生き方も出来はしないのです。

それを可能ならしめるのは、主イエス様のみであり、「あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいます」。

しかし、「整え」られる事は、簡単な事ではありません。

自分を殺さなければならず、自我に死ななければならないからです。

自我を殺す事は、至難の業です。

しかし、自我を押さえる事は出来るのであり、自我の座を明け渡し、主イエス様、聖霊様に座って頂くとき、

みこころを行」う者とされるのです。

私たちの心の王座に、主イエス様にお座り頂き、私たちを「整え」て頂き、「みこころを行」う者とされようではありませんか。

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