2023-12-3礼拝

聖書箇所:イザヤ書9章1節から7節

説教題:「救い主誕生の預言

【導入】

アドベント、おめでとうございます。

主イエス様のご降誕を記念して、共に礼拝を献げられる事を感謝し、主の御名を讃美致します。

「クリスマス」と言うのは「キリスト」と「ミサ」の合成語であり、「キリスト」は言わずもがな、主イエス様の事であり、「ミサ」と言うのは、礼拝の事です。

ですから、クリスマスイブ、そしてクリスマスは、主イエス様を礼拝するのが真の目的でなければなりません。

午後の祝会、愛餐会などは、おまけであり、プレゼントも、おまけであり、あっても良いけれども、無くてならないモノではありません。

主イエス様のお誕生をお祝いするクリスマスイブ、クリスマスですが、何故、主イエス様のお誕生がそんなにおめでたい事なのでしょうか。

それは主イエス様が神様でありながら、罪深い私たちのためにこの世に来てくださったからであり、一緒に居てくださったからなのです。

さて、皆様は死んだ後、どうなるかを考えた事があるでしょうか。

人間は「死んでお終い」ではありません。

死んだ後、全ての人は、神様の前に立たされて、その生涯に行なってきた事、喋った事について、申し開きをしなければなりません。

神様に背き、自分勝手な行ないをして来た者は、永遠に燃えつづける火の中に投げ込まれるのですが、神様に背き、自分勝手な行ないをしている者とは、他でもない私たち自身なのです。

この言葉を聴くと、大方の方は「そんなに悪い事をした覚えはないなぁ」と考えられると思いますが、本当に今まで、何一つ悪い事はして無い、相応しくない思いを抱いた事も無いと言い切れるでしょうか。

この事を考える前に、確認したい事があります。

天国にはどうしたら入れるか、です。

世の中の多くの仕組みは加点方式か、減点方式であり、宗教にも、その考え方が浸透しています。

何か良い事をすると1点2点と加算されて行き、何か悪い事をすると12点と減点されます。

ですから良いと言われる事を熱心に行なうのですが、自分が今、何点なのかは判りませんから、示されていませんから安心出来ません。

キリスト教のもとであるユダヤ教や、イスラム教も同じであり、律法を守る事に、非常に熱心であり、涙ぐましい努力をしていますが、これでOKと言う安心が得られる事はありません。

100点満点で天国に入れるのですが、この100点満点を「義」と言うのですが、天国は「義」である人しか入れないのです。

先ほど「自分はそんなに悪い事をした覚えはないなぁ」と考えられた方も、何点かは減点されそうな事をした覚えがある事を否定できないでしょう。

この減点を埋め合わせるにはどうしたらよいのでしょうか。

生贄、献げ物、良い行い・・・ets

でも、埋め合わせのタイミングを逃せば、天国には入れません。

加点方式でも、減点方式でも、安心出来る訳ではない、となれば夢も希望も無くなりますが、現代でも、イザヤの活躍した紀元前700年も、それは変らない様です。

イザヤと言う人物はユダヤ人です。

イザヤの活躍した時代の遥か前に、ユダヤは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂していました。

神様に背いて偶像礼拝をし、自分勝手な事をしてきた裁きなのですが、ユダヤ人は真の意味で悔い改める事をしませんでした。

その結果、北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅亡させられる事になります。

南ユダ王国も風前の灯火となり、貢を納めたり、ご機嫌伺いをしながら、辛うじて滅ぼされるのを免れてはいますが、滅びは確実。

神様は何人もの預言者を送って、悔い改めを迫るのですが、誰も神様の遣わした預言者の言葉に耳を傾ける事をせず、悔い改める事をせず、自分たちの知恵と力で滅びから免れ様としている。

即ち、良い行ないによって「義」を得ようと涙ぐましい努力をし、安心を得られず、ますます、規則を増やし、言い伝えを守る事に血眼になっている。

そんな状況の中で、イザヤは北イスラエル王国の滅亡と共に、希望である光、救い主の誕生を預言するのです。

【本論】

新改訳2017版 9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地と ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。

この預言が語られた時点で、北イスラエル王国は、アッシリア帝国から非常な脅威を受けてはいたでしょうが、まだ滅ぼされてはいません。

攻め込まれてもいませんでしたが、蹂躙され、民が捕囚となる事を預言しているのです。

ゼブルンの地」とは地中海に接し、シャロンの平野に接し、ナフタリの南西に位置している土地であり、「ナフタリの地」とはレバノンの麓から、ガリラヤ湖の北、北ヨルダンに及ぶ広大な地であり、北イスラエル王国を象徴する土地であり、アッシリア帝国から見たならば、「ゼブルンの地」「ナフタリの地」は、西の果てであり、非常に遠い土地であり、ここまでは攻めては来ないだろうとの安心や油断があった。

しかし、そんな予想を裏切る事が起こるのであり、攻め込まれ、滅ぼされ、支配され、捕囚の憂き目を味わう事になると、断定的な預言をするのです。

まだ起こってはいない事なのに、既に起こった事のように過去形を使用して、確信的表現法でもって、明確に預言をします。

しかし、この屈辱も、支配も、永遠に続く事ではなく、終わりが来るのであり、回復がある事を、これも、まだ起こってはいない事なのに、既に起こった事のように過去形を使用して、確信的表現法でもって、明確に預言をします。

海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤ」は、「ドル、ギルアデ、メギド」と考えられ、ゼブルンの南に点在する都市、地域であり、アッシリア帝国直轄の地域となり、ゼブルン、ナフタリの住民は、この3つの都市、地域に移住させられます。

屈辱と塗炭の苦しみを味わい、夢も希望もない日々を送る事を確定的に預言しますが、同時に、「栄誉を受ける」事になる事も、確定的に預言します。

9:2 闇の中を歩んでいた民は 大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が輝く。

闇の中」「死の陰の地」との表現は、アッシリア帝国に占領された後の、悲惨な状況を現しています。

アッシリア帝国のティグラテ・ピレセル王の冷酷さ、無慈悲な支配、泣く子も黙る恐ろしさはゼブルンの地、ナフタリの地にも伝わっていたのでしょう。

これが、杞憂ではなく、確実にやって来ると、イザヤは確定的に預言するのですが、しかし、同時に「光が輝いた」のであり、更には、

9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。

この「増し加えられた」「喜んだ」は完了形で表現されており、確信の強さをイザヤは語ります。

イザヤの見た幻は、ぼんやりとしたモノではなく、希望的予想でもなく、はっきりと見たのであり、見間違いようのない確実な事である事を表現しているのです。

4節、5節、6節の先頭には「キー」と言う接続詞、多くは「何故ならば、~なので」と訳される接続詞があり、4節、5節、6節が、3節に繋がっている事、3節の「喜ぶ」の説明、理由である事を読者に教えています。

何故喜んだのか。何故ならば、

9:4 あなたが、彼が負うくびきと 肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように 打ち砕かれるからだ。

9:5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。

神様が、アッシリア帝国の支配から開放してくださるのであり、ティグラテ・ピレセルの圧制が取り除かれるのは、ティグラテ・ピレセルの温情、恩赦でもなければ、アッシリア帝国の崩壊でもなく、神様の業である事を示し、告白しているのです。

ミディアンの日」とは、ユダヤ人ならば、誰もが思い描く事の出来る史実であり、士師記7章に記されている史実です。

要約するならば、若いギデオンが32000人の内から、300人を選び、ミディアンの兵士135000人を撃破した日の事です。

ギデオンの選んだ300人は、一騎当千の強者ではありません。

寄せ集めの、素人集団であり、壷を割り、松明(たいまつ)を掲げ、雄叫びを挙げただけです。

ギデオンに、人間の知恵と力に頼ってはならない事を教え、神様のことばを信じるなら、神様の力により頼むなら、勝利を得る事が出来る事を教えられました。

支配、圧制からの開放と言うものは、神様の業であり、悪しき支配者、圧制者への裁きもまた、神様の業であり、神様の裁きの器として用いられたアッシリアも、ティグラテ・ピレセルも、分を弁えず、過酷な支配、圧制を強いるなら、神様の裁きがある事を教える逸話です。

ここまでは、偶像礼拝の結果、虐げを受ける事の預言と、神様の憐れみによって、支配と圧制から回復する事の預言です。

これはこれで、素晴らしい事なのですが、ここで終わらないのが、ここに留まらないのが、神様の恵みの大きさ、神様の素晴らしさです。

9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

生まれる」「与えられる」「肩にあり」「呼ばれる」は将来起こる事を預言する言葉として読めますが、全て完了形が使われており、「生まれた」「与えられた」「肩にあった」「呼ばれた」であり、確実性を示すと同時に、神様の主権で行なわれる事、神様のご計画である事を暗示します。

5節までに述べた、闇から光へ移される事は、争いから平和へ招き入れられる事は、神様の一方的な働きであり、それが「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」によって、もたらされるとイザヤは断言するのです。

「名は、体を現す」と申しますが、「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」の特筆すべき特徴が語られます。

不思議な助言者」を、新共同訳聖書は「驚くべき指導者」と訳し、口語訳聖書は「霊妙なる議士」と訳します。

どんなに優秀な王様、有能な主権者でも、助言者、参謀が必要であり、助言をし、苦言を呈し、正しい政治が行なわれるようにするブレーンが必要です。

しかし、「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」は優秀な王様であり、有能な主権者であり、一切の助言者、参謀を必要とはしませんが、ご自身が優秀な助言者、有能な参謀でもあり、ご自身で自身をサポート出来るし、助けを必要とする者に、即ち、私たち罪人に、最適なサポートをする事が出来るお方だ、と宣言するのです。

力ある神」は、「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」が神である事を宣言しますが、

「神」を現す単語、言葉は幾つかあります。

「ヤァウェ」「アドーナーイ」「エローヒーム」などであり、其々「」「主、神、主人」「神」などと訳出しますが、ここでは「エール」であり、「イスラエル」「サムエル」「ダニエル」などの「エル」に該当し、一般的な「エローヒームの神」ではなく、「エールの神」である事を宣言します。

八百万の神を、「神」の一言で纏めてしまう文化の日本では区別し難い概念ですが、ユダヤ人には、歴然とした明確な違いがあり、細心の注意を払って、使い分けています。

永遠の父」の「永遠」は、時間の無限の延長を指し、歴史を超え、終末をも含み込む、父権の永続性を宣言します。

平和の君」の「平和」は「シャローム」であり、単に争いがない状態に限定せず、健康、平安、健全、安全、欠けるところのない十全性を示しています。

現代風に言い替えるならば、健康的で、人権が守られ、搾取されず、差別されず、個が尊重される状態と言えるでしょう。

その「平和」を成立させるのが「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」だと言うのです。

ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」がこの世に来られると、神様と人との間に「平和、シャローム」が成立します。

すると、人と人との間に「平和、シャローム」が成立し、人を恐れる必要がなくなり、人と人との間に争い、競争、戦い、主権争いがなくなります。

個々人の生活に「平和、シャローム」が成立し、個人の内に、妬(ねた)み、恨(うら)みがなくなり、自己を肯定的に見る事が出来、これで良いんだ、このままで良いんだ、誰とも比べなくて良いんだ、と自分を受け入れる事になります。

現実を見たならば、その延長線上に、このような平和を描く事は難しい事であり、人間の努力での実現は難しい事ですが、神様が「平和、シャローム」をもたらし、神様のイニシチアブで、同時進行的に人と人との間に、個々人の内に「平和、シャローム」が浸透して行くのです。

9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

熱心」は通常「妬(ねた)み」と訳されますが、人間に対する関心の現れの最上級、最強調の表現と理解すると良いでしょう。

決して、人間的な、どろどろした、陰湿な妬みを連想してはなりません。

そんな感情は、神様に相応しくありませんし、神様がそんな感情を持たれる事はありません。

神様は「妬」む程に、人間を愛し、愛しんでおられるのであり、恋焦がれている、と言っても良いのかも知れません。

「熱心」の反対は「無関心」でしょうが、人間がどんなに堕落しても、偶像に走っても、争いが絶えなくても、無関心ではいられないのであり、滅びて行くのを眺めてはいられないのであり、関心を持たずには、手を差し伸べずにはいられないのです。

何とかして救おうと手立てを考え、歴史の出来事を通して、神様の存在を知らせ、神様が人間に関心を持っており、関わり続けている事を知らせ続けているのであり、イザヤを通して、現代の私たちにも教えて下さっているのです。

【適応】

イザヤはリアルな幻を目撃し、それを記録し、私たちはイザヤの証言によって、神様のご計画の全貌を知る事が出来ました。

神様が私たち人間に関心を持ち、主イエス様をこの世に送り、直接関わってくださったのです。

平和が実現し、希望に溢れる世界が到来した…はずですが、しかし、私たちの廻りを見回せば、イザヤの時代のように、近隣諸国との緊張は高まり、領土問題に進展の気配はなく、解決の糸口さえも見えないような状態であり、富みや権力は一極化し、貧富は極端な偏りを見せ、格差は広がり、世界中でテロや紛争が起こり、絶え間のない争いが続いて、民衆の間には絶望、閉塞感が蔓延している。

私たち自身を見ても、雇用問題も、老後の問題も、社会保障も、お寒い限りであり、大人の閉塞感が、子どもに影響し、暗い陰を落としている、将来に不安は山済みであり、希望を持てない社会ですが、神の御子、主イエス様が来られた事で、大きく変わりました。

神様が、この世をご覧になり、心を痛め、この世を憐れまれ、大切な御子をこの世に送られたのです。

イザヤが見た幻が実現した世界に、私たちは生かされているのです。

現実に、苦しみはなくならず、闇は取り除かれず、辱めも取り除かれず、死も打ち破られてはいませんが、神様に見捨てられてはいないのです、神様が大きな関心を持ち続けておられるのです。

凡そ2700年前に、イザヤが見た幻は、凡そ2000年前に現実となり、主イエス様が来られ、幻の一部が実現しました。

更に、将来、主イエス様が再臨され、完全な神の国の到来と、主イエス様が支配される世界の様子をイザヤに見せたのであり、イザヤは証言し、私たちに伝えているのです。

一度、光りが来られ、天に昇られましたが、神の国の完成が頓挫したのでも、延期されたのでもありません。

主イエス様が来られた事で、神の国は、私たちの内に造られたのであり、委ねられたのであり、そして、今、刻一刻と、主イエス様、再臨の日が近づき、神の国の完成が近づいているのです。

再び、光が来、光が留まり、光に満たされ、光に包まれる日が来るのです。

その日は、遠くありません。

ここに居られる皆様は、神の国を内に宿す器とされているのですから、イザヤが困難や苦しみの中でも、主イエス様の幻を見て確信し、喜んだように、私たちも、困難や苦しみの中でも、聖書に記された、再臨を確信して喜び、主イエス様の再臨を待ち望み、神様を誉め称え、与えられた使命に取り組み、平安と慰めを世に届ける者、救いの私信を届ける者として歩もうではありませんか。

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聖書箇所:マタイの福音書1章1節から17節

説教題:「救い主の系図」

【導入】

聖書には系図が出て来ます。

系図という物は、ユダヤ人に取って重要な物であり、特に祭司の系図は重要視されて来ました。

それは、神様に仕える働きが特別な働きであり、アロンの子孫にしか許されてはいない特殊な働きだったからです。

また、パレスチナはイスラエル人に分割されていますが、土地は神様からイスラエル12部族に委ねられている物であるため、12部族の系図に載っている事が重要であったからでもあるのです。

新約聖書ではマタイの福音書とルカの福音書にイエス・キリストの系図が出て来ます。

旧約聖書にも多くの系図が出て来ますが、その特徴はルカによる福音書と同じく、男性中心である、と言う事です。

つい最近まで、ほとんどの世界は男性を中心としていました。ユダヤ社会も例外ではありません。

そのユダヤ人男性中心社会の中で、ユダヤ人を読み手として書かれたとされる、マタイの福音書のイエス・キリストの系図に、4人の女性が登場すると言う事は特異な事なのです。

しかも、登場する女性はちょっとした、いや、かなり大きな問題を抱えた女性たちなのです。

今日は、聖書に登場し、しかも重要な位置を占める4人の女性から、神様が何を私たちに伝えたいのかを学びたいと思います。

【本論】

1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、

1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、

最初に登場するのが、3節に出て来るタマルです。

タマルは創世記38章で登場します。

アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブには12人の息子があり、その一人であるユダには三人の息子がありました。

エルとオナンとシェラです。

この長男エルに迎えた嫁がタマルなのですが、エルは何をしたのかは判りませんが、神様を怒らせたので、エルは神様に殺されてしまいます。

ユダヤ社会では子ども、子どもと言っても男性社会ですから「男の子」の事ですが、「男の子」を残さないで死ぬと、神様から委ねられた土地を管理する者が絶える事を意味しますので、弟たちは長男の名前と血筋を残す為に兄嫁と結婚しなければなりませんでした。

これを、「レビラート婚」と言いモーセの律法の一節にある教えです。申命記255節から10節に記されています。

25:5 兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。

25:6 そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

ユダヤ人に与えられた命令ですが、どうしても従いたくない時には、逃れの手段もあるのですが、それは屈辱的な決まりであり、それを甘んじて受けなければなりませんでした。

25:7 しかし、もしその人が自分の兄弟の妻を妻としたくないなら、その兄弟の妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」

25:8 町の長老たちは彼を呼び寄せ、話さなければならない。もし彼が「私は彼女を妻としたくない」と言い張るなら、

25:9 彼の兄弟の妻は、長老たちの目の前で彼に近寄り、その足から履き物を脱がせ、その顔に唾して、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を建てない男はこのようにされる。」

25:10 彼の名はイスラエルの中で、「履き物を脱がされた者の家」と呼ばれる。

次男のオナンはこの「レビラート婚」の教えに従わず、兄嫁と形だけは結婚しましたが、夫婦の務めを間違った形で否定した為、神様の怒りを引き起こし、結果、次男のオナンも神様に殺されてしまいます。

大切な跡取り息子を二人も殺されてしまったユダは、三男のシェラまで殺されてはたまらないと考え、シェラが幼いのを幸いに、シェラが成人するまでと、言い含めて、嫁のタマルを実家に帰してしまいます。

月日が流れ、シェラは成長し、結婚する年齢に達しても、一向にタマルをシェラの嫁に迎える気配がない事を知ったタマルは一計を案じて、遊女の身なりをして、ユダを誘惑して、ユダの子を身ごもる事になるのです。

詳しい事は創世記の38章を読んで頂きたいのですが、このユダと、義理の娘タマルとが関係を持って生まれた子どもが、ペレツとゼラフであり、イエス・キリストの系図に記録されている訳なのです。

1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、

1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、

次ぎに出て来るのが、5節で登場するラハブとルツです。

ラハブはヨシュア記2章で登場します。

エリコに住むカナン人、言い方を変えると異邦人であり、神様の命令によって滅ぼさなければならない民でした。

しかも、その職業は売春婦であり、神様の忌み嫌う職業であったのすが、ヨシュアのエリコ攻略を助けて、交換条件で自分たち一族の命を助けてもらい、ユダヤ人の中に住む事を許されました。

そして、ユダヤ人の社会に加わり、ユダヤ人と結婚してボアズを生む事になります。

このボアズはルツ記に出て来る、あのボアズです。

そして、5節のルツはこのルツ記の主人公ルツなのです。

ルツはモアブ人であると、ルツ記に記されていますが、このモアブ人と言うのがまた曰くのある民なのです。

モアブ人が登場するのは創世記1937節です。

19:31 姉は妹に言った。「父は年をとっています。この地には、私たちのところに、世のしきたりにしたがって来てくれる男の人などいません。

19:32 さあ、父にお酒を飲ませ、一緒に寝て、父によって子孫を残しましょう。」

19:33 その夜、娘たちは父親に酒を飲ませ、姉が入って行き、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。

19:34 その翌日、姉は妹に言った。「ご覧なさい。私は昨夜、父と寝ました。今夜も父にお酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、一緒に寝なさい。そうして、私たちは父によって子孫を残しましょう。」

19:35 その夜も、娘たちは父親に酒を飲ませ、妹が行って、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。

19:36 こうして、ロトの二人の娘は父親によって身ごもった。

19:37 姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。

19:38 妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアンモン人の先祖である。

モアブと言うのは、アブラハムの甥のロトと、ロトの実の娘との間に生まれた子どもなのです。

更に、申命記233節には「アンモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に加わることはできない。」と規定されています。このモアブ人の子孫がルツであり、このルツが、イエス・キリストの系図に記録されているのです。

最後が6節に登場するウリヤの妻です。

1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、

1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、

と、イエス様がダビデの子孫としてお生まれになった事が綴られます。

ウリヤの妻と言ってもピンと来ないかも知れませんが、バテ・シェバと言えば、ああ、と思い出されるでしょう。

第二サムエル11章に登場します。

11:1 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエル全軍を送った。彼らはアモン人を打ち負かし、ラバを包囲した。しかし、ダビデはエルサレムにとどまっていた。

11:2 ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

11:3 ダビデは人を送ってその女について調べさせたところ、「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです」との報告を受けた。

11:4 ダビデは使いの者を送って、その女を召し入れた。彼女が彼のところに来たので、彼は彼女と寝た。・・彼女は月のものの汚れから身を聖別していた・・それから彼女は自分の家へ帰った。

11:5 女はみごもった。それで彼女はダビデに人を送って告げた。「私は子を宿しました。」

ダビデはバテ・シェバを見初め、人妻と知らされたのに、敢えて召し入れてしまいます。

妊娠した事が判ると、計略を持って、夫のウリヤを殺してしまいます。

11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、それをウリヤに託して送った。

11:15 彼は、その手紙に次のように書いた。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

言い訳し様の無い、姦淫と、計画的殺人が行われたのです。

普通考えるならば、由緒正しい、清廉潔白な家系図を残したいところです。

それなのに、義理の娘との近親相姦。異邦人の売春婦との結婚。

本当の親子の間での、近親相姦で生まれた子孫との結婚。

そして、人妻との姦淫によって産まれた子孫である、と記されているのです。

儒教の影響を強く受けている韓国や日本で無くとも、忌まわしい系図と言えるでしょう。

日本では家系図は重要視されていませんが、韓国では結婚を前提としたお付き合いが始ると、まず、双方の家系図を確認し、親戚関係にない事を確認するそうですから、この辺の感覚は、韓国の方のほうが良く理解出来るのではないでしょうか。

非の打ち所のない系図を残し、伝えたい、と思うのが人情なのではないでしょうか。

ましてや救い主の系図なのですから。

それなのに、神の御子イエス・キリストの系図に、これらの忌まわしいとも言える歴史が記されているのです。

【適応】

4人の女性の名前は、神の御子イエス・キリストの系図には相応しくない、とも言えますが、この系図は、私たち罪人の人生の縮図とも言え、私たち罪人にこそ相応しい系図と言えるのではないでしょうか。

誇れない生い立ち、隠しておきたい過去。比べて神の子を紹介する系図に、忌まわしい歴史と過去が記されている。その意味は何でしょうか。

聖い神の御子が、汚れに満ちた、忌まわしい家系に生まれて下さったのは、救い主が、純粋なユダヤ人だけでなく、罪人にも異邦人にも、即ち、罪に汚れた私たちの中に入って下さった事、関りを持って下さった事を現しています。

この系図は私たちに希望と慰めを与えてくれます。

神様はアブラハムとの契約で、アブラハムを世界の祝福の基とされました。

「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言う約束です。

この契約がアブラハムの純粋で正統な血統、正しく生きて来た者だけに適用されるのでしたら、私たちに祝福が及ぶ余地はなかったでしょう。

しかし、イエス・キリストの系図はアブラハムの子孫のみならず、罪人、異邦人をその系図の中に取り込んで、罪人、異邦人に祝福を与える事を示しているのです。

聖霊によって処女(おとめ)マリアからお生まれになった神の御子が、ユダヤ人のみならず、罪人、異邦人を招き入れた事を明確に現しているのです。

系図と訳されている言葉は、ギリシャ語で「 Bivblo" genevsew" ビブロス・ゲネセオース」と言い、「創造の経緯・記録」を意味する言葉です。

「ゲネセオース(属格)」の主格は「ゲネシス」で、創世記のタイトルになっています。

つまり、マタイの福音書の書き出しは、創造の経緯を現す事から始っており、イエス・キリストの誕生は、天と地の創造に匹敵する、新しい創造である事を物語っているのです。

イエス・キリストの誕生は、新しい創造、新しい歴史の始まりなのです。

罪と汚れの歴史の中に、神様のご介入があって、罪と汚れの問題を解決した新しい歴史が始ったのです。

イエス・キリストによって新しい世界が始まりました。

イエス様は、ヨハネ1930節に記されているように「完了した。」と言われて、霊をお渡しになったのですが、イエス・キリストの死によって、神様のご計画は完了・完成したのです。

神様のご計画はイエス・キリストの死によって私たちの罪を赦すというものです。

ですから、罪を赦された私たちは、罪も汚れもない新しい世界に入れられているのです。

現実を見渡すと、相変わらず罪も犯してしまうし、とても聖い生活とは言えません。

悪が蔓延り、神の国はどこにあるのかと考えざるを得ません。

しかし、イエス様は「『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」と、ルカの福音書1721節で教えておられます。

神の国は私たちのただ中にある、と言うのです。

神の国はこことか、あそこなどと限定されるものではありません。

神の御心が行なわれているところが神の国なのです。

イエス様は天に昇り、聖霊様を私たちの内に送って下さいました。私たちは聖霊の住む宮になっているのです。

そして私たちが神様の御心を行なう事が出来るように助けてくださるのです。

神の国は私たちの内にあって、私たちが神様の御心を行なって、神の国を実現して行くのです。

神様の「アブラハムによって地上のすべての民族を祝福する」と言うご計画は、どのような罪深い事が起っても、変更される事なく、イエス・キリストが誕生する事によって成就しました。

私たちに対する聖霊を送ると言う約束も、イエス様が天に昇られて、実現しました。

マタイの福音書の最後のことばは「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言うものですが、イエス様から聖霊を頂いた私たちは、いつもイエス様と共にいて、霊とまことをもって、父なる神を礼拝し続ける事が出来るのです。

イエス様のご降誕を待ち望んだのはユダヤ人の一部かも知れませんが、イエス様は全ての人の為に来られたのであり、神様は全ての人を救う為にイエス様をこの世に送られたのです。

救い主の系図は、異邦人、罪人が招かれ組み入れられている事の確証、保証を与える系図です。

私たちの名前が直接記されてはいませんが、タマルは、ラハブは、ルツは、ウリヤの妻は私たちの事であり、神様の救いのご計画に私たちも招かれ組み入れられている事を教えているのです。

どうぞ、この招きに応答して、神様の祝福を受け取って下さい。

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                                       2023-12-17礼拝

聖書箇所:ルカの福音書1章26節から38節

説教題:「選ばれたマリア」

【導入】

2023年も残す所2週間程になってまいりました。

教会ではクリスマス記念礼拝を迎えて蝋燭の3本目に火が灯りました。

蝋燭の火はか細くて薄暗く、頼りなくて今にも吹き消されそうですが、仄かな暖かさ、優しさを感じさせます。

蝋燭のようなか細い灯りでも、暗ければ暗いほど、闇に輝き、遠くからでも見る事が出来ます。道標となるのです。

蝋燭のような小さな火でも、紙に点火するには充分であり、森や家をも燃やす力を秘めているのです。

神様のこの世への関り方も、蝋燭の火に似ています。

太陽のように直視出来ない程にギラギラ輝いてもいませんし、近寄る物を焼き尽くす炎も出してはいませんが、見る目、聞く耳を持つ人には聖書の言葉は重要な道標になりますし、信仰を燃やす種火になるのです。

救いのご計画も、そのための働き人も、問答無用で強引に引き入れるのでもなければ、嫌がるのに無理矢理に押し付ける訳でもありません。

静寂の中で語りかけられ、納得しての応答を待たれるのです。

神様の救いのご計画は、ガリラヤの片田舎で、名も無い少女の上から始りました。

【本論】

1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。

その六か月目」と言うのは、ザカリヤ、エリサベツ老夫婦に子どもが授かり、成長してから大切な働きをする預言者となるとの告知がなされてからの事です。

ザカリヤの神殿での体験と、その体験を裏付けるエリサベツの迫り出して来たお腹は、人々の噂となった事でしょう。

ユダヤ人の間には、子どもが産まれるためには、父母がいる事は勿論ですが、聖霊の働きがなくては成らないと考えられていました。

聖書にはここ彼処に「神が胎を閉じられていた」と言う表現が記されていますが、妊娠には神様の力が必要不可欠である事を教えている記述であり、聖霊の介入があれば、不妊と言われていても妊娠するのであり、老夫婦にも赤ちゃんが与えられ得る事を教えています。

アブラハムとサラ然り、イサクとリベカ然り、ヤコブとラケル然りです。

その聖霊の働きを思い起こさせるのが、ザカリヤとエリサベツの妊娠であり、老夫婦の、不妊の女の妊娠は、神様がユダヤの民に関りを持ち続けられており、新しい動きの予兆、何かが起こり始めていると人々に知らせる働きとなっているのです。

思い返せばイスラエルが南北に分割され、北イスラエル王国も、南ユダ王国も滅亡し、エルサレムはローマ帝国に蹂躙されている中で、400年の沈黙は長すぎた、の観があります。

神様は我々を見捨てられた、もうユダヤ人と関っては下さらない。

そんな絶望を破って、神様が動き始めた事を、希望を持たせるのが、ザカリヤとエリサベツの朗報だったのです。

これらの前提があって、この前提がユダヤ人の間に広まる時間が必要なのであり、時が至って、「その六ヶ月目に」御使いガブリエルが登場するのです。

1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。

いいなずけ」。漢字にすると「許婚、許嫁」で、結婚を許した中、言いかえれば結婚の誓いを交わした事を現しますが、ユダヤ人の世界にあっては婚約であっても結婚と同等の「夫、或いは妻」と見なされ、責務が生じます。

もしも男性が亡くなれば、未亡人、寡婦になり、別の男性に嫁げば再婚の扱いになります。

婚約期間中に他の異性と関係を持てば姦淫罪が適応され、石打の刑に処せられ、殺されます。

好きあって婚約したのでしたら、結婚相手が死んでも、相手に対する誠意から、結婚せずに居て一生独身を通すとか、相手の籍に入って家族に仕えると言う事も考えられましょうが、そもそも、好きで夫婦になるのではなく、親同志の話し合いで夫婦縁組がなされるのが普通の時代ですから、結婚当日まで、顔を見た事もないのが、格別不思議な事ではない時代です。

それでも、ユダヤ社会では「夫婦」と見なされ、夫の家系で紹介される事になるのです。

「マリア」は「ミリヤム」のギリシャ語訛りであり、「高められた人、高貴」を意味します。

ユダヤ人の間では珍しい名前ではなく、聖書には多くの「マリア」が登場しますが、神様に選ばれた女性、高貴で尊い女性である事は間違いありません。

1:28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

おめでとう」と訳されているギリシャ語は「喜ぶ、ごきげんよう」の基本的意味があり、挨拶の言葉として「こんにちは、今晩は、平安に」等と訳し、時には「バンザイ」等とも訳していますが、ここでは、マリア一個人に向かって命令形で語りかけているので、単なる挨拶の言葉として訳すのではなく「おめでとう」と訳すのが相応しようです。

この「おめでとう」はラテン語で「アヴェ」と言います。

ですから「アヴェ・マリア」と言う歌曲は「おめでとうマリア」であり、何がおめでたいのかと言えば、「主があなたとともにおられる」からだと言うのです。

神様があなたと共に居る事が、どんなに大きな喜びであるかは、神様に見捨てられた経験を持たない人には解からないでしょう。

先にも話しましたが、ユダヤ人は国が南北に分裂してしまい、両国ともに滅ぼされ、救い主が現れるとの預言が語られてから400年も何も起こらず、預言も途絶えたままなのです。

400年も神様から何の音信もなければ、見捨てられたと確信するのは当然なのではないでしょうか。

メールを送っても、伝言を残しても、何の連絡もくれなければ、嫌われた、関係は終ったと考えるのが当然なのと同じではないでしょうか。

しかし、神様はユダヤ人を見捨ててはいなかったのです。

現実はローマ帝国に支配され、国の再興の兆しが全く無い状況でも、神様がともにおられる、と言う宣言は、神様臨在の宣言であり、これから何かが起こると言う期待を予感させる宣言であり、何にもまして、どんなにか喜ばしい宣言なのではないでしょうか。

1:29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

この時、マリアは14歳くらい、と考えられています。

何の前触れも無く、突然、御使いに声を掛けられる。

しかも、その宣言には、何かしらの使命がある事を予感させられる。

こんな重要な事を聞く備えなどして来なかった。

戸惑い、不安になるのは仕方がない事でしょう。

しかし、悪戯に困惑し、何時までもうろたえていたのではありません。

幼いながらに「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」と言うのです。

世の中は、理解出来る事だけが起こるのではありません。

多くの場合、何故、どうして、と言う事ばかりが、それこそ、立て続けに起こるのではないでしょうか。

泣きっ面に蜂、そんな辛い経験をされた方は、一人や二人ではないでしょう。

何故、私ばかりがこんな不幸な目に会うの…

出来事に目を奪われ、不幸を嘆くのも一つの生き方ですが、神様は何を知らせようとしておられるのだろうか、

神様は何をなさろうとしておられるのだろうか、私はどのように対応したら良いのだろうか、と考えるのも一つの生き方であり、それは非常に有益です。

勿論、答えが直ぐに見つかる訳でも、理由が知らされる訳でも、的確な対応が取れる訳でもありませんが、時に、ヒントや導きが与えられ、直接の答えでなくても、明確な肯きでなくても、神様の御手の中に扱われている、と言う平安、安心が与えられるのではないでしょうか。

或いは次ぎの試練の時に、的確な対応を取るための訓練、予行演習なのかも知れません。

考え込むマリアに、御使いは励ましとともに、重大な使命を与えられます。

1:30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。

1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。

1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

御使いガブリエルは幼いマリアに、優しく、要点のみを伝えます。

神様から与えられる「恵み」は健康であるとか、衣食住の充実であるとか、病気の治癒、平安、成功、信仰継承等の好ましい事だけではありません。

時には病気も、不安も、試練も、悲しみも、苦しみも、貧しさも、失敗も、恵みとなり得るのです。

病気の完治も恵みですが、長引く療養生活の中でしか味わえない、人の暖かさ、優しさ、そんな神様の恵みもあるのではないでしょうか。

不安や絶望の中でなければ、一つの小さな希望の火は見つける事が出来ません。

それが、人を元気付け、新たな力を与える恵みとなるのではないでしょうか。

マリアに与えられる恵みは、神の子を宿す、救い主を産む、その子はダビデの王位を継ぐ、世界を治め、永遠に続く、と言う大きな恵みであると同時に、婚約期間中に妊娠する事は、相手が婚約者であっても、両家の辱です。

ふしだらな女と罵られるでしょう。

婚約期間中に、父親が誰かも知れない子どもを宿すのですから、姦淫を犯した女と非難され、ユダヤの辱と罵倒されるでしょう。

弁解の余地も無く、石打に処せられるのは確実です。

しかし、それらの出来事の中でも「神様があなたとともにおられる」のであり、「神様の恵み」だと、御使いは言うのです。

1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

この「男の人を知りませんのに」と言う言い回しは、ユダヤ的な言い方であり、マリアは性的な罪、間違いを犯してはいないと宣言しているのです。

また同時に、あくまでも婚約の身であり、結婚の手続きを完了もしていないのに、あたかも子を宿しているかのような断定的な言いように、疑問と抗議を申し述べ、また、この状況を更に詳しく知ろうとの思いから出た質問なのです。

これは、不信仰ゆえの発言ではなく、少女の知識では扱い得ない問題ゆえの発言であり、謙虚に疑問を申し述べたのです。

1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。

1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊といわれていた人なのに、今はもう六か月です。

1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」

先に申し述べたように、ユダヤ人は父母と聖霊の働きによって妊娠すると考えていましたが、更に、御使いは聖霊の働きの優位性、主権性、絶対性を主張し、聖霊の働きがなければ妊娠しない事を、マリアに悟らせています。

更に発展させ、聖霊の働きのみで、つまり「神にとって不可能なことは何もありません」と、神様の働きのみで妊娠が決まる事を教えているのです。

聖書の逐語霊感説に立つ日本同盟基督教団は、マリアの処女降誕を信じ、そのように告白し、説教しますが、リベラルな教派は「イエスの誕生に関し、美しく詩的に表現したものであり、イエスには人間の父親がいて、聖霊は特別な仕方でその誕生に働いたのだ。」と理解、解釈します。

聖霊の働きを前面に出してはいますが、処女降誕とは見ていませんから、この考えを取り入れる訳には行きません。

私たちが立つのは「神にとって不可能なことは何もありません」であり、現在の医学、科学は、繰り返し再現させられる事しか扱えないのだ、と知らなければなりません。

一度限りの出来事に対しては医学も科学も無力であり、医学や科学で扱う分野ではないと知らなければなりません。

証明出来ないからあり得ない、のではなく、そのような問題は信仰で扱う分野であると知るべきです。

「世界の創造の経緯」は信仰で扱う分野であり、「世界の組成、構成、分類」は科学で扱う分野なのです。

宇宙があり、人類が生存しているのは事実です。

しかし、宇宙の創造と人間の創造は、信ずるしかないのです。

神様の言葉によって造られた、と。

神にとって不可能なことは何もありません」に立つなら、処女降誕も信じられるのであり、イエス様の復活も信じられるのです。

先にリベラルな教派の考えを紹介しましたが、その考えは処女降誕に留まらないのではないでしょうか。

処女降誕の否定は「神にとって不可能なことは何もありません」とは考えていない事の証明であり、聖書を字義通りには信じていない事の証明であり、世界、人類の創造も、イエス様の復活も、科学的、医学的に理屈をつけて、適当な所で折り合いを付けているだけなのではないでしょうか。

理解出来ない、証明出来ないから事実ではない…だから合理的な説明に置きかえる…ではなく、神様は人間に理解出来ない不思議な事をなされる、証明出来ない事だからこそ、神様が関っておられると、理解するのがプロテスタント教会の信徒の立ち位置なのです。

1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

はしため」は奴隷を現すギリシャ語の女性形の和訳です。

ですから直訳は「女奴隷」となるでしょう。

奴隷は主人の財産であり、生かすも殺すも主人の意のままです。

理解出来ない事でも、賛同出来ない事でも、絶対嫌でも、主人の命令ならば従う以外の選択肢はありません。

しかも、今、直ぐに、です。

不思議な事であり、身に危険が及ぶ事ですが、マリアは、「神にとって不可能なことは何もありません」の信仰に立つからこそ言い得たのであり、ふしだらな女だと評価されようとも、姦淫の女として処分されようとも、神様がご存知であり、神様がともにいて下さるのだから神様に委ねる、との確信から出た言葉なのです。

【適応】

処女降誕の教理に付いて確認しておきましょう。

処女降誕は、ユダヤ人の男系思想に対するチャレンジと、救いの普遍性に不可欠な要素である、と言う事です。

先ず、ユダヤ人の男系思想に対するチャレンジですが、

一般的にはユダヤ人男性は、ユダヤ人女性と結婚しますが、

聖書に記載されている系図には、異邦人の女性の名が記されています。

それはユダヤ人に取っては好ましい事ではありませんが、男系の血筋を重要視する事、別の言い方をするなら男尊女卑の思想が根底にあるので、何とか受け入れられているのです。

ユダヤ人と呼べるのは、ユダヤ人男性の子でなければならず、ユダヤ人女性が、他民族と結婚し、子を産んでも、その子はユダヤ人とは認められないのです。

マリアに当て嵌めるなら、マリアがユダヤ人であっても、マリアの子だからと言ってユダヤ人とは認められないと言う事です。

ユダヤ人はユダヤ人のみを重要視し、非常に排他的です。

これは、救い主に付いても然りであり、ユダヤ人の救い主は、ユダヤ人から起こされる、と言う事であり、同時に、他民族の救い主とはなり得ない、との考えでもあるのです。

ですから、マリアがユダヤ人ヨセフの妻であると言う既成事実が重要になって来るのです。

次ぎに、救いの普遍性に必要不可欠の要素だ、と言う事に付いてですが、神様はどの民族の処女からでも、救い主を生まれさせる事がお出来になりますが、処女なら誰でも良い訳ではないのです。

聖書に記されているようにユダヤ人から生まれさせると、ご計画されたのです。

処女降誕は、ユダヤの家系のヨセフの妻となったマリアが、聖霊によって身篭る事によってのみ、救いの計画の成就となり得るのです。

ユダヤ人ヨセフの妻から産まれる事によって、ユダヤ人の家系に組み入れられ、ユダヤ人の子と呼ばれつつ、男性によって身篭らない事によって、特定の民族に帰属する事なく、即ち、ユダヤ人ヨセフによって身篭らない事によって、ユダヤ人の救いに限定される事がなくなり、聖霊によって身篭る事によって、神様が創られたすべてのものの普遍的な救い主となるのです。

この壮大且つ完全な救いの計画の全貌をマリアは知る事はなかったでしょうが、「主があなたとともにおられます」「あなたは神から恵みを受けたのです」と言う御使いの言葉を信じて、「神にとって不可能なことは何もありません」「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と告白したのです。

ここにおられる皆様には、其々に与えられた賜物に従って、使命が与えられています。

その使命を遂行するには困難や迫害、不利益を被る事があるでしょう。

尻込みをしたくなるのは当然です。

しかし、「主があなたとともにおられます」「あなたは神から恵みを受けたのです」と言う聖書の言葉を信じて、神様にお仕えしていこうではありませんか。

神様の救いのご計画は、神様に愛されている者、哀れみを注がれている者に託されています。

主があなたとともにおられます」「あなたは神から恵みを受けたのです」の「あなた」のところにあなたの名前を入れて読んで下さい。

クリスマスは、救い主の誕生を祝うだけの日ではなく、神様から離れた生き方をして来たユダヤ人に、神様との交わりの回復が確認された日でもあります。

そして、異邦人も神様との豊かな交わりに加えられた事を祝う日でもあるのです。

ここにおられる皆様が、神様との豊かな交わりに生きられますように。

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                                       2023-12-24クリスマス

聖書箇所:創世記18章9節から15節、ルカの福音書2章22節から38節

説教題:「主を待ち望む信仰」

説教者:結城晋次牧師 (日本同盟基督教団 引退教師)

説教は非掲載です。

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                                       2023-12-31礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二 1章1節から7節

説教題:「神の教会」

【導入】

2023年も今日で終わり、明日からは2024年になります。

読売新聞オンラインによれば、日本の10大ニュースの第一位は、WBCワールド・ベースボール・クラッシック14年ぶり優勝、第二位は、大谷メジャー本塁打王、第三位は、ジャニーズ性加害問題、だそうです。

世界の10大ニュースの第一位は、イスラエル・ガザ侵攻、第二位は、トルコ・シリア地震、第三位は、ハワイ大規模山火事、だそうです。

第四位以下を見ても、深刻なニュースが多いようで、自然災害の類はどうしようもありませんが、出来る備えと支援は積極的に行なって行きたいものですし、戦争、争いの類は話し合いで、譲歩で、解決、和解の道を選び、進んで行ってもらいたいものです。

古今東西、問題は山積であり、簡単には解決しない問題ばかりかもしれませんし、解決には痛みを伴う問題も多々ある事でしょう。

解決を急ぎ過ぎる時、思わぬ問題を引き起こしてしまいかねません。

急いで解決しなければならない問題と、差程でもない問題との優先度を取り違えてはなりません。

問題の棚上げも、知恵の一つであり、話し合いが相互理解の助けになり、結束を強め、思わぬ効果をもたらす事もあるのです。

パウロが活躍した時代、否、現代でも、教会には様々な問題があります。

その意味で、完全な教会、麗しい教会、教会と呼ぶに相応しい教会は少ない、否、無いかも知れません。

しかし、問題のある教会も教会であり、唯一真の神様、主イエス様の愛される教会なのです。

【本論】

新改訳2017 1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカイア全土にいるすべての聖徒たちへ。

パウロ」や「テモテ」のみならず、全ての使徒、伝道者、教師は「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」です。

召しと応答が相まって、使徒、伝道者、教師などの働きに就くのですが、教団や組織による按手を受けて任職された者は、全て「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」です。

本人にとって、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」であると云う自覚は、どんな苦境、困難に出会っても挫折しない、弛みなく進んでいく動機であり、原動力です。

教会にとって、遣わされた使徒、伝道者、教師などに対する「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」であると云う認識は、使徒、伝道者、教師などを受け入れ、尊敬し、聴き従う理由であり、根拠です。

コリントにある・・・教会」は、多くの問題を抱えた教会ですが、遣わされた使徒、伝道者、教師などを「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」として受け入れ、教会のしるしである、聖書から説教が語られ、信仰告白がなされ、洗礼、聖餐が行なわれていたのです。

説教が語られていても、体験談であるとか、道徳講話であるとか、聖書以外を素材とした説教であるなら、この世的には有益ではありましょうが、キリストの教会の説教ではありません。

信仰告白の伴わない洗礼や聖餐には意味はなく、害毒になり得るのです。

しかし、「コリントにある・・・教会」は、パウロの目には「神の教会」と見えていたのであり、神様、主イエス様の目にも「神の教会」と見えていたのです。

アカイア全土」、とは、ギリシャの南半分にあるアカイア州の事であり、アカイア州に散在する教会に所属する「すべての聖徒たち」に対して、2節の祝祷を宣言するのです。

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

祝祷を宣言する相手は、特別な功労者たちでは無く、益をもたらすキリスト者たちでもありません。

すべての聖徒たち」であり、特別な働きのない極普通の、すべてのキリスト者たちに対して、「父なる神と主イエス・キリスト」から、祝祷が宣言されるのです。

父なる神」が上なのではなく、「主イエス・キリスト」が下なのでもありません。

父なる神」と「主イエス・キリスト」が同格の神である事が宣言されます。

その「父なる神と主イエス・キリスト」から、一方的な恵み、好意の現われとして「恵みと平安」が与えられるのです。

恵み」と訳されているギリシャ語の本来の意味は「秩序、美しさ」などであり、「父なる神と主イエス・キリスト」との秩序の回復、和解、平和の宣言なのです。

結果、キリスト者の内に聖霊が住まわれ事になり、キリスト者同士の間にも秩序の回復、和解、平和がもたらされるのです。

その「恵みと平安」を与える事が出来るのは、「私たちの父なる神と主イエス・キリスト」のみであり、使徒、伝道者、教師などの働きでも、キリスト者の祈り、執り成しなどの働きでもありません。

1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

私たちの主イエス・キリストの父である神」の御性質が語られます。

あわれみ深い」お方であり、「あらゆる慰めに満ちた」お方だ、と言う事です。

あわれみ深い」を、新共同訳聖書、新改訳聖書第三版は、「慈愛」と訳していますが、他に「思いやり」の意味を持つギリシャ語です。

慰め」は、「強める、支える」の意味を持つギリシャ語ですから、単純な「同情や寄り添い」ではなく、気落ちし、倒れそうになっている者を支える「支援や再起」を含む意味で理解すると良いでしょう。

続いて、2節の祝祷に対する応答が語られます。

ほめたたえ」るのは、「主イエス・キリストの父である神」であり、特別な功労者たちにでは無く、益をもたらすキリスト者たちにでもありません。

教会では、断じて、人が称えられ、崇められ、もてはやされてはならないのであり、人に対する感謝や賛辞にも、人が称えられ、崇められ、もてはやされないようにとの注意が必要です。

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

パウロが4節を断定的に言い得たのは、パウロの実体験があってこそでしょう。

パウロは、ことばでは言い表す事の出来ない程の艱難、苦難、試練、迫害に出会い、その渦中で、真の憐れみ、慰めは全て神のみから来る事を体験したのです。

この生き生きとした、強い体験の裏付けが有るからこそ、「あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができ」るのです。

苦しみ、悲しみ、挫折、敗北の体験が無い人は、苦しみ、悲しみ、挫折、敗北の中にある人の気持ちを理解出来ないし、苦しみ、悲しみ、挫折、敗北の中にある人を真の意味で憐れみ、慰める事は出来ないのです。

人間的な同情や関係性からの憐れみ、慰めは、薄っぺらなものであり、心の琴線に触れる事はないでしょう。

真の意味での憐れみ、慰めは、真の意味で憐れみ、慰めを経験した者だけが与える事が出来るのであり、真の意味で憐れみ、慰めは、神からの憐れみ、慰めを経験した者だけが与える事が出来るのです。

1:5 私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。

主イエス様こそ、真の意味での艱難、苦難、試練、迫害を経験されたお方であり、主イエス様に結び付いているキリスト者と教会だけが神からの憐れみ、慰めを提供出来るのです。

勿論、罪を持つ人間や教会ですので、真の意味での憐れみ、慰めを提供する事は出来ないのですが、主イエス様に結び付いているからこそ、「あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができ」るのです。

1:6 私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。

私たちが苦しみに会うとすれば」、即ち、私たちが艱難、苦難、試練、迫害を経験するのは、一つには私たちが主イエス様と似た経験をする事によって、主イエス様に似た者とされる事であり、もう一つは「あなたがたの慰めと救いのため」になるからです。

不意に艱難、苦難、試練、迫害に出会ったならば、必要以上に恐れ、うろたえる事になるでしょうが、艱難、苦難、試練、迫害がある事が知らされていれば、それなりの備えが出来ます。

私たちと似たような経験をし、耐えた人たちが居る、と云う事を知るのは、大きな励まし、慰め、救いになるでしょう。

艱難、苦難、試練、迫害を客観的に見る事が出来、想像していたより厳しいな、とか、何とかなりそうだ、とかの余裕も生まれるのではないでしょうか。

艱難、苦難、試練、迫害の中で「慰めを受ける」なら、次に艱難、苦難、試練、迫害を受ける者たちが「慰めを受ける」のは当然なのです。

それがどんなに大きな励ましになるか、慰め、救いになる事でしょうか。

そして、「同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれ」る事になるのです。

耐え抜く力」は、「私たちの父なる神と主イエス・キリスト」から与えられる力であり、だからこそ、一人でも、孤立無援でも、状況の如何にも関わらず、耐え抜く事が出来るのです。

人を頼るなら、裏切られたり、期待通りで無かったりと、がっかりする事になるでしょうが、「私たちの父なる神と主イエス・キリスト」を信じ、信頼し、委ね、従うなら、裏切られる事は無く、想像を超えた結果となる事でしょう。

1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは揺るぎません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです。

最初に、コリント教会には、様々な問題がある、と申し上げましたが、問題があるのが問題ではありません。

どんなに憂うべき問題があっても、憂うべき事態が起こっても、それらの多くは些事であり、教会の本質を見失わず、即ち、遣わされた使徒、伝道者、教師などを「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」として受け入れ、パウロの教えに良く聴き従い、聖書から説教が語られ、信仰告白がなされ、洗礼、聖餐が行なわれていたのであり、「あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしている」と、パウロの「苦しみ」、即ち、艱難、苦難、試練、迫害とともに、「慰め」、即ち、「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安」を共有していたのです。

それこそが教会が追及するものです。

ともにしている」は、「同じ境遇で、一緒に」の意味ではなく、物理的に離れていても、時間的に離れていても、何処にいても、霊的に、ともに分かち合い、ともに担い合う、の意味です。

これこそ、教会の大切なしるしなのです。

【適応】

立派な建物、整った設備、輝ける貢献の数々、永い歴史、厳かな雰囲気が漂う会堂、洗練された、秩序だった礼拝、などなどが「神の教会」のしるしではありません。

教会の規模も、献身者の輩出も、教勢の多寡も、神の教会」とは無関係です。

また、問題が無いのが「神の教会」なのではなく、問題に翻弄されず、真理を見分け、父なる神と主イエス・キリスト」を信じ、信頼し、委ね、従うなら、それこそ「神の教会」なのです。

「神の教会」のしるしは、遣わされた使徒、伝道者、教師などを「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」として受け入れ、聖書から説教が語られ、信仰告白がなされ、聖礼典、洗礼、聖餐が行なわれ、「苦しみ・・・、慰めもともにしている」事などです。

そんな教会に「父なる神と主イエス・キリスト」は目を留め、慈しみ、「恵みと平安」を与えてくださるのです。

霊的に成長した一人一人の信徒の集まりが神の教会」なのであり、そのための礼拝であり、説教であり、交わりなのです。

「神の教会」は、仲良しクラブでもなければ、同好会でもありません。

「神の教会」は、父なる神と主イエス・キリスト」を知らない人々に、「父なる神と主イエス・キリスト」をお伝えする群れです。

父なる神と主イエス・キリスト」を伝えるのに、「父なる神と主イエス・キリスト」の事を知らなければ話になりません。

父なる神と主イエス・キリスト」を信じ、信頼し、委ね、従う生き方がある事を証しする事です。

その使命を自覚した者の群れが、「神の教会」なのです。

「神の教会」は理想の形がある訳ではなく、完成したモノでもなく、様々な形態があり、発展途上のモノであり、父なる神と主イエス・キリスト」と共に生きる群れなのです。

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