2023-2-5礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙7章20節から25節

説教題:「神の誓いによって立てられた祭司」

【導入】

御子、主イエス様が、旧来の祭司ではなく、新しい祭司である事を確認して来ましたが、その「新しさ」は、新品であるとか、新製品であるとか、まだ使った事がない、等の意味の新しさではありません。

全く違うものであり、従来の流れの延長上のものではない、革新的、革命的なものである、と云う事です。

御子、主イエス様が、従来の流れの延長上のお方ではない、と云う事が明確に示されているのが、レビ族、アロンの血筋から出られたのではなく、ユダ族の血筋から出られた事に示されています。

祭司はアロンの血筋の者でなければなりませんが、これは唯一真の神様の「命令」です。

しかし、ユダ族から立てられる祭司は、唯一真の神様の「誓い」によるものです。

命令は「こうしなさい」であり、相手に行動を命じる行為であり、誓いは「こうします」であり、自身の行動を誓う行為です。

方向性が180°違います。

御子、主イエス様の特異性に付いて、「神の誓い」と云う点から見て行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 7:20 また、神による誓いなしではありません。レビの子らの場合は、神による誓いなしに祭司となっていますが、

唯一真の神様の命令によって、レビの血筋の者が、祭司として立てられました。

出エジプト記281節、「あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。

即ち、レビの血筋意外の者が、祭司にはなれないのであり、なってはならないのであり、ならせてはならないのです。

過去には、北イスラエル王国のヤロブアム王は、誰でも祭司として任職させていたのです。

列王記第一1333節、「ヤロブアムは悪い道から立ち返ることをせず、引き続き一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。

この偶像礼拝と重なった、勝手な祭司の任命は、大きな罪となったのであり、34節、「このことは、ヤロブアムの家の罪となり、ついには大地の面から根絶やしにされることとなった」のです。

また、例え善意で出た事であったとしても、レビの血筋以外の者が、唯一真の神様に直接仕えてはならないのです。

サムエル記第二63節、「6:3 彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。

6:4 それを、丘の上にあるアビナダブの家から神の箱とともに運び出したとき、アヨフは箱の前を歩いていた。

6:6 彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんた。牛がよろめいたからである。

6:7 すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。

唯一真の神様に仕えるのは、熱意や熱心ではなく、能力や人格、品格に問題があったとしても、瑕疵や齟齬があったとしても、レビの血筋、アロンの子孫だけなのであり、レビの血筋、アロンの子孫以外の者は、手を出しては、口を出してはならないのです。

何故ならば、唯一真の神様の命令だからであり、これに従う事が神の民の務めなのです。

7:21 この方は、ご自分に対して言われた神の誓いによって祭司となられました。「主は誓われた。思い直されることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」

この方」、即ち、御子、主イエス様は、唯一真の神様の命令で祭司になられたのではありません。

唯一真の神様の誓いによって、祭司に就任されたのであり、ヘブル人への手紙の著者は、繰り返し、詩1104節を用いて、御子、主イエス様の祭司就任が、唯一真の神様の誓いの成就である事を、読者が理解する助けとします。

そして、大事なのは、この誓いが、御旨が、「思い直されることはない」、と云う事です。

思い直されることはない」、を新共同訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書第三版ともに、「変えられることはない」、と訳しています。

唯一真の神様の誓いは、不変であり、誓った事は必ず成就させる、と云う事です。

何しろ、唯一真の神様は、ご自身にかけて誓っておられるのであり、その誓いの不変性を保証、担保しておられるのです。

そもそも、唯一真の神様は、世界の創造者であり、被造物を自由にする事が出来、また、誓いや契約の主体者であり、誓いや契約に対して自由であり、誓いや契約に縛られる事がないにも関わらず、誓いを立て、契約を結び、違反した場合の呪いと刑罰をその身に負う事を誓われたのは、驚くべき事なのです。

そしてそれは即ち、唯一真の神様の、被造物である人間に対する、恵みと憐れみの現れであり、恵みと憐れみもまた、必ず成就する、と云う事を暗示しているのです。

7:22 その分、イエスは、もっとすぐれた契約の保証となられたのです。

唯一真の神様の誓いは、ご自身に掛けて誓われているので、その誓いに疑いの余地はありませんが、それに輪を掛けているのが、御子、主イエス様の祭司職です。

保証」は、保証人、連帯保証人の意味であり、誓い、契約に対して、重い責任を負い、保証した事に付いて履行の義務を負います。

御子、主イエス様が、保証人となられ、唯一真の神様の誓いの保証人となられているのであり、御子、主イエス様が、私たち罪人の代表として、この契約に関わっているのですから、これ程、確実、完全な事はないのではないでしょうか。

7:23 また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、

レビの子ら」の働きは、また、アロンの血筋の祭司職の働きは、「世襲」と云う点では永続性があり、職務としては恒久的ではありますが、一人一人に付いて云えば、有限であり、個性があり、職務に影響を与えます。

何時までも生き永らえる事は出来ず、必ず死にますので、職務に支障を来たします。

繰り返し、贖い、執り成しを引き継ぎ続け、連面と継承して行かなければなりません。

連綿と続いてきた働きですが、これは人間の働きの限界を如実に現しているのです。

7:24 イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。

しかし、御子、主イエス様は「永遠に存在される」お方であり、移り変わりはなく、罪の贖いも、唯一真の神様と罪人である全人類との間の執り成しも完全なのであり、付け加えるモノは、現在はもちろん、将来に亘っても、一切ありません。

誰かに引き継がなければならない事はなく、誰かの助けを必要とする事もありません。

変わることがない祭司職」の意味は、誰かに変わる事がない、の意味と、贖いや執り成しの方法、手順に、些かの変化も変更もない、と云う事であり、御子、主イエス様は「永遠に存在される」ので、主イエス様よりも劣った人物に、祭司の働きが移る、と云う懸念や不安は、全くないのです。

7:25 したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

そもそも、贖いは、過去、或いは現在の罪に対しての行為であり、将来、犯すであろう罪について、効力はありませんでした。

しかし、御子、主イエス様は、「何時も生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので」、その贖いは完全、完璧なものであり、その効果は将来にまで及ぶのです。

これは、確実な事なのであり、理想でも、希望でも、願望でもありません。

本人のみならず、子、孫、子々孫々に至るまで、この世の終わるまで、効力を持ち、効力を発揮し続けるのです。

従って、御子、主イエス様を大祭司、仲介者とする者は、完全な贖い、執り成しに与り、完全な救いに与るのです。

地上での、罪を持つ人間の祭司による贖い、執り成しにも、大きな効果がありましたが、天上に於いての、唯一真の神様の右の座に於ける、罪の全くない神の御子、主イエス様による贖い、執り成しが、如何に絶大な効果を持つかは、論じるまでもないではありませんか。

道は何時でも開かれており、「近づく人々を完全に救うことがおできになります」。

唯一真の神様と、御子、主イエス様との間には、一切の隔たりはありません。

意見の相違や不一致も一切ありません。

ですから、御子、主イエス様の執り成しは、唯一真の神様を説得するものではなく、説き伏せようとするものでも、怒りを宥めるものでもありません。

御子、主イエス様は、何時も喜んで聴こうとしておられる唯一真の神様に執り成しをされているのであり、其処にも、唯一真の神様と御子、主イエス様との間には、深い一致と交わりがあるのです。

この一致、交わりを害するものは何もありません。

【適応】

本日の説教のタイトルを「神の誓いによって立てられた祭司」としましたが、注目して頂きたいのは「神の誓い」と云う言葉です。

神様は、唯一真の神であり、主権者であり、支配者ですから、誰に「誓う」必要もありませんが、敢えて「誓う」のは、「思い直されることはない」、変更される事はないとの決意表明でしょう。

唯一真の神様が、こうと決められたなら、必ずそうなるのに、敢えて「誓う」のは、ご自身にかけて「誓う」のは、必要もないのに「誓う」のは、私たちのためであるのです。

人間の誓いは、天にかけて誓っても、何にかけて誓っても、その誓いは絶対不変ではありません。

状況が変われば、自身の考えが変われば、相手の応答によっても変わり得るものです。

しかし、唯一真の神様の「誓い」は、何があっても、状況が変わっても、「誓い」が変わる事はないのです。

それは、なんとしても、人間を救いたいからであり、人間との交わりを回復、維持したいからです。

唯一真の神様は、「誓い」遂行のためならば、どんな犠牲でも惜しまず払い、どんな不利益をも受け入れられるのです。

人間は被造物の一つですが、唯一真の神様が、「われわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」、との特別な意図を持って造られたのであり、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」、即ち、神の霊を分け与えられた特別な被造物です。

被造物、全ての中で、唯一、神様と交わりを持てる存在であり、愛おしい特別な存在なのです。

その愛おしい存在と断絶したのであり、断絶解消のためのあらゆる手段を講じられる覚悟なのであり、その決意表明が、「誓い」なのです。

唯一真の神様が、自ら「誓い」を表明するまでに愛しい存在が、われわれ人間なのです。

そして、その「誓い」遂行、達成のために立てられたのが、御子、主イエス様と云う大祭司なのです。

唯一真の神様の「誓い」の故に、御子、主イエス様のお働きの故に、われわれ人間は、贖われ、交わりが回復し、唯一真の神様の慈しみの中に憩う事が許されるのです。

この交わりに、慈しみに、憩いに、入る事が出来るのは、大祭司、御子、主イエス様のお働きのみなのです。

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                                       2023-2-12礼拝

聖書箇所:マタイの福音書10章34節から38節

説教題:「恐れから解放されて」

説経者:八木 隆之 牧師 (日本同盟基督教団 派遣教師 赤羽聖書教会協力牧師)

説経は非掲載です。

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                                       2023-2-19礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙726節~28

説教題:「私たちに必要な大祭司 イエス様」

【導入】

唯一真の神様は、御子、主イエス様に対して、「あなたはとこしえに祭司である」、と誓われましたが、この誓いの背景には、人間に対する深い愛情と慈しみがあり、罪の刑罰を清算し、義とし、交わりを回復するために他ありません。

旧約の時代、罪の刑罰を清算し、義とし、交わりを回復するために、毎日、生贄が献げられましたが、その大切、重要この上ない祭儀を執行するのは、罪を持つ人間であり、寿命のある人間であり、手違いや失敗をする人間であり、完全な祭儀ではありませんでした。

そこで、唯一真の神様は、罪のない、永遠に変わらない、一切の手違い、失敗のない、神の子、主イエス様を、人間としてこの世に送ってくださり、主イエス様、ご自身が生贄となり、罪の刑罰を清算し、義とし、交わりを、完全、完璧、且つ、永遠に回復させてくださったのです。

これが、人間に提示された、罪の刑罰を清算し、義とし、交わりを回復するための唯一の方法です。

このヘブル人への手紙が書かれたのは、紀元60年から90年ころと考えられていますが、キリスト教を信じるユダヤ人は、土着の宗教からの改宗者は、ギリシャやローマの文化、哲学などの影響を受け、人間中心、人間の精神、魂の優位性を強調する風潮に強く影響されるキリスト者も、少なからずいたようです。

そして、そんなキリスト者の影響は、決して侮れません。

教会の中心的なキリスト者が、ギリシャやローマの文化、哲学などの影響を受け、教会内で吹聴するなら、この世の教えで聖書を解釈し、この世の教えを聖書の教えに取り入れ語るなら、教会は大きく揺れ動き、存亡に関わることになるでしょう。

そこでヘブル人への手紙の著者は、御子、主イエス様の祭司職に付いて確認し、その必要性について語るのです。

【本論】

新改訳2017版 7:26このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

世には、自己啓発の類の書籍やセミナーが、数多くありますが、当時は、概ね平和な時代であり、ギリシャやローマの文化、哲学などに触れる機会が増え、旧来のものは古臭く感じられ、新しいものに飛び付くのは、古今東西変わらないようです。

ギリシャやローマの文化、哲学などに対する、人々の興味、欲求は旺盛となり、その影響は、強く広まり、自主性、自己確立性に繋がって行ったことでしょう。

そして、自己が確立すると、人間は、これ、と指定されるのを、決め付けられるのを嫌がる傾向が顕著になるようです。

複数の選択肢があって、自分の裁量で決めたい、選択の自由の余地を残したいようです。

しかしそれは、重要でないことには適応出来るかも知れませんが、本当に重要なことに、選択肢は多くはないのではないでしょうか。

その、私たちにとって必要不可欠、唯一無二、本当に必要なのが、罪の刑罰を清算し、義とし、交わりを、完全、完璧、且つ、永遠に回復させる働きなのではないでしょうか。

その働きに就かれたのが、御子、主イエス様なのですが、主イエス様は、「敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司」である、と紹介されています。

敬虔」を、新共同訳聖書、口語訳聖書は「」、と訳し、新改訳聖書第三版は「きよく」、と訳していますが、単に文字通りの、「敬虔」、「」、「きよい」、の意味だけではなく、唯一真の神様に対して、「敬虔」な者、「」なる者、「きよい」者の意味であり、即ち、神様に対して忠実な者、神様と交わした契約の条項に忠実な者、の意味を汲み取る必要があります。

神様に対して忠実な者、神様と交わした契約の条項に忠実な者こそ、本当の意味で「敬虔」な者、「」なる者、「きよい」者なのです。

罪人から離され」ですが、祭司、レビ人は、その職務の性質上、一切の汚れから離れなければなりませんでした。

罪人とも距離を置かなければなりません。

ルカの福音書1030節に、職務に忠実であろうとする祭司、レビ人の姿が紹介されています。

イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。

10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。」、と、職務に忠実な姿を描いています。

しかし、主イエス様は、罪人や病人、死人さえも忌み嫌うことをせず、罪人と食事をされ、病気の人や死人に触れられたのです。

主イエス様が、罪人と食事をされた逸話は、マタイの福音書910節に記されています。「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。

9:11これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。

主イエス様が、病人に触れられた逸話は、マルコの福音書140節に記されています。「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」

1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。

主イエス様が、死人に触れられた逸話は、ルカの福音書712節に記されています。「イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。

7:13 主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。

7:14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。

これらの逸話は、主イエス様の不思議な力の紹介だけではなく、主イエス様が、罪人との交わりを何よりも喜ばれ、忌み嫌われていた病気を癒し、死を克服し、交わりを回復されることこそ、主イエス様の使命であることを現しています。

社会から切り離され、疎外されている人々との交わりの回復こそ、唯一真の神様の願いであり、主イエス様に与えられた使命なのです。

そして、主イエス様以外に、この使命を全うすることは出来ません。

この使命は、神のみが成し得る働きだからです。

7:27 イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。

ほかの大祭司たち」とは、アロンの系譜に繋がる人々であり、とても大切、重要な働きを担っていますが、罪人であり、「まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げ」なければなりません。

レビ記166節、「16:6 アロンは、自分のための罪のきよめのささげ物である雄牛を献げ、自分と自分の家族のために宥めを行う。

16:11 アロンは自分のために、罪のきよめのささげ物である雄牛を献げ、自分と家族のために宥めを行う。彼は自分ために、罪のきよめのささげ物である雄牛を屠る。

この後に、民の罪と汚れの贖いをします。

16:15 アロンは民のために、罪のきよめのささげ物である雄やぎを屠り、その血を垂れ幕の内側に持って入り、この血を、先の雄牛の血にしたように、『宥めの蓋』の上と、『宥めの蓋』の前にかける。

16:16 彼はイスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行なう。彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある会見の天幕にも、このようにする。

しかし、主イエス様は、唯一真の神様の御子であり、罪、咎、汚れが一切ないのですから、「自分の罪のために、・・・毎日いけにえを献げ」る必要は全くありません。

主イエス様の十字架上での贖いは、大祭司としての働きは、究極的であり、完全であり、永遠であり、繰り返しややり直しを全く必要とはしないのです。

主イエス様が来られたのが、祭司として働かれるためであり、贖いとなるためであることとが、マルコの福音書1045節に明確に告白されています。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

私たちの罪の贖いに必要なのは、主イエス様、唯お一人のみなのです。

7:28 律法は、弱さを持つ人間たちを大祭司に立てますが、律法の後から来た誓いのみことばは、永遠に完全な者とされた御子を立てるのです。

唯一真の神様は、「弱さを持つ人間たち」に、この世界の管理を委ね、アブラハムの子孫を祝福の基とし、アロンの系譜に罪の贖いの働きを委ねましたが、人間の持つ罪の故に、どの働きも充分なものとはなりませんでした。

世界を汚染し、環境を破壊し、動植物の数多くを絶滅させ、祝福どころか、いがみ合い、憎しみ合い、殺し合いに明け暮れているのであり、罪の贖いどころか、罪を増し加えるようなことしかして来なかったのです。

そこで、唯一真の神様は、御子、主イエス様をこの世に送り、「弱さを持つ人間たち」の罪を贖い、祝福をもたらし、秩序、特に唯一真の神様との交わりを、「永遠」、且つ、「完全」に回復してくださったのです。

【適応】

唯一真の神様との交わりの回復のためには、完全、且つ、永遠な贖いが必要であり、それが可能なのは、「永遠に完全な者とされた御子」、罪のないお方、主イエス様のお働きと犠牲だけなのです。

しかし、これを認め、受け入れるのは簡単なことではありません。

価値観の多様性を認める社会は、個人の意見や考えを尊重する社会は、神は唯一である、救いの道も唯一である、と云う考え方、教えに、多くの人は抵抗を覚えるのではないでしょうか。

唯一神教は排他的で、争いの元だ、多様性を受け入れる、多神教こそが現代に相応しい。

確かに、一理あり、個々人の考えを尊重しなければならず、一方的に否定出来ませんが、唯一真の神様との関わり、罪の贖い、執り成し、交わりの回復については、唯一真の神様の提示された律法に従い、神様の誓いを根拠とするしか、方法も道もないのです。

そして、私たちに必要なのは、唯一真の神様の約束を信じ、御子、主イエス様を大祭司として受け入れ、罪の贖い、執り成し、交わりの回復を委ねるしかないのです。

主イエス様は、このお働きにために、この世に来られたのです。

それなのに、罪の贖いのために、義を得るために、善行や奉仕に明け暮れるならば、主イエス様はどんなにか悲しまれることでしょうか。

主イエス様に拠り縋らず、人に頼り、人に依存し、人を拠り所とするなら、主イエス様はどんなにか悲しまれることでしょうか。

私たちに必要なのは、親身になってくれる人でも、頼りになる人でも、面倒見の良い人でもありません。

親身になってくれる人が10人いても、頼りになる人が100人いても、面倒見の良い人が1000人いても、主イエス様には全く敵わないのです。

私たちは、見えるものに安心と信頼を置きがちですが、見えるものは変わります。

いざ、と云う時に、肩透かしをされ、時には裏切られてもしまいます。

慰めて欲しい時に、そのまま受けとめて欲しい時に、黙って聞いてくれるだけでいいのに、懇々と説教されてしまうのではないでしょうか。

しかし、主イエス様は、余計な事は言わず、唯々受け入れてくださいます。

コリント人への手紙第二14節、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

と、同時に、ヘブル人への手紙725節、「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

主イエス様のお働きの故に、私たち人間は、贖われ、交わりが回復し、唯一真の神様の慈しみの中に憩うことが許されるのです。

この交わりに、慈しみに、憩いに、入ることが出来るのは、大祭司、主イエス様のお働きのみなのです。

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                                       2023-2-26礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙8章1節~6節

説教題:「更に優れた務め」

【導入】

唯一真の神様は、御子、主イエス様を大祭司として任命し、この世に遣わし、人間の罪の刑罰を清算し、義とし、唯一真の神様との交わりを回復してくださいました。

ヘブル人への手紙の著者は、御子、主イエス様の祭司職に付いて、その唯一性、完全性、卓越性、無謬性、永遠性・・・について繰り返し述べてきましたが、それだけ重要であるからであり、他の何ものも及ばないからです。

ヘブル人への手紙の著者は、御子、主イエス様の祭司職に付いて、その必要性について手を変え、品を変えて、繰り返し語るのです。

一度聞いて、理解し、考え方が変わり、生き方が変わればよいのですが、それは中々難しいようですので、繰り返さざるを得ないのです。

似たような事の繰り返しであり、またか、と思われ、退屈を感じられるかも知れませんが、反復でこそ、深い理解に達し、身に付き、生き方、考え方に影響するのです。

【本論】

新改訳2017版 8:1 以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。

繰り返し述べてきた御子、主イエス様の、大祭司としての卓越性ですが、理解するのは簡単な事ではありません。

見た事も、会った事もなく、直接関わった事もないからです。

概念的な、間接的な関係では、実感が伴わないのは仕方のない事ですが、それで、存在を疑問視したり、関係性を疑ってはなりません。

見えず、会う事も叶いませんが、存在はしているのであり、存在を裏付ける、様々な情報は得る事が出来るのです。

先ずは、聖書であり、説教などで、御子、主イエス様のお働きを知る事が出来るのであり、祈りや黙想などで、御子、主イエス様を感じる事が出来るのではないでしょうか。

或いは、平安や慰めを得た事で、御子、主イエス様の存在を確信する事が出来るのではないでしょうか。

例えば、「あしながおじさん」の働きですが、何処にいるのかも判らず、会った事がなくても、支援を通して実在の人だ、と確信するのであり、御子、主イエス様を見た事はないけれども、霊の交わりを通して、実在の御方、今も生きておられる御方、と確信し、信じ、従う事が出来るのです。

この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、

8:2 人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。

天におられる大いなる方」とは、唯一真の神様の事であり、「御座の右」とは、唯一真の神様の御子のみが、座る事を許された座であり、威光と、尊厳と、栄誉の座、唯一真の神様の座と同等の座です。

まことの幕屋、聖所」とは、唯一真の神様の御住まいであり、永遠に続く、不変の、聖なる所です。

地上の幕屋、聖所、即ち、仮の幕屋、聖所は、本物に似せて造られた幕屋、聖所は、アロンの系譜の者が、レビの部族の者が仕えていますが、本物の幕屋、聖所は、御子、主イエス様が仕えておられるのです。

いのちに限りのある者は、本物に、永続するモノに仕える事は出来ません。

永遠のいのちを持つ者だけが、本物に、永続するモノに仕える事が出来るのです。

8:3 大祭司はみな、ささげ物といけにえを献げるために任命されています。したがって、この大祭司も何か献げる物を持っていなければなりません。

大祭司の務めの一つは、「ささげ物といけにえを献げる」事ですが、地上では、大祭司のいのちに限りがあるために、罪を持つ身であるがために、また、「ささげ物といけにえ」も完全ではないために、繰り返し「ささげ物といけにえ」を「献げ」なければなりません。

しかし、御子、主イエス様の「献げ物」は、一回限りなのです。

大祭司として完全、完璧であり、「献げ物」も完全、完璧だからです。

8:4 もしこの方が地上におられたなら、祭司であることは決してなかったでしょう。律法にしたがってささげ物をする祭司たちがいるからです。

4節は非常に重要です。

御子、主イエス様が来られた事で、贖いの規定が廃棄されたのではありません。

地上の諸規則、律法、諸制度が廃棄されたのでもありません。

すなわち、旧約聖書が廃棄されたのではありません。

唯一真の神様の定められた、律法、諸制度は有効であり、アロンの系譜の者が、レビ部族の者が担っており、そこに、御子、主イエス様が入り込む余地は全くありません。

地上はアロンの系譜の者、レビ部族の者に委ねられ、任されているのであり、責任を持って担っていかなければならないのです。

欠けがあり、瑕疵があり、失敗があり、齟齬があってもです。

御子、主イエス様が担えば完全、完璧でも、地上はアロンの系譜の者、レビ部族の者に任されているのです。

定めとは、そして御旨に適う組織、体制とは、こう云うものです。

欠け、失敗、齟齬、瑕疵などを通して、不完全さを体験し、学び、悔い改め、成長するのです。

助言や忠告、諌言は必要ですが、手助けや代行は成長の障害であり、定めや御旨による組織、体制が崩壊します。

地上はアロンの系譜の者、レビ部族の者に任されているのであり、神の御子であっても、手出しは不要、否、厳禁なのです。

8:5 この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。

天にあるものの写しと影」とは、地上にある「幕屋、聖所」であり、似て非なる物であり、真似事ではありますが、意味がない訳ではありません。

写しと影」に仕える事は、「天にあるもの」に仕えるための訓練であり、準備なのです。

ルカの福音書1610節、「16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。

16:12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。

写しだから、影だからと、手を抜き、いい加減に仕え、無責任な対応をするなら、途中で投げ出すなら、本物を任される事はなく、大きな事を任される事もないのです。

アロンの系譜の者の務めは、レビ部族の者の務めは、有意義な務め、楽しい務め、華々しい務めばかりではありません。

卑しい務めも、縁の下の力持ち的な務めも、地味な務めも、三K(きつい、汚い、危険)の務めもあるでしょう。

誰にでも出来るような務めも、誰からも評価されないような務めも、つまらない務めもあるでしょう。

唯一真の神様から与えられた務めでも、選挙や推薦で与えられた務めでも、

或いは、自ら名乗りを上げた務めでも、誠実に、忠実に取り組むなら、大きな祝福に繋がるのです。

5節後半の鍵括弧の聖句は、出エジプト記2540節からの引用です。

天にあるものの写しと影」であると云っても、手を抜いて作ってはならず、「よく注意して」、唯一真の神様の「御告げ」の通りに作らなければならず、「よく注意して」、唯一真の神様の「御告げ」の通りに仕えなければならず、「よく注意して」、唯一真の神様の「御告げ」の通りに務めを継承しなければならないのです。

祝福の基であり、訓練であり、成長に繋がるからです。

8:6 しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです。

御子、主イエス様の働き、務めの卓越性は、第一に、今までに述べてきた事ですが、天にある、本物の幕屋、聖所で、大祭司として仕える事です。

この働き、務めには、他の何者も就く事が出来ません。

御使いでも、唯一真の神様でさえでもです。

唯一真の神様は、御子、主イエス様に大祭司の働き、務めを委ねたのであり、委ねた以上、完全に任せなければなりません。

口を出しても、手を出してもならないのです。

そして、御子、主イエス様は、その信頼に、完全に、完璧に応え、寸分の狂いもズレも、齟齬もなく、務めを完全、完璧に全うするのです。

第二に、「契約の仲介者」と云う働き、務めです。

仲介者」は、商業用語であり、「中間業者」の意味であり、文字通り、「間に立つ者」です。

仲介者」は、この世では、両者を引き合わせ、それで働き、務めは終わるかもしれませんが、御子、主イエス様は、唯一真の神様と罪人との間に立ち、両者を和解させ、罪人を唯一真の神様に近づかせるのです。

ルカの福音書172節、「1:72 主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。

1:73 私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。

1:74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。

1:75 私たちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく。

コリント人への手紙第二518節、「5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

仲介者」は、両者の立場を完全に把握し、理解していなければなりませんが、主イエス様は、唯一真の神の御子として、人間として、両者の立場、考え、状況を完全に把握し、理解しておられ、両者の間に立つ事が出来る、唯一無二のお方なのであり、当事者として主観的に関わりつつ、「仲介者」として客観的に関わり、働き、務めを果す事が出来、両者が満足、納得出来る働き、務めをなさるのです。

【適応】

こんなにも素晴らしい優れたお働き、務めをなさる方が、唯一真の神様の、一方的な憐れみによって、私たちのために立てられているのです。

自己責任論から見たならば、私たち罪人に弁解の余地はなく、何の言い分も、申し立ても出来ません。

契約、と云う点から見ても、私たち罪人は契約に対して不誠実であり、契約の不履行、契約を一方的に破棄したのであり、権利の主張をするべくもなく、弁明すらもありません。

しかし、唯一真の神様は、御子を大祭司として立て、罪の贖いを執り行わさせ、仲介者として立て、和解の務めを果させられたのです。

この優れた働き、務めは、被造物には果たし得ない働きであり、務めです。

何故ならば、被造物は、何かに依存してこそ存在出来るのであり、刻々と変化し続け、必ず死、消滅を迎えます。

大祭司、仲介者の働きは、唯一真の神様に対する働き、務めであり、大祭司、仲介者の資質は、何ものにも依存しない、変わらない、永遠に存在するお方でなければならず、神のみがなせる業なのです。

その働き、務めを担い得るのは、神ご自身、そして神の御子、主イエス様だけなのです。

この偉大なお方が、被造物である人間を、罪人である人間を救うために立てられたのです。

唯一真の神様が、被造物である人間を、罪人である人間を、如何に大切に思っているか、どんな犠牲を払っても救いたい、和解したいと願っておられるかの現われなのです。

この極めて優れた大祭司、仲介者が、私たちのために立てられているのです。

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