2023-3-5礼拝

聖書箇所: ヘブル人への手紙8章7節から13節

説教題:「古い契約から新しい契約へ」

【導入】

唯一真の神様は、アロンの系譜の者、レビ部族の者に、人間の罪の贖いと、唯一真の神様との交わりを取り持つ働きを委ねられ、この働きを連綿と続けさせて来られました。

これが「古い契約」と呼ばれるものであり、それなりの効果がありましたが、しかし、アロンの系譜の者、レビ部族の者も罪を持つ人間であり、先ずは、自分の罪のために、献げ物やいけにえを献げなければならず、次に民衆、会衆の罪のために、献げ物やいけにえを献げるのでした。

贖いの働きも、その献げ物やいけにえも、完全ではなく、永続性を持たないために、繰り返し献げなければなりませんでした。

そこで、唯一真の神様は、御子、主イエス様を大祭司として任命し、この世に遣わし、人間の罪の刑罰を、過去、現在、未来の罪に対する刑罰を、完全に清算し、義とし、唯一真の神様との交わりを回復してくださいました。

単に回復するのみならず、継続的な執り成しの働きがあって、交わりを維持し続けてくださっているのです。

これが「新しい契約」と呼ばれるものですが、古いものでも充分ではないか、と考える人たちに、新しいものに抵抗を覚える人たちに、自分たちの存在や働きを脅かす危険な教え、既得権益を脅かす、と考える人たちに、御子、主イエス様を受け入れない人たちに、「新しい契約」は、唯一真の神様の預言の成就であること、単に新しいだけでなく、「古い契約」を補完するものであり、受け入れてこそのものである事を述べるのです。

【本論】

新改訳2017版 8:7 もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。

唯一真の神様の制定された、アロンの系譜の者、レビ部族の者に委ねられた、人間の罪の贖いの働き、交わり回復の働きが、完全に機能したならば、それに代わるものを立てる必要はありません。

唯一真の神様は完全なお方であり、古かろうが、新しかろうが、その契約を完全に履行出来ますが、しかし、人間は罪を持つ身であり、どんな緩い契約、約束でさえも、履行する事は出来ません。

そこで、唯一真の神様は「第二の契約」を立てられたのです。

それは、思い付きや、切羽詰っての打開策ではなく、預言の成就です。

8:8 神は人々の欠けを責めて、こう言われました。「見よ、その時代が来る。―――主のことば―――そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。

8節から12節迄の鍵括弧の御言葉は、エレミヤ書3131節から34節迄からの引用です。

ほぼ、同じですが、後で読み比べて見てください。

エレミヤは、ヨシヤ王が宗教改革を始めた頃に召命を受け、紀元前627年から紀元前583年頃に掛けて活動し、預言を語りましたが、エレミヤの預言は人々に受け入れられず、時に迫害を受け、孤独な活動に明け暮れました。

しかし、唯一真の神様は、エレミヤに希望と喜びを語られたのです。

8:9 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった。―――主のことば―――

これらの預言は、アロンの系譜の者、レビ部族の者の働きの不完全さを嘆くものではなく、民衆が、会衆が、唯一真の神様と交わした契約を破り、好き勝手な礼拝を献げ、偶像礼拝を行なった事に対して、律法を守り行なわなかった事に対して、律法を自分たちの都合に合わせて勝手に解釈し、自分たちの好き放題をした事に対して、嘆いておられるのです。

加えて、唯一真の神様が立て、派遣された預言者の警告を受け入れ、契約を守るようにとの勧めを無視し、一度ならず、何度も何度も派遣された預言者の警告を無視し続け、時に迫害したのです。

誰にでも失敗はあり、道を踏み外す事も数しれずでしょうが、問題は警告を無視する事であり、諫言や忠告を受け入れない事であり、反発する事です。

警告、忠告されるのは、見込みがあるからであり、唯一真の神様の愛の現れですが、エレミヤ2221節、「あなたが平穏であったときに、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『私は聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若いころからのあなたの生き方だった。

当然の結果、預言者は派遣されなくなり、警告や換言を、忠告を聞く事もなくなってしまい、悔い改めのチャンスを見す見す逃してしまう事になるのです。

うるさい事、細かい事を言う預言者がいなくなって、清々した、と云うところかもしれませんが、警告、忠告は言ってくれているうちが華です。

無視し続けるなら、反発するなら、祝福は取り去られ、苦難や困難が襲い、そして飢饉や疫病に苛まされる事になるのです。

レビ記2614節から18節、「しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら、

26:15 また、わたしの掟を拒み、あなたがた自身がわたしの定めを嫌って退け、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、

26:16 わたしもあなたがたに次のことを行う。わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは種を蒔いても無駄である。あなたがたの敵がそれを食べる。

26:17 わたしはあなたがたに敵対してわたしの顔を向ける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。あなたがたを追う者がいないのに、あなたがたは逃げる。

26:18 もし、これらのことが起こっても、あなたがたがなおもわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍重く懲らしめる。

この後、39節まで続くのですが、それは省略しますので、後でお読み願います。

懲らしめは、回復のための手段であり、懲らしめは罰でも、目的でもありません。

民衆、会衆の失敗、違反に対して、預言者を遣わし、警告を預言し、それでも、の時に、回復のために、懲らしめが与えられるのです。

神様の警告を、預言者の警告を、無視しては、軽んじてはなりません。

この懲らしめを、人間の代表として受けて下さったのが、御子、主イエス様であり、それが新しい契約です。

8:10 これらの日の後に、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこうである。―――主のことば―――わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

新しい契約の特徴、一つ目は、「わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」です。

新しい契約では、私たちの内に聖霊様が住まわれ、エゼキエル書3626節、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」のです。

知っていても、行わないなら意味はありません。

聖霊様が、「わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うように」助け、導いてくださるのです。

8:11 彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。

新しい契約の特徴、二つ目は、「彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになる」です。

古い契約では、申命記66節に、「私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。

6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。

6:8 これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。

6:9 これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。」と命じられていますが、これらは家長たち、長老たち、祭司たちの使命でしたが、こんな大変な事を、手間隙の掛かる事を、出来ない事をする必要がなくなったのです。

これもまた、私たちの内に聖霊様が住まわれた結果です。

知る」は、知識の意味だけでなく、「誠実に取り組み、忠実に行う」の意味であり、これもまた、私たちの内に聖霊様が住まわれた結果です。

新しい契約の特徴、三つ目は、

8:12 わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」です。

思い起こさない」は、「記憶から消し去る、なかった事にする、有耶無耶にする」、の意味ではなく、「契約の規定に従って、罪に対する罰が終わっている、報いがなされている」、の意味です。

罰を与え、報いを与えても、あの時はこうだった、とか、何時までも恩着せがましいのが、終わった事を、蒸し返すのが、人間ですが、神様は綺麗さっぱり、完全に終わらせられるのです。

何故ならば、御子、主イエス様が人間の代表として罰を受けてくださり、完全に贖いが終わっているからです。

勿論、明確な、御子、主イエス様に対する信仰告白、悔い改めがあってこそですが・・・

8:13 神は、「新しい契約」と呼ぶことで、初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。

私たちには、御子、主イエス様の血による「新しい契約」が与えられたのですから、「古い契約」である律法に従い、行いによる義を追求するのは、終わりにしなければなりません。

そもそも、「古い契約」は、何も全う出来なかったのです。

しかし、「古い契約」に何の意味も、働きもない訳ではありません。

「古い契約」を通して、罪とは何かを教え、贖いとは何かを教え、「古い契約」の欠け、足りなさを教え、「新しい契約」の必要性を教えてくれるからです。

新しい契約」が示された事で、「古い契約」に拘り続ける必要はなくなり、安心して「古い契約」を離れる事が出来るのです。

【適応】

それなのに、「古い契約」に拘ってはいないでしょうか。

「古い契約」は、律法や戒律だけではありません。

伝統や固定観念、個々人の思い描く理想などからの、こうあるべき、こうするべき、などの考えやそれを容認する空気です。

全体主義、と言っても良いかも知れません。

強いリーダーシップの下で、皆が同じ方向を向いて、進む。

時に、神様に対して指図さえしているが、それを祈りと勘違いしている。

頑張る、弱音は吐かない。

新しい契約」に招き入れられているのに、こんな旧態依然の、窮屈な生き方をしてはいないでしょうか。

新しい契約」は、個々人の考えや行動が尊重される考えであり、聖書に反しない限り、何をしても自由であり、何をしなくても自由なのです。

勿論、唯一真の神様を蔑ろにするような、秩序を乱すような身勝手な行動は、慎まなければなりませんが、基本的な人権、自由が保障され、個々人の考えが尊重され、無理強いや強制は相応しくありません。

社会問題になっている献金の強要や、行き過ぎた躾、輸血の問題ですが、聖書は、献金について、レビ記2730節、「地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである」、と教えていますが、これが聖書の基準です。

愛する子に鞭を控えてはなりませんが、箴言1324節、「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。」、

卑しめてはならず、申命記251節、「人と人との間で争いがあり、その人たちが裁判に出頭して、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判定がなされたとき、

25:2 もしその悪い者がむち打ちにすべき者なら、さばき人は彼を伏させ、自分の前で、その邪悪さに応じた数だけ打たなければならない。

25:3 四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれれば、あなたの同胞はあなたの目の前で卑しめられることになる」、

過度の躾を禁じてもいるのです。コロサイ人への手紙321節、「父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです」。

輸血の問題も、当時の文化的背景、医療を考慮しなければならないのではないでしょうか。

ヨハネの福音書653節、「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」。

ここでの「血」は比喩ですが、この教えを聞いた多くの人は主イエス様に反発し、離れていったのです。

聖書は、勝手な解釈をしてはならず、字義通りに解釈するところと、意味を汲み取らなければならないところが混在しているのですから、注意しなければなりません。

新しい契約」、御子、主イエス様こそ、私たちに必要不可欠なのです。

ヨハネの福音書831節、「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

「古い契約」から、「新しい契約」へリニューアルするのではなく、切り替える、乗り換えるのです。

新しい契約」は、私たちを罪の呪縛から、律法の縄目から、人間関係の束縛からも自由にするものであり、主イエス様と結びつけ、真に主イエス様の弟子にするものなのです。

皆さんは、無条件で、この「新しい契約」に入れられているのです。

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                                       2023-3-12礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙9章1節から5節

説教題:「幕屋(聖所)とは」

【導入】

新しい契約」に入れられたキリスト者は、「古い契約」の象徴である聖所、幕屋をどのように考え、接していったらよいのでしょうか。

ヘブル人への手紙の著者は、聖所、幕屋についての説明をしますが、これらは、ユダヤ人にとっては周知の事の筈です。

敢えて説明するまでもない事ですが、よく理解していないで、習慣で、慣習で受け入れ、理解した気になっている、と云う事もあり得ますから、折に触れ、繰り返し、確認しておく事は大切です。

大事に思ってきた事、大切にしてきた事が、然程でもなかった、本当に大事、大切な事を見失わせていた、と云う事があるのではないでしょうか。

或いは、一時期、必要な事であり、その時期を過ぎたなら、もう必要ではない、と云う事もある、と云う事を考えに入れておかなければならないのではないでしょうか。

古い事が、弊害をもたらしていないか、新しい事への妨げになっていないか、注意しなければなりません。

【本論】

新改訳2017版 9:1 さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。

初めの契約」に於いてですから、「礼拝の規定」とは、モーセの時代に規定された、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に記された、十戒や律法、そのものの中の、礼拝に関する規定であり、「地上の聖所」とは、幕屋の事です。

聖所、幕屋については出エジプト記25章から31章にかけて記されています。

ちょっと長い箇所ですが、後でご確認願います。

初めの契約」との但し書きがあるのですから、「礼拝の規定」とは、後の時代に、律法学者たちによって制定された、十戒や律法に付随する様々な規定の事、微に入り細に入る解釈ではありません。

基本中の基本の規定です。

聖所」と云うと、エルサレム神殿、石造りの重厚な神殿や、豪華絢爛な礼拝堂を思い浮かべるかも知れませんが、出エジプトの時の、「幕屋」の事であり、「幕屋」は、「テント」のようなものであり、意匠が凝らされ、貴重な材料が用いられたのですが、神殿などと比べれば、見劣りがするのは、否めないでしょう。

しかし、問題は、見栄えや重厚感、威圧感ではなく、機能です。

9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台と机と臨在のパンがありました。それが聖所と呼ばれる場所です。

2節では聖所、幕屋の構造について語られます。

幕屋の大きさは、20キュビト、10キュビトの長方形、1キュビトは約44cmですので、8.8m4.4mの長方形で、そこには「燭台と机と臨在のパン」が置かれていました。

燭台」は、支柱から左右に三本づつ枝が出た形の物であり、「」は、長さ2キュビト、幅1キュビト、高さ1.5キュビト、長さ88cm、幅44cm、高さ66cmで、アカシアの木で作られており、全面が金で覆われており、「臨在のパン」が置かれていました。

9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、

垂れ幕で仕切られ、区切られた後ろに、「至聖所と呼ばれる幕屋」がありました。

10キュビトの正方形で、高さも10キュビト、4.4mの正立方体です。

9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金の壷、芽を出したアロンの杖、契約の板がありました。

契約の箱」は、長さ2.5キュビト、幅1.5キュビト、高さ1.5キュビト、長さ1.1m、幅66cm、高さ66cmで、「箱の中には、マナの入った金の壷、芽を出したアロンの杖、契約の板」が入っていました。

マナの入った金の壷」については、出エジプト記1633節以降に、「芽を出したアロンの杖」については、民数記171節以降に、「契約の板」とは、十戒が記された石板ですが、出エジプト記341節以降に記されていますので、後でご確認願います。

9:5 また、箱の上で、栄光のケルビムが「宥めの蓋」をおおっていました。しかし、これらについて、今は一つ一つ述べることはできません。

契約の箱」は、「栄光のケルビムが「宥めの蓋」をおおって」守っていたのですが、「ケルビム」については、出エジプト記2518節に記されていますので、後でご確認願います。

ケルビム」は、唯一真の神様の臨在の象徴ですが、偶像礼拝に繋がる事には、神経質なユダヤ人ですから、「ケルビム」の扱いには苦慮したと思います。

唯一真の神様の象徴ですから、ぞんざいに扱う事は出来ず、かと言って、仰々しく扱うなら、偶像礼拝に繋がってしまいましょう。

契約の箱」、「マナの入った金の壷」、「芽を出したアロンの杖」、「契約の板」、「ケルビム」、これらの「古い契約」の、拠り所の品々の数々は、どうなってしまったのでしょうか。

カナンの地に定住するようになり、エルサレム神殿に安置され、人々の信仰の拠り所となりましたが、諸外国に攻め入られ、他の、多くの宝物と共に持ち去られてしまい、雲散霧消してしまったのです。

契約の箱」は、映画の題材にもなっていますが、本来なら、オリジナルの品を、連綿と引き継ぎ、信仰継承にも益するはずだったのでしょうが、レプリカで凌いできた歴史は、信仰の拠り所を失ってしまっただけでなく、偶像礼拝を誘引し、礼拝の対象さえも、見失ってしまったのではないでしょうか。

【適応】

聖所、幕屋の存在目的は、唯一真の神様に対する礼拝に益する事です。

好き勝手な場所で礼拝を献げないようにするためであり、好き勝手な道具で礼拝を献げないようにするためです。

礼拝の規定」は、好き勝手な方法で礼拝を献げないようにするためであり、誰彼構わずに礼拝を献げる事がないようにするためです。

ローマ、ギリシャ、そして、アテネなどは、辻辻に偶像が溢れていました。

使徒の働き1716節、「さて、パウロはアテネでふたりを待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた」。

そんな環境の中で、純粋な唯一神教を守るためには、「礼拝の規定と地上の聖所」の存在は不可欠です。

しかし、新しい契約」に招き入れられているのであり、何処ででも、礼拝を献げる事が出来るのであり、誰もが、礼拝を献げる事が出来るのであり、形式や手順も、大切ではありますが、何より大切なのは、礼拝する心であり、喜んで礼拝を献げる事です。

レビ記1016節、「10:16 モーセは罪のきよめのささげ物の雄やぎを懸命に捜した。しかし、なんと、それは焼かれてしまっていた。モーセは、アロンの子で残っているエルアザルとイタマルに怒って言った。

10:17 「どうして、あなたがたは、その罪のきよめのささげ物を聖なる所で食べなかったのか。それは最も聖なるものだ。それは、会衆の咎を負い、主の前で彼らのために宥めを行うために、あなたがたに与えられたのだ。

10:18 見よ、その血は聖所の中に携え入れられなかった。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べるべきだったのだ。」

10:19 アロンはモーセに言った。「見なさい。今日、彼らは自分たちの罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を主の前に献げたが、このようなことが私の身に降りかかったのだ。今日、私が罪のきよめのささげ物を食べていたら、そのことは主の目に良しとされただろうか。」

10:20 モーセはこれを聞き、それでよいとした。

形式だけ整っていればよし、ではありません。

手順通りであればよし、でもありません。

形式を外れていても、手順通りでなくても、稚拙でも、霊と真をもって礼拝を献げたならば、唯一真の神様は、その礼拝を喜び、受け入れてくださるのです。

大事なのは、何処で礼拝を献げるか、ではなく、唯一真の神様に礼拝を献げるか、です。

聖所、幕屋、神殿で礼拝を献げる事が重要なのではなく、唯一真の神様に礼拝を献げているか、なのです。

何処に集まって礼拝を献げるか、ではなく、唯一真の神様に礼拝を献げているか、なのです。

誰と礼拝を献げているか、ではなく、唯一真の神様に礼拝を献げているか、なのです。

コリント人への手紙第一1117節、「ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです」とあります。

唯一真の神様の栄光を現す事を第一にしなければならない教会の集まりが、人が中心の集まりとなってしまっては、害をなしてしまうのです。

そして、その事に気が付かず、礼拝を献げた気分に浸る事で満足する人々は、パウロに叱責を受けてしまうのです。

聖所は、幕屋は、神殿は、唯一真の神様と出会う場であり、唯一真の神様と出会う場は、新しい聖所であり、新しい幕屋であり、新しい神殿なのです。

聖霊の住む宮である私たち自身が、新しい聖所であり、新しい幕屋であり、新しい神殿なのです。

私たちは、聖所、幕屋とされているのですが、見方を変えれば契約の箱」でもありましょう。

マナの入った金の壷」、いのちの御ことばを蓄える壷であり、「芽を出したアロンの杖」、唯一真の神様によって選ばれ、祭司とされているのであり、契約の板」、私たちの心には、礼拝の規定、十戒、律法が書き記されており、「ケルビム」、聖霊が私たちを覆い、守ってくださっているのです。

皆さんは、「新しい契約」に入れられ、聖所、幕屋契約の箱」とされ、福音を委ねられているのです。

それは、教会に集まり、籠もるためではなく、教会として出て行くためです。

家庭に、地域に、職場に、福音を届けるためです。

こんな大切な働きが委ねられ、任されているのです。

感謝な事、名誉な事なのではないでしょうか。

大それた働きではなく、地道な働きであり、誰もが出来る働きなのです。

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                                       2023-3-19礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙9章6節から10節

説教題:「幕屋(聖所)での祭儀」

【導入】

私たちは「新しい契約」に入れられましたが、「古い契約」の象徴である聖所、幕屋、神殿、或いは教会が、廃棄された訳ではありません。

聖所、幕屋、神殿、教会での礼拝は、信仰生活の要であり、疎かにしてはなりません。

旧約の時代では、礼拝の中心はささげ物を献げる事、罪を贖う事であり、祭儀が中心でしたが、新約の時代に入り、礼拝は自分自身を献げる事となり、その生き方は神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える事となりました。

加えて、私たちは、聖霊の住まわれる宮であり、自身の身体を通して、唯一真の神様、御子、主イエス様を礼拝するのです。

礼拝は、唯一真の神様、御子、主イエス様を中心とするものであり、唯一真の神様、御子、主イエス様を讃える事です。

さて、しかし、祭儀が不要になった訳ではありません。

ヘブル人への手紙の著者は、祭儀についての説明をしますが、これらも、ユダヤ人にとっては周知の事であり、敢えて説明するまでもない事ですが、原点を確認し、原点を考察する事は非常に有益です。

旧約を良く理解してこそ、旧約を基礎、ベースとしてこそ、唯一真の神様の御旨や、主イエス様のお働きが正しく理解出来るからです。

新約聖書は旧約聖書を理解の助けとし、旧約聖書は新約聖書を理解の助けとするのです。

では、祭儀について確認して行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 9:6 さて、これらの物が以上のように整えられたうえで、祭司たちはいつも第一の幕屋に入って、礼拝を行います。

現代、礼拝は安息日、即ち日曜日に行なわれますが、旧約の時代、礼拝は、毎日行なわれていました。

礼拝の中心は、ささげ物を献げる事でしたが、ささげ物を献げるだけではありません。

ともし火を絶やさない事であり、これは出エジプト記2720節以降に、「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。

27:21会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である」、と記されています。

香を立ち上らせる事であり、これは出エジプト記307節以降に、「アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整え、煙を立ち上らせる。

30:8 アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、煙を立ち上らせる。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である」、と記されています。

そしてパンを献げる事であり、これは出エジプト記2530節に、「机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。

レビ記245節以降に、「 あなたは小麦粉を取り、それで輪型パン十二個を焼く。一つの輪型パンは十分の二エパである。

24:6 それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く」、と記されています。

担当となった「祭司たち」だけが、「いつも」、常時、毎日、日課として、休みなく、「第一の幕屋に入って」、「礼拝を行」ったのです。

強いられた務めではありますが、習慣行事ではありますが、心を込めて、誠実に、これらの務めを行っていたのです。

これは非常に大切、大事な事です。

手を抜く事なく、愚直なまでに、忠実に、です。

創意工夫や変化も、時に必要ですが、祭司の務めは、決められた通りを行うのが、無駄でも勿体なくても、常に最高のモノを、常に真新しいモノを用意するのが、祭司の務めなのです。

9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。

第二の幕屋」、即ち、「至聖所」には、「年に一度」だけ入るのであり、不十分だったからもう一度、手違いがあったからやり直し、は出来ません。

大祭司だけが入ります」、否、大祭司だけしか入る事が出来ないのです。

忙しいから委任する、疲れたから代理が、は出来ません。

その上で、レビ記163節以降、「アロンは次のようにして聖所に入る。罪のきよめのささげ物として若い雄牛、また全焼のささげ物として雄羊を携え、

16:4 聖なる亜麻布の長服を着て、亜麻布のももひきを履き、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶる。これらが聖なる装束であり、彼はからだに水を浴びて、それらを着ける。

16:5 彼はまた、イスラエルの会衆から、雄やぎ二匹を罪のきよめのささげ物として、雄羊一匹を全焼のささげ物として取る。

16:6 アロンは、自分のための罪のきよめのささげ物である雄牛を献げ、自分と自分の家族のために宥めを行う。

レビ記1618節「そして、主の前にある祭壇のところに出て行き、そのために宥めを行う。すなわち、彼はその雄牛の血と雄やぎの血を取り、それを祭壇の四隅の角に塗る。

16:19 また、その残りの血を、その祭壇の上に指で七度振りまく。こうして彼はイスラエルの子らの汚れからそれをきよめ、聖別する。

16:20 彼は、聖所と会見の天幕と祭壇のための宥めを行い終えたら、先の生きている雄やぎを連れて来る。

16:21 アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。これらをその雄やぎの頭の上に載せ、係りの者の手でこれを荒野に追いやる」のです。

決められた通りに行う事が大切なのです。

ささげ物も、服装も、手順も、回数も、です。

これの決め事によって、従順か否かが問われるのです。

若い雄牛が指定されているなら、若い雄牛をささげなければならないのであり、品評会で優秀賞を取った雌牛をささげても意味はないのです。

雄牛の替わりに雄羊や雄やぎでも同様です。

二匹と指定されていたなら、二匹ささげなければならないのであり、間に合わなかったからと云って、一匹しかささげないようであっては、たくさんいるからと云って、三匹をささげても意味はないのです。

意味がないどころか、不従順であり、聖所に入る資格を得ずして入った事になるのであり、不法侵入であり、密入であり、大罪と謂わざるを得ない事なのです。

9:8 聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。

聖所」は、「第二の幕屋、至聖所」の意味とも、「天にある真の聖所」の意味ととる事も出来ますが、「第一の幕屋が存続しているかぎり」、残念ですが、「聖所」、「第二の幕屋、至聖所」には行く事が出来ないのです。

罪や穢れを身に付けたままでは、聖い「聖所」、「第二の幕屋、至聖所」には入れないのであり、罪や穢れを贖わない限り、聖い「聖所」、「第二の幕屋、至聖所」では存在も出来ないのです。

これは憐れみであり、門前払いや締め出し、意地悪ではありません。

不用意に、意図せずして、聖い「聖所」、「第二の幕屋、至聖所」に入ってしまって、咎を負う事の無いようにとの、愛の配慮なのです。

9:9 この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。

そもそも、聖所、幕屋は、唯一真の神様の指示で作られたものであり、天にあるものに似せて、地上に作られたものです。

114節、「主は その聖なる宮におられる。主は その王座が天にある。

出エジプト記2630節、「こうして、あなたは、山で示された定めのとおりに幕屋を設営しなければならない。

地上ではアロンの子孫により、「ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。

9:10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。

即ち、様々な規定では、完全な贖いは見込めないのですが、決して無駄な、意味のない礼拝や祭儀ではありません。

食物」に関する規定は、レビ記112節以降に記されていますので、後でご確認願います。

飲み物」、即ち、お酒に関する規定は、レビ記10章9節に記されていますので、後でご確認願います。

種々の洗い」に関する規定は、レビ記627節、28節、1125節、28節、32節、40節などに記されていますので、後でご確認願います。

真の大祭司、御子、主イエス様が、天の真の聖所に入られ、贖いが完成し、私たちは、天の真の聖所に近づく事が実現するのを待望しつつ、地上での聖所、幕屋、教会で礼拝を献げ、真の礼拝とは何か、規定の目指すところは何か、目的は何か、を学び続けるのです。

これらの規定は、「新しい秩序が立てられる時まで課せられた」、即ち、御子、主イエス様が来られるまでの限定的な規定ですが、主イエス様とパウロは新しい解釈を提示します。

マルコの福音書7章、「7:2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。

7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」

7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。

コリント人への手紙第一1031節、「10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。

ローマ人への手紙1420節以降、「14:20 食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。

14:21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。

14:22 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。

14:23 しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

食物と飲み物と種々の洗いに関する」規定を落ち度なく守っていても、礼拝も、そして重要な祭儀も、信仰から出ていないなら罪なのです。

【適応】

地上の聖所、幕屋の存在目的は、そこで行われる礼拝や祭儀は、真の礼拝とは何か、規定の目指すところ、目的は何か、を学ぶためのものです。

自己満足や低い設定に甘んじる事なく、最高の礼拝を献げるべくです。

天での、真の聖所での、真の礼拝を望みつつ、地上で、仮の聖所で、不十分な礼拝を献げるのです。

信仰から出た礼拝、信仰から出た祭儀、信仰から出た奉仕、信仰から出た交わりを行うのです。

唯一真の神様は、不十分な礼拝、奉仕、祭儀を喜んで受け入れてくださいます。

しかし、それに甘んじる事なく、最高の礼拝、奉仕、祭儀を目指し、学び、訓練を受け、天の、真の聖所での、真の礼拝、真の奉仕、真の祭儀を献げる備えとするのです。

申命記85節以降、「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。

8:6 あなたの神、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。

8:7 あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。

日本は八百万の神を擁する社会であり、それが風習に、日常に強く広く深く染み込んでいます。

その中で、唯一真の神様だけを信じ、お仕えするのは、容易な事ではありませんが、だからこそ、主イエス様の贖いにより、支えにより、助けにより、守りにより、導きにより培った、唯一真の神様に対する信仰には、大きな価値があるのです。

皆さんの献げる礼拝、祭儀は、価値あるものであり、唯一真の神様の喜ばれるものなのです。

主イエス様による真の礼拝、真の奉仕、真の祭儀を待ち望みつつ、地上でも、仮の聖所でも、主イエス様と共にお仕えしていこうではありませんか。

地上での礼拝や祭儀は、主イエス様が来られるまでの継続であり、訓練であり、賜物の活用なのであり、恵みなのであり、特権なのであり、祝福なのです。

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                                       2023-3-26礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙9章11節から14節

説教題:「永遠の贖い」

【導入】

旧約の時代、礼拝の中心はささげ物を献げる事、罪を贖う事であり、祭儀が中心でした。

罪の贖いのためのささげ物やいけにえには、細い規定や指定があり、細心の注意を払わなければなりませんでした。

祭儀は、祭司や大祭司が行わなければなりませんでしたが、其処にも様々な規定がありました。

祭儀の手伝いは、レビ人が行わなければなりませんでした。

贖いの効力には限界があり、過去の罪と現在の罪に対する贖いであり、繰り返し行わなければなりませんでした。

ですから、タイムラグ、時間差には対応し切れませんでした。

即ち、罪を犯してしまい、贖いが間に合わなければ、大変な事になる訳です。

まあ、落ち着かない、不安を抱えた生活を送っていた訳ですが、仕方がない、と諦め、「御こころならば・・・」と、祈らざるを得なかったのです。

しかし、唯一真の神様は、この問題に完全、且つ、永遠、不可逆的な解決を与えたのです。

それは今まで語って来た事ですが、唯一真の神の御子、主イエス様が来られ、大祭司となり、いけにえとなられて、贖いを成し遂げられた事ですが、更に、ヘブル人への手紙の著者は、贖いの永遠性について、話を進めます。

【本論】

新改訳2017版 9:11 しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、

人の手で造った物」、「この被造世界の物」は、どんなに立派でも、技術の粋を集めても、最高の材料を使っても、永らえて欲しいと願っても、必ず朽ち、崩壊し、消滅します。

人も、組織も同じです。

未来永劫まで続くかと思われた、あの、栄華を極めたソロモン王国でさえ、世界を支配し、「全ての道はローマに通ず」と謳われたローマ帝国でさえ、痕跡、遺跡は残っているかも知れませんが、瓦解、崩壊、消滅しているのです。

マルコの福音書131節、「13:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、一人の弟子がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

エルサレム神殿、誰が蹂躙、崩壊を予想し得たでしょうか。

唯一真の神の宮であり、必ず守ってくださる、ローマ人が踏み込んで来るはずがない。

エルサレム神殿のみならず、全てのモノは、唯一真の神様の御旨で、永続し、また、崩壊するのであり、偶像礼拝に走るなら、エルサレム神殿といえども、崩壊するのであり、唯一真の神様への従順を貫くなら、小さな町の教会も立ち続けるのであり、そこに神様の栄光が現れるのです。

イエス様の時代、祭司たちは、ユダヤ民族、即ちユダヤ教の存続、神殿存続のためにローマ帝国に協力的だったのですが、行き過ぎた部分があり、利用した部分があり、一線を越え、ローマ帝国に取り入ろうと画策し、妥協し、忖度したのであり、そんな態度は、唯一真の神様に嫌われるのではないでしょうか。

戦時中、教会の存続を願い、信徒を守るという理由で、礼拝堂にご真影を掲げ、宮城遥拝を行い、礼拝式次第にもこれらを取り入れ、戦争協力をした教会が多くありました。

十戒の、第一戒、第二戒に明らかに抵触していたのです。

その罪責を告白しなければ、真の復興はあり得ないのではないでしょうか。

現在の、キリスト教界の衰退は、この辺にも原因の一因がありはしないでしょうか。

さて、この世には永続するモノなど、唯の一つもないのですが、人間にも同じ事が言えます。

アロンも、その子孫も、レビ部族も、罪人であり、その働きには限界があったのです。

地上には、唯一真の神様の御旨に適う、物も人もいないのです。

しかし、天には、「人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋」があり、

罪のない人間、御子、主イエス様がそこに入られたのです。

地上の幕屋、聖所、神殿は、天にある幕屋に似せて造られたモノであり、指示通り、寸分違わずに造られていても、非の打ち所なく完璧でも、時とともに劣化していくのであり、朽ちていくのです。

しかし、天にある幕屋、聖所は、劣化する事はなく、朽ちる事もないのです。

そこで行われる祭儀も、瑕疵のないもの、完全な祭儀なのです。

幕屋、聖所の完全性に加え、ささげ物、いけにえの完全性が語られます。

9:12 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

ただ一度だけ」であり、何度も繰り返す必要は全くありません。

アロンの系譜の祭司は何度も繰り返しささげ物を献げなければならず、大祭司は毎年、繰り返し、ささげ物を献げなければならないのです。

何故ならば、「雄やぎと子牛の血」であるからであり、「雄やぎと子牛の血」であるならば、それは人間の血の代用であり、人間の血と見做してのささげ物であるからです。

天の聖所に似せて造られた、仮の聖所で献げられるからですが、しかし、主イエス様は「ただ一度だけ聖所に入」られ、「永遠の贖いを成し遂げられ」たのです。

主イエス様の贖いは完全であり、永遠性を持ったものであり、永遠に有効なのです。

何故ならば、主イエス様のささげ物は、「ご自分の血」であり、人間の血であり、本物だからです。

主イエス様の血は、主イエス様に属する民の贖いのために、天にある本物の聖所に於いて、唯一真の神様に直接ささげられたものであり、贖いは、永遠のものであり、永遠に有効なのです。

しかし、地上でのアロンの系譜の祭司や大祭司の働きが、無意味なのではありません。

9:13 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰」の効能が語られます。

造り方と注意事項が、民数記191節以降に、用法と注意事項が、民数記1911節以降に記されていますので、後で読んでご確認願います。

これは永遠の掟であり、聖い神様との交わりのために、絶対に必要な手続きなのです。

場所も、ささげ物も、執り行う祭司も、どれもこれも不十分であり、繰り返さなければなりませんが、

9:14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

いけにえですが、「傷のない」事が絶対条件です。

傷のない」は、「罪のない」の意味であり、人間の罪の身代わりなので、一切の「罪のない」ものを、即ち、一切の「傷のない」動物を用意しなければならないのです。

これはレビ記13節以降に、出エジプト記125節以降などに記されていますので、後で読んでご確認願います。

傷のない」動物を、即ち、外傷や欠損の一切ない動物、病気でない動物、一切の欠陥のない動物、足の曲がってないもの、短か過ぎず、長過ぎないものを、用意しなければならないのであり、まあ、簡単な事ではありません。

しかし、それなりの効果があるのであり、これに期待し、縋るしかなかったのです。

なにしろ、これしか罪を贖う方法が、人間には提示されていなかったのですから。

しかし、主イエス様が大祭司となられ、完全、且つ、永遠の効力を持つ「ご自分の血」を献げられたのです。

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰」を溶かした水に、限定的ではあっても、絶大な効果があるのですが、更に、否、桁違いなのが主イエス様が流された「」であり、贖いのお働きなのです。

主イエス様の流された「」しか、私たちの罪を贖う手段はないのであり、完全、且つ、永遠にその効力を保持し続けるのです。

【適応】

この世に、永続するものは、一切ありません。

人間の目で見れば、変わらないように見えても、有史以来のものが、当時の姿かたちで存続しているものはありません。

社会制度も、価値観も、変化し続けています。

一昔前なら、何の問題もない言動が、差別、ハラスメント、などとして問題になります。

人間の作ったもの、考え出したもの、約束などは、変化し、廃れます。

しかし、唯一真の神様の造られた制度、約束は、変わらず、廃れる事はありません。

マタイの福音書518節、「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。

ペテロの手紙第一123節後半から、「生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。

1:24 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25 しかし、主のことばは永遠に立つ」

この世に、信じ切れる事、断言出来る事は、多くはありません。

否、皆無、と断言してもいいのではないでしょうか。

しかし、主イエス様の血による贖いは、唯一真の神様のお約束であり、このお約束が反故になる事はなく、効果は未来永劫、変わる事はないのです。

期限が来た、条件が変わった、状況が変わった、などという事はないのです。

私たちの不誠実さ、罪深さ、不従順さに、全く影響を受けません。

だから、安心して、信頼して、確信を持って、「私の罪は贖われている」と信じる事、断言する事が出来るのです。

不確かな事の上に構築した、思い込みや願望ではなく、唯一真の神様のことば、約束は、信頼出来るのであり、「私の罪は永遠に贖われている」と確信出来るのです。

この確信が覆る事はありません。

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