2023-4-2礼拝

聖書箇所: ヘブル人への手紙9章15節から22節

説教題:「契約の血

【導入】

旧約の時代、礼拝の中心はささげ物を献げる事、罪を贖う事であり、祭儀が中心でしたが、いけにえは、罪の贖いのためであるとともに、契約締結を確認する意味も込められています。

唯一真の神様とアブラムは、契約を結びます。

アブラムは唯一真の神様に従い、神様はアブラムを祝福する、という契約です。

契約の様子は、創世記15章に記されています。

15:9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」

15:10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。

詳しくは、そして全体は、各自でご確認願いましょう。

約束の時に血が流されたのであり、血を流す事で契約が成立したのです。

今では「血判」などと云う言葉は、死語になってしまっているかも知れませんが、重要な約束事の時には、血を流す事が行なわれ伴っていたのです。

契約は一度きりですが、血を流す事を繰り返す事で、契約を思い起こし、新たな気持ちで契約に取り組むのです。

ヘブル人への手紙の著者は、血を流す事、献げる事について、話を進めます。

【本論】

新改訳2017版 9:15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。

古い契約は、動物の血を献げる事で、人間の罪を贖い、人間が神様の祝福を受けられるようにするものですが、繰り返し行なわなければなりませんでした。

動物の血による贖いは、過去と現在の罪に対してであり、将来犯すであろう罪に対しては、効果がないからです。

しかし、「新しい契約」は、御子、主イエス様の血を献げる事で、過去と現在、そして将来犯すであろう罪に対しても効果を持ち、何度も血を献げる必要はないのです。

主イエス様の贖いは、完全性を持ち、永遠性を持つからです。

召された者たち」、即ち、主イエス様を信じる者たちは、主イエス様が再び来られる時に、主イエス様と共に来たる「約束された永遠の資産」、即ち、天の御国の共同相続人となり、天の御国を「受け継」ぎ、天の御国の住民となるのです。

ここでのポイントは、「召された者たち」であり、唯一真の神様と契約を結んだ者たちであり、主イエス様を信じる者たちです。

働きとか、成果とか、貢献度は一切問われません。

極端な例ですが、何もしなくても、大損害をもたらしても、契約の当事者である限り、天の御国を「受け継」ぎ、天の御国の住民となるのです。

不作為の責任や、損害の全ては、主イエス様が贖ってくださっており、清算されているからです。

ここで、ヘブル人への手紙の著者は、「契約」という概念を、「遺言」という概念を使っての説明を試みます。

何故ならば、「契約」と云うギリシャ語には、「遺言」と云う意味があるからです。

9:16 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。

9:17 遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。

極、当たり前の事ですが、「遺言」は、遺言書があってもなくても、口約束であっても、「遺言者が生きている間には、決して効力を持」たず、「遺言者が」「死んだとき初めて有効になるので」す。

遺言者が」「死んだとき初めて有効になるので」あり、それまで遺言書は、一片の紙切れに過ぎず、何の効力もなく、価値はありません。

遺言書の存在を根拠に、死ぬのを見越して手続きを進めたり、財産に手を付けるのは、許される事ではありません。

しかし、「遺言者が」「死んだとき初めて有効になるので」あり、法的に有効となり、手続きを進める事が出来、財産を自由にする事が出来るのです。

遺言」は、遺言者が「」んで始めて有効となるのですが、「契約」は、「」を流す事で有効になります。

ユダヤ社会に於いて、「」は「いのちそのもの」を意味するのであり、「」を流す事は「」を意味するのです。

ヘブル人への手紙の著者は、「契約」と「遺言」、「」を流す事と、遺言者が「」ぬ事を関連付け、読者の理解の助けとするのですが、喩えは、解り易い反面、文化なども強く影響します。

」と「」が関連している事には同意できても、「」に対するイメージは様々でしょう。

血は気持ち悪いもの、と云うイメージを持ち、血を見て気分が悪くなる人もいます。

死に対しても、忌むべき事と考える人がいて、非常な恐怖を持つ人もいて、縁起でもない、と受け付けない人もいます。

ヘブル人への手紙の著者は、「契約」に話を戻します。

9:18 ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。

遺言」が有効になるためには、「遺言者が」「死んだとき初めて有効になるので」すが、同じ事が、「契約」に付いても言えるのであり、「契約」の場合も、約束だけでは、「新しい契約」が効力を発揮する事はありません。

」を流す事によって、「」を献げる事によって、成立し、有効になるのです。

唯一真の神様は、「始めの契約」を立てられた時、動物の血を流され、契約を有効なものとされましたが、唯一真の神様との約束、「新しい契約」は、御子、主イエス様の「」を流す事によって有効となさるのです。

魅力的な契約であっても、直ぐに有効としたい契約であっても、「」を流すまでは、「絵に描いた餅」であり、何の力効力もありませんが、主イエス様の「」を流す事によって成立し、有効となり、私たちの罪を完全に、永遠に贖うのです。

9:19 モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、

この逸話と同じ記述はありませんが、出エジプト記243節から8節、及び、民数記196節などからの自由引用のようです。

後ほど、お読み願いたいと思いますが、この状況の時に、「契約の書」なるものはなく、祭壇に「」を振りかけましたが、それをモチーフに、唯一真の神様と民、即ち、契約の当事者に「」が振りかけられ、契約が成立した事を現しているのでしょう。

9:20 「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。

この逸話は、出エジプト記248節からの引用です。「モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」

このように、唯一真の神様と私たち罪人との関係は、「契約」であり、主イエス様の「」が流されて成立し、有効となったのです。

契約」は、明確な約束事に対する、双方の合意ですから、適当であったり、いい加減であったり、有耶無耶であったりでは、「契約」の要件を満たしておらず、「契約」は成立しません。

どちらかの、一方的な思い込みや強要ではなく、双方の自由な合意の上での「契約」なのです。

そして、契約は破棄、解消しない限り、有効であり続けるのです。

9:21 また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての器具にも同様に血を振りかけました。

この逸話も、19節と同じように、同じ記述はありませんが、類似の出来事、油を振りかけた逸話から引用し、祭司や民に、血を振りかける事によって贖うように、「幕屋と、礼拝に用いるすべての器具」も、贖われる必要性がある事を示しているのでしょう。

9:22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

きよめ」は、ユダヤ社会、ユダヤ教の重要な概念です。

血か、油か、水か、の違いはありますが、全てのものは、きよくなければ、きよめなければ、きよい、唯一真の神様に近づく事も、仕える事も、献げる事も出来ないのです。

きよめ」は、霊的、道徳的な意味も含みますが、重要なのは「贖い」である、と云う事です。

贖われていなければ、きよい、唯一真の神様に近づく事も、仕える事も、献げる事も出来ないのです。

善意や厚意も大切ですが、善意や厚意で、きよい、唯一真の神様に近づく事も、仕える事も、献げる事も出来ないのです。

」と「きよめ」は不可分の関係にあり、「罪をきよめる」とは、「罪の赦し」に他ならないのです。

【適応】

私たちは、主イエス様の流された血によって、きよめられ、贖われています。

そのきよめ、贖い、の効果は、絶大であり、不変、完全であり、永遠です。

将軍ナアマンの様に、七回、水を浴びなければならない、事はありません。

大祭司が行なったように、毎年定期的に行なう事もありません。

一般的に契約は、数年毎に見直しの規定が設けられていたりしますが、それもありません。

一度きよめられたら、永久にきよいのであり、一度贖われたら、永遠に贖われているのです。

この契約、唯一真の神様とアブラハムを当事者、契約の起点としていますが、唯一真の神様はアブラハムの子孫、血縁的子孫のみならず、霊的子孫とも契約を結ばれているのであり、私たちも、この契約に組み込まれており、契約の当事者なのです。

私たちも、主イエス様の血のきよめ、贖いに与っているのであり、きよめられ、贖われているのです。

この契約は、手続きに則り、正式に結ばれたのであり、主イエス様の血が流されているので、契約は成立しているのです。

この契約は唯一真の神様が提唱者であり、それ故に、変更される事も、打ち切られる事も、終わる事もないのです。

主イエス様の血によって、私の罪は永遠に贖われて、きよい者とされているのです。

この契約が覆る事はありません。

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聖書箇所: ヨハネの福音書20章1節から18節

説教題:「墓をふさぐ石」

【導入】

今日はイースターと言う事で、主イエス様の復活を記念する行事が、各地で行われているようです。

さて、「イースター」というのは、何でしょう。

「イースター」の由来について、確認致しましょう。

諸説の一つに「イースター」はヨーロッパに住んでいたチュ―トンという民族の信じる「春の女神(Eostreイオストレー)」に由来したお祭りだと言う説があります。

チュートンの民は毎年4月に、この「春の女神」に生贄を捧げていました。

冬の寒さから、春の暖かい日差しを受けて、草木が芽生え、冬眠していた動物も元気を取り戻す。

春の到来を心待ちにしている様子が「春の女神」のお祭りに現われています。

この「春の女神」のお祭り「イースター」と、主イエス様の復活がどのようにして結びついていったのでしょうか。

【本論】

主イエス様が十字架に付けられたのは、過ぎ越しの祭りの時期でした。

過ぎ越しの祭りは、ニサンの月の、14日の夕方から始まる、とされていて、イスラエル人にとって重要な祭りの一つです。

ニサンの月というのはイスラエル人の暦の数え方で、現代の暦では3月中旬から始まり、4月中旬に終わります。

ですからニサンの月の14日と言うのは、3月末、4月初頭に当たる訳です。

その過ぎ越しの祭りと、主イエス様の復活とを結びつけて、ユダヤ人キリスト者たちはお祝いしていた訳ですが、

キリスト教がヨーロッパに広まって行ったとき、ヨーロッパで古くから祝われていた、4月初頭に始まる「春の女神」と言う土着の宗教のお祭りと結びついて、祝われ出したのが「キリスト教的イースター」と言う事なのです。

キリスト教がヨーロッパの宗教となって、「春の女神」としての「イースター」は祝われなくなっていっても、「キリスト教的イースター」は引き継がれて行った訳でしょう。

「イースター」は異教的と言える訳ですが、「イースター」だけが、土着の宗教と結びついているのではありません。

「クリスマス」もその由来を調べて見ると、ペルシヤに起源を有するミトラ教の影響を受けていた、と言われています。

土着の宗教と深く関わった「イースター」や「クリスマス」ですが、だからと言って、否定するのではなく、「イースター」や「クリスマス」を通して、救い主イエス・キリストのご降誕と復活こそ全人類に対する全能の神からの最高の贈り物であり、喜びであることを世にあかしする責任と任務が与えられているのではないでしょうか。

「イースター」を主イエス様の復活の日として祝う事になった訳ですが、主イエス様の復活は墓場がその舞台となっています。

20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。

主イエス様が葬られたのは、ゴルゴダの丘の近くにある、アリマタヤのヨセフの、私有の墓地でした。

金曜日の夕方、墓に収められ、3日目の日曜日の、朝早く、まだ暗いうちに復活されたのです。

そして、その復活は、霊的な意味での復活では有りませんでした。

霊的な復活であれば、墓の入り口の石を取りのける必要はありません。

霊的なものならば、物質の影響は受けないでしょうから、石をすり抜けてしまうでしょう。

主イエス様が霊的にも物質的にも復活をされたことの証拠が、「墓から石を取りのけて」なのです。

死んで墓に葬られた主イエス様が、物質的な身体を持って復活され、墓から出て来た事を、現すのが「墓から石を取りのけて」なのです。

墓の石がそのままならば、主イエス様が復活されたのかどうか、分かりません。

墓の石がそのままならば、主イエス様が出て来たのかどうかも、分かりません。

だからこそ、まず最初に、墓の石が取りのけられていて、墓の中が空だったことを、マグダラのマリアと一緒に墓に行った数人の女性は目撃者となる必要があったのです。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもうひとりの弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」

20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。

20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。

20:6彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。

墓の石が取り除かれていて、墓の中が空だったからこそ、マグダラのマリアは主イエス様を探したのです。

この時点でマリアも弟子たちも主イエス様が預言した事を正しく理解しておらず、主イエス様が復活したとは思っていませんでした。

2だれかが墓から主を取って行きました

9まだ理解していなかったと記されているとおりです。

この世の常識と、自分達の体験では、「死んだ人が生き返る」と言う事は受け入れられる事ではありません。

仮死状態から蘇生する、と言う事なら、有り得ない事ではありません。

しかし主イエス様の死は、仮死状態だったのではありません。

鞭打たれ、歩くのもやっとの状態で十字架に付けられ、槍で脇腹をえぐられて、完全に死んでいるのをローマの百人隊長、兵士たちに確認された上で、墓に葬られたのです。

ですから主イエス様の復活は仮死状態からの蘇生ではありません。

完全な死から、完全な命へ、朽ちる身体から、朽ちない身体へ、古い身体から、新しい身体への復活です。

しかし、弟子たちはこの事を理解できていなかったのです。

では8節にある先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」という記述は何を意味するのでしょうか。

先に墓に着いたもうひとりの弟子は、主イエス様の身体に巻かれていた亜麻布と、頭に巻かれていた布切れとが巻かれたままになっているのを見て、2節でマリアが言うような「だれかが墓から主を取って行」ったのではないことを確信します。

主イエス様の身体が誰かによって持ち去られたのではなく、唯一真の神様の大能の御手によって何かが起こった事だけは信じたのではないでしょうか。

主イエス様の復活を漠然と感じてはいたが、聖書の預言とは関連付けて考えられなかった。

だから、9イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったとの注釈が記されているのです。

20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。

20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち 「先生」とイエスに言った。

園に残ったマリアは復活した主イエス様と出会いますが、主イエス様だとは分からず、園の管理人だと誤解します。

二言、三言の会話があっても、まだ気が付きません。

しかし親しくマリアと名前を呼ばれたその時、全てがクリヤーになるのです。

霧がかかっていてぼんやりとしか見えなかったのが、霧が晴れて一気に全てが見通せる様に。

墓の石が取り除かれていて、墓の中が空だったと言う事実と、主イエス様の「三日目に甦る」と言った預言が、マリアと名前で呼びかけられた事で結び付いて、マリアは側に立っておられる方が主イエス様だと認知する事が出来たのです。

エマオに行く途中の二人の弟子も、何時間も一緒にいて、親しく話しをしていたのに、主イエス様だとは分からなかったのです。

彼等も、墓の石が取り除かれていて、墓の中が空だったと言う証言を聞いていたからこそ、目の前のお方がパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された、その姿を見た時、目が開かれた時、一緒に居られる方が主イエス様だと認知する事が出来たのです。

主イエス様の復活を信じ受け入れる、切欠となる出来事は人それぞれです。

事実の積み重ねがあれば、信じられる訳ではありません。

腑に落ちる、って言いますけれど、散々説明を聞いても、中々理解できないのに、何かの瞬間に「ああ、そう言う事か」っていう体験、皆さんも在るのではないでしょうか。

何年も教会に通っていて、聖書の知識は豊富でも、それで、主イエス様を信じられる訳ではありません。

逆に、聖書を読んだ事が無くても、教会には数回しか来た事が無くても、主イエス様を信じる事になる人が居るのも事実です。

私たちの側から見れば、「私が信じた」のですけれど、神様の側から見れば、聖霊様を送ったので、信じる事が出来た、と言う事なのです。

聖霊様が働かれた時、私たちの心は主イエス様を受け入れ、信じる事が出来るのです。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主をみました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

すがり付く事の出来る身体がありました。

聖書の別の箇所では、釘の跡がある手、刺されたキズ跡のあるわき腹を示し、触りなさいと促しました。

湖の畔で弟子たちとパンを食べ、魚を食べる身体をもって、墓から出てきたのでした。

主イエス様の復活は、霊的存在、幻覚、象徴などでは決してないのです。

主イエス様は霊的、肉体的な身体を持って復活されました。

私たちが霊的な苦しみに会う時、主イエス様も霊的な苦しみを共有して下さるためです。

私たちが肉体的な苦しみに会う時、主イエス様も肉体的な苦しみを共有して下さるためです。

私たちの一生は死で終らず、新しい身体への復活がある事の証拠、希望の為です。

だから主イエス様は肉体をもって、復活されたのです。

主イエス様の復活には肉体が必要、不可欠だったのです。

だから、墓から出てこられる時、墓を塞いでいた、石を取り除く必要があったのです。

【適応】

墓を塞いでいた、石にはもう一つの意味が有ると思います。

主イエス様と会う為には墓の石が取り除かれる必要があったのですが、この石は私たちの心のふたを現してはいないでしょうか。

私たちの心が塞がれていては、主イエス様は私たちに会いに入って来る事が出来ません。

この石は主イエス様と私たちの交わりを妨げる隔ての壁なのです。

この石を取り除かなければ、私たちは主イエス様とは会う事が出来ないのです。

この石はどうしたならば、取り除くことが出来るのでしょうか。

人の力では動かす事の出来ない、大きくて重い石なのです。

でも、安心してください。

マグダラのマリアが墓に来た時、石はすでに取り除けられていました。

その時の状況がマタイの福音書には詳しく記されています。

読みますのでお聞き下さい。マタイ2812節です。

28:1さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。

28:2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。

人の力にはよらないで、重い大きな石は取り除かれていたのです。

マリアの心配をよそに、障害はちょうどその時に、取り除かれたのです。

人の努力や働きによるのではありません。

「主イエス様に会いたい。」

マリアはこの気持ちだけで、墓に行ったのです。

神様はマリアの思いに応えて下さり、御使いを遣わして石を取り除いて下さいました。

再び、塞がれる心配はありません。

「主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである」

主の使いが、石を転がし、転がした石の上に座って、石が動かないようにされているのですから。

同じように、心の石は、人の力や努力によって取り除かれるものではありません。

神様の憐れみによって取り除かれ、聖霊様の働きによって、再び塞がれる事はないのです。

だから、主イエス様との関係が絶たれる事は有りません。

私たちは何時でも主イエス様とお会いする事が出来るのです。

「イースター」は主イエス様の復活をお祝いする日です。

そして、墓の石が取り除かれていた事に、象徴される、主イエス様と私たちの隔ての壁が取り除かれた事を感謝する日なのです。

ここに居られる皆さんの心の石はすでに取り除かれていますか。

主イエス様をお迎えしたい、会いたいと願うなら、その通りになるのです。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。

この時点で、本当の意味で主イエス様の復活を理解していなかった事は先に学びました。

全てを理解しなければ信じる事は出来ない……。

そう言う生き方も在るでしょうが、有限な人間に、無限の神様を理解する事が出来るでしょうか。

そのプロセス、仕組みは良く解らない。

でも神様がなさる事だから、と言う謙った態度で信じた時、聖霊様の助けにより理解出来る時がやがて訪れるのです。

何と感謝な事ではないでしょうか。

ここに居られる皆様が、更に深く、更に親しく主イエス様との交わりに入るようにと祈ります。

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聖書箇所: ヘブル人への手紙9章23節から28節

説教題:「完全な贖い」

【導入】

充分な理解のためには、また身に付けるためには反復が重要であり、スポーツでも、学習でも、反復の重要性は変わりません。

聖書の教えも同じです。

充分な理解のためには、また身に付けるためには繰り返し、繰り返し学ばなければなりません。

週一の説教だけでは不十分、否、全く足りません。

毎日の聖書通読やデボーションがあってこそ、聖書通読やデボーションで補完してこそ、理解に近づき、また身に付くのではないでしょうか。

聖書の教えるところを理解し、唯一真の神様の御こころ、御旨を行なえるのです。

この世の常識や、生まれ育った社会、文化の影響は、思う以上に広く、深く、強く、誰もが、この世の常識や、生まれ育った社会、文化を手掛かり、足掛かり、参考にして理解するのであり、聖書の教えるところとは相容れない、聖書の教えとは似て非なる理解になってしまっている可能性があるのです。

日本に生まれ育った人ならば、日本的キリスト教に成りかねず、自己流の信仰になっている可能性があるのです。

常に聖書から学び続け、聖書で確認、修正し続けなければならないのです。

ヘブル人への手紙の著者は、贖いについて、繰り返し語ります。

【本論】

新改訳2017版 9:23 ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。

天にあるものの写し」とは、地上の幕屋、至聖所などのことであり、「これらのもの」とは、動物の血であり、地上の幕屋、至聖所などは、「写し」であり、模型であり、似せて作られたモノであり、きよめなければ、機能を、効果、効力を発揮出来ないのです。

それは、「天上にある本体そのもの」に付いても、同じです。

天上にあるモノなのですから、汚(よご)れている訳でも、穢(けが)れている訳でも、古びている訳でもありません。

天上にある、優れて素晴らしいモノであっても、被造物であり、一介のモノでしかありませんので、「きよめられる」、即ち、唯一真の神様に相応しく整えられる「必要が」あるのです。

そのきよめの方法は、繰り返し繰り返し、行なわなければならない動物の血ではなく、欠陥、瑕疵がある動物の血ではなく、繰り返す必要のない、欠陥、瑕疵の全くない、完全、完璧な、非の打ち所のない「すぐれたいけにえ」でなければならず、ここまでに、繰り返し述べて来たことですが、御子、主イエス様のいのちで、御子、主イエス様の血できよめなければならないのです。

9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。

御子、主イエス様の働きは、地上の幕屋、聖所に於いてではありません。

これも繰り返し述べて来たことですが、地上にはアロンの系譜の者がおり、民の罪の贖いを行ない、レビ部族の者がおり、地上の幕屋、聖所に仕えておりますので、主イエス様が地上に於いて、贖いを行なう、幕屋、聖所に仕えられる必要はありません。

否、唯一真の神様の御旨を蔑ろにする行動であり、秩序を乱す行為であり、御子と謂えども、地上のことに口出し、手出しは厳禁なのです。

有能な故に、熱心な故に、職務を逸脱することは、善意であっても秩序を乱すことであり、分を弁えなければならないのではないでしょうか。

地上のことは地上に居る者に任せ、人の力の及ばない天上のことは、主イエス様にお委ねするのです。

主イエス様は、「天そのものに入られ」、「私たちのために神の御前に現れて」、即ち、仲介者となり、唯一真の神様と罪人である私たちを引き合わせてくださるのです。

主イエス様のいのちが献げられたことによって、死によって、罪人である私たちは、唯一真の神様に受け入れられ、唯一真の神様の御許に近づくことが出来、唯一真の神様から祝福を受けることが出来るのです。

9:25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。

9:26 もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

御子、主イエス様と地上の大祭司との違いは、月とスッポンの差、雲泥の差です。

アロンの系譜の大祭司は、偉大な、選ばれし者ですが、罪人に過ぎず、先ずは自分の罪の贖いをした後に、民の罪の贖いを行なわなければなりません。

しかも、毎年繰り返さなければなりません。

しかし、御子、主イエス様は、唯一真の神の御子であり、一切の罪、霊的な罪も、律法的な罪も、道徳的な罪もなく、自身の贖いをする必要はなく、過去、現在、未来、全ての人類の贖いを、唯の一度で、完全に、永遠に成し遂げられたのです。

9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

人間」が、「一度死ぬこと」と「死後にさばきを受けること」は、唯一真の神の「」めであり、誰一人、逃れる事は出来ません。

同じく、

9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

キリスト」が、「多くの人の罪を負うため」と「人々の救いのため」に「現れ」るのも、唯一真の神様の定めなのです。

多くの人」は、文字通りであり、狭義の、ユダヤ人、キリスト者に限定されず、広義の、全人類の意味であり、過去の人も現在生きている人も、未来の人をも含みます。

」は、狭義の、霊的な罪、律法的な罪、道徳的な罪、は当然のこと、広義の、的外れ、反逆、違反、倒錯、邪悪・・・などの罪に対してもであり、

それらの罪を負ってくださったのです。

狭義、広義の罪のみならず、イザヤ書5310節には、「彼を砕いて病を負わせる」と記され、11節には、「彼らの咎を負う」と記されており、12節には、「背いた者たちのために、とりなしをする」と記されているとおりです。

御子、主イエス様の死は、私たちの罪の贖いのための完全な献げもの、いけにえであり、贖いは、完全、無欠であり、どのような意味でも補われる必要はないのです。

【適応】

古の民は、贖罪の日に、大祭司が贖いのためのいけにえの血を携えて、聖所に入り、務めを果たし終えて、姿を現すのを、期待と恐れの入り混じった思いで待ちました。

大祭司が無事に姿を現すのは、献げられたいけにえの血が受け入れられたことを意味するからであり、唯一真の神様の怒り、呪いが去った事を、祝福が与えられることを意味するからです。

大祭司が聖所から出てきた時には、本当に安堵したのではないでしょうか。

もしも、大祭司が姿を現さないような事態が起こったならば、それは、いけにえの血が受け入れられなかった場合であり、唯一真の神様の怒りが治まっていないことを、祝福が取り去られ、呪いが下されることを意味するからです。

人間の大祭司の贖いの働き、動物の血であるならば、不測の事態が起こる可能性は“0”ではありません。

民は、固唾を呑む思いで、見守っていたことでしょう。

しかし、一方、唯一真の神の御子、主イエス様が大祭司となり、ご自身の血を携えて、天の聖所に入られ、務めを果されるのであり、不測の事態が起こる可能性は“0”なのです。

完全に贖われるのであり、永遠に贖われるのであり、不測の事態が起こる可能性は完全に“0”、永遠に“0”なのです。

これほど確実なことは、この世にも天にもありません。

世の中に、完全といわれることがあっても、何かしらか、手を入れなければならず、メンテナンスをしなければならず、完全を保持し続けなければなりませんが、主イエス様の贖いは、本当に完全であり、一切の補完的作業は不要なのです。

この贖いが無効になること、時効が来ること、変更になることはありません。

その完全な贖いに、私たちは招かれているのです。

主イエス様の血によって、私の罪は完全に、永遠に贖われて、罪のない者、きよい者とされているのです。

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                                       2023-4-23礼拝

聖書箇所: ヘブル人への手紙10章1節から4節

説教題:「影のもので満足していいのですか」

【導入】

昨今、海外からの旅行者が増え、海外への旅行者も増えていますが、旅行といえば、ショッピングも楽しみの一つのようです。

欲しかったブランド品を手に入れて、税関を通過しようとしたら、模造品であって没収された、などということにならないように注意したいものですが、模造品は、本当に良く出来ていますが、その価値は本物の比ではありません。

勿論、それなりに、役には立つでしょうし、模造品でもいい、という考え方もあるでしょうが、模造品は模造品でしかなく、本物ではないのです。

本物には手が出ないから、模造品で我慢し、模造品で満足する・・・、ちょっと残念ですが、仕方がないかもしれません。

しかし、本物が手に入るのに、模造品で我慢し、満足するのは、残念を通り越して、驚きを禁じえません。

それは、本物の持つ力を過小評価しているからなのではないでしょうか。

ヘブル人への手紙の著者は、模造品で満足している人々に、警告を与えます。

【本論】

新改訳2017版 10:1 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。

律法」は、唯一真の神様から与えられたモノであり、素晴らしいものではありますが、「来たるべき良きもの」を指し示すモノであって、「実物」、本物ではありません。

来たるべき良きもの」とは、御子、主イエス様であり、主イエス様によってもたらされる天の御国です。

律法」は、何が唯一真の神様に喜ばれ、受け入れられるかを示し、何が嫌われ、呪われるかを示すモノでもあります。

唯一真の神様の御旨を知る手段であり、唯一真の神様に近づく道である、といえます。

律法」の、幕屋、聖所に関する規定は、天にある幕屋、聖所を指し示し、いけにえ、大祭司に関する規定は、主イエス様を指し示しますが、「実物」、本物ではありませんから、「いけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません」。

しかし、「律法」は、古の時代にあっては、天にあるものを指し示し続けたのであり、「実物」、本物に引き継ぐ役割を果したのであり、「律法」は、無意味でも無益でもありません。

否、「律法」は、廃棄されるものではなく、「実物」、本物を知る拠り所であり、一点一角も疎かにしてはならないのです。

勿論、「律法」、祭儀、いけにえによって贖われる訳でも、救われる訳でも、唯一真の神様に近づける訳でもありませんが、「律法」によって、「律法」の不完全さを知るのであり、更なるものを求めるきっかけになるのであり、「律法」の必要性と重要性が減じる事はないのです。

律法」は、「年ごとに絶えず献げ」るように教えていますが、単に繰り返しを命じているのではなく、其処には、「律法」が「律法」の限界を前提としており、「律法」が完全ではないことを認め、「律法」が影であることの意味が込められ、明文化されているのです。

10:2 それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。

律法」が完全であり、充分機能を発揮したならば、人々が「一度」の「礼拝」、「一度」の「いけにえ」で「きよめられ」るのならば、心の中から、罪の意識は消され、「罪を意識することがなくな」るので、「いけにえを献げることは終わったはずです」。

病気が治ったのに薬を飲み続ける人はなく、怪我が治ったのに薬を塗り続ける人もいません。

10:3 ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。

律法」は、繰り返されることが前提であり、贖いの祭儀、いけにえを繰り返すことによって、自身の心の奥底に巣くう罪を思い出し、罪と向き合い、罪と取り組む決意を新たにするのです。

罪を思い出し、罪と向き合う、という事は、罪に伴う刑罰にも向き合う、ということであり、いけにえが献げられる度に、罪の贖いが行われ、罪の赦しに与っていることを確認し、唯一真の神に感謝するのです。

人はこの罪の世に生きているのであり、罪を持って生きているのであり、いけにえによる罪の贖い、罪の赦しは、この世に生きている限り、罪を持つ身である限り、繰り返さなければなりません。

何故ならば、

10:4 雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。

旧約の時代の人々も、このことは充分承知していました。

だからこそ、繰り返し、繰り返し贖いの儀式を行なってきたのです。

そして、唯一真の神様への畏れや信仰なしに、型通りの儀式を行い、ささげものなどを献げても役に立たないことも承知していました。

しかし、これしか贖われる方法が示されていないことを承知していたので、「律法」の定めに従い、繰り返し贖いの儀式を行い、いけにえを献げていたのです。

律法」の定めから逸脱することのないように、細心の注意を払い、二重三重の定めを設定したのです。

これらが、生き生きとした、喜びに満ち溢れた祭儀を妨げている事は否めませんが、

贖いの儀式を、落ち度なく行なうことに心血を注ぎ、期待を込めて祭儀を行なってきたのです。

【適応】

律法」の定めに従った贖いは、唯一真の神様の定めであり、それなりの効果を持ってはいましたが、本物ではないのですから、繰り返さざるを得ず、民は、不安と期待のない交ぜになった祭儀を守り、行ない続けてきたのです。

そこに、新しい祭儀が、完全な祭儀が、永遠に有効な祭儀が提示されたのですが、簡単に切り替えられる人ばかりではありません。

慣れ親しんできた方法を止めるのは、勇気がいることです。

今まで問題なかったのだから、このままでいい。

新しい方法は、当然、慣れていないのですから、ミスが付き纏います。

唯一真の神様に失礼があったら大変な事になります。

そんなリスクを負いたくない。

前例のないことに、新しいことに消極的なのは、保守的なのは、決して罪ではありませんが、こと、贖いに関することであり、確実に贖われ、永遠に有効であり、繰り返す必要のない方法を選ばないのは、現在の、不確実な、限定的な、繰り返さざるを得ない方法に縋り続け、満足するのは如何なことでしょうか。

もったいないこと、残念なことでもありますが、何より重要なのは、不信仰だ、ということでしょう。

唯一真の神様を信じないことであり、イエス様を唯一真の神の子であると信じないことであり、主イエス様の犠牲が無意味だ、との意思表示と見做されかねないからです。

それよりも何よりも、確実な贖い、永遠の贖い、繰り返す必要のない安心感を放棄するのは、本当の損失だ、取り返しのつかない愚かな選択だ、不信仰の極みである、ということです。

実物」、本物の存在を知らないならば、影のものに縋るしかなく、

それで満足するしかありませんが、

実物」、本物が提示され、しかも、遥か彼方にあるのでもなく、遥か上空にあるのでもなく、海の深みにあるのでもなく、高価で手が出ないのでもありません。

目の前にあるのであり、ただで、選ばれた人だけでなく、誰彼の隔てなく、洩れなく手に入れる事が出来るのです。

そんな上手い話があるのでしょうか、あるのです。

何故ならば、唯一真の神様は、人間を造られたのであり、愛し、慈しんでくださり、どんな犠牲を払っても罪から贖い、救おうと計画されたからです。

実物」、本物が提示されているのに、影のもので満足しているなんて、残念なことであり、影のもので、安心を得ようとしても、無理な話であり、確信のないことを人に紹介できるはずもありません。

私たちは、「実物」、本物を紹介する働きが与えられているのですから、「実物」、本物を受け取り、「実物」、本物を知らない人々に紹介し、「実物」、本物を一緒に受け取り、贖われていること、赦されていることを喜び、唯一真の神様の御許に進み出て、憩う日々に入ろうではありませんか。

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                                       2023-4-30礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙10章5節から10節

説教題:「いけにえになられたのは神の子イエス様

【導入】

私たちの罪の贖いのための献げ物、いけにえ、犠牲になられたのは、唯一真の神の御子、主イエス様ですが、これは繰り返し述べてきたことです。

律法の定めとして、私たちの罪の身代わりとして、動物が献げ物、いけにえ、犠牲となった訳ですが、動物の献げ物、いけにえ、犠牲は完全ではないため、繰り返す必要がありました。

その献げ物、いけにえ、犠牲となる動物ですが、傷のないモノでなければならず、欠陥や病気でないモノでなければなりませんでした。

その動物を手順に従って殺し、処理し、唯一真の神様にお献げするのですが、献げ物、いけにえ、犠牲となる動物は、牛でも、羊でも、山羊でも、自分から進んで献げ物、いけにえ、犠牲になる訳ではありません。

大分、以前のことですが、テレビのドキュメンタリー番組で、ユダヤ教の、献げ物、いけにえ、犠牲になる動物の屠殺の場面を見たことがありますが、献げ物、いけにえ、犠牲になる動物は、嫌がるでもなく、逃げるでもなく、暴れるでもなく、大人しく殺されているので、ちょっと驚いたこと、不思議に思ったことを記憶しています。

犬を飼っていたときのことですが、病院へ連れて行くと、怖がって嫌がり、尻込みするのですが、献げ物、いけにえ、犠牲になる動物に、そんな様子はありませんでした。

何故だろう。黙々と殺されていく姿に、動物なりに何かを感じているのだろうか・・・

献げ物、いけにえ、犠牲になる動物の場合、逃げる訳にはいきませんが、主イエス様は、逃げようと思えば逃げられ、避けようと思えば避けられたのに、自ら進んで、献げ物、いけにえ、犠牲になられたのです。

この、大きな違いを、見ていきましょう。

【本論】

新改訳2017版 10:5 ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。

10:6 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びになりませんでした。

10:7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」

5節から7節までの鍵括弧のことばは、詩篇40篇「ダビデによる、賛歌」、6節から8節までのところからの引用です。

40:6 あなたは いけにえや穀物のささげ物を お喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を あなたは お求めになりませんでした。

40:7 そのとき 私は申し上げました。「今 私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。

40:8 わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

大きく違うのは、「わたしに、からだを備えてくださいました」と「私の耳を開いてくださいました」ですが、ヘブル人への手紙の著者は、ギリシャ語旧約聖書、七十人訳(しちじゅうにんやく)から引用しているようですが、註解書に拠れば、七十人訳はヘブル語聖書のことばを拡大解釈して訳したと考えられ、「」という部分を、「からだ」という全体に拡大解釈したのですが、訳は、文化の影響を強く受けますが、慎重になされなければなりませんし、恣意的であっては、また、誘導的であってもなりません。

」を「からだ」と訳したわけですが、私たちが違和感を感じても、ユダヤ人には、読者には、抵抗がないのかも知れません。

ヘブル人への手紙の著者は、「いけにえやささげ物」、「全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物」を挙げていますが、これらの献げ物は、罪の贖いのための献げ物と、唯一真の神様との和解のための献げ物、交わりのための献げ物であり、礼拝と献身、感謝の込められた献げ物であり、必要不可欠ではあるのですが、唯一真の神様は、献げ物を必要とはされません。

献げ物は、私たちの礼拝の現われ、献身の現われ、感謝の現われであり、ノルマでも、割り当てでも、強制でも、当然必然でもありません。

511617節、「51:16 まことに 私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず 全焼のささげ物を望まれません。

51:17 神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

唯一真の神様への献げ物は、「砕かれた霊。打たれ 砕かれた心」、即ち、従順と誠実であり、それこそ、何にも代え難い献げ物なのです。

7節の「巻物の書」とは、パピルス、羊皮紙などをつないで長くし、軸に巻いたもので、旧約聖書、モーセ五書、律法を指し示します。

そこには、唯一真の神の御子の出現、罪人の救い、などが預言されており、5節、「わたしに、からだを備えてくださ」ったのは、7節、「あなたのみこころを行うため」であることが、詩406節、「私の耳を開いてくださ」ったのは、8節、「あなたのみこころを行うことを喜びと」するためであることが、預言されているのです。

唯一真の神様によって造られたのは、備えられたのは、耳が開かれたのは、唯一真の神様の御こころを行なうため、御こころを行うことを喜びとするためなのです。

幸せになるためでも、豊かな人生を送るためでも、恵まれるためでも、名を残すためでもないのです。

唯々、唯一真の神様に対して従順に、誠実に生き、仕えるためなのです。

からだを備えてくださ」ったのは、唯一真の神様の御こころを行うためなのです。

それは、被造物である人間も、御子、主イエス様も同じです。

拒否も出来るし、避けることも出来ますが、私たちの存在の意味は、御子、主イエス様が受肉されたのも、唯一真の神様の御こころを行うためなのです。

10:8 以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、

10:9 それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。

ヘブル人への手紙の著者は、詩406節から8節を繰り返しますが、それを御子、主イエス様のことばとして紹介し、御子、主イエス様がこの世に来られた目的として語られますが、これこそ、御子、主イエス様の受肉の意味、目的、従順の現われであり、私たちがキリスト者として召された意味、目的であり、キリスト者のあるべき姿でしょう。

私たちは、唯一真の神様の御こころを行うために、主イエス様に仕えるために存在しているのであり、唯一真の神様、主イエス様に守ってもらい、幸せにしてもらうためではありません。

御子、主イエス様がこの世に受肉されたのは、律法を守ることによる贖いと義の獲得という、古い秩序を廃止するためであり、主イエス様に対する信仰による贖い、義の獲得という、新しい秩序が立てられるためなのです。

律法を守ること、献げ物を献げることで罪を贖うのではなく、主イエス様に対する信仰で、罪を贖うのです。

10:10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

主イエス様の受肉の目的は、唯一真の神様の「みこころ」に従って、ご自身を「ただ一度だけ献げ」ることであり、

このことによってのみ、私たちは「聖なるものとされ」る、「聖なるものとされ」続けるのです。

主イエス様の受肉と、献げ物になることは、唯一真の神様の「みこころ」ですが、決して強制でも、抗えないものでも、当然必然でもありません。

主イエス様は、徹頭徹尾、自発であり、喜んで従ったのであり、誰からの勧めも、誘導も、唯一真の神様に対する忖度も、思惑もありません。

主イエス様の一方的な、自発の、唯一真の神様の「みこころ」への積極的な従順だけが、「私たち」を「聖なるもの」とするのです。

主イエス様ご自身の自己満足だとか、虚栄心だとか、唯一真の神様に対する忖度、思惑だとかが、ほんの少しでもあったならば、主イエス様の受肉も、献げ物となることも、泥にまみれ、穢れたものとなり、何の効果ももたらさないでしょうし、私たちは贖われることなく、依然として罪と穢れの中に、生きることになるのです。

【適応】

先程、ヘブル人への手紙の著者は、ギリシャ語旧約聖書、七十人訳(しちじゅうにんやく)から引用しているようだ、七十人訳は「」という部分を、「からだ」という全体に拡大解釈した、と申しましたが、耳はからだの一部でありながら、非常に重要な器官です。

勿論、不要な器官、重要ではない器官などないのですが、唯一真の神様への信仰、従順、誠実は、聴くことから始まるのではないでしょうか。

その意味でも耳は格別重要な器官といえるでしょう。

耳を開いてくださった」のは、「からだを備えてくださった」のは、「あなたのみこころを行うため」です。

耳があるのも、からだがあるのも、「あなたのみこころを行うため」であり、目があるのも、口があるのも、手があるのも、脚があるのも、「あなたのみこころを行うため」であり、主イエス様は、「あなたのみこころを行うため」を自覚し、「あなたのみこころを行うため」に受肉され、献げ物になられたのです。

この大役を果せるのは唯一、主イエス様だけですが、だから主イエス様が受肉され、献げ物になられたのではありません。

誰がやってもよいこと、誰でも出来ることであっても、自発が重要であり、この人にしか出来ないことであっても、その人の、何にも強いられない自由な応答と、自発が重要なのです。

唯一真の神様の命令で、懇願で、主イエス様が受肉され、献げ物になられたのではなく、主イエス様ご自身が、唯一真の神様のご計画、みこころを聴き、それに自発的に応答し、受肉され、献げ物となられ、人間の罪の贖いを成し遂げられたのです。

聴いて応答する、これが大事なのです。

機械的な応答や、レールが敷かれたような応答や、不承不承の応答は、唯一真の神様に喜ばれる応答の姿ではありません。

今日の説教のタイトルは、「いけにえになられたのは神の子イエス様」であり、「いけにえにされたのは神の子イエス様」でも、「いけにえに選ばれたのは神の子イエス様」でもないのです。

贖いになる、いけにえになることは、神の子にしか出来ませんが、主イエス様の弟子になることは出来るのであり、弟子として応答し、自発で出来ることに取り組むことが、弟子の本分なのではないでしょうか。

自発の応答と従順が重要であり、主イエス様は弟子の姿、従うことの意味と実践の見本を見せてくださったのです。

主イエス様の行動の原点は、「あなたのみこころを行うため」であり、それを基準とした応答と従順があって、私たちは贖われ、救われたのです。

私たちもまた、「あなたのみこころを行うため」を行動基準とし、主イエス様の声を聴き、応答し、従順に、誠実にお仕えし、世に贖いを届ける者となろうではありませんか。

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