2023-5-7礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙10章11節から18節

説教題:「御座に着座された大祭司、神の子イエス様」

【導入】

私たちの罪の贖いのための献げ物、いけにえについて、また、贖いの祭儀の手順について、贖いを執り行なう大祭司の選出についても、律法に詳細に記されていますが、それは、贖いが非常に重要であり、間違いや手違いが、一切あってはならないからです。

更には、信仰の訓練、唯一真の神様の命令に従順であるかどうかの試金石となっているからです。

急いでいても、手順を省いてはならず、余裕があるからと云って、アドリブを取り入れてもなりません。

勝手な解釈をしてはならず、忖度してもなりません。

聖書、律法に従って、愚直なまでに忠実に、決められた通りに行なわなければなりません。

贖いのための祭儀のみならず、聖書、律法に従う事が訓練であり、効率とか、利便性とか、汎用性などを考慮してはならないのです。

無駄に思える手順、意味のない所作にも、信仰の訓練と云う意味があるのであり、聖書、律法を遵守する事が、聖書、律法をそのまま継承する事が、何より大切なのです。

聖書の、律法の一点一画を、疎かにしてはならないのです。

唯一真の神の御子、主イエス様は、聖書の預言に従って大祭司となり、律法に従って贖いの献げ物、いけにえとなられました。

主イエス様のお働きについて、見ていきましょう。

【本論】

新改訳2017版 10:11 さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、

祭司」は、「毎日立って」、「礼拝の務めをなし」ますが、「祭司」の「礼拝の務め」、即ち、贖いの務めですが、今まで繰り返し述べて来た事ですが、一回で完了する事はありません。

毎年、繰り返し行なわなければならず、代々、引き継ぎ続けなければならず、決して完了する事は、これが最後、はないのです。

聖書の教え、律法の規定通りに「繰り返し献げても」、「決して罪を除き去ることができません」。

誠心誠意、細心の注意を払って「繰り返し献げても」、「決して罪を除き去ることができません」。

大祭司も人間であり、罪を持つ身であるからであり、献げ物、いけにえの動物は、人間の身代わりでしかなく、本人ではないからです。

それでも、一定の効果はあるのですが、しかし、繰り返し行なわなければならなかったのです。

その不完全な贖いに対して、聖書の預言に従って、御子、主イエス様が登場します。

10:12 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、

人間の大祭司による贖いは、聖書の教え、律法の規定通りに行なっても、繰り返し行なっても不完全ですが、主イエス様による贖いは、唯の一回で完全であり、その効果は永遠なのです。

その、完全、永遠の贖いが行なわれた事の表明が、「永遠に神の右の座に着」かれた、との記述です。

主イエス様が「神の右の座に着」かれたのは、次の贖いの時まで待機するためにではなく、疲れたので「神の右の座に着」かれたのでもありません。

贖いの働きを全うされたので、もう、贖いの働きを行なう必要がないので「神の右の座に着」かれたのです。

主イエス様の贖いの働きの完全さと完成を意味するのが、「神の右の座に着」かれたとの表現であり、記述なのです。

10:13 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。

12節、13節は、詩1101節からの引用です。

」とは、悪魔とかサタンを呼ばれる存在であり、「」の本質は、分離する力、反対する力、非難する力であり、人間を誘惑し、唆(そそのか)し、唯一真の神様に疑いを抱かせ、背かせ、歯向かわせ、挙句の果てには、人間の罪を告発し、罪に定めようとするあらゆる働き、力です。

唯一真の神様は、その「」を主イエス様の「足台とされる」のであり、御子、主イエス様は、出番が到来するのを、即ち、主イエス様による、究極的な統治が始まるのを待っておられるのです。

その時まで、「敵がご自分の足台とされる」まで、「神の右の座に着」かれ、人間のために執り成しのお働きをされているのです。

10:14 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

14節は、本当に大事、大切な事であり、ヘブル人への手紙の著者は、他の教えに惑わされないように、律法による贖いに戻らないように、牛や羊などの動物の献げ物、いけにえの繰り返しでは達成し得なかった贖いを、主イエス様はご自身と云うたった「一つのささげ物によって永遠に完成された」と繰り返します。

強調しても強調し過ぎる事はなく、繰り返しても、繰る返し過ぎる事はありません。

主イエス様、ご自身を献げるに勝る、贖いの方法はありません。

付け加えるモノもありません。

罪人を「聖なるものと」するのは、「一つのささげ物」、即ち、主イエス様のみです。

」、悪魔、サタンは、熱心に、根気強く、あらゆる手を尽して、人間を惑わそうと、日夜働いているのですが、主イエス様の贖いのお働きに対抗出来る力はありません。

10:15 聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、

10:16 「これらの日の後に、わたしが 彼らと結ぶ契約はこうである。――主のことば――わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、

10:17 「わたしは、もはや 彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われるからです。

16節、17節は、エレミヤ書3133節、34節からの引用です。

古い契約は、モーセと云う仲介者を通して、律法として与えられ、文字によって石の板や巻物に記されましたが、持ち運びに不便であり、使い勝手が悪く、実用的ではありません。

しかし、新しい契約は、契約の当事者である私たち人間一人一人に直接に、新しい心を与え、律法が刻み付けられるのであり、持ち運ぶ必要はなく、紛失する心配もなく、何時でも参照する事が、確認する事が出来るのです。

これは聖霊の働きであり、聖書を丸暗記する必要はなく、聖書研究する必要もありません。

勿論、暗記や研究が不要であるとか、無駄であるといっているのではありません。

その律法は、何々をしてはならない、何々をしなければならない、と云う戒律ではなく、味も素っ気もない文字の羅列でもなく、「神を愛し、人を愛する」に要約される黄金律なのです。

神を愛する、と言いながら、兄弟を憎んでいる者に、陰口を叩く者に愛はありません。

常に、徳を高めることばを語る事こそが、信仰者の姿なのではないでしょうか。

人は、裁くように裁かれるのであり、赦すなら赦され、愛するなら愛されるのです。

そのとき、唯一真の神様は、「彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われる」のです。

悪魔、サタンが告発しようが、自分自身の良心が訴えようが、唯一真の神様は、罪を思い起こす事はないのです。

思い起こさない」は、罪を忘れる、と云う意味ではなく、贖いがなされ、刑罰の処理が終わっている、と云う意味です。

10:18 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

主イエス様の贖いにより、「罪と不法が赦され」ているので、「もう罪のきよめのささげ物はいりません」。

もう、怯えながら、不安を抱えながら、唯一真の神様の前に出る事はなくなったのです。

細かい手順に従い、献げ物、いけにえを献げる必要がなくなったのです。

勿論、主イエス様のお陰ですから、自分には誇るところは少しもありませんが、悪魔、サタンから告発される事があっても、人々から言い立てられても、堂々と、「私の罪は完全、且つ、永遠に贖われています」、と声高らかに、胸を張って宣言する事が出来るのです。

罪を犯した事に対する恐れ、罪を犯す事に対する不安などから解放されるのです。

結果、礼拝は、献げ物中心から、神讃美中心に変わるでしょう。

生活は、律法を遵守する事から、キリスト者の自由を中心としたものに変わるでしょう。

贖い、献げ物に費やしていた時間と労力を、神を愛し、人を愛するために費やすようになるでしょう。

受身の信仰生活から、賜物を生かす積極的な生活に変わるでしょう。

【適応】

これらの事が実現したのは、「キリスト」が、「一つのささげ物によって」、即ち、ご自身を献げた事によって、贖いを「永遠に完成されたから」、「永遠に神の右の座に着」かれたからです。

罪の贖いのための儀式の繰り返しは、一切不要になりました。

主イエス様は、「永遠に神の右の座に着」かれ、唯一真の神様に訴え出る者、悪魔、サタンの告発に対して弁護して下さり、罪の贖いは終わっている、精算されている、この人は義人である、と宣言して下さるのです。

主イエス様は、「神の右の座」にどっかりと座り込んで、再び罪を犯さないように、罪人を睨み付けているのではありません。

主イエス様は、この世に生きる私たちを見張るために、「神の右の座に着」かれたのではなく、見守るために、「神の右の座に着」かれたのです。

主イエス様は、「神の右の座に着」かれ、悪魔、サタンの誘惑に惑わされないように執り成して下さっているのです。

折にかなった助けを与えて下さるために、「神の右の座に着」かれたのです。

主イエス様は、「神の右の座に着」かれ、私たち罪人を、暖かい眼差しで見守っていて下さるのです。

主イエス様の眼差しは、厳しい監視の眼差しではなく、やさしい保護者の眼差しなのです。

罪を告発する裁きの眼差しではなく、罪を赦すための恩寵の眼差しなのです。

主イエス様は、「神の右の座」から一瞬たりとも離れる事なく、常時、私たちを見守って下さっているのです。

私たち罪人は、この恵みと祝福の中に置かれているのです。

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聖書箇所:サムエル記第一26章1節から25節

説教題:「主は必ず彼を打たれる

【導入】

 

本日のテキストの最後、2625節に「ダビデは自分の道を行き」と記されていますが、」は旅とも訳せる言葉であり、この言葉の通りに、ダビデは短く見積もっても10年、長かったとするならば20年以上もの間、当てのない旅を続けたのです。

物見遊山の旅ではありません。命を狙う者から逃げ隠れする旅であり、心の休まる時のない旅です。しかも、600人を引き連れての、その家族を引き連れての、多くの家畜を引き連れての逃亡の旅は、困難を極めた事でしょう。

「逃亡者」と言う映画がありますが、たった一人であっても逃げながら真実を追究するのは、困難どころの話しではありません。

協力者があってこそ、助け手があってこそ、危機を脱し、真実に近づく事が出来る訳ですが、ダビデもまた協力者が現れ危機を脱し、その命が守られ、自己中心な間違った怒りを止める為の導き手が与えられて、不必要な血を流さずに済み、結果として罪を犯さないで済んだのです。

困難な旅の中で、命を狙うサウル王に弁明する時も与えられ、誤解が解け、和解したように見えましたが、それも束の間であり、サウル王は執拗にダビデを追跡するのであり、その追跡の手が緩む事はなかったのです。

この厳しい逃亡の旅はダビデに非常な苦しみと、艱難を与えましたが、その経験、体験を通して、将来の働きに必要な訓練の時ともなったのでした。

何よりも重要なのは、唯一真の神様の守りと導きを体験した事であり、神様の主権を認め、神様に委ねる事を学んだ事でした。

今日のテキストで、ダビデにサウル王を殺す二度目のチャンスが与えられますが、ここからダビデは何を学び、また私たちは何を教えられるのでしょうか。

共に聖書を紐解いて行きましょう。

【本論】

26:1 ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか。」

ジフ人が登場するのは2度目です。最初の登場はサムエル記第一2319節でした。この時の学びで、ジフ人がサウル王に取り入るに至ったのではないかと思われる理由と、ジフ人とダビデとの関係をお話ししましたが、この時はサウル王の慎重さの故に機を逸してしまい、また、山の向こう側とこちら側と言う、あわやの所で唯一真の神様のご介入があり、ペリシテ人の突入と言う連絡を受け、サウル王はダビデ追撃を諦めるに至るのですが、ジフ人はサウル王に媚び取り入ろうと、再びサウル王にダビデの滞在先を、隠れ家を教えるのです。

26:2 サウルは立って、三千人のイスラエルの精鋭とともに、ジフの荒野へ下って行った。ジフの荒野でダビデを捜すためであった。

直ぐに行動する事は重要な事です。慎重さは、時に出遅れる事になってしまいます。何でも性急に事を進めると言うのは、如何なものかも知れませんが、慎重になり過ぎるのは、根回しに、連絡に手間取って、機を逸してしまっては意味がありません。

「直ぐに」対応するその為に「権限」が与えられており、裁量が与えられているのです。「直ぐに」対応するからこそ、チャンスを掴み、事態も好転するのであり、また、生き生きとした組織となるのではないでしょうか。

慎重過ぎる組織は多くの場合、根回しや連絡に手間取り、動き出した時には先を越されて、みすみすチャンスを逃す事、臍を噛む事になり、闊達さ、活発さを失った、死んだような組織になってしまうのです。

サウル王は前回の失敗を生かし、今回は直ぐに、精鋭部隊を率いて、ダビデが隠れているとの報告を受けた場所へ馳せ参じるのでした。

26:3 サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道の傍らに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、

26:4 偵察を送り、サウルが確かに来たことを知った。

「エシモン」とは「荒野、荒れた所」の意味であり、特定の場所、地名ではありません。「ハキラ」はヘブロンの南東10km程の所にあり、ジフの町からも程近い場所です。

ハキラの地は、身を潜めたダビデが、ジフ人の密告により存亡の危機に見まわれた場所であるのに、ダビデ一行は、再びハキラの地に身を潜めた訳です。

不可解な行動ではありますが、サウル王にくみする密告者のいる土地には、危険な目にあった嫌な思い出の場所には戻っては来ないだろうとの考えの、裏をかいた行動なのかも知れません。

しかし、それは人間的な考えであり、聖書に注目するならば、密告者がいる土地であっても、危険な目にあった土地であっても、そこも唯一真の神様の支配下にある土地であり、そこに留まる時、神様の御業を、恵みを体験させて頂く所、必要な訓練を受ける所となるのではないでしょうか。

そのような神様の深いご計画の全貌は知らずとも、神様に導かれてダビデはハキラの地に身を潜めたのでした。

サウル王もまた、神様に導かれてハキラの地にやって来、サウル王は見晴らしの良い丘の側に陣を敷き、宿営の場所としました。

サウル軍は翌日からダビデ捜索を始めるべく、先ずは休息を取るのですが、

26:5 ダビデは立って、サウルが陣を敷いている場所にやって来た。そしてダビデは、サウルと、その軍の長ネルの子アブネルが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ていて、兵たちは彼の周りに宿営していた。

ダビデは無謀にも、様子を探りに出るのです。

サウル王の住むギブアと、ダビデが隠れるハキラとは、直線距離で40km程離れています。壮健な者の足でも10時間前後を必要とする距離ですから、サウル軍は行軍の疲れでぐっすり寝込んでいた訳ですが、その様子を目撃したダビデは次なる行動に出ます。

26:6 ダビデは、ヒッタイト人アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイに言った。「だれか、私と一緒に陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」アビシャイが答えた。「私が一緒に参ります。」

26:7 ダビデとアビシャイは夜、兵たちのところに来た。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵たちも、その周りに眠っていた。

26:8 アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」

前回の、洞穴での、サウル王を殺すチャンスに遭遇した時の、ダビデの部下の進言は、サムエル記第一244節、「今日こそ、【主】があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」と言うものであり、ダビデが自ら手を下し、サウル王との間の問題を解消する決断を勧める言葉でしたが、今回の場面では、部下が手を下す事を承認せよと迫っているのです。

つまり、自分の手を下すには、唯一真の神様が油を注がれた方に弓を引くと言う躊躇があったでしょうが、今回は、自分の手を汚すことなく、サウル王を殺すことが出来るのです。物凄い誘惑ではないでしょうか。

一回目のチャンスは、自分の手を下すので、躊躇があったでしょう。でも、今度は部下がやってくれるのです。言葉に出さなくてもちょっと合図を送れば、それで、辛い逃亡生活、荒野での苦しい生活のすべてが終わるのです。良心の呵責も感じずに済むでしょう。

しかし、ダビデは部下を使ってでも、手を下すことはしませんでした。直接でも、間接的であっても、自分で裁くことはしませんでした。裁きは、唯一真の神様にゆだねました。

26:9 ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。【主】に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」

26:10 ダビデは言った。「【主】は生きておられる。【主】は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。

26:11 私が【主】に逆らって【主】に油注がれた方に手を下すなど、【絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」

26:12 ダビデはサウルの枕もとの槍と水差しを取り、二人は立ち去ったが、だれ一人としてこれを見た者も、気づいた者も、目を覚ました者もいなかった。【主】が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠り込んでいたのである。

ここまで神様にゆだねることが出来たのは、ダビデが持っていた神様に対する信頼・信仰と、神様の選びによって、イスラエルの王にされると言う自覚に加えて、逃亡生活の中で、訓練がなされたからです。

その訓練とは第一サムエル25章の挿話です。前回の学びですが、要約すると、ダビデの一行は、ナバルと言う人の財産である牛や羊、そして羊や牛を世話する人たちを常日頃守ってあげていました。ある時、ナバルが収穫の祝いをしているのを聴き、施しを求めましたが、ののしられてしまいます。恩をアダで返されたダビデはナバル一族を皆殺しにする事を誓うのです。その時ナバルの妻アビガイルがダビデに命乞いをし、次の言葉を語ります。

サムエル記第一2530節、「25:30 【主】が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

25:31 理由も無く血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。【主】がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」

むだに血を流したり、自分で復讐をしたことが、躓きとなり、心の妨げとなるというのです。

確かに、自分で仕返しをしたことは、後で思い返したとき、決して心地良いものではありません。苦々しい嫌な思い出として、記憶され、事ある毎に思い出されるのではないでしょうか。しかし、ダビデは、そんな嫌な体験を避ける、と言うレベルではなく、全ての命が唯一真の神様の下にある事を学び、命の尊厳と、命に対する神様の主権を学んだのです。

神様に油を注がれている王様だから、手を下さない、ではなく、油を注がれていない一般人だから手を下す、ではなく、全ての命は唯一真の神様の主権の下にあり、人の考えの入る余地は全くない、と言う事を学んだのです。

自分で手を下さなくても、神様が代りに打って下さると言う事ではなく、神様は全てを知って、全てを支配しておられる。

神様がお取り扱われるのであって、神様が嘉とされるなら、生き永らえるであろうし、神様が打たれるなら、今日か明日かは分からないけれども、死ぬであろう事を、ナバルの事で具体的に教えられたのです。

このように、ダビデは唯一真の神様の守りの生活の中での訓練を通して、裁きを、全てを神様に委ねる事を学んだのです。

自分の手を下す事は勿論の事、部下の手を持ってしても、理不尽な事に対しても、自分なりの正当な理由であっても、復讐や自分の考えでの解決を、決して神様は喜ばれない事を学んだのです。

そこでダビデは、サウル王殺害を申し出る部下を諌め、「【主】は生きておられる」と主の臨在と、「【主】は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ」と、主の主権を告白し、サウル王を打つ事を断念させ、そして代りに、王様の権威の象徴であり、「ここにいる」との存在を現す槍と、命を生かす象徴である水差しとを取り、立ち去るのです。

このダビデの大胆不適な行動の陰にも、唯一真の神様が働かれています。

幾ら疲れていても、快適なベッドが用意されている訳でもなく、武具に身を固めた不自由な体勢で、3000人が前後不覚に眠りこけているなど考えられません。

唯一真の神様が「深い眠り」を与えられたので、ダビデと部下との会話も、槍と水差しを持ち帰るとの行動も眠りの妨げとはならず、ダビデは目的を達する事が出来たのです。

26:13 ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、大きな隔たりがあった。

26:14 ダビデは、兵たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル、返事をしないのか。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」

26:15 ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があるだろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を護衛していなかったのか。兵の一人が、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのだ。

26:16 おまえのやったことは良くない。【主】に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、【主】に油そそがれた方を護衛していなかったのだから。今、王の枕もとにあった槍と水差しがどこにあるか見てみよ。」

ダビデは十分な距離を取ってから、サウル王の部下であるアブネルに呼びかけます。このダビデの呼びかけは、アブネルの怠慢を責めているのではなく、人の守りの限界を教えています。水の漏れる隙間もないと形容されるほどの、鉄壁の守りも、敵を粉砕する強力な武器も、完全ではありません。

想定を上回る事態が起こるのは、世の常であり、疑心暗鬼によっても、力を合わせられず、実力を、能力を発揮する事が出来ずに崩壊するし、奢り慢心によっても、欠点、弱点に気付く事なく、その弱点を突かれ、崩れ去ってしまうのです。

ゼカリヤ書46節に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言う聖句がありますが、人の力も知恵も役には立たないものであり、唯一真の神様だけが信頼に足るお方なのではないでしょうか。

26:17 サウルはダビデの声と気づいて、言った。「わが子ダビデよ。これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「わが君、王様。私の声です。」

26:18 そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべの後を追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。

26:19 わが君、王様。どうか今、しもべのことばを聞いてください。もし私に敵対するようあなたに誘いかけられたのが【主】であれば、主がささげ物を受け入れられますように。しかし、それが人によるのであれば、その人たちが【主】の前でのろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、【主】のゆずりの地にあずからせず、『行ってほかの神々に仕えよ』と言っているからです。

26:20 どうか今、私の血が【主】の御顔から離れた地に流されることがありませんように。イスラエルの王が、山でしゃこを追うように、一匹の蚤を狙って出て来ておられるのですから。」

ここでもダビデは誠意を持って身の潔白を告白します。

洞窟での弁明は、あなたは、人の噂を信じられるのですか、と湾曲にサウル王を諌めていますが、ここでは、直接にサウル王を諌め、サウル王の行動が、唯一真の神様から出たものなのか、人の考えなのかを質しているのです。

もしも、唯一真の神様からなら、神様はサウル王の献げ物を受け入れられるであろうが、人の考えであるなら、神様に呪われるであろうと言い、ダビデを追う事は、ダビデを神様の与えた土地から追放する事であり、礼拝を阻止する行為に他ならない事を、誠意を持って説明しているのです。

20節の「しゃこ」とは雉くらいの大きさの岩しゃこ、或いはそれよりやや小さい砂漠しゃこの事であり、割合と簡単に捕まえる事の出来る鳥であって、一匹の蚤と合わせて、3000人もの大群で、王自ら出向く価値のない行為である事を諭しているのです。

元々ダビデには何の非もなく、サウル王の一方的な思い込みから出た事ですから、サウル王はダビデの説得に同意し、非を認め、和解を申し出ます。

26:21 サウルは言った。「私が間違っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。もう、おまえに害を加えない。今日、おまえが私のいのちを尊んでくれたのだから。本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した。」

26:22 ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者の一人をよこしてください。

26:23 【主】は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。【主】は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、【主】に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。

26:24 今日、私があなたのいのちを大切にしたように、【主】は私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます。」

26:25 サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ、おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰って行った。

ダビデはサウル王を説得し、サウル王から和解の宣言を引き出しはしましたが、これも一時的な感傷的な反応であり、直ぐに反故となる事は明かです。

ダビデはサウル王の誓約には関心を示さず、約束を引き出す事に固執するのではなく、言質を得た事に安心するのではなく、唯一真の神様との関係を第一と考え、神様の守りの内に平安がある事を宣言するに至るのです。

ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰って行った。

」は旅とも、習わしとも訳せる言葉であり、「」は場所とも、立つ所とも、地位とも訳せる言葉であり、この節は、単にダビデとサウル王の別れを現すだけでなく、その歩みの決定的な違い、即ち、ダビデは唯一真の神様の示される道を歩んで行ったのであり、サウル王はこの世の地位や、王宮に執着している事を暗示しているのです。

【適応】

「主は必ず彼を打たれる」とのタイトルは、私に代って神様が復讐する事を期待する言葉でない事は、前回学んだ事からも明かです。

もし、神様が私に代って復讐して下さる事を期待するなら、それは私の願いの実現であり、決して神様の主権を認めるものでもなければ、神様の栄光を現すものでもありません。

「主は必ず彼を打たれる」の直訳は「主は打つ」であり、打って欲しいとの人間の願望も、打ってくれるだろうとの人間の期待も、入る余地は全くなく、神様の主権と主体性だけが表現されているのです。

この神様の主権と主体性に、人間の如何なる献げ物も、奉仕も、聖い生活も、礼拝も、誤解を恐れずに言うならば祈りさえも影響する事はありません。

祈りと願望を混同するきらいがありますが、祈りと願いは似て非なるものです。

祈りは、神様が主体であり、神様の御名を称える行為であり、願望は、人間が主体であり、人間中心です。

神様中心の世界を、神様の主権が現される世を願い求める、それが祈りであり、その神様の主権の中にあって、私の命も、あの人の命も、あの事も、この事も委ねる時、命の心配、健康の事、仕事の事、学業の事、家庭の事、あらゆる事に縛られる事がなくなり、煩わされることがなくなり、真の平安を得る事が出来るのであり、真の意味で自由にされるのです。

自由は、獲得するものではなく、神様に委ねて、即ち、放棄して得られるものなのです。ところが中々、人間は自分の考えを放棄する事が出来ません。委ねる事が出来ません。別の言い方をするならば「こだわりを捨てられない」と言っても良いかも知れません。

「委ねる」と「こだわり」は違う事のようですが、自分の考えが優先している点では一緒なのです。こだわりがあるから、委ねられないのであり、神様に委ね切れないのは、こだわっている事が譲れないからなのです。

これは神様との関係に限った事ではありません。人と人との関係でも、こだわりがあるから譲れず、任せる事が出来ない事になって来るのです。

人生経験は大切であり、こだわりも決してデメリットばかりではありませんが、経験やこだわりは、神様との距離を縮めるものとなるとは限りません。

多くの場合、離れさせ、隔てとなる事が多いようです。

こだわり、依怙地な思いを捨てられたなら、どんなに楽な生き方となるでしょうか。これは無責任と言う事ではなく、こだわり、即ち自分のやり方が一番、或いは最善、という考え方を捨てたならば、物事は案外上手く行くのであり、こだわっていた事は、こだわっていた程には、大きなものではなく、「月とスッポン」程の差など在りはしない事を、こだわりを捨ててこそ経験出来るのではないでしょうか。

人間同士の、こだわりを捨てる訓練は、神様に委ねる事に繋がるのであり、それでこそ、結果を見ずして、何にも心を悩まされない本当の平安に憩う事が出来る秘訣なのです。内からの誘惑にも、外からの誘惑にも打ち勝って、神様に委ねたダビデは、平安の内に自分の道を歩み続けたのであり、それは、神様に近づく道であり、内からの誘惑に翻弄され、外からの忠告や弁明を聞くというきっかけがありながら、心の一新を図らないサウル王は、この世の地位にしがみ付くという道を歩み続ける事になるのであり、それは滅びに至る道なのです。

ここにおられる皆様が、こだわり、自分の考え、主義主張を一先ず押え、神様のお考えを優先する訓練を受け、神様に委ねる訓練を受け、益々神様に近づく、神様に喜ばれる道を歩まれますように。

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                                       2023-5-21礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙10章19節から25節

説教題:「神に近づく唯一の道

【導入】

主イエス様は、天の御座に、唯一真の神様の右の座に着座され、私たちの地上での信仰生活のために執り成してくださっています。

24時間、366日、休みなく、休息を取る事もなく、一瞬たりとも席を離れる事もなくです。

専属の大祭司、助言者、仲介役を抱えている訳であり、安心、この上もありません。

主イエス様の贖いにより、過去の罪も、現在の罪も、将来の罪も赦され、罪の刑罰を恐れる生き方から解放された上での事です。

それでも、地上での信仰生活は、罪を持つ身であり、紆余曲折があり、挫折や傷心を経験しもするでしょうが、御国に到達するのは間違いありません。

試練や患難などを通して、必要な訓練を受け、与えられた賜物を、預かった賜物を用い、置かれた場所で、与えられた環境で、主イエス様の僕として、唯一真の神様と人とを愛する事を通して、唯一真の神様と主イエス様の御栄光を現して行くのです。

【本論】

新改訳2017版  10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

この地上に於いて、「聖所に入ることができ」るのは、大祭司だけですが、その大祭司も、自由に、好き勝手なタイミングや服装で「聖所に入ることができ」るのではありません。

レビ記162節、「16:2 主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『贖いの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。

16:3 アロンは次のようにして聖所に入る。罪のきよめのささげ物として若い雄牛、また全焼のささげ物として雄羊を携え、

16:4 聖なる亜麻布の長服を着て、亜麻布のももひきを履き、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶる。これらが聖なる装束であり、彼はからだに水を浴びて、それらを着ける。

16:5 彼はまた、イスラエルの会衆から、雄やぎ二匹を罪のきよめのささげ物として、雄羊一匹を全焼のささげ物として取る。

この規定を侮ったり、警告を無視したり、逸脱したならば、裁きが下され、17章4節などに警告されているように、「その人は自分の民の間から断ち切られる」のです。

しかし、「私たち」、即ち、全てのキリスト者たちは、大祭司の身分ではありませんが、「イエスの血によって」贖われており、あらゆる制約や制限なしに、自由に、好きなタイミングや服装で、天の「聖所に入ることができ」るのです。

単に「聖所に入ることができ」るだけではありません。

聖所に入ることができ」るの意味は、唯一真の神様と交わりが持てる、であり、特権であると同時に、恵みであり祝福なのです。

この「聖所に入ることができ」る特権、恵み、祝福は、私たちの努力や行ないで得たのではありません。

10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

人は、唯一真の神様に近づこうとしても、罪故に近づく事は出来ません。

どんなささげ物を献げても、善行を行なっても、功徳を積んでも、修行をしても、です。

地上の神殿の「垂れ幕」は、唯一真の神様と人とを隔てるモノ、聖い神様に罪に穢れた人を近づけないモノ、「聖所に入ること」を妨げるモノでしたが、主イエス様という「垂れ幕」は、聖い神様と罪に穢れた人を近づけるモノ、結び付けるモノ、「聖所に入る」ための通行手形、パスポートのようなモノなのです。

主イエス様が、ささげ物となられ、いけにえとして屠られ、献げられた事によって、唯一真の神様に近づく事が可能になったのです。

ヨハネの福音書146節に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」、と記されている通りです。

新しい生ける道」は、主イエス様によって造られ、開かれたのです。

10:21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、

地上の大祭司は、年に一度だけ、「聖所」に入るのですが、主イエス様は常に「聖所」におられ、「治め」ておられるのです。

単に「治め」、即ち、管理しているのではなく、「聖所」に入るに相応しい人物であるかどうか、主イエス様の贖いを受けたかどうかを選別しておられるのです。

10:22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。

主イエス様の贖いは、動物の血や聖い水のような、限定的な、制約や制限のある贖いではありません。

主イエス様の「」は、罪によって捩じ曲げられ、歪み、穢れた「邪悪な」「心に・・・振りかけられて」、完全に、永遠に、「きよめられ」るのです。

きよめられ」も、「洗われ」も、完了形であり、主イエス様による贖いは唯の一度ですが、その効果は過去に遡り、未来に及び、永続的であり、あらゆる制約や制限なしに、自由に、好きなタイミングや服装で、「神に近づ」く事が出来るのです。

10:23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。

これらの「約束」は、「真実な方」による確かな「約束」なのであり、「動揺しないで」、即ち、「約束」を疑う事なく、他に何か確かなものがないかと探し回ったり、異なった教えに惑わされたりしないで、主イエス様から眼を離さないで、主イエス様に対する「希望を告白し続け」なければならないのです。

10:24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

神に近づ」く事と、主イエス様に対する「希望を告白し続け」る事は、個人的な、基本的な信仰の歩みですが、この土台、基本の上に、「互いに」、即ち、キリスト者同士の交わり、助け合い、支え合いがあり、「愛と善行」に励む事が求められているのです。

愛と善行を促すために、互いに注意を払おう」であり、見張ったり、相互監視のために「注意を払」うのではありません。

また「愛と善行を促すため」、即ち、神を愛し、人を愛するためであり、神に仕え、人に仕えるためです。

言い方を変えるなら、奉仕するためであり、そのための交わり、助け合い、支え合いなのです。

主イエス様は、個々人の意見や考え、自由を尊重してくださいます。

主イエス様が赦し、愛し、受け入れてくださっているのに、批判があり、差別があり、支配があり、排斥があるようでは、それは主イエス様を中心とする群れではありません。

主イエス様を中心と見せ掛けた似非キリスト者の群れであり、似非教会です。

誰もが赦され、愛され、受け入れられるのが、主イエス様を中心とする、キリストの教会です。

罪を受け入れては、曖昧にしてはなりませんが、違いは受け入れなければなりません。

教会を聖く保たなければなりませんが、単一化、皆が同じ方向を向かなければならない訳ではなく、強制や同調圧力が横行してはならず、違いや自由を尊重しなければならないのです。

キリスト者の自由が保障、尊重されるのが、主イエス様を中心とする、キリストの教会です。

10:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

ある人たちの習慣」の、具体的内容は不明ですが、当局、官憲の監視、ユダヤ教の指導者たち、長老、祭司、律法学者、パリサイ人の目、仲間や身内への遠慮や配慮、集会から何も得るモノがないとの考え、などではないかと考えられます。

迫害を恐れ、類が及ぶのを恐れ、益するモノがないと考え、「集まり」、即ち、教会、礼拝を離れる人々が少なからずいたのでしょう。

礼拝は、益するか否かではありません。

唯一真の神様、主イエス様の招きに応じるか否かなのです。

益するモノがなくても、時間と費用を掛けても、愛する神様の招きであり、私の身代わりとなった主イエス様の招きだから応じるのです。

礼拝は、自身を献げる場であり、時間を献げるのです。

そんな時、キリスト者同士の「励まし合い」、交わり、助け合い、支え合いは本当に有益なのではないでしょうか。

キリスト者の信仰生活において、「集まり」、即ち、礼拝は非常に重要です。

訓練の場であり、自己吟味の時であり、成長の時であるからです。

適切な時期に、必要な訓練を受けなければ、健全な成長は見込めません。

訓練や試練を避けていたならば、バランスを欠いた者となってしまうのでは、体験の伴わない、理想的な、概念的な信仰になってしまうのではないでしょうか。

訓練は必要不可欠ですが、但し、唯一真の神様から与えられたモノである事を確認する必要があるでしょう。

自分のなすべき事を人にやらせるのは、訓練ではないでしょう。

そして、訓練、課題は個々人、其々違いますし、対処も違いますから、「集まり」は、自分の体験や対処を押し付ける場ではないし、叱咤激励の場でもないのです。

この世で苦しみ、「集まり」でも苦しむなら、身の置き場がないではありませんか。

集まり」は、ありのままを受け入れる場であり、自身を飾らず、ありのままでいられる場なのです。

その日」、即ち、主イエス様、再臨の日は近づいているのですから、「集まり」、教会、礼拝の意味、目的を正しく認識し、「ますます励もうではありませんか。

【適応】

本日の説教題を「神に近づく唯一の道」としました。

この「神に近づく唯一の道」は、基本的には、一人で歩み進む道です。

誰かが背負ってくれたり、車椅子を押すように押してくれたりする訳ではありません。

自動車などの動力の助けを借りる訳にもいかず、自力で歩み進み続けなければなりません。

応援や励ましと、手助けや代行は違います。

応援や励ましを得るに問題はありませんが、手助けや代行を期待してはならないでしょうし、信仰の歩みに手助けや代行は不要です。

訓練や試練は個々人に与えられた課題であり、基本的には、直接には一人で対処し、乗り越えていかなければなりません。

決して安直、安穏な歩みではありません。

しかし、信仰者の歩みは、他の信仰者の応援になり、励ましになるのです。

唯一真の神様、主イエス様としっかり結び付いた歩みは、患難辛苦の中にある信仰者の励ましになり、お手本になり、自分も唯一真の神様、主イエス様としっかり結び付いた歩みをしたい、と強く願う事になるのです。

「神に近づく唯一の道」は、一人で歩み進む道ですが、独りで歩み進む道ではありません。

仲間がいて、お互いがお互いを応援する、励ます関係なのです。

仲間の歩む姿を見て励ましを受け、仲間に励ましを与えるのです。

この応援や励ましの連鎖が、信仰者の交わりであり、お互いの成長を促す秘訣なのです。

愚痴を言い合ったり、不平不満を言い合っても、何の益にもならず、成長は見込めません。

お互いの成長に役立つ事の分かち合いこそ、集まり」、教会、礼拝の目的でしょう。

応援や励ましを受けた経験は、訓練や試練の中にある友を応援し励まし、共に神に近づく道を歩み進む事となるのです。

「神に近づく唯一の道」は、お互いの成長に役立つ事の分かち合いであり、それこそが集まり」、教会、礼拝の目的でしょう。

私たち罪人は、この集まり」、教会、礼拝の中に置かれているのです。

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                                       2023-5-28礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙10章26節から31節

説教題:「背教に対する警告

牧師がコロナに感染したため、説教は見合わせ、次週に順延する予定です。

各自で聖書の精読をお願い致します。

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