2023-6-4礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙10章26節から31節

説教題:「背教に対する警告

【導入】

唯一真の神様と主イエス様の、罪人を贖うご計画は着々と、淡々と、粛々と、ご計画通り、寸分違わず進められ、カルバリ山の十字架で完成しました。

この主イエス様の贖いに、何一つ付け加える必要はありません。

過去の罪に対しても、今現在、不本意ながら関わってしまっている罪に対しても、将来に犯してしまうかもしれない罪に対してもです。

過去と現在に罪に対しての贖いであるならば、理解出来ましょうが、将来の罪も贖われている、と云うのは、ちょっと理解に苦しむのではないでしょうか。

そして、そっか、罪を犯してもいいんだ。

ローマ人への手紙615節で、「私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。」、と警告していますが、そんな、自分勝手な考えを持つ不届き者は、何処にでも、どの時代にもいるようです。

背教の危険、それは他人事ではありません。

ヘブル人への手紙の読者の中にも、関係者にも、少なからずいたようで、ヘブル人への手紙の著者は、警告を発します。

【本論】

新改訳2017 10:26 もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、

真理の知識を受けた後」、即ち、「神に近づく唯一の道」を知らされ、知りながら、「進んで」、即ち、「故意」に唯一真の神様、主イエス様のご計画である、罪人の贖いのご計画を否定するなら、贖われる事はなく、赦される事はないのです。

民数記1530節、「この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒涜する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。

15:31 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」のです。

唯一真の神様と主イエス様のご計画は、主イエス様による完全なささげ物、いけにえによって成り立っている贖い、救いであり、これを捨てるならば、或いは、これに何かを付け加えるならば、何かを入れ替えるならば、主イエス様によるささげ物が不完全であり、唯一真の神様と主イエス様のご計画は価値がない、役に立たない、と言っているに等しい事なのであり、唯一真の神様と主イエス様に対する、最大の侮辱であり、背教、背信以外の何ものでもない、と言う事です。

この地上は勿論の事、天上にも、主イエス様に勝るささげ物、いけにえは存在しません。

どんなに素晴らしくても、被造物には限界があります。

寿命があります。朽ちます。古びます。

しかし、主イエス様は被造物ではないので、無限であり、永遠であり、完全であり、何のものの影響を受けず、不変なのです。

その唯一無二のささげ物、いけにえを否定するなら、その背教、背信を贖ういけにえ、ささげ物は地上にも、天上にも、存在しはしないのです。

10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。

主イエス様のささげ物、いけにえは、最高のささげ物、最後の切り札であり、それを否定するなら、贖いのためのささげ物、いけにえ、手段は皆無、“0”なのであり、主イエス様の再臨の日に訪れる「さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を」逃れるすべはなく、裁きを、死を、「恐れながら待つしか」ないのです。

主イエス様の贖いと、主イエス様の執り成しを否定する事が、どれ程愚かな、取り返しの付かない事であるかを、正しく認識しなければなりません。

これまでも何とか切り抜けてきたから、何とかなるさ、は通用しません。

神は愛なんでしょ。

だったら、なんだかんだ言っても、結局は赦してくれるんじゃあないの。

決してそうではありません。

10:28 モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。

ユダヤ人の、裁きについての教えは、「二人または三人の証人のことばに基づいて」判断し、判定する事です。

申命記1915節に、「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」、と教えています。

一方的な裁きが行なわれてはならず、裁きの公平性、正当性のために、どんな時にも、第三者、利害関係のない証人を複数人、立てなければならないのです。

また、弁明の機会を与える事も、当時の基本的な考え方であり、使徒の働き2516節、「そこで、私は彼らにこう答えました。『訴えられている者が、告発する者たちの面前で訴えについて弁明する機会が与えられずに、引き渡されるということは、ローマ人の慣習にはない。』

欠席裁判は、忌むべき事であり、唯一真の神様、主イエス様が嫌われる事です。

そして、証人に於いても、弁明に於いても、手続きに則って裁かれたなら、その刑罰は、厳格に執行しなければなりません。

憐れみを掛けてはならず、先送りにしたり、有耶無耶にしてはなりません。

申命記138節、「あなたはそういう者に同意しようとしたり、耳を貸したりしてはならない。そのような者にあわれみをかけたり、容赦したり、かばったりしてはならない。

1913節、「彼にあわれみをかけてはならない。咎のない者の血を流す罪をイスラエルから除き去りなさい。それは、あなたのためになる。

ユダヤ人は、唯一真の神様に相応しく聖くなければならず、ユダヤの地も、唯一真の神様に相応しく聖くなければならないのです。

罪を持つ身である人間に対しても、最大限の保護を与え、擁護し、不当な裁きを受ける事がないようにするのが、唯一真の神様、主イエス様の御旨です。

10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。

踏みつけ」ると云う所業は、非常に屈辱的であり、最大限の侮辱を与える行為ですが、それを、よりによって、神の御子、主イエス様に対して行なったのであり、それが、「いかに重い処罰に値するか」は、考えるまでもありません。

私たち罪人の罪を贖い、唯一真の神様に受け入れられるものにするのは、主イエス様の血だけであり、「御霊」のお働きだけです。

汚れたものと見なし」は、主イエス様の死を、在り来たりのもの、価値のないもの、何の意味もないものと見做す事であり、唯一真の神様の恵みを無価値なモノ、騒ぐほどのモノではないと見做すことであり、重大な罪ですが、それでも主イエス様の贖いの効果は絶大で、赦されるのです。

マルコの福音書328節、「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。

しかし、「恵みの御霊を侮る者は」、聖霊を軽んじるものは、マルコの福音書329節、「しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。

無知や誤解による、神様、主イエス様への「冒涜」や、無知や誤解の結果の反発や反抗は、知らずにした事ですので赦されますが、理解を助け、信仰に導くお働きを一手に引き受けておられる「聖霊」様に対する「冒涜」は、決して赦される事がないのです。

と云うよりも、「聖霊」様を拒否するのでは、弁護も支援も、し様がない、助けようにも、その助けを拒否するのでは、助けようがない、赦そうにも、赦しを拒否するのでは、赦しようがない、と云うのが本音でしょう。

キリスト教の特徴は、応答にあります。

罪の赦しが宣言されると、自覚のあるなしに関わらず、誰でも赦され、救われるのではありません。

知らないうちに救われていた・・・なんて事はないのです。

唯一真の神様のご計画と主イエス様の贖いを明確に自覚し、受け入れるなら、罪は赦され、義とされるのですが、唯一真の神様のご計画と主イエス様の贖いを拒否、拒絶するなら、罪は赦されず、義とされる事もないのです。

弁護、支援、助け、赦しを拒否するなら、残るのは、糾弾と厳しい追求、攻撃、厳格な刑の執行であり、それらを逃れる術はないのです。

10:30 私たちは、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する。」また、「主は御民をさばかれる」と言われる方を知っています。

30節の鍵括弧の御ことばは、申命記32章からの引用です。

「復讐はわたしのもの、わたしが報復する」は、申命記3235節、「復讐と報復はわたしのもの」からの引用であり、「主は御民をさばかれる」は、申命記3236節、「主は御民をかばい」からの引用ですが、ヘブル人への手紙でさばかれる」と訳されているヘブル語には、「さばく、争う」の他に、「抗弁する」の意味があり、申命記では「かばい」の意味を採用して訳しているようです。

唯一真の神様は常に、正しく裁かれるのであり、偏った裁き、おもねったり、忖度したりはなさいません。

かばい」は、罪を見逃したり、大目に見たり、肩入れする、の意味ではなく、主イエス様の贖いの故に、抗弁して下さる、の意味であり、唯一真の神様に、不当、不正な裁きも、理不尽な庇い立ても、感情的な弁護も一切ないのです。

唯一真の神様は、契約、律法の取り決めに基づいて、正しく裁きを行なわれるお方であり、その裁きは公正、公平であり、公明正大なのです。

私たちを「さばき」、「かばう」のは、二種類の規定、律法ではありません。

律法は一つであり、その律法の取り決めに従って、「さばき」が行なわれ、主イエス様を信頼し、従う者は、憐れみを受け、律法に約束された恵みが与えられ、主イエス様を「踏みつけ」、聖霊様を「侮る者」の上には、律法に決められた罰が与えられるのです。

10:31 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。

主イエス様を「踏みつけ」、聖霊様を「侮る者」にとって、唯一真の神様は、恐ろしい御方、震え上がるようなお方でしょうが、主イエス様を信頼し、従う者にとって、唯一真の神様は、優しい御方、暖かい御方、安心できるお方なのです。

唯一真の神様は、情け容赦のない、厳しいだけのお方なのではなく、律法に基づき、契約に従って正しい裁きをなさる、義なるお方であり、同時に、主イエス様の贖いを受け入れた者には、完全な赦しと恵みを与える愛なるお方なのです。

【適応】

唯一真の神様は、造られた全ての者を救おうとご計画され、主イエス様を唯一の贖いの方法としました。

唯一真の神様の「義と愛」が両立するのは、矛盾なく成立するのは、完全に全うするのは、主イエス様を贖いとする方法だけです。

この主イエス様の贖い以外の方法は、唯一真の神様のご計画の否定であり、採用してはなりません。

何かを付け加えてはならず、一部を取り去っても、取り替えてもなりません。

「背教」って云うと、何か、とんでもない、おぞましい、大それた企て、をイメージするかもしれませんが、そんな大げさな事ではなくて、ちょっとした思い違いや思い込み、甘い判断が、不信仰、否定、背教に繋がるのであり、注意が必要です。

エデンの園で、禁じられた木の実を食べた時も、唯一真の神様に対する反逆、なんて意識は微塵もなかったのではないでしょうか。

ちょっと好奇心をくすぐられ、大きな罪意識もないままに、軽い気持ちで食べてしまった。

ノリで羽目を外してしまい、大した罪悪感もなく、軽い気持ちで一線を越えてしまった。

悪事を隠すために、更なる悪事を重ねてしまった。

背教につながりかねない行為行動は、些細なところから始まるのではないでしょうか。

白黒はっきりしていれば、手を出す事はないでしょう。

はっきりしていないから、ちょっと試してみるのであり、段々深みにはまって行ってしまうのです。

行為行動が、律法や契約に反しているかいないかを、常に意識していられればよいのですが、煩雑な日常生活の中で、なかなかそうはいきません。

私の行為行動が、律法や契約に反しているかいないかの感覚を養い、研ぎ澄ませたものとなるのに有益なのは、聖書通読ではないでしょうか。

価値観の多様化した時代、個々人の判断が尊重される時代、基準となるものがはっきりしない時代ではありますが、私たち信仰者の基準は、常に神の御旨であり、神の御旨は聖書によって得るしかありません。

常に聖書と親しみ、聖書に聞き、聖書との交わりによって研ぎ澄まされた感覚を以ってしてこそ、何かおかしい、変だ、と聖霊が警告を与えてくれるのではないでしょうか。

聖霊が存分にその能力、機能を発揮するのは、聖書通読によって養われたものなのではないでしょうか。

説教による、御ことばの蓄え、訓練なのではないでしょうか。

背教は、何処か遠くの、誰かの話ではありません。

背教に対する警告は、誰かに語られている話ではありません。

私自身の問題であり、贖いから離れ、救いから洩れないように、裁きに会わないようにとの、神様からの愛に溢れる呼びかけなのです。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙10章32節から39節

説教題:「約束のものを手に入れるのに必要なのは忍耐です

【導入】

聖書通読の大切さ、重要性、必要性を、折に触れてお勧めしていますが、読書の常として、一ページ目から章と節を追って読み進めるのが、一般的なようですが、旧約聖書の分量は膨大であり、しかも、律法や掟の羅列であり、非常に厳しい警告が続きます。

律法や掟に従えば、即ち、唯一真の神様のみに従えば、祝福と繁栄が与えられることが、律法や掟に背けば、即ち、唯一真の神様に背を向ければ、呪いと滅亡がやってくることが、明確に預言されています。

しかも、紀元前の、中東の、異文化が、異言語がベースとなっていますので、そして、内容が内容だけに、中々、読み進めるのは困難ですが、これらの律法や掟のもたらす祝福と繁栄、呪いと滅亡を正しく認識、理解してこそ、新約に記されている、主イエス様の贖いの意味、大きさなどなどが正しく理解出来るのです。

ヘブル人への手紙の著者は、試練に会っている人々に、警告を与えると同時に、励ましのことばを語ります。

【本論】

新改訳2017 10:32 あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。

」とは、主イエス様のことであり、「光に照らされた後」とは、主イエス様に対する信仰を与えられた直後に、の意味でしょう。

苦難との厳しい戦い」、と表現されていますが、主イエス様に対する信仰を告白した者が迫害を受け、苦しい目に会うのは周知のことです。

ユダヤ教からは異端として、ローマ帝国からも迫害を受け、苦しい目に会っていたのであり、主イエス様に対する信仰告白が、どんな結果を招くかを知りながら、主イエス様に対する信仰を告白する者が、次々に起こされていたのです。

苦難との厳しい戦い」が、何時、何処で、かなど、具体的なこと、詳細は判りませんが、西暦41年のクラウディウス帝即位後の、ユダヤ人追放法令発布に至る前後の出来事のようであり、西暦64年の皇帝ネロの迫害以前、の出来事のようであり、殉教者が出るほどの、激しい「苦難との厳しい戦い」ではなかったようですが、

10:33 嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。

主イエス様に対する信仰を告白したために、また、信仰を貫くために、「嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされ」るのは、覚悟していたかも知れませんが、重要なのは、「このような目にあった人たちの同志となった」と云う記述です。

直接に、「嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされ」ることはなかったにしても、それで、「ああ良かった」とほっとすることなく、関わりを絶って、小さくなって隠れて生活することもなく、自ら進んで、「このような目にあった人たちの同志となった」のです。

同志となった」の意味は、支援者、援助者になった、の意味でしょう。

迫害の中、日々の糧を得るのは簡単なことではなく、支援者、援助者がいなければ、生きていくのは難しいことであり、もし、獄に入れられていたならば、獄吏への付け届けは必要不可欠であり、差し入れがなければ、獄中で餓死するのは必然だった、そんな社会だったようです。

しかも、それらの支援者、援助者となったのは、裕福な者、余裕のある者ではなく、迫害が迫っていた、貧しいキリスト者たちであったのですが、更に、使徒の働き1128節、「アガボという人が立って、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言し、それがクラウディウス帝の時に起こった。

大飢饉の中で、自らも食べるに不自由する中で、支援、援助をしたのです。

彼らにとって、迫害されている者たちを支援するのは、援助するのは、見舞うのは、主イエス様のお世話をすることであり、兄弟愛の実践であり、義務でもあったのです。

マタイの福音書2534節、「 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。

25:38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。

25:39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

 

10:34 あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。

西暦41年にクラウディウス帝が即位し、8年後、西暦49年にユダヤ人追放令が発布されますが、この史実は使徒の働き182節に記されています。「そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。

この追放令、単なる退去令、強制的な引越し命令ではありません。

家財道具、衣類などなどを持ち出す事は許されず、出来ず、家をそのままにして立ち退かなければならず、家財道具、衣類などなどは勿論のこと、家も、全て略奪されてしまったそうですが、「それを喜んで受け入れ」たのです。

困難な中にあって、パウロの教え、主イエス様の教えを実践したのであり、ローマ人への手紙53節、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

初代教会のキリスト者たちの、主イエス様に対する信仰、信頼は、驚くべきものであり、信仰を持って僅かの期間で、後世の模範になるような忍耐、品性、希望を持つ信仰者となっていたのです。

10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。

信仰者として生きる、歩む秘訣は「確信」です。

勿論、主イエス様に対する「確信」であり、他の何ものでもありません。

信頼出来る信徒や仲間でもなければ、牧師や役員でもなく、教団や教会でもなく、教派や伝統などでも有りません。

自分の知識でもなければ、体験、経験でもありません。

そして、大切なのは「確信」を、主イエス様に対する信仰を堅持する事です。

堅持する・・・簡単なようで簡単ではありません。

人は、目に見えるものや人の考えなどに強く影響を受けます。

理性的であると同時に、感情的であり、理屈よりも感性で判断しがちです。

自分の考えや思いに固執し易く、主イエス様に対する信仰、「確信」を貫くのは簡単なことではありません。

人間は、自分に都合よく、すり替える生き物だからです。

常に、主イエス様に対する信仰であり、「確信」であることを意識しておかないとなりません。

しかし、「確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあ」るからです。

10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

35節の「報い」は、唯一真の神様からのモノであり、36節の「約束のもの」は、唯一真の神様の約束であり、確実に実現するのですが、人間の都合に合わせて、希望や願い通りに実現するのではありません。

唯一真の神様の御旨の時に実現するのであり、約束は果されるのです。

唯一真の神様のお約束であり、実に確実なことではありますが、「忍耐」を働かせて待たなければなりません。

しかし、何もしないで、ただただ耐え忍ぶのではなく、唯一真の神様に対する信仰と忠誠を堅く保ち、唯一真の神様の御旨を行なった、主イエス様の姿、生き方に倣って、「忍耐」するのです。

消極的に、隠れて生きるのではなく、積極的に主イエス様に従って生きるのです。

この「忍耐」の期間、決して長くはありません。

10:37 「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。のです。

私たちの「忍耐」以上に「忍耐」深いのが、唯一真の神様です。

ペテロの手紙第二39節、「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 

10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」

37節と38節は、ハバクク書23節、4節、「2:3 この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。

2:4 見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」からの引用とされていますが、ハバクク書本文とは、七十人訳とも、大分違います。

ハバクク書本文からの直接引用ではなく、主旨を紹介した、と云うところなのでしょう。

聖書の引用には、注意しなければならず、大切なのは、文脈を無視した引用や、自分たちの都合にあわせて、変に辻褄を合わせたりしないことでしょう。

十戒を唱和していますが、主語が「あなたは」であることを、覚えておくことが大切です。

聖書を、誰かを従わせるために用いるのは、危険です。

聖書は、私のために書かれた書物であり、唯一真の神様と私との、正しい関係、麗しい関係を教えるものです。

38節で、著者は、「苦難との厳しい戦いに耐え」ることが出来ずに、唯一真の神様に対する信頼を失い、信仰を捨て、去って行く者に対する言葉を語りますが、これは、非難や叱咤ではなく、39節に繋がるものです。

10:39 しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

苦難との厳しい戦いに耐え」ることが出来れば、それに越したことはありませんが、皆が皆、「苦難との厳しい戦いに耐え」ることが出来る訳ではありません。

真の信仰者は、「苦難との厳しい戦いに耐え」ることが出来ずとも、それでも唯一真の神様から離れず、「退」かず、主イエス様に従って歩み続ける者です。

私たちの多くは、弱く、力もなく、迫害や苦難にも耐えられませんが、それでも主イエス様を「信じて」歩むなら、「いのちを保つ者」とされるのです。

主イエス様に対する信仰、従順の故に、迫害や苦難のために、地上のいのちを失っても、まことのいのちを得る秘訣は、唯一真の神様、主イエス様に対する信頼と信仰を保ち続ける「忍耐」なのです。

【適応】

その「忍耐」も、私たちのうちには、ちっぽけなものしかなさそうです。

肉体的苦痛に弱く、精神的苦痛にも耐えられないで、挫折してしまう。

直接の苦痛のほかにも、思い煩い、取りこし苦労も絶え間なく、ちょっとしたことにさえ、右往左往し、責任転嫁し、仕方がなかった、と言い訳をしてしまう。

なかったかの如くに振る舞い、反省も検証もしない。

そして、反省や検証を不信仰の如くに扱い、触れるのを避け、触れないようにするのを美徳とする空気。

それでは、同じことの繰り返しにしかならないでしょう。

迫害や困難に耐えられず、挫折したとき、何故耐えられなかったかを検証すると同時に、迫害や困難に出会ったとき、基本は、主イエス様と共に、主イエス様に従い、主イエス様がお持ちの「忍耐」で、迫害、苦難に立ち向かう、これを再確認し、基本を忘れないことです。

ただただ、唯一真の神様と主イエス様の哀れみに縋り続けるしかないのであり、主イエス様と云う船に乗ったようにして、迫害、苦難と云う荒波を乗り越え、主イエス様と云う盾の陰に守られるようにして、迫害、苦難と云う火矢を防ぎ、歩み続けることが大切なのです。

自分の力、「忍耐」力で迫害、困難立ち向かうことは出来ません。

自分の力、「忍耐」力は小さく、頼りにならないからです。

常に、主イエス様の力、「忍耐」力に頼り、迫害、困難に立ち向かうのです。

その結果、約束のものを手に入れることが出来るのです。

忍耐」は、苦難、困難に耐え、立ち向かうことではなく、唯一真の神様、主イエス様と共に歩み、歩み続けることなのです。

皆さんは、この主イエス様が共に歩んでくださるのですから、必ず約束のものを手に入れる事が出来るのです。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙11章1節から3節

説教題:「信仰とは

【導入】

信仰とは」・・・今更ながらの説教題かも知れませんが、ヘブル人への手紙の著者は、「信仰」を「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」、と定義し、その信仰に歩んだ「昔の人たち」を紹介します。

これら、唯一真の神様に対する信仰に歩んだ人たちは、特別な人たちではありません。

極、普通の人たちでしたが、先ずは、何をさて置き、唯一真の神様のことばに従った人たちです。

唯一真の神様のことばに納得したから、或いは合理性があったから従ったのではありません。

脅かされた訳でも、騙された訳でも、交換条件で従ったのでもありません。

唯一真の神様のことばだから従ったのであり、従った結果、祝福などが与えられたのであり、祝福を目当てに、祝福を期待して従ったのではないのです。

唯一真の神様と被造物である人間は、対等な関係ではありません。

被造物は、創造者に従わなければならないのであり、従う事こそが被造物の使命であり、存在目的なのです。

創造者の期待に応え、使命を全うし、存在目的を果す事が、被造物にとって全てなのです。

勿論、人間は単なる被造物ではなく、創造者である唯一真の神様と霊的な応答が出来る特別なものとして造られていますので、創造者に報告し、連絡し、相談し、より良い関係性を構築していく事が期待されているのです。

加えて自由が与えられ、裁量が与えられ、その範囲で自由に行動が出来る、特別な存在なのです。

そのより良い関係性は、先ずは創造者なる唯一真の神様に信頼し服従するところから始まります。

【本論】

新改訳2017 11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

信仰は、望んでいること」、即ち、未来、将来の事を、唯一真の神様への信仰によって、現在既に得ているかの如くに、完成しているかの如くに確信する事です。

将来の事は誰も確定的な事は言えず、何の保証も、確証もありませんが、唯一真の神様のお約束だから、お約束の通りになるのであり、そこに疑いや不確定的要素の入り込む余地は寸分もありません。

信仰の対象は「目に見えないもの」、即ち、霊的存在である創造者なる、唯一真の神様であり、この世に存在するモノ、この世界に存在するモノではありません。

誰も見た事がなく、見る事が出来ない存在です。

この世に存在しているモノは、全て、相互の関係性の中で存在しているのであり、非常に長い、無限のように見える寿命、一生を持っていても、刻々と変化しているのであり、有限であり、必ず終わりを迎えますが、創造者なる神様は、独立した存在、不変の存在、無限の存在、単一の存在なのであり、何ものからも影響を受けず、何ものの助けも必要とはしないのです。

信仰の対象は、霊的存在である創造者なる、唯一真の神様、ご自身であると共に、将来に於ける約束の成就、完成も含まれます。

創造者なる、唯一真の神様と、そのお約束の成就、完成を待ち望む事が信仰なのであり、創造者なる、唯一真の神様と、終末、裁き、天国、地獄はセット、ペアなのです。

11:2 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。

信仰とは何なのか、を知る上で、理解する上で、有益なのは、信仰に生きた人たちの足跡、歴史を知る事です。

それは4節以降に記されていますが、著者は創造についても、信仰的な目で判断し、信仰をもって受け入れなければならない、と語ります。

11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。

目に見えないものを確信させる」典型的な例、信仰の試金石となるのが、創造についてだからです。

この世界の創造の経緯は、誰も見た者がなく、聖書に記されているだけです。

神様に因る創造か、そうでないか、であり、無、“0”からの創造か、何かしら在ったものを寄せ集め、組み立てたか、であり、信じるか、否か、です。

創造の経緯は、目撃者がなく、神様の啓示に因って記された聖書、創世記の記述を信じるか、否か、なのです。

この世界」は、現在の、私たちが 存在し、生きる世界ですが、空間的な面も、時間的な面も含めた世界です。

神のことば」は、「目に見えるもの」ではありませんが、「神のことば」に因って、空間的世界も、時間的世界も「造られた」のです。

無からの創造を信じる、信仰告白であり、1節に繋がるのであり、基礎中の基礎、基本中の基本、でしょう。

この宇宙、世界の創造は、材料があって、それを寄せ集め、組み立てたのではありません。

この宇宙は、無から、“0”から「神のことば」に因って、造られたのであり、この世界の動植物は、「神のことば」に因って、種類ごとに造られたのであり、この宇宙、世界が「目に見えるもの」を寄せ集めた、組み立てた、と云う考えを否定します。

それは、聖書信仰の根幹です。

確実な事は、事実なのであり、信じるまでもなく、真実なのであり、信仰の働く余地は有りません。

不確実な事は、真実か否かを確定出来ないのであり、信じるか否かであり、信仰を働かせるしかないのです。

【適応】

創造者、唯一真の神様による世界の創造、人間の創造は、荒唐無稽な神話の類の様に思われ、生物は自然に発生し、進化したと言う論説が、科学的であり、真実であるかの如くに扱われ、日本では進化論こそが正論であるとし、進化論だけを教えられていますが、どちらも目撃者がいる訳ではなく、経緯の客観的な、公平な記録がある訳でもありません。

果たして真実は、事実はどちらなのでしょうか。

信仰とは、不確実な事を、信じるか否かなのですが、その点では、創造論も、進化論も、信じるしかないのです。

不確定な事は、排除すべきではなく、断定する事もなく、併記して、それぞれを紹介する事が、客観的、公平な態度、対応と言うべきでしょう。

神様はいるのかいないのか。

いる、と云う確実な証拠を示す事は出来ませんが、いない、と云う確実な証拠を示す事も出来ません。

私たちが云うところの信仰とは、証明不能な神様の存在を信じる事であり、世界の創造、人間の創造を、唯一真の神様による創造と信じる事なのです。

確実な証拠はなく、反対意見を押し返す知識も話術もありませんが、そして、時に、その信仰が揺らぎ、迷い、解らなくなってしまいましょうが、私たちの造り主、唯一真の神様を信じ、贖い主、主イエス様を信じ、助け主、聖霊様を信じ、歩み続けたいものです。

目に見える奇跡や助けの類を経験する事を望むかも知れませんが、それではもう、それは信仰ではなく、事実の確認と受容になってしまいましょう。

信仰は、解らない事、確定出来ない事を、私はこう考え、こう信じる、と云う事です。

大切なのは、漠然、漫然と信じるのではなく、創造者なる神様は、聖書が証言しているお方であり、独立した存在、不変の存在、無限の存在、単一の存在であり、何ものからも影響を受けず、何ものの助けも必要とはしないお方である、全知全能のお方である、と信じる事です。

何でも解ってから判断する・・・素晴らしい考え方、生き方かもしれませんが、解らない事がある、有限の人間には理解出来ない事が多々ある、まして無限のお方を理解など出来るはずがない、と謙遜になって受け止めるべきであり、その姿勢こそが、信仰の姿、生き方であり、信仰を支えるのではないでしょうか。

信仰とは、隠され、解らない事がある、と受け止める事であり、何でも明るみに出し、白黒付ける事ではなく、唯一真の神様に委ねる事であり、委ねて生きる事です。

信仰そのものも与えられるのであり、前回学んだ「忍耐」を働かせて、信仰を保ち続け、創造者、唯一真の神様、主イエス様、聖霊様に支えられ、導かれ、主イエス様と共に歩んで行く事こそ、真実に辿り着く信仰なのです。

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                                       2023-6-25礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙11章4節から7節

説教題:「信仰に生きた人たち:洪水前

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、「信仰」を「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」、と定義し、

その「信仰」に歩んだ「昔の人たち」を紹介します。

聖書には特別な働きをした多くの「昔の人たち」が紹介されています。

死人を蘇らせたり、数々の奇跡を行なったエリヤやエリシャなどの預言者たち。

これらの人たちの存在を知る事は重要であり、大事ですが、もっと大事なのは、先ずは、何をさて置き、唯一真の神様のことばに従った人たちです。

彼らは、純朴な信仰の持ち主であり、誰に脅かされた訳でも、騙された訳でもありません。

上手い話に釣られた訳でもありません。

これら、唯一真の神様に対する信仰に歩んだ人たちは、極、普通の人たちでしたが、唯一真の神様のことばに従ったのであり、その結果、聖書に記され、「信仰」に歩んだ「昔の人たち」として紹介され、後世の人たちから、賞賛される事になったのです。

今回紹介する人たちは、洪水前の、唯一真の神様を信じて従った人たちです。

【本論】

新改訳2017 11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。

この出来事は、創世記41節から7節に掛けて記されています。

2017版は5ページです。「4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、主によって一人の男子を得た」と言った。

4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。

4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。

4:4アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。

4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。

4:6 主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。

4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」

カイン」は兄であり、農作物を育て、「大地の実り」を、主へのささげ物としました。

アベル」は弟であり、家畜を育て、「自分の羊の初子」の、しかも「肥えたものを」、主へのささげ物としました。

主はアベルとそのささげ物に目を留められ」ましたが、「カインとそのささげ物には目を留められなかった」のです。

目を留められ」るか否かは、「受け入れられる」か否かは、ささげ物にあるのではなく、献げた人にあるのです。

主はアベル ささげ物に目を留められ」たのではなく、「主はアベル そのささげ物に目を留められ」たのであり、「カイン ささげ物には目を留められなかった」のではなく、「カイン そのささげ物には目を留められなかった」のです。

創世記4章の記述から知り得る情報は、多くはありませんが、「自分の」と云うことばから、「アベル」の自発や積極的な気持ちがうかがい知れ、「肥えたもの」と云うことばから、犠牲や感謝の気持ちがうかがい知れるのではないでしょうか。

しかし、「カイン」に、自発や積極性、犠牲や感謝の気持ちがなかった、と云うのではなく、弟と比べるのでもなく、弟「アベル」の内にあるもの、なかったものに、主は「目を留められ」、兄「カイン」の内にあるもの、なかったものに、主は「目を留められ」、結果、「主はアベルとそのささげ物に目を留められ」たのであり、「カインとそのささげ物には目を留められなかった」のです。

信仰」は、人と比べたり、ささげ物の多寡、種類、優劣ではなく、その人自身のうちにあるもの、ないもので、唯一真の神様に対する従順で評価されるのです。

11:5 信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。

この出来事は、創世記521節に記されています。2017版は8ページです。

5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

5:22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。

5:23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。

5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

洪水前の人たちの寿命は、非常な長寿でした。

「アダムが生きた全生涯は九百三十年であった。こうして彼は死んだ。」

「セツの全生涯は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。」

「エノシュの全生涯は九百五年であった。こうして彼は死んだ。」

「ケナンの全生涯は九百十年であった。こうして彼は死んだ。」

「マハラルエルの全生涯は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。」

「ヤレデの全生涯は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。」

エノクの全生涯は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

「メトシェラの全生涯は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。」

「レメクの全生涯は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。」

「ノアの全生涯は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。」

エノクの全生涯は、列挙されている人たちの半分以下ですが、評価のポイントは、「神とともに歩んだ」、であり、列挙されている人たちは「こうして彼は死んだ」と記されていますが、エノクの場合は、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」のです。

いなくなった」は、勿論、「死んだ」の意味ですが、今は、主と共にある、の意味が込められている事は、明白です。

信仰」は、「神とともに歩」む事であり、それが基本です。

11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

どんな多大な犠牲も、奉仕も、ささげ物も、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

信仰がなければ」、多大な犠牲も、奉仕も、ささげ物も、個人の働きに帰す事になり、唯一真の神様の栄光には繋がりません。

多大な犠牲も、奉仕も、ささげ物も、隠れたものこそ、本物であり、「神とともに歩」む事こそが、「信仰」の歩みなのであり、「主は○○とそのささげ物に目を留められ」るのです。

そして重要なのは、「神に近づく者」の条件が記されていますが、これは罪を持つ身の者には、非常に難しい事、否、不可能、と云っても過言ではないでしょう。

これを可能にするのは、御子、主イエス様だけであり、主イエス様を道とするからこそ、主イエス様に贖われた私たちは「神に近づく者」となれるのです。

そして、「神がおられること」、ですが、唯一真の神様の臨在は、悪魔でも知っていますが、このことばの真意は、唯一真の神様に従うか否か、が問われているのであり、従う事の重要性を問うているのです。

報い」とは、主イエス様再臨の時に、御国に招き入れてくださる事であり、その特権を与えられる、との約束を「信じなければならないのです」。

11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。

ノア」もまた、「信仰によって」歩んだ人です。

創世記69節、2017版は8ページです。「これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

22節、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

まだ見ていない事柄」とは、創世記6章から8章に記されている洪水物語の事ですが、前代未聞の事であり、荒唐無稽の話であり、誰が「まだ見ていない事柄」を受け入れ、信じ、従う事が出来るでしょうか。

荒唐無稽の話を信じ、従うなんて、「どうかしている」と誰しもが思う事でしょうし、物笑いの種、蔑みと嘲笑の的でしかなかったでしょう。

しかし、「ノア」は人々の好奇の視線を恐れず、怯(ひる)まず、怯(おび)えず、「神から」の「警告を」真摯に受け止め、「恐れかしこ」みつつ、「箱舟」の建造に取り組んだのです。

その建造期間は、凡そ100年以内ですが、重機のない時代、木材を切り出すのも運ぶのも、組み立てるのも、困難を極めた事は容易に想像出来るでしょう。

それだけの価値があるか不安がよぎった事もあるでしょうが、無駄骨を覚悟で、家族にも、愛想を尽かされるのが落ちかもしれませんが、信仰をもって取り組み続けたのです。

ノアの信仰が、家族をまとめ、一致させ、協力させ、一大プロジェクトを完成させたのです。

【適応】

アベル」、「エノク」、「ノア」の記事、信仰に関連して、「アベルは神を信じた」、「エノクは神を信じた」、「ノアは神を信じた」、と云う、直接の信仰告白につながることばは見い出せませんが、「アベル」は、「すぐれたいけにえを神に献げ」たのであり、唯一真の神様を信じて、一番のささげ物を献げたのであり、それは信仰に他ありません。

エノク」は、「神とともに歩んだ」のであり、唯一真の神様を信じたからこそ、ともに歩み続けたに違いありません。

ノア」は、「神から警告を受けたときに・・・箱舟を造」ったのであり、唯一真の神様を信じたからこそ、困難な建造に取り組んだに違いありません。

洪水前の人たちの信仰は、素朴な信仰ですが、信仰の対象ははっきりしていたのであり、それは唯一真の神様だったのであり、洪水後の人たち、現代の私たちと同じです。

信じる、歩む、と云う決意も重要ですが、決意が空回りしていたなら残念です。

信じた、信じ続けた、歩んだ、歩み続けた、と過去形で、完成形で語りたいものです。

エノク」は、何のエピソードも残していません。

エノク」には、「アベル」や「ノア」のような後世に語り継がれるような信仰上のエピソードはありませんが、何より大事なのは、「神とともに歩んだ」であり、非常に重い、含みのあることばなのではないでしょうか。

勿論、これを可能にするのは、主イエス様とともに歩む事ですが、主イエス様と共に歩んで行く人たちこそ、信仰に生きる人たちなのです。

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