2023-7-2礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙11章8節から12節

説教題:「アブラハムの信仰」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、「信仰」を「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」、と定義し、その「信仰」に歩んだ「昔の人たち」、アベル、エノク、ノア、を紹介しました。

彼ら、唯一真の神様に対する信仰に歩んだ人たちは、極、普通の人たちであり、聖書には、何か特別な事をした記録はなく、多大な貢献をした記録もありません。

アベルは、唯一真の神様からの啓示を受けて、ささげ物を献げた訳ではなく、エノクも、唯一真の神様からの啓示を受けて、主と共に歩んだ訳でもありません。

しかし、ノアは、唯一真の神様からの啓示を受けて、神様のことばに従い、神様と共に歩んだのですが、ノアから神様へのことばの応答はありません。

唯一真の神様と人間との間は、一方通行的な応答、信仰な訳ですが、アブラハムの信仰からは、唯一真の神様と人間との間の、双方向の応答を基調とする関係が始まったのであり、新しい段階に入ったのであり、大きな分岐点、と言えるでしょう。

唯一真の神様から、ことばを用いた啓示があり、人間から、ことばを用いて応答する会話が始まったのです。

【本論】

新改訳2017 11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

唯一真の神様とアブラハムとの関係は、創世記12章から始まり、先ず、神様からの祝福が宣言され、従うアブラハムの姿が記録されています。

201717ページ、「12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

12:4 アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。

アブラハムは・・・どこに行くのかを知らずに出て行きました。

これが重要です。

納得出来る、同意出来る、皆の賛同も得たから従うのではありません。

唯一真の神様のことばだから、どんなに無茶でも、危険でも、根拠がなくても従うのです。

1314節からにも、神様からの約束が繰り返され、従うアブラハムの姿が記録されています。

201719ページ、「ロトがアブラムから別れて行った後、主はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。

13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。

13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。

13:17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」

13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

15章でも、神様からの約束が繰り返されますが、アブラハムの応答が記されています。

156節、201721ページ、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」のであり、

265節、201743ページ、「これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。

アブラハムこそ、古の信仰者たちの代表であり、信仰による義人の代表なのです。

信じる事と従う事は同じ事であり、神様が立てられ、遣わされた御使い、預言者、使徒、牧師などの口を通して語られる、信じ得ないような事に従うのが、従うに困難な事に従うのが、無理難題に従うのが、不本意な事にも従うのが信仰なのです。

それも不承不承ではなく、喜んで、積極的に、です。

11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

アブラハムの行く先には、既に先住民が居て、拠点とし、基盤を造っていました。

割り込むのは簡単な事ではなく、また、そのような指示を受けてはおらず、寄留者である事を自覚し、寄留者生活を続けていたのです。

ロトはアブラハムと別れ、ヨルダンの低地を選び、ソドム、ゴモラの地の近くに居を構えたようですが、アブラハムはロトと別れた後は、山地の方に移動しますが、絶えず、転々と移動する天幕生活を続けていたのです。

ここにもアブラハムの信仰が現れています。

定住は、唯一真の神様の指示があってからであり、それまでは、大変でも、不自由でも、面倒でも、天幕生活をし続け、

土地の所有を目指し、工作し、交渉する事はしなかったのです。

11:10 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。

アブラハムの信仰は、眼に見えるものにではなく、唯一真の神様に対するものであり、目に見えるカナンの地、過ぎ行く、移り変わる地上の土地、都を待ち望んだのではなく、唯一真の神様の用意された、変わる事のない、永遠に存続する土地、都、を待ち望んだのです。

アブラハムが待ち望んでいるものは、唯一真の神様が「設計者、また建設者」であり、アブラハムとその子孫のために、特別な配慮をもって用意された特別な土地、都であり、誰も見た事も、聞いた事もない土地、都であり、既存の土地、都の延長や改良されたもの、発展したもの、などではないのです。

11:11 アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不任の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

サラについてですが、創世記1812節以降に記されていますが、サラは神の使いのことばを信じる事が出来ませんでした。

2017版、26ページ、「サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。

アブラハムも神の使いのことばを信じる事が出来ませんでした。

創世記1717節、2017版、25ページ、「アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。

誰でも、常識的な判断、経験や体験を基にした判断をするものであり、不信仰な言動は多かれ少なかれ付き纏うものですが、唯一真の神様は、七を七十倍するまで、否、悔い改めるなら無限に赦してくださるお方なのですから、不信仰に留まらない事が肝要であり、直ぐに、唯一真の神様に対する信仰に戻り、留まり続ける事が重要です。

旧約に於いて、夫婦や家族の信仰は夫、主人の信仰を拠りどころとし、夫、主人の信仰が、妻や家族の信仰と見做されるのです。

夫、主人には、家族の信仰を導く重大な責任があるのです。

アブラハムとサラは一体であり、不可分の関係にあり、アブラハムの信仰は、サラの信仰と見做されるのです。

アブラハムの信仰がサラの信仰を保証し、サラをも信仰者と見做し、信仰者として受け入れられ、評価されているのです。

11:12 こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。

失敗があり、不信仰な一面があり、紆余曲折のアブラハムの信仰ですが、唯一真の神様は真実な方であり、創世記156節、201721ページ、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」のであり、創世記12章、13章の約束を守られ、「天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれ」る祝福に預かったのです。

【適応】

現代に生きる私たちクリスチャンは、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」と記されているところの、所謂、信仰義認を継承する者ですが、アブラハムは、創世記1315節、201719ページ、「わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。」との約束に関わる、アブラハムの血縁の者たちの信仰の父であり、また、創世記265節、201743ページ、「これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果した」者たち、即ち、行いによる義を継承する者たちの信仰の父でもあります。

唯一真の神様は、三つの手段、即ち、血縁、十二部族とその子孫、加えて、ユダヤ民族、イスラエル民族に加えられた人々、ユダヤ教への改宗者など、律法を遵守する人たち、そして、唯一真の神様に対する信仰を告白する人たちに祝福を与えようと計画され、三つの手段により、誰も義人の認定から洩れる者がないようにしてくださったのです。

アブラハムの信仰は、三つの面を持っていますが、重要なのは、信仰による義であり、信仰義認は、万民に提示されている手段であり、信仰義認は、他の二つを包み込むものであり、誰にでも適応されるものであり、唯一真の神様の深い、広い、大きな愛を余すところなく、人びとに分け与えようとのご計画なのです。

親の信仰、民族の信仰を超越し、律法を守る事によって到達しようとした義は、主イエス様の義を転化する事で達成し、すべての人たちが、唯一真の神様から祝福を受けられるようになったのです。

信仰義認は、全人類を救う手段であり、全人類はこの信仰義認により間違いなく、唯一真の神様に受け入れられるのです。

パレスチナに発生した、小さな信仰の火種は、今や世界中に広がり、完全な救いを提供しているのです。

信仰義認の恵みに与った私たちは、このアブラハムの信仰、信仰義認を継承した者であり、継承して行く使命に生きる者なのです。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙11章13節から16節

説教題:「信仰者の目指すもの」

【導入】

ヘブル人への手紙の著者は、「信仰」に生きた「昔の人たち」、アベル、エノク、ノア、を紹介し、アブラハムとサラを紹介します。

現代に生きる私たちクリスチャンは、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」と記されているところの、所謂、信仰義認を継承する者、アブラハムの霊的子孫です。

唯一真の神様の御子、主イエス様の贖いを信じ、義と認められた者であり、唯一真の神様の「子」とされました。

それ故に、生き方に於いて、主イエス様に似た者になりたいという願望が生まれ、行ないに於いても、主イエス様に似た者になりたいという願望が生まれます。

勿論、罪を持つ身であり、主イエス様を悲しませ、苦しめ、がっかりさせる事ばかりですが、志は高く持ち、常に高嶺を目指して、目標を持って歩んで行く事が、生きて行く事が期待されていましょう。

【本論】

新改訳2017 11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

死にました」、しかし、それで終わりではありません。

サラの亡骸は、適当な処に埋めればよいモノではありません。

創世記319節、20175ページ、「あなたは、顔に汗をながして糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ

創世記234節、201735ページ、「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私のところから移して、葬ることができます。

死と葬りは、「信仰の人として」生きた総決算であり、証しであり、「魂」は創造者なる神様にお返しし、「肉体」は土に返すのです。

しかも、明確な場所に埋葬し、記録として留め、信仰者として埋葬するのであり、人々の記憶に留めるのです。

約束のものを手に入れることはありませんでした」が、信仰の人の特徴は、約束の実現を見てはいない、それでも、唯一真の神様のお約束を信じ続けた、信じて疑わなかった、と云う事です。

何かしらかの兆しがあれば安心し、平安でもいられるでしょうが、兆しは全く感じられなかった。

否、時間だけが刻々と過ぎて行き、状況は悪くなるばかりであったのです。

それでも、唯一真の神様のことばであり、約束であるから、必ず実現すると信じ続けたのです。

それも、自分の願いや望みではなく、唯一真の神様の御旨に完全に、全面的に委ねたのであり、要望や要求の類や、確認や念押しなどは一切しなかったのです。

また、地上の事に、全く固執、執着しなかったのです。

地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」、と言っても、この世を刹那的に生きたのでもなく、虚無的に歩んだのでもありません。

その生き方、歩みは、この世との関わりを断った生き方、歩みではなく、証しとなるもの、また、唯一真の神様の命令に対して誠実なものでした。

創世記126節、20172ページ、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」」に従って、積極的に生き、歩んだのです。

11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。

信仰者は、唯一真の神様のお約束に対して、無頓着であったのではありません。

興味や関心がないように装っていたのでもありません。

この世を、一時を過ごすに過ぎない場所と考え、適当に、いい加減に過ごしたのではありません。

旅人であり、寄留者である」、との告白は、自分の立場や考え方の表明であり、旅の終わりがある、寄留生活の終わりがある、と意識していたからに他ありません。

なんとなく生き、歩んでいるのではなく、明確に、終末を意識した信仰者として生き、歩んでいるのです。

人は死んでお仕舞いではなく、死んだ後に別の世界に入る、新しい世界が始まるのです。

永遠のいのちが与えられて、唯一真の神様と主イエス様と共に生き、歩む世界か、

神不在、執り成し手不在、助け手不在の、永遠の苦しみが与えられる世界に生きるか、なのです。

自分の故郷」は、各自が思い描く理想郷などではなく、唯一真の神様のお約束で与えられる、御国であり、その御国の存在権、永住権が与えられるのです。

11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。

もし、「出て来た故郷」に未練や名残があったなら、何時でも、「帰る機会はあった」のです。

拘束されている訳ではなく、人質を取られている訳でもありません。

飢饉が迫ってきた時に、退避、避難を理由に、「出て来た故郷」に「帰る機会はあった」のです。

イサクの嫁探しの折にも、「出て来た故郷」に「帰る機会はあった」のであり、使用人を遣わさずに、自ら出向いた方が確実だったでしょう。

しかし、その選択肢を選ぶ事はなかったのです。

11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

信仰者にとって、「故郷」は、出て来た場所ではなく、唯一真の神様が用意された場所であり、いのちは、私個人のものではなく、唯一真の神様のものであり、唯一真の神様のおられる御国こそ、本当の意味での「故郷」なのです。

故郷」は、地上の、この世の、過ぎ行く場所の意味ではなく、唯一真の神様ご自身のいのちに与る事なのです。

アブラハム等は、夢想家ではなく、無責任に生きたのでもなく、この世で誠実に生きたのであり、地に足を付けた歩みをしたのであり、この世の事にも精通した実務家であり、現実家であったのです。

この世の事に疎ければ、いい加減であれば、適当であれば、誰が信頼し、頼りにするでしょうか。

信仰者は、完全無欠、非の打ち所のない人ではありません。

心情、感情、感傷に流されてはならず、主観的に過ぎてはならず、冷静沈着、理性的、客観的、総合的に判断するのであり、この世の事に精通しつつも、この世とは一定の距離を置き、深入りしない。

誠実で、裏表がない人をこそ、信頼するのではないでしょうか。

そんな生き方は、人々を魅了し、至っては唯一真の神様の御名を高めるのであり、唯一真の神様も、「彼らの神と呼ばれることを恥となさ」らず、出エジプト記36節、2017102ページ、「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、仰せになられたのです。

神が彼らのために・・・用意された」、「」は、この地上のものではありません。

地上、この世にある組織でもなく、教会でもなく、家庭でもありません。

似てはいるかもしれませんが、非なるものであり、別格です。

全くの自由でありながら、完全な調和が取れ、齟齬がなく、矛盾もないのです。

【適応】

信仰者の目指すものは、或いは関心の中心は、組織でも、教会でも、家庭でもありません。

如何に大切でも、地上のものは信仰者の目指すもの、関心の中心ではありません。

組織も教会も、大切だし、永続するように願いますが、信仰者の目指すもの、関心の中心ではありません。

信仰者の目指すもの、関心の中心は、天の御国であり、唯一真の神様と主イエス様のおられるところだけです。

天の御国は何ものからも影響を受ける事なく、変わる事がなく、永遠に存在します。

それをこそ目指すのであり、常に意識するのであり、地上の如何なるものも目指すものでも、関心の中心でもないのです。

地上のものに、信仰的にも、精神的にも、心情的にも、依存してはなりません。

依存の意識、認識はなくても、地上のものに心惹かれる思いがあったなら、思い入れがあったなら、拠りどころとなっているなら、特別に大切に思うなら、常に意識するなら、それは注意しなければなりません。

私たちの目指すところ、関心の中心は、唯一真の神様、主イエス様であり、唯一真の神様、主イエス様のおられるところであり、天の御国だけです。

こころの王座に、地上のものを置いてはならず、こころの王座には、唯一真の神様、主イエス様に着いていただいていなければならないのです。

地上のものに目を奪われ、心を惹かれ、惑わされてはなりません。

地上のものは、御国では不要であり、持って行く事も出来ません。

それなのに、この世の無くなるもの、朽ちるもの、古びるものに心を奪われ、こころの王座に置いているなら、それは偶像を第一としている姿なのではないでしょうか。

何より、目指すものを間違えない事、目指すものを一途に目指し続ける事、目指すものを諦めない事が大切です。

長い信仰生活ですから、目移りするでしょうし、これでいいのかとの疑問も生まれるでしょうし、忍耐を維持し続けるのも簡単な事ではありませんが、目指し続けるなら、天の御国に到着出来るのです。

天の御国を目指す助けは、天の御国を指し示す、唯一真の神様、主イエス様の御旨の説教であり、御旨の実践でしょう。

あなたは、何を目指しますか。

地上の無くなるもの、朽ちるもの、古びるものですか。

天にある、変わらないもの、永遠に続くものですか。

皆で其処を目指し、其処に入ろうではありませんか。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙11章17節から22節

説教題:「アブラハムの信仰の継承者」

【導入】

信仰者の目指すものは、メガチャーチ、1000人教会、1万人教会などの設立でも、

エキュメニカルな世界的組織の構築でも、教団や教会の存続でもありません。

これらは、地上での働き、と云う限定的な働きの中で関わる事であり、大切な働きではありますが、信仰者が、究極的に目指すものではありません。

信仰者が究極的に目指すものとは、この世の変化する物や、古びていく組織などではなく、変わる事のない、古びる事のない天の御国であり、唯一真の神様、主イエス様との永続が確定している交わり、憩いです。

そして、この信仰を継承する事です。

このために、知恵を尽くし、心血を注ぎ、患難辛苦に耐えるのです。

真の信仰者の特徴は、唯一真の神様のお約束に対して、見ていない、手にしていない、兆しの片鱗も感じられない、にも関わらず、確実な事として受け止め、信じて疑わない事です。

唯一真の神様のお約束と矛盾するような事に対しても、人間の理解の限界を弁え、恭順を貫く事です。

この信仰を連綿と引き継いで行かなければならないのであり、信仰継承が、個々人の信仰に大きく影響するのであり、信仰継承の働きはとても重要です。

否、信仰者の取り組むべき最大の働き、使命でしょう。

ヘブル人への手紙の著者は、アブラハムに続く、三人の信仰者を挙げ、信仰継承の流れを語ります。

【本論】

新改訳2017 11:17 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。

11:18 神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、

唯一真の神様とアブラハムとの契約は、アブラハムの子イサクと、後の子孫に継承される事が、唯一真の神様の口から宣言されます。

創世記1719節、201725ページ、「神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

一度ならず、繰り返され、お約束の確かな事が確認されます。

創世記2112節、201732ページ、「神はアブラハムに仰せられた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。

唯一真の神様とアブラハムとの契約は、アブラハムの子が何人居ようが居まいが、優秀であろうと愚鈍であろうと、勇敢であろうと臆病であろうと、相応しいか否かにも関らず、イサクに引き継がれるのです。

イサクが引き継ぐのです。

イサクでなければならないのです。

それなのに、そのイサクをささげ物として献げるように、との指示、命令が唯一真の神様から発せられるのです。

創世記222節、201734ページ、「神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

唯一真の神様のお約束は、イサクに於いて実現するのであり、お約束の実現は、一重にイサクの生存にかかっているのです。

唯一真の神様の命令通り、イサクを献げたならば、イサクを殺したならば、その時、お約束はどうなるのだろうか。

唯一真の神様の命令を拒んだなら、その時、唯一真の神様との関係はどうなるのだろうか。

そして、お約束はどうなるのだろうか。

ご命令とお約束との矛盾に、強い葛藤が生じたのではないでしょうか。

この矛盾にどう応じるのか、アブラハムの信仰が試されたのです。

唯一真の神様との関係に於いて、アブラハムは大きな経験をしています。

創世記159節、201722ページ、「15:9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」

15:10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。

15:17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

10節の記述は、契約を破った場合の呪いの描写であり、17節の「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は、唯一真の神様臨在の象徴と考えられますが、これらの描写は、唯一真の神様の、お約束に対する真摯な表明であり、お約束は必ず成就させる事の宣言であり、ご自身が呪いを引き受けられる事を明瞭に示されたのであり、約束の確実無比な事を自ら示されたのです。

これを目撃したアブラハムは、唯一真の神様がお約束を守られないはずはない、と確信し、命令に従う方を選んだのです。

11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

アブラハムは、「神には人を死者の中からよみがえらせること」を、明確にイメージ出来ていた訳ではないでしょうが、漠然と、しかし、確信していた事は間違いありません。

その事は創世記225節のアブラハムのことばから明らかです。

201734ページ、「それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。

私と息子はあそこに行き・・・おまえたちのところに戻って来る」、これは、本当に重要な記述です。

そして、この確信は、この場面で明確になった訳ではなく、イサクを献げよとの命令を受け、モリヤに向かった時から、決心をしていたのであり、それは、3節、「翌朝早く」と云う記述から明らかです。

解っていても、煮え切らないのが、踏ん切りがつかず、ぐずぐずするのが世の常ですが、

信仰者とは言え、アブラハムも人の親であり、愛する息子を献げるのに、大きな逡巡や葛藤がなかった筈はありませんが、一晩で気持ちの整理を付け、以降、一切迷う事なく、モリヤに向ったのです。

どんな形でかは、明確に説明出来なくても、「私と息子はあそこに行き・・・おまえたちのところに戻って来る」確信は揺るぎ無いものであったのです。

11:20 信仰によって、イサクはやがて起こることについて、ヤコブとエサウを祝福しました。

ヘブル人への手紙の著者は、イサクの信仰を紹介します。

イサクはやがて起こることについて」、知らされていました、

創世記2521節、201742ページ、「イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。

25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。

25:23 すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」

イサクは、兄エサウが弟ヤコブに仕えるようになる事を知っていたのです。

しかし、エサウを祝福したくて、エサウだけを呼び付け、小賢しい工作をしたのですが、

その結果は、人の思惑や工作に関らず、御旨がなるのであり、結果的に、イサクは其々を、其々に相応しく、祝福したのです。

御旨を無視した工作は、後味の悪い結果となってしまったのであり、本来なら協力関係、助け合う間柄であるはずの兄弟なのに、反目となり、20年も離れて暮らす事になるのです。

人の弱みにつけこんだり、人を騙したりするのは唯一真の神様の喜ばれる方法ではなく、信仰者の選ぶ手段ではないのです。

11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬときに、ヨセフの息子たちをそれぞれ祝福し、また自分の杖の上に寄りかかって礼拝しました。

創世記488節、201793ページ、「イスラエルはヨセフの息子たちに気づいて言った。「この者たちはだれか。」

48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった息子たちです。」すると、父は「私のところに連れて来なさい。彼らを祝福しよう。」と言った。

48:14 ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。

48:15 彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。

48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、この子どもたちを祝福してくださいますように。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちに受け継がれますように。また、彼らが地のただ中で、豊かにふえますように。」

48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。

48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、右の手を、こちらの頭に置いてください。」

48:19 しかし、父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」

48:20 彼はその日、彼らを祝福して言った。「おまえたちによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神がおまえを エフライムやマナセのようになさるように』と。」こうして彼はエフライムをマナセの先にした。

ここでヤコブは其々を、其々に相応しく、祝福したのです。

事は、人間の願いではなく、唯一真の神様の御旨がなるのであり、御旨に協力するのが、人間の使命であり、円満な結末、皆が平安に至る秘訣なのです。

11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のときに、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骸について指示を与えました。

創世記5024節、201798ページ、「ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」

50:25 ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください」と言った。

17歳頃、エジプトに売られ、110歳で死ぬまでの、その生涯をエジプトで過ごしたヨセフであり、エジプトは栄華を極めた地ですが、エジプトは仮の住まいに過ぎず、遺骸を納める場ではない事を、明確に自覚していたのです。

永く住んでいると、関りが深く強いと、愛着がわき、離れ難く、去り難くなりますが、未練を残してはならず、そこはきっぱりと別れ、離れ、去らなければなりません。

イスラエルの民の、エジプト脱出の際も、何一つ残さず、痕跡も残さずに、立ち去り行きましたが、これが信仰者の姿なのです。

幕屋生活も、これに通ずる事ですが、この世、この地には何も遺す必要はありません。

ヨセフの功績ですが、直ぐに忘れ去られたからこそ、イスラエルの民の、エジプト脱出に繋がったのです。

ヨセフの功績を讃える、立派な記念碑が建てられていたなら、状況は変わった事でしょう。

エジプトに埋葬されていたなら、神の一つに祭り上げられ、記念碑の類も含めて、礼拝の対象になりかねません。

埋葬されるのは、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にある私有の墓地だけであり、

それは信仰者の証しであるのです。

【適応】

信仰者が継承するものは、財産や財宝ではなく、地位や職務でもなく、組織や教会でもありません。

この世では、財産や財宝を子孫に残し、地位や職務を子孫に引き継ぎ、組織や教会を継続させる事に価値を見出しましょうが、信仰者は信仰を継承するのであり、そのために財を費やし、地位や職務を活用し、組織や教会を用いるのです。

財産や財宝は、地位や職務は、組織や教会は、信仰継承のための道具なのであり、道具を道具として用いたか否か、が大切なのであり、信仰継承のために戦ったか否か、が大事なのです。

アブラハムの功績は、イサクに信仰を継承した事であり、イサクの功績は、ヤコブに信仰を継承した事であり、ヤコブの功績は、ヨセフ等に信仰を継承した事です。

宰相の地位と権力があれば、非常に有利であり、エジプトでのユダヤ人の地位向上、ユダヤ教の保護、布教も出来たでしょうが、ヨセフは、それらの一切を行ないませんでした。

エジプトの地は、一時的な避難の場であり、永住の場ではないとの認識を持っていたからです。

ヨセフは、宰相の地位と権力を、兄弟にも子どもにも残しませんでした。

ヨセフの使命は、エジプトの庇護下で、繁栄する事ではなかったからです。

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ等は、唯一真の神様の示されたカナンの地を目指したのです。

唯一真の神様と共に歩む事を目指したのであり、そして、その先にある、唯一真の神様、主イエス様と共にいる地を目指したのであり、信仰継承こそ、究極の使命であり、取り組むべき使命であり、全身全霊、全力を尽して取り組むべき課題なのです。

継承するものは、地上の無くなるもの、朽ちるもの、古びるものですか。

天にある、変わらないもの、永遠に続くものですか。

皆で其処を目指し、其処に入ろうではありませんか。

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                                        2023-7-23礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙11章23節から28節

説教題:「モーセの信仰」

【導入】

信仰者が目指して来たものは、平穏、安穏な暮らしでも、何不自由のない満たされた生活でも、メガチャーチ、1000人教会、1万人教会などの設立でも、エキュメニカルな世界的組織の構築でも、教団や教会の存続でもなく、変わる事のない、古びる事のない天の御国での、唯一真の神様、主イエス様との交わりであり、そこで確定している憩いと永住の生活です。

そして、唯一真の神様、主イエス様に対する信仰を継承する事です。

このために、知恵を尽くし、心血を注ぎ、患難辛苦に耐えるのです。

信仰者は信仰を継承するのが第一義であり、そのために財を費やし、地位や職務を活用し、組織や教会を用いるのです。

財産や財宝は、地位や職務は、組織や教会は、信仰継承のための道具なのであり、道具を道具として用いたか否か、が大切なのであり、信仰継承のために祈ってきたか、犠牲を払ってきたか、否か、が大事なのです。

今まで紹介してきた信仰者の、主たる働きは、主に家族、一族に対する信仰継承でしたが、モーセの働きは、民族に対する信仰継承であり、その労苦は筆舌に尽しがたいものでした。

四十年の放浪の旅の間の、人々の無理解、好き勝手な申し立て、自分勝手な言動、反発や反抗には辟易としたのではないでしょうか。

そもそも、四十年の永きに亘って放浪する事になったのは、人々の無理解、好き勝手な申し立て、自分勝手な言動です。

そんな中で、その重大な使命を全う出来たのは、唯一真の神様に対する信仰のみであり、信仰によって目指すものを正しく認識し、将来の報いに付いての正しい考慮による、信仰による選択、果敢な決断です。

配慮すべきは、将来の報いに付いてであり、人に配慮したり、忖度したりする必要はありません。

信仰者の取り組むべき最大の働き、使命は唯一真の神様の御旨を、そのまま人々に伝える事であり、御旨に従う事です。

ヘブル人への手紙の著者は、四人目の信仰者としてモーセを挙げ、信仰によって生きる、決断する姿を語ります。

【本論】

新改訳2017 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。

23節は、モーセの両親の信仰に付いての記録ですが、両親の信仰があったからこそ、モーセが世に出たのであり、モーセは唯一真の神様に召し出され、偉大な働きをしたのであり、両親の信仰と信仰継承が如何に大事、重要かを示す記録でしょう。

この逸話は、出エジプト記22節、2017版旧約聖書100ページに記されています。

彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。

2:3 しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。

この出来事の背景となった「王の命令」とは、出エジプト記116節、2017版旧約聖書99ページ、「彼は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」

出エジプト記122節、2017版旧約聖書100ページ、「ファラオは自分のすべての民に次のように命じた。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」」、ですが、

こんな恐ろしい命令が出されたのは、出エジプト記19節から12節、2017版旧約聖書99ページ、「彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。

1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」

1:11 そこで、彼らを重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、ファラオのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。1:12 しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。」からです。

思い返せば、エジプトが七年間の飢饉に耐え、滅びずに済んだのは、ヨセフの働きによるものであり、ヨセフの家族を招き、大歓迎したのはエジプト王やエジプトの民であったのに、恩を仇で返す事に何の呵責も見せないのです。

困った時は大歓迎。

喉下過ぎれば、粗探しの掌返し、邪魔者扱い、が人間の性なのでしょうか。

本文に戻って、「かわいい」は、外見上の「かわいらしさ、愛くるしさ」などではなく、使徒の働き720節、2017版新約聖書245ページには、「モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子で」、と記されているように、「神の目にかなった」子である事が、何より重要であり、将来の、イスラエルの民を救うための備えである事が込められているのではないでしょうか。

11:24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、

ファラオの娘の息子」として、エジプト宮廷で、最高の教育を受け、何不自由なく育てられたモーセですが、大きくなるまでは実父母の元で育てられ、ユダヤ人として、ユダヤの歴史や文化などの教えを受けて、育てられたのです。

ユダヤ人としての基礎の上に、エジプトの文化、学問、教養を身に付けたのであり、この順番は非常に重要です。

幼い時に、基礎となる教育を受けてから、この世の知識や知恵を積み上げ、用いるのであり、幼い時に、聖書の教えを受け、この世の知識や知恵を積み上げ、用いるのであり、親の責任、教会や教会学校の働きは非常に重要なのです。

勿論、洗脳やマインドコントロールなどを選択してはなりませんが、幼児教育を疎かにしてはなりません。

11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

モーセは、エジプトのあらゆる学問を教え込まれ、広い知識、教養を身に付け、大きな権力を手にし、豊かな生活を送っていたのです。

広い知識、教養を身に付け、大きな権力を行使し、豊かな生活を送る・・・それ自体は罪ではありません。

エジプト宮廷に留まり続け、エジプトの影響力を利用し、権力を用いて、同胞を助け、守る道もあったでしょうが、モーセは、民の苦しみを見て、その上で、距離を置く生き方を、安全地帯から支援する生き方を潔(いさぎよ)しとしなかったのです。

苦しむ「神の民」のところに飛び込み、入り込み、一緒に「苦しむことを選び取」ったのです。

11:26 彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。

エジプトの権力、覇権、栄華、繁栄は永続するものではありません。

確かに、数世紀の間は頂点に立ち、それを維持する事もあるでしょうが、何時かは衰退するのであり、必ず没落するのであり、表舞台から引っ込んでしまいます。

しかし、主イエス様の権威、覇権、栄華、繁栄は未来永劫続くのであり、衰退する事などなく、没落する事などなく、頂点に居続けられるのです。

肝要なのは、ヘブル人への手紙122節、2017版新約聖書454ページ、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」です。

この世で、辱め、誹謗中傷、誤解、を受けても、それはこの世、限定の事であり、天の御国での、唯一真の神様、主イエス様との交わりと、そこで確定している憩いと永住の生活に影響を与える事はないのです。

否、この世のものは、主イエス様とは比較にならないのですが、人は、目に見えるものに引かれてしまいます。

それが、この世の最高の権威、覇権、栄華、繁栄を纏ったエジプトであるなら、なお更です。

しかし、モーセは、最高の権威、覇権、栄華、繁栄を纏ったエジプトの向こうに、主イエス様を見て、目を離さないでいたのです。

それが、この世の最高の権威、覇権、栄華、繁栄の誘惑を打ち破る、乗り越える、秘訣なのです。

モーセは、主イエス様に対する信仰によって、誘惑を打ち破り、乗り越えたのです。

私たちは、自分の意思や力で乗り越えるのではなく、主イエス様に対する信仰によって、主イエス様の力で乗り越えて行くのです。

11:27 信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。

モーセのエジプト脱出ですが、一度目は、自分の力でイスラエル人を苦境から救おうと意気込んで立ち上がりましたが、民の理解を得られず、エジプト人を殺した事が露見し、エジプト王の怒りを買い、逃げるようにエジプトを立ち去ったのでしたが、二度目は、唯一真の神様の導きで、イスラエル人を救い出す働きに召され、信仰によって、エジプト王を恐れず、エジプトに戻り、信仰によって、イスラエル人を引き連れて、エジプトを立ち去ったのです。

信仰は立ち上がらせ、恐れを乗り越え、恐れに立ち向かい、使命に取り組ませるのです。

11:28 信仰によって、彼は長子を滅ぼす者が自分たちに触れることがないように、過越の食事をし、血を振りかけました。

28節は、出エジプトのクライマックス、10番目の災いの場面の記録ですが、出エジプト記1222節から27節、2017版旧約聖書119ページ、「ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。

12:23 主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。

12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。

12:25 あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。

12:26 あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、

12:27 あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。

鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付け」る事に、何か、呪術的な効果がある訳ではなく、単なる目印でもありません。

信仰による行為であり、信仰故に、「その戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる」のです。

信仰がなければ意味はなく、洗礼にも、聖餐にも通ずる儀式であり、信仰こそなのです。

【適応】

モーセの信仰の背景には、両親の信仰がありました。

両親は、信仰によってエジプト王ファラオの命令を恐れず、モーセを生かしておき、三ヶ月も隠したのであり、信仰によってモーセをナイル川に託したのであり、信仰によってモーセを養育したのであり、信仰によって、エジプト王ファラオの娘にモーセを託したのです。

モーセは、信仰によってエジプト王ファラオを恐れず、エジプトに戻ったのであり、信仰によってエジプト王ファラオと交渉を行なったのであり、信仰によって十の奇跡を行なったのであり、信仰によってイスラエルの民と共に、エジプトを立ち去ったのです。

全ては信仰によって、進められるのです。

唯一真の神様に対する信仰がベースにあってこそ、この世の知識や体験、権威や地位、資産や財産、組織や体制が生かせるのであり、正しく用いる事が出来るのであり、唯一真の神様と主イエス様の栄光が現されるのです。

信仰は、行ないが伴ってこそです。

ヤコブの手紙214節、2017版新約聖書460ページ、「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

2:15 兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、

2:16 あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。

2:17 同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

2:18 しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。」

2:19 あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。

2:20 ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。

2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。

2:22 あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。

2:23 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。

2:25 同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。

2:26 からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

モーセの両親も、モーセも、信仰によって行ったので、唯一真の神様の御旨がなされて行ったのです。

他人任せであってはならず、積極的に使命に取り組まなければなりません。

また、果報は寝て待て、棚から牡丹餅的な考えであってはなりません。

モーセが実父母の元で育てられたのは、信仰継承の点で大きな意義があったのですが、加えて兄アロンや姉ミリヤムと一緒に育ったのであり、出エジプトの四十年の放浪の旅に必要不可欠な同労者、良き協力者となったのです。

神様のご計画は、有能な者たちや欠点のない者たちによってではなく、従順な信仰者たちによって進められるのです。

自分の願いや希望ではなく、唯一真の神様の御旨の実現を願って行動するとき、唯一真の神様の栄光が現れ、私たちにとっての最善がなされるのです。

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聖書箇所:ヘブル人への手紙11章29節から31節

説教題:「イスラエルの民と異邦人の信仰」

【導入】

古の信仰者たちについて聖書から見て来ましたが、今までに紹介されて来た人たちは、欠点のない人たちではありませんでした。

失敗もし、語り継がれるような大きな働きもない人たちであり、何処にでも居るような人たちであり、まあ、普通の人たちですが、今日、紹介する人たちは、信仰者とは言い難い人たちですが、確かに信仰者なのです。

失敗しないのが、大きな働きをするのが信仰者ではありません。

紆余曲折、一進一退、右往左往があっても、唯一真の神様に従う思いの火を消さず、従う気持ちを持ち続け、従う道を選んで来たか、が問われるのです。

紆余曲折、一進一退、右往左往の全くない、安定した人、完全無比な人はいません。

誰もが紆余曲折、一進一退、右往左往をするのですが、問題は、自分の知恵や知識、経験や前例に頼り、自分の判断を正しいとして、自分が選んだ道を歩む事であり、表面的には、唯一真の神様を信じて、従っているように、敬虔そうに見えますが、その実は、自分のしたい事をしているに過ぎないのであり、霊的には離れてしまっている人たちです。

今日、紹介するイスラエルの民は、唯一真の神様に従う民、異邦人は、唯一真の神様を知らない民、従わない民、と云うような、単純な事ではありません。

イスラエルの民の信仰と不信仰、異邦人の信仰と不信仰について見て行きましょう。

【本論】

新改訳2017 11:29 信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に呑み込まれてしまいました。

イスラエルの民の信仰を賞賛した記述ですが、そもそも、イスラエルの民は、喜怒哀楽、感情の起伏の激しい民で、エジプト王ファラオが、イスラエルの民に与えた苛酷な政策に苦しみ喘いでいた時、モーセの登場で有頂天に喜んだかと思うと、状況の変化で一喜一憂し、落胆し、愚痴を零し、文句たらたらの民なのです。

苦しい時の神頼み、喉下過ぎれば熱さ忘れて、恩を仇で返すような民なのです。

葦の海、紅海を目の前にして、エジプト王ファラオ率いるエジプトの大軍の迫り来るのを見て、非常に恐れ、尋常ではない悲痛な叫び、不満の吐露、モーセに対する非難は、信仰者の姿とは程遠い姿です。

出エジプト記1411節、2017版旧約聖書124ページ、「そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。

14:12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

民数記142節、2017版旧約聖書262ページ、「イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。

呟き、不平を言ったイスラエル人は、このことばの通り、荒野で死に絶える事になるのです。

それでも、最終的には、モーセに諭され、励まされ、唯一真の神様が起こした東風で葦の海、紅海の海水が退けられ、涸らしてくださったので、イスラエルの民は乾いた海を渡りましたが、カナンの地に到着するまでの40年間は、不平不満、文句、愚痴の連続であり、その紆余曲折を知ってもなお、「信仰によって」と評価しているのです。

其処には、悔い改めるなら、七を七十倍するまで赦してくださる赦しの神が表現されているのではないでしょうか。

しかし、同じ赦しの神ですが、頑なな者には厳しい処置が下されるのであり、東風が止み、葦の海、紅海の退けられていた海水は元に戻り、エジプト王ファラオ率いるエジプトの大軍を呑み込み、滅ぼしてしまったのです。

イスラエルの民に続いて行っても、イスラエルの民とエジプト王ファラオとその軍隊とは、別物であり、一緒にいても、続いていても、其処には明確な区別があるのであり、イスラエルの民のように守られる事はないのです。

エジプトを襲う災いを目撃したエジプトの呪法師たちに、出エジプト記819節、2017版旧約聖書112ページ、「これは神の指です」と言わしめたのに、イスラエル人の神に回心する事なく、頑なに拒み続け、結果、自ら滅びに飛び込む事になってしまったのです。

異邦人は、問答無用で滅ぼされる訳ではありません。

唯一真の神様に聞き従う道を選ぶなら、過去の一切は問われず、受け入れられるのですが、頑なな態度を改めないなら、唯一真の神様を認めず、拒み続けるなら、滅ぼされてしまうのです。

そこに、イスラエルの民、異邦人の違い、差別はありません。

11:30 信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。

イスラエルの民の信仰が語られます。

エリコの町、陥落の次第は、ヨシュア記6章、2017版旧約聖書388ページに記されています。

堅牢な城壁を誇る町、難攻不落の町、エリコ攻略作戦は、一言も発せずにエリコの町を一周する事であり、六日間、一言も発せずにエリコの町を一周する事であり、七日目は七周し、ヨシュアの合図で、鬨の声を張り上げる事です。

こんな事が、堅牢な城壁に、難攻不落の町エリコに何の効果を現すのだろうか、と訝るのは当然です。

一般的に言って、城壁のある町の攻略は、町の出入り口に攻撃を集中する、弱そうな城壁のところに城壁崩しを配置し、城壁を崩し、崩れたところから攻撃する・・・などが考えられますが、凡そあり得ない攻撃方法を、疑い迷う事なく、臆する事なく指示、命令を発したヨシュア、ヨシュアの荒唐無稽と思える指示に従順であったイスラエルの民、ヨシュアの命令を実行したイスラエルの民、双方の信仰が発揮されたのです。

人は意味のない事を行う事は出来ません。

何かしらか、合理的な理由が、自分を納得させる理由が必要です。

町の周りを回る事で堅牢な城壁が崩れる・・・合理的な理由は見い出せませんが、唯一真の神様に対する信頼、信仰を理由に、凡そあり得ない、荒唐無稽な攻撃方法を支持し、命令を発し、命令に従ったのです。

その時、エリコの堅牢な城壁は、人手に因らずに、崩壊したのです。

11:31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。

異邦人、ラハブの信仰の姿は、ヨシュア記2章、2017版旧約聖書382ページに記されています。4節、「ところが、彼女はその二人の人をかくまって、

6節、「彼女は二人を屋上へ上がらせ、屋上に積んであった亜麻の茎の中におおい隠していた。

9節、「彼らに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。

2:10 あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。

2:11 私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。

2:12今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、

2:13 私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」

ラハブは、イスラエルの民が「エジプトから出て来たとき」の事を、エジプトで行われた不思議を見てはいませんし、葦の海、紅海で行われた不思議、「葦の海の水を涸らされたこと」も見ていません。

アモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したこと」も噂で聞いたに過ぎません。

しかし、ラハブは、見ないで、聴いただけで信じたのです。

信仰の原点は、「見ずに信じる」です。

ヨハネの福音書2029節、2017版新約聖書228ページ、「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

エリコの町の住人の、大多数が頑なで、滅ぼす十分な理由があったとしても、僅かであっても、唯一真の神様を信頼し、信じる人たちを聖絶し、滅ぼすのは、御旨ではありません。

異邦人であっても、唯一真の神様を信頼し、信じる者は選び出され、「滅びずにすむ」のであり、イスラエルの民であっても、唯一真の神様を信頼せず、信じない者は、唯一真の神様の遣わしたもう預言者、御使いに従わない者は、「滅び」るのです。

滅びずにす」んだ、ラハブですが、単に命拾いをしただけではありません。

マタイの福音書15節、2017版新約聖書1ページ、「サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、

1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、

飛んで、1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

ラハブやルツは、異邦人であり、イスラエルの民が娶っても、嫁いでもならない民ですが、唯一真の神様を信じ、受け入れるならば、イスラエルの民として受け入れられるのみならず、救い主、主イエス様の系図に組み入れられる祝福に与るのです。

傍流、亜流として小さくなって、肩身の狭い屈辱を味わい、耐えるのではなく、主流、一流の者として扱われ、処遇されるのです。

ラハブは、遊女、娼婦であり、蔑まれ、日陰の存在であり、決して救われる事のない部類の人間と見做されていたでしょうし、自身もそう思っていたのではないでしょうか。

しかし、ラハブは、「偵察に来た人たち」を受け入れた時、それは、唯一真の神様の遣わした人たちを受け入れたのであり、唯一真の神様に目を向けたのであり、心を開いたのであり、変わった、変えられたのです。

唯一真の神様に心を開き、明け渡す者を、無下にする事はありません。

必ず顧みてくださいます。

【適応】

アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であり、イスラエルの民であり、主流、正統な血統であったとしても、七日目の割礼を受け、律法を守っていても、ささげ物、いけにえを献げても、それで唯一真の神様との関係が保証される訳ではありません。

形だけを整えても・・・意味はありません。

唯一真の神様を信頼しなければ、唯一真の神様に従わなければ、切り捨てられる、関係が断たれる、と云うよりは、「信仰によって」でなければ、自ら、無意識のうちに離れて行っているのであり、滅びに突き進んでいるのであり、それを止める手立てはありません。

しかし、異邦人であろうと、罪人であろうと、外様であろうと、それで唯一真の神様との関係が構築不可能な訳ではありません。

唯一真の神様を信頼すれば、唯一真の神様に従えば、受け入れられ、関係が生まれ、維持されるのです。

その絆は、非常に堅固、頑強です。

ラハブは、イスラエルに関する知識も経験も浅く、信仰を支え、結び付ける程のものではなく、明確な信仰告白もありません。

それでも、「信仰によって」と評価されるように、唯一真の神様と結び付いているのであり、繰り返しますが、救い主、主イエス様の系図に組み入れられる祝福に与ったのです。

洗礼を受け、教会に繋がり、聖餐に与り、礼拝を欠かさず、ささげ物、奉仕を献げても、「信仰によって」いなければ、唯一真の神様を信頼していなければ、唯一真の神様に従わなければ、信仰は自己満足に陥り、形骸化してしまうのではないでしょうか。

信仰によって」いなければ、それは罪であり、「信仰によって」いるならば、受け入れられ、関係は益々強固な関係になるのです。

ラハブのような、純朴な信仰こそ、幼子のような信仰こそ、唯一真の神様が喜ばれるのであり、私たちに求められている事なのです。

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