2023-8-6礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙11章32節から40節

説教題:「古の信仰者たち」

【導入】

古の信仰者たちに付いて、カナンの地に入るまでの信仰者たちに付いて、つぶさに見て来ましたが、重要なのは、血筋や民族、能力や成果でもなく、唯一真の神様に対する信頼と信仰と従順である事を確認してきました。

紆余曲折があっても、一進一退があっても、右往左往があっても、優柔不断であっても、失敗があっても、唯一真の神様に従う思いの火を消さず、従う気持ちを持ち続け、従う道を選んで来たかが問われる、と云う事を確認しました。

問題は、自分の知恵や知識、経験や前例に頼り、自分の判断を正しいとして、自分が選んだ道を歩む事であり、表面的には、唯一真の神様を信じて、従っているように、敬虔そうに見えますが、その実は、自分のしたい事をしているに過ぎないのであり、霊的には離れてしまっている人たちである、と云う事も確認しました。

ヘブル人への手紙の著者は、カナン入植から、イスラエル王国初期の人たち、六名の名前を挙げています。

これらの人たちの信仰について見て行きましょう。

【本論】

新改訳2017 11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても語れば、時間が足りないでしょう。

ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル」ですが、聖書での登場順では「バラク、ギデオン、エフタ、サムソン、サムエル、ダビデ」です。

バラク」に付いては、士師記46節、2017版旧約聖書431ページに、「ギデオン」に付いては、士師記611節、2017版旧約聖書436ページに、「エフタ」に付いては、士師記111節、2017版旧約聖書448ページに、「サムソン」に付いては、士師記1324節、2017版旧約聖書454ページに、「サムエル」に付いては、サムエル記第一120節、2017版旧約聖書479ページに、「ダビデ」に付いては、サムエル記第一1613節、2017版旧約聖書507ページに、其々登場しますので、其々どんな働きをしたかをご確認願います。

バラク、ギデオン、エフタ、サムソン」は、「士師」と呼ばれる人たちで、唯一真の神様の言葉をイスラエルの民に取り次ぎ、イスラエルの民のために戦い、イスラエルの民を異邦人の支配、略奪、苦役から解放した人たちですが、士師は、この四人だけではありません。

聖書には、オテニエル、エフデ、シャムガル、アビメレク、トラ、ヤイル、エロン、アブドン、の名前が記されています。

オテニエルに付いては、士師記39節に、エフデに付いては、士師記315節に、シャムガルに付いては、士師記331節に、アビメレクに付いては、士師記91節に、トラに付いては、士師記101節に、ヤイルに付いては、士師記103節に、エロンに付いては、士師記1211節に、アブドンに付いては、士師記1213節に其々登場しますので、其々どんな働きをしたかをご確認願います。

他にも士師はいたでしょうが、重要なのは、繰り返しますが、唯一真の神様に対する信頼と信仰とを持ち続け、従順であり続ける事です。

それ以上でも、それ以下でもありません。

聖書に記されているから特別なのではなく、唯一真の神様に対する信頼と信仰とを持ち続け、従順であった事が特別なのです。

11:33 彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

11:34 火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました。

国々を征服し」ですが、単なる領土拡大、支配地域の拡大、併合、合併の強行ではありません。

信仰によって」であり、土地を獲得するための戦いは、唯一真の神様の命令によるものであり、原則は一つ、「正しいことを行い」であり、第一は、唯一真の神様の命令に従う事です。

申命記2016節、2017版旧約聖書351ページ、「20:16 あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の民の町々では、息のある者を一人も生かしておいてはならない。

20:17 すなわち、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり必ず聖絶しなければならない。

20:18 それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌み嫌うべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主の前に罪ある者とならないようにするためである。

徹底的な「聖絶」が原則です。

しかし、申命記2017節で指定された以外の町々に付いても原則に従わなければなりません。

申命記2010節、2017版旧約聖書350ページ、「あなたが、ある町を攻略しようとしてその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。

20:11 もし町が降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民はみな、あなたのために苦役に服させ、あなたに仕えさせなさい。

20:12 しかし、もしあなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。

20:13 あなたの神、主がそれをあなたの手に渡されたら、その町の男をみな剣の刃で討ちなさい。

しかし、女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物は戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた、敵からの略奪物をあなたは自由にすることができる。

20:15 あなたから非常に遠く離れている町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。

指定された町々の攻略でも、遠く離れた町々の攻略でも、唯一真の神様の命令に従わなければならないのです。

正しいことを行い」のもう一つは、統治の基本である、律法による支配です。

律法によって支配するのであり、基準は一つであり、誰にでも適応し、イスラエル人でも異邦人でも、律法に照らし合わせて裁くのであり、その日の気分や、関係性による忖度などが入り込んではならないのです。

獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し」はダニエル書の逸話を思い起こすのではないでしょうか。

剣の刃を逃れ」は、サウルの迫害を逃れるダビデの逸話を思い起こすのではないでしょうか。

弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました」は、ギデオンなどの逸話を思い起こすのではないでしょうか。

これらの逸話の主人公は、士師や預言者たちは男性ですが、聖書の主人公は男性ばかりではありません。

11:35 女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせていただきました。また、ほかの人たちは、もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けました。

長寿は、また子どもの誕生は、唯一真の神様の祝福と考えられていた時代にあって、子どもが居ない事は、子どもの早世は呪いと考えられた時代にあって、「女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせていただきました」は、非常に大きな喜びであると共に、唯一真の神様の祝福を実体験する出来事です。

女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせていただきました」は、シドンのツァレファテの寡婦の息子の事、これは列王記第一179節、2017版旧約聖書631ページに記されており、シェネムの裕福な女の息子の事、これは列王記第二48節、2017版旧約聖書654ページに記されていますが、「女たちは、唯一真の神様から非常に大きな祝福を受けました」の意味なのです。

もっとすぐれたよみがえり」とは、天の御国に入る事であり、「釈放されることを拒んで」、即ち、棄教を拒み、律法に反する行為を行う事を拒み、「拷問を受けました。

拷問」は、特別苛酷な拷問であり、死ぬまで打ち叩かれる厳しい拷問だそうです。

古の信仰者は、この世の安息、祝福ではなく、真の安息、祝福を求め、厳しい拷問を甘んじて受け、死んで行ったのです。

11:36 また、ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、

11:37 また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。

聖書に記されている信仰者の名前は、そう多くはありません。

彼らだけが苛酷な試練、拷問に耐えた訳では、殉教の死を遂げた訳でもありません。

同じような、否、さらに苛酷な経験をした多くの信仰者たちに、名前の記されていない信仰者たちに、ヘブル人への手紙の著者は賛辞を送り、その信仰を讃え、その信仰に倣うよう、苛酷な試練に耐えるよう、応援しているのです。

羊ややぎの皮を着て歩き回り」は、エリヤやエリシャのような預言者、新約のバプテスマのヨハネのような働き人を示すとともに、一般の信仰者が、預言者と似たような生活を、原始人のような厳しい生活を送っていた事を証言しているのです。

11:38 この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。

信仰者は、この世で、快適な生活を求めてはいけない訳ではありませんが、この世で生きるために、妥協したり、譲歩したり、律法に抵触する危険を冒してまで、この世と関わってはなりません。

信仰者とは、この世から取り分けられたものであり、この世が相応しくなければ、「荒野、山、洞穴、地の穴を」選び、そこで生きるのです。

11:39 これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。

称賛されました」は、唯一真の神様からの称賛であり、人からの称賛ではありません。

信仰者は、人から誉められる事を望んではならず、働きなどを、これ見よがしに吹聴してはならず、陰の働きに徹する事、陰で見ておられる御方だけに知っていただければ充分、の姿勢、生き方を貫き、「約束されたもの」、即ち、天の御国を遥かに望み見て、この世では寄留者である事を誇りとするのです。

人から誉められた時点で、終わりであり、人に認知されない陰の働きこそ、信仰者の働きであり、唯一真の神様に称賛される働きなのです。

約束されたもの」、即ち、御国に入るのは遥か先の事になりますが、唯一真の神様のお約束であり、確実であり、反故になる事はありません。

11:40 神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。

御子、主イエス様のお働きによって、私たちの罪の贖いは、完全に、永遠に完成しました。

主イエス様は、大祭司として、天の御国の聖所に着座されました。

主イエス様のお働きによって、古の信仰者も天の御国に招き入れられ、唯一真の神様、主イエス様の御許に近づく事が出来るようになったのです。

救いは一つであり、「信仰によって」の原則に変わりはないのです。

【適応】

私たちは、主イエス様のお働きによって「約束されたものを手に入れる」事が出来ました。

主イエス様以前の、古の信仰者も、主イエス様のお働きによって「約束されたものを手に入れる」事が出来ました。

約束されたものを手に入れる」事が出来た私たちには、古の信仰者に勝る信仰が期待されているのではないでしょうか。

勿論、行いによって救われるのではありませんが、聖書の登場人物、弱さを持った古の信仰者たちの歩みは、同じ弱さを持つ私たちの手本であり、慰めであり、励ましなのではないでしょうか。

古の信仰者たちは、現在の、私たちの苦労、艱難に比べ、遥かに激しく、厳しい苦労、艱難と、苛酷な生活に耐えて来たのです。

古の信仰者たちは、死ぬ程の苦労、艱難に遭ったのではなく、本当に命を掛けたのであり、苦労、艱難で死んで行った人たちなのです。

その生き様に倣うのは困難であり、誰にでも出来る事ではありませんが、苦労、艱難で死んで行った人たちには、次のような報いが待っています。

黙示録1413節、2017版新約聖書508ページ、「また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」

一方、苦労、艱難を避けて、唯一真の神様、主イエス様を否んだならば、上手く立ち回り、言葉巧みに苦労、艱難を避けたなら、どんなに悲しまれる事でしょうか。

そして、否み、上手く立ち回り、苦労、艱難を避けた先にも、大きな報いが待っています。

黙示録2218節、2017版新約聖書519ページ、「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。

22:19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。

22:20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

22:21 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。

ここにおられる皆さんが、苦労、艱難に耐え忍び、約束されたものを手に入れる事が出来ますように。

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                                        2023-8-13礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙12章1節から3節

説教題:「信仰の創始者、完成者、主イエス様」

【導入】

古の信仰者たちに付いて、特に、カナンの地に入るまでの信仰者たちに付いて、カナン入植から、イスラエル王国初期の信仰者たちに付いて、つぶさに見て来ました。

彼ら古の信仰者たちは、信仰者の一人であり、大きな働きをなし、後に続く信仰者たち、現代の私たちの手本、励ましとなり、その功績、影響力は大です。

信仰者たちの言動は、歴史書、預言書、手記、手紙などとして認められ、聖書として纏められ、私たちの信仰の指針、道標、道案内、手引書、指導書・・・として有益であり、その益は計り知れませんが、信仰者たちは創始者ではなく、完成者でもなく、贖われた者として聖化の途上にある一信徒にしか過ぎません。

この世には色々な、数多くの宗教がありますが、悟った者が開祖などと呼ばれ、祭られ、神の言葉を取り次いだ者たちなども信仰の対象となっていますが、その働きは偉大であり、それなりに評価されて然るべきですが、彼らは人であって、神でも仏でもありません。

人間に過ぎない信仰者や偉大な働きをした開祖などと、信仰の対象である神様とは明確に区別しなければならず、数多の宗教の開祖などと、唯一真の神様との交わりの道の創始者とは、明確に区別されなければなりません。

【本論】

新改訳2017 12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の道は、独りで進む道ですが、唯一真の神様、主イエス様と共に歩み、進む道であり、「皆で渡れば怖くない」的に、徒党を組んで歩み、進む道ではありません。

信仰の友は、助け合い、励ましを与え合い、喜びや楽しみ、苦しみや悲しみを分かち合いますが、訓練も試練も、艱難も困難も、霊的訓練として、聖化の課程で必要不可欠なものであり、一人一人が受けなければならず、独りで取り組み、対応、解決していかなければなりません。

訓練も試練も、艱難も困難も、信仰の友に任せてしまっては、委ねてしまっては、霊的訓練を受けていない、聖化の課程を経ていない霊的な幼子のままの状態であり、信仰者として非常に残念な事なのではないでしょうか。

一人一人が一騎当千の信仰の勇士として、霊的な成長を遂げる事が期待されているのです。

多くの証人たち」とは、古の信仰者たちの事であり、古の信仰者たちは、主イエス様のために、訓練や試練を、艱難や困難を、自身で受け止め、取り組み、解決し、主イエス様と共に歩み、進む生活をしていった人たちです。

古の信仰者たちは、訓練や試練を、艱難や困難を受けている信仰者たちに対して、高みの見物、遠巻きにしての見物を決め込んでいる、単なる応援者ではありません。

訓練や試練を、艱難や困難を受けている信仰者たちを「取り巻き」、励まし、応援し、唯一真の神様、主イエス様に対して執り成してくださっているのです。

口出しも手出しもしませんが、心底から気遣っているのであり、騒がしいだけの烏合の衆、興味本位の野次馬集団であってはなりません。

一切の重荷とまとわりつく罪」は、一人一人違いますから、其々が、その「重荷」が何なのか、「」が何なのかを、正しく見極めなければなりません。

正しく見極め、認識するからこそ、正しい対応、適切な処置が出来るのであり、「捨て」られるのであり、「自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続け」られるのです。

一切の重荷とまとわりつく罪」は、信仰の歩みの妨げとなり、信仰の継続を不可能にします。

捨てて」いなければ、「捨て」た気になっていたならば、的外れな対応や処置となり、無駄であるばかりでなく、依然として「重荷」や「」は残っているのであり、その影響力は侮れず、躓きとなり、信仰の挫折に至ってしまうのではないでしょうか。

信仰の道は、完遂してこそ、ゴールしてこそです。

ゴールを目前にしても、ゴールしなければ、無意味であり、御国には入れないのです。

自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続け」るためには、心身を整えなければなりませんが、その秘訣は、2節です。

12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

唯一真の神様に対する「信仰の創始者であり完成者」とは御子、主イエス様の事ですが、信仰者が信仰を全うする秘訣は、「イエスから、目を離さない」事です。

1節後半から、競走、競技を例に取り上げています。

競技によって、時間配分、力配分、目標設定などなどに違いはありますが、どんな競技も、ゴール、或いは目標をしっかり捕らえていなければなりません。

競技に参加し行うのも、時間配分、力配分を実行するのも、賞を受けるも受け損なうのも自分ですが、主イエス様は、優秀な監督、コーチであり、トレーナーであり、体調、栄養管理士であり、主イエス様によって唯一真の神様に近づこうとする者を、必ず、確実にゴールさせてくださるのです。

勿論、監督やコーチの指示に従い、トレーナや体調、栄養管理士の指導を受け、従った者だけがゴールの栄冠を受ける事が出来るのです。

信仰者も、訓練や試練を通して、艱難や困難を通して、ゴールするのであり、訓練や試練、艱難や困難、辱めを受けなければならず、訓練や試練に立ち向かい、艱難や困難に耐え、辱めを忍び通さなければならず、避けては、逃げてはならないのです。

主イエス様の生涯は、艱難や困難、辱めの生涯でありましたが、単にヒューマニズムに燃えていた訳ではありません。

唯一真の神様の御旨に従う者が受けるべきものと考え、耐え忍ばれたのです。

主イエス様の受けられた艱難や困難、辱めは、人間の罪の贖いのためではありますが、何より重要なのは唯一真の神様の御旨だから従った、耐え忍ばれたのです。

愛の究極の形だからでも、その実践だからでもありません。

主イエス様にとっての「喜び」は、唯一真の神様の御旨に従ったが故の苦しみ、辱めであり、その御旨の極め付きが、十字架の苦しみと辱めです。

十字架」刑は、非常な苦痛と恥辱を伴う刑であり、これだけでも耐え難いものなのですが、加えて、聴衆の嘲り、罵りを浴びたのであり、肉体的にも精神的にも耐え難いものであったのですが、唯一真の神様の御旨であるが故に、「喜びのために、辱めをものともせずに」従い、耐え忍ばれたのです。

主イエス様が「神の御座の右に着座された」のは、人間の罪の贖いの完成の宣言であり、この被造世界に対する、唯一真の神様のご計画の完成の宣言なのです。

主イエス様が「神の御座の右に着座された」事により、御国に至る道が開かれ、主イエス様を信頼し、従う信仰者が、唯一真の神様に近づく事が出来るようになったのです。

この世の訓練や試練、艱難や困難、辱めの連続は、落胆し、気落ちしてしまいますが、また、人々の無理解や誹謗中傷にも、惑わされてはなりません。

従う事には、ゴールとともに、測り知れない喜びが報いとして用意されているのです。

12:3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

主イエス様が、「罪人たちの・・・このような反抗」に合いながらも「耐え忍ばれた」のは、唯一真の神様の御旨に対する信頼と従順のみです。

主イエス様は、少数の罪人たちの理解とか感謝などが、多少の励みになって、苦しみ、辱めに耐え忍んだのではありません。

罪人たちの無理解、嘲り、罵りの渦巻くゴルゴダの丘で、唯一真の神様の御旨に対する信頼と従順のみで、罪人たちの無理解、嘲り、罵りを耐え忍ばれたのです。

これは驚異的な事であり、とても人間になせる働きではありません。

私たち信仰者も、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」いるなら、必ずゴールし、栄光の冠を受ける事が出来るのです。

【適応】

しかし、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」いる事は、簡単な事ではありません。

この世と関わっているのであり、この世の事が見えるし、耳に入って来るからです。

執拗であり、繰り返し繰り返し、手を変え品を変え、時に驚異的な、圧倒的な力を持って迫って来ます。

その、この世の艱難、困難に耐え忍ぶ秘訣は、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」事であり、次のお約束、宣言です。

創世記2815節、2017版旧約聖書50ページ、「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

イザヤ書4110節、2017版旧約聖書1233ページ、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ書432節、2017版旧約聖書1237ページ、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

それでも、私たちは弱く、一歩を踏み出しても、次の一歩を踏み出せなくなる事が多々あります。

そんなときは、次の逸話を思い出してください。

マタイの福音書1429節、2017版新約聖書30ページ、「イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。

14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。

あのペテロでさえ、隙を見せる瞬間があり、主イエス様を見続ける事が出来ずに、目を逸らしてしまい、風を見てしまい、沈みかけてしまったのです。

しかし、直ぐに主イエス様に助けを求めたために、溺れずに済んだのです。

私たちも、挫けそうになった時、負けそうになった時、自分で何とかしようと東奔西走するのではなく、打開策を模索するのでもなく、信仰の友に助けを求めるのでもなく、「主よ。助けてください」と叫ぶなら、主イエス様は間髪を入れずに、救いの手、助けの手を差し伸べてくださいます。

長い信仰生活、この世の訓練や試練、艱難や困難、辱めの連続を耐え忍ぶ秘訣は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」いる事のみです。

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                                        2023-8-20礼拝

聖書箇所:サムエル記第一27章1節から12節

説教題:「ほかに道はないのか」

【導入】

唯一真の神様に召し出され、神様に頼り、神様に導かれて、歩んで来たダビデですが、それはゴリヤテとの戦いの時から変っていません。

経験も、身体の大きさも、武器においても、圧倒的な差がありながら、ダビデは臆する事なくゴリヤテに立ち向かったのであり、それは神様の守りに絶対的な信頼を置いていたからにほかありません。

サウル王に仕えるようになってからも、サウル王から謂れのない疑いを掛けられ、命を狙われるようになっても、自分の手で解決を図らず、部下の申し出に対しても「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう」と諌め、サウル王の無防備な姿を目の前にし、簡単に殺す事の出来るチャンスが訪れても、決してサウル王の命に手を出す事はしませんでした。

更には、カルメル地方一の富豪ナバルとの関係においての問題でも、一人の女性を遣わされ、ダビデ自身の手で復讐する事を留めさせ、殺生与奪は唯一真の神様だけに許されたものであり、問題解決や憎しみを持って命に手を出してはならない事を学んだのでした。

誘惑を受け、試みを受けたダビデでしたが、唯一真の神様の選びたもう、立てられたもう王様に対する謙遜な思いと、唯一真の神様が遣わしたもう者の言葉に対する従順な思いとで、大きな課題を乗り越える事が出来たのでした。

ダビデ自身がサウル王の命を大切にしたように、唯一真の神様はダビデの命を大切にし、サウル王の手がダビデに触れる事のないように、あらゆる危険から、危機一髪の状況から守って下さったのでした。

具体的には、ヨナタンの執り成しがあり、ミカルの手助けによって逃げおおせる事が出来たのであり、ケイラの住民が裏切る事を教え、包囲される前にいち早く脱出し、窮地に陥る事を避ける事が出来たのでした。

逃げ惑う当事者のダビデはハラハラドキドキの連続であったかも知れませんが、それは人間が一部しか見る事が出来ないからです。

唯一真の神様は全てを見られ、支配しておられるので、折りにかなった助けを与え、完全に守る事が出来るのです。

ダビデはこの唯一真の神様の守りを体験し、益々神様に信頼して歩んで行ったのですが、信仰体験がそのまま信仰の成長に繋がるもの、比例するとは限りませんし、常に向上し続ける訳でもありません。

最大の難関を突破し、更なる成長を遂げたかに、益々信仰の勇者となったかと思いましょうが、今日のテキストには、ダビデの失敗が記されています。

失敗しながら、前進後退、紆余曲折、右往左往を繰り返しながら成長するのが人間であり、信仰者の姿なのであり、聖書はその人間模様を、失敗を赤裸々に記して、信仰者は失敗をしない人間ではなく、失敗を繰り返しながらも唯一真の神様に縋り、成長する事を私たちに教えているのです。

この失敗するダビデの姿から何を学び、何を教えられるのでしょうか。

共に聖書を紐解いて行きましょう。

【本論】

27:1 ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」

サウル王とダビデの差。

それは現役の王様と、逃亡中の家臣の差であり、精鋭部隊を率いる指揮官と、寄せ集め集団の長の差であり、追う者と、追われる者の差です。

サウル王に協力する者は後を断たず、ダビデを密告する者も後を断たなかったのであり、滅ぼされるのは誰の目にも明らかであり、時間の問題と映った事でしょう。

更には、逃げている限り、ジリ貧に陥り、サウル王の手によって打たれる前に、厳しい逃亡生活によって、自滅する可能性を含む状況であり、その強迫観念がダビデを捕らえ、ダビデに従う六百人の人々もそれを強く自覚していた事でしょう。

そこで、ダビデはイスラエルの宿敵であるペリシテ人の所に逃げる事を思いついたのであり、「ほかに道はない」と思い込むに至るのです。

27:2ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。

ガテの王アキシュ」は2110節に登場しますが、この「ガテ」は塩の海の西60kmほどの所にある、ユダ部族の相続地の内ではありますが、ペリシテ人が支配する町であり、「アキシュ」の出自ははっきりしませんが、ダビデと何かしらの親交があったと考えられます。

当時のパレスチナ一帯は、イスラエル人対ペリシテ人、と言う単純な構図ではなく、力のある豪族が割拠して支配していたのであり、利害関係で手を結んだかと思うと、敵ともなる、そんな不安定な国際状況であったのです。

この事はサムエル記第一1421節、2017版旧約聖書501ページにも「それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった」、と記されている通りです。

優勢な方について、少しでも損失を防ぎ、少しでも利を得ようとしていたのであり、時には敵として戦い、時には手を組んでより強力な外敵と戦ったのです。

それが処世術であって、当時の慣習であったとしても、ダビデは唯一真の神様によって命ぜられ、滅ぼさなければならない敵国に保護を求めたのであり、人を頼ったのであり、ダビデの決定的な失敗と言わなければならないでしょう。

サムエル記第一21章では、ダビデの目論見の通りに事は運ばず、アキシュの家臣の言葉に恐れをなして、気が狂った振りをし、人としての尊厳を捨てる屈辱を味わった訳ですが今回はその時とは状況が違います。

ダビデはサウル王に追われ続ける身であり、この事は敵国にも伝わっていたのであり、「敵の敵は味方」の論法で、アキシュはダビデを積極的に受け入れる事になるのです。

27:3 ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住んだ。ダビデも、その二人の妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルと一緒であった。

27:4 ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度と彼を追おうとはしなかった。

敵国にまで知れ渡っていたサウル王とダビデの関係は、ここではダビデに有利に働き、アキシュもアキシュの家臣も何の疑問も、不審も覚えず、ダビデとその部下六百人、その家族を受け入れる事になります。

アキシュの懐の深さ、と言うより、12節の言葉で明らかになりますが、ダビデを利用してやろうとの狡猾さの現れと見るのが、正しいと思われます。

それはともかく、ダビデがアキシュの保護下に入った事を知ったサウル王は、ダビデ追跡を諦める事となるのであり、ダビデとその一行はやっと安住の地を得たのであり、枕を高くして眠る事が出来るようになったのです。

ほかに道はない」と苦渋の決断をしたダビデですが、ここに至って、アキシュに保護を求めたのは正しい判断であったと、安堵したのではないでしょうか。

しかし、安堵するのは早過ぎましょう。

敵の保護を求めたとは言っても、ダビデは決してサウル王に反旗を翻した訳ではなく、サウル王と戦う為にペリシテの軍門に下った訳でもありません。

共通の敵と戦う為に、敵国の首都に、敵国の王様の下で暮らすのではありません。

ダビデも、ダビデの一行も、イスラエル人であり、誤解が解ければ直ぐにでもサウル王の下に帰還したい思いがある中での、敵国民との生活は、居心地の良いものではなく、また、これからお話ししますが、ダビデの行動はアキシュに知られてはならない事であり、秘密を守るためにも、アキシュから離れる事を願い求めます。

27:5 ダビデはアキシュに言った。「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう。」

27:6 その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。それゆえ、ツィクラグは今日まで、ユダの王たちに属している。

ツィクラグはガテの南25km程離れたところにあり、ユダ部族、イスラエル民族と接する国境、防備の要の町であり、重要な拠点と言える都市なのです。

何故アキシュは重要な都市をダビデに与えたのでしょうか。

一つは、ダビデの、「ほかに道はない」との思いが本物であり、巧妙な作戦でもなく、その場を繕う一時しのぎの言葉でもなかったから、アキシュはダビデの言葉を信じたのではないでしょうか。

二には、「敵の敵は味方」の論理があったからであり、少しでも優勢な方につく事が、当時の習わしであり、恥ずべき行為ではなかったからでしょう。

しかし、何をしても言いのですが、その全てが唯一真の神様の栄光を現すとは限りません。

徳を高める事とならない事もあるのであり、行動にも言葉にも吟味しなければならないのではないでしょうか。

ダビデは、アキシュに取り入る為に、嘘を付き続けるのであり、それは決して短い期間ではありませんでした。なんと、

27:7 ダビデがペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。

のであり、十戒の第九戒「あなたは、隣人について偽証してはならない」に反する行為を14ヶ月も続ける事になってしまうのでした。

嘘偽りの禁止は、同胞に対してだけの戒めではありません。

敵であっても、仇であっても、嘘偽りを言ってはならないのであり、正しい事、真実を申し述べなければならないのであり、それがイスラエル人、唯一真の神と共に歩む者の務めであり、義務であり、また権利と言えるのではないでしょうか。

「嘘も方便」「嘘も追従(ついしょう)も世渡り」「嘘も誠も話しの手管」と言いますが、唯一真の神様は自分自身にも、相手にも、第三者にも、利益、不利益に関らず、嘘偽りを承認されません。

正直、真実だけが、唯一真の神の民の選ぶ道なのではないでしょうか。

損になっても、正しい事、真実を申し述べる時、唯一真の神様の栄光を現す事になり、廻り回って自分自身の益に繋がるのです。

ですから、嘘を付かなければならなくなるような状況に身を置いてはならず、関係を持ってはならないのです。

この点でダビデは大きな失敗をしたのであり、敵国に身を置いたために、嘘を付かざるを得ない状況になってしまった訳です。

嘘偽りを禁じていますが、真実なら何を言っても良いと言っているのではありません。

どんな時でも、励ます言葉、希望を持てるような言葉をかけ、悔い改めに、正しい道に導くような言葉をかけるのであって、嘘で励まし、嘘を助長するような事は自他共に戒めなければならない事なのではないでしょうか。

27:8 ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいた。

27:9 ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰って来た。

ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人は、ダビデに与えられたツィクラグの南方、エジプトに至る地域に住む人々であり、アキシュと敵対関係、同盟関係にある人々ではありませんが、イスラエルとの関係で言えば、神様から与えられた地に住む先住民族であり、追い払う事が命じられていた人々です。

これらの民族と、血縁関係を持つ事は禁じられており、その意味でダビデは皆殺しにしたのでしょうが、その真の理由は、アキシュの好意を得るための方便であったのです。

27:10 アキシュが「今日は、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。

27:11 ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。「彼らが『ダビデはこういうことをした』と言って、私たちのことを告げるといけない」と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をした。

10節のユダのネゲブ、エラフメエル人のネゲブ、ケニ人のネゲブと言う地名は、ダビデの住むツィクラグと塩の海の間に散在している都市であり、ユダは説明するまでもなくイスラエル民族であり、エラフメエルは歴代誌第一29節に記されているようにユダの子孫であり、ケニ人は創世記1519節に登場しますが、アブラハムに与えられた土地に住む民族であり、イスラエル人とは友好関係にあった事が、サムエル記第一156節に記されています。

つまり、ダビデはアキシュに対して、イスラエル民族の末裔や、友好関係にある人々を、町々を襲ったのだと報告し、アキシュの好意を得ようとした事が記されているのです。

そのダビデの目論見の通り、

27:12 アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」

本当はアキシュとは何の利害関係もない人々を殺したのであり、イスラエル人の益になる事をおこなったのに、ダビデは嘘の報告をし、イスラエル民族の町々を襲い、略奪し、殺戮を繰り返したと報告したのです。

当時の習わしでは、奴隷市場があり、人間も商品としての価値があって売買されていたので、皆殺しは不自然な事なのですが、アキシュはダビデの報告を好意的に解釈し、憎しみを込めた殺戮を行なったと思い込んだのです。

【適応】

今日のテキストの箇所、サムエル記27章の特徴は「主、神」を示す単語が、代名詞も含めて一回も記されていない事です。

一つの章の中に「主、神」と言う単語が一回も出て来ないのは極めて異例です。

神様は、神様が、と主語で語られても、神の、神に、神を、神よ、と神様との関係性を語るにしても、聖書は神様を指し示し、神様との関りを教える書物ですから、神様が登場しないのは不自然であり、異常であり、この27章は神様不在を現し語っているのです。

ダビデが「ほかに道はない」と断言し、選んだ道ですが、それは神様不在の世界であったのです。

神様不在の世界には、真の意味での平安も、安全も、安心も、安楽もありません。

何故なら平安も、安全も、安心も、安楽も善なるお方、唯一真の神様だけから来るものであるからです。

これらはお金でも、権力でも、知恵によってでも得られるモノではありません。

アキシュの保護下で、ツィクラグで、見かけは平安であり、安全であり、安心であり、安楽であったかも知れませんが、いつなんどき、アキシュが真相を知るか、気が気ではなかったのではないでしょうか。

皆殺しにしたと思ってはいても、生き残りがいなかったと断言はできません。

仲間内のヒソヒソ話しが、漏れないとも限りません。

戦利品に民族の特徴があって、ネゲブの物ではないことが露呈するかも知れないのです。

一番の問題は、これらの平安、安全、安心、安楽が嘘偽りの上に建てられていると言う事実なのです。

脆さの例えに「砂上の楼閣」と言う言葉がありますが、正に、この言葉の通りに、いつ崩れ去るか分からない嘘の上に、平安、安全、安心、安楽、命を託すのは、愚かさの極みなのではないでしょうか。

モーセに導かれてのエジプト脱出や、荒野の40年の旅は、単なる昔話ではなく、唯一真の神様に従う旅の、神様に導かれる道における困難、艱難に対する、慰めであり、励ましの為にイスラエルに与えられた体験、歴史だったのではないでしょうか。

アキシュの下に逃げ込むまでは、確かにサウル王の追撃に怯え、一族郎党の食料にも困窮していたでしょうが、常に唯一真の神様を見上げて歩み、生きて来た時、余分ではなかったかも知れませんが、食料は与えられたのであり、充分な休息はなかったかも知れませんが、病人も怪我人もなく旅を続けられたのです。

唯一真の神様に従い、委ねて来たからこそ、窮地を脱し、サウル王に真実を語り、嘘偽りがなかったからこそ、サウル王も涙を流してダビデを受け入れたのです。

真実に勝る言葉はありません。

また、真実は神様の前で、輝き、神様に受け入れられるものなのであり、神様を見上げ、神様に委ねて歩んで来たダビデだからからこそ、ここぞと言う時に、神様の御心に適う選択と決断が出来たのであり、神様もダビデとその六百人の内の一人として殺される事は勿論、捕虜になる事からも守って下さったのではなかったのでしょうか。

ダビデは究極の選択としてアキシュに助けを求めましたが、その選択はダビデだけの考えであり、部下との相談もなければ、唯一真の神様に伺いを立てた結果でもありませんでした。

ダビデに限らず、人は人事を尽くし、知恵を注ぎ込み、あらゆる場合を想定し、これが唯一の道だ、これしか道はない、と考えますが、神様不在の道は、神様が喜ばれない事であり、それだけの理由で選んではならないのです。

「ほかに道はない」…その道はあなたが考え出した、人からアドバイスを受けて選択した道ですか?

それとも、神様から示されて選択した道ですか?

人から出た道なら、その先には思いもしなかった、想定外の困難が待ち受けており、嘘の上塗りをしなければならない、律法に反する行為に誘う、滅びに至る道かも知れません。

神様から示された道であるなら、困難や艱難が待ち受けているかも知れませんが、必ず解決の道も用意されており、命に至る道であると確信を持って断言できます。

イエス様は仰られました。「私が道であり、いのちなのです」と。

ここにおられる皆様が、神様の示される道を選ばれ、待ち受けている幸いを享受される事、永遠の命を手にする事を願って止みません。

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                                        2023-8-27礼拝

聖書箇所:ヘブル人への手紙12章4節から11節

説教題:「愛するが故の訓練(懲らしめ、試練、苦難)」

【導入】

信仰生活に於いて重要なのは、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」いる事です。

信仰生活に於いて、礼拝や奉仕、交わりなども重要ですが、礼拝や奉仕、交わりは注意しないと落とし穴、躓きになりかねません。

礼拝を欠かさない事を拠り処とし、どれだけ奉仕をしたか、献げたかで、安心しては、交わりを慰め、励ましとしては、その信仰は砂上の楼閣のようであり、何もない時は問題なくても、事ある時には、いとも簡単に信仰から離れる事に、信仰を捨てる事になりかねません。

礼拝に於いて、奉仕に於いて、交わりに於いて、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」いる事が重要なのです。

礼拝も奉仕も、唯一真の神様に献げるモノであり、唯一真の神様との関係がしっかりしている事が重要であり、そこに誰も入れてはならず、入ってはなりません。

会堂に大勢の礼拝者が居ても、唯一真の神様だけを見つめるのであり、皆と一緒に奉仕を献げても、唯一真の神様に仕えるのです。

人との比較や、人からの評価は、礼拝や奉仕に無縁であり、人を意識した礼拝や奉仕は唯一真の神様に相応しいモノではありません。

交わりも、唯一真の神様が中心であり、唯一真の神様との関係がしっかりしていてこそ、横の繋がりが祝福されるのです。

そして重要なのは、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」いる事が、訓練や懲らしめ、或いは試練や苦難を乗り越える、耐える秘訣だ、と云う事です。

【本論】

新改訳2017 12:4 あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。

ヘブル人への手紙の著者は、読者であるイタリア、その近辺にいるユダヤ人たちの、迫害を耐え忍んで来た事を評価しつつ、「血を流すまで抵抗したことがありません」と、殉教の経験をした事がない事を語りますが、これは、非難することばではなく、これから、この地域の教会に臨もうとしている、非常に厳しい迫害、桁違いの艱難、信仰の訓練、試練、苦難がある事を予想し、唯一真の神様が教会に、信徒に与える訓練、試練、苦難は、愛するが故の訓練、懲らしめ、試練、苦難であり、必要不可欠な事であり、避けてはならない事、逃げてはならない事を語ります。

12:5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。

12:6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

訓練」を、新共同訳聖書は「鍛え、鍛錬」などと訳し、新改訳聖書第三版は「懲らしめ、試練」などと訳していますが、「教育」の意味を持つギリシャ語です。

5節、6節の鍵括弧のことばは、箴言311節から12節、

わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。

3:12 父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」から、

1324節「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。」から引用したようです。

訓練、懲らしめ、試練、苦難は、出来れば避けたいモノであり、なるべく関わりたくはありませんが、著者は、訓練や懲らしめを、父の子に対する真実の愛として理解し受け止め、受け入れるようにお勧めし、その理由を語ります。

12:7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

12:8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

訓練、懲らしめ、試練、苦難を受けるのは、子であるなら当然の事であり、決して訝る類の事ではないと明言します。

現代、自分の子であっても、友達のような関係を旨とし、叱り、注意しない傾向があり、また、他人の子を叱る事は憚られ、注意する事は控える傾向にありましょうが、幼い時に叱られないならば、注意されないならば、訓練、懲らしめを受けないならば、「すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません」。

そればなりではなく、適切な手入れをされていない庭や里山が、伸び放題、茂り放題、荒れ放題になってしまうように、必要な訓練を受ける事なく、諌められる事なく成長したならば、手に負えない者になってしまうのではないでしょうか。

御子、主イエス様でさえ、両親に仕え、唯一真の神様のご計画、御旨に従順であられたのです。

12:9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

両親を敬う事は、十戒の第五戒でありますが、敬う事は、服従する事と同義であり、其処には祝福が伴う事を教えています。

申命記516節、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。

子を厳しく訓練する父親は、近寄り難く、煙たがられ、避けられるかも知れませんが、やがて子の尊敬を受けるようになります。

叱られ、注意され、諌められるのは、愛されているが故であり、喜びこそすれ、煙たがっては、避けてはならないのです。

聖書は両親に限定せず、上に立つ権威に服従する事を教えています。

ローマ人への手紙131節、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。

私たちは霊の父」を「尊敬し」、「霊の父に服従し」、「上に立つ権威に従うべき」なのです。

これが聖書の教えであり、それは「自分の身にさばきを招」く事にならないためです。

12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

肉の父」の知恵や経験は有限であり、能力に限界があり、欠けがあります。

判断の誤りがあり、与える訓練の方法が適切でない場合があり、純粋な教育の熱意、熱心より、怒りなどの感情や拘りなどに左右される事も少なくありません。

その有限、限界、欠けの中で、状況の中で、「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練」するのですが、「霊の父」の知恵や愛は無限であり、配慮などは完全、無欠であり、「私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練」してくださるのです。

12:11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

霊の父」は、訓練、懲らしめ、試練、苦難を与え、神の御国の民に相応しく整えてくださるのです。

マタイの福音書510節、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

使徒の働き1422節、「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。

テサロニケ人への手紙第二14節「ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。

1:5 それは、あなたがたを神の国にふさわしい者と認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。

訓練、懲らしめ、試練、苦難は、必要不可欠なモノなのです。

【適応】

訓練、懲らしめ、試練、苦難は、上手く立ち回れば、避ける事が出来るかもしれません。

人に負わせる事が出来るかも知れません。

しかし、避けていては、信仰形成に大きなマイナスです。

訓練、懲らしめ、試練、苦難、大歓迎と言う人は、我に艱難辛苦を与えたまえ・・・と願う人は少ないかも知れませんが、其処までにはならなくとも、訓練、懲らしめ、試練、苦難を避けようと、あの手この手の策を弄するのではなく、来るモノ拒まず、の精神で、訓練、懲らしめ、試練、苦難を受け止め、取り組む時、信仰の成長を遂げ、聖化の段階を上がり、天の都での地歩を固める事になるのです。

天に宝を積み上げる事になるのです。

訓練、懲らしめ、試練、苦難の種類も、程度も、時期も、人其々です。

訓練、懲らしめ、試練、苦難は、人と比べるものではなく、正解や模範がある訳でもなさそうです。

訓練、懲らしめ、試練、苦難の最たるモノである殉教に、いきなり遭遇する事はないでしょう。

小さな訓練、懲らしめ、試練、苦難を乗り越え、徐々に大きな訓練、懲らしめ、試練、苦難が与えられ、時に殉教に至るのです。

訓練、懲らしめ、試練、苦難は、小ささ、弱さ、罪を知らしめ、挫折させ、叩きのめし、落伍させるのが目的ではありません。

訓練、懲らしめ、試練、苦難は、篩い分けのためではなく、訓練、懲らしめ、試練、苦難を通して、霊的に成長し、唯一真の神様、主イエス様に拠り頼むためのモノなのです。

適切な訓練、懲らしめ、試練、苦難が与えられるのであり、大き過ぎる、重過ぎる訓練、懲らしめ、試練、苦難が与えられることはなく、必ず、脱出の道も備えられており、

コリント人への手紙第一1013節、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

折りに適った助けがあります。

ヘブル人への手紙416節、「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

訓練、懲らしめ、試練、苦難を避けると云う事は、唯一真の神様、主イエス様を避けると云う事です。

唯一真の神様、主イエス様に近づくと云う事は、訓練、懲らしめ、試練、苦難が近づくと云う事です。

全ての信徒は、唯一真の神様、主イエス様に愛されているが故に、訓練、懲らしめ、試練、苦難が与えられ続けるのであり、一人として落ち零れる者がいないのは勿論の事、賜物が生かされ成長し、役に立つ者、有用な者となり、この世でも、来る世でも、唯一真の神様、主イエス様の栄光を現す者とされるのです。

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