2023-9-3礼拝

聖書箇所:サムエル記第一28章1節から25節

説教題:「主はあなたの敵となられた

【導入】

神様に召し出され、神様に頼り、神様に導かれて、神様の御心を優先して歩んで来たダビデであり、比べて神様に召し出されながらも、自分の考えを優先し、民衆の意見に影響されてしまい、神様の御心に叛いてしまったサウル王ですが、サウル王は決して神様に叛き続ける人物であった訳ではありません。

多くの場面で神様の教え、律法に従い、預言者であるサムエルの指導に従い、祭司の助言に従って歩んで来たのですが、ここぞと言う重要な場面で、神様の声に聞き従わず、サムエルの命令に聞き従わず、自分の考えを優先し、民衆の意見を取り入れてしまったのであり、神様から退けられ、サムエルからも見放されてしまったのでした。

更には、ダビデへの妬みから、祭司アヒメレクにあらぬ疑いをかけ、祭司一族を皆殺しにすると言う暴挙に出るのでした。

神の民の王として立てられた者は、神の民を自認する者は、神様の御心に従って歩まなければなりませんが、神様の御心を知るには幾つかの方法があります。

それは「夢」と「預言者」と「クジ、即ちウリムとトンミム」です。

サウル王は預言者サムエルの指示に従わず、民衆の意見を取り入れてしまい、そのために神様に退けられてしまい、サムエル記第一1614節「主の霊はサウルを離れ去り」サウルは「夢」によって神様の御心を知る事が出来なくなってしまっていたのです。

同時に、サムエルに見捨てられ、預言者を通して神様の御心を知ると言う手段を失い、更には、祭司アヒメレク一族を皆殺しにした事によって、祭司の扱う「ウリム、トンミム」を通して神様の御心を知ると言う手段をも失ってしまった訳なのです。

神意を伺う三つの方法の、その三つ全てを失ってしまったのであり、大切な神意を伺う重要な手立てを自ら失う失態を演じてしまったのでした。

当時は、私たちが手にしている書物としての「聖書」は無く、口伝が中心であり、その口伝を担ったのは主に祭司と呼ばれる人々であり、サウル王が祭司を皆殺しにしたという事は、即ち「聖書」を抹殺してしまったと言う事なのです。

このような神様の御心を知る手段を持たないサウル王が切羽詰って選んだ方法が今日のテキストに記されています。

失敗しながら、紆余曲折、一進一退を繰り返しながら成長するのが人間であり、信仰者の姿なのですが、失敗の中でも決して手を出してはならない事があるのであり、聖書はその人間模様を、失敗を赤裸々に記して、私たちに警告を与えています。

共に聖書を紐解いて行きましょう。

【本論】

28:1 そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦おうとして、軍隊を召集した。アキシュはダビデに言った。「承知してもらいたい。あなたと、あなたの部下は、私と一緒に出陣することになっている。」

28:2 ダビデはアキシュに言った。「では、しもべがどうするか、お分かりになるでしょう。」アキシュはダビデに言った。「では、あなたをいつまでも、私の護衛に任命しておこう。」

「ほかに道はない」と見極めて、ペリシテ人アキシュの下で、一族郎党の安全を計ったダビデですが、滅ぼさなければならない敵国ペリシテ人に、保護を求める失態を演じてしまったのであり、ペリシテ人に疑われないために、嘘で塗り固めた報告をし、その嘘が露呈しないために、住民を皆殺しにすると言う残酷な行為を選ばなければならない羽目に陥ってしまったのです。

小さな嘘でも、その嘘を隠すために、更に嘘を重ねる事になるのであり、また、嘘ではなくても、事実の一部を隠し、都合の良いことだけを述べる、と言うのも、嘘と変りはありません。

どんな小さな嘘でも避けるのが賢明であり、また、そのような状況に身を置かない事が最善の策と言えるのではないでしょうか。

ダビデの嘘を信じたアキシュは、ダビデを護衛の長に任命したのですが、護衛の長は、正に信頼の頂点に位置する職務であり、その命を託す重要な職務に抜擢されるまでの信頼を得たと言うのは、ダビデの策が功を奏したからではありますが、嘘が露見しないために、アキシュの住む都から、遠く離れた地に住む事を求めたのに、アキシュの護衛として、アキシュの近辺に居なければならなくなってしまったというのはダビデの誤算でしょう。

アキシュやアキシュの部下と、常に顔を合わせる状況に置かれてしまった訳であり、嘘が発覚しないかと、ミスを犯しはしないかと、緊張の日々を過ごす事になってしまったのでした。

28:3 サムエルはすでに死に、全イスラエルは彼のために悼み悲しみ、彼を彼の町ラマに葬っていた。一方、サウルは国内から霊媒や口寄せを追い出していた。

このサムエル死亡の記事は25章にも紹介されていますが、導入で紹介したように、預言者は神様の御心を知る、重要な手掛かりの1つであり、そのサムエルを失った損失は計り知れないものがあるのです。

確かに、他にも神様の御心を知る手掛かりはありますが、3つの手段の内の1つが減った、と言うような単純な事ではありません。

其々固有の特徴を持つ方法の1つが機能しなくなったのであり、致命的、と言っても過言ではないのです。

全イスラエルが悼み悲しんだのは、親しんで来た預言者が死んだ、と言う人間的な悲しみと、唯一無二の指導者を失った重大な損失を悲しむ姿を現しているのです。

預言者の死を現代の私たちに適応するなら、説教者の喪失(そうしつ)に置き換える事が出来るでしょう。

説教は聖書の解釈と同時に、現代への適応を教えるものであり、考え方を変えるものであり、また生き方を変えるものであり、神様の御心を知る重要な手掛かりなのであり、不可欠な存在なのです。

他に神様の御心を知る手がかりは、聖書通読、祈りの励行、奉仕の実践と言った事に該当するのではないでしょうか。

どれも其々に違った機能を持っており、私たちの信仰生活に欠かせないものです。

聖書を読んでいる、説教を聴いているから事足りる訳ではありません。

祈りも奉仕も出来ればやった方が良い、というレベルの問題でもありません。

聖書通読には聖書通読でしか得られない恵みが隠されているのであり、説教には説教でしか得られない生きた力が秘められているのであり、祈りには祈りでしか得られない神様との交わりがあるのであり、奉仕には奉仕でしか得られない喜びがあるのです。

欠けのない信仰生活は、安定的であり、大きな試練にも挫折する事なく立ち続ける事の出来る秘訣なのです。

サウル王は自ら招いた結果ではありますが、バランスの欠けた生活を送っていたのであり、神様に従わない事も多くありましたが、御心に適う事も行なったのです。

それは3節後半に記されているように「霊媒や口寄せ」を追放した事ですが、実はここでも失敗を重ねているのです。

神様はレビ記2027節で「男でも女でも、彼らの間に霊媒や口寄せがいるなら、必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。」と教えているのであり、追放を命じてはいないのです。

つまり、サウルはここでも神様の命令に対して不徹底であり、変な温情を、酌量を与えてしまっているのであり、この不徹底さが、7節以降の記事の伏線となり、自ら霊媒に聴くと言う罪を犯す事になってしまうのです。

ダビデやサウル王の身辺の様子が記された事に続いて、イスラエルが重大な局面を迎えた事が記されています。

28:4 ペリシテ人は集まって、シュネムに来て陣を敷いた。サウルは全イスラエルを召集して、ギルボアに陣を敷いた。

28:5 サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心は激しく震えた。

このサウル王の恐れには、ペリシテ軍への恐れと共に、ペリシテ軍に加わっているダビデへの恐れがあった事は否めないでしょう。

ダビデはイスラエルの勇士であり、憧れの的でもあるのです。

サウル王よりも、ダビデの人気の方が上回っているのであり、ペリシテ軍との戦いにおいて、ダビデに味方する者が現れない保障はないのであり、それがサウル王を余計に不安にさせたのではないでしょうか。

28:6 サウルは【主】に伺ったが、【主】は、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。

28:7 サウルは家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私が彼女のところに行って、彼女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」

事もあろうに、サウル王は滅ぼさなければならない、関ってはならない霊媒に助けを求めたのであり、この点でダビデと同じ過ちを犯してしまったのであり、其々に、神様から手痛い実を刈り取る事を余儀なくされるのでした。

7節のサウル王の要求に対して、サウル王の家来たちは即座に回答を与えた様子が記されています。

追放する事でさえ、神様の律法に対して不完全な事であるのに、その追放でさえも不徹底なものであり、サウル王の支配下の土地で、苦労する事なく霊媒を見つけ出す事が出来たのです。

4節のシェネム、ギルボア、7節のエン・ドルと言う地名は、ガリラヤ湖の南西、イッサカル部族の相続地にある都市、近辺の地域であり、20kmと離れていない地域の都市ですが、サウル王の住むギブアからは120kmも離れた土地での出来事であり、建前と本音の使い分けが、イスラエルでも行なわれていたのであり、誰でも苦労する事なく霊媒に会えるのであり、この後の記述で解かるように、その霊媒も身の安全が保障されれば、死人の霊を呼び出す事に躊躇しなかった訳なのです。

28:8 サウルは変装して身なりを変え、二人の部下を連れて行った。彼らは夜、女のところにやって来た。サウルは言った。「私のために霊媒によって占い、私のために、私が言う人を呼び出してもらいたい。」

28:9 女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち切ったことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちに罠をかけて、私を殺そうとするのですか。」

28:10 サウルは【主】にかけて彼女に誓って言った。「【主】は生きておられる。このことにより、あなたが咎を負うことは決してない。」

サウル王は霊媒の女に身の安全を約束しますが、霊媒の禁止は王様の権限ではなく、神様の定めであり、神様の主権を侵す行為です。

一つボタンを掛け違えると、次々とずれて行ってしまうのであり、恐ろしい結果に行き着く事を覚えなければなりません。

神様の定めは決して軽く扱ってはならず、一字一句に至るまで忠実に従わなければならないのです。

28:11 女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「私のために、サムエルを呼び出してもらいたい。」

28:12 女はサムエルを見て大声で叫んだ。女はサウルに言った。「あなたはなぜ、私をだましたのですか。あなたはサウルですね。」

文献、資料によれば、霊媒は見る事は出来るのですが、声を聞き分ける事は出来ないそうです。

そして、依頼者は見る事は出来ないのですが、声を聞く事は出来るそうです。

この予備知識があると、以下の記述のチグハグさの理解の助けになるのではないでしょうか。

28:13 王は彼女に言った。「恐れることはない。何を見たのか。」女はサウルに言った。「神々しい方が地から上って来るのを見ました。」

28:14 サウルは彼女に尋ねた。「どのような姿をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることが分かって、地にひれ伏し、拝した。

28:15 サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」

28:16 サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。【主】はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。

28:17 【主】は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。【主】は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。

28:18 あなたが【主】の御声に聞き従わず、主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、【主】は今日、このことをあなたにされたのだ。

28:19 【主】は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。明日、あなたもあなたの息子たちも、私と一緒になるだろう。【主】は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡されるのだ。」

サウル王が求めていたのは、イスラエル軍の勝利の宣言であり、また、身の安全の保障の言葉ではなかったでしょうか。

しかし、預言者サムエルの口から発せられたのは、サウル王の死の宣告のみならず、大切な息子たち、イスラエル王国後継者の死の宣言であり、イスラエル軍の敗北の預言であったのです。

更に、今まで隠されていましたが、ダビデがサウル王の後を継いでイスラエルの王になる事が明確に宣言されたのであり、サウル王の恐れていた事が全て明かにされてしまったのです。

サムエルの言葉の中でも極めつけは「主はあなたから去り、あなたの敵になられた」と言う言葉ではないでしょうか。

神様に従わないサウル王に対して「イスラエルの王位から退けた」と言う言葉をもって悔い改めを迫りはしましたが、現実にはなっておらず、王位から退けられるのは遠い将来の事のように思い、真摯な悔い改めを先延ばしにし、上辺だけを繕う事に躍起になり、アマレクを打つ事においても、霊媒を追い出す事においても、不徹底であり続けてしまったのです。

その裁きを先延ばしにして下さる神様の憐れみに対して、サウル王は中途半端な歩みを続けたのであり、その結果「主はあなたから去り、あなたの敵になられた」との宣言を受ける事になるのであり、私たちはこれを対岸の火事と見てはならないのではないでしょうか。

悔い改めは早いに越した事はありませんが、遅くても大丈夫な訳ではありません。

何時か期限が来るのであり、その期限は明らかにされていないのですから、罪を示されたならば、即座に応答する事が求められているのです。

サウル王は軽く考え、新しい生き方への転換を、神様の言葉に忠実な歩みへの転換を先延ばしにしていたのであり、最終的な「主はあなたから去り、あなたの敵になられた」との宣言に打ちのめされてしまったのでした。

28:20 すると、サウルはただちに地面に倒れて棒のようになり、サムエルのことばにおびえた。しかも、その日一昼夜、何も食べていなかったので、力は失せていた。

28:21 女はサウルのところに来て、サウルが非常におじ惑っているのを見て彼に言った。「あなたのはしためは、あなたが言われたことに聞き従いました。私はいのちをかけて、あなたが言われたことばに従いました。

28:22 今度はあなたが、このはしためが申し上げることをお聞きください。パンを少し差し上げます。それをお食べください。お帰りのとき、元気になられるでしょう。」

28:23 サウルはこれを断って、「食べたくない」と言った。しかし、彼の家来も女もしきりに勧めたので、サウルはその言うことを聞き入れて地面から立ち上がり、床の上に座った。

28:24 女の家に肥えた子牛がいたので、彼女は急いでそれを屠り、また、小麦粉を取って練り、種なしパンを焼いた。

28:25 それをサウルと家来たちの前に差し出すと、彼らは食べた。そしてその夜、彼らは立ち去った。

20節以降は付随的な内容ですが、神様は厳しい宣告を下すだけではなく、意気消沈し、身体を支える力の失せたサウル王に食べ物を与えて下さったのであり、肉体の必要を満たして下さる優しいお方である事が記されているのです。

【適応】

神様が預言者によっても夢によっても答えて下さらないとは、自らの責任であるとは言っても辛く悲しい事ですが、だからと言って霊媒、口寄せに頼ってはなりません。

答えて下さらなくても、無視されても、あくまで願い続けるならば、神様は答えて下さるお方なのではないでしょうか。

士師記を読む時、イスラエル人は偶像に走り、裁きとしてアラム人、ペリシテ人、モアブ人に苦しめられますが、神様は苦しめられるイスラエル人を見て、憐れまれ、かわいそうに思い、見るに忍びなくなって、助け手を送られるお方である事が記されています。

ですから神様が預言者によっても、夢によっても答えて下さらなくても、諦めずに願い続けるならば、答えは、助けは必ず与えられるのではないでしょうか。

決して霊媒、口寄せに助けを求めてはならず、関りを持ってはならないのです。

主はあなたから去り、あなたの敵になられた」との言葉は、16節で語られていますが、この言葉は死人に尋ねた事に対する叱責であり、霊媒に頼った事に対する叱責であって、この時点まで、神様はサウルを王位から退けただけであって、敵となってはいなかった事が明らかです。

サウル王は、最後まで神様に縋る事をせず、この世の邪習に頼ったのであり、死人に縋ってしまい、神様から決定的な最後通牒を受けてしまったのです。

私たちも窮すると、思わぬ行動に出てしまったり、人に頼ったり、モノに頼ったりしてしまいがちですが、最後まで神様だけに寄り縋る時、神様は、憐れまれ、かわいそうに思い、見るに忍びなくなって、助け手を送られるのではないでしょうか。

神様は憐れみ深いお方です。

人間が無力で弱い存在である事をご存知です。

その神様の憐れみを引き出す秘訣は「ひたすら助けを求める事」だけです。

そうすれば「主はあなたから去り、あなたの敵になられ」ることはありません。

忍耐深く、神様の答えを待つ時、神様は願った以上の答えを用意し、与えて下さるお方である事を体験し、益々神様を信頼する祝福された信仰生活を送る事につながるのではないでしょうか。

ここにおられる皆様が、苦難の時にも神様だけに寄り縋り、神様があなたの味方である人生を歩まれますように。

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                                       2023-9-10礼拝

聖書箇所: ヘブル人への手紙12章12節から17節

説教題:「聖められることを願い求める」

【導入】

信仰生活に於いて試練、苦難があるのは、唯一真の神様、主イエス様に愛されているが故であり、聖化のために必要不可欠のモノである事を確認しました。

唯一真の神様、主イエス様に近づくと云う事は、訓練、懲らしめ、試練、苦難が近づくと云う事であり、訓練、懲らしめ、試練、苦難を避けると云う事は、唯一真の神様、主イエス様を避けると云う事である事も確認しました。

全ての信徒は、唯一真の神様、主イエス様に愛されているが故に、訓練、懲らしめ、試練、苦難が与えられ続けるのであり、適切な手入れをされていない庭や里山が、伸び放題、茂り放題、荒れ放題になってしまうように、必要な訓練を受ける事なく、諌められる事なく成長したならば、唯一真の神様のご計画、御旨に用いられる事は難しい事となるのではないでしょうか。

ヘブル人への手紙の著者は、121節で競走を譬えにして語りましたが、再び、競走を譬えにして語り出します。

【本論】

新改訳2017 12:12 ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい」は、イザヤ書353節からの引用ですが、信仰に堅く立ち、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」で、数々の訓練、懲らしめ、試練、苦難を乗り越えて来ても、人は弱さを持つ身であり、誰もが疲労困憊し、意気消沈し、戦意喪失し、訓練、懲らしめ、試練、苦難、働きに取り組む事が難しくなる時が多々あります。

それは、自然な事であり、恥ずべき事ではありません。

そんな時、励ましが与えられ、助けが与えられ、立ち上がり、再び訓練、懲らしめ、試練、苦難、働きに取り組むのです。

列王記第一194節、「自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

19:5 彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい。」と言った。

19:6 彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壷があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。

19:7主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。

19:8 彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。

エリヤはこの体験を通して、エリヤの働きは孤軍奮闘の働きではなく、常に唯一真の神様の守りと助けと支えとがある事を確認するのです。

私たちの信仰生活も同じです。

訓練、懲らしめ、試練、苦難と共に、常に唯一真の神様の守りと助けと支えとがあるのです。

12:13 また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。

踏み外す」は、「脱臼」を意味する医学用語だそうですが、石ころだらけのデコボコ道は歩き難く、捻挫などの怪我につながり、曲がりくねった道は、上り下りを繰り返す道は、疲れを倍増させます。

競走の障害となるモノは、競走を断念せざるを得なくなるような障害は、取り除かなければなりません。

一方、整備された道は歩き易く、余計な負担なく、早く、目的地に着く事が出来ます。

競走は、個人競技でありますが、信仰と言う競走、競技は、全員がゴールしなければならず、相互に励ましを必要とする競技であり、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」ならば、弱さは癒され、支えられ、助けられ、走り続ける力を与え続け、全員をゴールさせてくださるのです。

12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

教会の外にも内にも、敵対者、反対者、批判する者、惑わす者などは存在しましょうが、キリスト者は「すべての人との平和を追い求め」なければならず、キリスト者の側から争いを仕掛けてはなりません。

すべての人」であり、敵対者、反対者、批判する者、惑わす者とも、どんな形でも争ってはならないのです。

更には、どんな形でも不利益を与えてはならず、誰に対しても常に公平な、正直な、裏表のない正しい対応をしなければならないのです。

相手の益のために、自分の不利益になる事でも、明るみに出さなければなりません。

キリスト者の生活は、「聖さを追い求め」る生活であり、聖でなければなりません。

マタイの福音書58節、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです

12:15 だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。

信仰に導いてくださったのも、信仰を与え、立たせてくださったのも、信仰生活を支えてくださったのも、「神の恵み」です。

苦い根」とは、不信仰の比喩的表現であり、「苦い根」の影響力を侮ってはなりません。

苦い根」が芽を出し、増え広がって行くのを放っておくと、際限なく広がり、群れの全体に侵食し、全体を感化してしまいます。

申命記2918節、「万が一にも、今日その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々のもとに行って仕えるような男、女、氏族、部族があなたがたのうちにあってはならない。あなたがたのうちに、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない。

苦い根」と形容される様な者が群れの中に居ないように、よくよく注意しなければならず、よく監督し、当人に警告すると同時に、群れの全体にも警告を与え、群れが道を踏み誤らないように指導しなければなりません。

神の恵みから落ち」るのは、「神の恵み」に欠けや不足、欠陥があるからではありません。

信仰の目標を「信仰の創始者であり完成者であるイエス」に置かず、自分の考えに、他人の意見に重きを置く、この世の人々と同じ思いに支配される時、人は簡単に「神の恵みから落ち」てしまう、離れてしまうのです。

12:16 また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。

エサウ」に対する「淫らな者、俗悪な者」との形容は、創世記を読んでいる者にとって、ちょっと的外れな評価かな、と思いますが、唯一真の神様のお約束、アブラハム契約に対する無関心な、無頓着な態度こそが、大問題であり、「淫らな者、俗悪な者」と形容される原因でしょう。

寧ろ、ヤコブの方が、エサウの弱みに付け込み、策を弄し陥れる狡賢く、陰険、悪質な人物なのではないでしょうか、

しかし、ヤコブは唯一真の神様の祝福、アブラハム契約を何より重要と考え、欲したのであり、動機が良ければ、何をやっても良い、と云う事にはなりませんし、やった事の後始末や、刈り取りはしなければなりませんが、その唯一真の神様の祝福、アブラハム契約に対する真摯な態度は、それなりに評価されるのです。

12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

エサウは、取り返しの付かない、大失態を演じたと、本当に、心底から悔やんだのではないでしょうか。

エサウの生業は狩猟であり、自分の経験と創意工夫で獲物を仕留める生き方です。

頼れるのは自分の力だけであり、自分の力で切り開き、解決する生き方を貫いて来たのであり、エサウは、アブラハムから アブラハムに与えられた約束、祝福を聴いていたはずですが、神様に頼る事をよしとせず、これを軽視してしまったのでしょう。

後になって、アブラハムに与えられた約束、祝福の重要性に気付いても、逸した「祝福を受け継ぎたいと思っ」ても、それが受け入れられる事はなかったのです。

神仏に頼るのではなく、自力で切り開くべきとの考えが主流かもしれませんが、しかし、ヘブル人への手紙の著者は、御子、主イエス様に於いて示された神の霊的祝福を軽視しないように、心からの警告を与えるのです。

【適応】

聖められることを願い求める」と題して、お話して来ましたが、聖められる目的は、霊的祝福を受けるためです。

唯一真の神様、主イエス様のお役に立つためとか 、教会に貢献するためではありません。

唯一真の神様、主イエス様と親しく交わるためであり、霊的祝福は、「淫らな者、俗悪な者」は受ける事が出来ません。

14節に、「聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」と書いてある通りです。

意識的に「淫らな者、俗悪な者」になる事はないにしても、無意識、意図せずに「淫らな者、俗悪な者」になっている可能性は誰にでもあり得るのです。

エサウの生き方は、自分の経験と創意工夫で獲物を仕留める生き方であり、頼れるのは自分の力だけであり、自分の力で切り開き、解決する生き方を貫いて来たのですが、この生き方を「淫らな者、俗悪な者」とは言わないでしょう。

エサウの生き方は、この世では奨励される生き方であり、多くの人がこのように生きていますが、しかし、エサウのように、唯一真の神様のお約束、アブラハム契約に対する無関心な、無頓着な態度は、問題のある生き方です。

キリスト者にとって何より重要なのは、大事なのは、「聖められることを願い求める」事であり、第一にしなければならない事なのです。

自分の力、修練や修行、善行や寛容、礼拝や献げ物で、聖くなる事は出来ません。

禊をしたり、断食をしたり、滝に打たれても、聖くなる事は出来ません。

唯々、唯一真の神様、主イエス様の憐れみ、贖いの結果、聖くされるのであり、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」なら、聖くされ続けるのです。

礼拝や奉仕、献金を献げる、善行に励む、正しく、正直に生きる、などではなく、罪を犯さない、悪に加担しない、嘘をつかない、などでもなく、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」で生きる事が大切なのであり、それが、「聖められることを願い求める」生き方なのです。

その求めに、御子、主イエス様は応じてくださり、聖霊様は助けてくださいます。

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                                       2023-9-17礼拝

聖書箇所: ローマ人への手紙10章8節から10節

説教題:「心に信じ、口で告白する」

説教者:河野 優 牧師 (日本同盟基督教団 支援教師)

説教は非掲載です

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                                       2023-9-24礼拝

聖書箇所:  サムエル記第一29章1節から11節

説教題:「ダビデの虚偽と神の真実」

【導入】

神様の命令に従わなかった故に、神様から見放されたサウル王であり、しかも、悔い改める事においても口先ばかりで、衆目を気にして、中途半端なものでしかありませんでした。

その汚名を返上しようと考えたのでしょうか、霊媒や口寄せを国内から追放しましたが、キリスト者の汚名返上は良い行いなどではなく、心底からの悔い改めであり、神様と共に歩む生き方に切り替える事です。

サウル王は霊媒や口寄せを追放する事で、神様への恭順を現そうとしましたが、その追放は、神様の教えそのものではなく、追放したと言っても形ばかりのものであり、中途半端なものでしかありませんでした。

誰でもが、直ぐにでも、霊媒や口寄せを探し出す事が出来たのであり、霊媒や口寄せの持つ力により霊の世界と交流を持つ事が出来たのですが、これは神様が堅く禁じている事であり、イスラエルの民は決して関ってはならない事なのです。

それなのに、あろう事か、霊媒を追放した張本人サウル王自らが霊媒を召し出し、その力に頼ってしまったのです。

サウル王は窮地に陥り、神様の助けを必要とする時に、何の導きも示されない不安の中で、想像を絶する心細さを味わったのではないでしょうか。

そこで、仕方なく、藁にも縋る思いで霊媒に頼ってしまったのであり、同情を覚えはしますが、同意出来る事ではありません。

神様から何の応答がなかったとしても、患難辛苦の中でも待ち続けるのが信仰者の選ぶ道であり、それは、そこで忍耐が試され、「忍耐が錬られた品性を生み出し、錬られた品性が希望を生み出すと、わたしたちは知っているからです。

この希望は失望に終ることがありません。」からなのではないでしょうか。

ローマ人への手紙54節、5節の聖句です。

しかし、待てないのが人間であり、委ね切れないのが人間なのであり、ダビデも弱さ故に失敗を繰り返しますが、神様から見放されはしませんでした。

その違いは何でしょうか。

サウル王はその心の奥底に、神様への恐れがなく、其れ故に神様に従い切れず、委ね切れない故に、失敗に失敗を重ねながら、更に深みに落ちて行ってしまったのですが、ダビデの心の奥底には神様への恐れがあるのであり、表面的にはダビデも現実の苦しみに耐え切れず、神様に委ね切れず、敵国の王アキシュに助けを求め、アキシュの信用を得るために嘘を付き続けるのですが、神様への恐れの故に、神様に油を注がれたサウル王に手を下そうとはせず、サウル王との摩擦を避けるために考えた末の決断であり、あくまで神様に委ねるのであり、神様はそのダビデの信仰を見られて、助けの手を差し伸べられるのです。

今日の聖書の箇所には、ダビデを窮地から救い出すべく、神様の不思議な采配が記されています。

共に聖書を紐解いて行きましょう。

【本論】

29:1 ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。

アフェク」と言う場所は、新改訳聖書2017版、巻末地図4「イスラエルの各部族への土地の割り当て」をご覧戴くと、死海の左上、エフライム部族の相続地の、左上に記されている土地です。

ここに、カナンに住むペリシテ人の領主たちが集結し、イスラエル人の待つ「イズレエル」に向けて進軍を始める訳です。

イズレエル」はキネレテの海、ガリラヤ湖の南西にある、イッサカル部族の相続地の中にある土地です。

直線距離で70Km程離れていますので、2日から3日の行程、と言うところでしょうか。

その2日から3日の行程は、行軍する人々に色々の事を考えさせる時間となりました。

29:2 ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。

29:3 ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人たちは、いったい何なのですか。」アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」

サムエル記第一27章で確認したように、ダビデは周到な配慮を持って行動しており、アキシュを騙し続けたのであり、アキシュは露ほどにもダビデを疑ってはおらず、サムエル記第一2712節に「アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」」と記されているように、ダビデに対するアキシュの信頼は不動のものとなっていたのです。

その信頼の表明が、ダビデを護衛の長に抜擢した事に現れており、ダビデはアキシュの護衛として、アキシュの側に仕え、ペリシテ軍の殿(しんがり)に置かれて行軍に加わっていたのです。

ヘブル人、つまりはイスラエル人がペリシテ軍に加わる事は珍しい事ではなく、機を見て有利な方について、損失を最小限にし、利益を最大限に確保しようとするのは、当時の慣習ではありましたが、しかし、このヘブル人ダビデにアキシュ警護の立場が与えられる事は決して自然な事ではありません。

現代のような、国際化の時代にあっても、国の重要なポストに外国籍を持つ者が就任するのは容易な事ではありません。

厳しい審査を通って国籍を取得しても、信用を得るまでには長い年月と、多大な奉仕活動や社会的貢献を必要とします。

その信用は1年や2年で得られるものではなく、10年単位で考えなければならない事でしょう。

サムエル記の時代であっても、基本的には同じでしょう。

これから戦うヘブル人と同じヘブル人が連合軍の総大将の護衛に付いている、と言う状況は、不自然な事であり、疑問を抱くに充分な理由であったのです。

そこで、ペリシテ軍の首長たちは、アキシュに対して不審を表明したのですが、アキシュのダビデに対する信頼は確固たるものであり、ダビデは信頼に足る者であると力説し、ダビデを弁護します。

29:4 ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてほしい。あなたが指定した場所に帰し、私たちと一緒に戦いに行かせないでほしい。戦いの最中に、われわれに敵対する者となってはいけない。この男は、どのようにして自分の主君の好意を得るだろうか。ここにいる人たちの首を使わないだろうか。

29:5 この男は、皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌っていたダビデではないか。」

ダビデの顔を見た事はなくても、ダビデの勇気、働きの素晴らしさは津々浦々にまで届いています。

女、子どもの歌った「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」とのダビデへの讃歌は、遠くペリシテの人々にも届いていたのであり、ダビデとサウル王との確執の話しも、尾鰭を付けて、不正確ではあったにしてもペリシテ人に伝わっていたのであり、その憶測は、人々の興味を引きつける話題だったのではないでしょうか。

不正確故に、色々な憶測がなされ、ダビデがペリシテ人の領主の首を持っていくならば、ダビデとサウル王の和解は可能な事と考えられていた訳なのです。

何処の世界でも、何時の時代でも、裏切りはあるのであり、サムエル記第一1421節に「それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった」と記されているように、ペリシテ軍に味方するユダヤ人が寝返って、ペリシテ軍の敵になる事は想定に入れておかなければならない事なのです。

そもそもダビデとサウル王との確執は「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」に始りますが、このダビデの武勲を称える言葉が、サウル王には妬みとなり、ダビデとサウル王が袂を分かつ原因となったのであり、同じダビデの武勲を称える言葉が、ペリシテ人には、サウル王の喜びとなり、ダビデとサウル王の和解に繋がる、と考えた訳なのです。

一つの言葉が、同じ結果に至るとは限らない事を教えます。

聞く人の心の状態が、違う結果に行き着くのであり、それ故に、私たちは言葉を良く、深く吟味する必要がある事を肝に命じなければなりません。

表面的に、或いは自分の育った、教えられた価値観、世界観のみで判断するのではなく、内面的に、或いは違う考え方、他の価値観、世界観で判断する事も大切なのです。

何故ならば、私たちは地上に生きて信仰生活を送っていますが、天に国籍を持つ者であり、神様の考え方、神様の価値観、神様の世界観で考えなければならないのであり、その訓練を、地上の生活の中で行なわなければならないからなのです。

地上にいるから、この世の価値観、世界観で考えれば事足りる訳ではありません。

地上にいながら、天上の価値観、世界観で考える事、生きる事を通して、天での生活の訓練を、予行演習をするのであり、良く訓練された人は天で良い地歩を得る事が出来るのです。

言葉にも行動にも二面性、時には多面性がある事を覚えて、表面的な事に惑わされない歩みをして頂きたいと願うものです。

さて、

29:6 そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「【主】は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。あなたには陣営で、私と行動をともにしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。

29:7 だから今、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちが気に入らないことはしないでくれ。」

ダビデへの信頼と、領主たちの疑惑の板挟みになって、アキシュは苦渋の決断を表明します。

ダビデを信用、信頼していても、アキシュもペリシテ人であり、ペリシテ人の領主の反感を買う事は絶対に避けなければならず、ペリシテ人の領主の協力なくして戦う事は不可能です。

アキシュはダビデに最大限の賛辞と敬愛を込め、ダビデの不興を買う事のないよう言葉を選んで、説得を試みます。

それは、このイスラエル軍との戦いが終った後も、ダビデと友好関係を結んで置きたいからであり、力になってもらいたいとの腹積もりがあるからです。

そのアキシュの気持ちを察してか、ダビデは更にアキシュに取り入る言葉を発します。

29:8 ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」

29:9 アキシュはダビデに答えて言った。「私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが『彼はわれわれと一緒に戦いに行ってはならない』と言ったのだ。

29:10 さあ、一緒に来た自分の主君の家来たちと、明日の朝早く起きなさい。朝早く、明るくなり次第出発しなさい。」

ダビデとアキシュの言葉の遣り取りは、滑稽なほどです。

片や、ダビデの不興を買わないよう、原因を首長に転嫁し、低姿勢に徹し、片や、アキシュへの忠誠心を誇張し、参戦出来ない事を、この上ない恥辱だ、と表明するのです。

アキシュの保護を受け続けるために、信用と信頼を受けるために吐いた嘘は、その始めは、地名の嘘であり、アキシュの誤解を誘発するように仕組まれたものでしたが、今や、アキシュの敵、即ちサウル王を呪う意味の言葉となったのであり、イスラエル軍と戦えない事を残念だとの、即ち神様に弓引く事を是とする嘘を吐いているのであり、嘘はその吐き始めは小さく、時に他愛のないものであっても、どんどん大きく、悪質になっていくことを教えています。

アキシュがお人好しなのか、ダビデが巧妙なのかは分かりませんが、このエピソードは人間の自己本意さ、目的達成のためには、嘘でも何でも、迎合する言葉でも、恥じも外聞もなく行える事を記しています。

29:11 ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。

【適応】

ダビデは8節で遠まわしに自分の行動の、嘘の正当性を表明、断言したのであり、婉曲に神様を呪ったのであり、神様の軍を呪ったのです。

ダビデの生涯での最大の汚点と言っても過言ではないでしょう。

バテシェバとの姦淫も、ヘテ人ウリヤの暗殺も、イスラエルの人口調査も、大きな汚点であり、神様から叱責を受けましたが、神様を呪った訳ではありません。

しかし、今回のエピソードでは遠まわしではありますが、神様を呪ったのです。

自分を、自分と共にいる人々を守ると言う、大義名分があったにせよ、嘘で終始するダビデの行動は決して誉められた姿ではありません。

ダビデの虚偽は、自身の尊厳を地に落とすものであり、アキシュの信頼を裏切るものであり、神様の名誉を毀損するものとなってしまったのです。

嘘によって、アキシュの保護を受けると言うメリットがあったでしょうが、嘘によって被った損失は、デメリットは計り知れないのではないでしょうか。

神様を間接的にではあっても呪ってしまったのですから、サウル王のように、神様から見放されても、見捨てられても、敵となられても、何の弁解も出来ず、赦しを乞う余地も全くないのではないでしょうか。

しかし、神様は真実なお方であり、ご自身の発せられた言葉に対しても真実なお方であり、決して反故になさる事はないのです。

イエス様を知らないと言い張り、呪いをかけて誓ったペテロですが、イエス様のペテロに対する約束と使命は変わる事がありませんでした。

同じ様に、神様がダビデと交わした、ダビデをイスラエルの王にするとの約束は、ダビデの不真実に対しても、虚偽に対しても、何の影響を受ける事もなく、堅く立ち続けるのであり、神様の真実は、失敗を繰り返し、神様の期待に答えられなくても、変る事はないのです。

ダビデは嘘で身を守ろうとし、その嘘はある程度までは功を奏しました。

その嘘が、アキシュの信頼を得て、サウル王と、サウル軍と戦う事になったしまったのであり、引くに引けない窮地に陥ってしまったのでしたが、「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」との確信に立つダビデの信仰に神様は答えて下さり、サウル王と戦わなければならない立場から、戦線離脱への道を準備して、ペリシテ人の首長の不信を用いて、強制的に舞台から退場させて下さったのです。

しかし、ダビデはこの虚偽の後始末をしなけれなならなくなるのであり、それは次の機会に学ぶ事に致しましょう。

ダビデの虚偽に関らず、神様は真実に応えて下さいました。

だからと言って聖書は、虚偽を肯定し、嘘を奨励する事を教えているのではありません。

虚偽や嘘は極力避けなければなりませんが、人間の弱さから虚偽や嘘に頼ってしまう事があっても、神様は、神様に対する信仰を見られるのであり、言い換えれば、神様に対する恐れがあれば、人は決定的なミスを犯さないで済む様に導かれる事を教えているのではないでしょうか。

サウル王の失敗の真の原因は、神様よりも、人を恐れたのであり、自分の立場が侵される事を恐れた結果と言う事が出来るでしょう。

罪を指摘されても、民のせいにし、生贄を献げる為だと言い訳をし、預言者サムエルを従えての凱旋を演出しと、其処には神を恐れる姿は微塵もありません。

しかし、ダビデは失敗しながらも、根底には神様に対する恐れがあったのであり、神様に油を注がれた方として、サウル王に対して決して刃を向けなかったのであり、罪を指摘した預言者ナタンに対して「私は神様に対して罪を犯した」と告白し、頭を垂れたのではないでしょうか。

神様の遣わされた方、神様に油を注がれた方に対する尊敬や恐れは、神様に対する尊敬や恐れの現れであり、神様の遣わされた方、神様に油を注がれた方に対する不服従や侮りは、神様に対する不服従や侮りの現われである事を知らなければなりません。

ダビデはサウル王が立派であり、常に正しい判断、行動をする方だから敬い、恐れたのではありません。

サウル王が状況に左右されやすい、信用の出来ない人物であっても、ダビデはサウル王を神様の故に敬い、恐れたのであり、それを神様はダビデの「義」と認めて、最悪の状況に陥る前に、脱出の道に導いて下さったのです。

サウル王のように口で神様を恐れている、敬っている、と言うのは簡単ですが、ダビデの様に、どんな状況でも神様の遣わされる方を恐れる事こそ、神様を恐れる事の現われであり、神様に喜ばれる事なのです。

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