2024-1-7礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二1章8節から11節

説教題:「祈りの要請」

【導入】

ここに居られる皆様は、唯一真の神様、主イエス様に愛され、罪を贖われ、救われ、神の教会に導かれた人たちです。

この世に存在していますが、この世に属している訳ではありません。

この世の人々と似たような生活を送っていますが、根本が違います。

この世の人たちは、其々が、自分の考え、行動が正しいと信じ、自分が正しいと思う事を選択しますが、キリスト者は、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、従い、委ねます。

キリスト者は、主イエス様が負われた桁違いの犠牲に感謝し、艱難辛苦を厭わず、自ら進んで犠牲を払い、喜んで主イエス様に従うのです。

とは言え、教えられなければ、どのように従ったら良いのか分からず、基準が示されていなければ、其々が、自分の考えを基準に、自分が正しいと思う事を選択してしまいますし、其々の基準を主張したならば、混乱が生じてもしまいましょう。

そこで唯一真の神様、主イエス様は、キリスト者の行動基準、選択基準として聖書を提示してくださったのです。

これは、決して、唯一真の神様、主イエス様が示された行動基準に従わないと救われないのではなく、基準が示される事で、自分の状態を知る手掛かりとするのです。

基準は、他者との比較や自己満足を防ぐ手立てでもあり、健全な信仰生活を送るためのものでもあるのです。

神の教会に属する者には、この世とは大きく違った使命があります。

先に申し上げたように、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、従い、委ねる生き方を示す事ですが、それは、時に誤解が生じ、この世との軋轢を生み、攻撃や迫害に発展する事も少なくありません。

祈りの協力は必要不可欠です。

【本論】

新改訳2017 1:8 兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。

アジアで起こった私たちの苦難」に付いてですが、このコリント人への手紙や他の書簡などを読んでも、どのような苦難なのかを、具体的、確定的に示す事は出来ません。

非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした」と記されていますので、可能性として、コリント人への手紙第一1532節の「エペソで獣と戦った」事を指し示しているのかも知れませんが、定かではありません。

知らずにいてほしくありません」は、単なる報告ではなく、信仰に於ける艱難、苦難、試練、迫害に対する唯一真の神様、主イエス様からの慰め、励まし、救いを分かち合う目的を持っての記述であり、コリントの人たちには、まだ知らされていなかった最新情報の提供であり、共有の目的を持っての記述である、と云う事ですが、これは非常に重要です。

信仰に於ける艱難、苦難、試練、迫害に対する唯一真の神様、主イエス様からの慰め、励まし、救いの情報の共有は、6節、7節に記されているように、お互いの益のためであるのです。

直接の、具体的な祈祷課題の要請も有益ですが、状況をお知らせする事は、その情報から得た祈祷課題が一人一人に生まれるのであり、違った祈祷課題が生まれるのであり、より多角的な祈祷課題が献げられるのではないでしょうか。

艱難、苦難、試練、迫害に会わないように・・・と言う具体的な祈祷課題ではなく、このような艱難、苦難、試練、迫害に会った・・・との報告であるなら、対処する知恵が与えられるように、とか、忍耐が与えられるように、とか、助けが与えられるように、とか、状況が変わるように、とか、祈りにバリエーションが生まれるのではないでしょうか。

1:9 実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。

究極の祈りの要請は、「死刑の宣告を受けた思い」にならざるを得ないような状況でも、即ち、どんな艱難、苦難、試練、迫害に会っても、「私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるため」なのです。

自分たちの力や知恵や助け、立ち回りで事態を乗り越え、打開し、耐えるのではなく、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、委ね、従い続けるための執り成しの祈りの要請なのです。

使徒の働き1419節、「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」と、似たような状況が、アジアでも起こったのかも知れませんが、「死刑の宣告を受けた思い」にならざるを得ないような状況、絶体絶命の窮地、切羽詰って進退窮まった、と形容されるような状況に立たされてこそ、本当の意味で唯一真の神様、主イエス様に対する信仰、信頼が試されるのであり、委ねるか否かに、従うか否かに分かれるのであり、どんな状況に置かれても、即ち、死刑の宣告を受けた思い」にならざるを得ないような状況、絶体絶命の窮地、切羽詰って進退窮まった、と形容されるような状況は、唯一真の神様、主イエス様の恵み、慰め、励ましを体験出来る素晴らしい状況なのです。

1:10 神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。

将来の艱難、困難、試練、迫害に対して、唯一真の神様、主イエス様は「救い出してくださいます」と断言しますが、これは単なる願望では、希望的観測ではなく、過去に「大きな死の危険から私たちを救い出してくださ」った実績があるからであり、疑う余地の全く無い確信なのです。

更には、唯一真の神様、主イエス様の主権に対する絶対の服従があるからです。

ダニエル書316節、「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。

3:17 もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。

3:18 しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」

守ってくださるのも御旨、守ってくださらないのも御旨・・・なのです。

守ってくださるなら御旨と信じて従いますが、守ってくださらないなら考えさせて頂きます、ではないのです。

そして、重要になってくるのが、とりなしの祈りであり、祈りの要請です。

1:11 あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。

祈り手が多ければ多い程、祈りの通りになる訳ではありませんが、真摯な祈りを、唯一真の神様、主イエス様が聞き流される訳はありません。

ルカの福音書182節、「「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

18:3その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。

18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた、『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、

18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。』」。

18:6 主は言われた、「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。

18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。」

祈りを通して、唯一真の神様、主イエス様は、実に驚くべき事を行なってくださいます。

多くの人たち」と訳されているギリシャ語は、「多くの顔」と云う意味を持つギリシャ語です。

多くの人たち」の意味は、単に「大勢の人たち」の意味ではなく、署名のような個々人の主体的、自発的な、積極的な応答としての祈りであり、そのような祈りは、「神の教会」に相応しく、またキリスト者同士を堅く、強く結び付け、多くの人が祈りに加わる事により、唯一真の神様、主イエス様の救い、恵みに与り、その事によって、多くの人たちが唯一真の神様、主イエス様に感謝と讃美を献げるようになるのです。

祈りは個人的な活動であり、働きですが、神の教会を一致させる秘訣であり、問題に立ち向かい、解決に誘う大きな力を秘めた働きなのです。

【適応】

「祈りの要請」の目的は何でしょうか。

情報の共有、祈祷課題の共有、キリスト者の霊的一致、云々・・・。

お互いの励みになり、艱難、苦難、試練、迫害を乗り越える大きな力、助けになる事でしょう。

それらは、前回、また今回学んだ通りです。

これらの効用は勿論の事であり、また、祈りが現実化するのは、喜ばしい事です。

病気の治癒、問題の解決、事態の好転、云々・・・。

それ以上に重要なのは、「1:11 あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。

私たちの行動は、全て、神の栄光を現す事に繋がらなければなりません。

神への感謝に帰着しなければなりません。

そしてこの世に対して証しをしていかなければなりません。

神社仏閣への参拝者は、祈願成就の際には御礼参りを致しますが、キリスト者は、神に感謝すると同時に、信者に対しても、未信者に対しても、証しをし、広く神の栄光を現さなければならないのです。

日本同盟基督教団では、「祈りのネットワーク」なる冊子を配布しています。

年度の後半に入ると、祈祷課題の一部は過去のものになってしまっていますが、250余の教会で用いられ、多くの信徒たちによって祈られています。

これは日本同盟基督教団にとって、本当に大きな力となっているのではないでしょうか。

祈祷課題の達成云々も大切ですが、祈祷課題をオープンし、共有し250余の教会が祈る事の重要性は計り知れません。

祈りの要請は、巡り巡って神讃美、神の栄光を現す事に繋がっているのです。

祈りの要請がなければ、一部の人たちしか、神讃美、神の栄光を現す事に関われませんが、祈りの要請が広がれば広がるほど、多くの人たちが神讃美、神の栄光を現す事に関わるのです。

勿論、祈祷課題によっては、クローズされた仲間内で祈る事もあるでしょうし、ご自身の信条によって祈祷課題をオープンにしない人もいるでしょうが、どのような形態の祈りであっても、祈りの終着は、神讃美であり、神の栄光を現す事です。

祈祷課題を受けて、一人で祈る祈りも祈りであり、数人のグループで祈る祈りも祈りであり、大勢で祈る祈りも祈りです。

一人ずつ順番に祈る祈りも祈りであり、全員が一斉に祈る祈りも祈りです。

声に出す祈りも祈りであり、心の中での祈りも祈りです。

祈祷課題を聞いて祈る事、知り得た情報で祈る事が大切であり、内容よりも、方法よりも、もっと大事、大切なのは、祈りは人に聞かせる性質のモノではなく、神様に聴いて頂くモノであり、神様と交わるためのモノだと言う事です。

神様に向って祈るのであり、神様を信じて祈るのであり、神様を信頼して祈るのであり、神様に委ねて祈るのです。

神様は、この世には、働き手が少ないと嘆いておられますが、祈りの担い手、働き手となって、神と交わり、神を賛美し、神の栄光を現す一人として歩んで行きたいものです。

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                                       2024-1-14礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二1章12節から14節

説教題:「誇りとするもの」

ここに居られる皆様は、唯一真の神様、主イエス様に選ばれ、召し出され、神の教会に導かれた人たちです。

と言うよりも、全ての人が唯一真の神様、主イエス様に選ばれ、召し出されているのですが、殆どの人たちは、唯一真の神様、主イエス様の選び、召し出しに応答していないだけ、と言う事が出来ましょう。

そこで唯一真の神様、主イエス様は、継続的に使徒や伝道者、牧師を送ってくださいますが、世の人々は唯一真の神様、主イエス様が送ってくださった使徒たちや伝道者たち、牧師たちを無視し、迫害し、追い出したのです。

それでも、唯一真の神様、主イエス様は、使徒や伝道者、牧師を送り続け、教会を建て、福音宣教の働きを担う組織を立て上げ、福音宣教の働きが途絶えない様にしてくださっているのです。

福音宣教の働きを担う使徒たちや伝道者たち、牧師たち、教会や組織の存在は貴重であり、尊敬に値しますが、使徒や伝道者、牧師、教会や組織は、福音宣教の働きを担う道具であり、褒め称えられるのは唯一真の神様、主イエス様です。

また、個々のキリスト者も、唯一真の神様、主イエス様に選ばれ、召し出されましたが、私たちは罪深い者であり、役に立つ訳でもなく、有用である訳でもなく、秀でている訳でもなく、唯々、唯一真の神様、主イエス様の一方的な恵みの結果、贖われ、救われたのであり、褒め称えられるのは唯一真の神様、主イエス様です。

ある人たちはパウロを誇り、アポロを誇り、ケファを誇りました。

私たちは所属する教団を誇り、組織を誇り、教会を誇り、民族を誇り、血統、血筋を誇り、出自を誇り、氏来歴を誇り、学歴を誇りますが、そこにどれだけの価値があるのでしょうか。

この世ではそれ相応の賞賛や尊敬を受けるかも知れませんが、問題は唯一真の神様、主イエス様の目に価値あるものか否かです。

パウロが誇りとするものを見て行きましょう。

【本論】

新改訳2017 1:12 私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。

パウロたち、使徒たち、伝道者たち、教師たちの「誇りとすること」は、成果ではありません。

建て上げた教会の数ではなく、教会の大きさでも、歴史の長さでもなく、導いた信徒の数でもなく、排出した献身者の数でもなく、キリスト教界に対する貢献度でもなく、世に対する影響力の大きさでもありません。

仲間の信者の存在でもなく、ましてや自分自身でもありません。

パウロたち、使徒たち、伝道者たち、教師たちの「誇りとすること」は、「神から来る純真さと誠実さ」、即ち、唯一真の神様、主イエス様の恵みに応答して、信仰と信頼、従順を旨として行動して来た事、肉的な知恵」、即ち、人間的な術策、工作、根回し、忖度などに頼らなかった事、「神の恵みによって行動してきた」、即ち、唯一真の神様、主イエス様に委ねて来た事を誇りとする、と断じるのです。

しかも、これらすら、自分の知恵や力、忍耐や努力の結果ではなく、「神の恵み」だと断じるのです。

罪人である私たちは、些細な事でも、本当に取るに足りないような事でも、自慢し、誇りますが、其処にどれ程の価値があるというのでしょうか。

肉的な知恵」、この世では価値があり、有益ですが、唯一真の神様、主イエス様の主権に逆らうものであり、唯一真の神様、主イエス様に頼らず、自力で生きて行こうとする知恵であり、

唯一真の神様、主イエス様に対抗し、自力で何でも出来る、するという考え方、生き方です。

こんな立ち振る舞い、行動は不信仰であり、何時か破綻しますし、ボロが出ますし、何より、唯一真の神様、主イエス様の嫌われるところです。

パウロは、常に、一貫して神の恵みによって行動してきた」と断じますが、その背景には、パウロに対する非難があったからです。

何処にでも、何時でも、必ず反対者がいるものですが、コリント教会にもパウロの「純真さと誠実さ」、そして働きの正当性を疑う人たちがいて、パウロを公然と、また陰日向で非難したのです。

パウロは人々の気を引こうとの魂胆から、口から出まかせを言っている、二枚舌を使っている、人々に取り入ろうとして都合の良い事ばかりを並べ立て、不都合な事、厳しい教えは隠している、勝手に使徒を名乗っている、離れていると強気だが、実際のパウロは弱々しい、頼りない・・・云々と。

そんな批判は意にも介さず、パウロは唯一真の神様、主イエス様に召し出され、支えられ、導かれ、遣わされて来たのであり、これこそが誇りとすること」だ、と断じるのです。

パウロの言動に、功名心や自己顕示がちらつく事は一切ありませんでしたが、疑えば何でも怪しく見えるものであり、疑い深い人は、人を疑う傾向が強く、疚しい考えを持つ人は、人の言動に疚しさを感じ取り、意地悪な人は、人の言動に意地悪さを感じるのではないでしょうか。

純真・・・誠実」な人は、パウロの行動が「純真・・・誠実」である事を見抜き、パウロの教えに従い、パウロを支持し、支援したのです。

1:1314 私たちは、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。あなたがたは、私たちについてすでにある程度理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。

パウロら使徒たちや伝道者たち、牧師たちは、難しい事を伝えたのではありません。

権威付けの目的のために、箔を付ける目的のために、難しいことばを使用しなかった、「あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません」、と云うのです。

当時は貧富の差が大きく、結果、学力の差も大きく、識字率も相当低かった時代です。

教会に集う人たちの中には、読み書きの出来ない人たちも多くいた事でしょう。

パウロら知識層にとっては読むに何らの支障のない書簡あっても、一般人にとっては読む事すら出来ないのが普通であった時代にあって、パウロらは、平易なことばで手紙を書く事を旨としたのです。

コリント人への手紙第一1419節、「しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。

まあ、「五つのことば」は誇張表現ではありましょうが、その位の配慮をした、と言うのです。

勿論、どの言語にも、意味の異なる、似た様なことばがありますので、言い方を変え、日本語では漢字を使うなどして誤解のないように、意味を明確にする必要のために、難しい漢字やことばを使う事もありましょうが、基本は簡易、平易な言葉を使って、子どもでも解るように、であり、パウロらはそれを実践して来たのです。

そして、先にお話しましたが、パウロの「純真さと誠実さ」、働きの正当性を疑う人たちに対する反論、説明にもなっているのです。

私たちは一度聞いて、聞いた事を全て理解出来る訳ではありません。

メモでも取らない限り、話半分であり、理解ともなると、個人差が大きく、勘違いもあり、思い込みもあり、端から受け付けない事、拒絶する事もありましょうから、伝えたい事がどれだけ伝わったか、不安になりますが、それでも先入観を捨て、心を柔らかくし、先ずは受け入れる事が重要です。

そして、「ある程度理解している」処で満足して留まらずに、その理解したところに立って、更なる理解の足掛り、手掛かりにし、「完全に理解してくれるものと期待しています」。

完全」は、「真意を正しく」の意味であり、一般的な理解ではなく、この世的な理解でもなく、唯一真の神様、主イエス様の御旨を汲み取り、受け入れるのです。

しかし、これは中々に難しい事です。

罪があり、強固な自我を持っているからです。

それでも、強く願うなら、唯一真の神様、主イエス様は助け手を送ってくださいます。

主イエスの日」は、唯一真の神の御子、主イエス様が、この世に再び来られる日であり、世の終わり、最後の審判の日であり、万物の裁き主である主イエス様による、公正な裁きが行なわれる日なのです。

その裁判に際し、有益なのは、教団や組織ではなく、教会でもなく、民族でもなく、血統や血筋でもなく、出自、氏来歴でもなく、学歴でもなく、建て上げた教会の数でもなく、教会の大きさでも、歴史の長さでもなく、導いた信徒の数でもなく、排出した献身者の数でもなく、キリスト教界に対する貢献度でもなく、世に対する影響力の大きさでもありません。

唯々、「神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきた」事しかありません。

そのように行動出来たのも、また、唯一真の神様、主イエス様の恵みであり、憐れみなのです。

唯一真の神様、主イエス様の恵みと憐れみを受けた者を誇るのであり、それによって唯一真の神様、主イエス様が褒め称えられ、栄光をお受けになられるからです。

あなたがたが私たちの誇り」、「私たちもあなたがたの誇り」は、人を誇る意味ではありません。

唯一真の神様、主イエス様を誇りとする生き方をする者の存在が誇りだ、と言うのです。

【適応】

「誇りとするもの」は、私たちの外にも、内にもありません。

この世のものは、私たちの外のモノであれ、私たち自身であれ、全て造られたモノであり、

私たちの命であれ、生まれながら持つ機能であれ、獲得した能力であれ、与えられたモノであり、預かったモノでしかありません。

与えられたもの、預かったものは、どんな素晴らしいものでも、本来の、本当の持ち主ではないのですから、何時か返さなければならないのです。

この世のものは誇りにはならず、誰も誇れるものを持ってはいないのです。

コリント人への手紙第一127節、「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

1:28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

1:29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。

1:30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

そして更に重要なのは、唯一真の神様、主イエス様を誇る根拠となっているのは、何の価値もなく、役に立たない者であるのに、唯一真の神様、主イエス様に見出され、一方的な選びに与り、恵みと憐れみを受けている、恵みと憐れみを受ける資格も権利もないのに、無限の恵みと憐れみを受けている、と言う事です。

選ばれた、恵みと憐れみを受けた自分たちを誇るのではなく、選んでくださった、恵みと憐れみを与えたもう唯一真の神様、主イエス様を誇るのであり、この世のもの、滅びていくもの、朽ちていくもの、廃れ行くものを誇ってはなりません。

無限、永遠、不変のお方、何にも影響を受けないお方に知られている事、選ばれている事、そして恵みと憐れみを受けている事を誇るのであり、そんな存在である事は、掛け替えのない恵み、憐れみなのです。

誇るべきものを正しく認識し、実践する事は、揺ぎ無い信仰の確立に繋がる大切な事なのです。

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                                       2024-1-21

聖書箇所:コリント人への手紙第二1章15節から22節

説教題:「神の真実」

【導入】

前回の礼拝では「誇りとするもの」について学びました。

私たちにとって誇るべき存在は、唯一真の神様、主イエス様だけである事を確認しました。

お世話になった先生や信徒を誇るのではなく、所属する教会や教団を誇るのでもありません。

勿論、自分の信仰や能力、働きや奉仕、信仰を持っている事などを誇るのでもありません。

私たちは唯一真の神様、主イエス様だけを誇るのであり、誇る根拠となっているのは、私たちは罪人であり、特別に秀でた者ではなく、大した価値もなく、思うほどに役に立つ者ではないのに、唯一真の神様、主イエス様に見出され、一方的な選びに与り、恵みと憐れみを受けている、恵みと憐れみを受ける資格も権利もないのに、無限の恵みと憐れみを受けている、と言う事でした。

恵みと憐れみを受けるとは、救われる、と言う事でもあり、贖われ、罪を赦され、永遠のいのちが与えられ、御国に招かれてもいるのです。

この唯一真の神様、主イエス様の選び、与えられた一連の恵みと憐れみは、唯一真の神様、主イエス様の気まぐれ、思い付き、一時の迷い、ではありません。

一定期間の実績や成し得た功績によって与えられる訳ではなく、何時か、何かの役に立つかもしれないからとの期待や可能性に賭けた訳でもありません。

旧約聖書に記されている通りであり、始めからのご計画であり、お約束です。

唯一真の神様、主イエス様は誠実なお方であり、真実なお方であり、約束を反故にする事は無く、計画を変更される事も無く、人間を救う、と言うご計画は着々と進められ、お約束は粛々と遂行されているのです。

この揺ぎ無い、疑いようのないお約束、ご計画が与えられているので、私たちは安心して、不安を抱かず、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、お委ねし、お従いするのです。

【本論】

新改訳2017 1:15 この確信をもって、私はまずあなたがたのところを訪れて、あなたがたが恵みを二度得られるようにと計画しました。

1:16 すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニアに赴き、そしてマケドニアから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。

私たちは、唯一真の神様、主イエス様のお約束、ご計画に対する信頼を根拠として、与えられた能力を活用し、様々なチャンスを活かして、唯一真の神様、主イエス様を知らない人たちに、唯一真の神様、主イエス様に造られた者の選ぶべき生き方を、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、委ね、従う生き方の素晴らしさを現して生きるのです。

私たちの言動は、常に唯一真の神様、主イエス様を証しし、喜ぶ生き方の実践です。

コリント人への手紙第一1031節、「こういうわけで、あなたがた、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」、です。

パウロのような伝道を目的とした旅行でなくて、個人的な旅行でも、年末年始や春、ゴールデンウィーク、夏、秋の休暇、帰省なども、静養やリフレッシュも重要な目的ですが、のみならず、日程に余裕を持ち、教会を訪ねたり、信仰の友を訪ねたり、或いは、出会う人たちとの交流を通して、唯一真の神様、主イエス様に造られた者の選ぶべき生き方を、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、委ね、従う生き方の素晴らしさを現すのです。

コリント人への手紙第一16章7節、「私は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています」であり、パウロの計画は、思い付きではなく、ついでにでもなく、計画を立てる段階の当初から、常に唯一真の神様、主イエス様の導きに従う事を第一として来たのです。

1:17 このように願った私は軽率だったのでしょうか。それとも、私が計画することは人間的な計画であって、そのため私には、「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。

パウロは、今「はい、はい」と肯定したかと思う間もなく、「いいえ、いいえ」と否定するような、気まぐれな、その時の思い付き、気分次第でコロコロと考えや意見を変えるような事をした事はありません。

パウロの計画は、「軽率」どころか、慎重であり、常に唯一真の神様、主イエス様の許しと導きに従って来たのです。

1:18 神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。

パウロは、自身のことばの真実性の根拠を唯一真の神の御子、主イエス様に置いています。

1:19 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。

唯一真の神様、主イエス様は、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません」。

唯一真の神様、主イエス様は、昨日も今日も、何時までも変わる事はありません。

唯一真の神様、主イエス様は、罪人は厳しく裁くお方であり、しかし、主イエス様の贖いを信じた者は完璧に赦すお方であり、唯一真の神様、主イエス様が「はい」と肯定したならば、未来永劫、覆る事はなく、唯一真の神様、主イエス様が「いいえ」と否定したならば、未来永劫、覆る事はありません。

唯一真の神様、主イエス様は、真実そのもののお方なのであり、心変わりも、ご計画やお約束の変更も破棄も、一切ありません。

1:20 神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

唯一真の「神の約束」は、「この方において」、即ち、主イエス様において「「はい」となりました」。

お約束、ご計画の立案者は、唯一真の神様であり、実行者は、主イエス様であり、主イエス様は、真実、誠実な方であり、唯一真の神様のお約束、ご計画を正確、且つ、完全に執行されるのです。

アーメン」は、「本当にその通りです」を意味することばであり、神様への信頼と神の約束の確かさを表明し、賛同する時に使われることばです。

責任と従順を伴う表明、宣言であり、結果、「神に栄光を帰する」事になるのです。

1:21 私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。

」は、「聖霊、御霊」の意味であり、「油を注がれた」事により、「」は「私たち」と「あなたがた」を「キリスト」イエス様に結び付け、「堅く保ち」続けてくださるのです。

この事も、唯一真の神様のお約束、ご計画であり、反故になる事も、変更される事も一切ないのです。

1:22 神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。

証印を押し」は、契約成立の意味であり、何の契約かと言えば、「神の国を受け継ぐ、神の国の民となる、神の国に入る」契約です。

その契約成立の「保証」として、「御霊を私たちの心に与えてくださいました」であり、聖霊の内住の意味です。

保証」は、脚注に記されているように「手付金」の意味なのであり、手付金が支払われているので、契約は確実に成立しており、変更される事も、反故になる事もないと断言できるのです。

【適応】

唯一真の神様のお約束、ご計画は、唯一真の神様自らが立案されたお約束、ご計画であり、その信頼性、絶対性は揺るぎ無く、何人たりとも変更する事も、反故にする事も出来ません。

唯一真の神様のお約束であり、それだけで絶対の確実性があるのであり、保証」する必要性は皆無なのですが、唯一真の神様は、敢えて、わざわざ、「保証として御霊を私たちの心に与えてくださ」ったのです。

保証」は「手付金」と訳す事も出来ますが、その実質的な意味は「人質」です。

唯一真の神様は、手付金、人質を差し出して迄も、お約束、ご計画の確かな事を保証」してくださっているのです。

これ程迄に念を入れるのは、誰一人として、唯一真の神様のお約束、ご計画を疑い、救いに漏れる者、信仰から離れる者が生まれないようにとの配慮からです。

そしてパウロがこれ程迄に熱く語るのは、パウロへの誤解が、パウロが伝えている唯一真の神様、主イエス様への誤解や疑いに繋がり、唯一真の神様、主イエス様のお約束、ご計画が疑われるようになってはならないからです。

唯一真の神様の真実が疑われてはならないからです。

人間は、真実に行動しても、誰しもが罪を持つ身であり、誤解が生じ、真実が疑われ、真意を汲み取れず、更なる誤解が生まれ、修復不可能な状態にまで発展しかねません。

それは、唯一真の神様に対しても、起こり得る事です。

唯一真の神様は真実なお方ですが、私たちは罪を持つ身であり、色眼鏡で唯一真の神様、主イエス様を見てしまい、先入観、固定観念で判断してしまうのです。

世の中は、嘘で満ち、嘘が横行し、騙される方が悪い、と言うような風潮であり、真実は追いやられてしまっていますが、しかし、唯一真の神様、主イエス様は真実なお方です。

テモテの手紙第二213節、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。

常に」は、不変、無限の意味であり、何の、誰の影響も受けず、真実であり続けられるお方であり、真実なお方のお約束であり、ご計画なので、信じて間違いはないのです。

私たちは罪人であり、特別に秀でた者ではなく、大した価値もなく、思うほどに役に立つ者ではないのに、恵みと憐れみを受ける資格も権利もないのに、唯一真の神様、主イエス様に見出され、一方的な選びに与り、無限の恵みと憐れみを受けているのであり、これが覆る事は、反故になる事は絶対にないのです。

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                                       2024-1-28礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二1章23節から2章4節

説教題:「思いやり」

【導入】

前回の礼拝では「神の真実」について学びました。

唯一真の神様、主イエス様の真実は疑いようもありませんが、唯一真の神様、主イエス様を証しする使命を担った使徒、伝道者、教師の言動は、また、クリスチャンの言動は、罪を持つ人間の言動は、決して疑いようのないようなものばかりではありません。

生まれも育ちも、知識も経験も、考え方も受け止め方も違いますから、誤解が生じるのは、仕方がない事であるかも知れませんが、極力、神様の真実を疑わせる様な言動は厳に慎まなければなりません。

パウロは常に、何処ででも、真実な言動を心掛けて来ましたが、パウロとコリント教会との関係は、決して良好とは言えなかったようです。

パウロに対する非難があり、パウロに反対する人たちの影響力は決して侮れないものだったようです。

パウロが熱く語るのは、パウロへの誤解が、パウロが伝えている唯一真の神様、主イエス様への誤解や疑いに繋がり、唯一真の神様の真実、お約束、罪人の救いのご計画、主イエス様の贖い、復活などの信憑性が疑われてはならないからです。

そこで、パウロは、パウロに対する非難、軽率であるとか、不誠実であるとか、口先だけであるとかの非難に対して、反論をしますが、其処にも、パウロらしい配慮のある反論がなされます。

【本論】

新改訳2017 1:23 私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。

自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います」と言い切っているのは、ちょっと大げさな、穏やかではない言いようですが、パウロのコリント訪問計画の変更に対しての非難を、非常に重く、深刻に受け止めていたからです。

訪問計画変更の理由は、意外な理由であり、「あなたがたへの思いやりからです」と言います。

パウロ自身の都合であるとか、健康の問題であるとか、今、滞在している地で問題が起こっていて手を離せない、旅に出られないのではありません。

23節に「あの手紙」とありますが、「あの手紙」は、コリント教会の兄弟姉妹たちに宛てて、涙ながらに書き記した、コリント教会の問題点を厳しく叱責する内容であったようです。

それを考えるなら、直ぐにでもコリントへ出向いて、コリント教会の問題点を叱責、追及するのが順当な行動でしょうが、パウロが「コリントへ行かないでいる」その理由は、コリント教会の兄弟姉妹たちに対する「思いやりから」であり、コリント教会の兄弟姉妹たちに悔い改める機会を与えるための配慮なのだ、と言う事です。

コリント人への手紙第一421節、「あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか」であり、ペテロの手紙第二39節に、「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」、と記されていますが、パウロは主イエス様の思いと同じになって、コリント教会の兄弟姉妹たちが悔い改める事を強く望んでいるのです。

1:24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。

パウロは、コリント教会に対して指導的立場にあり、叱責したり、罰したり、処分する権限を有する使徒ですが、その権限は主イエス様から委ねられたものであり、支配権を有する訳ではありません。

パウロの気分や勝手な判断で罰したり、処分したりする事は出来ないのです。

パウロはコリント教会の兄弟姉妹たちの「喜びのために」、主イエス様に「協力して働く者」なのです。

パウロもコリント教会の兄弟姉妹たちも、同じ主イエス様に対する「信仰に堅く立っている」者同士であり、御ことばにのみ従う者同士であり、支配関係、主従関係ではないのです。

パウロは、使徒は、伝道者は、教師は、主イエス様から遣わされて御ことばを宣べ伝える働き人であり、その働きは、支配ではなく、指導であり、注意であり、警告であり、悔い改めの促しです。

2:1 そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。

パウロが「コリントへ行かないでいる」その理由は、コリント教会の兄弟姉妹たちを「悲しませる訪問は二度としない、と決心」したからだ、と言います。

この記述からパウロは以前、コリント教会の兄弟姉妹たちを「悲しませる訪問」をしたのでしょう。

それはコリント教会の兄弟姉妹たちにとってもパウロにとっても苦い思い出となったようであり、不本意な事であり、同じ事を繰り返したくはなく、直ぐにでも訪問したい気持ちを抑えて、「コリントへ行かないでいる」のです。

コリント教会の訪問に限らず、何処を訪問するにも、叱責などのためではなく、「喜びのために」訪問したいものです。

2:2 もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。

パウロは、コリント教会の兄弟姉妹たちを強く叱責し、注意をし、指導をしたのでしょうが、それはパウロがコリント教会の兄弟姉妹たちを本当に強く、深く愛し、常に気に掛けていたからであり、コリント教会の兄弟姉妹たちが悔い改めたなら、その喜びは非常に大きなものとなる事でしょう。

パウロは、各地の教会の事を気に掛けていましたが、他の教会の喜びでコリント教会の悲しみを埋め合わせる事は出来ません。

逆に他の教会の悲しみをコリント教会の喜びで埋め合わせる事も出来ません。

パウロの願いは、各地の教会が喜びで満たされ、それが励みとなって益々喜びで満たされるようになる事です。

ある教会の喜びは、各地の教会に励ましを与え、喜びを与え、喜びや励ましは伝播、伝染して行くのです。

2:3 あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。

あの手紙」は、コリント人への手紙第一の事ではなく、勿論、このコリント人への手紙第二の事でもなく、第一と第二の間の手紙であり、4節に「涙ながらにあなたがたに手紙を書きました」と記されているところから、「涙の手紙」と呼ばれていますが、その全部が散逸してしまい、その内容は不明ですが、パウロがどれ程コリント教会の事を思っているかを現した名前です。

パウロの喜びとなるものは、兄弟姉妹たちが仲良くやっているとか、信徒の数が増えたとか、立派な教会堂が建ったとか、一生懸命奉仕をしているとか、たくさん献げているとかではありません。

信徒一人一人が、唯一真の神様、主イエス様としっかり結び付いている事であり、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、委ね、従っている事です。

唯一真の神様、主イエス様を知らない世界に、唯一真の神様、主イエス様を信じ、信頼し、委ね、従う事の素晴らしさ、喜びを証ししていく事です。

信徒一人一人が信仰の勇士として、歩む事です。

それは、唯一真の神様、主イエス様の願いであり、喜びであり、全ての使徒、伝道者、教師の願いであり、喜びなのです。

2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。

パウロの伝道は、実に「涙ながら」の伝道でした。

使徒の働き2019節、「私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。

同じく2031節、「ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けて来たことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

パウロは、軽率であるとか、不誠実であるとか、口先だけであるとかの非難を受けましたが、パウロは全生存を掛けて、伝道に取り組んできたのです。

パウロの伝道の動機は、相手に対する愛のみであり、悲しみを与える結果となってしまった手紙も、コリント教会の兄弟姉妹たちに対する愛のみであり、支配する気持ち、もてはやされたい気持ちなど全く無かった、と断言するのです。

人の評価を気にするようでは、本当の伝道は出来ません。

唯一真の神様、主イエス様の遣わしたもう使徒、伝道者、教師は、唯一真の神様、主イエス様の御旨のみを気にして行動するのです。

コリント教会の兄弟姉妹たちに対する愛は、「あふれるばかりの愛」であり、それは、唯一真の神様、主イエス様の救いに洩れて欲しくはないからであり、それゆえに、時に厳しい事も伝えなければならないのです。

【適応】

「思いやり」は、遠慮とか、見ぬ振りとか、当たり障りの無い、消極的な対応ではありません。

心配だからと押しかけるのではなく、心配しつつも、暫く距離を置き、見守るのであり、

まどろっこしいからといって、見ていられないからといって、手を出し、注意するのではなく、任せるのです。

ケースバイケースでしょうが、パウロのコリント教会に対する思いやりは、コリントへ行かないでいる」事であり、それは、コリント教会の兄弟姉妹たちに悔い改める機会を与えるための配慮なのだ、と言います。

思いやりのもう一つは、コリント教会の兄弟姉妹たちを「悲しませる訪問は二度としない、と決心」したからだ、と言います。

先に紹介しましたが、コリント人への手紙第一421節、「あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか」であり、ペテロの手紙第二39節に、「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。

人と人との出会いは、一期一会であり、貴重な事であり、有益な時としたいのも当然ですが、闇雲に会えば良い、と云うものではありません。

出会いの時、タイミング、状況などを慎重に見極め、出会いが喜びとなるように工夫、配慮するのは、何にも勝る思いやりです。

注意は、する方も、される方も、あまり気持ちの良いものではありません。

関係を悪くする事が多いのですが、それでも言わなければ、責任を問われます。

エゼキエル書317節、「「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

3:18 わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:19 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪とその悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。

3:20 また、正しい人がその正しい行ないをやめて不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。あなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のゆえに死ぬ。彼が行った正しい行いは覚えられない。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:21 しかし、もしあなたその正しい人に、罪を犯さないように警告を与え、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を聞いたのであるから、彼は必ず生き、あなたも自分のいのちを救うことになる。」

悔い改めのチャンスは、そう何度も訪れませんが、少ないチャンスを生かす配慮が思いやりです。

唯一真の神様、主イエス様の御旨は、全ての人が悔い改めて救われる事ですが、その御旨を我が思いとし、最優先させつつも、御旨を相手にお届けする工夫、配慮、行動が、思いやりなのです。

自分のしたい事、正しいと思う事をするのではなく、押し付けるのではなく、無理強いするのでもなく、相手のための最善を選ぶのが思いやりです。

そのような思いやりの思いも唯一真の神様、主イエス様から与えられ、キリスト者は罪の世に遣わされるのです。

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