2024-2-4礼拝

聖書個所:サムエル記第一 30章7節から20節

説教題:「憐れみ」

【導入】

「他に道はない」と判断し、敵国ペリシテ人の王アキシュに助けを求めてしまったダビデ。

このダビデの決断、行動を、私たちは愚かだと笑う事も非難する事も出来ません。

何故ならば、ダビデなりに考えた挙句に下した苦渋の決断であり、行動であるからですし、私たちもダビデと同じような判断と、行動を取っているからに他ないからなのです。

当事者と第三者とでは、その決断、判断に雲泥の差が生じましょう。

第三者は情報を客観的に見る事が出来、従って冷静な判断が出来るからです。

しかし、当事者にとっては切迫している状況の中で、限られた情報で判断しなければならず、我が身に直接関る事ですから判断が鈍り、迷うのが当然です。

当事者でありながら、迷いもなく正しく決断、行動出来ればそれは素晴らしい事ですが、中々そうは参りません。

当事者であろうと第三者であろうと、クリスチャンなら唯一真の神様に委ねて、神様の導きにしたがって判断し、行動するのが理想かも知れませんが、悩んだ挙句に神様に委ね切る事も出来ずに、人間的な判断、苦し紛れの行動を取ってしまう事が多いのではないでしょうか。

そもそも迷う事自体が唯一真の神様から離れている事の現われであり、自分が中心になっている証拠なのですが、当事者はその事に気が付かず、神様に従っていると思いつつ、神様から離れて行ってしまっているのではないでしょうか。

唯一真の神様から離れれば離れるほど、自分に頼らざるを得なくなり、益々神様から離れる悪循環に陥ってしまい、それは物理的にも、精神的にも神様から離れ、神様との交わりが断たれ、律法にもとる行動を取るに至るのです。

ダビデは敵国での生活を自ら選んでしまった結果、偽りの行動と、嘘の報告をしなければならず、その嘘はアキシュを信用させ、アキシュの信頼を得て、アキシュの護衛を任されるに至ってしまったのです。

そして、大切な家族を置いて、アキシュと共にイスラエル軍と戦うために出陣しなければならなくなり、家族を三日間も無防備な状態に晒す事になってしまったのでした。

そして、留守にした間に、アマレク人がツィクラグを襲い、家族も財産も家畜もことごとく奪い去ってしまったのです。

略奪、強奪には殺生が付き物です。

強盗に入られた時、家人は騒ぎ、抵抗するのが普通でしょう。

しかし、強盗にとってそれは不都合であり、騒ぐ者は、抵抗する者は殺すのが常道です。

しかし、ツィクラグでは一人の死者も出なかったのであり、ここに唯一真の神様の守りがあった事を、神様の誠実さを、ダビデは知ったのではないでしょうか。

一度は唯一真の神様への信頼を忘れて、人に頼ってしまったダビデですが、家族を奪われ、人々の非難を浴びた時、神様との正しい関係に立ち帰ったダビデは新たな訓練を受ける事になるのです。

【本論】

サウル王との関係で、抜き差しならぬ状況に陥った時、唯一真の神様に判断を仰がず、ペリシテ人に頼ってしまったダビデでしたが、今回は、即座に神様に判断を仰ぎます。

30:7 ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。

30:8 ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

祭司エブヤタルは、サウル王が皆殺しにしたアヒメレク一族の生き残りであり、ダビデの下に逃げて来て、保護を求め、ダビデもアヒメレク一族に降りかかった災難に責任を感じ、保護し、行動を共にして来ました。

祭司と預言者は、その働きは違っていて、祭司は主に祭儀を司る者であり、預言者のように積極的な助言や諫言はしなかったようです。

祭司エブヤタルは、唯一真の神様からの託宣を取り次いだり、語ったりする事はなく、「エポデ」と言う祭服の管理者として登場します。

「エポデ」は、元来は腰に巻くような形状のモノでありましたが、時代と共に変化し、祭司の装束全体を表すようになっていきます。

ダビデの時代の「エポデ」がどのような形状の物であったのか、どのような用い方をしたのか分かりませんが、身に付けたり、その上に座ったりして、唯一真の神様と交わり、託宣を受けたようです。

ダビデは預言者ではありませんが、預言者的な働きもした人であり、唯一真の神様の前に立って、神様に伺い、神様からお答を受ける働きをしたのです。

それは詩篇を読んで分かる通りに、私たちに唯一真の神様の素晴らしさ、恵み深さ、偉大さを教え、神様の下に導くモノである事からも明かです。

ダビデの唯一真の神様への「追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」との問いに対して、神様からダビデへのお答えは「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」と言う答えでした。

人間的に考えれば、家族が拉致され、財産、家畜が奪われ、町や家が焼かれたのですから、唯一真の神様に伺うまでもなく、救出、奪還、報復に向かうのが当然です。

しかし、唯一真の神様との関係が回復したダビデは、当然の事に対しても神様に伺いを立てたのです。

ここに、ダビデの、唯一真の神様への絶対服従の姿勢が描かれている事を読み取らなければなりません。

ダビデの問いに対して、唯一真の神様の答えは「追うな、追いつけない、救い出せない」或いは「追ってはならないな、追いついてはならない、救い出してはならない」と言う答えであったかも知れません。

でも、ダビデはその答にも従う用意があったのであり、覚悟をしていたのではないでしょうか。

それは最善の策と考えて、アキシュに助けを求めても、本心を偽らざるを得ない行動を取らなければならず、大切な家族を守る事の出来なかった後悔しか与えず、結局自分の知恵や作戦は役に立たず、6節に記されているように、信頼していた部下も信頼するに足る者ではなく、唯一真の神様しか頼りにはならない事を知り、神様によってのみ奮い立ち得る事を体験したからなのです。

唯一真の神様から確証を頂いたダビデは、即座に追跡を開始します。

30:9 ダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残ることになった者は、そこにとどまった。

30:10 ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡れなかった二百人の者が、そこにとどまった。

ベソル川とは、ツィクラグの南を東西に流れる川であり、アマレク人の住む土地とを分ける、言わば自然の堀なのですが、乾季には枯れてしまい、その用をなさなくなってしまうのです。

しかし、10節の記述から、相当の水量があった事が伺われます。

アキシュと共に行動した距離と、ツィクラグに戻された距離の合計は、凡そ200kmと考えられますが、武器を携帯し、武具で身を固めての行軍は、頑強な者でも根を上げてしまうのではないでしょうか。

家族救出の意に燃えていても、疲れは如何ともし難く、急流を渡る事の出来ない者が200人もおり、追跡を断念し、残留せざるを得なかったのです。

しかし、この残留組にも意味があるのであり、家族救出に向かった仲間の背後を守り、不要不急の荷物、家畜を守るという地味ですが大切な役割を担ったのです。

ベソル川を渡った400人ですが、川を渡ったものの、彼らは途方に暮れたのではないでしょうか。

ベソル川以南は広大に広がる地域であり、何を目当てに追跡したら良いのか、見当も付かなかったのではないでしょうか。

しかし、神様は目印を置いて下さいました。

30:11 兵たちは野で一人のエジプト人を見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。

30:12 さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二房の干しぶどうをやると、そのエジプト人はそれを食べて元気を回復した。彼は三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったのである。

危急の時に、行き倒れになっているエジプト人に憐れみの心を注ぐダビデの家来の姿は、真の意味で良きサマリヤ人の姿と言えるでしょう。

家族救出の為に一刻も無駄には出来ない状況の中にあって、行き倒れがアマレク人であったり、イスラエル人であったなら、何らかの情報を与えてくれるのではないかとの、期待もありましょうが、

何の関りもないエジプト人に関っている暇などないと考えるのが普通でしょう。

しかし、旅人をもてなすのが、困っている人に助けを与えるのが、貧しい者に施しをするのが、イスラエル人に与えられた教えであり、伝統なのです。

気は急いていても、死んでいるかも知れない行き倒れた人を介抱し、大切な食料を与えた時、唯一真の神様は与えたモノ以上のご褒美をダビデ一行に与えて下さったのです。

30:13 ダビデは彼に言った。「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」すると答えた。「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。

30:14 私たちは、ケレテ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィクラグを火で焼き払いました。」

広い荒野で、人と出会う事でも稀な事なのに、願っても得られない情報を持つ人物と出会うなんて、何と言う幸運なのでしょうか。

否、幸運なのではなく、唯一真の神様の配剤であり、導きなのです。

ダビデが憐れみの心を持っていなかったならば、このエジプト人の若者を助ける事はなかったでしょうし、唯一真の神様の備えがなかったら、広い荒野で出会う事もなかったでしょう。

無関係と思える出会いや、出来事の中にも唯一真の神様の導き、配慮があるのであり、それを手に出来るか否かは、唯一真の神様と共に生きるか否かにかかっているのです。

無駄のように見える行動に、必要に至る道が隠されているのであり、愚かと見える道こそ、真理に至る道なのです。

目先の利に惑わされ、本当に大切なものを取り零し、重要なものを取り逃がしてはなりません。

30:15 ダビデは彼に言った。「その略奪隊のところに案内できるか。」彼は言った。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神にかけて私に誓ってください。そうすれば、あの略奪隊のところに案内いたします。」

30:16 彼がダビデを案内して行った。すると、なんと、アマレク人たちはその地いっぱいに散って食べたり飲んだりし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から奪った分捕り物が、とても多かったからである。

エジプト人の若者は「3日前に置き去りにされた」とダビデに報告しました。

3日の道程は凡そ100kmです。

女性や子ども、老人もいた事ですから。もっと短い距離であったでしょうが、ある地点から100km近く離れた場所を、逃げて行く人々を探すのは、不可能と言っても過言ではありません。

現代のように探査衛星が飛び交い、捜索を目的とした飛行機やドローンなどを用意出来る時代であっても、遭難者を探すのは容易ではありません。

何かの情報があって、虱潰しに捜索しても、発見するには想像を絶する苦労が伴う事が多いのです。

しかし、ダビデにはエジプト人の若者が与えられ、間違いなく、確実に導かれ、最短、最速で目的に達する事が出来たのでした。

30:17 ダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを討った。らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかは、一人も逃れることができなかった。

30:18 ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。

30:19 子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。

アキシュと共に遠征に加わり、戻って休む間もなく救出に向かったダビデ一行。

比べて何の苦労もなくツィクラグを襲い、充分に休息を取り、飲み食いして鋭気を養っていたアマレク人一行。

この圧倒的な差の中で、唯一真の神様のお約束、8節の宣言は現実となりました。

ダビデはたった400人で襲撃したのですが、アマレク人の若者400人が命からがら逃げ出したのです。

アマレク人は400人しかいなかった訳ではありません。

ツィクラグの住民が全く抵抗出来なかった程に圧倒的な数であったのですが、唯一真の神様がお約束を果してくださったのであり、聖書に記されていませんが、神様がアマレクを無防備な野原に散り広がらせ、油断させて飲み食い泥酔させ、闇に乗じて掻き乱し、打って下さったので、ダビデは難なくアマレクを襲い、家族を救出する事が出来たのです。

30:20 ダビデはまた、すべての羊と牛を奪った。兵たちは家畜の先に立って導き、「これはダビデの戦勝品だ」と言った。

唯一真の神様はアマレク人に奪われた物をダビデに返して下さっただけではなく、アマレク人がケレテ人のネゲブ、ユダに属する地、カレブのネゲブから奪い取った羊や牛をも戦利品としてダビデに与えて下さったのでした。

唯一真の神様は神様の御心を行なう者に、約束以上のモノを与えて下さるお方である事を確信出来るのではないでしょうか。

目先の利を追い求めるならば、その利さえ取り零し、引き換えに与えられるはずの利を手にする事もないのです。

【適応】

今日のテキストのポイントは、ダビデがエジプト人の若者に対して示した憐れみの心です。

私たちの人生には、目的があり、目標がありましょう。

その行く手には困難があり、紆余曲折を余儀なくされるのであり、順風満帆、何の障害もない、と言う事はありません。

大なり小なり、障害は必ずあるのであり、避けて通る事は出来ません。

が、取り組み方と言うか、対峙のし方は千差万別に分かれる事でしょう。

今日のテキストに当て嵌めるならば、関る事を避けて素通りする事から、徹底的に関る事まで、無限にあるでしょうし、それは他人が決める事ではなく、本人が決める事でしょう。

良いか、悪いかの判断も他人が決める事ではありません。

本人が、唯一真の神様に対して責任を負い、理由を申し述べるのであって、素通りするには素通りする理由があるのであり、関るには関る理由があるのです。

素通りする事が良い時もあれば、関る事が常に良い訳でもありません。

悪に関る事はどんな小さな悪でも関ってはならないし、素通りどころか、近寄ってもならないのではないでしょうか。

逆に、困っている人、助けを求めている人に対しては、近寄るのは当然の事、探し出してでも、必要に応えるのが唯一真の神様の御心なのではないでしょうか。

ダビデの旅は、家族一族の救出が目的ですが、家族の救出と言う大きな目的と共に、助けを求める一人の人の命を大切に扱う事を通して、小さな命をも疎かにしない神様の憐れみの心を学ぶ目的も隠されていたのです。

ダビデがエジプト人の若者を助けなくても、唯一真の神様の約束は必ず守られ、家族を救出する事が出来たでしょうが、それでは、ダビデは、唯一真の神様の小さな命も大切にする御心を知るチャンスを逃してしまうのであり、将来イスラエルの王となるのですが、大人から子どもまで、男も女も、健康な人から病人までを束ね、守り、養う事の意味を知らぬままに王とならなければならないのです。

王様は大を生かすために、小を切り捨てる辛い決断をしなければならない事もありましょうが、小さな命の、一つの命の大切さをわきまえての決断と、知らないでの判断とでは雲泥の差が生じる事でしょう。

見掛けは一緒でも、その内容は大きく違うのです。

ダビデは見ず知らずのエジプト人の若者に憐れみの心を示し、見返りを考えずに丁重に看病しました。

マタイの福音書2535節、「25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」

25:34bさあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

ダビデはこれを実践したのであり、名実ともに唯一真の神様の御国を継ぐ者とされたのです。

今日のテキストは、唯一真の神様がダビデの家族、ダビデに従う人々の家族を救うと言う約束と同時に、異邦人の命も大切に扱われ、それをダビデに委ねた事を教える逸話でもあります。

ダビデにとってエジプト人は異邦人であり、過去においてイスラエル人を虐待した民族であり、関ってはならない人々でしたが、そのタブーを犯して関ったのであり、親身になって助けたのです。

結果ダビデは、家族救出の為の、重要な情報を手にする事が出来たのです。

唯一真の神様は目的を達成させるために必要な助け手を送って下さり、目的に加えて更に大きなモノをも与えて下さるのです。

ここにおられる皆様が、緊急、危急の時だからと、後回しにしたり、お座なりな対応をする事なく、また、周りの状況に踊らされてしまう事なく、遠回りの道のように思えても、今でなくてもと思える時でも、唯一真の神様との関係において、別の言い方をするなら、聖書の教えにしたがって判断、決断、行動する時、一人一人が神様の約束に与る者となり、更に多くの恵みを給う者とされるのです。

自分の願い、目的を達成させる行動の中にも、常に唯一真の神様の御心を追い求め、回り道と思えても、無駄と思えても、神様の願い、御心を優先させる行動にこそ、祝福があるのです。

伝道者の書111節、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。

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                                       2024-2-11礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第二 25節から11

説教題:「赦し、慰め」

【導入】

前回の礼拝では「憐れみ」について学びました。

ダビデ一行は、先を急いでいたのに、一刻を争う状況であったのに、見ず知らずの人を、行き倒れの人を、関わる必要性を感じない人を、死んでいるかもしれないに人に憐れみを施し、食べ物、飲み物を与え、介抱したのです。

無駄な時間、余計な事のように思えたでしょうが、この人は、エジプト人青年で、ダビデ一行が今、最も必要としていたアマレク人の略奪隊の行き先と言う、貴重な情報をもたらしてくれたのです。

結果、ダビデ一行は最短、最速でアマレク人の略奪隊に追いつき、奪われた人々、家畜、財産を取り戻したのみならず、奪われた物の数倍の戦利品を得るに至ったのです。

見ず知らずであっても、異邦人であっても、困っている人を助けるのはユダヤ人の伝統ですが、危急の時には、見捨てたり、後回しにしたりし勝ちです。

目先の状況や利に惑わされ、本来すべき事を切り捨てたり、責任を回避したりし勝ちですが、大切なものを失ってしまわないように、取り返しのつかない失態をしてしまわないようにしなければなりません。

さて、パウロは、コリント教会の問題に対して、思いやり、憐れみのある対応をしました。

「鉄は熱いうちに打て」と申しますが、間髪入れずに、性急に、の意味よりも、タイミングの大切さを教えることばなのではないでしょうか。

押し掛けて行って、面と向って正さなければならない場合もあるでしょうが、それでも威圧するような事がないような、萎縮してしまう事がないような配慮が必要であり、手紙であっても、対面であっても、次から次に、矢継ぎ早に、入れ替わり立ち代り、徹底的に糾弾するのではなく、考える時間を与え、悔い改めのチャンスを与える事の方が、大事、大切なのではないでしょうか。

【本論】

新改訳2017 2:5 もしある人が悲しみをもたらしたのなら、その人は私を悲しませたのではありません。むしろ、言い過ぎにならないように言えば、ある程度まで、あなたがたすべてを悲しませたのです。

ある人」は、単数ですので、一人の人が問題を起こし、コリント教会に「悲しみをもたらした」のかも知れませんし、中心的な存在の人物が一人いて、コリント教会に「悲しみをもたらした」事を示しているのかも知れません。

どちらにしても、「その人」は、パウロを悲しませただけではありません。

あなたがたすべてを悲しませた」、コリント教会全体に、「悲しみをもたらした」との理解と受け止めが必要です。

一人の問題行動、或いは罪は、一人の責任ではなく、教会全体に波及するのであり、「ある人・・・その人」に責任を負わせて終わらせてはならず、或いは内密に処理してはならず、教会全体の問題であると認識し、教会全体で解決に取り組まなければなりません。

そうしないと、同じような問題が、似たような罪が繰り返し起こってしまうからです。

個人を責めたり、糾弾したりして、個人に責任を負わせて、幕引きを計るのではなく、教会全体で責任を負い、教会全体で対処に当たり、教会全体に益するものとするのです。

パウロの配慮は、「むしろ、言い過ぎにならないように」、と言うことばに現われていますが、勢いに任せ、雰囲気に流され、完膚なきまでに叩くのが、言い過ぎるのが、罪人の性ですから、「言い過ぎにならないように」よくよく注意しなければなりません。

言い過ぎにならないように」と「あなたがたすべてを悲しませた」とのもう一つの意味ですが、「言い過ぎにならないように」と訳されているギリシャ語の直訳は、「重荷を負わせないようにするため」であり、一部の人に重荷を負わせてしまってはならず、他人事でいてはならず、高みの見物を決め込んでいてはならず、教会の問題として、共に「悲し」み、関わり、解決に当たらなければならないのです。

2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、

あの処罰」との記述から、「その人」、即ち、「悲しみをもたらした」人に、問題を起こした人に、罪を犯した人に戒規が執行されたようですが、戒規は「懲罰、懲らしめ、見せしめ・・・」の類ではありません。

戒規を執行して悔い改めを促すのではなく、悔い改めたしるしとして戒規を執行するのであり、戒規は、唯一真の神様、主イエス様との関係の修復、交わりの修復のためのものなのです。

洗礼が信仰告白のしるしであり、信じたしるしとして洗礼を受けるのと似ています。

洗礼は生涯一度限りですが、戒規は都度、行なわれる事がありますが、唯一真の神様、主イエス様との関係の修復のしるしですから、信仰そのものを捨ててしまわざるを得ないような過度の戒規や、人格を辱めるような、晒し者にするような戒規とかは有害であり、目的を逸脱しています。

パウロは、コリント教会の指導者たちと協議し、適切な「処罰」、戒規を執行したのです。

2:7 あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。

処罰」、戒規の目的は、悔い改めのしるしであり、唯一真の神様、主イエス様への立ち返りを願っているからこそ、受けるのであり、その目的を、周囲の人たちは理解し、配慮を示さなければなりません。

人は、自分が悪いと解っていても、当然の報いだと解っていても、「あまりにも深い悲しみ」の中に放置されたままでいると、「押しつぶ」されてしまいます。

押しつぶ」されてしまわないために、爪弾きにしたり、無視したり、距離を置いたりしてはなりませんし、除外したり、断絶したりしてもなりません。

その人を赦し、慰めてあげなさい」の意味は、愛によって信徒同士の交わりを回復する事であり、交わりに何の分け隔てなく加える事ですが、だからと言って無かった事のように振舞ったり、しかたがなかった、と変な同情や共感を示したりしてもならず、寛大な処置を要求したり、「処罰」、戒規について、或いは教会の指導者たちを批判したりするような事があってもなりません。

2:8 そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。

次に、愛を持って「処罰」、戒規を執行したか否かを検証する必要があります。

愛から出ていない「処罰」、戒規は、正しい「処罰」、戒規ではありません。

処罰」、戒規、律法と愛は、相い反するものではありません。

ローマ人への手紙1310節、「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」、

ガラテヤ人への手紙514節、「律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

処罰」、戒規は、執行する者を悲しませるものであり、教会全体にも涙と痛みを与えるものです。

処罰」、戒規が執行された時に、「悲しみをもたらした」人、問題を起こした人、罪を犯した人だからと言って、「いい気味だ、ざまを見ろ」などとの思いを持つ者がいたなら、それは悲しい事であり、主イエス様の教会ではありません。

2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうか、試すためでした。

パウロは前の手紙で、厳しい処罰をするようにとの指示を出したようですが、ここでは赦し、慰めを指示していますが、決して矛盾する指示をしている訳ではありません。

罪に対しては適正な、且つ、愛を持って「処罰」、戒規が執行されなければならず、「処罰」、戒規を有耶無耶にしてはならず、いい加減な「処罰」、戒規で済ませてはならず、「処罰」、戒規が正しく執行されたならば、同時に、愛をもって受け入れ、交わりを回復させなければならないのです。

パウロは、コリント教会の兄弟姉妹たちが唯一真の神様、主イエス様の御旨、主権を第一にしているかどうかを試したのです。

信仰はことばではなく、行いに現われ、証しされるのです。

2:10 あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。

パウロはコリント教会の兄弟姉妹たちを信頼しているのであり、コリント教会の兄弟姉妹たちの判断に委ね、その判断に同意すると言うのです。

コリント教会の兄弟姉妹たちが「赦すなら」、パウロも「そうします」であり、その判断に決して異を唱えないと宣言するのです。

加えて、パウロが「何かのことで赦した」ならば、「あなたがたのために、キリストの御前で赦したので」あり、その「赦し」は完全、絶対不変だ、とも宣言します。

赦す、と言う事は簡単な事ではありません。

罪を持つ人間の為せる事ではありません。

パウロのことばの意味は、コリント教会の兄弟姉妹たちは信頼を置ける人たちだ、なのではなく、主イエス様が絶対的な信頼を置けるお方だから、そのお方を介在して、コリント教会の兄弟姉妹たちを信頼する、と言う事なのです。

パウロが信頼に足る人物なのではなく、主イエス様が絶対的な信頼を置けるお方だから、そのお方を介在して、パウロ自身の赦しを信頼して間違いない、と言う事なのです。

パウロ然り、コリント教会の兄弟姉妹たち然り、この世界に信頼の置ける人たちがいるのではなく、主イエス様の故に、主イエス様が責任を負ってくださるので、人を信頼するのであり、赦しが保証されるのです。

「主イエス様のお名前によって」、「アーメン」が如何に重要か、であり、その特権が与えられ、与っているのです。

2:11 それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

教会は、罪は罪として、悪は悪として明確にし、断罪し、関係を断ち、関わりを切るようにお勧めをしなければなりません。

そして罪や悪を認め、罪や悪を離れ、罪や悪と関係を断ち、悔い改めた者たちを赦し、交わりを回復させなければなりません。

教会は、唯一真の神様、主イエス様の義と愛とが両立し、義が行われ、愛の交わりの場であるからです。

これが明確になっていないと、実践されていないと、「サタンに乗じられ」てしまいます。

唯一真の神様、主イエス様が中心ではなく、組織や人が重んじられ、聖書を自分たちの都合に合わせて勝手な解釈をしたり、いい加減な適応が横行するなら、罪や悪に対して、同情心から、形ばかりの、有耶無耶な、割り引いた「処罰」、戒規としてしまったなら、「処罰」、戒規なんて厳しい事言っている、愛が無い、冷たい、赦すのが教会でしょ・・・

それは「サタンの策略」であり、主イエス様の教会ではなく、サタンを主とする教会です。

形ばかりの、有耶無耶な、いい加減な「処罰」、戒規は、罪や悪を助長させ、蔓延させます。

形ばかりの、有耶無耶な、いい加減な「処罰」、戒規を執行したなら、それが前例となり、次に、正しい「処罰」、戒規を執行するのは至難の業となってしまいます。

サタンは「悲しみをもたらした」人、問題を起こした人、罪を犯した人を取り込み、再び罪や悪を行なわせるのです。

【適応】

そのような人が中心の、温情的なものが優先するような教会は、サタンの暗躍を許し、容認してしまうような教会であり、唯一真の神様、主イエス様の御栄光は現しようがありません、現れようがありません。

人の思いや考えではなく、「神の国とその義とをまず第一とする」時、唯一真の神様、主イエス様の御栄光が現されるのです。

正しい「処罰」、戒規の執行と赦し、慰め、交わりの回復こそ、主イエス様の教会であるしるしなのです。

処罰」、戒規の執行と赦しは、教会の主体的な業ですが、慰めと交わりは、信徒の働きと言えるでしょう。

慰めとは、罪や悪を行なってしまった理由、原因をサタンのせい、或いは他人や体制、社会などのせいにする事でも、仕方が無かった、などと慰める事でもありません。

主イエス様が贖ってくださったから大丈夫だよ、と励ます事でもありません。

それでは反省もなく、再びサタンの誘いに乗っかってしまうでしょう。

慰めとは、サタンの誘いに乗ってしまった自身の弱さを認識し、サタンの誘いを聖書のみことばで封じるのであり、サタンの誘いを主イエス様と共に退けるために、祈るのです。

交わりの回復とは、同病相憐れむ事ではなく、傷を舐め合う事でもなく、群れる事でもなく、共に祈る事であり、祈りによって支え合い、サタンの誘いに抗う事です。

サタンの誘いに乗っかってしまっても、何度乗っかってしまっても、教会に戻って来られるのであり、教会はその人を喜んで受け入れ、交わりに加えるのです。

それは、主イエス様がそのようなお方であり、サタンの誘いに乗っかってしまった人を、何度でも赦し、主イエス様との交わりに加えてくださるからです。

そのために、主イエス様は十字架を受けられたのです。

主イエス様が赦し、交わりを回復されているのに、私たちが拒否し、排除出来る訳がありません。

サタンの誘いに乗ってはしまったが、悔い改めた人を、主イエス様の交わりに引き戻す事こそ、主イエス様を信じる者の働きです。

悔い改めた人を、喜んで受け入れ、慰め、交わる事こそ、主イエス様を信じる者に期待されている働きであり、キリスト者は悔い改めた人を、主イエス様の交わりに引き戻すために罪の世に遣わされているのです。

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聖書箇所:コリント人への手紙第二 212から17

説教題:「キリストにあって」

【導入】

前回の礼拝では正しい「処罰」、戒規の執行と赦し、慰め、交わりの回復について学びました。

この世に於いては、処罰」は恥ずかしい事であり、隠しておきたい事、避けたい事の一つですが、キリスト教に於いて「処罰」、戒規は、唯一真の神様、主イエス様との交わりの回復のしるしです。

処罰」、戒規の正しい執行は、唯一真の神様、主イエス様の御栄光の現れであり、教会を聖く保つためのモノであり、決して忌むべき事ではありません。

しかし、「処罰」、戒規の適応と執行に於いては、十二分の配慮がなされなければならず、辱めるような事になってはならず、晒し者なってしまってもなりません。

処罰」、戒規を通して、唯一真の神様、主イエス様の御旨の更に深い理解と交わり、更に深い信徒同士の交わりに繋がる事が期待されているのです。

処罰」、戒規を執行せざるを得ない事になってしまったのは、「サタンの策略」にまんまと、うかうかと乗っかってしまったからです。

そうならないために必要な事は、何でしょうか。

【本論】

新改訳2017 2:12 私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、

パウロの当初の計画は、115節、16節に記されているように、エペソからコリントに行き、コリントからマケドニアに行き、マケドニアからコリントに戻って来る、と云う計画であったようです。

しかし、急遽、コリント行きを取り止め、「トロアスに行った」のですが、その理由は第一に123節、「あなたがたへの思いやり」ですが、もう一つの大切な理由は「キリストの福音を伝えるため」であり、「主は私のために門を開いておられ」るからだと言うのです。

パウロとしては何としてもコリントへ行きたい。

しかし、自分の思い、願いではなく、相手を慮る事を最優先させたのです。

コリント行きは、コリント教会の問題に対処するためであり、福音宣教と同等の、否、最重要の課題です。

しかし、自分の考え、判断ではなく、主イエス様の導きに従ったのです。

これは非常に重要な事であり、判断、決断です。

トロアス」は、エペソの北方200km程の所にある都市であり、コリントは西に350km程の所にあり、真逆ではありませんが、主イエス様は、パウロに「トロアス」行きを指示したのであり、コリント行き断念には相当の逡巡、葛藤が伴った事でしょう。

しかし、使徒の働き166節、「それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った」であり、同じく7節、「こうしてミシヤの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった」であり、聖霊様の導き、主イエス様の指示に従うのが、キリスト者、伝道者の選ぶ道、従う道です。

従順は、何ものにも勝る献げものであり、信仰告白なのです。

2:13 私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。

兄弟テトス」は、ガラテヤ人の手紙23節に記されているように「ギリシア人」ですが、テトスへの手紙14節に「同じ信仰による、真のわが子テトス」と呼びかけており、絶対的な信頼を寄せている同士である事が記されています。

心に安らぎがありませんでした」、なんて、パウロらしくない言葉ですが、パウロはコリント教会の事が気懸かりでならず、テトスはコリント教会の現状を把握していたようであり、テトスのもたらす情報を心待ちにし、一刻も早くテトスと合流したかった様子を描写しているようです。

パウロの、コリント教会に対する愛情の溢れた記述であり、また、一人の力、働きには限界があり、同労者の存在の重要性を教える記述でもありましょう。

トロアス」での「キリストの福音を伝える」働きは、短期間であったようで、「マケドニアに向けて出発し」、75節、6節に記されていますが、テトスと合流出来たようであり、テトスのもたらしたコリント教会の情報は、パウロの「心に安らぎ」をもたらした事でしょう。

2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

トロアス」での「キリストの福音を伝える」働きも、「マケドニア」での「キリストの福音を伝える」働きも、無駄ではなく、相応の成果を上げており、「キリストによる凱旋の行列に加え」てくださっている、と確信しているのです。

古代ローマに於ける戦争では、勝利軍は、威儀を正して行進を行ない、沿道の随所では「」を焚いて、勝利軍を大歓迎する風習があったそうであり、その様子を思い浮かべて、「キリストの福音を伝える」働きの成功を讃えているのです。

キリストを知る知識」は、単なる知識ではなく、内に秘めたものでもなく、「キリストを知る知識の香り」であり、「キリストを知る知識」を、沿道の随所で焚れる「香り」の如くに、「いたるところで放」つ事こそ、キリスト者に求められている働きなのです。

信仰は唯一真の神様、主イエス様に対する個人的な事、心で信じる事ではありますが、表明し、宣べ伝えてこそであり、それが期待され、委ねられているのです。

2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。

この「キリストを知る知識の香り」を放つ働きは、キリスト者全てに委ねられている働きであり、「救われる人々」、即ち、主イエス様を受け入れる人たちにも、「滅びる人々」、即ち、主イエス様を拒否する人たちにも、聴いてくれない人たちにも、分け隔てなく「キリストの香り」を放ち続けなければならないのです。

2:16 滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。

このような務めにふさわしい人」とは、パウロのような使徒や伝道者、教師などに限定された働きではありません。

全てのキリスト者に委ねられており、全てのキリスト者が担う働きであり、不特定多数の人たちに対しては勿論の事、特に、家族、親族、友人、知人にも「キリストの香り」を放ち続けなければならないのです。

テモテの手紙第二42節、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」です。

受け入れるか否かは、拒否するか否かは、可能性があるか否かも関係ありません。

キリスト者は出会う全ての人たちに対して、「キリストの香り」を放ち続けなければならないのです。

キリストの香り」を放ち続けなければならない、と言うよりも、存在しているだけで、「キリストの香り」を放ち続けるのであり、そのような者とされているのです。

マタイの福音書514節から16節、「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。

5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。

5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

あなたがたは世の光」なのであり、升の下に置いたりしてはならないのです。

キリストの香り」なのであり、蓋をしたりしてはならないのです。

2:17 私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。

パウロに反対する人たちの問題点は、パウロが語る事を否定し、非難し、攻撃するだけではありません。

ユダヤ教的、異教的な教えを混ぜ、今風に解釈し、受け容れ易くして語っていたのです。

混ぜ物をして」を、新改訳聖書第三版は欄外に「腐敗させて」との注を附しています。

唯一真の神様のことばである聖書は、何ものも付け加えてはならず、差し引いてもなりません。

この世の思想を混ぜ込んだり、この世の思想で解釈したりしたならば、それは聖書ではなくなり、主イエス様の提示された福音ではなくなってしまいます。

腐敗したモノであり、役に立たないどころか、毒になり亡びに至らせてしまうのです。

そして、残念な事に「神のことばに混ぜ物」をする「多くの人たち」が、世に溢れているのです。

多くの人たち」が、主イエス様の弟子の中に紛れ込み、御使いに成りすまし、熱心に働いていて、惑わし続けているのです。

残念な事に、真の働き人は決して多くはないのです。

神のことばに混ぜ物」をする者の特徴は、先に述べたとおりですが、時流に乗るので、受けは良く、もてはやされもするでしょう。

隆盛を極める事もあるでしょうが、「神のことばに混ぜ物」をする者は、呪われます。

ガラテヤ人へ手紙16節から9節、「私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。

1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。

1:8 しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。

1:9 私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。」

一方、「神から遣わされた者」は「神の御前でキリストにあって語る」のであり、その特徴は、聖書から聖書を語り、人々に迎合したりしません。

「良薬は口に苦し」であり、常に霊的な覚醒のために、悔い改めの実を結ぶために、霊的な成長のために、罪を罪として認識し、離れるために、悪を悪として認識し、関わらないために、「キリストにあって語る」のです。

パウロは「神から遣わされた者」として一切の私心なく、「神の御前でキリストにあって語」り続けた、と断言します。

パウロは、コリント教会の兄弟姉妹たちからは煙たがられ、非難され、罵られもしましたが、時が経ち、真偽は明らかにされました。

神から遣わされた者」は、主イエス様にあって語り、生きるので、唯一真の神様に喜ばれる働き、歩みをする事が出来るのであり、その働き、語った事は後世にまで伝えられるのです。

【適応】

主イエス様を拒否する人たち、聴いてくれない人たち、或いは敵対者たちの前で「神の御前でキリストにあって語る」のは、簡単な事ではありません。

しかし、心配する必要はありません。

マタイの福音書1018節から20節、「また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。

10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。

10:20話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。

しかし、御霊が話させてくださるには条件があります。

普段の信仰生活、生き方が問われます。

エペソ人への手紙516節から20節、「機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。

5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。

5:18 また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

5:19 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

キリストにあって」を生活のどのような場面でも、意識する必要があります。

コリント人への手紙第一1031節から33節、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。

中々に難しい事であり、最初のうちは出来ない事も多く、ぎこちなさが見え隠れしましょうが、聖霊様が助けてくださり、自然に出来るようにしてくださいます。

聖書知識が生活や言動に生かされ、一致しているならば、福音伝道を強力にサポートします。

この世の人たちと同じような生活、言動であったなら、キリスト教に興味を持たないでしょうし、教会に行きたいなどとも思わないでしょう。

聖霊様の助けにより、「キリストにあって」歩み続け、自分自身の救いを達成しつつ、「キリストの香り」を放ち続け、「地の塩、世の光」として不特定多数の人たちに対して、特に、家族、親族、友人、知人に主イエス様の贖い、救いを届けたいものです。

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                                       2024-2-25礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二 3章1節から11節

説教題:「御霊に仕える者」

【導入】

前回の礼拝ではキリストにあって」歩み続け、自分自身の救いを達成しつつ、「地の塩、世の光」として「キリストの香り」を放ち続け、家族、親族、友人、知人に、また、不特定多数の人たちに対しても、主イエス様の贖い、救いを届ける人たちである事を確認しました。

この働きを担っているのは、特定の、少数の使徒、伝道者、教師だけではありません。

福音宣教の働きが使徒、伝道者、教師だけの働きであるなら、この広い世界に伝道するには、余りにも微力、と謂わざるを得ません。

この広い世界の隅々にまで、地の果てにまで福音を届ける働きは、信徒一人一人に委ねられているのです。

とは言え、神学は、誰もが学び得るものではなく、使徒、伝道者、教師と信徒の働きの種類が違う事は、覚えておかなければならないでしょう。

しかし、どの働きも「キリストにあって」の働きであり、自己流は控えなければならないでしょう。

さて、パウロに対して批判的なコリント教会の中の兄弟姉妹たちは、パウロの使徒職の正当性について批判しますが、其処には当時の社会の風習が影響しています。

【本論】

新改訳2017 3:1 私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたに宛てた推薦状とか、あなたがたからの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

小さな集団であれば、交流の無い閉鎖された社会であれば、どんな人物か、どんな人柄かは周知であり、説明するまでもありませんが、集団に、或いは地域社会に加わろうとするならば、人物や人柄について保証し、世話を依頼するなどの内容を附した紹介状、推薦状などが必要になりましょう。

現代社会でもパスポートやマイナンバーカード、身分証、履歴書・・・などを必要とする場面は沢山あります。

パウロもテモテの事を紹介し、保証し、世話をするよう依頼する手紙を書いています。

コリント人への手紙第一1610節、「テモテがそちらに行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようしてあげてください。彼も私と同じように、主のみわざに励んでいるのです。

16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちと一緒に戻るのを待っています」。

別の場面では、テトスと同道する兄弟について紹介し、保証し、世話をするよう依頼する手紙も書いています。

コリント人への手紙第二818節、「私たちはテトスと一緒に一人の兄弟を送ります。この人は福音の働きによって、すべての教会で称賛されています。

8:19 そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わる私たちの同伴者になるようにと、諸教会の任命を受けています。私たちはそのわざに、主ご自身の栄光と私たちの熱意を現すために仕えています。

8:20 私たちは、自分たちが携わっているこの惜しみないわざについて、だれからも非難されることがないように努めています。

8:21主の御前だけでなく、人々の前でも正しくあるように心がけているのです。

8:22 また、彼らと一緒にもう一人、私たちの兄弟を送ります。この兄弟が多くのことについて熱心であることを、私たちは何度も認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。

8:23 テトスについて言えば、彼は私の仲間であり、あなたがたために働く同労者です。私たちの兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。

8:24 ですから、あなたがたの愛の証拠と、あなたがたを私たちが誇りとしている理由を、彼らに対して、諸教会の前に示してほしいのです」。

パウロの弟子である、と言うだけで充分であろうと思うのですが、詳細に語り、依頼するのです。

推薦状や紹介状などは当時の習慣であり、事をスムーズに進めるための知恵なのであり、必要ではありますが、しかし、推薦状や紹介状は、特定の人しか読みませんので、周知させるにはまたそれなりの工夫が必要です。

コリント教会の兄弟姉妹たちは、パウロ自身が、自分を推薦するような話をしていると非難したようですが、決してそんな意図はない、と断言します。

3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。

3:3 あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。

推薦状や紹介状などは紛失してしまえば、破れてしまえば、その用を為さなくなりますが、コリント教会の信徒である、と云う事が、何よりの保証であり、推薦状や紹介状なのではないでしょうか、とパウロは言うのです。

コリント教会の兄弟姉妹たちの行ないは広く伝わり、誰もが知るところとなっており、称賛されていたのです。

わざわざ、推薦状や紹介状など必要としないまでになっていたのです。

これこそが、信徒の姿であり、教会の働きの実なのではないでしょうか。

教会の影響力は、地域限定ですが、信徒は遣わされるのであり、各地に散らばり、大きな影響力を及ぼすのです。

その働きを担う信徒を育成するために教会は存在するのであり、決してパウロ自身の働き、成果ではなく、教会が正しく機能したからであり、コリント教会の兄弟姉妹たちは使命を果しているのであり、パウロはそれを評価するのです。

3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。

3:5 何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。

使徒、伝道者、教師の働きは、信徒の生活に現われますが、使徒、伝道者、教師は、主イエス様の道具であり、伝道の働きは、唯一真の神様、主イエス様から与えられた、委ねられた働きであり、「キリストにあって」の働きであり、それ以上でも、以下でもないのであり、「何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません」。

3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

新しい契約」は、以前の契約、古い契約に対するモノです。

古い契約に於ける救いの計画と、新しい契約に於ける救いの計画の違いは、古い契約は、唯一真の神様と人間との契約であり、「新しい契約」は、唯一真の神様の一方的な恵みの契約であり、永遠の契約であり、質に於ける新しい契約であり、遥かに優れており、更に新しい契約が出てくる事はありません。

唯一真の神様は、古い契約、律法を廃棄されたのではありません。

古い契約での律法は、人間の罪を指し示し、死に至らせますが、新しい契約での律法は、御霊の助け、導きによって新生の働きをするのであり、いのちに至らせるのであり、働きが違うのです。

主イエス様は、マタイの福音書517節、18節で、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。

5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の中の一点一画も決して消え去ることはありません。全てが実現します」と仰られており、律法は、聖なるものであり、義なるモノであり、善なるモノであり、いのちを与えるモノであり、永続するモノである事は明白です。

律法の働きは、自分の罪を知るためのモノであり、ローマ人への手紙320節、「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

御霊に仕える者」、即ち、御霊によって生まれ変わらせて頂く時、律法の要求は全うされ、いのちが与えられ、死ぬ事がなくなるのです。

新しい契約に仕える者となる資格」ですが、パウロの場合の経緯は、使徒の働き2612節以降や、テモテへの手紙第一112節に記されています。

3:7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、

3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。

石の上に刻まれた文字」とは、十戒が記された石版のことであり、古い契約の象徴ですが、古い契約の仲介者である「モーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした」。

古い契約は「モーセ」によってもたらされ、「新しい契約」は主イエス様によってもたらされましたが、古い契約も、「新しい契約」も、どちらも唯一真の神様から与えられたモノであり、悪いモノではなく、どちらも栄光を伴うモノです。

古い契約は、律法を遵守した人たちを義とし、いのちに至らせ、律法を破った人たちを罪に定め、死に至らせるモノです。

新しい契約」は、主イエス様の完全な律法遵守により、信仰によって主イエス様を受け容れる人たちを義と認め、いのちに至らせるモノです。

義とする務め」とは、「新しい契約」によってのみ救われる事を宣べ伝える働きであり、「新しい契約」でしか義と認められ、いのちに至る道は無いのであり、「新しい契約」が指し示す主イエス様も、「義とする務め」自体も、「栄光に満ちあふれ」ているのです。

3:10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。

先に申し上げましたが、古い契約は、唯一真の神様から与えられたモノであり、悪いモノではなく、栄光を伴うモノであり、無意味でも、役に立たなかった訳でもありません。

古い契約は、罪とは何かを教えるモノであり、罪がどんなに根深いもの、人がどんなに弱い者かを教えるモノです。

しかし、古い契約では、義を獲得出来なかったために、「新しい契約」が与えられ、義とする働きは「新しい契約」に引き継がれたのです。

3:11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。

古い契約による救いの計画と律法の働きは、有限であり、肉的であり、地上に限定されており、地上での栄光が与えられていましたが、「新しい契約」による救いの計画は、永遠であり、霊的であり、天的であり、確実にいのちに至るために、古い契約とは別の「栄光に包まれている」のです。

新しい契約」が古い契約を廃棄し、取って変わったのではなく、「新しい契約」が古い契約を完成させたのです。

【適応】

この「新しい契約」に、御霊にお仕えする働き程、栄光に富んだ働きは地上にはないのではないでしょうか。

働き、奉仕の種類は様々であり、程度も、時期も、場所も様々ですが、御霊にお仕えするのであり、唯一真の神様、主イエス様にお仕えするのであり、誰が、どの働き、奉仕を委ねられるかは、主イエス様の御旨であり、即、応じるか、否むか、考えるかも、各自に委ねられています。

色々な団体や企業などは、起業理念、経営理念などに、社会貢献を上げていますが、教会や信徒の関心は、中心となるのは、唯一真の神様、主イエス様ですが、教会や信徒は、唯一真の神様、主イエス様に貢献するのではありません。

教会や信徒は、唯一真の神様、主イエス様との交わりを喜ぶのであり、交わりとして、唯一真の神様、主イエス様にお仕えするのです。

唯一真の神様、主イエス様を喜ぶ、と言う事がとても大事です。

決して、唯一真の神様、主イエス様を喜ばせる、ではありません。

一人一人が、自由意志で応じるのであり、お仕えするのです。

御霊にお仕えするのであり、唯一真の神様にお仕えするのであり、主イエス様にお仕えするのです。

イザヤ書68節、「私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

唯一真の神様、主イエス様は、大声で叫ばれたのではありません。

また、選択的にイザヤに向って呼び掛けたのでもありません。

誰にともなく、呟(つぶや)くように、独り言のように、囁(ささや)くような、聞こえるか聞こえないかのような、小さな声で言ったのであり、備えが出来ていたイザヤはそのか細い声を聞き逃さず、応じたのです。

御霊に仕える者とは、備えが出来ている者であり、整えられている者であり、自発であり、強制や無理強い、有無を言わさずの否応無しではありません。

御霊に仕える者とは、唯一真の神様、主イエス様を喜ぶ者であり、唯一真の神様、主イエス様との交わりとして、お仕えするのです。

唯一真の神様、主イエス様にお仕えする事が目的ではなく、唯一真の神様、主イエス様との交わりが目的なのであり、何よりも、交わりが重要なのです。

唯一真の神様、主イエス様との交わりがなければ、お仕えする事は、単なる労働に、義務に、任務に、割り当てになってしまいます。

唯一真の神様、主イエス様との交わりがなければ、信仰生活も、教会生活も、礼拝も、デボーションも、聖書通読も意味はありません。

唯一真の神様、主イエス様は、仕え人を求めておられるのではなく、交わる人を求めておられるのであり、そのために、主イエス様は罪人の贖いとなられたのです。

唯一真の神様、主イエス様は、かしずく僕、仕え人を求めておられるのではなく、交わる人、友を求めておられるのであり、皆さんはそのために贖われたのです。

そして、仕える者とは、唯一真の神様、主イエス様との交わりを阻害するものを取り除く事であり、喜び溢れる責務なのです。

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