2024-4-7礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第二 416節から18

説教題:「信仰に生きる」

【導入】

先の礼拝で、「キリスト者の使命」と題して、みことばを取り次ぎました。

キリスト者の使命は何をするにも、すべて神の栄光を現すためです。

コリント人への手紙第一1031節、「10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。

私たちの存在目的は、自分の幸福や自分の利益のためではなく、自己実現のためでもなく、神の栄光が現れるようになるためです。

神の栄光が現れるようになるため」であり、自分のしたい事、考えは引っ込め、御旨に従順に、そして、艱難も、苦難も、誤解も、迫害などをも、甘んじて受けなければなりませんが、それは、主イエス様の足跡に倣う事であり、厭うどころか、喜ばしき事であるのです。

やがては復活の恵みを受け、新しい身体、永遠のいのちが与えられ、御国にて、主イエス様と共に父なる神の御前に立たされるからです。

父なる神の御前に立たされるのは、裁きや刑罰を受けるためではなく、栄冠を受けるためなのです。

【本論】

新改訳2017 4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

父なる神様、主イエス様に対して誠実な言動や従順を心がけても、この世では理解されず、誤解され、非難される事は日常茶飯事ですし、教会の中にもこの世の考えや損得勘定などが蔓延し、父なる神様、主イエス様を第一とする言動、従順が、時には理解されず、誤解され、非難される事はしばしばです。

しかし、そんな時、落胆する必要はありません。

何故ならば、やがては復活の恵みを受け、新しい身体、永遠のいのちが与えられ、復活の主イエス様と共に父なる神の御前に立たされる希望があるからです。

ここでパウロは、「外なる人」と「内なる人」を対比させ、「衰え」と「日々新たにされ」を対比させて信仰に生きる事の説明を致します。

外なる人」とは、肉体を持つ人間の事であり、「衰え」行く存在です。

コリント人への手紙第二47節に記されているように「土の器」であり、壊れやすく、質素で、大した価値がないものであり、411節に記されているように「死ぬべき肉体」であり、有限であり、弱く、無力な存在なのです。

加えて、生まれながらの性格や欲望などは自己中心的であり、主観的であり、感情的であり、打算的であり、衰退の一途を辿り、消え行く存在です。

一方、「内なる人」とは、聖霊を内住させたキリスト者の事であり、「日々新たにされ」行く存在です。

イザヤ書4031節、「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」のです。

これは、決してスーパーマンのようになる、と云う事ではなく、主イエス様の執り成し、聖霊様の助けがあり、コリント人への手紙第二48節、9節、「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」、であり、挫折しない、頓挫しない、撤退しない、敗北しないと云う事なのであり、主イエス様、聖霊様に日々養いを受け、共に、大きく、広く隆盛の道を進み行く存在なのです。

外なる人」は、主イエス様と共に十字架に付けられ、何の力も、影響力もなくなっており、「内なる人」に座、主権、指導権を明け渡します。

キリスト者はこの世にあっては数知れぬ艱難、苦難、誤解、迫害などを体験しなければなりませんが、主イエス様が味わわれた艱難、苦難、誤解、迫害などを共有するのです。

主イエス様と共に、この世界の贖いにかかわるのであり、その働きのために、日々新たにされ」るのです。

4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たちの味わう「苦難」は、決して「一時の軽い苦難」ではありません。

執拗に繰り返す「苦難」、耐えるに苦慮する「苦難」も多いのではないでしょうか。

パウロが体験した「苦難」の類は、非常に厳しい「苦難」であり、いのちを脅かす「苦難」でした。

しかし、それらの「苦難」は、主イエス様が与えたもう「苦難」であり、主イエス様のための「苦難」であり、主イエス様が共に担ってくださる「苦難」です。

孤軍奮闘、一人では耐えられない「苦難」かも知れませんが、感謝な事に、主イエス様が共に担ってくださるので、それだけで「苦難」は半分になりましょうし、最終的には「苦難」と共に私をも主イエス様が担ってくださるのです。

苦難」は厄介な代物ですが、将来、私たちに与えられようとしている栄光に比べれば、取るに足りないモノであり、実は、比較にならないほどに「軽い」モノなのです。

パウロは、「一時の」と「永遠の」、「軽い」と「重い」、「苦難」と「栄光」を対比させ、読者の理解の助けとし、信仰に生きる事を説明しています。

ローマ人への手紙818節、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。

4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

ここでパウロは「見えるもの」と「見えないもの」を対比させ、もう一度、「一時的」と「永遠」を用いて、信仰に生きる事の説明を致します。

外なる人」は「見えるもの」を頼り、拠り所とします。

外なる人」はこの世のモノ、人を頼り、お金を頼り、組織を頼ります。

着る物、食べる物、住む所、親兄弟、親戚、友人知人、預貯金、有価証券などの資産、帰属する社会、体制、などなど。

どんなに魅力的でも、しかし、「見えるもの」は「一時的」であり、移り変わり、変化し続け、過ぎ去って行くのであり、必ず古び、必ず廃れ、必ず滅び、必ず無くなります。

一方、「内なる人」は「見えないもの」を信じ、拠り所とします。

見えないもの」とは、主イエス様と父なる神様であり、主イエス様と父なる神様を信頼し、信じ、従います。

見えないもの」、父なる神様と主イエス様と聖霊は「永遠」であり、測り知れないのであり、決して変化する事なく、決して廃れる事は無く、永遠に存在し続けます。

【適応】

見えるもの」は現実その物であり、確実に存在するのであり、見えるもの」を信じ、頼りたくなるのも事実です。

しかし、先に申し上げた通り、見えるもの」は移り変わり、変化し続け、過ぎ去って行くのであり、必ず古び、必ず廃れ、必ず滅び、必ず無くなる「一時的」なものなのです。

見えるもの」は有限であり、短期的にであっても見えるもの」に頼り、拠り所とする生き方は、お勧めできません。

見えるもの」に頼り、拠り所とする生き方に簡単に染まってしまうからであり、見えるもの」に頼り、拠り所とする生き方を離れるのは至難の業だからです。

一方、「見えないもの」は曖昧模糊として、不確実に思え、信じ、拠り所とするには不安がありましょうが、父なる神様は、何もないところから万物、人間を創造されたのであり、被造物の頂点に置かれた人間の務めは、創造者なる神様に頼り、拠り所とする事です。

見えるもの」を頼り、拠り所とするのは、比較的容易な事ですが、「見えないもの」を頼り、拠り所とするのは、非常に難しい事です。

また、これをしたらこうなる、或いはこれをしなかったらこうなる、と因果関係がはっきりしていると頼り易く、従い易いのですが、恵みとか、哀れみと言うような抽象的なモノには、頼り難く、従い難いのです。

しかし、繰り返しますが、見えるもの」は移り変わり、変化し続け、過ぎ去って行くのであり、必ず古び、必ず廃れ、必ず滅び、必ず無くなる「一時的」なものなのです。

見えるもの」を頼り、拠り所とするのは、信仰ではありません。

その代表的な例が偶像礼拝です。

あらゆる物、人、組織などが偶像になります。

父なる神様、主イエス様以外を頼り、拠り所とするのは、重要視するのは、何であれ偶像礼拝です。

見えないもの」ではありますが、何もないところから万物、人間を創造された父なる神様を信頼し、頼り、拠り所とする事こそ、信仰に生きる、と言う事なのです。

人間には五感があり、見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、味わえるものなどの影響を強く受け、惑わされます。

その影響、誘惑を排除するのは、並大抵の事ではありませんが、父なる神様、主イエス様を信じ、頼るなら、聖霊様の助けがあり、信仰に生きる事が出来るのです。

信仰に生きる事こそ、被造物である人間に求められている事であり、信仰に生きる事が、父なる神様、主イエス様との交わりの基であり、祝福なのです。

信仰に生きる事に、特別な能力や知識や知恵は必要ありません。

信仰に生きる事とは、特別な奉仕をしたり、大きなモノを献げたり、身を粉にする事では有りません。

父なる神様、主イエス様を信頼し、従う事であり、老若男女、何の能力もない者、弱い者、誰でもが信仰に生きる事が出来るのです。

誰でも、そのままで信仰に生きる事が出来るのです。

何と慰めな事でしょうか。

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聖書箇所:コリント人への手紙第二 51節から10

説教題:「確実な希望」

【導入】

先の礼拝で、「信仰に生きる」と題して、御ことばを取り次ぎました。

信仰に生きるためには、何が必要だったでしょうか。

秀でた能力、知識、知恵、体力、不屈の精神、忍耐力、或いは財産資産、人脈などだったでしょうか。

これらのモノ、あるならあるで有益ですが、無くてはならないモノではありません。

見えないお方ではありますが、何もないところから万物、人間を創造された父なる神様を信頼し、頼り、拠り所とする事こそ、信仰に生きる、と言う事でした。

別の言い方をするなら、唯一真の神様、主イエス様だけを愛する、と言う事です。

唯一真の神様、主イエス様の御旨、お考え、ご計画を最優先する、と言う事です。

唯一真の神様、主イエス様を常に意識して生きる、と言う事です。

秀でた能力を持たない多くの者にとって、財産も人脈も持たない大多数の者にとっては大きな希望であり、誰もが信仰に生きる事が出来そうですが、唯一真の神様、主イエス様だけを愛する、唯一真の神様、主イエス様を最優先する、唯一真の神様、主イエス様を常に意識して生きる。

口で言うのは容易いですが、実践するとなるとなかなか難しいでしょう。

それでも、万民に可能性があるのですから、喜ばしい事ですし、主イエス様の執り成しと、聖霊様の助けがあるのですから、誰でもが信仰に生きる事が出来るのです。

そして、信仰に生きた先には、何が待っているのでしょうか。

【本論】

新改訳2017 5:1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。

パウロはユダヤ人にとって馴染みの深い「幕屋」を用い、例えを語ります。

イスラエルの祖、アブラハムは、ウルを出立し、永らく「幕屋」生活を送りました。

イスラエルの民は、エジプト脱出後、凡そ40年の間、「幕屋」生活を送りました。

神殿が完成するまでは、神の「幕屋」で礼拝が行なわれたのであり、「幕屋」、天幕は一時的な宿であり、簡易的な宿であり、日常的な物であり、旅人である事を現す象徴的な物でありました。

また、特別な、礼拝の場でもあったのであり、と、イスラエル人にとって「幕屋」は馴染み深いモノなのです。

パウロの生業は「幕屋」、天幕造りであり、イスラエル人の生活に密着した、馴染み深い職業です。

幕屋」、天幕は馴染み深いモノではありますが、「幕屋」、天幕は家屋のように丈夫でなく、壊れ易く、不便この上ない、仮住まいでしかありませんが同じように、肉体も弱く、疲れ易く、老いて行くモノであり、病気をし易く、傷付き、怪我をし易い脆弱なモノであり、必ず死ぬモノである事も暗示しているようです。

しかし、「神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがある」のであり、それは新しい身体であり、病気になる事も、老いる事も、朽ちる事も、死ぬ事もないのです。

5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。

うめき」は、弱い肉体を持つ身が故の、嘆きや落胆などから漏れ出る声ではなく、また、罪の世に生きている故の悩み、苦しみを耐え忍ぶ嗚咽でもなく、身体の贖いである救いの完成を待ち望む、希望に満ちた、押さえ切れぬ歓喜なのではないでしょうか。

5:3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。

幕屋を脱いだとしても」、即ち、死によって、肉体と霊が分離した状態に置かれる事になりますが、霊が「裸の状態でいることはありません」。

裸の状態でいることはありません」は、必ず、復活の身体、新しい身体が与えられる、の意味であり、復活の身体、新しい身体が与えられる事は決定事項であり、決して宙ぶらりんの、不安な状態のままに放置されたままでいる事はない、との宣言なのです。

5:4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。

うめき」が単に苦痛の類、「重荷を負って」いるがために発せられたものであるならば、苦痛の原因となっているものを「脱ぎたい」と思うのは当然でしょうが、「幕屋」を着ている、着せられている事には意味があります。

死ぬはずのもの」は、その死ぬべき肉体を用いて、この世で為すべき事があるからであり、父なる神様、主イエス様から期待されている働きがあるのです。

為すべき事や期待されている働きを行なわなかったり、誰かに負わせる訳には参りません。

この世で為すべき事、期待されている働きを終える時、「天からの住まいを上に着」せられるのであり、それは「死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれる」、と言う事なのです。

誰もが直ぐにでも「この幕屋を脱ぎたい」、「天からの住まいを上に着たい」と思いましょうが、順番があるのであり、唯一真の神様の御旨、ご計画があるのです。

5:5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。

神です」と訳されているギリシャ語ですが、日本語では表し難いのですが、非常に強く強調されています。

太字にして、斜体にして、下線を引いて、黒点のルビを付けたような感じ、とでも言いましょうか。

私たちを整え」るのは、長い信仰生活でもなく、熱心な奉仕でもなく、たくさんの献げ物でもなく、弛まざる祈りでもなく、美しい讃美でもなく、「」であり、「保証として」与えられた「御霊」なのです。

保証」は、122節で説明しておりますが、脚注に記されているように「手付金」の意味であり、手付金が支払われているので、契約は確実に成立しており、変更される事も、反故になる事もないと断言できるのです。

5:6 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。

肉体を住まいとしている」以上、色々な不安や恐れに苛まされましょうし、疲れ果て、病気にもなりましょう。

肉体と言う有限なモノ、不完全なモノを通してしか、唯一真の神様、主イエス様を知り得ず、「御霊」の助けによって、信仰によって、辛うじて、間接的にしか、唯一真の神様、主イエス様を知り得ないのです。

そして「離れている」というよりも、罪を持つ、不完全な「肉体を住まいとしている」以上、「離れ」ざるを得ないのです。

5:7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。

罪を持つ、不完全な「肉体を住まいとしてい」ますが、それでも、主イエス様の執り成しと、「御霊」の助けによって、信仰によって朧げながらに唯一真の神様、主イエス様を知り、私たちの努力や熱心ではなく、唯一真の神様、主イエス様の恵みと憐れみにより、断絶する事なく、関係を維持し続けてくださっているのです。

5:8 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。

絶えず主イエス様の執り成しと、聖霊様の助けがあるので「私たちは心強いのですが」、「肉体」には様々の制限や弱点があるので、「主のみもとに住むほうがよい」のですが、4節でお話したように、各々に、この世での使命と働きが与えられ、期待されているのであり、この世での使命や働きを疎かにしてはなりません。

10タラント預かった者も、5タラント預かった者も、1タラント預かった者も、預かったモノを最大限に用いなければならないのです。

5:9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

肉体を住まいとしていても」、即ち、この世に置かれている間も、「肉体を離れていても」、即ち、この世の生を終えて、天に引き上げられても、「私たちが心から願うのは、主に喜ばれること」を行なう事なのです。

キリスト者の念願とするところは「主に喜ばれること」であり、これ以外にはありません。

私たちの平安や幸せ、自己満足、自己実現、或いは承認欲求などのためではないのです。

人に喜ばれ、感謝されるためでもありません。

勿論、親切や施しなどは、率先して行なうべきですが、そこに自己満足や承認欲求が入り込む危険を排除しなければなりません。

徹頭徹尾、常に「主に喜ばれること」を行なわなければならないのです。

自分の意に反する事でも、人から非難されても、理解されなくても、「主に喜ばれること」を行なわなければならないのです。

5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

キリストのさばきの座」は、唯一真の神様の正義と聖さと公平さの場であり、絶対的な裁きの場であり、究極的な審判の場です。

善であれ悪であれ」、明るみに出た事も隠されてある事も、全ての全てが明らかにされます。

すべての人が「キリストのさばきの座の前に現れ」、裁きを受けるのです。

裁きの基準は「主に喜ばれること」か否かです。

この世の基準、道徳、善悪判断、法などに照らし合わせての裁きではありません。

主のことば、聖書に照らし合わせて裁かれます。

心の奥底、深層心理にまで踏み込んで、全てが暴かれ、裁かれます。

ローマ人への手紙310節から18節、「次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。

3:11 悟る者はいない。神を求める者はいない。

3:12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」

3:13 「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」

3:14 「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」

3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、

3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。

3:17 彼らは平和の道を知らない。」

3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」」のです。

ですから、すべての人が有罪であり、無罪の裁定を下されるのは一人もいないのです。

すべての人に刑罰が宣告され、服役し、永遠に苦しみ続けなければならないのです。

【適応】

しかし、キリストのさばきの座の前に現れ」ても、キリスト者は大丈夫です。

主イエス様が私の罪の全てを、過去に犯した罪を、現在犯している罪を、将来犯してしまう罪の全てを、心の奥底にある隠れた罪をも背負われ、刑罰を引き受けてくださり、十字架の死をもって刑を終えてくださったからです。

永遠の苦しみに入る事なく、永遠の憩いに入れられるのです。

そして、これは希望ではなく、確実な事実であり、再審議される事はなく、従って変更される事も、取り消される事もないのです。

そして、更に、主イエス様の贖いに与った者は、主イエス様に対する信仰によって救われた者は、罪を離れる事を欲し、良い事を希求するようになるのです。

キリスト者は、誰が見ていなくても悪い事をしないし、誘われても悪い事はしないし、誰が見ていなくても自ら進んで良い事をするのです。

益にならず、損をする事になっても悪い事は選ばず、良い事を選ぶのです。

決して処罰が怖くてではなく、誉められたくてでもありません。

悪い事はしない、良い事をするのが主イエス様のお姿であり、主イエス様に贖われた者、救われた者は、主イエス様に似るからです。

主イエス様に私の罪を背負わせた代わりに、主イエス様の特質を背負う事になるからなのではないでしょうか。

悪い事をしないのは、良い事をするのは、「主に喜ばれること」をするのは、無理やりでも、義務としてでもなく、主イエス様に贖われ、救われた者の特徴なのです。

主に喜ばれること」を自然に出来るようになるのは、時間が掛かりましょう。

罪の性質が濃く残っているからですが、歯を食いしばって頑張らなくても、主イエス様との交流があれば、程なく自己中心性、損得勘定は薄らぎ、「主に喜ばれること」をする習慣が身に付く事でしょう。

主イエス様の執り成しと聖霊様の助けによって、「人の手によらない永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」を着るに相応しく整えられて行くのです。

皆さんには、「人の手によらない永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」が約束され、必ず与えられるのです。

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聖書箇所:コリント人への手紙第二 5章11節から15節

説教題:「キリストの愛

【導入】

私たちには、「人の手によらない永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」が与えられる事が約束され、主イエス様の執り成しと聖霊様の助けによって、「人の手によらない永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」を着るに相応しく整えられて行くので、必ず、「人の手によらない永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」を受け取り、着る事が出来るのです。

整えられるために、聖書が与えられ、礼拝があり、説教者が遣わされ、御ことばが語られ、何が唯一真の神様、主イエス様の御旨か、何が唯一真の神様、主イエス様に相応しい言動か、何が唯一真の神様、主イエス様に相応しくない言動かを、繰り返し伝えてくださいます。

人の手によらない永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」を受け取るに相応しく整えられる方法は、聖書に記されており、説教で語られるのですが、しかし、神の民たちは、預言者の語る事を聞かず、また同じ事を言ってる、聞きたくない、うるさい、と言って追い出し、迫害し、その結果、裁かれ、滅びて行きましたが、私たちも同じ轍を踏んではなりません。

唯一真の神様、主イエス様の、私たちに対する憐れみ、愛は、とてつもなく大きく、一人として滅びないように、脱落者が起こらないように、繰り返し説教者が遣わされ、繰り返し御ことばが語られます。

聞いても聞かなくても、受け入れても追い出しても、歓迎しても迫害しても、説教者は遣わされ続け、御ことばは語られ続けるのです。

聞きたくなくても聞かなければならず、悔い改めるに躊躇してはなりません。

そして、「人の手によらない永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」を受け取るに相応しく整えられる方法を知っている人たちは、知らない人たちに伝える使命があります。

【本論】

新改訳2017 5:11 そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

恐れる」は、「恐怖、怯える」の意味ではなく、「畏敬」の意味であり、崇め奉る態度です。

唯一真の神様は、全知全能のお方であり、正義と聖さと公平さをお持ちのお方であり、唯一真の神様の前は、絶対的な裁きの場であり、究極的な審判の場です。

その神様の前に立たされる事を知る者は、畏敬の念から平伏せざるを得ず、唯一真の神様に対する畏敬の念の故に、神様の前のみならず、誰に対しても、何時でも、どんな状況でも、嘘や誤魔化し、誇張や矮小の入り込む余地のあろうはずはなく、真実な心で、誠実な心で「人々を説得」するのです。

その説得の内容ですが、一般的には、福音を語る事でしょうが、ここではそれに加えて、パウロの品性、パウロの使徒職に対するコリント教会の人たちの中傷や非難に対する弁明です。

唯一真の神様は全知全能のお方であり、パウロの全てを知っておられるので、それで十分なのであり、コリント教会の人たちの、パウロに対する誤解などは何時しか、全てが明らかになるし、何時しか解消するのであり、唯一真の神様にお任せしても良いのですが、出来る事なら、パウロの真実さ、誠実さをコリント教会の人たちに知って欲しいと願うのです。

決して誤解や反目を解消したい、良好な人間関係を構築したい、などと言う、小さな目的のためにではなく、福音宣教の前進に、多いに役立つからです。

ここでもパウロは命じる立場にありながら、パウロらしく控えめに、コリント教会の人たちの良心に訴え、優しく語り掛けるのです。

5:12 私たちは、またしてもあなたがたに自分を推薦しているのではありません。むしろ、あなたがたに私たちのことを誇る機会を与え、心ではなくうわべを誇る人たちに応じられるようにしたいのです。

パウロの謙虚な姿勢、優しい語り掛け、真摯な弁明さえも、「自分を推薦している」、或いは、弁解のことば、と受け止められないように、との配慮から説明を加えます。

機会」と訳されていることばは、「出発点、根拠」の意味を持つことばであり、パウロに反対するコリント教会の人たちが、パウロの事を正しく知って、パウロに対する誤解や思い込みを離れ、パウロを非難、迫害する立場から、パウロを誇る者となって欲しい、との一点で弁明し、パウロの事を誇る根拠として欲しい、と懇願するのです。

心ではなくうわべを誇る人たち」とは、誤解や思い込みを根拠として判断する人たちであり、パウロを非難、迫害する人たちの事ですが、彼らに対して、真実を根拠として、パウロの事を正しく知るようになって欲しい、と、懇願するのです。

そして、パウロの事を正しく知ったならば、「心ではなくうわべを誇る人たち」の立場に留まり続ける事なく、パウロを非難、迫害し続ける事なく、方向転換して、「心ではなくうわべを誇る人たち」にパウロへの誤解を解いて欲しい、仲介者となって欲しい、と懇願するのです。

敵対者の誤解を解き、非難を止めさせ、和解を仲介し、更には賛同者となって福音宣教の働きに協力する事こそ、コリント教会の人たちに目指して欲しいところです。

多くの人たちは、自分や自分たちの考えに固執し易く、考えを変えるのは、考えを切り替えるのは中々に難しい事です。

パウロの事を正しく知り、理解した後に、「心ではなくうわべを誇る人たち」から離れようと思っても、非難、迫害する立場から離れようと思っても、過去や現在の人間関係から、「心ではなくうわべを誇る人たち」を離れられないのが現実かもしれません。

真実、真理よりも、人間関係や忖度を優先し易いのが、人間の持つ罪のなせる業なのかも知れませんが、しかし、「主を恐れる」事こそ、キリスト者の本分です。

人間関係のしがらみからの判断ではなく、真実、真理を根拠とした判断こそ、唯一真の神様に喜ばれる判断であり、唯一真の神様の御栄光を現す結果となるでしょう。

5:13 私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。

パウロは、コリント教会の人たちから、「パウロは「正気でない」」との非難を受けていましたが、パウロの最大の関心事は唯一真の神様、主イエス様であり、パウロの行動や判断の基準は、常に、唯一真の神様、主イエス様の御旨でした。

パウロは、神様、イエス様の事となると実に熱狂的であり、大胆であり、恐れ知らずであり、その点でパウロは「正気でない」と言えるのですが、決して常軌を逸した行動、判断をしている訳ではなく、御旨に沿っての行動や判断を躊躇なく行なっていたのです。

御旨に沿っての行動や判断は、世の人たちからは「正気でない」との判断を下されるものなのではないでしょうか。

パウロの関心事のもう一つは、コリント教会の人たちの救いであり、コリント教会の人たちに対しては、常に「正気で」、本気で、しかも礼儀正しく、誠実に、大げさな事はせず、人の気を引くような言動でもなく、感情的にならず、常に冷静に行動してきたのです。

正気でない」にしても、「正気である」にしても、コリント教会の人たちのためであり、唯一真の神様、主イエス様のためであり、決してパウロの利己的な理由による行動、判断ではないのです。

人に気に入られようとして、本心を隠した行動、判断をしてはならず、また、人に迎合するために、偽った行動、判断をしてはなりません。

パウロの熱心な伝道姿勢は、コリント教会の人たちや世の人たちから見たならば、「正気でない」と映ったでしょうが、コリント教会の人たちに対する深い思いやりと愛の現われであり、パウロは常に、教会の徳を高める事に心を砕いたのです。

5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕えているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

パウロの脳裏には、ダマスコ途上の出来事が思い出されたのではないでしょうか。

パウロに迫ってくるキリストの愛。

主イエス様の弟子たち、信徒たちを迫害するパウロを咎め、責めるのではなく、パウロの行動の無益な事を悟らせられた事を。

パウロのために、いのちを捨ててくださった「キリストの愛」に迫られ、「捕え」られた事を。

パウロの熱心な、ひたむきな、一途な、「正気でない」と表現される伝道の原動力は、「キリストの愛」にあったのです。

一人の人がすべての人のために死んだ」は、主イエス様が私に代わって死なれた、の意味であり、十字架上の贖罪の意味であり、これによって私たちは義と認められるのです。

すべての人が死んだのである」は、私が主イエス様と共に死んだ、の意味であり、罪に対して死んだのであり、私たちの聖化を意味するのです。

5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

キリストはすべての人のために死なれ」たのであり、洩れる人は一人もいません。

死なれました」、「生きている」は、生物としての生死ではなく、霊的な意味であり、罪の贖いのために「死なれました」、であり、罪を問題とし、意識しなければ、主イエス様の死に意味はありません。

また、唯一真の神様に対して、また、贖いとなられ、「よみがえった」御子、主イエス様に対して「生きている」のであり、「よみがえり」を意識しなければ、生きる事の意味は動物などと変わりないでしょう。

人間は被造物の頂点に立つモノとして造られ、被造物の管理を委ねられたのです。

唯一真の神様、主イエス様のために生きる事こそ、人間の使命なのです。

【適応】

パウロの言動は、コリント教会の人たち、世の人たちから見たならば、「正気でない」言動でした。

しかし、それは主イエス様の愛に触れたからであり、主イエス様の愛に捕らえられたからです。

そのイエス様を出発点とする愛もまた、「正気でない」愛です。

イエス様に対する人々の評価は、悪霊につかれておかしくなっている、でした。ヨハネの福音書720節、1020節。

或いは、悪霊どもの仲間だ、でした。マタイの福音書934節、1224節、マルコの福音書322節、ルカの福音書1115節。

そして、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ、でした。マタイの福音書1119節、ルカの福音書734節。

とんでもない評価を受けた訳ですが、その原因は、イエス様の愛にあったのであり、主イエス様は、排除されていた罪人たち、毛嫌いされ、爪弾きされていた取税人たち、関わりを避け、見捨てられていた病人たちを愛され、友となられたからです。

穢れている人たち、虐げられている人たちを愛され、友となられたからです。

サマリア人たち、異邦人たち、奴隷たちを愛され、友となられたからです。

身分や職業の差別なく愛され、友となられたからです。

主イエス様の愛を苦々しく思った人たちは、パウロを苦々しく思ったのです。

主イエス様を排斥した人たちは、唯一真の神様から遣わされたお方とは考えず、主イエス様を排斥したのであり、パウロを排斥した人たちは、主イエス様が遣わされたとは考えず、パウロを排斥したのです。

それでも、主イエス様は、パウロを守り、支え、助け、すべての造られた者に対する大きな愛の故に、繰り返し、パウロのような使徒、預言者、教師を遣わし続け、繰り返し御旨を語らせ続けられるのです。

神の民たちは、預言者の語る事を聞かず、また同じ事を言ってる、聞きたくない、うるさい、と言って聞く耳を持たず、迫害し、追い出しましたが、主イエス様は、一人として滅びないように、脱落者が起こらないように、繰り返し預言者、説教者を立て、聞かなくても、受け入れなくても、追い出しても、歓迎しなくても、迫害しても、預言者、説教者を遣わし続け、御ことばを繰り返し語らせ続けられるのです。

主イエス様は諦めません。誤解されても、時に憎まれても、御旨を語り続けられるのです。

整えられて、「人の手によらない永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」を受け取って、着て欲しいからです。

救われるのは、この方法しかないからです。

主イエス様の愛は、大きく、絶える事がないのです。

その主イエス様の愛に包まれているのが私たちなのです。

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                                       2024-4-28礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二 5章16節から17節

説教題:「新しく造られた者

【導入】

私たちは、今、パウロの手紙から学んでいますが、パウロは、誰かから主イエス様に関する教えを受けた訳ではありません。

ユダヤ教については、使徒の働き223節に記されていますが、「私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

パウロは、ユダヤ教をベースにして、イエス様を見、判断し、キリスト者を見、判断したのです。

そこにはパウロの強いプライドや自意識があり、偏見があり、思い込みがあり、決め付けがあり、イエスは異端の教えの創始者だ、キリスト者はイエスの教えに惑わされ、ユダヤ教に、ユダヤ人社会に混乱を巻き起こす不逞の輩だ、と判断し、確信したのです。

キリスト者を厳しく取り締まる事こそ、棄教させる事こそ、唯一真の神様に対する忠義であり、信仰の現われだ、ユダヤ教を守る事こそ、我が使命だ、と考え行動したのです。

しかし、ダマスコ途上で主イエス様と出会い、主イエス様の愛に触れ、主イエス様の愛に包まれて、イエス様を偏見なしに、思い込みなしに、決め付けなしに見る者に変えられて、このお方こそ神の子、世の救い主である、と知るに到り、キリスト者の仲間になり、主イエス様に仕える者に変えられたのです。

知識は大事ですが、知識が全てではありません。

私たちの知識は限定的であり、一部分でしかなく、偏っており、不完全です。

これらを意識していないと、独善的な考え方、高圧的な、尊大な、独裁的な言動の持ち主となってしまう事でしょう。

主イエス様の愛に触れ、主イエス様の愛に包まれた者は、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和な考え方、言動の者となる事でしょう。

知識で人を判断し、接するのではなく、愛で人を受け止め、受け入れるのです。

【本論】

新改訳2017 5:16 ですから、私たちは今後、肉に従って人を知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

肉に従って」は、「生まれながらの人間の考えかたによって」の意味であり、この世の価値観、持っている知識、固定観念などを拠り所とする判断です。

偏見があり、思い込みがあり、決め付けがあり、決して正しい判断ではなく、良い人間関係を築く事は出来ません。

あらゆる知識などは、全て、肉によるものであり、この世の事柄に対する判断では時に有益かもしれませんが、霊的な事柄に対しても有益なのではありません。

肉に従って」の意味は、ユダヤ教の立場からの一方的な見方であり、ユダヤ教的な固定観念、先入観、偏見から判断する、の意味です。

主イエス様の真価を知ろうとせず、唯々排斥する事が正しい、正義だ、と思い込み、固く信じているのです。

唯一真の神様に造られた者は、このような方法を採用すべきではありません。

霊的な事柄に関しては勿論の事、この世の事柄に関しても、もっともっと謙虚、謙遜、柔軟に、鳥瞰的見方、大局的見方を心掛けるべきです。

しかし、現実には「肉に従って人を」評価するキリスト者がいるのであり、コリント教会の中に分派があり、妬みや争いがあったのですが、人間の持つ罪のゆえに、何時でも、何処でも、誰にでも起こり得る事であり、注意しなければなりません。

人の評価を鵜呑みにし、或いは、人を上辺や見かけ、先入観で見ては、判断してはなりません。

私たちは、この世における区別として、民族、宗教、社会的地位、称号、富などがあり、そこに重要性や意味を持ってしまい易いのですが、しかし、主に従う者たちにとって、そのような区別は便宜的な区別であり、意味を持たないし、意味を持たせてはならないし、そのような区別に支配される事も、影響される事もあってはなりません。

主イエス様の愛に触れ、包まれた者は、主イエス様の本質の部分に触れたのであり、その上で、主イエス様に関する知識を吸収し、取り入れ、益々、主イエス様との深い関係性を構築して行きたいものです。

5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

キリストのうちにあるなら」は、「主イエス様の贖罪の恵みに与ったなら」の意味であり、罪を贖われるに止まらず、主イエス様と共によみがえったのであり、主イエス様と結び付けられているのです。

それ故に、主イエス様の諸々の祝福に与る事が出来るのです。

しかし、有限な肉体、朽ちる肉体、いろいろなモノに依存しなければならない肉体では、神の国を受け継ぎ、神の国に住まい、唯一真の神様に仕える事は出来ません。

新しく造られた者」とは、新しい身体、永遠の身体が与えられる、の意味であり、神の国を受け継ぎ、神の国に住まい、唯一真の神様に仕える事、喜ぶ事が出来るようにされ、

祝福を豊かに注がれる者とされるのです。

主イエス様の贖罪こそが、創造に於ける神様のご目的の成就にほかならないのです。

地上での、この世での平安や安寧は、有限であり、一時的なものですが、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。

過ぎ去って」は、一回限りの出来事を意味し、「新しくなりました」は、完了と継続を意味します。

主イエス様の贖罪は一回限りであり、これによって被造物の全てが、完全に贖われたのです。

贖いは被造物の全てに及び、全てが「新しくなり」、保持し続けられるのです。

見よ」は、強調の意味であり、「刮目せよ、瞠目せよ」の意味と理解すると良いでしょう。

贖いはそれ程に重要な事であり、キリスト者だけに関わる事ではなく、全被造物に関わる事なのであり、全世界が注目すべき事柄なのです。

【適応】

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。

創造主に因って創られたこの被造世界は終焉を迎える時が来るのであり、新天新地が現われるのです。

私たちキリスト者は新しく造られた者」であり、古い被造世界から離れなければなりません。

私たちキリスト者は新しく造られた者」であり、この世の価値観、持っている知識、固定観念、古い因習や偏見、思い込みや決め付けなどを拠り所とする判断から離れなければなりません。

主イエス様の愛に触れ、愛に包まれたのですから、古いものに捕らわれ、引きずられてはなりません。

主イエス様の見方、考え方で生きて行く事が期待されているのであり、自分の考えに固執したり、人に取り入ったり、忖度したり、空気を読むのではなく、唯一真の神様の前に、主イエス様に対して、新しく造られた者として生きて行く事が期待され、新しく造られた者、との自覚を持つ事が期待されています。

新しく造られた者」とは言っても、しかし、現実にはこの世に生きているのであり、この世の影響を強く受けます。

自身にも、この世の性質が色濃く残っており、罪の性質が強く残っています。

この世の影響力を排除するのは、人間関係を払拭するのは大変な努力を必要とするでしょう。

新しく造られた者」となっていても、この世の人間中心のルール、古い価値観、慣習、因習に縛られ、唯一真の神様、主イエス様の前に正しいか否かではなく、人間関係を悪くしたくないがために忖度し、媚()び諂(へつら)い、意に反して追従してしまう事があるのです。

これでは「新しく造られた者」に相応しくないばかりか、唯一真の神様、主イエス様をがっかりさせ、悲しませてしまいましょう。

新しく造られた者」は、この世に生かされていますが、新天新地に移される事をイメージして生きなければなりません。

イメージするしかない新天新地に比べて、この世は、現実であり、抗うのは大変ですが、「新しく造られた者」であり、主イエス様と聖霊様の助けがあるのですから、大丈夫であり、残念な選択、行動があっても、何度でもやり直せるのですから、心配は要りません。

大切なのは「新しく造られた者」だ、との自覚と、「新しく造られた者」になりたい、との願望を持ち続け、「新しく造られた者」になるんだ、との強い意志なのではないでしょか。

自覚も無く、願望も無く、意思も無ければ、「新しく造られた者」になれるはずはありません。

新しく造られた者」の特徴は、自分のしたい事しかしないではなく、自分に出来る事しかしないでもなく、「主に喜ばれること」をする事です。

主に喜ばれること」をするのは、無理やりでも、義務としてでもなく、主イエス様に贖われ、「新しく造られた者」の特徴なのです。

主に喜ばれること」を自然に出来るようになるのは、時間が掛かりましょう。

罪の性質が濃く残っているからですが、歯を食いしばって頑張らなくても、主イエス様、聖霊様の助けがあり、この世の人間中心のルール、古い価値観、慣習、因習に縛られる事なく、人に対する忖度、媚()び諂(へつら)い、意に反した追従などから離れ、

主に喜ばれること」をする習慣が身に付く事でしょう。

私たちは「新しく造られた者」なのであり、主イエス様の執り成しと聖霊様の助けによって「新しく造られた者」に相応しく整えられ、唯一真の神様、主イエス様の前に正しい判断、選択をする者に変えられて行くのです。

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